能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

菅浦文書・・・日本人のバイタリティつづき

「月ノ浦惣庄公事置書」は架空の村の話ですが、実はこの本にはベースとなった歴史資料があります。菅浦文書といって、かなり有名な古文書のようなのですが、恥ずかしながら私はこの小説を読むまで知りませんでした。

菅浦というのは琵琶湖の北岸、葛篭尾崎半島にある地名で、滋賀県伊香郡西浅井町に属しています。
この菅浦の集落の人々が、鎌倉時代から明治に至るまでの集落の様子を書き記したものが「菅浦文書」で、現在は滋賀大学に原本が保管されているそうです。

滋賀県、近江の国は、全国でも最も早くから「惣」が発達した地域といわれています。「惣」は惣村ともいわれ、中世の農民による自治的な共同組織とでも言ったらよいのか、単に「村」と言うよりも、共同体として公的にも認められたものということのようです。

菅浦の人々は古くから集落の発展に努力してきたものの、惣として正式に認められたのは15世紀も半ばのことだそうです。
この菅浦は、もともと園城寺円満院領大浦庄に属していました。園城寺、いわゆる三井寺ですが、ここにある円満院は寛和三年に村上天皇の第三皇子である悟円法親王によって創建され、円山応挙ゆかりの寺としても有名です。

菅浦の住民は、大浦庄の一部の領域を自領とすることで、村の領域空間を独立させようとしたのですが、これが大浦と菅浦両村間の紛争となりました。
この発端は永仁三年(1295)のことで、日指・諸河の田畑の所有権をめぐって大規模な紛争が始まりまったそうです。
菅浦の人々は、円満院と対立関係にあった比叡山延暦寺檀那院や竹生島などをたのみ、その後百五十年ほどにわたって争いが続きました
百五十年というと、幕末に始まった土地争いが現代になってようやく決着したというに等しい期間です。
その間、様々な形で紛争が続いたわけです。
このつづきはまた明日に
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西浅井町・・・日本人のバイタリティつづき

この永きにわたる紛争を治めるために活躍したのが乙名清九郎で、彼は後に出家して道清と改名しましたが、菅浦の危機的状況を救った英雄として語り継がれているそうです。
15世紀の半ばに、死人まで出した両村の争いをおさめたとか。

ところで両村の紛争は武器を取っての実力行使もありましたが、永い紛争史の多くの部分は訴訟によってなされています。
「日本人のバイタリティ」と妙な題をつけたこの文章で書きたかったのは、この訴訟から広がる話です。

一昨日書いたように、岩井三四二さんの「月ノ浦惣庄公事置書」も、武力をめぐる部分も沢山出てきますが、物語の中心には「公事」・・・訴訟を置いていて、それが松本清張賞を受賞した一因ともなっているようです。

そういうわけで、訴訟の方に話を進めていこうと思うのですが、その前に、昨日からの菅浦をめぐる部分を書く際に、有限会社西浅井総合サービスという会社のホームページを参考にさせていただいたので、ちょっとこの会社の話に寄り道をしてみようと思います。

実はこの会社、菅浦のある西浅井町(ニシアザイチョウ)の100%出資による会社で、町長自身が代表取締役をされているとか。
西浅井町が所有する国民宿舎つづらお荘を初めとする施設の運営や、公共機関をまわる乗合自動車・・・ワゴン車のような感じですが・・・の運行、農林水産物、観光土産品等の販売やJR湖西線永原駅などの駅業務の受託など、様々な公共サービスを会社として運営しています。

こうした公共サービスの運営というのは、なかなかうまくいかないもので、各地の第三セクターも苦戦していますが、この会社は人材活用の取り組みを進め、順調に運営されているようです、
町内に住所を有し、地域に貢献する意欲をもち、現在は生活時間にゆとりある人を、本人の申し出によって人材リストに登録し、必要に応じて本人と雇用契約して、業務に従事させるということで、登録制日々雇用と年間雇用という形で労働力を確保しているのだそうです。

「惣」が生まれた地域らしい取り組みのように思えます。
この西浅井町、現在、長浜市や東浅井郡・伊香郡の他の5町とともに合併への協議を進めている様子です。
さてこのつづきはまた明日に
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訴訟をめぐる能楽・・・日本人のバイタリティつづき

さて、菅浦文書によると150年もの永きにわたって、領域をめぐる隣村との土地争いが続いたという話を書きました。
この訴訟がどのように展開したのか、岩井さんの「月ノ浦惣庄公事置書」には訴訟をめぐる様々な駆け引きなどが詳しく書かれています。もちろん小説ですから史実そのままという訳ではないでしょうけれども、土地をめぐる複雑な権利関係と、それを利用しながら、したたかに訴訟を進めようとする村人の動きに大変興味をそそられたところです。

「能の花 狂言の花」と題した能楽を巡るブログですので、ここで能楽に見える訴訟の話に目を向けてみようと思うのですが、歌舞伎や落語、講談などでは大岡政談もののようにお裁きそのものをテーマにしているものが見られる一方、能楽では訴訟自体が取り上げられたものは見あたりません。

強いていえば、藤戸の前場で、ワキの佐々木盛綱が新たに領地となった児島に入部し、訴えある者は申し出よと触れさせたのに応えて、息子を亡くした母がやってくるという話が、訴訟らしい部分といえましょうか。(このブログでは田崎隆三さん観世銕之丞さんの藤戸の鑑賞記を書いています)
また訴訟の前段という形になりますが、藤栄では土地の相続権をめぐる争いが物語のベースになっています。(藤栄は高橋亘さんの演能について書いています)

しかし訴訟自体を扱ったものは少ないのですが、砧(関根祥人さんの演能の鑑賞記を書きました)では九州芦屋の何某が、土地をめぐる訴訟のため都に上り早三年という設定ですし、柏崎では鎌倉に訴訟のため赴いた柏崎の何某が病死してしまったというのが発端になっているというように、長い訴訟のための留守が物語の発端になっている曲が見受けられます。

これは狂言も同様で、訴訟そのものを狂言に仕立てた曲は見あたりませんが、麻生や雁盗人(和泉流では雁大名・・・深田博治さんのときの鑑賞記があります)、鬼瓦(善竹十郎さんの鑑賞記を書きました)や萩大名、入間川(野村万蔵さんの上演について鑑賞記を書いています)など、訴訟のため長らく在京した大名が、都や帰り道などに騒動を起こすという一連の狂言があります。

神男女狂鬼といわれるように、能の中に訴訟のような現実社会の業が取り入れられる余地は少ないでしょうし、土地をめぐる訴訟ではおかし味を大切にしたい狂言にもなりにくかったのだろうと思います。しかし、訴訟で長く領地を離れるという設定が多々見られることから、こうしたことが珍しくなかった当時の事情がうかがわれるところです。
このつづきはまた明日に
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訴訟をめぐる能楽・・・日本人のバイタリティつづき

さて話はぐるっとめぐって、岩井さんの小説を読んだことから、この数日にわたる文を書くようになったわけです。

「月ノ浦惣庄公事置書」に書かれた話は、正直のところ私としては驚きでした。
もちろん一生懸命という言葉が、もともとは自分の土地を命をかけても守る「一所懸命」から出てきた、といった程度の知識はありましたが、村人達までもが土地をめぐって難しい訴訟を行っていたという話には、奥深いものを感じた次第です。

そうして振り返ってみると、能楽の中にも訴訟自体ではないものの、長期の訴訟に出掛けることが珍しくなかった世相が読み取れます。十六夜日記を書いた阿仏尼も、我が子への土地の相続権をめぐって長らく鎌倉に滞在していたことを思い出しました。

何でも訴える訴訟社会アメリカなどとは違って、日本人は訴訟などを好まず、当事者同士の話し合いで問題を解決したがる、といった論調の話は、山ほど聞いてきた感があります。
もちろん現代アメリカのように、圧倒的な訴訟社会というのとは違いますが、けっして日本人が民俗の特質として訴訟を避けるという訳ではないことを確認したように思います。
最近、ある経済関係の本を読んでいたら、日本人はリスクを避ける、リスクを取らないと言われるけれども、心理学的な実験をしてみると必ずしもそうではない。アメリカ人との間に有意な差はない、といった話に出くわしました。

訴訟への態度といい、リスクの問題といい、どうも一般論として言われる日本人像というのは、本当に正しいのか、と疑問を感じています。
少なくとも歴史的に見ると、現代の日本人が示していると言われる特徴は、民族固有のものかどうか、怪しそうだと思います。
ここでなにかの結論を導くつもりではありませんが、「日本人ってこんな風」と思っていることが、せいぜいここ数十年、下手をすれば十数年に顕在化したものに過ぎないのではないか、そんな風に考えつつ能楽を観てみるのも、また面白いかな、と思う次第です。
この項、終わり。
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初秋ひたち能と狂言を観に行く

8月中も狂言は観ておりましたが、能の方は7月のスクエアの公演以来ですので、一月半ほど間が開きました。

本日は一昨年の秋にも観に行った日立シビックセンターでの公演。日立市での能と狂言の公演は、今回が十七回目になるんだそうです。前回は喜多流の粟谷能夫さんと粟谷明生さんでしたが、亡くなった菊生さんを含め、これまでも粟谷家の公演が割合としては多かったように思います。

今年は鵜澤久さんの花筺と岡久広さんの鵜飼ということで、観世流シリーズ。
久さんのお父様にあたる故鵜澤雅さんは、古くから水戸と日立で出稽古をされていて、今回の公演でも水戸と日立のお弟子さんの会、雅友会が協賛しています。

久さんといえば銕仙会。今回も銕之丞さんをはじめ銕仙会の先生方が後見や地謡を勤められまして、銕之丞さんの船弁慶キリの仕舞も圧巻だったのですが、それにしてはちょっと解せないのが鵜飼を舞われた岡さん。
宗家近くで活動されている先生なので、観世会などではよくお見かけしますが、銕仙会のみなさんとご一緒というのは、初めて拝見しました。

地方のホールでの演能というと、舞台施設も満足ではないし、能狂言にさほど興味があるわけでもないが、近所の義理で来たといった方などもいて、あまり良い条件とはいえない感じがします。
私の隣のご夫婦も、何度か能をご覧になったことはあるようでしたが、ご主人の方は、花筺の一時間十分ほどの演能中、たぶん十分少々くらい起きていたものの、残りは気持ち良くご就寝。しかもその半分近くは鼾の音が・・・
狂言では目覚めて楽しそうに笑っておられましたが、仕舞、鵜飼はパスしてそのまま帰られました。正味、能と狂言で三十分ほどの鑑賞でしたね。

そんな状況だったのに、というと引っかかる書き方になってしまいますが、素直な意味で大変良い演能を拝見した感じです。久さんの能はずいぶん以前に安達ヶ原を拝見して以来ですが、実にしみじみとした花筺でした。
何はともあれ、近いので行き帰りが大変に楽というのも助かります。

万蔵さんの棒縛を含め、それぞれに面白かったので、明日からそのあたりが伝わるように、鑑賞記を書いてみたいと思っています。
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花筺 筺之伝・大返 鵜澤久(ひたち能と狂言)

観世流 日立シビックセンター 2008.9.06
 シテ 鵜澤久、ツレ 鵜澤光、子方 平山尭之
  ワキ 工藤和哉
  ワキツレ 高井松男 則久英志 野口能弘
   大鼓 柿原崇志、小鼓 鵜澤洋太郎
   笛 藤田次郎

花筺、ハナガタミと読みます。筺の字はハコの意味ですが、竹冠がついているくらいですから、竹製の籠のような小箱のこと。古くはそうしたハコをカタミとかカタマとか言ったらしく、筺には音読みのキョウの他、訓読みでハコやカゴに加えてカタミの読みもあります。
そういえば細うで繁盛記の原作者として有名になった劇作家の花登筺(ハナトコバコ)さん。ペンネームだそうですが、本名の花登に筺をつけて名前にしたのは、やはり花筺を意識してのことと、どこかで読んだ記憶があります。

この能、曲名の花筺も曰くありげですが、曲自体も実は全くの創作のようで、原典らしきものが見あたらないとか。シテは照日の前ですが、継体天皇の妃にそんな名前の方はいませんし、越前から、即位した継体天皇を追って女性が上ったなどという話も無いようです。

余談になりますが、この曲で子方が演じる継体天皇という方の出自は今ひとつハッキリせず、古くから論争のタネになってきました。
古事記には「品太王五世孫」、日本書紀には「誉田天皇五世孫、彦主人王之子也」とあって応神天皇の五世の孫とは書かれているわけですが、その間の系図も無く、水野祐さんの三王朝交代説をはじめ様々な見方がされています。その辺りを詳しく調べてみると面白そうなのですが、能の花筺からはどんどん離れていってしまうので、ここではそんな話があるという程度で失礼します。

ただし能との関係で言いますと、この継体天皇という方は生没年も不詳でして、日本書紀通りだと即位された時は60歳近かったはずです。古事記によればもっと若い時期に即位されたことになるようですが、恋慕の情を主題に据えた物狂いの能としては、60歳過ぎの天皇では様にならないような気がします。

さて能の展開は明日につづきます
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花筺のつづき

前後とある能なので、まずは前場。
ワキツレの男が登場して常座に立ち、男大迹(オオアトベ)の皇子の使いとして照日の前のところへ行くと述べ、橋掛りへ入って一ノ松あたりで案内を乞います。(観世流謡本では男大迹と書いていますが、他流では大跡部・大迹部と書くようです。喜多流の古い本では観世と同じ男大迹の表記が見られますが・・・)
使者役の高井松男さん、柿色の素袍上下で、右手には花筺ということで持ち手の付いた小籠に花を入れたものを下げ、胸元には文が見える形です。

ワキツレの案内に前シテが登場し三ノ松で応対する形。ワキツレは皇子が帝の位に就かれて今朝すでに都に発たれたが、文と花筺を渡すように命じられたと言ってシテに寄り、花籠と文を渡します。

受け取ったシテは名残惜しさにシオった後、文を読もうと舞台に入り下居。ワキツレは舞台に進むシテと橋掛りですれ違ってそのまま退場します。
常座で下居したシテは花籠を傍らに置き文をひらいて読む形になります。ひろげた文を右から左へとひとわたり見て「われ応神天皇の・・・」と謡い出します。(他流では文をひろげると直ぐに謡い出すようですが)
「書き置き給ふ水茎の 後に残るぞ悲しき」と文を持つ手を寄せて面を埋めるように思いを込めました。

地の上歌で文をまとめ、花筺と文を左手に持って立ち上がり、筺に右手を添えて大切に抱えるようにしてアシライでの中入りとなりました。

シテの中入りで短い前場が終わると、アシライから気分を変えるように笛のヒシギが入って次第の囃子。子方を先頭に、ワキツレ輿舁が後ろから輿を差し掛けワキの官人が供奉する形で登場してきます。子方継体天皇の一行が紅葉狩りに訪れた設定です。

一同は舞台へ入り、そのままの形で次第を謡い、ワキが正面からややワキ正へ向いてサシ、さらに上歌と謡って、輿舁は鏡板の前にクツロギ、子方はワキ座で床几に、ワキは地謡前に下居して後シテの出を待ちます。
さてこのつづきはまた明日に
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花筺さらにつづき

一声の囃子でツレの侍女を先にして、後シテの狂女が登場してきます。
先に立ったツレは一ノ松に立ち、紅入唐織を脱ぎ下げにし花籠を持っています。
後から出たシテは薄緑系の唐織を壺折に着け、笹を肩に笠を被って二ノ松あたりに立ちます。

ツレが脱ぎ下げで狂女の姿というのは珍しい演出かもしれません。シテはこれとの対比なのか、脱ぎ下げにせず、代わりに笹を持って狂女であることを示しているようです。
お嬢さんの光さんがツレをされていて、実際の年齢差も影響しているのかもしれませんが、シテはいささか年齢のいった感じです。

花筺のシテは装束付けからみると、若女や小面をつけて若い女として出ても、深井などで中年の女として出ても良いことになっています。
恋愛の情を強く意識すれば若い女として出て、恋慕を示すという主張もありますが、一方、わざわざ花筺を持って越前から上るという行動力や、紅葉狩りの一行の前に出て行くというしたたかさを考えると、やや年上の女性とするのも頷けるところです。

このあたり、どちらとするのか迷うところですが、この日は若い女性として出ているツレが脱ぎ下げの姿でもあり、もしや二人で照日の前という一人の女性のしたたかさと可憐さを表そうとしているのでは、と考えたりもした次第です。

シテは「いかにあれなる旅人」と謡い出し、「なに物狂いとや」と笹を下ろして言葉を続けます。さらにシテ、ツレ掛け合いの謡いとなり越前から大和へと皇子を慕って赴く旨を謡います。
そして二人「玉章を附けし南の都路に」と謡い、ツレが先に立って舞台へ入り、地謡の「われをも共に連れて行け」でツレは大小前に立ち、シテが常座に進んでカケリとなります。

カケリは常座で足拍子の後、三四足出て再び足拍子。目付へ出て舞台を回り大小前で足拍子。正先へ打ち込んで足拍子し、笹を肩に再び目付へ出、常座に戻って小回りしてサシて開クという、言ってみれば、大きく、次は小さく舞台を二回りするだけの形ですが、なかなかに思いのこもったところです。

さてこのつづきは明日に
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花筺さらにさらにつづき

カケリの後はやや落ち着いた風で、謡に合わせる形で道行となり「玉穂の宮に着きにけり」と玉穂の宮に到着した形。シテ・ツレ共々に橋掛りへと進み、ここで旅装を解く感じで笠などを後見に渡します。
後シテ、ツレは一度舞台に入っていますが、後見は北浪さんお一人が出ていただけで、シテ・ツレが橋掛りに入ると幕から銕之丞さんが進み出てシテの笠をとり、装束を直す形でした。

シテ、ツレがクツログ形になると、子方の一行が紅葉狩りの道中を進める場面となり、ワキが立って謡います。
これにあわせる形でシテとツレが橋掛りで謡い出し、ツレが花筺を手にして「御幸の前に進みけり」と舞台へ入りますが、怪しんだワキが咎めて扇で花筺を打ち「そこ退き候へ」ときめます。

ツレは花筺を取り落としますが、両手で拾い上げて橋掛りに向かいシテに子細を告げ、これを受けてシテは舞台に入ります。
実はこの取り落とした花筺をツレが両手で拾い上げてシテに渡す所作あたりが、実に趣きがありまして、思わずホロッとしてしまった次第。

シテは受け取った花筺を両手で抱くようにし、大切な思いを込めるような風情です。ワキが声をかけると、籠を左手に持ち替え、扇を右手にとって舞台へと進みます。
ツレが大小前、シテは常座へと出てシテ、ツレの謡になり、ツレ「打ち落とし給ふ人々こそ」シテ「我よりもなほ物狂よ」と謡って、ツレが地謡前に下がりクルイになります。

クルイは「恐ろしや恐ろしや」と謡い出されますが、今回は大返の小書きがついているために、最初の「恐ろしや」の後に大小の替の手がはいります。
シテはこの手の間に一度目付まで出て思いを込めた感じで常座に戻ります。このクルイの謡い出しは通常の形でもなかなかに深いところですが、さらにここが広がって深い思いを示した感じになりました。

さらに今回は筺之伝の小書がついているためクルイは花を盛った籠を持って舞う形です。
このつづき、もう一日書いてみたいと思います
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花筺もう一日のつづき

左手に籠を持ち、右手に扇を持っての舞は綺麗ですが、実際に舞うのは難しいだろうなあと想像したところです。「この君いまだその頃は」と左へ回り「皇子の御身なれど」と大小前で扇を差し出すようにして開き、「花を手向け礼拝し」と正中で広げた扇を置いて下居し、扇の上に花籠を置いて合掌します。

「御面影は身に添ひて」と籠を再び左手にとり「忘れ形見までもお懐かしや恋しや」とシオル姿。「陸奥の安積の沼の花がつみ」は常の形では上げ扇のところですが、シオリつつ謡い出し、直して扇をとって立ち上がり、大左右へと型が移っていきます。

さらに「袖にも移されず」といささか俯き加減で正先へ出、抱扇から「水の月を望む猿の如くにて」と目付で扇を上からかざし水をのぞき込む型。ここからすすっと常座まで下がり「叫び伏して泣きいたり」とシオリました。

ここでワキが「車近くに寄り狂うように」と声をかけ、シテは立ち上がって花筺をツレに渡して常座に立ちます。
この後のイロヱは省略されてシテのサシ謡「忝き御例なれども」になり、クセに移っていきます。

クセは漢王と李夫人の別れを謡いますが、これに合わせてのゆっくりした舞。クルイの部分が緩急激しく展開したのに比べ、ここは一言ずつ言い聞かせるような地謡の謡い方です。クセの終わりでシテは常座へ回って下居します。
これにワキが「宣旨にてあるぞ」と花筺を帝に見せるように促し、シテはめでたく帝に再び仕えることとなるわけです。

キリでは「今は還幸なし奉らんと」とシテが常座へ出、子方、ワキが立ってワキツレも従い、ツレもこの後について橋掛りへ進んで退場していきます。
残ったシテは目付へ出、さらにワキ座から招き扇をしつつ橋掛りへ進んで、三ノ松で留拍子を踏みました。

久さんの能は本当に久しぶりで拝見しましたが、大変深い能を拝見することができました。平成16年には日本能楽会構成員として指定されていますが長きにわたる研鑽の結果でしょうし、この日の能を観ると当然のことと感じられたところです。
ツレで出られたお嬢さんの光さんは、この10月には独立記念能をなさるとか。

久さんのお父様になる故鵜沢雅(マサシ)さんは、銕仙会で何度も演能を拝見しましたし、六日に書いたとおり水戸・日立でも稽古指導されていたため、実はほんの少しの間、稽古していただいたこともあるのですが、深い芸の方でした。
記憶ではたしか大藏流小鼓方で人間国宝の指定を受けていた故鵜沢壽(ヒサシ)さんとご兄弟だったと思うのですが、そうするとこの日の小鼓、洋太郎さんと光さんは又従兄弟ということになりますかね。
(74分:当日の上演時間を記しておきます)
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銕仙会を観てきました

今日は、仕事で出かけた帰りに宝生能楽堂へ。銕仙会の9月定期公演を観てきました。

山本さんの通小町。先週、日立で花筺を拝見した鵜澤久さんがツレで出ています。
狂言は萬斎さん、万之介さんで富士松。
さらに柴田稔さんの天鼓という番組でした。

仕事はちょっとハードでして、正直のところかなり疲れていたのですが、能を観、狂言を観ているうちに、なんだか調子が復活したような感じです。

実は明日、国立能楽堂開場25周年記念公演を観に、またまた出かけるつもりでして、まあ自分でも「好きだなあ」と思った次第です。

今夜はもう寝よう・・・
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国立能楽堂開場25周年記念公演二日を観に行く

国立能楽堂も今年で開場25周年なんですね。
詳しいことは日本芸術文化振興会のサイトに25周年記念特集が設けられているので、こちらをご覧になると良いかと思います。

9月3日の翁を皮切りに11公演が催されますが、今日はその第二日。
能は、宝生流 近藤乾之助さんのシテでの「大原御幸」と、金剛流 金剛永謹さんの「泰山府君」の二曲。狂言は、名古屋狂言共同社の井上菊次郎さんのシテで「蜘盗人」という番組でした。

いずれ鑑賞記は掲載しますが、今日もまた大変良いものを拝見した気持ちです。
大原御幸は舞もなく、謡を中心に静かに物語が展開していきます。一方、泰山府君では天女と泰山府君がそれぞれに舞や所作を見せて、「舞金剛」といわれる流儀の特色が発揮される舞台。それぞれに楽しめたところです。

蜘盗人は狂言には珍しく作り物の塚が出されて始まります。これもなかなかに楽しい曲でした。

昨日の銕仙会に引き続いてでいささか印象が混乱していますが、メモを見ながら整理してみようと思っています。
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棒縛 野村万蔵(ひたち能と狂言)

和泉流 日立シビックセンター 2008.9.06
 シテ 野村万蔵
  アド 吉住講 野村扇丞

能や狂言の曲目の解説をするならば、別に何から書いても良いのですが、このブログでは凡例などにも書いたように、自分自身が観た記録を残しておきたいという趣旨ですので、観たものを観た順番で書くことになります。
そんなわけで、能も狂言も、妙に珍しい曲について書いたりしている割に、とてもポピュラーな曲の鑑賞記を書いていないという状況になっています。

この棒縛もそんな曲の一つで、附子や柿山伏などとともに、教科書にも良く取り上げられているし、学校狂言のような形で学生・生徒向けに演じられることも多いようです。

この曲の見せ所は棒に縛り付けられたシテと、後ろ手に縛られた小アドが、不自由な姿にもかかわらず何とか酒を呑み、舞を舞ったりしてにぎやかな酒盛りをすることにあります。面白いし、芸の見せ所ということにもなりましょう。

さてアドの主が登場し、自分が留守をすると二人が酒を盗んで呑むというので、今回は思案をしたと言い、小アド次郎冠者を呼び出します。まかり出た次郎冠者に、主は太郎冠者が常々不奉公をするので縛っておきたいと相談を持ちかけます。

次郎冠者は何かは分からないものの、自分が意見をしておくから許してやってほしいと申し出ますが、主は懲らしめのためだと言い張り、結局は次郎冠者の案で、太郎冠者に棒の稽古をさせ、その型のうちに縛ってしまおうということになって、太郎冠者を呼び出します。

さてこのつづきはまた明日に
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棒縛のつづき

呼び出された太郎冠者は、棒の型を見せるように言われ、棒を背に両手を広げて棒に掛ける形をします。この形で棒を使う様を見せていると、主と次郎冠者が寄って、太郎冠者の手を棒に縛り付けてしまいます。

太郎冠者が驚いていると、主はさらに次郎冠者を後ろ手に縛ってしまい、二人に、自分がいない時に酒を盗んで呑むらしいので、こうして縛ったのだと説明して、山一つあなたへ行くと出掛けてしまいます。

さて残された二人、主がいなくなってみると酒が呑みたくてたまりません。結局二人は不自由なままに酒蔵を開け、中に入って壺の蓋を取ってしまいます。
シテが葛桶の蓋を盃にし酒を汲みますが、手を棒に縛り付けられているために自分では口に届きません。そこでこれを次郎冠者に呑ませます。

二度ほど呑ませた後、良いことを思いついたと、汲んだ盃を次郎冠者に持たせ、自分はこの盃に口を当ててようやく酒を呑みます。

さてそれからは小謡を謡いつつ、舞を舞ったり酒を呑んだりの酒盛り。二人大騒ぎになります。
そんな中、主人が戻り一ノ松に立って二人の様子に気付きます。

憎い奴と怒った主人は舞台へ進み、二人の間に置かれた盃の後に立ちます。二人から見ると盃に主が映るため、二人は、酒を呑まれてしまうだろうかという主人の執心が映ったのだろうと語り合い、それにちなんだ謡まで謡う始末。

主が扇を振り上げ、次郎冠者はこれを交わして逃げ込みます。残されたシテの太郎冠者は棒で主人に打ち込もうとしますが、主人に外され、逆に主人に追い込まれて留となりました。
何度も書いていますが、私、万蔵さんの狂言が好きでして、この日も文句なく笑わせていただきました。
なお大藏流では次郎冠者の方が棒に縛られるため、こちらをシテとするようですね。
(15分:当日の上演時間を記しておきます)
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鵜飼 真如ノ月 岡久広(ひたち能と狂言)

観世流 日立シビックセンター 2008.9.06
 シテ 岡久広
  ワキ 高井松男、アイ 野村万禄
   大鼓 柿原崇志、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 三島卓、笛 藤田次郎

まず名ノリ笛でワキの旅の僧が、ワキツレ従僧を伴って登場してきます。ワキツレは則久さん、なかなか良い雰囲気です。
ワキは常座で安房の清澄寺の僧であり甲斐の国へ行脚すると名乗り、サシで安房を出でて六浦へ向かったこと謡い、さらに道行で石和へ着いたと謡って甲斐の国石和に到着します。
ワキは常座へ行き、ワキツレがワキ座に着座します。
(安房清澄寺から六浦、鎌倉山と向かうのは、ちょうど六浦のシテと逆コースになりますね)

常座に立ったワキは一夜の宿を借りようとアイ所の者を呼び出します。
アイは一ノ松に出ますが、宿を借りたいという望みに対しては、往来の者に宿を貸すことは禁制になっていると言い、川に突き出た場所に堂があることを教えます。
しかしアイは「光る物が出る(ズル)ぞや」と、その堂には怪しい光り物が出ることも言い添えますが、ワキは法力によって泊まると言いワキ座に着座します。・・・このやり取りは鵺と同様ですね

ワキが落ち着くと、一声で前シテの出となります。
前シテは鵜使いの老人で無地熨斗目に腰蓑を附け、右手に持った松明を振りながらの登場です。
常座で一セイを謡い、続くサシ、下歌、上歌に、鵜を使う面白さに殺生を生業とする我が身のはかなさを謡うのですが、この日は真如ノ月の小書きのために「伝へ聞く遊子伯陽は」から下歌、上歌が省略されて「いつもの如く・・・」からの詞へと続きました。
さてこのつづきはまた明日に
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鵜飼のつづき

シテの老人は御堂に上がって鵜を休めようと松明を振り上げつつ舞台へと入りますが、舞台に入って再び振り上げた松明に、大小前あたりで「や、是は往来の人の御入り候ふよ」とワキの一行に気付き問答となります。

ワキ、シテがやり取りをしていると、ワキツレが「この二三ヶ年先に、此川下岩落と申す所を通り候ひしに。かやうの鵜使に行き逢ひ候ふ」と思いがけないことを言い出します。その鵜使いに、殺生の科を諭したところ一夜の接待を受けたという話です。

シテはこれに「さては其時の御僧にてわたり候ふか」と自らがその時の鵜使いであることを明かしますが、ワキツレがその時の僧であると答えると、その鵜使いはもはや死んでしまった、と続け自らが幽霊であることを示します。前場ではなんとなく幽霊と知られるという展開の曲が多いわけですが、明確に知らせる形ですね。

ワキはその死のいきさつを語るように求め、シテの語となります。
そもそもこの石和川は上下三里は殺生禁断となっているところを、禁を犯して漁を繰り返していたところ、人々に見つけられて「ふしづけ」にして沈められてしまったと語ります。
「ふしづけ」は罪人を簀で巻いて縛り水中に投じてしまう刑罰ですが、柴漬ないし罧の字を書くようで、柴を漬けるというのが原義らしく、柴を束ねて水に沈めるとその柴の隙間に魚が入りこれを捕らえる漁法がもともとの意味のようです。これが転じて刑罰に用いられるようになったのでしょう。柴漬というと京都の漬け物を思い出してしまいますが、あちらは本当は紫葉漬と表記すべきで、しば漬と書いている漬物屋さんが多いですよね。

閑話休題、シテの話にワキは「罪障懺悔に業力の鵜を使うて御見せ候へ。後をば懇に弔ひ候ふべし」と述べ、シテがこれを受けて鵜を使ってお目に掛けようと立ち上がります。
このつづきはまた明日に
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鵜飼さらにつづき

「湿る松明振り立てて」と立ち上がったシテは、「この川波にばっと放せば」と左手に持つ扇をさっと差し出して広げ、続く地謡に合わせて鵜を使う様を仕方に見せます。
この中入り前の部分、鵜ノ段と言われるところでこの曲の見せ所。

「底にも見ゆるかがり火に、驚く魚を追い回し」と、小書きが付いたため、通常は松明を振りつつ目付へ出るところを橋掛りへと向かいます。
「かづき上げすくひあげ」と扇で魚を掬い、「罪も報いも」と二ノ松で開き、「生簀の鯉やのぼらん」と松明を降ります。
「小鮎さばしるせせらぎに」と川面をのぞき込んで見回す形。「不思議やな篝火の」と再び松明を上げて見る形から、「燃えても影の暗くなるは」と下を照らして見込む形。

そして「月になりぬる悲しさよ」と松明と扇を捨ててモロジオリし、ゆっくり橋掛りを戻って「闇路に帰るこの身の、名残惜しさ」と一ノ松でワキを見込んで三四足ツメ、戻してそのまま中入りとなりました。

常の形ではこのシテの中入りの後はアイの居語りになります。
しかし真如ノ月の小書きでは、ここはアイが登場せず早装束で後シテが登場します。
とはいえ、いくら早装束といっても、中入りで入って直ぐに出るのは無理ですから、少しでも時間を延ばす感じになります。
橋掛りの途中でワキを見込んで中入りするため、幕にはすぐ入ってしまうのですが、送り笛を幕に入ってからも吹き続ける感じで時間をとります。まあ、この日は特設舞台でしたから橋掛りが大変に短いという要因もあるのでしょうけれども、それにつけても、長めに吹き続けた感じです。

さてこのつづき、明日に
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鵜飼さらにさらにつづき

中入り後の時間を延ばすためか、ワキ、ワキツレの待謡も、直ぐには謡い出さず、まずはワキが立って「ただ今の老人の、ふしづけにされし鵜使いの云々」と、供養すべき由を語り、これにワキツレが答えて二人が立ち上がり、地謡前に正先を見る形であらためて下居して待謡を謡い出す形になっています。
待謡もワキ・ワキツレの謡としてはゆっくりめ。待謡はさらさらと謡われるのがおおかたの形ですが、ここでも時間が延ばされている感じです。
法華経の経文を一つの石に一字ずつ書き付けて川に沈め弔いをすると謡って、後シテの出になります。続いて早笛が奏されますが、これも最初はゆっくり目です。

早笛の途中で半幕になり、シテが下半身を現します。残念ながら私の席は見所左寄り、橋掛りの方だったので、幕を巻き上げている後見の浅見真州さんの姿はよく見えたもののシテの姿は見えませんでした。

様々なところで時間は引き延ばされている感じでしたが、それでもこの半幕まで、中入りしてから十分経っていなかったと思います。これはやはり見所としては驚きを禁じ得ないところで、そういう演出と知っているために驚き半減の部分もありますが、初めてこの小書きが演じられたときは、おそらく見所も大きな驚きをもって見たことでしょう。
金剛流にも早装束の小書きがあるようですが、同様の演出のようです。

さて半幕が下ろされた後、改めて幕が上がり早笛の軽快な調子の中、後シテの地獄の鬼が登場してきます。
この曲では、前シテと後シテが別人格となっていて、前シテの亡霊を悟りの世界へ送る者となっています。
前後が別人格である能も養老や船弁慶をはじめ少なからず存在しますし、そんなに珍しいことではありませんが、一説にこの曲は、古くは前シテが舞台に残ったままで後シテが登場する形態だったのではとも言われています。

このあたり、明日、もう少し考えてみたいと思います。
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鵜飼つづけて

昨日は鵜飼の前シテと後シテが別人格であるが、一説に古くは前シテが舞台に残ったまま後シテが登場する形態だったという話があることを書きました。
通常の複式夢幻能の形であれば、前場のシテは幽霊であることをほのめかして中入りし、後場で生前の姿で登場して死に至った有様を語り、あるいは仕方で示して、ワキの供養で成仏するというのが基本的な形です。
しかしこの曲では前場の内にシテが自らが幽霊であることを明かし、生前の業を見せてワキ僧が救済を約する形になっているため、ある意味、前場で話のおおよそが完結してしまいます。
後場は鵜使い成仏の機縁となった、法華経の功徳を地獄の鬼が示すという展開ですから、シテが別の演者であっても変ではない訳です。

本当のところはわかりませんが、ともかく後シテは法華経の功徳を示す訳です。
一ノ松で型を見せ「迷いの多き浮雲も」と舞台に入り「真如の月や出でぬらん」と常座で小回りして開き、足拍子してイロヱになります。イロヱでは橋掛りに進み、両手で頭を取って前方を見やる特徴的な型などを見せます。

この後、舞台を大きく動いて立ち働きし、最後「他を助くべき力なれ」と橋掛りに進んでそのまま幕に。ワキ座を立ったワキが正中で着座し合掌して合掌留の形で終曲となりました。

ところでこの曲の舞台となる石和川ですが、明治時代に改修されて現在は笛吹川になっています。ワキの僧は日蓮上人に擬されていて、彼の地の鵜飼山遠妙寺には日蓮上人が鵜飼の亡霊を慰めたとの寺伝があるそうです。
(57分:当日の上演時間を記しておきます)
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通小町 雨夜之伝 山本順之(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2008.9.12
 シテ 山本順之、ツレ 鵜澤久
  ワキ 工藤和哉
   大鼓 安福建雄、小鼓 幸清次郎
   笛 藤田朝太郎

通小町って割と好きな能の一つなのですが、ベテランの山本さんがどう演じられるのか興味深く拝見した次第です。古作の能を観阿弥が改作した曲とか。

さてまずはワキ工藤さんが名ノリ笛で登場。朝太郎さんの笛は穏やかな印象です。
山城の国八瀬の郷に一夏を過ごしている僧なのですが、毎日、木の実や妻木(薪)を持ってくる女がいるので、今日は木の実の数々を尋ねようと思う旨を述べてワキ座に着座します。

代わって次第の囃子、ツレの女が登場してきます。姥の姿で濃い萌黄系のヨリの水衣を着け、左手に木の葉の入った籠を持っています。先日は花筺のシテで拝見したばかりの久さんです。
現行の謡本では、このツレは連面に紅入唐織の若い女の姿で出て、中入りをせずにシテの出を待つ形で描かれています。ここ数年に拝見した宝生流や金剛流の通小町でも、ツレは若い女として出て、中入りをしませんでした。
しかし中入り前の詞章には「市原野辺に住む姥ゾ」の章句があり、古くは前ツレが老女として出て中入りしたのではないかと言われています。これを意識して、前ツレを老女で登場させたり、老女姿のまま終曲まで演じたりといった演出が試みられているようです。
前ツレの老女姿を「雨夜之伝」の小書と結びつけて解釈する例もあるようですが、もともとは関係ないはずで、今回も小書とは別の趣向だと思いますが、この形を選択するというのも銕仙会らしい演出かなと思った次第です。

登場したツレは常座で鏡板の方を向いての次第謡の後、正へ向き直り、今日も木の実や薪を持ってきた旨を述べつつ正中へ出て下居し、左手の籠をワキの方に置きます。
詞章自体は通常の演出と変わりませんが、謡の声や風情は老女のもの。深い趣があります。
さてこのつづきはまた明日に
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通小町のつづき

女にワキは「今日は木の実の数々御物語り候へ」と問いかけ、ツレと地謡掛け合いでの木の実尽くしの謡になります。
落椎、柿、笹栗、梅、桃、梨から擽、柑子など様々に謡い込まれています。木の実というと栗やドングリをはじめ、どちらかというと固い実の方を思い浮かべてしまいますが、昔はもっと普遍的に木になる実全部という意味で使われていたようですね。

木の実尽くしの謡が終わると、ワキがツレに名を問い、ツレは「恥かしや己が名を」と謡い、続く地謡で立ち上がると常座へ進み、一度振り返って「跡弔ひ給へ」とワキに向かい二足ほどツメて心を入れた感じを見せた後に右に小さく回って、「かき消すやうに失せにけり」と常座で一度正面を向き中入りしました。
ツレが若い女として出る通常の演出では、ここは中入りではなく、ツレは後見座にクツログ形になります。

中入り前のツレは「己が名を」と「小野」をかけて謡い、続く地謡でツレが小町であることを暗示します。
これを受けてワキはツレの残した詞から「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ 小野とは言はじ薄生ひけり」という小町の歌を思い出し、さては最前の女は小野小町の幽霊に違いないと思い至り、市原野辺に小町を弔うことにします。

「この草庵を立ち出でて」と謡うと、ワキは立ち上がり、市原野辺にやって来た心地で少し前へ出ると「座具を展べ香を焼(タ)き」と数珠を手に膝をついて合掌し、「出離生死頓證菩提」と謡って正面を外し、ワキ正方へ向きを変えてシテの出を待つ形になります。

笛がヒシギを吹いて一声の囃子。シテの出です。
繰り返しになりますが、通常の演出ではツレが後見座にクツロイだ形になっているので、シテだけが登場してきます。しかしこの日はツレが中入りしているため、幕が開くとまず若やいだ女の姿の後ツレが姿を現しました。中入りしてから十分経ったでしょうか。この時間で装束を変えるのは大変だろうと思います。
さてこのつづきはまた明日に
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通小町さらにつづき

ツレの小町が一ノ松の少し前にかかったあたりで、シテ深草の少将が衣を被いた形で姿を現します。ツレはそのまま橋掛りを歩んで常座に出ますが、紺地の熨斗目を被いたシテは前屈みのままに一ノ松に立ちます。

一声の囃子でのシテの出ですから、一ノ松でシテが一セイを謡うのが通常の形でしょうけれども、ここではシテは熨斗目を被いて潜んでいる感じのままで、ツレが常座で「うれしの御僧の弔やな 同じくは戒授け給へ御僧」と謡います。生前の小町の姿を現したためか、前場の姥とは異なった調子の高い謡です。

ツレは受戒して成仏することを願いますが、シテは「いや叶ふまじ」とワキを止めます。この言葉にツレは「こは如何に」とシテを振り返りますが、シテは小町だけに仏道を成就はさせないと謡い「はや帰り給へやお僧たち」とやや衣を上げてワキを見やる形から、再び深く衣を被きます。

ツレは仏道成就を願い「薄押し分け出でければ」と正中に出ますが、シテは「褁(ツツ:機種制限で表示されない場合は"果"の下に"衣"ないし"衣から鍋ぶたをのぞいた部首"を書く字)めど我も穂に出でて」と謡いつつ被きを上げて衣を落とし姿を現します。
痩男に黒頭ですが、白練を着け薄い浅葱のような色の指貫に紫の縷狩衣を肩上げにしています。装束からみると高貴な人物だけれども身も心もボロボロになってしまっているという形でしょうか。
この装束は雨夜之伝の小書によるようですが、白大口に水衣の常の装束よりも、より少将の百夜通いでの憔悴ぶりが強調されるように思います。
金剛流の替装束という小書を観たことがありますが、たしか白練にこの日と同じような薄い色の指貫でした。(狩衣は着けていなかったと記憶しています)

ツレが、シテに招かれても留まらないと謡ううちに、シテは橋掛りを進みます。「打たるると離れじ」と謡いつつシテ柱あたりで止まり、ツレの謡の間にツレに寄り「袂を取って引き止むる」と両手を伸べて袂を取る形になります。執心の強さを示す場面展開です。
さてこのつづきはまた明日に
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通小町さらにさらにつづき

シテ、ツレの謡から、シテは袖を放して二三足下がり、「共に涙の露」で拍子を踏んでツレ共々にワキに向く形になります。

ワキは二人が小野小町と四位の少将であると気付き「百夜通い」を見せるように求めます。これに二人は掛け合いで謡い、シテが後見から笠を受け取って、雪の夜も雨の夜も通い詰めたことを語ります。

シテが「身一人に降る 涙の雨か」と謡って立廻。
雨夜之伝は装束が替わるのと、この立廻の型が替わるという小書で、通常であれば舞台を一巡するに過ぎないところを、百夜通の様を詳しく見せる形になります。
目付に出て笠をかざし雨を見て足拍子。一度下がってツレの方を見、正中あたりに出て笠に左手を添え両手で笠をかざした形になって目付柱に寄ります。二三足下がって左へ回り、大小前で笠を落として小回りして下居。両手で笠を探して取って立ち上がり「あら暗の夜や」と謡いつつ笠を上げます。

ものの本によると雨夜之伝では立廻で橋掛りへ入り二ノ松で笠を落として安座し、「あら暗の夜や」からの謡を省略して「かやうに心を盡くしつくして」へ飛ぶとありますが、この日は橋掛りへは入らず、喜多流の型に近いような展開で、謡も省略はありませんでした。

この後は「月は待つらん」から笠を使いつつ舞台を廻り、「獨寝ならばつらからじ」と安座。左手の指を折って九十九夜なりとかぞえ「今は一夜よ」と小指を伸ばして示し、立ち上がって正中へ出、笠を捨てて扇を出して上扇、左右打込開キと型が続きます。

そののち飲酒戒を守って悟りを開いたと突然の展開になるのですが、ここはなんだか納得いかないところ。この部分には古くは省略された場面があったという説がありますが、さもありなんという感じがします。

いささか唐突な感じで「小野小町も少将も、ともに仏道なりにけり」シテツレ二人共に並んでワキに合掌し終曲となりました。このあたりは曲自体の問題なので仕方ないところです。
むしろ私として山本さんの深い演技に感じ入ったところで、型を中心に細かく書きましたが、それだけ一つ一つの所作に感じるところがあったということです。
(72分:当日の上演時間を記しておきます)
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富士松 野村萬斎(銕仙会定期公演)

和泉流 宝生能楽堂 2008.9.12
 シテ 野村萬斎
  アド 野村万之介

この曲、最後は連歌の付け合いになりまして、正直のところ歌の素養がないので今ひとつ面白さが分かりかねる気がします。とは言え、狂言には連歌の付け合いをモチーフにしたものが少なからずありまして、当時、いかに連歌が流行っていたかがうかがわれるところです。

まずはアドの主人が登場し、太郎冠者が暇も乞わずにどこかへ出掛けたというので、叱りに行く旨を述べて舞台を回り、橋掛りへ向かって案内を乞います。
現れ出たシテ太郎冠者と問答になりますが、富士参詣に行っていたという太郎冠者の話を聞いて許すことにします。この問答は、基本の形としては文蔵や二千石などの冒頭と同じですね。

さて主人は許すことにしたものの、太郎冠者が富士松を取って帰ったというので、それを見せろと言い出します。富士松を持ち帰ったのは人から聞いて知っていたというのですが、それなら富士参詣も聞いていそうなもので、いささか展開が妙な感じではあります。

太郎冠者は、人からの預かり松だと言いますが、見せるだけなら良いだろうと主人に言われて、松を見せることにします。
正先に出て扇を開き、ザラザラザラと扉を開ける所作をして、松が見られるようにするわけです。

主人は見事な松を見て、自分にくれないかと言い出します。
当然、太郎冠者は断りますが、主人はさらに打ち物(なにかと交換)にしないかと言い、太郎冠者も物によっては良いと返答します。
これに主人は、鷹と替えようとか馬と替えようとか言いますが、太郎冠者は断り、不満な主人は帰ると言い出します。
さてこのつづきはまた明日に
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富士松のつづき

帰ろうとする主人に、太郎冠者は富士の御酒を呑んでいくように勧め、振る舞います。
主人は「この盃の上で一句もって参ろう、付けたらば松を取るまいし、付けねば松を取る」と言い出し、早速に「手に持てるかはらけ色のふるあわせ」と詠みます。

いよいよ連歌の付け合いになっていくわけですが、太郎冠者は酒を加えて来ようと立ち、橋掛りへ奥に向かう心持ちで、おかんを加えよと命ずるとともに、大声で話をするなと注意をして戻ります。

席に戻った太郎冠者は、あらためて歌を繰り返し「さけ事にあるつぎめなりけり」と付け、主人もこれを褒めます。
さらに主人は山王の縁日なので参詣に出掛けるから、道々連歌の付け合いをし、付けなければ松を取ると言い出して、出掛けることになります。

道すがら付け合いになります

 跡なる者よしばしとどまれ
ふたり共わたればしづむうきはしを
山吹の花すり衣ぬしはたそ
 とへどこたへず口なしにして
 ろくしょうぬりし仏とぞ見る
はすの葉の青きが上の青蟇
 飛ぶしら鷺は雪にまがへり
年寄りのしらがにまがう綿ぼうし
 黒き物こそ三つならびけれ
中は子か両のはたなる親烏

と続きます。

最初の「跡なる者よしばしとどまれ」は、山王へ出掛けると歩き出しながら、主人がいきなり詠んだため、太郎冠者は常座に平伏して待っています。
どうしたのだと主人に問われて「しばしとどまれ」と言ったので留まっていると答え、主人に叱られます。ちょっとしたギャグになっていますね。
さてこのつづき、もう一日明日へ
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富士松さらにつづき

道すがらの連歌の付け合いはさらに続きます

 上もかたかた下もかたかた
うつほぎのもとすゑたたくけらつづき
 下もかたかた上もかたかた
三日月の水にうつらう影見れば

と続けます。
だいぶん怪しくなってきますが、太郎冠者はうまく連歌を続け、主人はそれなら難句を持ってこようと言い出します

奥山に舟こぐ音のきこうるは
 四方の木の実やうみ渡るらん
西の海ちひろの底に鹿なきて
 かのこまだらに打つは白浪

無茶苦茶な句に、太郎冠者も、先の句の奥山の舟を西の海でこがせ、西の海の鹿を奥山でなかせたら良い句になろうと、主人に牽制球を投げますが、主人はどんな句にしようと自分の勝手と言い、そうこうするうちに山王へと到着します。

山王ではさらに鳥居にちなんで

 前の鳥居に丹をぬりて
赤きは猿のつらぞおかしき

と付けますが、主人は酔って顔が赤くなったのをからかうのかと怒り、早句でもって参ろうと言います。

はっといふ声にもおのれおじよかし
 けら腹たつればつぐみ悦ぶ

と最後まで太郎冠者が付け、主人が叱って留になりました。途中の付け合いは実に早く、萬斎さんの台詞回しが見事でした。楽しい狂言で、連歌も少しはわかるかな、と思ったところです。
(24分:当日の上演時間を記しておきます)
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天鼓 弄鼓之舞 柴田稔(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2008.9.12
 シテ 柴田稔
  ワキ 村瀬純、アイ 高野和憲
   大鼓 柿原弘和、小鼓 古賀裕己
   太鼓 助川治、笛 一噌隆之

実はこの日、どうしても早めの列車で家に戻る必要があって、残念ながら最後まで観ることができませんでした。
途中入場や途中退場というのは演者にも見所にも失礼だと思うので、基本的にしないことにしているのですが、この日は禁を破って前場だけで失礼しました。
このため鑑賞記を書くのは無理ですので、途中まで観たという記録のみ残しておくため書いています。

天鼓も好きな曲でして、特に後場の天鼓の舞、楽が楽しみです。この曲では昨年秋に金春流山井綱雄さんの演能を観た際の鑑賞記を書きました。あの時は盤渉の小書がついていましたが、山井さんらしい優美な楽でした。
観世流の弄鼓之舞の小書も、金春の盤渉と同様な形で、後場の楽に太鼓が入って盤渉調になります。

金春の天鼓といえば、作り物の鞨鼓台を出す際に一畳台も出されましたが、観世流は鞨鼓台のみが正先に出されます。

そうそう、金春の盤渉では前シテ一セイの後はサシ・下歌・上歌が省略されて、ワキの詞に続きます。これは弄鼓之舞も同じと思っていたのですが、この日は省略せずに全部謡われたようです。(途中で出る際に音を立てないようにしようと資料もすべてバッグの中。メモも取らずに観ていたので、確証はありません)

実は、柴田さんの能は昨年隅田川を拝見して、いささか気になるところがあったのですが、少なくとも今回の前場だけを見る限りでは熱演されていて好感が持てました。
またの機会と考えています。
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大原御幸 近藤乾之助(国立能楽堂開場記念公演)

宝生流 国立能楽堂 2008.9.13
 シテ 近藤乾之助
  大納言局 小倉伸二郎、阿波内侍 金井雄資
  後白河法皇 田崎隆三
  ワキ 宝生閑、ワキツレ大臣 森常好
  輿舁 高井松男 大日向寛、アイ 野村小三郎
   大鼓 安福建雄、小鼓 住駒幸英
   笛 一噌仙幸

大原御幸(オハラゴコウ:喜多流は小原御幸と表記します)は三番目物でたぶん唯一の舞のない曲。動きも少ないうえに上演時間も長く、一般受けしない要素を多々持っている曲です。
謡を中心に聞かせる曲と言ってもよいでしょうし、江戸時代初期頃には上演されずに素謡用の曲として伝えられていたという話もあります。

じゃあつまらないのかというと、これは好みの問題でしょうね。
私は数年前、金春の本田光洋さんがなさったのを観て、思わず涙がこぼれるほど感動しましたが、さてその会の休憩時間に「なんでこんな能をやるのかねぇ」「動きが無くてなぁ」と話し合っておられる老紳士達の声を聞きまして、確かに人それぞれと思った次第。

平家物語灌頂巻(カンジョウノマキ)を能化したもので、大原寂光院に隠棲している建礼門院徳子のもとを、後白河法皇が訪れるという話です。
後白河法皇はツレとして登場しますが、後で触れるように大変重い役所なので、相応の役者でないと演ずることが難しいところ。このため金春流ではほとんど演じられることがないようで、私が観た時のツレは、まだ宗家になられる前でしたが金春安明さんでした。

さて曲の展開は明日からに
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大原御幸のつづき

まず最初に後見が寂光院に擬した藁屋の作り物を出してきます。
この藁屋、観世、金剛、そして本田さんがなさった金春の各流では大藁屋を出し、シテの建礼門院に加えて、ツレの大納言局と阿波内侍も中に入っています。(金剛流の大原御幸は観たことがありませんが、大藁屋を出すと聞いています)

一方、宝生流と喜多流は建礼門院のみが入った藁屋を出しますが、引廻しが下ろされた時の印象からいうと、大藁屋の方が見た目によい感じがしています。

それはさておき、朝顔の蔓とおぼしきものが屋根にもつけられた藁屋が持ち出され、大小前に据えられると、ツレの大納言局と阿波内侍が登場し、大納言局が地謡前に阿波内侍は笛座前あたりに着座します。
二人とも花帽子に面を包んでいますが阿波内侍を年長として扱っているようで、先に出た大納言局が紅入の縫箔だと思うのですが、その上に青鼠のような色の水衣をつけ、若い女の面を薄い浅葱の花帽子で包んでいるのに対して、後から出た阿波内侍は無紅で水衣も枯草色のような感じです。深井か何か中年の女の面を、こちらは薄い萌黄の花帽子で包んでいます。
ずいぶん前に観ただけなので忘れてしまいましたが、たしか観世流では大納言局と阿波内侍は水衣を着けず、前シテもまた水衣無しで出たと思います。ものの本ではツレが水衣を着けない方が一般的のようですが、私は花帽子を着けるときには水衣も着けた方がバランスが良いような気がしていて、今回のような装束の方が観ていて落ち着きます。

つづいてワキツレが袷狩衣に白大口、洞烏帽子の大臣姿でアイを従えて登場してきます。この曲は登場人物も多い上にそれぞれの役がなかなかに重要です。ワキツレという役回りですが、この大臣の詞がその後の展開に大きな影響を与える大事な役で、森常好さんらしい堂々とした語り口が雰囲気を出しました。

ワキツレは、法皇が寂光院に建礼門院を訪ねる旨を述べ、アイを呼び出して道筋を清めるように命じて退場します。常座に平伏して命を受けたアイは、ワキツレの退場を見送ると目付に出てその旨を触れ、狂言座に着座します。
いよいよシテの出が近づいてきますが、このつづきはまた明日に
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