能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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差し指・・・笛の話つづき2

笛は舞や働の部分だけでなく、謡に被せるようにして吹いたりする場面も少なくありません。
こうした部分はアシライと言われますが、キチンと拍子にあわせるのではなく、だいたいの寸法で、ここからここまでの間にこれを吹く、という感じです。
拍子に合わせる、合わせないの問題は、いずれ地拍子について少しずつ書いてみようと思っていますので、その際にまた。


さて舞の部分にしても、あるいはアシライの部分にしても、唱歌で習うのと、実際に笛方が吹いているのは随分印象が違います。
笛と歌の違いはもちろんなのですが、実は大きく印象を変える原因の一つが差し指です。
「ヒヒョールーリー」というのは、唱歌では4つの音からできているように習いますが、様々な修飾音を加えて多い方だと11音くらいからなる旋律を奏でています。
機会があれば採譜してみたいのですが、いずれにしても楽譜をブログに掲載するのが難しそうなので、もう少しいろいろと調べたうえで、いずれと思っています。


ともかく、この装飾音を細かく入れたり、また指孔のふさぎ方にしても、少しずつ開いたり、指孔の上に指を被せ気味にしたりすることで、さらに複雑な旋律を出しているようです。


しかもこの装飾の仕方は見よう見まねということのようで、一噌幸弘さんが何かのエッセイかインタービューで、差し指は師匠であるお父様からも差し指は教えてもらわなかったと書いておられたのを読んだ記憶があります。
このため同じ流儀でも、奏者によって聞いた感じがかなり異なってきます。そこがまた味わいの深いところかもしれません。

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ヒシギ・・・笛の話つづき3

もう一つ、笛について忘れてならないのがヒシギ。


一曲の能の始めに、ヒーヤーアヒーと切り裂くような高い音の音色で吹かれるアレです。
その他でも、登場楽の最初や、あるいは道成寺の急ノ舞の途中などでも、高音のヒシギが吹かれます。
メロディーという範疇を越えていて、おそらくなにがしか超自然的なものを導くような、そんな意図があって吹かれるようになってきたものなのでしょう。


あの甲高い音を出すために、能管が独特の構造をしているわけですが、もちろんあの音を綺麗に出すには相応の訓練が必要です。
ただ力を入れればいい、というものでもなくて、下手をすればブブーっと唇の振るえる音が強く出てしまったり、一音だけで息が続かなくなったりで、なかなか綺麗に奏する方は多くありません。


しかし、特に一曲の初めのヒシギが綺麗にきまると、そこに能の神が降りるような感じもして、私は案外この音にこだわっています。


一噌流の藤田次郎さんや森田流の松田弘之さん、あるいは若手では一噌幸弘さんなど、安心して聞いていられますね。
藤田大五郎師は、お若いときは本当に神懸かったような笛を吹いておられましたが、さすがにお歳からか、息を続けて吹くことは負担になっておられるような感じです。
昔聞いた獅子などは、ふるえが来るようでしたが・・・

観世会定期能を観に行く

早めのお盆休み・・・という訳でもありませんが、この数日「能の花 狂言の花」の更新を休ませて頂いておりました。地元の花火大会やお祭りがある一方で、仕事の方も立て込みまして、やむを得ず休業というところです。


というわけで本日より復活。
さて、昔は夏の盛り、八月には装束をつけた能は演じなかったようですが、昨今は少ないながらも装束能の公演があります。
第一日曜日は九皐会も開催されていますが、今年は観世会を覗いてみることにしました。


関東地方はここ二三日で急に暑くなり、今日も早朝から暑くなる気配でしたが、観世能楽堂に到着したのが9時40分頃。10時開場、11時開演なのですが既に20人以上並んでいる方がいましたね。
私も列の後ろにくっついてジリジリと太陽に照らされておりましたが、ほんの20分弱で中に入れてホッと一息でした。


が、入り口の張り紙で、関根祥六先生ご病気のため代演・・・ええーっ! 実は祥六先生の橋弁慶、楽しみにしていたんですけど。
ご病気では仕方ありませんね。急に暑くなったし、来月には閑能会別会で俊寛をなさる由。ご快復をお祈りしています。


さて本日の番組は、祥六先生に代わり武田志房さんのシテで橋弁慶。子方は観世智顕クン。
観世芳伸さんのシテで千手。そして梅若六郎師の玄象で、これは窕(クツロギ)の小書き付きでした。
さらに狂言が大藏彌太郎さんのシテで鳴子遣子。それに仕舞が四番。これだけ観ると、けっこう満足感が高いです。
しかも観世会は11時開演で、能一番と狂言一番が終わったところで30分の休憩。お昼にでもしたら・・・という配慮かも知れませんが、その後能一番で15分休憩。最後は仕舞と能という仕立てで、割合、ゆとりのある番組です。
さらに今日の終演は4時10分の予定が10分ほど遅れたというところですが、田舎に帰る私としては終演が早いのも助かります。なんと言っても渋谷から上野までけっこう時間もかかりまして・・・


各曲の鑑賞記は、またまた例によって明日から書き綴るもくろみです。それぞれになかなか面白く拝見しました。
席も自由席ですが、早めの時間だったので、割合見やすいところをとることができました。
ところで指定席は、これが大変。流儀によって、会券の取り扱いは様々ですが、大体は年間券がありますよね。実は観世会には通常の年間会券に加えて、年間通じて同じ席を取れる特別指定賛助席っていうのがありまして、正面の前側三分の二くらいはこの席が占めています。
この会員になると、会員証が発行されて、さらに毎回、自分の席には名前が彫られたクリップのようなものが付けられているんです。ちょっと憧れてしまうんですが、ただし年間指定料は20万5千円。
いや、私の場合観世会には年に一回行くか行かないかですから、そもそも全然無理ですが、東京にお住いで、観世の能がお好きな方なら、一度チャレンジしてみるのも良いかも知れません。
年間10回の公演ですから一回2万を払う覚悟があれば、プレミア席はあなたのもの!

橋弁慶 武田志房(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2006.8.6
 シテ 武田志房、トモ 角幸二郎
  子方 観世智顕
  アイ 大藏吉次郎、大藏教義
   大鼓 柿原崇志、小鼓 鵜沢洋太郎
   笛 藤田次郎


祥六先生の橋弁慶・・・と期待して出かけたのですが、ご病気との由で武田先生の代演でした。
なぜ期待していたかというと、まあ橋弁慶って活劇としては大変面白い曲ですが、能の幽玄とかいうものからは、かなり遠い曲。名人、上手と言われる方が、どんな風にこの曲を料理されるのか、と興味津々だったわけです。
しかし、武田先生、実にキチンと演じておられて、正直のところ敬服しました。


この曲は子方が重要な役所ですが、智顕クンは今年の初めに関根祥人さんの嵐山で祥丸クンともども子守、勝手を演じて、なかなか上手な舞を見ていたこともあり、これまた楽しみにしておりました。


ちなみにご存知の方も多いとは思いますが、智顕クンは紘顕、智顕、喜顕の三人兄弟の真ん中。宗家観世清和師の従兄弟の子供という関係です。
観世の先代は二十五世左近元正。でその弟が故元昭師。ご健在の頃に一二度拝見したことがありますが、お上手な方でした。その元昭師のお孫さんにあたります。


この橋弁慶、要は子供の頃に読んだ絵本の「牛若丸と弁慶」の話で、京都五条の橋の上で牛若と弁慶が斬り合いの末に主従の契を結ぶという話。活劇としても面白いし、割に良く演じられる曲ですね。
まずはシテ武蔵坊弁慶がトモの従者を連れて登場します。思う子細あって五条の天神に丑の時詣でをしていが本日が満参なので急ぐところという設定。しかし従者は、前夜五条の橋を通りかかったところ、十二、三の少年が小太刀で斬って回り、まるで蝶や鳥のようであったので、本日は止めてはどうかと申し述べます。


前シテは金入角帽子を着けた沙門姿ですが、似合うなあ・・・謡がまた渋い。どうしらたあんな声が出るのかと思った次第です。


弁慶はここで逃げては無念と五条大橋に向かうことにし、早鼓で従者ともども中入となります。
つづきは明日に

アイの寸劇・・・橋弁慶のつづき

シテとトモが退場すると、代わってアイが登場します。
橋弁慶のアイは和泉流と大藏流では形が異なります。


最近見たところでは昨年の七月、武田同門会での橋弁慶を見ていますが、この時はアイが和泉流なので早打役一人。シテ、トモに代わって登場してくると、弁慶が化生のものを退治しに出かける旨を述べます。いわゆる立シャベリという形ですね。


一方、この日のように大藏流の場合はオモアイとアドアイの二人が登場して、寸劇を演じます。


オモアイは「悲しや 悲しや」と大騒ぎをしならが登場し、後からアドアイが「何としたぞ」と声をかけながら登場してきます。


オモアイは大藏吉次郎さん。こういう時の大藏流の演技は、いささか写実が過ぎるくらいの大騒ぎですね。
アドアイ大藏教義さんの問いかけに、五条の橋の上を通るときに太刀で後から斬られたと言いますが、「は、橋のぉ」 「ご、五条の」と、どもったり、ちゃんと立っていられない風に左右に足踏みしたりの態。


アドアイは「それはおおかた牛若の千人斬りであろう」と言いますが、これに対してオモアイは「背中を見てくれるよう」に求め、アドアイは背中に回り「したたかに斬られている」と述べます。
オモアイは驚いて腰を抜かしてしまいますが、これは嘘。


オモアイが怒ると、アドアイは「またまた千人斬りがやってくる」と脅かします。
吉次郎さんのオモアイは教義さんの袖にすがったり、またまた大騒ぎをしながら退場となります。
この形の方が面白いですね・・・またまた明日へ・・・

子方の大活躍・・・橋弁慶さらにつづき

後場はまず子方が登場し、サシを謡います。
やがて後シテの登場。前シテは金入角帽子(スンボウシ)の沙門姿でしたが、後場では袈裟頭巾に法被、長刀を携え、甲冑を着けた戦姿を表しています。


静かに橋掛りから舞台に進んで牛若の待つ五条大橋に差し掛かった風です。
ここからは舞囃子や仕舞でも良く舞われますが「弁慶かくとも白波の」とシテ弁慶と子方の牛若が相互に謡いながらの進行となります。


弁慶の「弁慶彼を見つけつつ」の後は立廻。
この立廻のところでは、詞章からすると、弁慶はまだ相手が千人斬りの主かどうか分かっていませんから、様子を見ている状況なのでしょう。気分を盛り上げるといった感じで、ここに立廻が置かれているのかもしれません。


牛若は衣を引き被いて弁慶と行き違いながら「牛若彼を嬲って見んと、行き違いさまに長刀の柄元をはっしと蹴上ぐれば」と、弁慶が持つ長刀の柄を蹴ります。
ここはちょっとした見せ場ですね。
智顕クン、さすがに子方の出演が多いだけあって、舞台慣れしていますね。少しも物怖じする感じがありません。
一方の弁慶、武田先生も実にキチンとした演技。私、このあたりからの謡、大変気に入っております。中ノリ地・・・修羅ノリとも言いますが、気味よい謡いで、斬り組みなど気分が盛り上がりますね。
「稀代なる少人かなとて呆れ果ててぞ立ったりける」まで、小気味よく謡が進みます。


常々これって何かに似てるよなあと思っていたのですが、この小気味よさは講談に通じるものがある感じがしますね。
楽しく観能いたしました。

鳴子遣子 大藏彌太郎(観世会定期能)

大藏流 観世能楽堂 2006.8.6
 シテ 大藏彌太郎
  アド 大藏基誠、吉田信海


田で鳥を追う道具「鳴子」を、鳴子(なるこ)というのが正しいのか、遣子(やるこ)というのが正しいのかで、争いになるという話。大藏にも和泉にもありますが、どちらかというと地味な曲ですね。


まずシテ、茶屋の主人が登場して座に着きます。彌太郎さん、いささか痩せられたような印象を持ちました。なんだか声のハリも弱いような・・・半年振りなのですが、どうでしょうか


さてその後はアド二名が登場し、オモアド基誠さんが「遊山に出かけるのだが、かねて約束の友人を誘っていく」と語って、吉田信海さんを迎えに寄ります。
この二人の男が野遊びに出かけて言い争いになるというパターンは、大藏流の土筆、和泉流の歌争と同じですね。


二人仲良く、野遊山をするわけですが、鳥追いのために掛けられた鳴子を見つけ、「鳴子」というのが正しいか、「遣子」というのが正しいかで、一転して言い争いになってしまいます。
二人では言い争いが収まらないので、たまたま近くにある茶屋の主人に判定をしてもらおうということになります。


この辺りからは、佐渡狐や茶壷などと似た設定になってきます。言い争いの判定を誰かにたのむという設定は、狂言には良くある形ですね。
もっともこの曲では、アド二人はそもそも友人であり、いずれがいずれかを騙そうとしているわけではありません。
そんな設定があるためなのか、判定を頼まれた茶屋の主人はしきりに「争いはするものではない」とたしなめます。


さてその結果は・・・明日に続きます

粋な主人・・・鳴子遣子つづき

アド二人は茶屋の主人に、それぞれ薪や炭を贈るので、自分の方を勝たせてほしいと持ちかけます。
狂言としては良くある形ですが、片方に聞こえないように主人を呼び、そっと話しかける。すると今度はもう一方が同じ様に主人を呼んで、賂を申し出るという進行になります。
やむを得ず、主人は二人を並べて判定をすることになります。


このあたりから、彌太郎さんもだんだん調子が出てきた感じで、説得力のある語りでした。
茶屋の主人は「判定をする」と言って両者に懸け物の一振りを出させ、両者の真ん中に置いて、西行の歌の話を始めます。
北面の武士であった佐藤義清が、出家して西形と名乗り旅に出たところから説き起こし、やがてとあるところで鳴子を見て詠んだ歌の話になります。


この歌、残念ながら西行の作なのかどうか存じていませんが、実に上手い具合に出来ていて、最初に「鳴子」と出てきます。喜んだ「鳴子」と主張している男が、懸け物に手を伸ばそうとすると主人がたしなめます。
歌の続きを聞けということですが、続きに「遣子」が出てくると、今度は「遣子」を主張していた男が懸け物に手を出そうとする。


このいずれもいさめた主人は、「奪い合うものは中からとる」と、茶壷と同様の言い様を残して、二人の懸け物を持ち去ってしまうというオチです。
とは言え、主人は何度か「こういう争いはやめよ」と述べていて、この懸け物を持ち去ってしまうのも、つまらぬ言い争いをする男たちを懲らしめようという雰囲気が見えます。他曲とは、このあたりがいささか異なるような感じがしますが、これは彌太郎さんの独特の解釈なのか、ちょっと人情劇の深さを垣間見る感じがしました。


そういえばこのところテレビのコマーシャルで基誠さんを拝見しますが、最近は一段とご活躍の様子。狂言自体も安心してみていられる感じがしています。

アクセス御礼

6月24日にこのブログを開設し、ココログから引っ越してきてほぼ50日。
お陰様でアクセス数も2000を超えました。
アクセスありがとうございます。


鑑賞記が中心というものの、毎日少しずつ書いているので、一回の能会の鑑賞記が何週間にもわたったりしていますが、そのあたりはご容赦下さい。
なにぶん就寝前の一時に、当日とってきたメモなどをひっくり返しながら、思い出しては少しずつ書いているため、一日の分量としてはちょっと少なめです。まあ、だからこそ続けて書いていられるということもあるのですが・・・


さて本日はお盆の入り。
ここ二、三日はお盆モードで、更新もままならないかと思いますが、この間の観世会の鑑賞記もまだ残っていますので、落ち着いたらまた更新を続けます。


今後ともよろしくお願いいたします。


                         管理人 拝

すごい! んですが・・・

お盆に休暇をとるのも良いもので、今年はゆっくりさせて頂きました。
が、のんびりした日々も今日で最後。明日から再び仕事です。


そんな昼下がりで、能狂言のあれこれは今夜から、先日の観世会観能記の続きを書くつもりでおります。
それに先だって書いておきたい話が一つ。


実は先日から気になっている番組があります。
幸清次郎先生が古希を迎える記念ということで、11月23日、国立能楽堂で古希記念幸清会が開かれます。この番組がすごい!


舞囃子や一調、素囃子などもすごいのですが、能が四番。
卒都婆小町 一度之次第   梅若 紀長
鸚鵡小町             金剛 永謹
姨捨                観世 清和
檜垣  蘭拍子          梅若万三郎
と、老女物尽くし。


こんなすごい番組はちょっと見たことがありません。
さすがに囃子方の先生の会ならではという感じがします。


で、観に行くのか?
いやあ私も能好きではありますが、さすがにこのすごい会を観に行くだけの自信は出てきませんでした。
どなたかいらっしゃる方の鑑賞記でも拝読できれば幸いか、と思っています。


さ、今夜まで残る休みを最大限、楽しんでおきましょう・・・

千手 観世芳伸(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2006.8.6
 シテ 観世芳伸、ツレ 武田尚浩
  ワキ 森常好
   大鼓 佃良勝、小鼓 亀井俊一
   笛 寺井久八郎


千手は、平家物語にみえる千手の前の話をもとに作られた能で、一説には金春禅竹の作と言われています。三番目ものですが、いわゆる現在能で一場構成です。世阿弥の時代とはいささか異なった扱い方という感じがしますね。


千手の前の話は吾妻鏡にもみえ、実在の人物だったようです。
元暦元年四月八日、一ノ谷の合戦で捕虜になった平重衡が鎌倉に護送されてきて、狩野介宗茂が警護にあたります。
その後の二十日、終日雨の一日に頼朝が重衡の入浴を許し、その際に藤原邦通、工藤祐経そして千手の前という女官を遣わして重衡の徒然を慰めたとの記事があります。


重衡は大変喜び、工藤祐経が鼓を打ち今様を歌うのにあわせ、千手が琵琶を弾き、重衡が横笛をあわせるなど、楽しい酒宴となった様子。
ここで後生楽、往生急の話が出てきます。


さて夜半に千手が帰ろうとすると、重衡は引き留めて盃を与え「燭暗くすは数行虞氏の涙、夜深けては四面楚歌の声」と朗詠しました。
千手が頼朝のところに戻り報告すると、感じるところのあった頼朝は、千手に宿衣一領を持たせて重衡に遣わしたと書かれています。


一方、平家物語では、重衡を預かった宗茂が湯殿を設けて入浴させ、その際に千手の前に世話をさせたという話になっています。
重衡は千手の振る舞いを大変気に入りますが、その日の夕方、千手が召し使いに琵琶と琴を持たせて再び現れ、狩野介宗茂も郎等十余人ともども酒宴に加わりました。
その夜は、夜が明けるまでしみじみとした酒宴が続きましたが、重衡は千手の帰り際に、出家したいとの望みを伝えます。


さて翌朝、千手が戻ると、頼朝は昨夜、酒宴での折に重衡も楽器を手に取り朗詠するのを立ち聞きしていたと明かします。重衡の人物に感じるところがあった様子ですが、重衡の出家したいとの望みは叶えず、後に重衡は奈良で首を斬られてしまいます。その由を伝え聞いた千手は自ら命を絶ったという話になっています。


さて能ではどう展開するのか・・・明日につづきます

劇作の面白さ・・・千手のつづき

シテの観世芳伸さんは、現宗家、観世清和師の弟で先代左近元正の三男。二男芳宏さんとは双子の兄弟になります。
清和師もそうですが、細身の体型のご一家・・・元正さんもそうでしたが・・・で、女の表現としてはもう少しふくよかでもでもいいかなあ、と思っています。次の玄象、梅若六郎師とあまりに落差がありまして・・・


それはさておき、千手の能は平家物語の方の話を土台にして展開するのですが、さらに場面を切り落とし、登場人物も絞り込んでギリギリのところにすべてを凝縮した形になっています。
このあたりが能の劇作の面白いところか、と思います。


昨日も書いたように、三番目物ですが現在能の一場構成で、中入りもありませんからアイも出てきません。
シテの千手とツレの重衡、そしてワキが狩野介と、たった三人の劇。
もともとの吾妻鏡にみえる藤原邦通、工藤祐経などは平家物語でもバッサリと切り捨てていますが、能ではさらに場面を集約して、千手が重衡入浴の翌日、雨の日に再び重衡のもとを訪れ、朝になるまでの一夜の宴を演じます。


こうした形に整理すると、たしかに千手と重衡の心、情趣が強調されてくる感じがします。観世流では割合良く演じられる人気曲の部類ですが、こうした構成にその理由があるように思います。


舞台の進行は明日につづきます・・・

後朝のわかれ・・・千手のつづき

この曲ではまずツレ重衡が登場、いわゆる出し置きの形です。
「出し置き」というのは中世の演劇では良く用いられた手法らしいのですが、後の場面で登場する人物を先に舞台にだしておく形で、登場楽無しに静かに登場してワキ座などに座ります。
舞台上には出ているのですが、劇の上ではいないことになっているという、不思議な形です。


ツレの武田尚浩さんに続いて、ワキ森常好さんも静かに登場。
ツレがワキ座の床几に腰を下ろしたところから、名ノリ笛が入り常座でワキの名宣となりました。既に一ノ松近くまでワキが進んでいるため、名ノリ笛もいささか短めの感じ。


さてワキ狩野介は、前日、頼朝に遣わされて千手の前がやって来たこと、今日は雨の一日で重衡の徒然をなぐさめようと、酒を勧めるつもりであることを述べます。
その後、シテの出になります。重衡の胸中を思い、雨中、訪ねる旨を謡ってワキに案内を求めます。


ここでツレがサシを謡い、自らの境遇を嘆くのですが、正直のところツレの武田尚浩さんに魅了されまして、この曲一番、ほとんどツレの演技しか覚えていない感じです。
直面のツレというのは難しいと思うのですが、悲しみを抑制した雰囲気が痛いほど伝わってきて「ああ重衡は苦しかったのだろう」としみじみと感じました。


この重衡と千手は、ある意味、両シテと言っても良い位置付けでしょうし、大変重い役柄であることは間違い無いのですが、それにしても良かった。


千手を交えての酒宴、クセから序ノ舞と情趣深い場面が続きますが、さらにシテとツレが向かい合って扇を開いて左手に取り、琵琶と琴の連れ弾きを表す型をとります。
そして二人ともに、その扇を上げて枕扇の型。扇を頭にかざす形ですが、観世流では枕扇といい、眠りについたことを示します。
おそらく二人の契を表しているのでしょうけれども、この枕扇の型、武田さんの姿にしばし見とれました。


一夜が明けて、千手が去るところでこの曲は終わりますが、深い味わいの残る能でした。

玄象 窕 梅若六郎(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2006.8.6
 シテ 梅若六郎、ツレ 藤波重孝
     浅見重好、関根知孝
  ワキ 殿田謙吉、アイ 大藏千太郎
   大鼓 亀井忠雄、小鼓 幸清次郎
   太鼓 小寺佐七、笛 杉市和


玄象(ゲンジョウ)は琵琶の名器の名前。観世以外の各流では絃上と書きます。
まず次第の囃子で、ツレの師長とワキの従臣、従者が登場します。
師長は太政大臣の職にありますが、天下に名高い琵琶の名手であり、自らに並ぶほどの琵琶の弾き手はないことから、唐土に渡ることを思い立ち、道すがら名所の月を眺めようと須磨の浦に着いたところです。
この経緯を述べて、ツレ、ワキの一行はワキ座に着します。


すると前シテの尉と姥が連れ立って登場してきます。
この二人、汐汲みの老夫婦なのですが、能の通例としていかにも怪しい老人です。
あたりの景色など眺めた後、塩屋に帰り休もうと、二人ともに大小前に据えられた大藁屋に入ります。


玄象は藁屋を出さないのが常の形だったと思いますが、この後の展開を考えると藁屋がある方がわかりやすいことは間違いありませんね。
ワキはこの塩屋の内に師長の身分を明かして一夜の宿を乞います。


シテの夫婦は宿を貸すことに同意しますが、いつぞや師長が神泉苑で琵琶の秘曲を弾いた折に、大雨が降って以来、雨の大臣と呼ばれていることをあげて、ぜひここで琵琶を弾いてくれるように頼みます。
それを受け、ワキの勧めもあって師長が琵琶を弾くと、にわかの雨。雨が管弦の障りになると、師長は琵琶を弾くのをやめてしまいます。


・・・さてつづきは明日にまた

琵琶の弾き方・・・玄象のつづき

この琵琶を弾く型は、広げた扇を左手に構える形をとる場合・・・千手のツレがこの形でしたが・・・作り物の琵琶を用いる場合、そして実物の琵琶を出す場合とありますが、この日は実物でした。まさに琵琶を弾くように構えます。


さて、村雨の音にツレ師長は琵琶をやめてしまいますが、これを受けてシテはツレに苫を出すように言い、二人して藁屋に苫を葺く形。
ワキはいぶかって何のためかと問いますが、シテは琵琶の調子が黄鐘だったのに、板屋を敲く雨音は盤渉なので、苫を葺いて同じ調子にした、と答えます。
この問答は、玄象でも有名な部分です。


さてこの答えは常人とも思えず、師長は老人に琵琶を弾くよう勧めます。
この日は藁屋が出ていましたので、ここでシテが藁屋を出て、正中で安座し琵琶を抱えて弾く形となりました。


と、六郎先生、謡も所作も文句ないのですが、やっぱりさすがに汐汲みの尉というにはあまりにご立派な体格。後見の恭秀さんがなにやら紺色の小さなものを持ってきて、安座に琵琶を構えるシテの後からあてがった様子。
これ、どうも小さな座禅布団のような感じで「あれをあてないと後にひっくり返ってしまうのかなあ」などと、ついつい想像してしまいました。


さて、シテの琵琶、姥の琴と見事な演奏に、師長は入唐を思い止まり、静かに塩屋を立ち去る風で常座に向かいます。
これに気付いたシテ、ツレが師長をとめようとしますが、師長は都に帰ると述べ、老人の名を問います。


これに対して、老夫婦は琵琶の名器「玄象」の持ち主であった、村上天皇と梨壺女御であると名のり、来序で中入りとなります。
・・・後場は明日につづきます

早舞のクツロギ・・・玄象さらにつづき

アイは大藏千太郎さん。常座での立シャベリですが、小気味よい語り口です。
師長の従者という設定ですが、ここで玄象、青山、獅子丸の三面の琵琶の話が語られます。
この三面は唐土から伝わった琵琶の名器と言われていますが、獅子丸は途中で海中に没してしまったと語ります。


アイの語りが終えると出端の囃子で後シテの出。
村上天皇の出現ということで、あれは白の直衣に白指貫でしょうか、なんとも気品のある姿です。
まず後シテは、失われた獅子丸を龍神に命じて竜宮から持ってこさせます。


これに応えて後ツレ龍神が颯爽と早笛で登場し、琵琶を師長に手渡します。この琵琶は作り物の琵琶ですね。


さて龍神が控えると、シテの早舞になります。
窕(クツロギ)の小書きは、玄象に限らず融や当麻など他の曲にもあります。舞の三段の途中で橋掛りに移動し、大小、太鼓の流しで舞台に戻ってくるという形。橋掛りでクツログということなのでしょうね。


この舞、いやさすがに六郎先生、なんとも気品のある舞でした。これは見事。古の天皇とはかくもあろうかという、品位が伝わってきます。
クツロギが入る分、常の早舞よりは長くなりますが、これは十三段でも拝見したいところと、つくづく思った次第です。
なお以前にも書いていますが、融の十三段之舞の小書きでは、まず黄鐘早舞五段を舞った後に、このクツロギの入った盤渉早舞五段、そしてさらに急ノ舞三段を舞います。ああ、六郎先生で拝見したいものです。


ところで三面の琵琶として名前の出てくる、玄象、青山、獅子丸。このうち青山は経正に出てきますね。この経正のクセあたりは大変好きな場面です。

老いと芸

ようやく観世会定期能の鑑賞記も書き終わり、さて次は何のテーマに・・・と考えていたのですが、テーマに移る前に、ふと前々から気になっている話を書いてみようかと思い立ちました。


それは演者が年齢を重ねるということと、芸の問題。
世阿弥の能芸論などを読んでいると、歳を重ねる中に本当の花が咲くといった感じに読めるのですが、これは世阿弥自身について言えば「かくあった」ではなく「かくありたい」ということなのだろうと思います。


どうも、世阿弥が活躍した時代の能というのは、現在の能とは随分違っていたようで、まずもって能は「古典」ではありませんでしたし、かなり奇抜な演出もあったらしい。
一曲の上演時間も、現在の半分程度だったのではないかと言われていて、テンポが速く、しかも同じシテが日に何番も能を勤めたらしい。
この間の浅見真州さんの独演三番能は、現代の試みとしては破格だと思いますが、当時は日に七番とか十番とかいうのもあったらしいのです。
それでは年齢を重ねてはとても演技できませんよね。


しかし、世阿弥の後の世になって、世阿弥の理想とした方向に能が進化していったということなのでしょう。
幽玄が尊ばれるようになり、激しい動き、物真似中心から、ゆったりした動き、深い情趣の方向に舵が切られていくことで、高年齢の演者も活躍の場が出来てきたのでしょう。


とは言え、いったいどこまでが芸の高まりなのか、どこからが無理なのか、この境はとても微妙なところだと思います。
最後は、自分自身の感性を信じて、誰がなんと言っても「良い物は良い」し「気に入らない物は気に入らない」と言い切ってしまうしかないなあ、と思っています。


といいながら、高齢の方の舞台を見るにつけ、気持ちが揺れ動くのを感じます。

四拍子

能や狂言の囃子は、大鼓・小鼓に笛、そして太鼓の四種類。これに謡が一人入ると、そうです、雛人形の五人囃子の形ですね。
基本形がこの四つの楽器のため四拍子といわれますが、太鼓が入らない曲も少なからずあるので、大鼓と小鼓、略して大小といいますが、この大小と笛の三人か、あるいはそれに太鼓が入った四人というのが能楽の囃子の基本です。


例外は翁で、基本は小鼓三人に大鼓と笛。太鼓は入りません。
小鼓が三人というのは翁だけですね。
これからしても「翁は能ではない」というのがおわかりいただけるかと思います。


先日、とりあえずということで笛の話から書き始めましたが、笛以外の大鼓、小鼓、太鼓はいずれも打楽器。リズム中心の編成です。
笛を含めても「四拍子」というくらいですから、楽器イコール拍子をとるもの、という感じなのかもしれません。
確かに「笛も打楽器」といった言われ方をする場合もあって、まずはリズムが重要のようです。


というのも、能楽の囃子は西洋音楽のようにメトロノームで全体のリズムを一定にするといった方法論とは全く対極にあって、八拍を基準とするものの、その一拍の長さは拍毎に違うといっても良いくらいだからなのです。
このあたりは、楽器の話ではなく、地拍子の話として書くべきだろうと思いますので、いずれ別の機会に譲るとして、とりあえず笛以外の楽器の話を少しずつ書いてみます。

小鼓と大鼓の話

小鼓と大鼓は、とっても良く似た楽器ですが、能の場合は構え方が大きく違いますね。


見所から見て右側に小鼓、左側に大鼓が並びますが、一目見て分かるように、小鼓は肩に載せるようにして構えるのに対して、大鼓は左の脇に構えます。
大鼓を構えるときに、ちょっと紋付きの袖がかかるようにしますが、あれがまたなかなか風情があります。


ずっと昔、世阿弥の時代などには専業の囃子方というのは成立しておらず、シテもワキも囃子も手が足りなければ担当していたらしいのですが、徐々にシテ方、ワキ方、囃子方が分化してきたようです。その中でも、小鼓方と大鼓方は割合後の時代まで明確には分かれなかったといわれています。
どちらかというと小鼓が主で、これに大鼓が合わせていくような形だったのでしょう。


形は似ている小鼓と大鼓で、どちらも馬の皮を使っているところも一緒ですが、皮の使い方は大きく違いますね。
金属の輪に皮を張ったまでは同じなのですが、小鼓は締め方にゆとりがあって、打つときに左手で締め緒をきつめにしたり緩めにしたりして、音を打ち分けます。ピンと張った音ではなく、柔らかみのある音を出すために、打つのとは反対側の皮に和紙を唾液で貼り付けて調子をとっています。
皮も年季が入っているものが良しとされるようで、輪に近い部分には漆がかけられています。


一方の大鼓は、演奏する直前まで炭火で焙じて乾燥させ、ピンと張った音を出すためにきつく緒を締めます。
長い曲だと途中で皮が湿気を含んでしまうので、替えの大鼓を持って後見が取り替えに来ますね。皮には厳しい状況なので、大鼓の皮は消耗品の扱いです。

小鼓のつづき

私、残念ながら、小鼓は打ったことがないので今ひとつ感覚が分からないのですが、流儀によって緒の締め具合など微妙に違うようです。


小鼓と謡の間の取り方の面白さは、能の面白さの一つの極のような感じですが、小鼓の一調が好んで演じられるのもそのためでしょう。
地拍子の話を書かないと、このあたりもなかなかうまく説明できないのですが、能を観に行って、例えばシテにあまり動きのないところなど、地謡と小鼓の間に注意してみるのも面白い見方かなあ、と思います。
西洋音楽のキチンとメトロノームで指定できるようなベースのリズムがある大系ではなくて、一拍が時に応じて伸び縮みする不思議な感覚は、慣れるととても面白いものです。


ところで小鼓は翁の時は三人登場します。この時は大鼓はほんのアシライに申し訳程度に打つだけですから、古い形として小鼓を中心に打楽器が組まれていた名残なのかもしれません。
三挺の小鼓の音、頭取と他の鼓の掛け合い、翁の鼓は私の好きなものの一つです。


中入りの時や、一曲の能が終わりシテ、ワキが退場している間などは、囃子方は正面を外して横向きに座りますね。
この際に見所から見ると、大鼓と太鼓は右向き、小鼓と笛は左向きに座り、太鼓が出ているときは二人ずつ内側を向く形になります。
ところが、どういう訳か小鼓の観世流だけは右を向いて笛方と向き合う形になります。
いずれ何かの謂われがあるのでしょうけれど、ちょっと不思議な感じがします。

大鼓を打つ

大鼓は皮を強く張り、甲高い音が出るようにしてあります。


小鼓にも共通することですが、鼓を打つときは指先で直接に皮の面を打つのではなく、手のひらを枠に打ち付け、その反動で指先が当たるようにします。
このため、特に大鼓では手のひらが痛くなり、内出血することもありますね。
そこで手のひらには皮をあてがい、指先には指革をつけますが、手のひらの方は皮そのものである一方、指革は名前とは反して、和紙を固めた指サックのようなものです。


これをしていても手は痛いし、慣れないと大変です。ご承知の通り、大倉正之助さんは有名な素手打ちですが、さすがに長い修練のたまものということなのでしょうね。


いつぞや民謡の八木節の稽古を見ていたら、大鼓を細めの撥で叩いていました。確かに硬質の音がして、これはこれで悪くありません。
なるほど、工夫というのはあるものだ、と思ったものです。
三河万歳でしたか、一人で小鼓と大鼓を両方打つ方がいます。ボンゴを演奏するのと似たような感覚かも知れませんね。

太鼓の話

昨日は腰痛のためブログ更新をお休みして早寝しました。


さて四拍子の最後は太鼓です。
鼓(ツヅミ)と言えば、小鼓にしても大鼓にしても、およその形は想像がつくと思います。
しかし、太鼓というのはポピュラーなものだけに、様々な形を思い浮かべる方がいらっしゃるだろうと思います。


いわゆる祭太鼓というのか、木をくり抜いて作った胴の真ん中のあたりが少し膨らんでいて、胴の両端に皮が直接鋲留めされているような太鼓。
小学校の時に鼓笛隊で見かけた大太鼓や小太鼓、さらに落語に出てくる火焔太鼓に、昔は子供をあやすときに使ったという「でんでん太鼓」など、様々な太鼓が思い浮かびます。


能楽で使われる太鼓は「締太鼓」といって、基本の形は小鼓や大鼓と同様に、胴の両端に輪に皮を張った鼓面をあてて、締緒で締め上げたものです。
胴に直接皮を張った祭太鼓などとは、異なった形態ですね。
小鼓や大鼓との大きな違いは、鼓の胴がダンベルのような形をしているのに対して、短い割に口径の大きな筒状をしていることでしょうか。


この締め上げた太鼓を、木製の台に引っかけて、二本の撥で打って音を出します。
この台はわずかに傾斜しているのですが、能楽の場合は、この傾斜を正面から外して、打ち手から見るとやや太鼓の面が斜めになったような形で打ちます。


締太鼓は落語の下座や、民謡などでも用いられますが、傾斜に正面から向き合う形の方が多いのではなかったか、と思います。


太鼓は小鼓や大鼓と違って、すべての曲に入るわけではありません。
むしろ太鼓の入らない曲の方が多いのではないか、と思います。
これは太鼓のキチンとしたリズムが、必要とされる曲と、必要としない曲があるからということですね。


もう少し、太鼓をはじめ打楽器をめぐる話を続けてみようと思います・・・つづきは明日に

なぜに打楽器

ようやく太鼓までたどり着いたのですが、それにしても能楽の囃子、楽器の構成が偏っていますよね。
小鼓、大鼓、太鼓、そして笛。打楽器が三種、しかも基本形は締め緒で締めるタイプの打楽器です。そして旋律が出るのは笛一本だけ。
前々から不思議なのですが、どうも本当のところはわかりません。


能楽の草創期から、鼓と笛を基本にしていたのでしょうけれど、どうしてこうなったのか納得できる説明に出くわしたことがありません。
もっとも仮に納得できるような説に出会ったところで、後世の研究者の説でしょうから、本当のところどうだったのかは、残念ながら歴史の中に埋没してしまったということでしょうか。


日本の楽器の多くは、雅楽に用いられた渡来物の楽器を源流としているのだと思いますが、雅楽の楽器は管楽器、打楽器、そして弦楽器からなっています。
そうなんですね、弾物(ヒキモノ)とも呼ばれる弦楽器が、能楽の囃子には一つも使われていないのが、どうにも不思議なんです。


吉野天人の一節にも「琵琶琴和琴笙篳篥。鉦鼓羯鼓や糸竹の。」とありますが、最初の琵琶(ビワ)、琴(コト)、和琴(ワゴン)までが弦楽器ですね。さらに笙(ショウ)、篳篥(ヒチリキ)と管楽器の名前が続きます。
そのあとようやく打楽器の鉦鼓(ショウコ)と羯鼓(カッコ)の名前が出てくるという次第で、やはり楽器と言えば弦楽器がまず思い浮かぶと思うのですよね。


どうも旋律楽器を意図して避けているような気がしてなりません。
謡曲、謡が入るから・・・というのはもちろんあると思うのですが、あるいは何か宗教的な意味があるのかもしれませんね。


*鉦鼓(ショウコ)は「鼓」の文字がついていますが、金属で出来た盤を吊した楽器です

蘭陵王・・・能楽からいささか外れますが

四拍子から、雅楽の楽器の話になりましたが、雅楽というとちょっと気になっていたのが蘭陵王。
今日は能楽の話からはいささか離れてしまうのですが、蘭陵王について少し書いてみたいと思います。


前々からこの蘭陵王という名前が気になっていまして、しかも舞人は不思議な舞楽面を着けます。はて、どういう曲なのか、と思っていたのですが、少々調べてみました。


蘭陵王とは、中国の南北朝時代、北朝末期の北斉の皇族で武将であった高長恭のことだそうです。北斉は高氏の建てた国ですが、建国者高洋の甥にあたります。
蘭陵に封じられたことから、高長恭の名よりも蘭陵王の名で呼ばれるようになったとか。


さてこの蘭陵王、大変な美貌の持ち主だったらしいのですが、その美貌ゆえに戦いに際して部下の士気が落ちるのを心配して、戦の時は恐ろしげな仮面を被っていたということです。
美貌であるとともに大変勇猛でもあったらしく、厳しい戦局を乗り切って勝利したことから、兵士たちは「蘭陵王入陣曲」という歌謡を作って、この蘭陵王の事績を讃えたと伝えられています。


この話が北斉が滅んだ後、隋を経て唐代になって舞楽化されていったと言われています。
そしてそれが日本に伝えられて、雅楽の蘭陵王(陵王ともいうらしいのですが)になったということだそうです。


件の蘭陵王は、その後、皇帝に忠誠を疑われて自殺に追い込まれたとか。
こう聞くと、能楽の題材としても良さそうな気もします。
王昭君と呼韓邪単于の故事をもとにした昭君をはじめ、中国の古典に題材をとった能も少なくありません。
もしかすると、かつて演じられたことはあったものの、廃曲になってしまったのかもしれませんが・・・

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