能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

通盛さらにつづき

ワキの待謡、方便品を読誦すると謡いシテの出を待ちます。
出端の囃子で、ツレの小宰相の局と後シテ通盛が登場してきます。
観世流の装束附けでは、シテの装束は単法被が基本で「長絹にも」となっていますが、今回はこの長絹のほうで、少しくすんだ薄い青の長絹と浅葱の大口の組み合わせがとても綺麗です。

なんと言ってもこの能、通盛と小宰相の情愛を描くことに主眼が置かれていて、いわゆる修羅物の印象とは随分違う曲。こうした趣旨から考えると長絹をとるのが良さそうに思えます。
もっとも、謡では武装であることが強調されていて、これを尊重すれば単法被が良いということになりますね。

シテはワキの読経に合わせて自らも経文を唱え合掌します。
ワキが二人に「如何なる人」かと問いかけると、ツレが小宰相の局の幽霊であると名乗ってワキ座に進み着座します。

ワキは今一人の「甲冑を帯し兵具いみじく見え給ふ」人に問いかけると、シテが越前の三位通盛と名乗ります。

続くサシ、クセで、一ノ谷の戦いを前に通盛が小宰相と別れを惜しんださまが歌われます。いったん床几にかかってサシからの謡を地謡と進めたシテが、「忍んで我が陣に帰り」と床几を下りてツレに向かい合い、クセになります。クセの前半は二人向き合っての別れを惜しむさまを、謡と所作で示します。

さらに後半では、弟である能登の守の呼ぶ声に、後ろ髪を引かれつつも出陣したと謡い、カケリになります。

さらに木村の源五重章に討たれたさまを舞語りしますが、キリで謡の調子が変わり、法華経読誦の功徳にて成仏した、と留めになりました。
シテの、公達らしい優雅な姿も良い雰囲気でしたが、薄紫の大口に唐織を壺折に着けた小宰相の局の凛とした姿が大変印象的でした。
(83分:当日の上演時間を記しておきます)

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口真似 野村万蔵(九皐会)

和泉流 矢来能楽堂 2008.5.11
 シテ 野村万蔵
  アド 高部恭史、小笠原匡

口真似は良く出る狂言ですので、このブログでも何度か鑑賞記を書き、さらに良く似た狂言である察化と咲嘩を含めての比較の話も書きました。
そんなわけで筋を追う記載はしませんが、ちょっと感想など。

私、現九世万蔵さんのファンであると時々このブログにも書いております。
まだ父君野村萬さんが万蔵を名乗り、亡くなられたお兄様の耕介さんとともに、良介さんの本名でお出になっていた頃も、特に良介さんの演技にひかれておりました。

狂言の演技全体に好感を持っていますが、なかでも、たぶん表情の使い方に魅力を感じているのだろうと思います。
萬さんの、笑った後にスッと表情がぬけるとでも言いますか、あの表情の使い方も独特な感じを持っていますが、また違った意味で魅力があります。

今回の口真似では、万蔵さんと、酒飲みの男で出た小笠原匡さん、主の高部さんそれぞれの表情、雰囲気の違いが面白く感じられました。
万蔵さんの豊かな表情はいつも通りですが、小笠原さんもふっと見せる笑い顔など、笑う演技という場面でないところで、表情の動きが感じられます。高部さんはキチンと硬い表情のままで、主の役を演じきっている感じです。

ですが、見ようによって、落語の独演会などで、師匠の前に弟子の前座さん達が噺をするときの、師匠と弟子の違いと似たような感じもします。
前座、二つ目のお弟子さんの噺も相応に面白いのですが、師匠が出てくると余裕が違うというか、空気が変わってしまうような感じを受けることが多いように思います。

前座さんと比べては高部さんに失礼ですし、あくまでも比較の話としてですが、表情の使い方になんだか余裕のようなものを感じた次第です。

また、この曲では酒飲みの男に役名が無いので、こういう場合の通常の形としては、それを演じる狂言師の名前を呼びます。ただ、どちらかというと姓名の名前の方だけを呼ぶように思うのですが、この日は万蔵さんが「上ノ町の小笠原匡殿」と小笠原さんをフルネームで呼んでいたのが印象に残りました。
(15分:当日の上演時間を記しておきます)

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熊野 村雨留 長山禮三郎(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2008.5.11
 シテ 長山禮三郎、ツレ 長山耕三
  ワキ 殿田謙吉
   大鼓 國川純、小鼓 幸清次郎
   笛 寺井宏明

熊野って極めて上演回数の多い能ですから、意識しなくても観る機会が多くなります。今回は村雨留の小書がついていますが、昨年三月にも梅若六郎さんのシテで、読次之伝と村雨留の小書付を観ています。

今回のシテ、長山禮三郎さんは九皐会では年長組、兵庫県にお住いのため関西での演能も多いようです。
九皐会の事情に詳しい訳ではありませんが、長老遠藤六郎さんや、長山さんなどは先代の二世喜之師の弟子に当たります。遠藤さんのご子息、和久さん・喜久さんのお二人や、この日のツレを演じた長山さんのご子息である耕三さんなど、九皐会には二世、三世の方もいらっしゃいます。
鎌倉能舞台を率いておられる中森晶三さんのご子息の中森貫太さんや、先年亡くなられた坂真次郎さんのご子息、坂真太郎さんもそうですね。

しかし40歳前後の方達がぞっくり揃っておられるものの、その後は若い方がおられず、次の世代の方達がプロとして参加してくるのにはもう少し時間がかかるのかも知れません。

以前にも書きましたが、九皐会初代の観世清之は一時梅若六郎家を嗣いでいたこともあって、芸系は梅若に近いので、今回の長山さんの熊野も、先の六郎さんの熊野と基本的には近い形だったと思います。

とは言え、シテが違えば表現も変わってきますし、矢来の舞台の雰囲気も観世能楽堂とはまた大きく違うので、観た印象はかなり違う感じです。
そのあたりをまた明日に

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熊野のつづき

まずは名宣リ笛でワキ宗盛の登場。
ふと思い返してみると、六郎さんの熊野のときも殿田さんのワキでした。気に入っているワキ方でもあり、良い感じです。
ちょっと個人的に残念なのは、この間、コメントをいただいてから本当はどうなのだろうと気になっているワキの名乗り、「宗盛なり」なのか「宗盛にて候」なのか確たる記憶がないこと。たぶん「宗盛なり」だったと思うのですが、いずれ機会があれば確認してみたいところです。

熊野の宗盛は、熊野を手放そうとしない嫌な奴的な設定ですが、そうは言っても身分も高く悪賢い悪人ではありませんし、品位ある役でもあります。この日は浅葱の単狩衣に白大口の姿でしたが、とても綺麗な装束で品位も感じられます。
一緒に出たワキツレ則久さんは素袍姿で太刀を持ち、ワキが舞台に入って名乗る際は一ノ松で控え「いかに誰かある」と問われて常座へと進みます。
則久さんもキッチリとした演技をされる方で、好感を持っています。

ワキがワキ座に進んで床几にかかり、ワキツレが並んで着座するとツレ朝顔が登場してきます。一度舞台に入り常座で次第を謡った後、橋掛りで幕に向かって案内を乞います。
ツレの長山耕三さんはシテ禮三郎さんのご子息ですが、九皐会だけでなく、銕仙会など他の観世流の会でも良くお見かけします。お若い方達の中でも姿勢が良くキチンとした方という印象を持っています。

さてツレの案内にこたえてシテ熊野の登場です。
アシライ出からサシ謡となりますが、思わずメモに「うまい!」と書いた次第で、実に趣のある謡でした。

この後、ツレがシテに近づいて手紙を手渡します。
シテはツレから渡された手紙を黙読しますが、読み終えるとこの手紙を左手に持ち、橋掛りでツレと入れ違って、ツレを従えて舞台に入ります。常座の少し前のあたりに下居してワキに言上し、「便なう候へども」と立って二足ほど出、正中でワキに文を見せる形になります。

この後が文ノ段。読次之伝の小書はありませんので、観世流の本来の形でシテが文を一人で読み上げます。しかし結局は暇乞いはかなわず、花見へ行くことになってしまいます。
ということで明日にもう一日つづきます

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熊野さらにつづき

地謡の「牛飼車寄せよとて」でワキが車を出すよう命じ、後見が車を出して目付に据えます。
一同は車に乗ったという形でシテのみが車に入り、ツレがシテの後に、ワキ座側にはワキと、後にワキツレが並びます。

車中はあまり動きがないのですが、「東路とても東山」とシテが謡いつつ車の左前につかまり身を寄せた形から、下がってシオるなど、大きな動きではないのですが、印象的な型があります。動きの取れない車中で、故郷の母を思うという気持ちを抑制された動きで表す訳ですが、能らしい表現というか、趣の深いところです。

「四条五条の橋の上」からは、車中で右を向いてワキ正から幕の方を見やり、あたりの景色を眺める風。また「六道の辻とかや」と遠くを見やって、思いにふける風など、抑制された型が続きます。

車を降りたシテは、直ぐには宴に加わらない様子で正中で下居して合掌し「仏の御前に母の祈誓を申さん」と祈る形。しかしワキに呼ばれて花見の宴になりクリ、サシ、クセと進みます。
クリでは病母に思いを馳せる風。大小前に進んで下居してシオリます。
またサシの「花前に蝶舞ふ」の一節は聞かせどころ。

クセは観世流は舞グセで、「立ち出でて峰の雲」で立ち上がり、謡に合わせての舞となります。クセの終わりの大小前左右から、シテの謡「山の名の音羽嵐の花の雪」で正へサシ込み開キ、地謡が受けて、シテは常座へ向かいつつ扇を上げ汲み上げる形から正中へ酌ノ扇の形で出て「妾御酌にまいり候べし」と詞。

ワキの「ひとさし舞ひ候へ」から、地謡「深き情を人や知る」でシオって立ち上がり橋掛りへと進み、三ノ松で立ち止まって戻りながら舞へと入っていきます。
確か国立能楽堂での六郎さんの熊野では、二ノ松あたりから戻りましたが、矢来と国立では橋掛りの長さが全然違うので、そのためでしょうか。

村雨留めの小書がついているため、中ノ舞を二段で打ち切って「なうなう俄に村雨のして」とシテの謡になります。熊野の村雨留というのは何度見ても気持ちが盛り上がる感じがします。舞をもっと見ていたいという気持ちもするのですが、途中で打ち切ってしまうことで、より思いが凝縮されるような感じです。

最後は「鳥が鳴く東路さして」と立ち上がり、急ぐ心で橋掛りへと進みますが、幕前から戻って、「明け行く後の山見えて」と一ノ松で雲扇から抱扇、再び幕前まで進んで留拍子を踏みました。思いのこもった風情ある熊野だったと思います。
(89分:当日の上演時間を記しておきます)

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子盗人 茂山忠三郎(国立能楽堂定例公演)

大藏流 国立能楽堂 2008.5.16
 シテ 茂山忠三郎
  アド 古川道郎、茂山良暢

博打打ちが盗みに入った家で、子供をあやすという、簡単に言ってみればそういう狂言。博打打ちのような人物が子守をするというギャップの面白さ、が主たるテーマなのかなあと思うところ。
でもシテの忠三郎さん、見るからに人の良さそうな雰囲気で、この人ならさもありなんと妙に納得してしまいます。

さて舞台は先ず女姿のアド乳母が、子供・・・といっても人形を抱いて登場してきます。薄い朱色のような明るい色の小袖を肩から掛けて、ちょうど初宮参りを思い起こさせるような形です。

笛座あたりに子供を寝かしつけた形で人形を置き、上から小袖を掛けて「茶を飲んでくるので」そのまま「やすませられい」と言い置いて退場します。
退場せずに狂言座などに下がる形もあるようですが、今回は幕から退場しました。

代わってシテが登場してきます。
常座へ出て名乗り、博打打ちである旨を語りますが、「もむほどに、もむほどに」と手を広げて回す所作、これがふと、昔の花菱アチャコか、坂田利夫さんの振りに通じるものがあるように思えまして、妙におかしかった次第。

ともかくこの博打打ち、すっかり損をした風で「相撲の果ては喧嘩、手慰みの果ては盗人になる」などと言って、一つ盗みにでも入ろうかと語ります。
下ノ町に道郎殿と申して、道具を好ませて集めている有徳人がいるので、今夜あれに忍び入って、なんぞ「案内なしに借りてまいり」それを元手に今一勝負、などと言いながら、舞台を廻って常座へ戻ってきます。

さてこのつづきはまた明日に

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水戸で能楽を観る・・・初夏能楽会(船弁慶 工藤寛、千鳥 茂山逸平)

本日は久しぶりに地元水戸での能楽鑑賞。
財団法人いばらき文化振興財団の主催で、水戸市の茨城県民文化センターを会場に開かれた会。いままでこの財団主催の能楽って聞いたことがなかったのですが、以前にも催されたことがあるのか、ちと不明です。

なにぶん、県民文化センターの大ホールはいわゆる多目的ホール。クラシックのコンサートもできる1500人収容の施設でして「能楽にはどうかなあ」という感じがあったのですが、会自体はなかなか面白く観てきました。
収容人数は1500というものの、今回は前から三分の二ほどまでが座席で後は空席。結果としてそうなったのか、最初から意図して後の席は無しにしたのか不明ですが、観客があまり散らばらずに良かったかなあ、と思います。

曲は狂言が茂山逸平さんの太郎冠者で千鳥。能は金剛流工藤寛さんのシテで船弁慶、こちらは金剛流独特の白波之伝の小書がついています。
観客は狭い範囲にいるというものの、そもそもホール自体が大きいため、マイクを通しての公演ですので、いささか感じが違います。また船弁慶のほうは、けっこう端折ってあって70分弱。昨年、同じ小書で金剛永謹さんの上演を見ていますが、この時と比べると15分くらい短い感じです。

そういう意味では、常々能楽堂で見ているのとは別物ではありますが、そもそも能楽を初めて観る観客が少なくない感じでしたので、そういう前提のもとでは、マイクを使ったり、相応に端折ったりするのは、むしろ良い判断ではないかと思います。客席も、全体的にあまり退屈することなく舞台に集中していたように感じました。

それぞれの上演に先立って10分程度の解説があり、狂言は宗彦さん、能は松野恭憲さんのお話。宗彦さんはさすがに場慣れしている感じで、大変面白く狂言の基礎の話をされて客席も沸きました。
松野さんは・・・私、松野さんが普通に話をするのを拝見したのは初めてですが、思いのほか穏やかな感じの方なんですね。お二人とも水戸は初めてとのことでしたが・・・

狂言、能、それぞれに面白く拝見しまして、ちょっとした気付きもありました。そのあたりはいずれ鑑賞記に書きたいと思いますが、ここには一つだけ。
松野さんのお話を聞いていたら、義経を子方が演ずるという話の際、子方・・・コガタと発音されまして、私、一瞬「小型?」と勘違い。
長年、子方=コカタとだけ思っていたので、これはビックリ。関西ではコガタというのか、はたまた金剛流だからなのか、不思議であります。

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子盗人のつづき

「なにかと申すうち早これじゃ」と屋敷についた風ですが「用心厳しい態じゃ」と、簡単には忍び込めそうにない様子を語ります。

しかし、このあいだ裏道を通っていたら、まだ塀の手の合わぬところがあったので、そこから入ろうと舞台を廻り、正中でこの塀の空いているところを見つけた形になります。塀が空いたところを垣根のようにしてあるのですが、こんなこともあろうかと「鋸を用意してきた」と切り始めます。

「ズカ、ズカ、ズカ」で一段を切り、また「ズカ、ズカ、ズカ」と次を切り、三度目に「ズカ、ズカ、ズカ」から「ズッカリ」と切り落として「メリメリ」と引き捲ります。
この音がたいそう大きい様子で、シテは自分の耳を押さえて座り込んでしまいます。

「鳴ったり、鳴ったり、したたかな鳴りよう」だったので「人に聞かすまいと思って我が耳を」塞いだと説明。なかなか面白い展開です。
さらに空いたところをくぐる所作もあり、ようやくくぐったと正先に出、さらに次の塀は飛び越えて「表の座敷じゃ」と地謡座の方へ向きます。

座敷に灯がともっている様子に驚いて常座まで逃げ、驚きに「胸がだくめく」などと言います。しかし再び地謡座近くまで進んで、覗く風で地謡座に入りくるっと向きを変えると、今度は舞台が座敷の中になります。
このあたりの空間の使い方はとても面白いですね。

正中まで進んで部屋の中を見廻す風。さらに座して茶道具を見つけて見入る様子です。
忠三郎さんは関西在住のため、東京では国立の公演などが主ですから、あまり拝見したことがないのですが、丁寧で、そして関西の笑いと言ったらよいのか、おかしさが伝わってくる狂言。好感が持てます。

このつづきはもう一日
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子盗人さらにつづき

茶道具を見始めた博打打ち。風炉、釜、茶碗、茶入れと見ていきます。釜は芦屋であろう、茶碗は高麗であろう、などとなかなか詳しい様子です。茶入れの形も気に入った様子で、これを盗って帰ろうなどと言いますが、立ち上がってさらに見物を続ける様子。

ワキ座を見、地謡座あたりを見廻しながら、武具、馬具と見物しているうちに、笛座前の小袖に気付きます。
「女どもの機嫌が悪しうござったによって」この小袖を持って帰って、女房にやろうと、小袖を取り上げます。すると小袖の下に、寝ている子供。「幼い、が寝させてあるぞ」と驚きます。

「道郎殿の幼いでござろう」と、子供を覗き込むと目を覚ました様子で、手を出して抱いてほしいということか、などと言って「抱きましょう」と人形を抱き上げ正中へ出ます。
ここから子供をあやすさまを見せますが、これがなかなかに面白い。
何か芸はないか、と子供をあやし「にぎ、にぎ、にぎ・・・」とあやしては大笑い。「そなたは芸者じゃ」と、子供がかわいくてたまらない様子。

「かぶり、かぶり、かぶり・・・」とあやしたりします。
子供が機嫌を悪くした、と正中に座して「泣くまいぞ若子さま」と謡いあやします。
子供の見目形が良いこと、貧乏人の子供と違って目を覚ましても機嫌がよいことなど、子供を褒めたりし、「がってん、がってん、がってん・・・」とあやしていると、乳母が再び登場してきます。

乳母は一ノ松で止まり、博打打ちに気付いて主を呼びに戻ります。シテが立って子供を肩に載せ、謡い舞いしてあやしているうちに、主が一ノ松で太刀を持って舞台へ進み、太刀を抜いて博打打ちに斬りつけようとします。

博打打ちは弁解し、子供を盾に太刀を避けつつ、常座あたりに子供を置いて逃げ、主が追い込む形。
舞台には乳母が残り、子を抱き上げて、危難にあったが助かったので、と子の長命を言祝いで退場します。たしか「(齢は)五百八十年、うれしやのう」などと言っていたようでした。
大笑いという狂言ではありませんが、なかなか味のある曲でした。
(29分:当日の上演時間を記しておきます)
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碇潜 船出之習 岡久広(国立能楽堂定例公演)

観世流 国立能楽堂 2008.5.16
 シテ 岡久広
  ツレ 関根知孝 北浪貴裕
  ワキ 森常好、アイ 茂山良暢
   大鼓 亀井忠雄、小鼓 林光壽
   太鼓 小寺佐七、笛 寺井久八郎

(昨日は帰りが遅くなったため更新をパスしまして、本日から先月の国立能楽堂定期公演の鑑賞記です。)

碇潜(イカリカヅキ)初見です。この曲、現行曲としているのは観世流と金剛流のみですし、その両流でもあまり頻繁に上演される曲ではないようです。

今回は船出之習という小書がついていまして、観世流の常の形では登場しないツレの二位尼と大納言局が登場する形です。
ただ、これって二人が登場するほうが元々の形だったようで、金剛流の本ではツレが出るこの船出之習の形で記されています。

国立能楽堂の今月のパンフレットには、観世流が現在のツレを出さない形としたのは江戸時代後期と見られる旨が書かれていました。どうしてこういう改変をしたのか、今ひとつ理解できないのですが・・・というのは、実際に観てみると、このツレが出る形というのはなかなかに面白いのですね。
どこかで、二位尼と大納言局が登場し安徳帝入水のくだりを見せるのが憚られたのだろう、といった解説を読んだ記憶があるのですが、明治期に入ってならそれも「なるほど」と思えるところ、改変が江戸時代後期だとなると、なんだか納得しがたい思いも残ります。
さて、次第の囃子でワキの僧が登場してきます。
森さんの堂々とした僧。次第の謡に続く名のりで、いまだ西国を見ていないので西国行脚を志したと語ります。
観世の本では「さても平家の一門は長門の浦にて果て給ひて候・・・」とやや長めの語りになっていますが、金剛の本はこの西国行脚の形です。
なお、能楽堂のパンフレットに入っている当日の詞章では西国行脚を取っていました。これまで何気なくパンフレットを見ていましたが、謡本をそのまま載せているのではなかったんですね。

さてこのつづきはまた明日に
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碇潜のつづき

ワキが鞆の浦に着いた旨を述べ「心静かに一見せばやと思い候」とワキ座へ着くと、一声の囃子で前シテの出になります。

前シテは無地熨斗目の着流しに茶系の水衣、修羅能前シテらしい老人姿です。左手に棹を持ち舟を操っていることを示しています。
常座での謡「磯千鳥、友呼び交わす声なり」と比較的、力の入った謡です。老人というには、何かありそうだと思わせるような力強さがあります。

現れ出でたシテに、ワキは舟に乗せてほしいと持ちかけますが、シテは船賃(センチン)を求めます。出家の身に船賃を求めるのは無道であろうとワキが返し、シテは、今度はワキが首に懸けているのは何かと問います。

ワキは経典であるが望あれば読誦しようと言い、左手に経文を持ちます。シテは喜んでその読誦を船賃にしようと返事し、ワキはワキ座に正面を向いて立ち、経文を広げて読む形。
「妙法蓮華経薬王菩薩品、如子得母如渡得船」とワキが経文を読み上げ、シテは常座で下居し、ワキに合掌します。「渡に船を得たりとや」経文はまさに船を得たとの文言であり、地謡が受けて、急ぎ船に乗るようにとワキを促すところ。

この曲、なんとなく語呂が悪いというか、七五調にならないところが少なからずあって、ちょっと謡いにくい感じがします。謡曲だからといって皆七五調という訳ではありませんし、他の曲でも良くあることですが、なんだかこの曲の場合、引っかかる感じがするんですね。
ここも「とくとく召され候へ、とくとく召され候へと」と地謡が受けますが、最初の句はもう一文字ほしいところ。ちょっとここで地謡が乱れたような感じを受けましたが、そのせいだったのか・・・

ともかくシテが立って棹を構え、ワキがその前に座して船中の形になります。
地謡が「他生の縁はありがたや」と謡い終えると、棹を構えなおしたシテは「船が着いて候、御上がり候へ」とワキに声をかけ、ワキはワキ座へと向かいます。ワキはあらためてシテにも船から上がるように求め、古の軍物語を所望します。
このつづきはまた明日に
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銕仙会を観に行く

昨日は出張の帰りに銕仙会を覗いてきました。
上野から帰るのに、水道橋の宝生の能楽堂は最も至近の場所ではあるのですが、終演と同時に急いで駅に向かったものの、やはり家にたどり着いたのは、そろそろ日付も変わろうかという時刻。仕事の都合で朝は5時起きだったこともあり、さすがに昨夜のブログ更新は断念しました。
そこで本日は朝のうちに・・・と思っていたら、なんと岩手・宮城の地震。結局、更新は夜になっております。

さて銕仙会ですが、金曜日の夕方ということで、なかなか拝見できません。定期公演は一昨年の6月以来ちょうど二年ぶりでした。宝生能楽堂では、このところ宝生会、五雲会と宝生の会を割と良く観ていますが、見慣れたつもりの能楽堂の様子が、なんだかいつもと違うような感じ。
そうなんですね。宝生の会はこのところ年に四、五回くらい観ているせいか、どなたかは存じ上げないものの、なんとなくお顔に記憶のある方が少なからずいらっしゃいます。
一方、銕仙会は久しぶりでもあり、見知らぬ方ばかりの感じ。なんとなく見所の雰囲気も違います。

遠い学生時代には、昔の水道橋能楽堂に、ほぼ毎月銕仙会を観に通っていたのですが、なんだか別世界に紛れ込んでしまったような感じです。
と、休憩時間に、このブログにも時々書き込みをいただく佐藤さんを発見。なんだかホッとして嬉しくなった次第です。

曲は浅見慈一さんのシテで「胡蝶」と、銕之丞さんのシテで「藤戸」。それに狂言が石田さん、万之介さんで「杭か人か」。

私ね、ちょっと考えてしまったんです、「これってなんなのだろう?」って。
能二番とも、とっても面白かったんですね。正直言って寝不足でしたし、一日出張仕事でグッタリしていたので、もしかしたら途中で寝てしまうかもなんて思っていたのですが、とんでもない話。
藤戸は曲調からも納得できるとしても、たかが胡蝶で・・・と。

ちょっとした型の使い方、謡の調子、所作、そうしたものの組み合わせなんでしょうけれども、いろんなものを感じ、いろんな事を考えてしまう。そんな能でした。
そう言えば、学生時代に観た寿夫さんの能も凄かったなあ・・・
時々お邪魔しているSantalさんのブログ「サンダルウッドな胡椒~観能感想など 」。曲の流れを中心に書いている私の鑑賞記とは違って、深い洞察が書かれていて感心することしきりですが、Santalさんが銕仙会をよく観ておられるというのは偶然ではありませんね。

鑑賞記はずっと後になりますが、この二番をめぐって私も少しばかり考えたことを書いてみたいと思っています。
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碇潜さらにつづき

ちょっと間が空きましたが、碇潜のつづきです・・・
ワキの求めで、シテの語になります。シテは棹を後見に渡し、背から扇を出して床几にかかり、壇ノ浦の合戦の様を語り出します。

能登の守教経が、小船に乗り大長刀を振り回して多くの兵を薙ぎ倒していると、新中納言知盛が使者を立て、無益の殺生をしないようにと伝えた。これを大将と組めということだと解した教経は源氏の船団に紛れ入り、九郎判官(義経)を捜したと語ります。

地謡が受け、教経は判官の船に乗り移り打ってかかったが、判官が適わないとみて見方の船に飛び移ったために、教経は仕方なく長刀投げ捨てた、と謡います。
この間、シテはほとんど動き無く、ほんの少し面を使う程度。

しかしその後、安芸の太郎、次郎という兄弟が押し寄せて能登の守との戦いになったと謡がつづき、シテはほんの少し手を上げたり、面を切ったりなどの動きを見せます。この小さな動きが、緊迫した戦の場面を十分表している感じ。

この兄弟を「左右の腕をさし出し、彼等をつかんで引き寄せて」と両手を出して引き寄せた形から立ち上がり、「左右の脇に挟んで波の底に沈みけり」と下居の形で海中に没したところを表します。
シテは閑かに「さてこそ人々の」と謡い、ゆっくり立って常座へと向かい、合掌して中入りになります。

シテが退場するとアイが常座に出て、この浦に住まいする者だが、波風あって漁に出られなかったところ、今宵は船を出そうと思う言って二、三足出て、ワキに気付いて問答となります。
アイは茂山良暢さん。忠三郎さんのご一家をアイで拝見するのは初めてですが、言い回しなど独特な感じで、歌舞伎にも通じるような感じを受けました。
「存ぜず候、さりながら」は、これまでアイで拝見した方ほとんどが、一つながりといって良いような言い回しをされていましたが、「存ぜず候」でちょっと切って、あらためて「さりながら」と続けた感じです。候も「ソオロ」ではなく「ソオロォ」と四音節で発音されていました。

アイが下がると、観世流の通常の形ではワキの待謡、早笛で後シテの登場となりますが、今回は小書のため、アイが狂言座に下がると幕が開いて、濃い緑の引廻しを懸けた大宮を乗せた船が出されてきました。
このつづきはもう一日、明日に
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碇潜さらにさらにつづき

観世流の謡本は親切なことに船出之習の際の詞章も掲載されています。なにぶんツレが出たりとか、随分と形が変わりますから、掲載されていると有り難いですね。

出されてきた船は大小前に横向きに置かれてワキの謡。平家の跡を弔っていると大船が浮かんできて、船中からは琴を弾ずる音が聞こえてきたと謡います。

これに応えるように、後ツレ二位尼のサシ「いかに大納言の局、今宵は波も閑かなれば・・・」と引廻しの内で謡い出します。
地謡の「せめては月を松風の」で引廻しを外しますが、後見二人が引廻しの幅一杯に、ちょうど幕のように引き広げたまま「吹くも由なや苫取りて」まで聞いて、幕を下ろすように引廻しを下げると、船の中央部分に床几にかかった二位尼、右手笛座側には大納言局、左手シテ柱側には後シテ知盛の霊が下居しています。

この後、クリ、二位尼のサシ、そしてクセと続き、安徳帝の入水の様が謡われます。床几にかかったままの二位尼がシテのような感じですね。
地謡の最後、「夜すがらくどき給ひしに」の後、調子が変わり「にはかにかき曇り」で三人が立ち上がって、ツレ二人は切戸口から退場。
シテは長刀を取って常座で「すはまた修羅の」と謡い、地謡が「合戦の始まるぞや」と謡って舞働になります。

後シテは三日月の面をつけ、鉢形のついた黒頭に梨打烏帽子で知盛を表しています。この船出之習の際は、舞働をカケリにすることもあるようで、その際は黒垂にし鉢形を着けないと装束付けには記されています。

舞働の後は、謡に合わせて長刀を使い動きの激しい舞。「今はこれまで沈まんとて」で後見に長刀を渡して扇を広げ、「碇の大綱えいやえいやと引き上げて」と正先で綱を引く形から、「碇を戴き」と飛び返って、最後は再び立ち上がって留拍子を踏みました。

前シテは詞章から教経の幽霊のように思えます。しかし後シテは知盛の幽霊として現れ、さらに二位尼による安徳帝入水のくだりと、バラエティに富んだ展開。興味深く拝見しました。岡さんは昨年、経正のシテも観ていますが、切れの良い修羅で、観世流らしい能でした。
(77分:当日の上演時間を記しておきます)
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老松 今井泰行(宝生会別会)

宝生流 宝生能楽堂 2008.5.25
 シテ 今井泰行、ツレ 野月聡
  ワキ 宝生欣哉、アイ 石田幸雄
   大鼓 柿原光博、小鼓 幸正昭
   太鼓 小寺佐七、笛 一噌仙幸

脇能は、高砂や弓八幡のように後シテが神舞を颯爽と舞う曲や、嵐山や賀茂などのように舞働きを見せるもの、楽を舞うものなど様々な種類がありますが、老体の神が現れ真ノ序ノ舞を舞うというのは、この老松と白楽天それに、喜多流にはありませんが放生川くらいではないでしょうか。

さてその数少ない一曲ですが、まず脇能らしく真ノ次第でワキ宝生欣哉さんの梅津の何某と、ワキツレ梅村昌功さん、則久英志さんの従者が登場します。真ノ次第で登場したワキ、ワキツレの次第が三遍返しになるのは以前書いた通りです。

次第の謡の後は常の通りワキの詞となります。自分は都の西、梅津の何某であるが、北野天満宮を信心しており、ある夜霊夢に見たところでは、筑紫安楽寺に参詣せよとのことだったので、九州に下向するところと述べます。現在も京都市右京区には梅津という地名がありますが、このあたりの人という設定なのでしょうか。わざわざ梅津の何某と名を出したのは、後に出てくる飛梅と関係づけてのことかも知れません。

続いて三人の道行になりますが、この道行の謡は手元の謡本とは全然違うもの。
上掛りでは「何事も心にかなふこの時の、ためしもありや日の本の」と謡い「安楽寺にも着きにけり」と結びますが、下掛りでは「上野に通ふ春風の」と謡い出し、最後は「筑紫の地にも着きにけり」となります。ワキ方が下掛り宝生流のため、ここは下掛り系の謡ですね。
謡の後、上掛りでは直ぐに真ノ一声でシテ・ツレの出となりますが、この日はワキの「急ぎ候程に、筑紫安楽寺に着きて候。心静かに古木の謂われを尋にょうずるにて候」(たしかそんな風に聞こえました)と着きゼリフがあって、それからワキ座に着座しました。
「筑紫の地にも着きにけり」ですから、「安楽寺」とことわっておく趣旨でしょうね。ちなみにこの詞は喜多流の本には見えません。

さてこのつづきはまた明日に
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老松のつづき

ワキの一行が着座すると、真ノ一声の囃子が奏されて、ツレの若い男が出て、後から杉箒を担げたシテの老人が登場してきます。
私、若い頃に一噌流の笛を少しかじっていたのですが、恥ずかしながら笛の善し悪しというのがよく分かりません。できれば音がちゃんと鳴る方が良いなあという程度ですが、この真ノ一声の最後のところ、仙幸さんの笛はとても印象的でした。

この後、登場した二人が橋掛りで向き合い、シテが一セイを謡ってツレが二ノ句、二人同吟の後、歩ミアシライで舞台に入ります。この一セイからの笛のアシライも、なんとも言えない趣がありました。ツレの二の句のアシライは高く清々しい音。脇能に相応しいと感じたところです。

ツレが正中、シテが常座に立って向き合い、サシ、下歌、上歌と早春の景色を謡い「手折りやすると守る梅の」でシテとツレが入れ違い、「梅の花垣をかこはん」とシテが正中、ツレが目付へと出ます。

ワキが立ち上がって飛梅の所在を聞きます。しかしシテの返答は、この地では紅梅殿とあがめているというもの。そしてその所在はさておいて、傍らの松に注意を促します。

ワキは垣を結びしめ縄を引いた松を見てまことに神木と感じたと述べ、シテの謡から続く地謡「守る我さへに老が身の」で、ツレが地謡前へ、ワキがワキ座に着座し、シテは正中に下居して後見が肩上げを下ろします。

ワキが当社の謂われを詳しく物語るようシテに求め、続く謡からクセへと、道真が愛した紅梅殿と老松が末社と現じたことをはじめ、梅、松ともに唐土で尊重されて、梅は国に文学が盛んになると花の色、匂いを増すために好文木とも謂われること、秦の始皇帝の時に松が帝を雨から守ったことから大夫の爵を贈られたことなどが謡われます。

さてこのつづきはまた明日に
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老松さらにつづき

クセは居グセですが、続く謡の「ここも同じ名の」でシテが腰を浮かせ「天満つ空も」と立って「万代の春とかや千代万代の春とかや」と常座を向いて中入りとなります。

もともとこの「万代の春」の部分は「神さびて失せにけりあと神さびて失せにけり」という謡ですが、徳川の本姓が松平であることに憚って直したようで、観世流大成版では「神さびて」が基本で「万代の」と謡う場合もあるとしています。宝生では「万代の」の記載だけのようですね。

シテ、ツレが退場するとアイ所の者が呼ばれて登場し、安楽寺建立の次第と飛梅、老松のいわれを語ります。この日は開演前に出勤途中の石田さんをお見かけしたのですが、舞台の上では一回り大きい印象です。気の力ですかねえ。

アイが下がるとワキ、ワキツレの待謡で、出端の囃子へと移ります。出端とはいっても老体の神の出のため、随分とゆっくりしたテンポです。
後シテの登場は老松の神ということで老体ですが、厳かではあるものの老人くさくはないという微妙なバランス。常座に立ち「如何に紅梅殿」と謡い出し、今宵の客人を如何に慰めようかと、歌を歌い舞を舞うと謡って、真ノ序ノ舞になります。
この舞もまた老体ながらも凛とした舞で、端正な、という表現が一番あっているかも知れません。

舞い上げると「さす松の」と上げ扇をし、大ノリの謡に乗せて舞い続け、「さゞれ石の巌となりて苔のむすまで」と片膝ついて雲扇をして上を見、立ち上がって正先へ出て両袖を巻き上げ、「久しき春こそめでたけれ」と常座で留拍子を踏みました。

長時間、かつ老体の神ということで、ゆったりした能でしたが、端正な能といったら良いか、脇能に相応しい筋の通った舞台で、飽きることなく拝見しました。
(99分:当日の上演時間を記しておきます)
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鱸庖丁 野村万作(宝生会別会)

和泉流 宝生能楽堂 2008.5.25
 シテ 野村万作
  アド 深田博治

鱸庖丁は一昨年に石田幸雄さんのシテで観たのが初見ですが、その時はなんとなく腑に落ちない狂言という印象でした。今回は万作さんのシテですが、石田さんの時と基本は同じですし、二度目でもあり、なんとなく飲み込めてきたというところです。

まずは庖丁が、ホウジョウ(謀生種の謀生つまり嘘ですね)を掛けているというのが鍵で、これが分からないと最後のオチが分からない。また一方で、川獺、深田さんはカワウソと発音したように聞きましたが、川獺は多くウソないしオソと発音されたようで、これがまた嘘を掛けているというのが良くできたところです。

もっともこの曲、狂言としては割合長時間ですが、これはシテの鱸を料理する仕方話の部分が大方を占めているわけでして、これが見せ所ということなのでしょうね。

深田さんはもともと真面目な雰囲気の演者ですので、伯父をごまかしてやろうという、ちょっと悪賢い甥というには、真面目すぎる感もあるのですが、狂言があまり写実的すぎるのもどうかというところで、むしろ味わい深い感じもします。

鱸を料理していくところは、万作さんの芸の見せ所ですが、まずは鱸を何して食べようかという問いに、甥が打ち身にしてほしいというと、打ち身の謂われを語ります。
石田さんの時の鑑賞記にも書きましたが、打ち身というのは鯛や鯉の古い料理法で、室町時代後期には刺身と混同されて絶えてしまったようです。

寛和元年、花山院の御代、四季折々の遊びのうちに狩に出られ、遠江国橋本の宿の長のもとにお着きになった。この際に、鯉をお出ししたところが、庖丁人の四官の大夫忠政が、これを見事に料理し、打ち身の起こりとなったという話が語られます。

史実かどうかは別としても、なかなか面白い話ではあります。
この曲、もう少し書いてみようと思います。
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鱸庖丁のつづき

打ち身の由来を語った後、伯父はいったん立ち上がってシテ柱のほうに進み、橋掛りへ向かって鱸を持ってくるように声をかけます。
二度ほど、話の途中で鱸を持ってくるように声をかけるのですが、さてこれが持ってこないのを承知で声をかけているのかどうかまでは明らかにされません。見所の想像に任せるということでしょうか。

座に戻った伯父は、今度はおっつけ鱸が出てくるので、これを料理しようと仕方話をつづけます。
紙を置き、鱸を置いて箸、包丁を使ってまず魚頭をつき、続いて上身をおろし・・・と、包丁を使う身振りを見せつつ話を進め、中うちを三つに切って煎物(イリモノ)にしようと語ります。
煎物、煎るといえば煎り豆のようにカラカラになるまで火で焙った様な感じですが、魚の料理ではどうなのか、焼き魚の様な感じなんでしょうか。

魚頭は膾にして食べよう、などと話が進みます。
これを魚に酒を呑むことにしよう。と、さらに酒を呑む話まで展開します。

鱸を様々に料理して食べ、酒も五杯の七杯で、都合十二杯呑み、濃茶まで飲んだと様々に話を進めますが、酒を十二杯も飲んだということで、酔った様子まで見せつつ、伯父の話が続きます。

さてこれだけのご馳走にあずかれば礼を言うであろうと、伯父は甥に話し、礼を言うように求めます。
その礼の言葉をもって、伯父がまとめの話をします。

鯉を川獺(ウソ)が食ったというが、鱸も包丁(ホウジョウ)が食ってしまった。
今の話で食べた気持ちになって早く帰れ、と伯父が言い、面目もないと甥が謝って留になります。
もともとの題材はホウジョウとウソの駄洒落で、それが主体の狂言なんでしょうけれども、万作さんの演技は芸術の域に達していた感じですね。
(24分:当日の上演時間を記しておきます)
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轍の会を観に行く・・・ブログ2周年

本日はこのブログを開設して二周年にあたります。
記事自体は3月5日分からあります。これは3月に別なところでブログを始めたものの、どうも使い勝手が気に入らなかったので、3ヶ月ほど経ったところでFC2に引っ越してきたためでして、後から遡って更新したものです。

二年間の間に62000のアクセスがあり、いくつかのコメントもいただきました。
素人の勝手なブログではありますが、気の向くままに続けていこうと思っています。ご来訪の皆様、よろしかったら時々覗いてやってください。

さて本日は金春流、本田光洋さんと櫻間金記さんの二人の会「轍の会」を観に、国立能楽堂まで行ってきました。思いのほか雨が強くて、JRでも伊東線が止まったりしていたようですが、とりあえず無事に往復してきました。

この轍の会、何年も前から観よう観ようと思いつつ、なかなか機会がなかった会でして、本田光洋さんの江口と、櫻間金記さんの恋重荷という二番でしたが、良い舞台を拝見した感じです。見所も金春の会としては落ち着いた感じで(というと失礼ですか・・・)熱心に観ている方が多かったように思います。江口では囃子方が入るまで拍手も出ませんでした。

そんな中、先日の銕仙会でもご一緒だった佐藤さんを見かけ、しかも席が私の前。私は会の案内をいただいたその日に、本田さんのお宅に電話をしてお願いしたせいか、とても良い席を取っていただいた・・・と喜んでおりましたが、その真ん前。金記さんの方にご依頼されたのでしょうか。
いつも、終演後に少しばかり感想でもお話ししたいものと思いつつ、今日も結局は帰りの電車の時間を気にしつつ千駄ヶ谷駅に急ぎました。

鑑賞記は例によっていずれそのうちにと思っています。
そうそう狂言は三宅右近さんのシテで舟渡聟。酒を所望した船頭が舅だったというのは、いくらなんでも出来すぎという感じもしますが、船頭の所望に聟も一緒に酒を呑み、空樽を持って舅のところに行くという大藏流の形よりも面白いような気もします。
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鸚鵡小町 寺井良雄(宝生会別会)

宝生流 宝生能楽堂 2008.5.25
 シテ 寺井良雄、ワキ 工藤和哉
   大鼓 亀井実、小鼓 幸清次郎
   笛 寺井久八郎

もう一昨年になってしまいましたが、18年の12月に観世流浅井文義さんの鸚鵡小町を観ています。その鑑賞記にも書きましたが、浅井さんは以前に見た葛飾北斎筆の七小町屏風に描かれていた鸚鵡小町が若い姿だったことに基づいて、浅井さんなりの解釈ということで、かなり若い姿での小町を演じられました。

今回はまさに老女としての小町が描かれた形です。
この曲、以前にも書いた通り金剛流では卒塔婆小町、鸚鵡小町、関寺小町の三曲を三老女と称するようで、相当に重い扱いらしいのですが、観世流などでは三老女といえば姨捨、檜垣、関寺小町を指しますので、それらよりは少し軽めという感じかもしれません。

話は、歌道に深く心を寄せる陽成天皇の御代、和歌の名手として知られた小野小町が百歳の姥となって、近江の関寺あたりにいると聞かれた天皇が、新大納言行家を使わして歌を送ったことが発端となっています。

そもそも小野小町が如何なる女性だったのか、良くわからないことのほうが多いようですが、仁明天皇から文徳天皇の頃に更衣として仕えたようで、位が仁明天皇から文徳天皇に移った850年に二十代から三十代としても、陽成天皇の頃(876年から884年)にはせいぜい五十代から六十代といったところ。百歳の姥というのはいくらなんでも、と思いますが、まあ伝説なんていうのはそんなものでしょうし、当時は六十にもなると現代の百歳くらいの感覚だったのかもしれません。

ともかく、先ず舞台に名乗り笛で登場してくるのはワキの新大納言行家です。
その名乗りからは、明日につづきます
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鸚鵡小町のつづき

工藤さん、いつものように少し小首をかしげたような感じで常座に立ち、歌道に熱心な陽成天皇が「出羽の国小野の良実が娘に小野の小町」は、ならびなき歌の上手だったが、今は百歳の姥となつて関寺あたりにいると聞かれて、御憐の歌を下さった。その返歌によっては重ねて題を下すべきとのお言葉があったと語ります。

そして、これからその小町の所へ急いで行くと述べてワキ座に着座します。

一声の囃子になりシテの出。この日は、亀井実さんの大鼓と幸清次郎さんの小鼓が、柔らかく絡み合い良い雰囲気。大鼓もこんな雰囲気が出せるんだなあと、しみじみ思ったところです。

やがてシテの小野小町が笠を被り、杖をついて登場します。
さすが百歳の老婆ということで、歩みもゆっくりと、途中二ノ松で休息の型をしますが、この休息の場での大小がまた趣深いものでした。
再び歩み始めてシテは常座に立ち、一セイ「身は一人、我は誰をか松坂や。四の宮河原四つの辻」と徘徊する我が身を嘆き、サシ、上歌と謡います。

ワキはシテに小町かと呼び掛けますが、これにシテはワキを向き、一呼吸置いてから「見奉れば雲の上人にてましますか」と答えます。この一呼吸が老いを感じさせるところ。さらに笠をとって左手に持ち、何事かとワキに問いかけます。
ワキは何処に住まいするのかと問い、この関寺あたりに日を過ごしていると問答が続く形です。

さらに、ワキとシテは掛け合いで関寺あたりの風光を述べ、地の上歌「立出で見れば深山辺の」で常座からワキ正へと出、周囲を見回しながら、関寺近くから見渡される名所を数え上げる名所教えとなり、上歌の終わりで常座に戻ります。

シテは都恋しい時は都路に出て物乞いをし、また関寺に戻るという暮らしをしていると述べ杖を置いて下居。笠を置いてワキを向く形です。

さらにシテとワキの問答が続いていきますが、このつづきはまた明日に
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鸚鵡小町さらにつづき

ワキが懐中から文を取り出し、帝より憐れみの歌を下されたと、立ってシテに文を渡し、正中に下がって下居します。
シテは一度文を開きますが、間をおいてから、老眼なので読んでほしいと答えます。

ワキは再び立ってシテから文を受け取り、下がって下居「雲の上は ありし昔に かはらねど 見し玉だれの 内やゆかしき」と歌を詠みます。
これにシテは「返歌を唯一字にて申さう」と言い、不思議がるワキに「ぞといふ文字こそ返歌なれ」と答えます。

帝の歌とこれへの返歌を巡るシテ、ワキのやり取りが和歌の技法「鸚鵡返し」にかかるもので、この故に鸚鵡小町という曲名になってくるのですが、この鸚鵡返しを
ワキ「不審ながらも指し上げて、雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内やゆかしき」
シテが「さればこそ内やゆかしきを引きのけて、内ぞゆかしきとよむ時は、小町がよみたる返歌なり」
と、末の句の「や」を「ぞ」と変えて返歌としたことを述べるわけです。
このやり取りから地謡の上歌となり、ワキはワキ座に戻って下居します。

この鸚鵡小町を含め、老女となった小町はなかなかに理屈っぽい感じです。
登場から問答まで、確かに出の途中の橋掛りで立ち止まったり、謡や詞に間があったり、老女らしい展開は見られるのですが、印象としては「この婆さん、なかなかやるんじゃないの」という感じです。
老の姿ではあるものの、心はかつて宮中にあって才人といわれた時と何ら変わらないのだ、と主張しているようにも見えます。

いずれにしても帝に歌をいただき、その一字を変えて返歌とするのは畏れおおいことであり「帝の御歌を奪ひ参らせて詠む時は天の畏れも如何ならん、和歌の道ならば神も許しおはしませ」との地謡に合わせて、いささか腰を浮かせて合掌します。

ワキが立ち上がってワキ座へ直り、シテは再び座り込んだ感じで正面を向きます。
さてこのつづきはまた明日に
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鸚鵡小町さらにさらにつづき

シテは下居したままでクリ、サシ、クセと謡が展開します。
まずは鸚鵡返しの由来が謡われ、さらに小町がかつて和歌の才に優れ、また美人の誉れ高かったものの、今は「憔悴と落ちぶれて身体疲瘁する」様が謡われ、シテは安座してモロシオリ。

クセは居グセですので、クリから、サシ、クセとシテはじっと座したまま動きませんが、どうもこの謡の前後でシテの印象が変わったような感じがしました。
登場してからの、老人ではあるものの、なんとなくしゃれた理屈っぽさが強い印象から、この謡の進行に合わせてぐっと老け込んでしまい、まさに「憔悴と落ちぶれて身体疲瘁する」様になった感じです。

ワキは、在原業平が玉津島で舞った法楽の舞をまねて舞うようにシテに求めます。
これを受けてシテの物着。「さらばまなふでお目に掛け候べし」と杖を取って立つのですが、立ち上がった時にふと少しばかりよろけたのは、演技なのか、ハプニングなのか判然とはしませんが、まさにその気分です。

物着では水衣を脱いで長絹に風折烏帽子を着けます。
シテの「和光の光玉津島」の謡から、地謡が「廻らす袖や波がへり」と受けて舞になります。

以前にも書きましたが、ここの舞は中ノ舞を序ノ舞の位で舞う形のようです。当日のパンフレットにも序ノ舞と書いてあるし、序ノ舞と解説された本も目にしますが、今まで観た鸚鵡小町は中ノ舞だったように思います。まあ中ノ舞でも序ノ舞でも、見ているほうとしてはどちらでも大差ないといえば、大差ないのですが・・・現行の観世の本では「舞」としか書いてありませんが、宝生の現行本では「中ノ舞」と記載されています。

途中、疲れ果てたという風情で二段のヲロシで下居。
舞に入ると、さらに老の疲れが募ってきた風で、ヨタヨタとした運びになりました。二段のヲロシも、ゆっくりタラタラと下がって、もう立っていることも難しいという感じ。

しばし休息の後再び舞い始め、舞上げた後は、歳月の移りゆく早さに昔を恋しいと小町が嘆く中、ワキが立ち上がってシテと入れ違い、はや日も暮れたて都へ帰ると橋掛りへ進みます。
シテは橋掛りへ向かうワキを追うように常座へ進んだ後、正へ向き直り二足下がってあらためて幕の方を見、追う気持ちだけを見せて二足出「柴の庵に帰りけり」と、拍子を踏まずに留になりました。(114分:当日の上演時間を記しておきます)
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正尊 小林与志郎(宝生会別会)

宝生流 宝生能楽堂 2008.5.25
 シテ 小林与志郎、子方 波吉敏信、義経 辰巳満次郎
  ツレ 高橋亘 山内崇生 大友順 小倉健太郎、姉和 東川光夫
  立衆 水上優 渡邊茂人 小倉伸二郎 小林晋也 和久荘太郎
  ワキ 森常好、アイ 高野和憲
   大鼓 國川順、小鼓 住駒幸英
   太鼓 大江照夫、笛 内潟慶三

この前、正尊(ショウゾン)を観たのは三年以上前でしたか。
観世流でしたので起請文の小書付。今回は宝生流でして小書はありませんが、実際の進行は観世流の小書付と同様になります。
実はこの正尊については、シテとワキの扱いについて、いささか込み入った話があるのですが、この話は後ほど触れたいと思いますので、とりあえず舞台の展開に。

まず出し置きの形で、ツレの義経、子方の静御前、ツレ郎等四名が登場してきます。義経はワキ座で床几にかかり、静、郎等は地謡前に着座。郎等四人は白大口に掛直垂、梨打烏帽子に白鉢巻の揃いの装束です。

一同が着座すると名ノリ笛でワキの弁慶が登場してきます。堂々と登場した弁慶は常座で、頼朝・義経兄弟が不仲になったことを語り、さらに土佐正尊という者が義経を狙う目的で鎌倉より都へ上ったと聞いた義経が、その正尊を召し連れるようにと命じたため、これから正尊の宿所に向かうと述べます。
このワキの語り、謡本と比べるとだいぶん短くて、本にある梶原が遺恨により義経を讒奏したくだりもありません。喜多流の本に近い感じでして、いつぞやLi Zhitianさんからコメントいただいたように、下掛り宝生の謡は喜多流の本に最も近い形で出ているということのようですね。

ワキは常座からいったん正中へ出てから橋掛りへと向かい、一ノ松で案内を乞います。
するとシテの正尊が登場して三ノ松で弁慶に向き合い、義経からの使者と聞いて手をついて応対します。
ワキは上洛したならなぜすぐに伺候しなかったのかと問いただしますが、正尊は熊野参詣のために上洛し昨日、京に着いたものの、所労のため伺候が遅くなったと弁解します。
冒頭からシテとワキの緊迫した場面となりますが、さてこのつづきはまた明日に
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正尊のつづき

ワキはともかく連れてこいとの命令だからと、正尊を連行しようとします。このシテ・ワキ掛け合い、同じ上掛りでも観世流とは結構違っています。もちろん基本的なやり取りは変わりませんが、こういう節付けのない部分は流儀による違いが多いようです。

シテ、ワキの掛け合いから地謡となり、ワキがシテに寄るとシテは立ち上がってワキと橋掛りで入れ替わり、シテが先に後見座にクツロギます。
ワキは正中へ出て、ツレの義経に正尊を連れてきた旨を告げる訳です。

シテが正中へと進んで平伏すると、義経から「如何に土佐坊珍しや、さて何のために上りてあるぞ」と上洛の理由を聞かれ、またワキ弁慶からも問われます。この両者からの詰問に、正尊は起請文を書いて身の潔白を示そうとします。
地謡が「当座の席を遁れんと」と上歌を謡い、シテは後見から文を受け取って起請文を読み上げます。

実はこの起請文に関して、昨日書いたシテとワキの扱いの話が出てきます。
この後「敬つて申す起請文の事。上は梵天帝釈、四大天王閻魔法王五道の冥官泰山府君」とシテが起請文を読み上げます。
ただしこの起請文、古くはワキの弁慶が読んでいたようなのです。

この起請文のような、いわゆる読み物と言われるものには、安宅の勧進帳や木曾の願書などがありますが、いずれもシテが読み上げます。どうもこの正尊の起請文だけがワキの読み物だったらしいのですが、今回の宝生流や観世流、喜多流ではシテの正尊が読む形に直してしまったようで、起請文の前の上歌の最後、宝生流では「これを書き付け、御前にこそは参りけれ」と地が謡い、正尊がその起請文を読むという形になっています。

また喜多流では「これを書き付け高らかにこそ読み上げたれ」となっていて、こちらも正尊が読み上げるのが自然に感じられるように謡われます。
観世流でも現在の大成版では「これを書きつけ御前に於いて読み上ぐる」となっていますので、正尊が読み上げるのが自然ですが、明治頃までは「これを書き付け弁慶にこそは渡しけれ」となっていて、弁慶が読まないとおかしな形でした。
実はこちらが正尊の本来の形で、観世流では起請文の小書がつくと、この弁慶が読む形をシテ正尊が読む形に変えていたらしいのですが、現在では必ず起請文の小書を付けシテ正尊が起請文を読むことにしているわけです。

では金剛流はどうしたかというと、起請文を読むのは古い展開通り弁慶なので、なんと弁慶をシテにしてしまった次第。金春の謡本は確認していませんが、金剛同様に弁慶をシテにし、両流とも正尊はツレの扱いとなっているようです。
というわけで、正尊が起請文を読み上げた後はまた明日につづきます
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正尊さらにつづき

小林さんの起請文、喉を痛められないかと心配になるような本当に力の入った謡で、緊迫した雰囲気を盛り上げました。起請文を読み上げると、開いていた文をまとめ、左手に持って義経に渡して常座に下がり、下居します。

義経一行は正尊の嘘を見破ってはいるのですが、その文才に感じて「もとより虚言とは思へども」の地謡で、正尊に酒を勧め、静が立って正尊に酌をした後、中ノ舞を舞います。前場で静が中ノ舞を舞うというのは船弁慶と同様ですが、こちらは子方でもあり中ノ舞の三段のみを短く舞う形。

静は舞い終えると正尊の前に進み出て下居し、義経の忠誠を頼朝に伝えるようにと諫めたと地謡が謡います。

正尊は義経に礼をして立ち上がり、橋掛りへ進みます。
義経一行は「君も御寝所に入らせ給へば」で後ろを向き素袍を取って戦装束を整えます。義経も床几から降りてクツロギますが、正尊は橋掛りを進み中入りとなります。

中入りで弁慶はアイ下女を呼び、正尊の様子を見に行かせ、自らは後見座にクツロイで郎等と同様に装束を整えます。
橋掛りへ出たアイは、正尊が夜襲の準備を調えていることを聞きつけて、急ぎ舞台へ戻り弁慶に報告をする次第。

義経はもとの床几にかかり一同がもとの座に戻る間に、アイは切戸口から退場し、弁慶が義経に事の次第を報告します。
義経、ワキ、静の謡から地謡へと、弁慶の報告を受けて義経が準備をする様が謡われ、義経は立って静の差し出す太刀を受け取り、物着となります。
白鉢巻にモギドウ姿で正尊を待ちかまえる形です。

一声で長刀を抱え頭巾を着けた正尊が、姉和の光景以下の立衆を従えて登場し、橋掛りに立ち並んで一セイを謡います。
さてこのつづきはもう一日明日に
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正尊さらにさらにつづき

正尊は「鎌倉殿の御使土佐坊正尊とは我が事なり」と名乗り、義経に「とうとう御腹めされよ」と迫ります。

地謡が中ノリで「味方の勢はこれを見て」と謡い出し、義経方の郎等が橋掛りの軍勢に向いて太刀を抜いて構えます。一方の正尊は三ノ松で床几にかかり、姉和がその背後に控えての斬り組になります。

正尊方の立衆が一人ずつ舞台に入り、義経方の郎等に斬られて切戸口から退場していきます。最初の水上さんは斬られた形で下居しそのまま退場しましたが、渡邊茂人さんは飛び安座で、小倉伸二郎さんはとんぼを切っての退場。さらに小林晋也さんが、常座側から橋掛りへ欄干を飛び越えると見所からも驚きの声。五人目の和久荘太郎さんは見事な仏倒れを見せました。
仏倒れや飛び安座など、能らしくない能と言えるかもしれませんが、これもまた能の楽しみの一つと思います。

観世流では本来の演出にはこの斬り組が無かったようで、翔入りの小書がつくと斬り組が入るので現在は起請文、翔入りと二つの小書がつくのが普通です。これがついて今回の宝生流と同じ形ということですね。

さて立衆が斬られてしまうと、「その時弁慶表に進み」と弁慶が長刀を突いてワキ座に進み出、正尊に向かって声をかけます。
姉和が太刀を抜いて一ノ松で名乗った後、弁慶との斬り組になりますが、長刀に払われて倒れ、切戸から退場して、いよいよ正尊が出てきます。

長刀をかい込んだ正尊が舞台に入り、義経と静が太刀を抜いて正尊と切り合い、さらに常座に退く正尊とワキ弁慶の長刀同士のたたかい。
さらに長刀を捨てて組み合い、弁慶が正尊を下に押しつけると、郎等が寄って正尊を引き立ててそのまま幕へ走り込みます。禅師曽我のような展開です。

弁慶が笛座前に立ち、ツレ義経が常座に出て留拍子を踏むという変則的な形での終曲。
宝生流って全般的には地味な印象なのですが、この手の斬り組などはなかなかに動きがあり、この落差も江戸時代に受けたのかも知れませんね。
(59分:当日の上演時間を記しておきます)
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