能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

花月を廻ってもう一日つづき

花月の旅は本当はつらいものだったのでしょうけれども、謡の作者はむしろ修験道の霊地を数え上げ、調子よく謡い舞う芸能の一つとして組み入れたものと思います。実際、謡ってみるとノリも良く、ついつい鼻歌交じりに謡ってしまいそうな部分です。

ところで、八天狗と呼ばれる日本を代表する天狗がいます。
愛宕山太郎坊、比良山次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊、大山伯耆坊、彦山豊前坊、大峰山前鬼坊、白峰相模坊ですが、このほとんどが花月の謡に読み込まれています。

その後、江戸時代になると四十八天狗が数え上げられますが、ここには羽黒山金光坊や日光山東光坊を初め、東国の天狗も相応に出てきます。先日、大同二年の創建とされる寺社が東国にもかなりある、という話を書きました。空海や役行者を開祖とする寺社も多いのですが、八天狗には東国の天狗は含まれていません。
ここに天狗とされているのは、修験道の行者から特に力のあった者が伝説化されたものだろうと想像します。天狗とされる怪異にはいくつか系譜の違うものが包含されているようですが、山伏は中でも大きな流れだったようです。

さてその修験道ですが、この八天狗の数え上げ方からみても、いわゆる本山派、当山派の修験は古くは西日本に限られ、鎌倉時代になって東国にも広がったのではないか、と思います。もちろん、出羽三山や日光などの起源はもっと遡るわけですが、それは土着の修験のようなもので、本山派や当山派に繋がるような修験は時代がもう少し下るため、八天狗が数え上げられた頃には、西国ではまだメジャーな霊地と認識されていなかったのだろうと想像しています。

私の先祖は室町時代に、同族でもある磐城の越田和大宝院に従って修験の道に入り、その後、磐城に残った一族から別れて常陸に移り、明治の修験禁止令により還俗して神官となるまで、代々修験道を伝えてきました。
その師となった越田和家ですが、福島県の浜通り、かつての岩崎郡に勢力を張った豪族岩崎氏の一族で、延慶二年(1309年)に折から廻国修行中であった摂州箕面山薩摩大阿闍梨頼信法印から血脈相伝の法を授かって修験の道に入ったと伝えられています。頼信法印は本山派の大阿闍梨ですから、この時期、本山派が福島あたりに積極的な布教活動を行っていたものと思われます。
そんな関わりもあって、天狗や山伏というと、ちょっと気になってしまいまして、今回の花月を廻っては、あれやこれやと書き散らしてみた次第です。
この項終わり。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです
スポンサーサイト

花月を廻ってまだつづき

しばらく出かける用事が多くて間が空いてしまいましたが、花月の最後に山廻りについて少しばかり書いておこうと思います。

山廻りは、まず花月が七つの時に天狗にさらわれた筑紫英彦山から始まります。
彦の山、深き思いを四王寺と謡われますが、現在地名としての四王寺は太宰府近く大城山など四つの山からなる四王寺山辺りです。しかしこれだと彦山からはかなり距離もあり、謡曲は彦山中の四王寺の滝を謡ったものかと思います。もともと彦山の表記でしたが、江戸時代から英の字を加えて英彦山とされました。彦山豊前坊という天狗が住んでいたと伝えられますが、修験道の霊地として多くの修行者が訪れたところです。

続いて讃岐の白峯、さらに伯耆の大山と続きます。
讃岐白峯は崇徳上皇崩御の地として有名ですが、同時にこの地は古くから修験道の霊地とされています。この地に住む天狗の首領は相模坊と云うのですが、讃岐なのに相模坊とは不思議です。実はこの相模坊、その名の通り元は相模国大山の天狗でしたが、崇徳上皇の御霊を守るため讃岐に移ったと云われます。
相模坊が去った後には、伯耆大山から伯耆坊が移り住んだということで、同じく古くから修験道の霊地であった伯耆大山には天狗の首領と呼ばれるほどの天狗はいなくなってしまいました。

謡はさらに丹後丹波の境なる鬼ヶ城は天狗よりも恐ろしいと続きますが、これはいわずと知れた大江山酒呑童子ですね。天狗も鬼の一種ともいわれますが、酒呑童子は京の町を荒らし人を喰ったという怪異ですので、天狗よりも恐ろしいと謡われたのでしょう。

愛宕山太郎坊、比良山次郎坊と謡い込み、比叡の大嶽が謡われます。横川は比叡山の鬼門にあたりますが、これまた重要な地。そして葛城、高間山と金剛山あたりに進み、南の山中に分け入って釈迦ヶ岳と、修験道の霊地が次々と出てきます。
そして富士山へと花月のつらい旅が続いたと謡われます。

九州から富士山まで、めぐりめぐって都、清水寺にやって来た様子。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

花月を廻ってなおなおつづき

曲舞に続いては鞨鼓です。
能の舞には様々なものがありますが、中ノ舞や序ノ舞、男舞や神舞など名前に「舞」のつくものと、楽や神楽などのように「舞」のつかないものがあります。

鞨鼓は文字通り、鞨鼓を腹部につけ撥で打ちながら舞うものですが、森田流奥義録には、あえて「鞨鼓の舞」といわずに単に「鞨鼓」と称するのは、純粋の舞というよりはむしろ鞨鼓を打つことが目的だからだ、と解説されています。
なるほどと思うところですが、続けて、この鞨鼓を用いる能は幽玄を骨子としたものではなく、雑能物に属する喝食風体をシテとする能で、喝食物の本義は「自然居士」と「東岸居士」の二曲。これに準ずる物として「花月」一曲をあげ、放下僧、藤栄、望月は喝食物にあらざる鞨鼓物と分類しています。

本義とした二曲と花月とを分けたのは、自然居士と東岸居士の二曲ではシテが僧体であり、喝食鬘に喝食面をつけ、水衣に掛絡をかけた白大口姿であるのに対し、花月は僧体ではなく正真の喝食…天狗に取られた少年であり、僧形体ではないので準ずるものだとしています。なるほど、そういう解釈もあるのかとあらためて思った次第です。

鞨鼓自体は雅楽で使われる鼓の一種ですが、小型の独特の鼓でなんでも演奏はたいへん難しいのだとか。平安時代には既に、これを胸に付けて舞うといったことがされていたようですが、放下の芸として、簓やコキリコなどとともに演じられ「八撥」といわれたようです。
ところで舞の方の鞨鼓ですが、破ガカリ中ノ舞が最初にあって初段から狭義の鞨鼓になり、三段目の途中から男舞の地に直るのが通常の形ですが、金春は段直りなんだそうで、三段の頭から男舞の地に直るそうです。今度、機会があれば、気を付けて観てみようと思いました。
残る山廻りの話はおいおいと
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

 | HOME |  次のページ»

カレンダー

« | 2018-07 | »
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

FC2Ad