能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

弱法師 守屋泰利(金春会定期能)

金春流 国立能楽堂 2007.01.21
 シテ 守屋泰利、ワキ 工藤和哉
  アイ 善竹大二郎
   小鼓 野中正和、大鼓 上條芳暉
   笛 寺井宏明


この弱法師(ヨロボシ)という曲、実に味わい深い曲ではあるのですが、なんだか腑に落ちないところが無いでもありません。


いやこの曲に限らず、親子の再会物全般についてそう思うのですが、出会っても相手が探す当人とは気付かずに遣り取りをします。しかし実際にそんなことってあるんでしょうかねえ。
この弱法師でも、ある人の讒言で子の俊徳丸を追い出したものの、子の二世安楽を願って天王寺で施行をし、その満参の日に当の俊徳丸が盲目の身となって弱法師と呼ばれる姿となって現れるわけです。
しかしワキの語りで明らかなとおり追い出した翌年のこと、いくら盲目になっているとはいえ気付かないものなのか、と思うんですよねぇ。


もっともこの曲、元雅の作ということになっていますが、世阿弥が手がけたものがあり、そこには俊徳丸の妻がツレとして登場するとか。
そうなると俊徳丸の追放から再会までには相当の年月が経っていると感じられるので、違和感も薄らぐかなあと思う次第です。


実のところこの俊徳丸については、能楽以前にいわゆる俊徳丸伝説があって、説教節などにも取られていますが、長者の息子俊徳丸が隣村の長者の娘と恋に落ちたものの、継母の呪いがもとで失明し家を追い出されてしまうという話。
幸い長者の娘が物乞いとなっている俊徳丸を捜し出し、観音の仏力によって盲目も癒えて継母を倒すという、めでたしめでたしの話になっているそうです。


これを精神性の高い味わい深い曲に仕立てる中で、恋仲の話ではなく親子再会の話にすり替えたのはたのは世阿弥、元雅の思想でしょうけれども、確かに恋仲から親子再会に替えることによって、話が感情的なものから精神的なものへと昇華されている感じがします。親子再会そのものがテーマなら、例えば俊徳丸を落魄した中年とでもした方が再会のインパクトが高まりそうな気もしますが、親子再会は作能の上では目的ではなくて手段だったということでしょうか。


さて曲の流れは明日につづきます。

スポンサーサイト

弱法師のつづき

名ノリ笛で素袍姿のワキ左衛門尉通俊が従者を連れて登場します。
人の讒言によって我が子の俊徳丸を追い出したものの、憐れに思えて天王寺で七日間の施行をすることとし、今日も施行を行うと述べてワキ座に着きます。
間狂言は天王寺あたりに現れる弱法師という盲目の物乞いの話をしますが、施行の触れをするように命じられ、舞台中央で触れを行い切り戸口から退場します。


するとシテ弱法師が杖をついて登場し、橋掛りを進んで二ノ松あたりで一セイ、サシと我が身の不幸を謡います。
足の運びがいかにもヨタヨタと盲目の風を出していました。シテは謡いつつも舞台に入り、シテ柱を杖で一叩きし天王寺の石の鳥居かと、シテ柱をすり抜けるように常座に進みます。


ワキはこれこそ話に聞いた弱法師かと、シテに問いかけて、シテ、ワキの問答にと展開していきます。
梅が咲いており、この花を巡っての掛け合いでは高砂の詞章を引いて、花を袖に受けるもさながら施行と謡が展開していきます。


こうした謡曲の詞章の展開を聞いていると、日本語、日本文学の奥の深さのようなものをつくづくと感じます。
中学だったか、高校だったか、初めて隅田川を謡曲として読んだときに、つづれ織りと言ったらいいのか、言葉が織りなす面白さに引き込まれてしまったことを思い出します。


さてこの後、クリ、サシ、クセと天王寺の縁起が語られますが、クセは居グセ。ずっと座したままで、最後は合掌して留める形になっています。
このクセが終わると、ワキは我が子と気付いたものの、人目もあるので夜になってから高安に連れて帰ろうと述べ、シテに対しては「日想観の時節なり。急いで参らせ候へ」と呼び掛けます。
この日想観のくだりは弱法師のハイライトの一つ。このつづきはまた明日に

弱法師さらにつづき

さて日想観を拝むよう促されたシテは「東門を拝み南無阿弥陀仏」と笛柱の方を向いて膝をつき、これに対してワキが「こゝは西門石の鳥居よ」と咎めますが、シテは驚かず「あら愚や天王寺の西門を出でて極楽の東門に向ふは僻事か」と返し、掛け合いから地謡の「入り日の影も残るかや」でイロエに進みます。


他流ではシテ・ワキ掛け合いの謡から、シテの「あら面白や、我盲目とならざりし昔は・・・松風吹き永夜の清宵何のなすところぞや」のやや長い謡の後にイロヱとなりますが、金春ではこのシテの謡の手前にイロヱが入って「あら面白や」と胸杖をする型になっていますね。昨年観た忠度でも、カケリの位置が他流とは異なっていましたが、このあたりは金春流の独自の主張ということでしょうか。


さらにシテは盲目ながらも、かつて見慣れていた難波の景色を心眼で見ることが出来ると舞謡います。
「おう 見るぞとよ見るぞとよ」とシテが満目青山を心に見るところは、見所も一体に引き込まれる部分。シテの心情が伝わってくる感じを受けました。


しかしつづく謡で、盲目の悲しさで人に突き当たり、転び漂いと杖を捨てて安座の形。さらに杖を持って立ち上がったものの、後へ下がって正中に着座します。弱法師ではシテの杖のつき方が話題になりますが、この日の守屋さんはずっと胸に構えたままで、ついたのは「この盲目の悲しさ」のところだけでしたね。


さてワキはシテに近づいて、自らの名を明かし親子再会となるわけですが、シテは「親ながら恥かしとてあらぬ方へ逃げ行けば」と逃げようとします。
しかしワキが追いついてシテ俊徳丸の手を取り、シテはこれを受けて先に退場。ワキが留の拍子を踏んで終曲となります。
趣の深い曲でシテも好演だったと思いますが、いささか地謡が乱れた感じがして残念でした。


附祝言は一曲目が高砂だったので嵐山。なんで「千本」を「ちもと」って読むんだろう、などと思いつつ、今年最初の観能を終えました。
(60分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

観世会定期能を観に行く

本日は久しぶりの観世会。
暖冬のせいか気持ちまで緩んでしまって、スキーに出掛ける気にもならず、二月最初の観能は久しぶりの観世会にしてみました。


先月の金春会でも拝見した弱法師を梅若吉之丞さんが小書き付きでなさるし、昨年から気になっている能楽師 武田尚浩さんの二人静、さらに観世芳伸さんが現在七面をされるということで、これはちょっと面白そう・・・というところです。


朝が、いささか早く出かけなければならないので大変なのですが、天気も良いし気分も上々。
気持ちの良い観能になりました。


弱法師はついこの間見たばかりなだけに、流儀による違いもより鮮明な印象になりました。
これは良い能だよなあ、と常々思います。
学生時代にとあるところでこの弱法師を見た後に、たまたまご一緒した方が「この能を観るたびに泣けてしまって」とおっしゃっていましたが、本日は私も、不覚にもハンカチおじさんになる羽目に。
いや、なかなか良かったです。


二人静も良い能なんですよね。
シテとツレが同じ装束で序ノ舞を相舞するという、珍しい曲。
学生さんも、二人静の仕舞を自演会で上演したりする場合がありますが、なかなか揃いませんね。


現在七面はいささか珍しい曲ですが、案外面白く拝見しました。


いずれにしても鑑賞記は明日から少しずつ書いていこうと思います。

弱法師 盲目之舞 梅若吉之丞(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2007.02.04
 シテ 梅若吉之丞、ワキ 宝生閑
  アイ 大藏彌太郎
   大鼓 國川純、小鼓 亀井俊一
   笛 内潟慶三


「梅若吉之丞さんて一体どういう方なんだろうか」と、このところ気には、なっていたんですね。
相応のお歳だし、流内での扱いもそれなりの感じなのですが、その割にはあまり聞いたことのないお名前のような感じでして・・・そもそも梅若を名乗る方たちの多くがどういうご関係なのか、いささか分かり難いのも確かです。


そんな訳で、あちらこちらと調べてみたところ、梅若盛義さんが5年ほど前に吉之丞を襲名されたということが解りました。先代猶義さんの長男で、三世万三郎とは従兄弟同士になる方。吉之丞さんの襲名に合わせて、ご子息の盛彦さんが猶義を襲名されたんだそうです。
もともと吉之丞家というは江戸時代に梅若本家から分かれた家だそうで、長く絶えていたのを初世万三郎が相続したままになっていたらしいのですが、この吉之丞を継がれたということなんですね。


その吉之丞さんのシテで弱法師。
つい先日、金春流守屋泰利さんの弱法師を観たばかりですが、今回は観世流、しかも盲目之舞の小書き付きですので、そのあたりの違いなども注意しながらの鑑賞となりました。吉之丞さんのシテは初めて拝見しましたが、良い舞台だったと思います。
・・・はからずも、ハンカチおじさんになってしまいました。


さてまずはワキの左衛門尉通俊が従者を連れて登場し、人の讒言によって我が子俊徳丸を追い出したものの、憐れを覚えて天王寺で一七日の施行をするという名宣リ。
ワキとアイの従者による場面設定の形ですね。


ワキの閑さんは素袍、従者の彌太郎さんは長裃に扇を持っての登場です。
ワキの名宣の後に触れをするように命じられたアイは、舞台上で左右に触れをした後、笛座前に着しました。
先日の守屋さんの時はアイが善竹大二郎さんでしたが、触れをした後はそのまま静かに切戸口から退場しました。同じ大藏流ですから、この違いはもっぱらシテ方の流儀の違いによるということでしょうね。この後も終曲までアイの絡みがあります。


さてこのつづきはまた明日に

弱法師つづき

ワキ、アイが着座すると、一声の囃子でシテの弱法師が登場してきますが、このシテの身の上をどうとらえるか曲調が大きく変わってきますね。
落魄の身となった俊徳丸の不幸を中心に据えていくのか、身は盲目の物乞いとなりながらも育ちの良い少年の朗らかさのようなものを出すのか、あるいは物狂い、遊狂といった面を強調していくのか。
解釈は様々でしょうけれども、それぞれに一理あります。


今回の吉之丞さんの弱法師は身の落魄を嘆く俊徳丸の辛さが表されていたように感じます。
一セイ、サシの謡は、先日の守屋さんは二ノ松まで出てきて謡いましたが、今回は三ノ松あたりでの謡。この位置関係も微妙に曲調に影響するような感じがします。
(一般に観世流は三ノ松あたりでの謡になるようですが・・・)


一セイ、サシの後、下歌、上歌と謡が続きますが、観世流ではこの上歌までシテが謡いきります。かなり長い謡で息が大変なところ。
この後半でゆっくりと歩みを進めて橋掛りを進みます。


守屋さんの弱法師はいかにもヨタヨタと盲目の風情を出した運びで、杖は突かずに胸に構えたままでした。一方、この日の吉之丞さんの運びは一足毎にゆっくりながらも、ヨタヨタした風ではなく、逆に杖を左右に突きながら進む形。
(私としてはこの方が見慣れた型ですが・・・)


シテ柱のところで「天王寺の石の鳥居か」と鳥居をくぐる形で常座に進みますが、守屋さんはシテ柱を杖で一叩きしたのに対して、吉之丞さんは柱に身を擦りつけるようにして、一度間を取り常座へと進みました。それぞれのねらいの違いが出ていたように思います。


梅花を巡ってのシテ・ワキの問答から地の上歌へとつながる一節では、花の香りに俊徳丸の世界が広がる感じを受けました。「や、花の香の聞こえ候」の一句は実に風情のある柔らかな言い回し。
この後、地謡の「花をさえ受くる施行の色々に」の打切で、ワキがまず弱法師に近づいて広げた袖に扇で施行する型、さらに笛座前に座していたアイも立ち上がって施行し、今度は狂言座の方に着します。


さてこのつづきはまた明日に

弱法師さらにつづき

今回の盲目之舞の小書では常のイロヱに替えて中ノ舞が舞われます。この小書は観世流のみ。他流でも舞入として破ガカリの中ノ舞が舞われる小書があるようなのですが、残念ながら観ておりません。
この盲目の弱法師が、どういった舞を舞うべきなのか、これはなかなかに難しいところと思います。イロヱなら舞台を一廻りする程度のことで次のクルイへ向けて俊徳丸の心中が徐々に昂ぶっていく様というところでしょうけれども、ある程度の長さのある舞になってしまうと、どういう心持ちで舞うのか、シテの技量をいっそう問われるところと思います。


まずは花を巡る謡からクリ、サシ、クセへと進みます。
シテは常座へ行き、クセの最後「皆成仏の姿なり」と後見座に後ろを向いてクツログ形になりますが、このシテの後ろ姿を見ながら、ワキが立って正面へ「あら不思議や」と述べる形。我が子と気付いた訳ですが、なかなかに趣のある場面。


そしてこの曲の中心ともなる日想観へと進みます。金春では「東門を拝み」と笛座の方を拝みましたが、今回は常座の少し手前あたりで、下居して揚幕の方を拝する型になっています。


さらにシテ・ワキの問答のうちに、シテの情が昂ぶって「入り日の影も舞ふとかや」の地の謡で橋掛りへ入り、中ノ舞へとつながっていきます。橋掛りから舞い始めますが、中ノ舞と言っても、杖を左手に持ち替えて突きながらの舞。いわゆる中ノ舞とは型も変わっていて、途中で舞上げてしまいます。
「いまハ入日や落ちかかるらん」と見込んだ型では、心眼に入日が映る様が感じ取れるようでした。「満目青山は心にあり」と扇を胸に納め「おう見るぞとよ」というあたりから、私の方は涙腺が緩んでしまいまして「貴賤の人に行き逢ひの」と角へ手をのべつつ進むあたりは、にわかハンカチおじさんになってしまいました。


父であると名のったワキとのやり取りは、地の謡にのせてシテとワキが所作を見せますが、ワキの宝生閑さんが慈愛と喜びを感じさせる立ち姿で、大変印象に残りました。


あまり時日を置かない間に、別な流儀で、かつ小書の無いもの、あるものと観てみると、それぞれの解釈や主張の違いが感じられるようで面白い見方だったか、と思っています。
(55分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

鴈礫 大藏吉次郎(観世会定期能)

大藏流 観世能楽堂 2007.02.04
 シテ 大藏吉次郎
  アド 大藏千太郎 宮本昇


どういう訳か、大藏流では「鴈」の字を使うのに対して、和泉流では「雁」の字を使うようですが、いずれにしても「ガンツブテ」と、読みは同じです。
進行もほとんど同じですが、若干違うところもありますね。


まずは後見が切戸口から登場して、ワキ座に洞烏帽子を置きます。これが「鴈」という見立て。後見が後見座に納まると、まずは弓矢を持ったシテの大名が登場してきます。
大名の登場の場合、よく「隠れもなき大名」と名乗りますが、この曲では「これハいずれもご存知の者」としか名乗りません。とは言え、洞烏帽子に素袍上下、小刀の大名姿での登場です。


この曲では、この後登場してくるアドの男との争いの中で、この威張った姿、振る舞いにも関わらず、アドの男に負けてしまう対立の面白さがテーマということでしょうから、ここは大名として一般人の男との対比を際だたせる設定と解した方が良い感じがします。


この大名、弓の稽古に水鳥を狙いに行くところと述べて、鴈を見つけて弓矢で狙いを定めます。この鴈というのは先ほどの洞烏帽子ですが、和泉流では羽箒を使うようです。
吉次郎さんのシテ、実に剽軽な味があって、矢を逆につがえてしまったり、細かいところで笑いを誘います。


さてそこに登場してくるのがアドの男。
急ぎの使いに行くと言い忙しげに登場しますが、一ノ松あたりで鴈を見つけると、石を拾って礫を打ち、見事にこの鴈を仕留めてしまいます。


早速にこれを持って行こうとすることから、大名との争いになります。
このつづきはまた明日に

鴈礫のつづき

大名はアドの男を引き留めて、その鴈は自分が狙い殺したものだと主張します。
が、男にしてみれば、当然ながら自分が石礫で仕留めたもの。そのあたりを主張すると、大名は弓に矢をつがえて男を狙う始末。


男は驚いて逃げ出し「出合へ出合へ」と人を呼びます。


呼ばれて登場してきたのが仲裁人。
仲裁人は双方から話を聞き、それではと、鴈を元のところへ置き大名に射させることにしようと提案します。


男が仲裁人の言に従って鴈を置くと、大名は鴈の直ぐそばまで近づいてしまいます。
それを男が押しとどめ、大名は元の場所から矢を射かけますが外れてしまいます。
演技としては、矢をつがえたもののぽとりと落ちてしまう形ですね。


男と仲裁人は大笑いで、早速に男が鴈を持って退場しようとすると、大名は「片羽がひなりとも置いてゆけ」と追い込む形になっています。
偉そうにしている大名が形無しになるという喜劇ですね。


ところで石礫というのは後の世までも庶民の武器だったようで、織田信長が三千丁の鉄砲を用意して武田勝頼の騎馬隊に圧勝したという長篠の戦いの際に、織田の鉄砲隊が鉄砲を撃ちかけてくるのに対して、武田軍の足軽は腕の良い者に石礫を投げさせたという話があります。


足軽の武器としては石礫は戦国末期でも使われていたようですが、さすがに鉄砲の前では有効では無かったようですね。
(15分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

いろいろと起こるもので・・・

昨日は、同じ町内に住んでいる親戚が交通事故に遭い、結局のところ亡くなりました。
という訳でこの三連休はお通夜、お葬式という次第。実はさる方のご厚意で、本日の宝生会のチケットを頂いたのですが、残念ながらあきらめました・・・
そんな事情で昨日の本ブログの更新はお休みしました。


人間、いつかは必ず死ぬときがやって来るわけで、避けられないことは仕方ないのですが、そうは言っても事故となると心の準備が出来ていないので、家族も右往左往してしまいますね。
まずは高齢だったので・・・だから良いという訳ではありませんが、少しでも気持ちは楽かなあというところです。


誰しも、明日のことどころか、次の一瞬のことだって、本当は解っていないわけで、この一瞬、一瞬を本当に大切にしていきたいもの、とあらためて思った次第です。


本日はお通夜から戻ったら、先日の観世会の鑑賞記のつづきを更新しようと思っています。

二人静 武田尚浩(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2007.02.04
 シテ 武田尚浩、ツレ 藤波重孝
  ワキ 殿田謙吉、アイ 大藏基誠
   大鼓 柿原光博、小鼓 観世新九郎
   笛 一噌仙幸


武田尚浩さんも注目している能楽師の一人。昨年10月の善知鳥以来です。
今回は藤波さんのツレで二人静。この二人静ですが、序ノ舞の相舞を見せるというのが、おそらくはメインテーマの曲なのだろうと思います。
これに、静御前の霊を登場させることでさらに劇的な効果も狙ったというところでしょうか。


舞台はまずワキ、吉野勝手神社の神職がアイの従者を連れ、名宣リ笛で登場します。ワキは白の大口に白系の狩衣、風折烏帽子の神職姿ですが、清々しい感じがしますね。殿田さんが大柄なので迫力があります。
ワキの名宣は、正月七日の神事に若菜を供えるために、女達を菜摘川へ若菜摘みに遣らせるというもの。


ワキはアイに対して、菜摘女達に早く出るように触れよと命じます。
アイはこれを受けて後見座の前で、幕に向かって触れをし、静かに切り戸口から退場します。


囃子が一声を奏で、ツレの菜摘女が左手に手籠をもって登場してきます。
ツレは藤波重孝さん。ツレでしか拝見したことがありませんが、ツレとは言っても二人静のツレとなると、なかなかに難しいところ。
登場したところは、何事もない若菜摘みの女ですので、割合に声を張った謡でツレらしい雰囲気を出していた感じです。しかしこの後に登場してくるシテとの掛け合いから、物語の展開に引き込まれていくわけです。


そのつづきはまた明日に

二人静のつづき

前シテ「里の女」が、ツレに呼び掛ける形で登場してきます。
「吉野へ帰ったら神職に、一日経を書いて自分の跡を弔ってくれるように頼んでほしい」と話します。
さらに、ツレが名を問うと「もし疑う人がいるならば、そなたに憑いて名を名乗ろう」と述べて姿を消してしまいます。


この前シテ、短い登場ですが、ここで後場につながる雰囲気をどう出しておくか、なかなかに難しいところかもしれません。


さてシテが姿を消すと、ツレは正中へ着座してワキに先ほどの出来事を伝えます。
この中で、「なに、真(マコト)しからずとや」と疑問の言葉を発したことから何者かの霊が憑いて気色が変わります。
ツレの謡は、ここから位が変わります。藤波さんの謡、ここまではツレらしい声の調子でしたが、ここからトーンが下がり、この変化が良く現れていたと思います。
それまではワキに向かって報告するという形で、ワキ座を向いていたところから、正面へ向き直り、憑いた霊の独白の形になります。


ワキはツレに憑いた霊に誰かと問いますが、判官殿に仕えた者、と述べて、静御前の霊であることがほのめかされます。


これをふまえて、ワキは舞を所望し、霊の跡を弔おうと約束するわけです。


ワキはツレに舞の装束を渡し、物着となります。
ツレの言葉では、舞の装束が勝手神社の宝蔵に納めてあるとなっていますが、実際に渡されるのは烏帽子と長絹ですね。


ツレは装束を着け、常座に立って、ワキとの掛け合いで謡います。
すると後シテ静御前の亡霊が、ツレと同じ装束で登場してきます。
このつづきはまた明日に

二人静さらにつづき

ツレは大小前に進み、シテは常座に立って、向かい合って義経一行の顛末を謡います。さらにクセを相舞し、義経主従が吉野山からさらに奥地へと逃げ延びていった話が展開していきます。


静は捕らえられ、心ならずも頼朝の前に引き出されて白拍子の舞を舞った訳ですが、その時と同じ和歌「しずやしず・・・」と謡って序ノ舞の相舞になります。
完全に揃うという訳ではありませんでしたが、息の合った舞で、情趣深く拝見しました。
序ノ舞は最初、ツレが大小前、シテが常座で舞い始めますが、途中で一度立ち位置が入れ替わり、さらにもう一度入れ替わってもとの立ち位置に戻ります。
序ノ舞を舞い上げて「思いかえせばいにしへも」と大ノリの謡になりますが、ここでシテはツレに寄り添って、その肩に左手を乗せるという印象的な型があります。二人はさらに跡を弔ってくれるよう頼んで終曲。


この二人が序ノ舞を相舞するというのは、本当に難しいと思います。
現行では宝生流ではこの曲を演じませんが、なんでも十六世宗家九郎友栄の時に、名手が二人揃うことは無い、として廃曲にされたのだそうです。


いつぞや六平太藝談を読んでいましたら、この二人静の話が出てきまして、まず心得として平に舞うこと、乗って舞ったら揃わなくなってしまうという話。
さらに三十遍も舞うと揃うようになるが、見て合わせようと思っても見えないので、乱拍子のように呼吸をうかがうしかない。自分は日に三度、八十遍もやったので、最後は外れようもなくなってしまった・・・と、そんな話です。


名手が二人揃うことはないので廃曲にしてしまったという話も、八十遍も繰り返しているうちに外れなくなってしまったという話も、名人といわれた人っていうのはスゴいもんですね。
(75分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

現在七面 観世芳伸(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2007.02.04
 シテ 観世芳伸
  ワキ 森常好、アイ 大藏教義
   大鼓 亀井広忠、小鼓 幸清次郎
   太鼓 小寺佐七、笛 松田弘之


観世芳伸さんの能は昨年夏の千手以来です。その際の鑑賞記にも書きましたが芳伸さんは宗家清和さんの弟で二男芳宏さんとは双子の兄弟。
その芳宏さんが名門山階家を継ぐことになり山階彌右衛門を襲名され、襲名披露の能会が催されます。
私は別口に出掛けるつもりなので拝見する予定はありませんが、女性能楽師の山階敬子さんがなんとか守っておられた山階家がこういう形でつながっていくのは、観世流にとっては好ましいことかもしれません。


さて話は戻ってこの現在七面。観世と金剛だけにある、言ってみれば稀曲の類なのですが、その割には観世流ではこのところ年に一、二度は必ずどこかで演能されているという感じで、心して観ようと思えば機会はありますね。


この曲が稀曲とされるのは、上演回数が少ないこと以上に、後シテが面を重ねて登場し蛇体から天女へと変身するという演出のため、前シテの里女を含めると三度面を替えるという唯一の曲だからという訳です。
大会も喜多流などでは後シテが面を二つ重ねて登場しますが、前シテは直面の山伏なので面は二つまでですね。


そんな訳で珍しい能ではあるのですが、まあ面白いかどうかは意見の分かれるところかも知れません。
いずれにしてもつづきは明日に

現在七面のつづき

まず舞台には一畳台が出されてワキ座に置かれます。日蓮上人の庵という趣向ですね。


ワキの日蓮上人がワキツレの従僧を従えて登場して一畳台に座します。
まずはワキが、末法の世に至って身延山に引き籠もり一心に読経、修行に打ち込んでいると謡い、これに地謡がつづいて上歌を謡って、ワキの言葉につなぎます。
ワキは、法華修行の身であるので修行怠りなく勤めているところに、どこからともなく女性がやって来る。今日も来るならば、名を尋ねてみようと述べます。


ワキは、白綾に指貫込大口。紫の水衣に、花帽子と、単なる旅僧や修行僧ではなく、日蓮上人と特定していることから、それ相応の格式を表す装束になっています。大柄な森常好さんなので一層迫力が増す感じがします。


次第の囃子によって前シテの里女が登場し、次第、サシ、下歌、上歌と、自らの信心に向ける心映えと身延山の有り難い雰囲気を謡います。
前シテは無紅唐織に深井の面をかけた中年の姿ですが、紅い色が入っていないというだけで、黄色系の大変綺麗な装束でした。装束附けを見ると紅入の唐織を着けることもあるようですが、この場合は面は若女など、若い女性の面になりますね。
このシテの登場に対して、早速、ワキが如何なる人かと問いかけるわけです。


シテは、このあたりに住む者だけれども、有り難い教えに触れる機会を持ち上人に結縁をなそうとする者、と答えますが、ワキの返事に法華経を保てば女人も成仏すること疑いなしと聞いてさらに有り難く思い、女人成仏についてさらに謂われを聞かせてほしいと、乞うわけです。


ワキの語りからクリ、サシ、クセと進みますが、地謡のクリの後はワキがサシを謡い、クセの上げ羽もワキが謡う形。シテはじっと聞き手に回る感じになります。
さらにロンギに入ってシテは我が身を語り、実は七面の池に住む蛇身であると明かして姿を消してしまいます。


通常はクリ、サシ、クセはシテと地謡によって進行するわけですが、この曲ではワキが語る法華経の功徳、女人成仏をクリ、サシ、クセに謡うため、常の曲とは異なった形になっていますね。
さてこのつづきは、また明日に

現在七面さらにつづき

鉄輪の中入りをふと思わせるような、本体が蛇身であると明かしての中入りの後は、アイが登場し、これまでの子細をまとめて語ります。「心得候へ」とキメた後「ぴっかり」と雷光に驚いた様子を見せ、懐から数珠を出して「南無法蓮華経」と唱えて狂言座へ。


ワキ、ワキツレの「かかる不思議に逢うことも・・・」という待謡の後、早笛の囃子で後シテ龍女が登場します。
なにぶん、後ほど蛇身の姿から天冠を着けた天女へと替わるために、装束も二重に着込み、面も小面と般若を重ねてかけての登場ですので、さすがに動きにくそうな感じがします。


大ノリ地の謡いで、まずは自身の本来の姿を現した七面の池の蛇身が、日蓮上人の座している高座へまとう型として、ワキの座している一畳台へと寄ります。


ワキが「その時上人、御経を取り上げ」と巻物を取り出して広げつつ謡い、地が続けて謡う中に「たちまち蛇身を変じつつ」とイロヱになります。
ここで物着となって、般若の面を取り、装束を替えて天女の姿となるわけです。後見に加えさらに若手二人が登場し、小袖を広げて後見座での物着を隠す形。
小袖が下ろされると、龍の大きな作り物を戴いていた龍女の姿から、一転して天冠を着けた天女の姿。歌舞伎の早替わりのようには行きませんが、能としてはなかなかのインパクトがあります。隣の方も思わず「ほぉ」と声を漏らされていましたが・・・


手には御幣を持って、謹上再拝、と神楽が舞われます。
神楽を舞い上げると目出度く女人成仏を遂げ、虚空に上らせ給ひけり・・・と終曲になります。


日蓮上人を讃える的色彩の強い能ですが、珍しいものを見たというだけでなく、全編の構成としても案外面白い観能だったか、と思います。


大会の釈迦と釈迦下のように、はじめから重ねる目的で作られた面を重ねるのとは違って、普通の女面と般若を重ねるわけですから、おそらくシテはほとんど前が見えないままに舞う形になるのだろうと思います。
本当にお疲れ様でした
(85分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

謡曲笑い話

江戸時代には、謡が随分と庶民にも広まっていたようで、辻謡と称して道端に座して謡ったり門付けのように家々を回りながら謡ったりと、そんな商売もあったという話。もともとはそれなりの稽古をした武士が、食うに困ってこうした商売を始めたという話もあります。


それくらいだったので、謡曲をもとにした笑い話も広く知られていた様子。
以前、演能回数の統計でご紹介した大角征矢さんも、ご出身の神戸大学能楽部の掲示板に、そうした話のいくつかを紹介されておられます。


そんな話の一つ、田村。


田村は、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる清水寺と、清水寺にちなんだ観音信仰を柱にした能で、修羅物とはいうものの他の曲とはかなり趣が違います。
後シテは鈴鹿山の鬼、逆賊を平らげる際に、観音の助力を得た様を舞い語りしますが、この千手観音の話。


謡曲では「千手観音の光を放って虚空に飛行し、千の御手毎に大悲の弓には智慧の矢をはげて、一度放せば千の矢先、雨霰と降りかかって」と謡います。
あるとき、能の大夫に男が「千の御手に弓矢を持てば五百ずつではないか」と問いただしました。
大夫、騒がず「ご不審はもっとも。さればこそ、その前に『あれを見よ不思議やな』と書いてある」と答えたという話。


この話、随分と好まれたらしく、川柳作者と謡曲作者のやり取りともされていたり、いくつかのバージョンがある様子です。


千の矢に五百鉄砲鈴鹿山
(鉄砲は「ほら」の意で、千の矢のうち五百はウソほどの意味でしょうか)

第47回式能を観に行く

昨年の式能ですっかり疲れてしまい「たぶん来年は観ないと思う」などと別ブログに書いたのですが、今年もまたまた式能を一部、二部通しで観に行ってきました。
正直のところ、通しでの観能は体力勝負の感もありますが、とは言うものの終日能楽に浸っていられるというのも、また堪えられない、と、まあそんなところです。


今回は翁が喜多流で、諸般の事情からほとんどお目にかかることが出来なくなっている喜多六平太さん。
以下、脇能が高砂で喜多流の高林白牛口二のシテ。脇狂言は大藏流山本東次郎さんの宝の槌、以下、観世流岡久広さんの経正、和泉流野村万之介のシテで口真似というのが一部。
二部は金春流の葛城が最初で、シテは本田光洋さん。続いて大蔵彌太郎さんのシテで左近三郎、宝生流小倉敏克さんのシテで俊寛、和泉流野村萬さんのシテで茶壺、最後が金剛流の葵上でシテは種田道一さん、という番組。


朝は自宅を6時台に出掛け帰ってきたのは夜の10時近くという、ほとんど終日を観能に費やした感じです。
千歳の山本凛太郎クンの熱演に思わず感動し、本田先生の神楽に魅了され、小倉さんの俊寛に涙が出そうになったり、出かけた甲斐はあったと思います。
鑑賞記が完了するのはいつになるやら、明日から気長に取り組みます。
今日はとりあえずもう寝ます。これで明日からの仕事は大丈夫なんでしょうかねぇ・・・

翁 喜多六平太(第47回式能)

喜多流 国立能楽堂 2007.2.18
 翁 喜多六平太
  三番三 山本則俊、千歳 山本凛太郎
   大鼓 佃良勝、小鼓 幸正昭
   脇鼓 後藤嘉津幸 船戸昭弘
   笛 松田弘之


以前にも翁の話は何度か書いていますし、鑑賞記でも浅見真州さんの弓矢立合を書いていますので初めてという訳ではありませんが、翁を観るとやはりそれなりの感動があって、また思うところをいくつか書いてみようと思います。


今回は喜多流、下掛りなので、千歳をシテ方ではなく狂言方が舞う形になります。大藏流の山本凛太郎クンがお披きだそうで千歳を舞いましたが、これは感動物でした。その話はまた後ほど・・・
さてこの千歳をシテ方とするのか、狂言方とするのかあたりは、翁の成立にからんでいるのでしょうけれども、鎌倉時代など本当に古い時代の記録には、児(チゴ)、翁面、三番猿楽とあるそうで、千歳はもともと翁に先立って舞う稚児の舞だったのかもしれません。
そうなると当然ながら直面となるわけで、それをシテ方が演じるのか狂言方が演じるのかは、後々の世になってそれぞれの流儀によって考え方が分かれていったのでしょけれども、上掛りと下掛りで分かれているところをみると、江戸初期以前の古い時代にこのあたりは整理されていたのかもしれません。


先ほどの鎌倉時代の記録には、児、翁面、三番猿楽に続いて冠者、父允と都合五役が記されているそうです。おそらくは冠者、父允は小書「父尉延命冠者」に登場する、延命冠者と父尉に相当するのでしょうから、この小書の形の方がもともとの翁に近いのかも知れません。


式三番は「千歳、翁、三番叟」と解釈されていますが、一説には「稚児と翁」、「三番猿楽」そして「冠者と父允」の三つを指すのではないかとも言われています。
三番叟は面をつけずに揉之段を舞った後に、さらに面をつけて鈴之段を舞うという二部構成になっているので、これも一組と考えると、若者と老人が三組ということになりますね。
つづきを明日に

六平太さんの翁つづき

一般に、能では地謡や後見は切戸口から舞台に出入りしますが、この翁に限ってはシテやワキ、囃子方と同様に橋掛りから登場してきます。
面箱を持った千歳が先頭になり、続いてシテ、三番叟、囃子方、後見、地謡と長い列になっての登場。囃子方や地謡も素袍上下に侍烏帽子の正装です。
舞台に入る際に、全員が一度膝をついて一礼する形。これは観世では見ませんね。


上掛り二流ではシテ方が千歳を勤めるため、狂言方の面箱持は舞を舞ったりせず、面箱を持つのと三番叟と掛け合いを行うのみになりますが、下掛りでは狂言方が面箱と千歳を兼ねるのでこの形。(「三番叟」と書きましたがこれは和泉流の表記で、この日は大藏流なので本当は「三番三」ですね)


千歳の凛太郎クン実に見事でした。なんでも11歳だそうですが将来楽しみです。
やはり同じ千歳とは言っても、シテ方と狂言方では舞の雰囲気が異なりますが、狂言らしい表現力ある舞でした。舞の途中で烏帽子がズレてしまったのですが、最後まで気にすることなく演じ切ったのは立派ですね。


この千歳の舞の終わり頃に翁が面を着け、代わって翁の舞になります。
六平太さんの翁の舞は堂々たるもの。右手の扇をかざした形で舞い続ける風で、観世のように左の袖を被いたり、扇で顔を隠すようにする印象的な型はありませんでしたが、ゆったりと四方を拝する祝言の舞でした。
舞終えると面を外しますが、大小前から面箱に向かう形で、中正面から見るとちょうど横を向いた感じ。観世なら中正面に背を向ける形になりますが、このあたりも微妙に違っています。


千歳の舞から翁の舞までは、笛と小鼓三挺で奏することになります。小鼓は真ん中が頭取。この頭取が気合いをはかって全体を引っ張っていく形ですが、頭取以外の二人も幸流では胴脇、手先とそれぞれに役名がついているそうです。大倉など他流はちと分かりませんが。


さらにもう一日つづきを

翁さらにつづき

面を外した翁が退場する(翁還り)と三番三が主役になります。


山本家の三番三は比較的観ているほうですが、今回は則俊さん。和泉流に比べると派手さはない感じですが、好感の持てる舞です。
まず揉之段、これは良かったですね。舞が終わると後見座にくつろいで黒式尉の面をつけます。


上掛りであれば千歳は翁に従って退場してしまいますが、この日は千歳が面箱を兼ねているので、凛太郎クンは舞終えた後も待機中。面をつけ終わった三番三が常座に立ち、「アドの大夫」と面箱を呼び出して掛け合いになります。
凛太郎クン堂々としたもので、鈴を渡して大役を果たしました。


鈴之段は三番三が鈴を持って舞うところから名付けられたものですが、徐々にテンポが速くなる中で、鈴が振られる音が舞台に響き不思議な高揚感につつまれます。
静かな登場から一時間あまり、なんだか清々しい気分になりました。


ところで観世流の弓矢立合の話は以前に書きましたが、翁の小書というのは各流それぞれにいくつか存在するようです。
一方、喜多流では白式という小書が一つだけ。しかもこの小書は装束から揚幕まで白一色になるものの、中身としては常の翁と変わらないとか。
六平太藝談にもこの話が見えますが、中身は同じでも、白装束の翁というのはまた随分と雰囲気が違うと思います。
一度、観てみたいものですが機会がありませんねぇ。
(65分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

高砂 高林白牛口二(第47回式能)

喜多流 国立能楽堂 2007.2.18
 シテ 高林白牛口二 ツレ 高林呻二
  ワキ 福王和幸 ワキツレ 永留浩史 喜多雅人
  アイ 山本則重
   大鼓 佃良勝、小鼓 幸正昭
   太鼓 小寺佐七、笛 松田弘之


先月の金春宗家に引き続いての鑑賞。割とポピュラーな曲でもしばらくお目にかからないこともあれば、短期間に続けて観ることもありますが、ま、高砂ですので一月、二月はどうしても観る機会が多くなりますね。


シテは高林白牛口二さん。京都で喜多流の火を灯し続けておられる流儀の重鎮ですが、確かご本名は皓二さんとおっしゃったように記憶しています。皓の字を分解してのお名前のようなのですが、どのような子細なのか存じておりません。


さてこの高砂という能、私はとても好きなのですが、演じにくいとおっしゃる能楽師の方もお出でになるようです。取り立ててドラマ性がある訳でもないし、前半は老夫婦が出てきて目出度いのか、目出度くないのか分からない展開になっている、と、まあそんなところでしょうか。


翁にも共通するのでしょうけれども、神能というのは神事性が強くて、そもそも神の来迎の姿を見ること自体に意味があったのでしょう。
したがってドラマ性は期待できないし、内容自体は薄く祝言としての意味が大きいため、能を「劇」としての性格から捉えようとすると、意味の乏しい演目になってしまうということですね。


私自身は感覚が古い日本人なのか、後シテが登場してくると妙に有り難い気持ちになったりしてしまいまして、この高砂型の神能は好きなジャンルとなっています。
高林さんの演技をふまえながら、神能を巡って明日につづけてみようと思います

高砂のつづき(式能鑑賞記)

まず真之次第でワキ、ワキツレが登場しますが、ワキが舞台に入ったところでワキツレ二人は橋掛りで両手をついて深く一礼。ワキツレが立ち上がる一方で、ワキは常座に進んで両手をつき深く一礼しました。
いわゆる礼脇の形ですが、ワキツレの出方など、細かいところは流儀によって若干の違いがあるのかもしれません。
ワキの名のりから道行の謡へと、運びも早く小気味よい謡。謡い終えるとワキ座へ着することになりますが、ワキツレ二人のうち一人は地謡の前に座した一方で、もう一人はワキの斜め後ろ、地謡後列と並ぶような形で着しました。あまり見ない形ですが、これは福王流の形で、下掛宝生を見慣れているとちょっと不思議な感じがします。


ワキの福王和幸さんは関西在住なので、あまり東京でお見かけする機会はないのですが、お父様似の堂々たる体躯で、しかも美形。梅若六郎さんの新作能「紅天女」でワキを勤められたのでも有名ですね。


さてシテのほうですが、ワキが着座すると真ノ一声でツレを前に進めて登場。小柄な白牛口二さんに対してツレの呻二さんが大柄ですが、さすがにシテの迫力があります。
老人の姿ですが「本当は若くて人間を超越しているのだよ」と匂わせているような、ある意味、武張った感じがします。
舞台に進む歩みも尉としては早めな感じ。謡もきびきびとした印象を持ちました。


高砂や弓八幡など、前場が老人、後場で若き神の降臨という典型的な神能は、世阿弥が大成したものと言えましょう。
世阿弥は能の作劇について記した三道の中で、能の構成の基本を書いていますが、序破急五段の構成といい、その細部に至るまで、高砂や弓八幡はこの基本とおりの形になっています。おそらくは理想的な形の能として作曲したということでしょうね。


なにやら後シテが楽しみな感じになってきました。
明日につづきます

高砂さらにつづき

幕政時代、正式な能の会では翁に続いて演じられる脇能は高砂が第一となっていたのだそうです。
そうした意味でも神事としての要素が強い曲ですが、そのわりにというか、思いのほか特徴的な型が何カ所かにあります。


クセの前半は居グセの形で、じっと座して謡を聞かせるかたちですが、途中から立って上げ端のあとでは杉箒を使って落葉をかき寄せる型があります。
かき寄せても、さらに落葉が尽きぬことを表すように、かき寄せた手元から梢を見上げる気持ちで正面を見据えます。
たしかにシテの視線の先には、松の枝が見える感じです。


また中入りでは流儀によって型が異なり、観世では追い風に任せつつと水衣の両袖を広げあたかも帆が風をはらんだような形となりますが、この日は一度幕の方を見込んで常座に進み常座でヒラキ、その後はそのまま静かに退場しました。
各流、それぞれに型には微妙な違いがありますが、それにつけてもなかなか楽しめるようになっています。


後ジテは若き男神、気持ちの良い運びです。
神舞の直前「二月の雪、衣に落つ」のところでは、金春流と似た型で、大小前で左袖を広げて上を見回し、雪を衣に受ける形。これはいいですね。
翁付きの脇能らしい舞でした。


脇能と言われるジャンルの能には四十曲近い能があり、後シテとして登場する神が真ノ序ノ舞を舞ったり、楽を舞うものなどもあって、かなりバラエティがあります。が、私としては神舞を舞う高砂の類が最も好きな部類。
たぶん黒垂に透冠、狩衣に大口で登場する若き男神が、颯爽と舞う神舞自体が好きなんだろうと思います。
(85分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

宝の槌 山本東次郎(第47回式能)

大藏流 国立能楽堂 2007.2.18
 シテ 山本東次郎
  アド 山本則秀 遠藤博義


一月の金春会で、この曲を善竹十郎さんのシテで観たばかりです。同じ大藏流でもあり、基本的には変わらないのですが、やはり演者によって雰囲気が違ってきます。
まず全体的に言って江戸風と言ったらいいのか、幕府式楽の伝統が色濃い感じがします。
善竹十郎さんのご一家は東京で活躍しておられますが、やはり関西の芸風が強い感じを受けますね。


たまたま一部が終わった後の休憩時間に、ロビーでくつろいでおられる方の話を聞くとも無しに聞いていましたら、京都在住の方らしく「いつも関西で観ているけれど、東京で観ると狂言も洗練されてる感じがする」といったことを話しておられました。
「洗練」ということなのかどうかは解りませんが、たしかに感じは違います。


舞台はまずアドの主人、山本則秀さんが素袍姿で登場して「宝比べが流行る」と言い、太郎冠者を呼び出して何か自慢できる宝があるか、と問います。
しかし太郎冠者の返事は「無い」ということなので、主人は太郎冠者に都へ上って求めてこいと言いつけます。


命じられた太郎冠者は舞台を回り、都へとやって来ますが、宝がどのような物でどこにあるかを聞いてこなかったことに気付いて「宝買おう 宝買ひす」と呼ばわって歩きます。このあたりは末広がりと同じですね。


ちなみにこの日は翁の後の脇狂言のため素袍姿でしたが、通常の形では主人は長裃ですね。先日の金春会でもアドの大二郎さんは長裃でした。


ともかく太郎冠者が呼ばわりながら歩いているとアドのすっぱが登場してきて、一ノ松で名のります。
さてすっぱが何をどうだますのか、明日につづきます

東次郎さんの宝の槌つづき

すっぱ役の遠藤博義さん。なんでも病気を抱えておられると聞いているのですが、そうしたことを感じさせることもないきちんとした芸風の方で、この日も田舎者をだます役どころを丁寧に演じておられた感じです。


宝を買おうと声をかけている太郎冠者に、太鼓の撥を鎮西八郎為朝が鬼ヶ島から持ち帰った打出の小槌だと言って売りつけるわけです。
そして宝を打ち出す時の呪文を教えます。すっぱは太郎冠者が丸腰なのを指摘し、試しに腰の物を打ち出してはどうかと勧め、太郎冠者もその気になって呪文をとなえます。
この呪文は絵馬の間狂言で鬼達が唱えるのと同じものですね。


太郎冠者が呪文を唱えて撥を打つと、すっぱは自分の小刀を冠者の前に投げ出して「出たは 出たは」と言って囃すので、冠者はすっかり打出の小槌と信じてしまい、小刀を腰に差して満足。すっぱは一応、その小刀を置いていけと言いますが、太郎冠者が証拠にするというので、それならばと認める形になっています。


さて帰宅した冠者は主に宝と言って撥を渡しますが、主はこんなものはいらないと捨ててしまう始末。冠者はあわてて「南無宝」と撥をおしいただき、すっぱの言ったとおりに説明して、腰の物を見せ、これを打ち出した打出の小槌と説明します。


主も、それではと信じ始める様子。太郎冠者は主人に馬を打ち出してみようと提案します。とは言え呪文を唱えて撥を振っても、馬が出てくるわけもありません。冠者を焦って、馬野足を八本にして出そうといいますが、主に「必要ない」と言われてしまい、後先に頭をつけて出そうなどと時間稼ぎをする始末。
なんどやっても馬野出るわけもないのですが、最後は冠者が「おっつけ馬も出ようが、主が立身して不審をする瑞相に、番匠の音がかつたりかつたり」と落とし、主が「それこそめでたけれ」と受けて留めになりました。


私が記憶に残っている最初に観た狂言は、若き日の東次郎さんだったと思いますが、いつになっても暖かみのある素敵な狂言をされる方と思っています。
(25分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

いやはや失策

ふと過去の記事の管理画面を出してみたら、24日と25日に同じ記事を書いていたことに気付きました。
こりゃあまいったなあ


我ながらビックリです。下書きを書いてから更新しているのですが、下書きのファイルを消すのを忘れて、翌日も同じのをアップしてしまったみたいです。
今まで何年かブログ書いてますが、こんなことは初めて・・・でもまあ仕方ありませんね。


そんなわけで、毎日読んで頂いている方は驚かれたと思いますが、こんなこともあるんだということで笑ってやってください


本日から先日の式能の二番目もの、観世流の経正の鑑賞記に入ります。


それでは、また

経正(替之形)岡久広(第47回式能)

観世流 国立能楽堂 2007.2.18
 シテ 岡久広 ワキ 福王茂十郎
   大鼓 大倉三忠、小鼓 観世新九郎
   笛 一噌幸弘


十二月の宝生夜能での「経政」以来、あまり間をおいていないのですが、流儀も違い、またこちらは替之形の小書つきなので、そのあたりの違いを観るのも楽しいかと思っての鑑賞でした。


まず名宣リ笛でワキの行慶僧都が登場し、経正を偲んで青山の琵琶を供え管弦講を行うと述べます。これは基本的に変わりませんね。


続いてシテの登場となります。
本日の装束は、長絹を右片袖を脱いで着け、淡黄といったら良いのか薄い黄色の色大口に、面は十六か敦盛でしょうか若き貴公子の顔立ち。先日の宝生夜能のときと同様の形ですね。
この能、面は流儀によってシテによって実に様々ですが、まあ子供さんが直面で演じる場合は別として、大きく分けると敦盛などの面を使い少年として描く場合と、中将などを用いて壮年の武将として描く場合の二つに分かれます。
また装束も単法被の場合もあれば、長絹を用いる場合もあります。単法被は能の装束の約束事として甲冑姿を表すことになっています。一方の長絹は女の舞装束によく用いられる優雅な上衣ですから、単法被の場合は武将としての、長絹の場合は公卿としての性格をより重視するということでしょうか。このあたりはまさに曲の解釈の問題ですね。
今回は若年で亡くなった貴公子としての経正を演じようという趣旨でしょう。


観世流の装束附けでは、面は中将か今若(童子、慈童にも)となっているので、成年の男子として描くのが本来の形、そうでなければ童形とするのが選択肢ということで、十六の面は替之形だからということかもしれません。


いずれにしても装束をどう選ぶかによって、全体の雰囲気が違ってきます。
このあたりは能の面白いところで、制約が多く様式化しているだけに、面や装束のちょっとした変化が大きな意味を持つということですね。
明日につづきます

 | HOME | 

カレンダー

« | 2007-02 | »
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

FC2Ad