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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。曲目の解説、能と狂言の鑑賞記については「索引」を設けてあります。スマホ用、PC用それぞれ用意しましたので、お使いのデバイスにしたがってお選びください。

月見座頭 大藏彌右衛門(国立能楽堂開場40周年記念公演)

大藏流 国立能楽堂 2023.09.09
 シテ 大藏彌右衛門
  アド 大藏彌太郎

月見座頭は江戸時代後期に鷺流で作られた狂言だそうで、その後、大藏流が取り込んで改作し、明治以降に現行曲としたと聞いています。和泉流では六世野村万蔵が試演して以来、演じられるようになったようです。現行曲としては最も新しい部類なので、大藏流の狂言を観る際に常々利用している、岩波文庫版の「能狂言」にも収録されていませんし、ましてや狂言不審紙での言及もありません。
本曲のあれこれ…を書くほどの資料もありませんので、今回も鑑賞記と曲のあれこれを合わせて記載しようと思います。なお上記のような訳で、手許には詞章がありませんので図書館から昭和29年刊の朝日新聞社版の日本古典全書「狂言集」中、昭和36年刊の岩波書店版の日本古典文学大系「狂言集」下、昭和47年刊の小学館版の日本古典文学全集「狂言集」を借りてきまして、この三冊を参照することにしました。
全書は鷺賢通本を底本とする鷺流の台本ですが、月見座頭など三編は鷺畔翁および矢田蕙齋自筆本に依ったと記載されています。ちなみに賢通本には安政二年の奥書があるそうです。また鷺畔翁は賢通の養子だそうで大正11年亡くなっています。大系はいわゆる山本東本を底本とし、先代の三世東次郎則重の助言を得て出版されたものです。最後の全集は十一世茂山千五郎真一書写の台本を底本としています。この本は舞台写真が随所に収められていて、四世千作、二世千之丞のご兄弟をはじめ、多くの方たちの舞台姿を見ることができます。
というわけで、この三冊を参照しながら、舞台の様子を書いてみようと思います。舞台にはシテ彌右衛門さんが、座頭の姿で登場してきます。茶の細かい縞熨斗目か無地熨斗目なのか、半袴に十徳を羽織り、頭巾を被って杖を突いています。常座で下京辺に住む座頭と名乗り、八月十五夜の名月に人々は野辺に出て月を眺め歌を詠み、詩を作って楽しむだろうが、自分は月を見ることはできないので、野辺に出て虫の音を聞いて楽しもうと思う旨を述べ、常座から進んで角に行き、ワキ座から正中、大小前と進みながら、目の見えぬ者には虫の音は一入面白いものなどと言い、大小前で正面に向き直って野辺にやって来た形になります。
虫の音を聞こうと、まずは常座辺りへ行きコオロギの音を聞きます。正中へ戻り、キリギリス、はたおり、蜩と聞く様子で角の辺りに出て、松虫が多いそうなと言って松虫の音を聞きます。ここで正面に直して、昔、津の国阿倍野のあたりで松虫の音に忍び入って空しくなられた人があったと謡曲「松虫」の話を出し、自分もそうなってはなるまいと、場所を変え、正先、階の辺りに行きます。今度はくつわ虫と言って音を聞く辺りで、アドの男、彌太郎さんが橋掛りに姿を現します。
一ノ松辺りで上京辺に住まいする者と名乗り、八月十五夜、名月なので野辺に出て心を慰めようと言って舞台に進みます。着付は大格子の縞熨斗目、紺地の丸半袴、肩衣には大ぶりな蜘蛛の巣に蟹が描かれています。蜘蛛はササガニ、ということでしょうか。
シテがここそこと虫の音を聞く様子でワキ座あたりに行くと、アドは座頭が一人居るが何をしているのだろうかと言い、常座に出てシテに声を掛けます。
さてこのつづきはまた明日に
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枕慈童さらにつづき

ワキが、庵が見えるので暫くこの辺りに居て、ことの由を窺おうと言い、ワキツレが尤もにて候と答えて、三人はワキ座に向かい下居。すると引廻しが下ろされて、床几にかかった後ジテが姿を現します。童子の面に黒頭、着付摺箔に法被を脱ぎ下げにし、半切の装束です。前場の暗い雰囲気から、法被半切できらびやかな雰囲気に変わった印象です。
シテは床几にかかったままサシの謡い出し。地謡が続けて謡ううちに「かひこそなけれ独り寝の枕詞ぞ恨みなる」でワキは立ち上がって歩み出し、繰り返す「枕詞ぞ恨みなる」でワキ正に立って正面を向きます。
ワキは「不思議やなこの山中は虎狼野干のすみかなるに」と言って庵の方を向き「是成庵の内よりも・・・」と姿怪しき人間が現れたが、如何なる者か名を名乗れとツメます。シテは「人倫通はぬ所なれば 其方をこそ化生の者とは申すべけれ」と反論します。金剛流や喜多流では、ワキの詞にこの山中は「人倫通はぬ所にて」の言葉があり、これを踏まえてのシテの言葉と思われるのですが、上掛の本はもとより下掛宝生流の本にもワキのこの詞はありませんので、いささか収まりが悪い感じがするのは、先日書いた通りです。
ともかくもシテが周の穆王に召し仕われた慈童のなれの果てと明かし、さらに問答が続きます。ワキは周の穆王と聞いて、周の世は既に数代のそのかみとなっていると驚きます。シテが「さて穆王の位は如何に」と尋ねますが、ここでワキとワキツレが交互に、諸王の名を口にします。この詞章、金剛流の古い本や樋口本をはじめ、現行の各流の本にもありませんし、下掛宝生流の本にも見えません。なんと言ったのかと疑問だったのですが、謡曲大観に参考として、古謡本の元禄二年本「枕士童」の詞章が記載されており、この中にシテの「穆王の位は如何に」に続けて、元禄本にはワキ「文王武王周公旦」ワキツレ「成王ゆう王秦の代には」ワキ「始皇しえいと皇太子 扨せんかんにかううかうそ」ワキツレ「こかんにかうそう皇うてい」とあって、現行本のワキ「今魏の文帝前後七百年・・・」に続くように書かれているのを見付けました。おそらくこれをワキ、ワキツレで謡ったものと思います。ちなみに「ゆう王」は褒姒を寵愛して西周を破滅に導いた幽王のことでしょうし、「始皇しえいと皇太子」の「しえい」は秦の三世皇帝になり損ねて秦王に即位した子嬰のことかと思われます。「せんかんにかううかうそ」は「前漢に項羽高祖」「こかんにかうそう皇うてい」は「後漢に、高宗(あるいは皇宗)光武帝」あたりではなかろうかと思います。ともかくもワキが七百年にも及び、人間では今まで生ける者はあるまいと言って、怪しみますが、シテが「忝なくも皇帝より 御枕に二句の偈を添て賜はりたり 立寄て能く能く御覧候へ」言い、ワキは「是は不思議の事なりと・・・」と謡いつつ台上の枕を見やり、一畳台に寄って下に居ります。シテが「枕の要文疑ひなく」と謡って、シテワキ同吟で二句の偈を謡います。地謡が続けて「此要文の菊の葉に 置く滴りや露の身の・・・」と謡い出しワキは立ち上がってワキ座に下がり、シテは立って藁屋を出ると、ゆっくりと大小前に進み、両手を広げて正面を向き答拝して楽の舞出しとなりました。
楽を舞上げると「有難の妙文やな」と謡い、シカケヒラキ、大左右から正先へ打込ミヒラキ。「滴りも匂ひ 淵とも成なりや」で橋掛りへと進み、一ノ松から一畳台を見込んで打上ゲヒラキ。「菊水の流れ」と面を下げて右から左へと流れを見込むようにして舞台へ戻ります。詞章に合わせ酒汲む型を見せたりしつつ舞い、「漂ひ寄りて枕を取上げ戴き奉り」と台に上り枕を取り上げると、団扇で左右の菊を抑える型で「菊を手折りふせ」る形から、「花を筵に伏したりけり」と台上で一廻りして団扇を上げて面を隠し寝入った形。
「もとより薬の酒なれば」と謡って地謡に。立って台を下りると舞台を廻って六つ拍子。さらに「いかにも久しく千秋の帝」と両手突いてワキに別れを告げる風から、立ち上がってヒラキ。ユウケンしつつ下がって常座から橋掛りへと進み、二ノ松あたりでヒラキ。「そのまゝ慈童は帰りけり」と留拍子を踏みました。
楽から後は、金剛流らしい華やかな舞で、目出度い気分で終曲を迎えた感じです。
(81分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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枕慈童のつづき

ワキは前に出てワキ正からシテ、輿舁に向かって「急候程に 配所の辺りに着て候 皆々かう渡り候へ」と言い、輿舁二人は鏡板にクツロギ、シテはその場で下に居ります。ワキは後見から枕を受け取って角に立ち「いかに慈童」と声を掛け、正面に向き直って「向ふの山は酈縣山といへり」と山の方を示す様子から、「此御枕を持て橋を渡り候へ」と言ってシテに寄り、枕を渡して角に戻ります。
シテは枕を受け取りワキの方を向いていましたが、正面に向き直って少し腰を浮かせて遠くを見る態で「扨あの山も王地にて有べきよなふ」といいます。これにワキは、天下は普く王地ではあるが、人倫通わぬ処なので、王地とも言い難いと返し、「時刻移りて叶ふまじ 急ぎ橋を渡り給へと おのおの官人すゝむれば」と謡い、慈童を急かしますが、シテはワキに向いて「あゝまて暫し情なし」と言い、これまでは御殿の階を渡り慣れていたのに、王地にもあらざる道に掛けたこの橋は三途の道であろう。冥途に行くべき身ならば、亡き身となって渡ろうかと憂いを謡います。
地謡が続けて「涙ながらに此橋を」と謡い出すと、ワキはゆっくりと下に居り、シテは立ち上がって「渡り向へばさすが実(げに) 足弱々と橋の面」と二、三足出ますが、「わたるべき便りなく 唯佇める斗りなり」の謡に留まります。輿舁は立ち上がって橋掛りへと向かい、「斯てはいかゞ有りなまし 疾々とすゝむれば」でワキは左手の扇を上げて先を示し、太刀を抜いて橋を切り落とす所作を見せます。「力なくして打渡り 向ひの崖に着と見て 跡よりはしを引放せば」と謡は続き、シテはワキ座前に行きワキを見やる形。「力なくして打渡り」あたりで太刀で橋を切り落とす所作があり、その後に「はしを引放せば」の謡が来る形で、いささか収まりが良くない感じではあったのですが、とは言え能としてはなかなかにリアルな表現かと印象深くしたところです。
「鳥ならぬ身の悲しさは其侭倒れ泣居たり」と謡う地謡に、ワキは橋掛りへと進み、シテは地謡座と正中の中ほど辺りでモロシオリの形。地謡が「其侭倒れ泣居たり」と繰り返して謡い納め、シテは枕を抱いて立ち上がり、無音の中、中入となりました。

シテが幕に入ると、代わって後アイ則秀さんが登場してきます。前アイと同様に唐官人出立で、違うのは袴が紺色の地であることくらい。なんだかデジャビュを見ているような感じです。魏の文帝に仕える官人と名乗り、文帝が賢王であることから、世が良く治まり天人も天下る目出度い御代であるが、さらに有難いことに、酈縣山の麓に不老長寿の薬の水が湧き出でるという。その水上を見てくるようにとの宣旨があり、勅使が赴くので心得るようにと触れて退場します。則秀さんも酈縣山は「れっけんざん」の読みです。
後アイが下がると、菊の籬を立てた一畳台が運び出されて正先に置かれます。前側の中央には枕が置かれています。続いて紺地の引廻しをかけた藁屋が出されて笛座前に置かれ、床几が入れられました。
次第が奏されて、後ワキと後ワキツレの都合三人が登場し、舞台中央で向き合って次第を謡います。ワキは紺地の袷狩衣、白大口で狩衣には金で鳳凰丸などが描かれています。ワキツレの二人は同装ですが、狩衣が赤系。枕慈童のワキは唐冠が普通だと思うのですが、唐冠ではなく洞烏帽子だったような記憶があります。きちんとメモしていないので怪しいのですが、一方でワキツレ二人は洞烏帽子でした。こちらは確かなのですが・・・
次第を謡い終えると、地取りでワキが正面に向き直り、ワキツレは下に居り、ワキの名ノリ。魏の文帝に仕える臣下と名乗って、宣旨により酈縣山に向かうことを述べます。常の形では、この後に「きり間より明はなれたる玉鉾の」と道行の謡が入りますが、ここは省略されてワキの詞「急候程に 是は早酈縣山に着て候」になりました。
さてこのつづきはまた明日に
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