能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

鐘の音つづき

戻ってきた太郎冠者は早速に主人を呼んで、四つの鐘の音をそれぞれに報告するわけですが、またまたそれぞれの鐘の音をもう一度繰り返した末に、建長寺の鐘が一番良いなどと言います。


主人はイライラしながら聞いていて、途中で「あれは何をぬかしおったのじゃ」などと独白。
最後まで聞くと、とうとう怒って太郎冠者を扇で打って追い出してしまいます。


太郎冠者が訳の分からないことを言っている間に、主人がいぶかって独白するという形は、多くの狂言に見られますが、これがなかなかに笑いを誘います。
野村祐丞さんの主人も、さすがに年季の入った芸で味があります。


さて思案にくれた太郎冠者は、鎌倉の諸寺を回った様子を謡にして主人の機嫌を取ろうと思い立ち、謡い舞いますが、結局主人の機嫌は直らず、叱り留めとなります。
この謡い舞いの囃子物がこの曲の見せ所でもありますね。


大藏流では仲裁人が出て、主人に追われて逃げてきた太郎冠者と主人を仲裁しますが、和泉流では、太郎冠者自身が思案をめぐらす形です。まあ、別に仲裁人が出ても、そこで話が展開するわけでもないので、和泉流の形で十分かもしれません。


たしか鐘の音を聞きに回る寺々の名前や、鐘の音真似も、大藏流だと少し違っていたように思いますが、違いがある分だけ、好まれて演じてこられて曲という証拠のように思えますね。
(25分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

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姨捨 近藤乾之助(宝生会秋の別會能)

宝生流 宝生能楽堂 2006.11.26
 シテ 近藤乾之助、ワキ 宝生閑
 アイ 野村万蔵
  大鼓 柿原崇志、小鼓 幸清次郎
  太鼓 観世元伯、笛 藤田大五郎


以前にも書きましたが老女物というのはいかにも能らしいジャンルでしょうね。
卒塔婆小町、鸚鵡小町、姨捨、檜垣、関寺小町の五曲は老女物として尊重されていますが、その中でも姨捨、檜垣、関寺小町の三曲は三老女物として特に尊重されています。
(これも以前に書いたとおり、金剛流では三老女物というと卒塔婆、鸚鵡、関寺の三小町物をいいますね)


三老女物の最初の曲として取り上げられるこの姨捨、金春や喜多では伯母捨と書きますが、信濃の国更科の姨捨山に残る棄老伝説を能に仕上げたものです。


姨捨山の話というと深沢七郎さんの楢山節考を思い出しますが、能では題材を姨捨の話に求めてはいるものの、姨捨という行為そのものをめぐるドラマは捨ててしまっていて、山姥にも通じる不思議な世界を展開しています。


その姨捨と山姥を続けて観ようという番組。
宝生では三老女のうち、なぜか檜垣を上演しないことにしており、姨捨も関寺も稀にしか上演されません。
関寺小町も前回上演されたのは百年以上も前のことで、実質的には姨捨が老女物の最高峰ということでしょうか。(来年9月に今井泰男さんが、その関寺小町をなさる由)
別會能らしい意欲的な番組ということですね。


ワキの宝生閑さんをはじめ、囃子方も重鎮揃いで深い趣の一番となりました。
舞台の進行は明日につづきます

姨捨つづき

さて舞台はまず次第の囃子でワキが登場して始まります。
ワキは都の者、この秋に思い立って月の名所という更科の姨捨山を尋ねてみようと旅に出たところです。ワキツレ共々に道行を謡い、姨捨山にやって来ます。


姨捨山に着いた一行。ワキツレはそのままワキ座に進み、ワキは後見座に笠を置いてから正中へ出て、月夜の美しさに魅せられしばし月を眺めようとと語ります。
するとシテが呼び掛けます。
シテは橋掛りを進みながら、ワキとの問答になりますが、この中で姨捨伝説が暗示される訳です。とは言ってもあまり明瞭に生々しい話にはなりません。


たしかに謡の詞章には、桂の木のほとりに捨て置かれたそのままに、土中に埋もれ昔語りとなってしまった、その「なほ執心や残りけん」とありますが、執心が積もってどうこうという話には展開しません。
地謡に合わせて舞台に入ったシテはワキに何処の者かと問い、ワキが都の者だが更科の月を見に来たと答えると、それでは月とともに再びやって来て、夜遊を慰めようと言うのです。
そして自分は昔、捨てられてこの山にただ一人住んでいた者であると明かして、姿を消してしまいます。


執心、執心の闇を晴らす、といった言葉はちりばめられているのですが、あまり怨みがましさや、苦しさなどといったものは表現されず、もっと静かな月の光のような世界を現そうとしているようです。


生々しいのは間狂言の語りで、中入りの後に居語りで姨捨伝説が語られます。


しかしこれを受けてのワキの待ち謡はなんとも長閑で、月の美しさを愛で、三五夜中新月の色、二千里外古人の心という、白楽天の詩を吟じてシテを待つわけです。
このつづきはまた明日に

老女の品格・・・姨捨さらにつづき

後シテは老女の姿となって、一声にて登場し、常座で謡いますが、これも姨捨山の月を賞で昔を思いやるものです。


それにつけても後シテのその品格の高さ。
歩みはまさに老女の姿で、やや足を広めにし、いささか覚束ない感じで歩みを進めます。しかしその一方で、すっと一本筋が通ったような立ち姿になんとも言えない気品があります。
頭からすっと伸ばした手先まで、毅然とした雰囲気が漂っているのですが、これが不思議なことに、覚束ない歩みと融和していて違和感がありません。
かくも能の老女というのは見事なものなのか・・・と、感慨ひとしお。


シテは自らが姨捨山に捨て置かれた老女の果てであると明かしますが、何事も夢の世「花にめで月に染みて遊ばん」と、月光の中に執心が昇華している風です。


この後のクリ、サシ、クセで月をめぐって、月は本来のところ大勢至菩薩が仮に姿を現したものであって、月の満ち欠けは、さながらこの世の有為転変の様を示していると謡います。
老女が、一人捨て置かれた姨捨山の月光の中で、いつしか人間を超える何ものかに昇華してしまったような感じを漂わせます。


序ノ舞も老女物としてはただ一曲だけ、太鼓入り序ノ舞が舞われる訳ですが、太鼓が入るのは人間を超えた存在を現すものと言われます。
たしか高桑いづみさんが何かの本で書いておられたのだと思うのですが、室町時代の人はリズミカルなものに非日常性を感じていたのではないか、ということです。
太鼓は大小に比べると、リズミカルな打ち方をされますから、太鼓が入ると人間を超えた存在を示すのだそうです。


しかも月の光の力なのか、姨捨の老女は執心、怨みといった世界から、輪廻を超えた異界に昇華してしまっている風です。
近藤乾之助さんの見事な世界に魅せられた一番でした。
(135分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

山姥 杖之型 登坂武雄(宝生会秋の別會能)

宝生流 宝生能楽堂 2006.11.26
 シテ 登坂武雄、ツレ 小倉健太郎
 ワキ 工藤和哉、アイ 野村祐丞
  大鼓 亀井実、小鼓 曽和正博
  太鼓 大江照夫、笛 松田弘之


今年、四度目の山姥。観世、金剛、金春、そして宝生と各流の山姥を観てきました。
続けてみるまで、さほど山姥という能が面白いとも思わなかったのですが、これはまた良くできた能の一つと思うようになりました。


山姥は一体何者なのか、姨捨の老女は間違いなく人間が昇華していったものでしょうけれども、山姥になると、もはやそれすらも分からない。ただ山に古くから存在する訳です。決して執心や怒りによって鬼になったという訳ではなく、人間を超えたものということなのでしょう。
しかもここにも月が出てきます。


この日は姨捨と続けての鑑賞。この二番を続けて観ることによって、一層深い世界が開けるかなあ、という期待があったのですが、それはちょっと欲張りすぎ。
実は姨捨の印象があまりに強烈だったのと、私、当日は久しぶりに体調を崩していて、山姥の途中から観ているのがいささかつらい状況になってしまったため、残念なことに山姥の印象がやや平板になってしまいました。
全体としては良い能だったと思うだけに残念です。観能にも健康管理が重要と思った次第。


さてこの日は杖之型の小書き付き。杖之型は宝生流と金剛流にある小書きです。
常の型では途中で鹿背杖(カセヅエ)を扇に持ち替え、クセを背を舞った後、再び扇を杖に持ち替えますが、この小書きでは杖を持ったままとなります。
さてどう展開したのか、この辺りは明日につづきます

百魔山姥の善光寺参り・・・山姥つづき

まずは、ツレ百魔山姥とワキ従者達の一行が登場します。
小倉健太郎さんのツレですが、紅入唐織の着流し、白の多く入った衣装で若く清楚な印象を受けました。所作、謡いも軽めの感じで、シテ山姥との対比が強調される感じです。


善光寺へ参詣に行こうという一行ですが、越中と越後の国境になる境川へとやって来ます。ワキがこの由を述べて、さてこの地に住む人に道案内を乞う訳です。
私、実は前々から疑問だったのですが、京の都で人気の高い百魔山姥が善光寺参りをするのに、なぜ北陸境川を回っていくのか、どうにも不思議でした。
京都からなら名古屋を経て長野に入っていくのが当然、と思っていたのですが、あらためて日本地図を見てみると、滋賀から琵琶湖沿いに敦賀に出て、金沢、富山と海沿いの道を進んで境川に至り、ここから山越えに入るほうが平坦な道が多そうです。
鉄道や自動車で考えると名古屋回りしか思いつかなかったのですが、歩くということはそういうことかと、改めて認識したしだいです。


さて閑話休題。
境川辺りの人と呼ばれて、アイの野村祐丞さんが登場します。
案内を乞われ、一度は所要が有って案内できないと断りますが、重ねての依頼に引き受けることとします。


上道、下道、上路越えの三つの道の中から、険しいといわれる上路越えを選んで進みますが、途中、にわかに暗くなってきてしまいます。
アイは「あら不思議や」と驚くのですが、今年は山姥をこれが四回目の鑑賞。
間狂言は山本則直さん、石田幸雄さん、大藏教義さん、そして今回が野村祐丞さんと、大藏流が二度、和泉流が二度の鑑賞。
大藏のお二人はここでは狂言らしい演技で、急に暗くなってきたとまさに大騒ぎでしたが、一方、和泉のお二人は能らしい演技で「あら不思議や」と語り、あまり驚いた風を見せません。これは間語りのオチ「山姥とは山に住む木戸」をワキに「木戸ではなく鬼女」と正されたところでも、大仰に感心する大藏流と、さらっと受け流す和泉流という感じで、流儀の違いがうかがえます。
和泉流も野村家系でない場合はどうなのか、また興味が尽きないところではありますが、さて山姥のつづきはもう一日、明日へと

山姥さらにつづき

前シテは宿を貸そうと呼び掛けで登場し、真の山姥の話をして姿を消すわけですが、宝生らしいしっかりとした芸風。
後シテは山姥の姿になり登場しますが、猛々しい雰囲気ではなく、品格のある雰囲気を漂わせていて、怨みで鬼になったわけではなく、超自然的な存在であることを大事にした印象を受けました。


一ノ松で一声を謡い、アシライの囃子に乗って舞台に入って常座からワキ正へと進みます。
ツレは軽めの謡でシテとの対比を出しながら応対がつづきます。
常の型であれば、この後「よしあしびきの山姥が山廻りするぞ苦しき」で、シテは持っていた鹿背杖を扇に持ち替えますが、杖之型の小書のため、ここでは扇に持ち替えず鹿背杖のままクリ、サシ、クセと進みます。


「それ山といっぱ・・・」のクリで正中に進んで床几に腰を下ろします。


クセの「上求菩提をあらはし無明谷深きよそほひは。下化衆生を表して金輪際に及べり」の一節、「下化衆生を」と扇をもって下を差し、金輪際まで貫く風を見せる型が重要なところですが、ここを鹿背杖を持ったままどう演じるのか、興味深く観ていましたところ、髪をつかんで下を見下ろす型。これまた風情があります。


杖之型では終曲まで杖のまま舞う場合もあるのだそうですが、この日はクセの途中「またある時は織姫の」で扇に持ち替えます。
さらに立廻りの前、シテ「あしびきの」地「山廻り」で再び鹿背杖に持ち替えて立廻りを舞う形。
常の型では立廻りは扇で舞い、舞い上げたあと杖に持ち替えますから、ここも変化のあるところですね。


とにもかくにも体調不十分だったため、いまひとつ深いところが感じられず、形の違いを追いかけただけになってしまった感じです。
次回の観能は体調にも留意して、行ってみようと反省しきり。
(95分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

同じ蓮の蓮生法師

宝生会別会は能、狂言に加えて仕舞六番。これがまたなかなかでした。
辰巳満次郎さんの敦盛にはじまり、波吉さんの班女、今井泰行さんの黒塚の三番が姨捨の前に。
さらに姨捨を挟んで、田崎さんの女郎花、寺井良雄さんの野守。そして長老 三川泉さんの実盛と豪華な顔ぶれでした。


曲もお馴染みのものが多く、楽しめました。
が、その最初の敦盛。


敦盛はご存知のとおり平家の公達。16歳とも17歳ともいわれる若さで、あえなく亡くなっています。
この敦盛を討ち取ったのが熊谷次郎直実。
一ノ谷の戦いの中、舟に乗ろうとして逃げ遅れた様子の公達を見つけた直実は、これを討ち取って手柄にしようと名乗りを上げます。


公達を組み伏せた直実は、討ち取ろうとしてよくよく相手をみると、まだ自分の息子とも同じほどの若武者。不憫に思い逃がそうとしますが、敦盛は「討て」と命じます。味方の兵も近づいてきたため、泣く泣く直実は敦盛を討ち取ったという敦盛最後の話。


この出来事から、思うところあって出家した直実は蓮生法師と名のり、仏道を成就したといわれています。


仕舞の敦盛は、この能の最後の部分で「終には共に生るべき同じ蓮(ハチス)の蓮生法師、敵(カタキ)にては無かりけり跡弔ひてたび給へ」と謡われます。
蓮生法師の名を元に、見事な詞章に展開していて、私も大好きな一節です。
が「おなじはちすのれんしょうホッし」
そ、そうか、宝生では「れんしょうほっし」って謡うんですね!
観世では「れんせいほうし」です。宝生で観たことなかったかなあ・・・気が付きませんでした。
今日書きたかったのは、実はこの「れんしょうほっし」という読みの話でした。
まだまだ気付いてないことが沢山ありそうです。

書き言葉と話し言葉

昨日の蓮生法師から話を少し広げます。


狂言なら事前の準備をしなくとも、おおかたの場合、初めて観るものでも「分かる」と思います。
たしかに聞き慣れない言葉も無いわけではありませんが、大体の筋を追うのには苦労しないのが普通です。


ところが能となると、なかなかそうもいきません。
事前になにがしか調べたりしておかないと、さっぱり意味が分からないということが少なくないですね。


これ、大きくは二つの理由があります。


一つは、狂言が日常的に起こる生活上の話題を劇化しているのに対して、能は何か古典文学や伝承などを題材として劇化されていることからくるものです。
古典や伝承を題材としてもナレーションなどで丁寧に解説でもされればまた違うと思いますが、能では緊張感のある舞台を展開するために、おおかたの場合、題材となった古典や伝承は「分かっているもの」として話がすすめられます。
間狂言がこれを補足する役割を担ったりしますが、いずれにしても事前にある程度の知識を持っていないと、なかなか楽しめないのが本当のところ。


もう一つが書き言葉と話し言葉の違いです。
狂言は会話劇なので、心情の描写を含めてすべてが話し言葉で構成されます。話し言葉でないのは、途中で謡われる小歌や連歌の類などでしょか。
一方の能では、台詞の部分と謡の部分が絡み合っていて、その謡の部分は古典に典拠したつづれ織りのような文章になっているのが普通ですから、これを予備知識無しに耳で聞いてもさっぱり分からないということになってしまいます。


昨日の「同じ蓮の蓮生法師」も「れんしょうほっし」と読もうが「れんせいほうし」と読もうが、これをいきなり耳で聞いてもさっぱり分からないのは当然でしょうね。
少なくとも直実の法名が「蓮生法師」と書かれることを知っていないと「ついには共に生きるべき同じ蓮の」という章句が活きてきませんもの。


もう少し、この言葉をめぐる話をつづけてみます

文語と口語

古文の文語体といっても、平安時代まで遡れば相当に話し言葉に近いものだったのではないか、と思います。
そういう意味では、能と狂言の聞き取りやすさの違いは、平安と室町という時代の流れによって、言葉が変化してきたことの現れといえる部分もありましょう。


けれども、やはり日常会話を前提とした狂言と、古典文学を典拠とした能では、聞き取りやすさに決定的な違いがあります。
昨日の蓮生法師もそうですが、聞いている方が「蓮生」という文字を思い浮かべないと謡がなりたちません。


一方、狂言では聞くことを前提としているために、聞き間違いから起こる喜劇というのがテーマの一つになってきます。
「鐘の音」も、黄金の値段である「金の値」を「鐘の音」と聞き違えたことから起こる喜劇ですが、主人に怒られた太郎冠者は「黄金なら黄金とはじめから言えば良いのに」と反論するわけです。


話し言葉か書き言葉か、という視点から見るのも、また面白いかと思います。


ただし能楽以前からも語り物という芸能のジャンルがあって、ここでは文語を語り聞かせる形ですね。平家物語も現在は文学として読みますが、もともとの起こりは琵琶法師による語り物な訳です。
あれを聞いて、すぐに意味が分かるのか、といわれると、文字を見ないとどうだろうかと疑問を感じる部分が少なくないと思います。


聞いていて耳に心地よい、というのは、必ずしも分かりやすいものとは限らないでしょう。意味はなんとなくしか分からないが、なんとも心地よいということがあるのだろうと思います。
説教が一つの芸能だったという側面もあります。


なかなか奥の深い世界といえそうですね

狂言本

能の謡本というのは、戦国末期、江戸時代初期の下掛り系車屋本にはじまり、有名な光悦本など、江戸時代にも多数発行されています。
初期のものは1600年前後の頃というところでしょうか。


一方、狂言の本として知られる最も古いものは天正狂言本と言われていますが、これは筋書き程度のもので、台本に近い形になるのは大藏弥右衛門虎明による虎明本が1640年頃にまとめられたのが最初と言えましょう。


その後も、虎寛本や虎光本、和泉流の天理本や和泉家古本などがまとめられていますが、これらは流派による台本の書留であって、車屋本や光悦本のように一般向けに出版されたものではありません。


謡本の方は、能を観る際の参考として、また謡を習う場合の教本として必須だったと思います。江戸時代の謡本出版の隆盛も、謡曲を趣味として習うことが流行してはじめて成り立ってきたのでしょう。
一方の狂言の方は、狂言を習うというのあまりポピュラーにならなかったようですし、狂言を観る際のテキストというのも、これまで述べてきたように、そもそも話し言葉からなる狂言の場合テキスト不要という側面があって、ほとんど必要性がなかったのではないかと思います。


ところが一般向けに出版された狂言本として、1660年に刊行されたという狂言記、これにつぐ狂言記外五十番、続狂言記、狂言記拾遺といった本が刊行されていきます。
これらは、もちろん体裁上は狂言の台本の形になっていますが、狂言を面白い話として楽しむために出版されたようです。
大藏、和泉のいずれもと詞章などが微妙に違っているようで、京都あたりの群小狂言の台本を元に書かれたものと言われています。


どの程度流行ったものなのか分かりませんが、狂言を台本で読んでみようと思った素人衆が江戸時代初期には既に存在していたという、明かな証拠ということなのでしょうね。

大藏流と和泉流そして鷺流

ところで狂言の流儀というと、現在は大藏流と和泉流の二流ですが、江戸時代には鷺流があって三流だったわけです。


狂言自体は、おそらく南北朝の時代から続いているのでしょうけれども、何分、即興的な芸でもあったらしく、古い時代のことはよく分からないようです。
間狂言というもかなり古い時代からあったらしいのですが、これもよく分かりません。


ハッキリしてくるのは江戸時代に入る辺りからで、金春座に従って活動していた大藏家が現在に続く大藏流のもとになっています。
鷺流というのは明治の混乱期に廃絶してしまったわけですが、観世座付きとして狂言の筆頭に置かれていたのは鷺流でした。
観世以外の各流では大藏の各家が狂言を演じていたようです。


和泉流は、山脇和泉守元宜が1614年頃、尾張徳川家に召し抱えられて、野村又三郎や三宅藤九郎らと三派連合のような形で一流をなしたのが初めと言われています。
式楽という意味では、いわゆる座付きは鷺流、大藏流だけで、和泉流はこれに加えられていませんが、禁裏御用ということで京都にも勢力を持ち、また金沢にも勢力があって、ある程度の広がりがあったそうです、


江戸時代の感覚としては、鷺流が一番、大藏流が二番、そして和泉流はその他という感じだったのではないかと思われるのですが、歴史の皮肉というのは面白いもので、江戸から明治に移るときの混乱でこれがまったく逆転してしまうわけです。


鷺流は式楽第一位の観世座付きという立場にどっぷり浸かっていて、一般に根を張っていなかったため、明治以降、廃絶という結果になってしまいました。


逆に禁裏御用という立場もあって、明治以降は俄然、和泉流が隆盛を極めてきます。
中でも金沢に勢力を持っていた三宅藤九郎家の弟子家にあたる野村家が台頭し、中絶していた師家にあたる三宅藤九郎家も再興して今日に至っている訳ですが、歴史の展開というのは、なかなかに面白いものです。

和田萬吉という方と九皐会

ひょんなことから和田萬吉という方が書いた文章をまとめた「能と謡」という本を手にしました。
この方は昭和九年に亡くなっていて、東京帝国大学図書館長を長く勤める傍ら、謡曲をこよなく愛し、その思いを当時の「謡曲界」という雑誌に発表していて、これを本にまとめたもののようです。


読んでみるとなかなか面白い。
謡曲の稽古に凝っているのに、一向に能を観に行かない人が多いといったことも書いています。現在とはいささか様子が違うように思いますが、大正から昭和にかけての世相を知る上でも参考になりそうです。


その和田萬吉の謡曲の師匠が観世清之、矢来観世家初代です。
萬吉は観世清之をこよなく敬慕していた様子で、その謡曲指導法や人格について尊敬の念を示すことしきりです。


観世清之は四世鐵之丞の次男で、慶応元年に五十二世梅若六郎(初世梅若実)の養子となって、五十三世梅若六郎を襲名します。
しかしその二十数年の後に、家督を初世梅若実の次男に譲って梅若家を出、観世家に戻り観世清之と改名し、矢来観世家を起こしています。
明治の観世流にあって貢献大きく、明治四十二年に惜しまれて亡くなったという方。


この清之に師事して謡曲を始めたことが、萬吉氏の一生のうえでは大きな意味を持ったということですね。


良き師に出会うことが大事ということでしょうね。

年末年始の観能

能は曲毎に季節が決まっているのが通常で、流儀によって若干の違いはあるようですが、それぞれ相応しい季節に配されています。
もちろん、明確に季節に割り当てられない曲も少なからずありますが、内容から明らかにこの月と割り当てられるものもあります。


観世流の等級季節表を見ると、なんといっても多いのが三月と九月に配される曲。
演能も、この季節を尊重して行われる傾向にはありますが、かなり三月・九月に偏っているので、これでは年間の上演がうまくいきません。
実際のところは、あまりやかましいことは言わずに演じられているのが現状のように思います。


逆に流儀によっては、この曲はこの時期のこの会で、といった決まり事のようなものもあるようで、慣れてくるとこれもまた楽しみなものです。


一月はなんと言っても翁。
本来の五番立てから言えば、年のいつでも翁を演じるべきなのでしょうけれども、忙しくなった現代では、ほとんどの会が一月の公演で翁と能数番を演じる形になっています。


来年は事情あって一月初旬には出掛けることができないので、翁はお預けになりそうです。
一方、狂言ではこの時期、福の神が良く演じられます。
豆撒きをしていると福の神が現れてきますが、節分の行事となった豆撒きももともとは大晦日の行事、追儺から出たと言われていますので、年末年始の上演にはそれなりに意味がある訳ですね。

面打ちの会

とあるところで、素人の能面打ちの会が発表会を開いていまして、ちょっと覗いてみました。
かなりの数が展示されていましたが、素人とは思えないなかなかの出来映えのものが多いように思いました。


面打ちの会の展示というと、今年の夏、日立での能の会の際にロビーで展示があり、この能面を見ておられた粟谷菊生さんの姿を思い出します。
あれから間もなく体調を崩されて、帰らぬ人となられたわけですが、その日の地謡でのご活躍を間近に拝見することが出来ただけでも有り難い機会だったかと思っています。


それにつけても能面を打つというのは、どういう感じなのでしょうか。
どうも出品されているのは小面や中将、白式尉などが多かったのですが、やはり能面らしい能面を打ってみたいということなのかもしれませんね。


そんななか、蛙(カワズ)や大べし見なんていうのも一面ずつあって、これは作者としても力が入った作品なのだろうと思います。
私は、あまり図画工作の類は得意でなかったので、面打ちをしてみようという気持ちにはなりませんが、やっておられる方の話でもうかがえると面白かったかなあ、と想像しています。

五雲会を観に行く

昨年に引き続き、年末の五雲会を観に出掛けました。
思い切って二本くらい早めの電車にしたので能楽堂には10時半頃に到着しましたが、それでも既に何人か並んでいる人が・・・


年末の五雲会って、年間分で買っておいたチケットを使い切ってしまおうということなのか、なんだか混むんですよね。今日も立ち見になる状況でした。
五雲会も日によっては勿体ないくらいガラガラのときもあるのに、とは思うものの仕方ないですね。


開場まで三十分近くあったので水道橋の駅の方から直接ではなく、少し遠回りして金刀比羅宮の方から能楽堂に向かってみました。
こちら側に出演する能楽師の方が車を止めたりするので、誰かいないかな、と思いつつ歩いていくと、車のトランクを開けてなにやら覗き込んでいる人が・・・
小鼓の森澤さんが、なんだか手附けか謡の豆本のようなものを夢中で読んでいる様子。今日の演目の手を確認されていたのでしょうか。


さらに人待ち顔で立っている方の横をすり抜けて、観客の列に並んだのですが、並んでから「お、さっきの人は狂言の榎本さんじゃないか」と気付いた次第。
洋服だと分かり難いですね。


列に並んでからも通用口の方を見てましたら、近藤乾之助先生が到着。ああ、先日の姨捨、ステキでしたねえ。今日は出番はないはずですが、ちゃんといらっしゃるんですね。
続いて大藏千太郎さん、基誠さん、宮本さん、吉田さんが一団で到着。
ああ、榎本さんが待っていたのはこちらか、と思ったら挨拶をして四人が中に入っても、まだ人待ち顔の榎本さん。


さらにタクシーで善竹富太郎さんたちが到着。スーツ姿の富太郎さんと大二郎さんが荷物を下ろし、さらに和服の十郎さんがおもむろに車から降りて能楽堂に入っていきました。さすがに十郎さんの和服姿は板について貫禄がありましたが、榎本さんは相変わらず皆さんに深い挨拶をしているものの、まだ外で待っている様子。
そのうち、開場になってしまいましたが、さて榎本さんは一体誰を待っていたんでしょうね。


今日の番組は、能が、武田孝史さんの絵馬に佐野由於さんの放下僧、小倉敏克さんの富士太鼓と水上優さんの乱の四曲。
狂言は善竹富太郎さんのシテで文荷、宮本昇さんのシテで悪坊の二曲でした。


鑑賞記は明日から、のつもりですが、今年中に書き終わるかなあ・・・

絵馬 武田孝史(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2006.12.16
 シテ 武田孝史、姥 澤田宏司
 ツレ 亀井雄二 東川尚史
 ワキ 高井松男、アイ 大藏千太郎
  大藏基誠 吉田信海
  大鼓 安福光雄、小鼓 森澤勇司
  太鼓 大川典良、笛 寺井宏明


二場物の脇能ですが、前シテが老人と姥という取り合わせで高砂のような雰囲気を持っている反面、後場ではシテの天照大神がツレ神々を伴って登場し、岩戸隠れの神話を再現するなど、にぎやかな構成になっています。
しかもこの日は間狂言が大藏流なので、これまたにぎやかな次第でした。


後見が一畳台に小宮をのせた作り物を持って登場し、大小前に据えます。この作り物、絵馬用に出来ている両開きの形式で、扉には絵馬を掛ける釘が打ってあります。
つづいてワキの勅使とワキツレの従者の登場になります。
伊勢神宮に派遣されたとの名宣リの後、道行を謡い、伊勢斎宮に到着します。


ワキがワキ座に着座すると、真ノ一声でシテの老人とツレの姥が登場してきます。
この辺りはまさに脇能らしい作りで、ゆったりとした宝生らしい謡が続きますが、ワキとシテ・ツレとの問答になると、絵馬をめぐっての話が展開します。


シテは白馬、ツレは黒馬の絵馬を持っていて、それぞれに自らの絵馬を掛けようと争いますが、さて今年からは二つとも掛けて万民楽しむ世となそうと、二人共に絵馬を掛け立ち舞う型の後、シテは正中に座して居グセになります。


シテが「忍ぶ今宵のあらはれて」と謡い、「我らは伊勢の二柱」と二人共にワキに向かい、「夜も明けゆかば内外にて。待ち得てまみえ申さん」と立ち上がって中入りになります。
シテは来序で中入りし、ツレも続いての退場です。


つづきは明日に

にぎやかな間狂言・・・絵馬のつづき

シテ、ツレが退場すると囃子が狂言来序になり、アイの蓬莱の島の鬼達が登場してきます。和泉流では末社の神の立ちシャベリが常の形ですが、今回は大藏流なので千太郎さんをはじめ基誠さん、吉田信海さんがにぎやかに登場。
絵馬の謂われを語って、謡い物で宝物を打ち出すという、にぎやかなアイです。


鬼の面をつけ、きらびやかな衣装で三人が登場。
先頭の千太郎さんが肩に大きな槌を担いでいます。面はつけているのですが、背の高さで千太郎さんと基誠さん、吉田さんと分かってしまいますね。
蓬莱の島の鬼が持った三つの宝、隠れ蓑に隠れ笠、そしてこの打出の小槌を打って宝を出そうと、千太郎さんが謡います。
この最後の謡は、狂言「宝の槌」で太郎冠者がすっぱに教えられる謡い物と同じですね。


後場は出端にて後ツレ天鈿女命、後ツレ手力雄命、そして後シテ天照大神が登場します。
シテの天照大神は男神での登場です。


実はこの曲、流儀による違いが大きくて、この宝生流では後シテを男神としていますが、観世流では女神になっています。
たしか喜多流も男神、一方金剛流は女神だったかと思います。・・・金春流はこの曲を現行曲にしていませんね。


男神と女神では随分と違うようですが、この神様が男体であるのか女体であるのかというのは、現代の私たちと中世の日本人とではかなり感じ方が違ったのではないかと思われます。


というのも、例えば三輪は後シテが女神として登場しますが、三輪明神は男神で、だからこそ倭迹迹日百襲姫命との伝説も成り立つわけです。
また葛城も本来男神のはずですが、シテは女神として登場します。こうしたことからみても、どうも神様は男でも女でも良いのかも知れない・・・と、思えてしまいます。


さらに明日につづきます

神舞か中ノ舞か・・・絵馬さらにつづき

後シテは颯爽と神舞を舞います。
これは良い舞でした。私が神舞好きというのはありますが、スッキリとした舞で脇能らしい神々しさがあります。


観世流では女神なので、ここは太鼓入り中ノ舞を舞うところ。確かに流儀が違うと全然違います。ツレの両人も観世流なら床几に腰を下ろすところでしょうけれども、下居の形です。
舞上げたシテは、自ら作り物の扉を開き中に隠れてしまいます。岩戸開きの再現という趣向ですね。
ツレの二人が立ち上がって神楽の相舞となりました。二段神楽ですかね。
天鈿女命が御幣を、手力雄命が榊を持つのは観世流も同じですが、天鈿女命が先に神楽のうちの純神楽の部分を舞い、直りの部分は手力雄命が舞うわけで、随分違う演出になっています。
このお若い二人の神楽の相舞もなかなかに良い舞でした。


シテが作り物の中から謡い出し、扉を細めに開けたところに、ツレの二人が手を添えて岩戸開きを表します。作り物を出たシテは常座で拍子を踏んで留めになります。
武田孝史さんは昨年の大会以来ですが、良い能を見せて頂いた・・・と思います。


ところで余談ですが、ワキの勅使の名宣リに「大炊の帝に仕へ奉る臣下なり」とあります。観世の本では「當今に仕へ奉る」となっていますが、両方の流れがあるようです。
この「大炊の帝」ですが「大炊の王」といえば淳仁天皇のこと。孝謙天皇から皇位を譲られ四十七代の天皇となったものの、藤原仲麻呂と弓削道鏡の争いに巻き込まれ、皇位を廃され淡路に流されています。
淳仁天皇の諡号が贈られたのは明治になってからで、長く天皇とは認められていませんでした。


この天皇の名をわざわざ持ちだしたのはどういう由来によるのか、よく分かりません。しかし淳仁天皇は崇徳天皇とともに、明治天皇が孝明天皇の遺志を継いで創建された白峯神宮に祀られており、その白峯神宮が蹴鞠の神様としてサッカーファンなどの信仰を集め、サッカーにちなんだ巨大な絵馬が奉納されているのも、何かの縁かも知れません。
(85分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

宝生夜能を観る

今年最後の出張で、思いのほか用事が早く終わったこともあり、宝生夜能を観に行ってみました。
実は昨年の12月も、最後の出張がちょうど水曜日だったため、宝生夜能を観ていまして、いやああれから一年経ったのか、という感じですね。


今日は大友さんの経政と波吉さんの龍田、狂言は吉次郎さんのシテでお茶の水という番組。


経政は小品ですが好きな曲です。シテの所作の面白さももちろんですが、謡も気に入っています。
龍田は神楽が観られるということで、これもお楽しみ。


それぞれに楽しみました。
見所も夜能としてはまずまずの入りでしょうか。
終演予定が8時35分になっていたのですが、ちょっと延びまして40分過ぎ。この数分のために特急一本に、乗り遅れました。ま、楽しんでいたので仕方ありませんね。


そんなわけで11時過ぎに帰ってきまして、今、一息ついたところです。
そのため、本日は観能記はお休みです。夜能の鑑賞記は五雲会の鑑賞記の後に続けるつもりですが、いよいよ今年中は無理のようですね・・・

文荷 善竹富太郎(五雲会)

大藏流 宝生能楽堂 2006.12.16
 シテ 善竹富太郎
  アド 善竹十郎 善竹大二郎

文荷も割と上演の多い狂言です。
話の筋としては、主人から文を届けるようにと命じられた太郎冠者と次郎冠者が、届ける途中で手紙を盗み見ようとした末に、手紙を破いてしまい主人に怒られるという、どこにでもありそうな話です。
もちろんそれに加えて、太郎冠者と次郎冠者が互いに相手に手紙を持たせようと押しつけあって、結局、竹の棒の真ん中に手紙を結び付け担いでいくという、なんともユーモラスな味付けもされています。

ですが、この狂言なかなか意味深で、よくよく台詞を聞いてみるととても面白い。
まずは主人が登場して太郎冠者と次郎冠者と次郎冠者を呼び出します。
主人は文を取り出して、これを「彼の人」の方(カタ)へ持って行けと言いつけます。問題はこの「彼の人」と主人の間柄。
どうやらこの手紙は恋の手紙らしいのですね。それがこの曲のテーマになっています。

太郎冠者と次郎冠者は、手紙を相手に持たせようと押し付け合いをしたり、竹の棒に下げても、手紙を下げただけなのに「重い文ではないか」と大騒ぎし「恋の重荷」ではないか、などと謡曲「恋重荷」の一節を謡ったりするわけです。

さてこの二人のその後は明日に

文担のつづき

重いと言って、文を下ろして座り込んだのに、太郎冠者は今度は文を見たいと騒ぎ出します。
次郎冠者も止めもせず、早速に太郎冠者は文を開けて、読み上げる始末。
「この節の言の葉は嬉しうこそ候へ。物に例えなば、海山(ウミヤマ)、海山、海山・・・」と海と山が沢山書いてあるので「重い」と言って、次郎冠者と二人で大笑い。
今度は次郎冠者が読むと言って手紙を取り
「ただ明けてもくれても、ただ恋し、恋し、恋し・・・」いかに小石でも、こんなに沢山あっては重いはず、とまたまた二人で大笑い。

二人交代に読んでいる内は良かったのですが、終いには手紙の取り合いになってしまいます。
この二人の奪い合いもなかなか見物ですが、結局は手紙は破れてしまいます。

この破れた文で、またまた太郎冠者と次郎冠者は戯れ合います。
「賀茂の河原を通るとて・・・風の便りに伝え、届けかし」と謡いながら、ちぎれた文を扇で煽ぐという趣向。もちろん「風の便り」文字通りにパロディ化したわけで、なかなかのセンスです。

最後は主人が出てきて追い込みになりますが、先に次郎冠者が退場してしまっても、太郎冠者は破れた手紙を集めていて、主人に「これがお返事でござる」と差し出し、また一つ戯れて追い込まれます。

良く演じられる狂言ですので何度も観ていますが、今回の善竹富太郎、大二郎のお二人の掛け合いは抱腹絶倒。今まで観た文担でも出色の出来だったように思います。見所も笑いに包まれた感じでした。

ところで主人の手紙の相手、今回は「彼の人」でしたが、「左近三郎殿」あるいは「千満殿」など、男性名の上げるのが古い形のようです。室町から戦国時代にかけては衆道も一般的だったようで、そうした当時の雰囲気が伝わってくるようですね。
(20分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

萠の会を観に行く 鸚鵡小町と狂言遊宴、岩船

さる方のご厚意により、本日、萠の会を観に宝生能楽堂へ行ってまいりました。
今回は主催の浅井文義さんが鸚鵡小町をされ、また、常の狂言に代えて「狂言遊宴」という新しい試みが演じられました。
さらに鈴木啓吾さんのご子息の颯矢クンが岩船で初シテを勤められるという記念すべき会。
浅井さんのお父様の三十三回忌ということで追善の形になっていましたが、会場はなんとなく浮き立つような雰囲気でした。


いずれ各曲の解説や個別の鑑賞記も書くつもりでいますが、今のところ、先日の五雲会と、その後の宝生夜能の鑑賞記がまだ終わっていませんので、その後、おそらく来年になってから書くことになろうかと思います。気になったところは今の内にメモだけでもしておこうか、と思っています。


そういうわけで、今日の所は個別の曲にはあまり立ち入りませんが、鸚鵡小町について言えば、思いのほかに面白かったという印象です。
浅井さんなりの解釈だそうですが、あるきっかけから(いずれ鑑賞記の中で書くつもりですが)小町を腰の曲がった老婆ではなく、姥ではあるものの、もう少し若く表現をされていました。
これがなかなかに良かった感じです。
詞章や型付けから考えると、いささか消化し切れていない部分もあったように思いますが、全体としては、悲しい中にも老女の毅然とした姿勢が見えるようで、良い印象でした。


狂言遊宴は、能の一部や、狂言の小歌、さらに鎌倉期に流行ったという早歌などによって構成されたもので、これも細かくはいずれ鑑賞記に書こうと思いますが、とても面白い試みと思いました。
盛久の道行を謡いながら登場してきた一同が、舞台を囲んで宴会のような形で座り、早歌や鞨鼓の舞、小歌など、芸事を交代で見せつつ宴に興じるような構成になっていました。
芦刈の笠の段や放下僧の小歌などを観ていると、能楽大成前の中世芸能を、当時の宴席に同席して楽しんでいるような錯覚を覚えました。


最後の岩船は、シテが鈴木颯矢クン。子方で観たことはありますが、初シテということでおめでたい限りです。
対するワキも宝生朝哉クン。なんと閑先生がワキツレでお出になって、お孫さんの助演。
銕之丞さんの地頭で、囃子方もそうそうたる面々。
こんな風にして、芸というのは伝承されていくのだなあ、としばし感慨に浸りました。


良い機会を得たと、さる方にも感謝しております

放下僧 佐野由於(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2006.12.16
 シテ 佐野由於、ツレ 大友順
 ワキ 宝生欣哉、アイ 大藏教義
  大鼓 高野彰、小鼓 幸正昭
  笛 藤田貴寛


これは敵討ちと芸尽くしを組み合わせた、望月にも通じる曲。割と好きな曲の一つです。前回見たのも五雲会、波吉さんのシテでした。


さて舞台は、まず最初にツレの牧野の小次郎が登場します。ツレの大友さん、美形でらっしゃるので直面のツレは適役かもしれません。
小次郎の父、左衛門某は、相模の国の住人利根の信俊と口論の末に殺されてしまっています。この父の敵を討つ相談のために、出家している兄を訪問するという設定。
常座での名のりの後、一ノ松へ向かい幕内に向かって呼び掛けます。


シテ小次郎の兄が登場し、三ノ松でツレと応対します。
そうなんです、謡曲には兄の名前がありません。小次郎の兄という次第。能の登場人物の名前には、こういう不思議な例が少なくありませんね。
砧では、ツレの侍女には夕霧と名前がありますが、シテは芦屋の某の北の方となっています。曲名も、望月のように敵討ちで討たれる方の名前が曲名になっているなど、どうも現代の感覚とは異なる部分がありますね。


それはさておき、シテの兄は幼少より出家の身であると、敵討ちを一度は断ります。しかしツレの説得で心を決め、放下に変装して敵に近づこうという相談がまとまります。このやり取りはシテとツレの詞でつなぐ訳ですが、佐野さんの詞には深みがあります。
節付けのある謡の部分はもちろんですが、詞の部分にもどのような思いを乗せるのか、重要なところと思います。
先日、近藤乾三さんの随想をまとめた本に目を通していましたら、この詞の部分が大事なのだという話を書いておられましたが、まったく同感です。この近藤乾三さんの本の話はいずれ鑑賞記が終わったら、ちょっと書いてみたいと思っています。


放下というのは南北朝時代からの半僧半俗の遊芸人で、様々な芸を見せた、今で言えば大道芸人といったところでしょうか。僧形の場合と俗体の場合があったようで、この能では兄が僧形の放下僧に、弟が俗体の放下に扮することにして、中入りとなります。
このつづきはまた明日に

敵(カタキ)の登場・・・放下僧つづき

シテ、ツレが中入りすると、代わってワキ利根の信俊とアイの従者が登場してきます。ワキは笠を着けていて、この笠が後の小道具として活きてくる訳ですね。
ワキは常座で次第を謡った後に「われうち続き夢見あしく候ふ程に。瀬戸の三島へ参らばやと存じ候」と述べ、三島明神に参詣することにします。


この日の笛は藤田貴寛さん。お若いだけに力の入った笛で、次第のアシライでもメリハリの利いた演奏でした。放下僧のワキの出でもあり悪くないと思います。3月の五雲会での胡蝶の時はどうだったかなあ、さすがにもっと柔らかい吹き振りだったように思いますが・・・


さて瀬戸の三島というのは現在の瀬戸神社、横浜市金沢区にあります。伊豆三島明神すなわち三島大社から源頼朝が勧請して創建された神社と言われています。


ワキは、存ずる子細があるので道中我が名字を言うなアイにと命じて、ワキ座に座します。
アイは常座に残りますが、放下が来るというのを聞きつけ、ワキに呼び入れようと言上します。けれども慎重なワキは無用にせよとアイを止める次第。
アイの教義さん、放下を見たくてたまらない雰囲気が強く出ていた感じがします。


そういう訳で止められたものの「面白う狂ふ」と聞いて、アイは自分の計らいで放下を呼ぶことにし、後シテ、後ツレの登場となります。
シテは僧形で竹に白垂れと唐団扇を結び付けた柱杖(シュジョウ:柱は本当は手偏に主と書きます)を持ち、ツレは烏帽子を被って弓矢を持っての登場になります。


二人は橋掛りでの謡の後、アイとの問答になりますが、アイが二人の名を問うたのに対しシテ、ツレそれぞれともに「浮雲流水」と答えます。
二人とも風雲流水ではおかしかろうというアイの問いに、シテは自分が浮雲でツレが流水と、妙な説明をし、逆にあのお方の名は誰かと問います。
アイは「相模の国の住人利根の信俊」と言ってしまってから、あわてて口を手で押さえて「ではおりない」と続けますが、これは望月と同じですね。
この一連のやり取りは、なかなか面白くできています。


アイから事情を聞いたワキは対面に同意しますが、笠を深く被り扇を広げて顔を隠しながらワキ座に立ちます。
いよいよ緊迫した場面となりますが、このつづきはまた明日に

放下僧さらにつづき

シテ・ツレとワキの対面からは、芸尽くしから敵討ちへと展開するわけですが、まずシテ・ツレとワキとの問答になります。
まずはワキの問いに答えて、柱杖につけた団扇や、ツレの持った弓矢について言葉面白く説明をします。
これにつづく地謡に「はなさぬ矢にて射る時は」とあり、ここでツレはワキに向かって弓を引こうとしますがシテが押しとどめる形。


この際、捨てた弓矢が舞台から落ちてしまいまして、例によって後見が取りに来たのですが、正面に落ちたと思ったあたりに見つからず、一端退場。
再度登場し、一ノ松近くに落ちていたものを回収して、退場しました。
私はよく見ていなかったので、どこにいったものか見落としてしまったのですが、張良の沓なども舞台から落ちやすいですね。


この後、ワキとシテ、ツレの宗教問答になります。この問答自体も芸の内という扱いですね。なかなか面白いやり取りです。
そしてワキの「さて向上の一路はいかに」の問いに、ツレは「切つて三断と為す」と答えて刀に手をかけ緊張が走ります。ワキも笠と扇を落として身構えますが、望月の子方の「いざ討とう」と叫ぶところと似た形ですね。


この緊張はシテの取りなしでほぐれ、シテの語り舞い、クセに移ります。
さらにアイのすすめでシテは鞨鼓をつけ、舞いに入ります。
佐野さんの舞、なんとも安定感のある足捌きです。望月では子方が鞨鼓を舞いますし、花月など、よく少年が演じる曲で鞨鼓が舞われることが少なくないのですが、まさに「大人の鞨鼓」で面白く見せて頂きました。
鞨鼓を舞い上げると小歌。これは室町時代に流行った俗謡の小歌をそのまま取り込んだものと言われていて、放下僧と花月にありますが、独特の拍子当たりで私は好きな一節です。


アイは鞨鼓に入る前に退場してしまいますが、ワキもこの小歌のうちに「げにまこと」と謡うあたりで笠を残して切戸口から退場します。望月の観世流の形と同じですね。
そして残された笠を敵に見立てて、シテとツレが二人でこれを突き、シテが左手で笠をはね除けて敵討ちを果たしたという次第になります。
(65分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

富士太鼓 小倉敏克(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2006.12.16
 シテ 小倉敏克、子方 佐野幹
 ワキ 宝生閑、アイ 大藏吉次郎
  大鼓 柿原光博、小鼓 大倉源次郎
  笛 一噌庸二


いやあ富士太鼓を観るのは本当に久しぶり。そんなに珍しい曲でもないのですが、前回は一体いつ観たことか、誰がシテだったのかもまるで思い出せません。


さて最初に作り物の鞨鼓台が運び出されます。これがこの曲の主題でもある「太鼓」という設定。たしかに括り付けられた鞨鼓は小さいものの、なんとなく雅楽の太鼓の雰囲気はでますね。


そして名宣リ笛でワキがアイの従者を従えて登場します。
ワキは萩原の院の臣下と名乗ります。萩原の院、花園天皇ですね。鎌倉末期の天皇で萩原仙洞に住まわれ、後に出家されたことから生前は萩原法皇と称されたと言われています。この花園天皇の次の天皇が後醍醐天皇。花園天皇は退位後、後の光厳天皇の養育に努められたと伝えられていますが、光厳天皇は北朝初代の天皇。まさに南北朝動乱のはじめの頃の方ということです。


さてこの富士太鼓では、浅間と富士という、まさに山の名前のような二人の楽人の争いというのが話の前提になっています。
実はこれについて、喜多流の粟谷明生さんがブログに興味深い話を書いておられます。


名宣リの後、ワキは常座で、宮中の太鼓の役に天王寺の楽人浅間が召されていたところ、住吉の楽人である富士が太鼓の役に志願して推参し、これを憎んだ浅間が富士を殺してしまったと語ります。
粟谷さんは、富士と浅間は太鼓の役を争うものの勝ったのは浅間。にも関わらず勝った浅間が負けた富士を討つのはなんとも妙な話だと、常々思っておられたとのこと。
それが、ある時アイの語りを聞いていて納得できたという話です。


さてそれでは、つづきはまた明日に

富士の妻子・・・富士太鼓つづき

さて、富士と浅間の諍いの子細を述べたワキは、アイに富士の縁者がやって来たら知らせよと命じてワキ座に着きます。


次第の囃子が奏されて、子方とシテの富士の妻が登場してきます。
子方は富士の娘という設定。佐野幹クン、五雲会ではお馴染みの子方ですがさすがに場慣れしている感じで安定感があります。私もこの二年ほどの間に四度ほど子方をみていますが、将来が楽しみですね。


シテは子を先に立てて橋掛りを進み、途中で立ち止まり向き合って次第を謡います。さらに夫が上京した夜に不吉な夢を見たので、思い立って上京したといい、途中に男山八幡に祈りをかけて都に到着します。


シテは一ノ松あたりから案内を乞い、アイがワキに取り次いでシテは常座へと進みます。


このアイの語りの中で、富士が浅間に対して無礼に働いたことが述べられます。
これが勝った浅間が負けた富士を討った本当の理由ということですね。


ワキは立ち上がり、富士が討たれたことを告げますが、シテは夢のとおりと悲しみにくれるわけです。とは言え、もはや嘆いてもかえらないこと、ワキは富士の形見と、鳥兜と舞衣をシテに手渡します。


鳥兜と舞衣は楽人の着するものですが、私、鳥兜というのはこういうものかと認識したのは、何十年か前にこの富士太鼓を初めて観たときだったと記憶しています。が、そのときのシテが誰だったのか、どこで観たのか、残念ながらすっかり忘れてしまいました。


さてこのつづきはまた明日に

楽を舞う・・・富士太鼓さらにつづき

さて、シテは渡された形見の鳥兜と舞衣を手に持ち、夫の死を嘆き悲しみます。
が、やがてこの夫の形見を身に付けてみるのです。


この女が男の形見を身に付けるという形、井筒をはじめいくつかの曲に見られますが、女が男の姿をするということに、深い意味を込めていたのだろうと思います。


富士の形見の鳥兜と舞衣を身に付けたシテは、作り物の太鼓を見、夫の敵とばかりに作り物を討とうとします。
子方がこれを止めようとしますが、夫の死も太鼓のせいとのシテの言葉に、子方は撥を持って太鼓を打ちます。打つといっても撥を持った右手を上げたまま、打つ形をとりつづけます。案外きつい形だと思うのですが、幹クン綺麗な形のまま静止していました。


さらに気持ちの高ぶったシテは、亡き夫の例が乗り移った風で狂乱し、子方から撥を取って自ら太鼓を打ち、そして楽を舞う訳です。
楽にも太鼓入りの楽と太鼓無しの楽がありますが、この曲では太鼓無しの楽。
太鼓への怨みから狂乱したシテが舞う楽に、太鼓が入らないというのも、また深い意味がありそうです。
小倉敏克さんのシテはあまり拝見していないのですが、深みのある「楽」でこの曲の風情をうまく表しておられるように感じました。


狂乱のままに楽を舞終えると、夫の霊はシテを離れた風情。
しかし今度は亡夫を思う妻の立場に立ち返って、怨みを持って太鼓を打ち、また夫の姿を思い出して涙にくれます。


こののち、修羅の太鼓は打ちやみぬ、として千秋楽、太平楽を打ち、心も晴れて鳥兜と舞衣を脱ぎ、住吉へと帰っていくという構成になっています。
(70分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

大晦日にひとこと

穏やかな年の暮れとなりました。
今年、私の観能に関係しては、この「能の花 狂言の花」のブログを開始したことが一番大きな変化かも知れません。


今年の観能は、能が六十五番、狂言が二十九番。
能では観世二十二番、宝生十八番、金春十二番、金剛七番、喜多六番。結果としてはやはり観世流が多かったということですね。
観世の場合、宗家に近い先生方のほか、銕仙会や九皐会など、各系統毎に演能の会が催されるため、まず演能回数が多いのが一番ですね。個人の会も多いですし。


一年を振り返るとそれぞれに面白く、また感慨深い能ばかりでしたが、今年の一番としては浅見真州さんの融十三段之舞でしょうか。すごいの一言以外に表現すべきものが思いつきません。
もちろん観世金剛金春宝生と四流で観た山姥や、帰り道に思わず涙が出てしまった関根祥人さんの巴、そして巻絹。本田光洋さんの田村白式、今井清隆さん玉葛と采女。さらには粟谷家の皆さんの羽衣花月黒塚など気迫のこもった能。
いやこうして数え上げると、結局全部になってしまいそうです。


狂言は大藏十五番に和泉十四番。ほぼ均等に見た感じです。
こちらもそれぞれに面白く拝見しました。こちらでは善竹富太郎、大二郎兄弟の文担が一番に印象に残りましたが、狂言もまた一番一番それぞれに面白く拝見したところです。
さて来年はどうなるか。


諸般の事情で、一月、二月の観能はいささか抑えめにならざるを得ないので、春先あたりから本格的に・・・と思っています。
いずれにしても来年も一番一番を味わっていきたいと思っております。


本年中にこのブログをご訪問頂いた皆様には大変ありがとうございました。
お陰様で6月の開設以来9千を超えるアクセスをいただきました。
どうか皆様も良いお年をお迎え下さい。

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