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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

漱石と謡曲さらにつづき

ここにもう一つ資料があります。
あれこれとネットで検索しているうちに、漱石の五高教授時代の同僚に神谷豊太郎という人がいて、この人が漱石に謡を教えたと言っていたという話をみかけました。
原文は、昭和11年刊の漱石全集に添付されていた月報第11号に掲載されていたらしいのですが、これ自体は見つけられませんでした。しかし幸いなことに昭和50年に、昭和3年版と昭和10年版の漱石全集刊行に際して発行された月報をまとめて復刻しており、これが地元の図書館にあったので入手することが出来ました。
「宗盛の素読と獅子狗」という題ですが、神谷豊太郎が書いたものではなく、氏の談話を採録したようです。神谷豊太郎という人は、正岡子規の友人でもあり、また南方熊楠とも親交があったらしいのですが、理系の人で五高では化学などを教えていたようです。
その談話の中で氏は「夏目が或時私に『謡ひを教へろ』と云い出したのです」と語っています。
学生時代には大学予科と専門部で漱石と面識はあったらしいのですが、五高に赴任して再会したものの、ちょっとした事件もあってあまり親しくなかった様子です。その神谷に漱石が謡を教えてほしいと言ったという話です。

当時、五高の主事を務めていた櫻井錠二が加賀の出身で宝生の謡をたしなんでおり、さらに黒本植という、やはり加賀出身の国文の教師が優れて巧かったので、教師の間で謡が流行っていたらしいのです。神谷は前任地の仙台で謡を始めた後、当地では黒本に習っていたようです。
漱石の申し出に、自分は下手だからほかの人に習ったらどうかと勧めたのだが、家が近かったこともあるのか、どうでも教えろと押し切られたと神谷氏は語っています。そして最初に始めたのが「熊野」だったという話です。
そして「当人はなかなか熱心で、人が笑うからというので、よく便所の中で呻っていたことから『後架宗盛』という名が附いて、一時評判でしたよ」と語っています。
なんと「後架先生」の話は、漱石の創作ではなく、漱石自身の体験だったという話です。
ともかくも、この一文にたどり着いて、十数年来の引っ掛かりをようやく解くことができました。思えば長い時間だったなあと、しみじみ感じています。
この項おわり
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