能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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井筒さらにさらにつづき

ワキの待謡に誘われて、後シテの出になります。
一声の囃子が奏されて、初冠に長絹を着けた姿で登場してきます。業平の形見を身につけた形です。亡き人の衣装を身につけるという設定は、能ではしばしば見かけますが、この曲ではいっそう重要な意味を持っています。

現れ出たシテは常座まで出て一声。「形見の直衣、身に触れて、なつかしや」と左袖を胸に取り右袖で抱きかかえるようにして、想いを込める形です。上掛だと「身にふれて」の後は「恥ずかしや」と謡いますが、「なつかしや」の謡と所作が大変印象的でした。
さらに「昔男に移舞」と謡い片シオリ、業平と一体となった風情で序ノ舞に入っていきます。

序ノ舞を舞い上げるとワカを謡い、さらに舞台を回って大小前から作り物に寄って井筒をのぞき込む型になります。たぶんここがこの曲の一番の見せ場なのだろうと思いますが、作り物の前で小回りし、扇で薄をよける型が柔らかく趣がありました。「業平の面影」と薄をよけた形のまま、ほんの一息間があり、それからおもむろに井戸を覗く形になります。

「亡婦魄霊に姿はしぼめる花の」と扇を左に取り、枕扇・・・と観世では言うのですが、扇に隠れるような形で下居し、「色なうて匂い」で立ち上がり「在原寺の」と雲扇(これも観世流の言い方ですが)し、夜明けとともに「芭蕉葉の夢も破れて覚めにけり、夢は破れ明けにけり」と終曲。幽玄の趣き深い一曲でした。

ところで中入りのところは、幕に入らず物着とする演出もあるようです。
別に避けてるわけではないのですが、井筒を観たのは四年ぶり。よく演じられる名曲の割には間があきました。
(98分:当日の上演時間を記しておきます)
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鱸包丁 山本東次郎(金春会)

大藏流 国立能楽堂 2008.11.09
 シテ 山本東次郎
  アド 山本則重

このブログでは鱸包丁は三度目になりますが、前二回は和泉流、それも石田さんと万作さんのシテでしたので、今回はいささか雰囲気が違うところ。

まずはアドの甥と、シテ伯父が登場し、シテは笛座前に控える形になります。
アドは常座で、自分には伯父がいて、このたび「かんどなり」をすることになったので鯉を求めてくれと言われたが、用意が出来ていない旨を語ります。
この「かんどなり」って実はなんだか分かりません。「官途成り」でしょうかねぇ、仕官するとかそんな意味でしょうか。なんだかお目出度いことのようです。

アドは鯉を手に入れていないことを、なんとか言葉で繕ってしまおうと、伯父の家までやって来て案内を乞います。
シテはワキ座まで出てアドに向かい合いますが、アドは伯父が「かんどなりをなさるによって鯉を求めてくれと」言われたので、淀一番の鯉を求めて淀の三本目の橋杭に藤蔓をもって結びつけておきました、と話し出します。
本日ここに持ってくるのに、引き上げようとし藤蔓を引いたところなんだか手当たりが軽い。鯉は水離れが大事だというので最後に「じゃっと」引き上げたところ「片身さいて獺(オソ)が喰いました」と嘘をつきます。

伯父は真面目で良い人らしく、そんなことなら人に伝えさせれば十分なところ、わざわざ自分で言いに来るとは「祝着」と言い、一つもてなすのでこちらへ「通らしめ」とアドを導きます。
アドは遠慮してこのまま帰ると言いますが、重ねてシテが招じ入れる形で中に入ることになります。
則重さんのアドの詞、最初に「伯父御は、ずっと正直な方だったので」と出てきますが、東次郎さんのシテは実に真面目で良い人の雰囲気です。
このつづきはまた明日に
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鱸包丁のつづき

シテ伯父は、甥を招じ入れてワキ座近くに座らせると、常座辺りに下がって、やって来たのは自分の甥なのだがその言うことは「百に一つもまことはござらん。この度もたらしに来たことでございましょう」と、甥の嘘を見破っていることを独白します。さらに自分も口調法で甥を懲らしめて帰そうと思う旨を述べ、幕に向かって「最前貰うた三こんの鱸のうち、一こん洗へと言え」と命じて常座の少し前辺りに着座します。

ここからがこの曲の見せ場ということですが、伯父の仕方話になるわけです。

話の流れは和泉流と変わりません。
まず伯父は鱸一こんを何にして料理しようかと甥に問い、甥がそれでは『打ち身』にして欲しいというと、『打ち身』の謂われを語り始めます。寛和元年花山院の時に遠江国橋本の宿で四官の大夫忠政が打ち身を始めたとい話ですが、すっぱと切っては、しっとと打ちつけと見事な様を見せます。そして『打ち身』は川のものでは鯉、海のものでは鯛にしか用いられないもので、鱸を打ち身で食べようなどと庖丁人の子である者が言っては笑われると甥を諭します。ここでこの甥が庖丁人の子であることが示されます。

その後も和泉流と同様の展開で、伯父は一度座を立って幕に向かって鱸を早く洗って出せと命じて戻ると、今度は身を切り分けて一つを煎り物に、また膾にとこれまた仕方を交えつつ料理していく話を聞かせます。

膾を肴に、まずは酒を五杯ほども飲もうと言い、さらに煎り物でまた七杯と酒を飲む話。次は濃茶の極を三袋貰ったが一袋を挽かせておいたのでこれを飲もうと続けます。

さてさすがに十二杯も飲んで酔ったであろうと、伯父は扇を手で弄びながら酔った様子まで見せ、鯉を持ってこないのに鱸の包丁からお茶まで頂いて忝ないと甥が礼を言う様を演じます。
今度は泥鰌なりなんなり持ってお礼に参りますので、先ずそれまではさらばさらば・・・とおっしゃるほどにもてなして帰したいが、そちらの鯉をオソが喰ってしまったように、こちらの鱸は包丁が喰ってしまった、今の話で食った、飲んだと思って足元の明るいうちにとっとと帰れと甥を叱ります。
甥が面目もござらぬと言って留になりますが、話の展開は和泉流と変わりませんね。

それにつけても東次郎さんの仕方話、見事でした。万作さんの仕方話もやはり素晴らしい物でしたが、いずれも芸術の域に達しておられました。
(27分:当日の上演時間を記しておきます)
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三井寺 金春安明(金春会)

金春流 国立能楽堂 2008.11.09
 シテ 金春安明、子方 山田菜々子
  ワキ 宝生閑、アイ 山本則直 山本則俊
   大鼓 安福建雄、小鼓 幸清次郎
   笛 中谷明

舞台には囃子無しにシテが登場してきます。無紅唐織着流しで中年の女ですが右手に数珠を持っており、なにやら祈願するところがあるようで、正先に下居して合掌すると「南無や大慈大悲の観世音さしも草」と謡い出し、下歌、上歌と行方知れずとなった我が子に再び会わせてほしいと祈ります。
安明さんらしい柔らかい謡い出しで、ふわーっと謡の世界が広がるようですが、さて上歌まで謡い終えると、新たに霊夢を蒙ったので急いで下向しようと言い、立ち上がって常座に向かいます。

一方、アドアイ清水寺門前の者が狂言座から立って、門前にて夢を合わせる者であると名乗り舞台に進んで正先から戻ってくるシテと出会い、正中でシテを床几にかからせ、自分は目付に着座してシテの霊夢の話を聞きます。

シテは近江三井寺に参るようにとの霊夢を蒙ったことを話します。これにアイがそれは目出度いことで、まず尋ねる人に近江(会うに掛けた)の国、我が子を三井寺(見いだすに掛けた)と判じて三井寺に行くことを勧めます。シテは告げにまかせて三井寺へ行ってみようと言い、アイが床几を外すと下居して合掌。立ち上がってアシライでの中入になります。アイもこれに従っての退場です。

短い前場でシテとアイが退場してしまうと、後見が鐘楼の作り物を目付に出します。この作り物、背丈ほどの枠組みに小さな鐘がつけられたものですが、鐘の作り物が出るのはこの三井寺だけでしょうね。
さてこのつづきはまた明日に
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三井寺のつづき

後見が下がり、舞台は三井寺の境内になります。
次第の囃子で子方の千満を先頭にワキの三井寺の住僧宝生閑さん、ワキツレ従僧は則久さんと御厨さん、そしてオモアイの能力の則俊さんが登場してきます。
ワキとワキツレが次第を謡い、ワキは江州園城寺の住僧と名乗って、師弟の契約をした幼い人を伴って今宵八月十五夜の名月を眺めようと思う旨を述べます。閑さんらしい趣のある謡、詞です。

三井寺は天台寺門宗の総本山、滋賀県大津市にあり正式な寺の名は長等山園城寺といいます。
最澄の開いた日本の天台宗は、第三代天台座主円仁と第五代天台座主円珍の二人の考え方の違いから、後に円仁派と円珍派に分かれてしまいました。円珍が天台座主の時に園城寺を賜り伝法灌頂の道場としていたことから、円珍派はやがて比叡山を出て園城寺に依り、ここから延暦寺の円仁派を山門派、園城寺の円珍派を寺門派と呼ぶようになります。
山門派と寺門派が対立を深めて様々に争ったことは、平家物語にも触れられていますね。
園城寺の起こりは古く、大友皇子の子である大友与多王が父の霊を弔うために寺を創建し、天武天皇から園城の勅額を賜ったのが寺の起源とされているようです。ここには天智、天武、持統の三帝が誕生した際に、産湯に用いられたという伝説のある霊泉があって、この泉にちなんで「御井の寺」と呼ばれていたのが、いつしか三井寺になったと言われています。

三井寺の梵鐘は有名で、近江八景の一つ三井の晩鐘に数えられています。目付に出された鐘楼の作り物はこの象徴でしょうし、後段この鐘が重要な意味を持ってきます。

それはさておき、中秋の名月を眺めることにした一行はワキ座から地謡前に掛けて着座し、アイが狂言座に下がります。
さてこのつづきはまた明日に
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三井寺さらにつづき

ワキはアイに、千満のなぐさみに舞うように命じ、アイは小舞「いたいけしたるもの」を舞いますが、その後、女物狂いを呼び入れようとワキツレに相談します。
しかし聞き入れてもらえないので、独断で呼び入れることにして、その旨を一人語りで告げて笛座前に着座、シテの出を待つ形になります。

一声の囃子で、後シテが笹を持って登場し、一ノ松で滋賀の山から琵琶湖へと進む道をさらさらと流れるように謡い、比叡山を拝んだ後に我が子への思いから物狂いとなっている身を嘆き、一セイ「子の行方をも白糸の 地謡「乱心や狂ふらん で笹を前に出しするすると舞台に入ってカケリになります。
カケリは例によって舞台を一周半する程度の所作ですが、途中で笹を肩に担い狂乱の態を表します。

シテが「都の秋を捨てゝ行かば」と謡い、地謡が道行のような形で志賀辛崎から三井寺へと着いたことを謡い、シテはこれに合わせて舞台を廻り最後はゆっくりと常座に立ちます。

するとワキの謡「桂は実る三五の暮、名高き月にあこがれて、庭の木陰に休らへば」これにシテが続けて「三五夜中の新月の色、二千里の外の故人の心」と白楽天の詩をひきつつ中秋の名月を謡い、地謡がこれを受けて湖の情景を謡い、シテはその謡に湖畔の風景を眺める風情で舞台を回って橋掛りに入り、一ノ松に立ちます。

オモアイの能力が正中へ出て、じゃんもーんもーんもんと鐘の音を口で言いつつ鐘をつく所作をします。シテは舞台に入り笹で能力を打つと、アイは「蜂が刺いた」と言って飛び退きます。百万のアイも同じように笹で打たれて大騒ぎをしますね。

シテは自分も鐘を撞こうと言い、アイは人には撞かせぬものと言ってこれを留めようとします。しかしシテは人が撞かぬものならばどうして能力は撞くのだと言い、能力は『鐘撞く法師』などと答えて笛座に下がり、シテは「面白の鐘の音やな」と謡い出します。
このアイが鐘を撞いた後のシテとのやりとりは観世流にはありません。アイが鐘を撞いた後、シテは「面白の鐘の音やな」と謡い出す訳です。
さてこのつづきもう一日明日に
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三井寺さらにさらにつづき

さてシテは「面白の鐘の音やな」の謡と続く詞で、三井寺の鐘は龍宮から持ち帰られたものというからには、龍女が成仏する縁にちなんで女が鐘を撞くのも当然だと述べ、続く地次第「影はさながら霜夜にて」の後、笹を後見に渡して扇を持ち、作り物に近づきます。この「龍女が成仏の縁に任せて」の謡、とりわけ龍女のところは不思議な節付けになっていまして、どういう音程で謡っておられるのか、これは難しい謡です。

アイはこれを見てワキに告げて退場し、ワキが立ってシテを制止し、シテは常座へと退く形。

狂人の身で鐘を撞くことはならないととどめられたシテは、故事を引き鐘を撞く許しを乞います。そして鐘之段、地謡との掛け合いで鐘の功徳を謡いつつ撞木のひもを引いて鐘を撞く所作を見せ、大小前に着座します。

地謡のクリから、サシ、クセとなり、鐘にまつわる詩や歌がいくつも引かれて、シテがワキにこれを語るような展開になっています。
クセの上げ端「月落ち鳥鳴いて」からシテは立ち上がり、謡に合わせて舞う形。

クセが終わると子方がワキに物狂いの女の国里を問うて欲しいと頼みます。ワキは思いも寄らぬ申し出とは思いますが、シテに尋ねることにします。
さてワキの問いにシテは駿河の国清見が関の者と答え、子とシテとの問答から、子方が行方知れずとなった千満であることが明らかになります。

シテは「親子に逢ふは」と謡って立ち、鐘を見、招き扇して子方に近づいて肩へ手を掛けてシオリ。キリで親子が故郷に帰って富貴の家となったことが謡われて、シテは子方を送り出し、常座で留拍子を踏んで終曲となりました。
子方を送り出すシテの姿、なかなかに趣き深く、雰囲気の良い一番でした。
(94分:当日の上演時間を記しておきます)
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融 笏ノ舞 山中一馬(金春会)

金春流 国立能楽堂 2008.11.09
 シテ 山中一馬
  ワキ 工藤和哉、アイ 山本泰太郎
   大鼓 安福光雄、小鼓 曾和正博
   太鼓 小寺佐七、笛 藤田次郎

融は好きな曲の一つで、このブログでは一昨年の浅見真州さんが舞われた十三段之舞の際の鑑賞記を載せています。
金春では山井綱雄さんの融も拝見していますが、今回は笏ノ舞の小書き付。笏ノ舞の小書きは宝生流や喜多流にもあるそうですが、笏を持って出るというのは共通としても流儀によって演出はけっこう異なっているようです。その辺りも触れてみたいと思います。なおこの日、太鼓が助川治さんから小寺佐七さん代演となりました。

まず名乗り笛でワキの工藤さんが出てきます。藤田次郎さんの笛、大変きれいです。名乗り笛が良い音色で聞けると、一曲全体への期待が高まるような感じがします。

ワキ僧は東国から都に上る旨を語り、下歌、上歌と謡って都に着き、六条河原の院に暫く休もうと言ってワキ座に着座します。

笛のヒシギから一声の囃子になり前シテの登場。無地熨斗目に水衣、腰蓑を着けて水汲み桶を担いでの出、特段、常の融と変わったところはありません。
一セイ「月も早、出で汐になりて塩釜の、うらさび渡る夕べかな」と謡い、まとめていた桶を放して下げる形になります。

山中一馬さんは、桜間右陣さん(当時はまだ桜間真理さんを名乗っておられましたが)や桜間金記さんのツレで何度か舞台を拝見していますが、シテでは初めてです。
融の前場は月をめぐっての風情ある展開ですが、山中さんは声も良く、丁寧に謡われていて好感が持てました。金春の謡はシテ方五流の中でも一種独特の旋律で、それがまた興味深いところですが、金春の謡の良いところが出ているような感を受けました。

この後、サシから下歌、上歌が略されて「あまりに苦しう候ほどに、しばらく休もうずるにて候」と言って桶を置き、常座に立つとワキが声を掛けます。
ワキ、シテの問答となりますが、このつづきはまた明日に
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融のつづき

ワキはシテに対し、都の中で汐汲みとはどういうことかと問いかけます。
シテは逆に、ここをどこと思っているのかと問い返し、六条河原の院とのワキの答えに、だからこそ陸奥の千賀の塩釜を移した場所なのだと諭します。

謡の詞章は各流毎に少しずつ違うのが普通です。さらには観世・宝生の上掛二流と、金春・金剛・喜多の下掛三流との間での違いが大きいようです。しかしこの部分では、ちょっとしたところですが「ここ塩釜の浦人ならば」という謡、ここはなぜか観世流だけが「浦人なれば」と已然形になっています。未然でも已然でもどちらでも意味は通るのですが、微妙にニュアンスがが違ってきますね。

さて塩釜を移した場所と聞いてワキも思い出した様子で「さてあれなるは籬が島候か」と島を見るように問いかけます。これに合わせてシテも遠くを見るようにして「さん候あれこそ籬が島よ・・・」と答え、その後ふと目付柱の上方遠くに面を向け「や、月こそ出でて候へ」と月の出を見やります。
ワキもこれに合わせて月を見、ワキシテの掛け合いから地謡「実にやいにしへも」でシテは一度正面を向き、謡に合わせて常座から舞台先まで出て目付を見、舞台を回って大小前へと向かい「千賀の浦わを眺めん」とワキに向きます。

ワキが塩釜の由来を語るように促し、シテは正中に下居して、融の大臣が陸奥の千賀の浦に思いを寄せて塩を焼かせたことを語ります。融の大臣の後には、この院を相続する人もなく、うら寂しくなってしまったと語り、地謡となります。

地謡の「あら昔恋しや」で一度目付の方を見たシテは、正へ直し「浦千鳥音をのみ鳴くばかりなり」で片シオリして立ち上がり、さらにモロシオリとなってシテ柱の方を向きます。

ワキは気分を変えて「見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふか」と問い、『名所教え』になります。
このつづきはまた明日に
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融さらにつづき

名所教えは趣き深い場面ですが、まずは目付方に向いて『音羽山』を教え、逢坂山は音羽の嶺に隠れて見えないと再び目付方向を見やります。
次はワキ正面と目付の間辺りの遠くを見る形で中山清閑寺を見、ワキ正方向の遠くに稲荷山。さらに幕の方を遠く見やって藤の森。二ノ松の方へさらに向きを変えて深草山と、名所をシテ・ワキ二人して見渡す形になります。

シテが一度ワキに向き直り、さらに「はや暮れ初むる遠山の」と笛座方を二人見る形になって、大原から小塩の山。地謡裏の方へ「西に見ゆるは何処ぞ」と嵐山を見ます。
このシテ、ワキの名所教えは、息が合えばその二人の見る先に京の名所が様々に見えてきます。

さて潮時も過ぎ、「実に忘れたり」とシテは両手を打ち合わせ「いざや汐汲まん」と桶を取り肩に掛けて正先に出ます。階の先に桶を落として汐を汲み、目付に月を見上げた後、ワキにツメ、幕の方を向いて右肩に担った桶をそのまま置き捨てて「跡も見えずなりにけり」と中入になります。

アイが立ってワキとの問答から居語りに融の大臣のことを語り、ワキの待謡。出端の囃子で後シテの出になります。
後シテは白の狩衣に指貫、小書きの通り笏を持ち、巻纓の冠を着けての登場です。一ノ松に出て「忘れて年を経しものを」と謡い出します。地謡の「さすや桂の枝々に」で舞台へ入りますが、小書きのため「ここにも名に立つ白河の波」で橋掛りに戻り幕前まで進んで、笛のアシライ、大小太鼓の流し打ちで大小前まで戻って急ノ舞となります。

一昨日も書いたように宝生・喜多にも笏ノ舞の小書きがあるようなのですが、あまり上演されていなようで実際はよく分かりません。宝生には酌ノ舞の小書きもあって、こちらはけっこう上演されるのですが、笏ノ舞の方は探した限りでは明治期の宝生九郎の上演記録くらいしか見つかりませんでした。
笏を持って出て、舞の時には扇に持ち代えるという話も聞きますが、金春ではそのまま笏で舞うようで、これがなかなか面白い。この舞の面白さを見せるための小書きなんでしょうね。

舞の後も趣き深い場面ですが、最後は「月の都に入り給ふ粧い」とシテは橋掛りに進んでそのまま幕に入り、ワキの残り留となりました。
風情のある良い演能だったと思います。
(78分:当日の上演時間を記しておきます)
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松虫 梅津忠弘(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2008.11.23
 シテ 梅津忠弘、ツレ 大島輝久
  ワキ 舘田善博、アイ 吉住講
   大鼓 佃良太郎、小鼓 森澤勇司
   笛 藤田貴寛

金春会の記録を終えまして、今日からは十一月の喜多流職分会自主公演能です。まず最初は松虫。
友情を扱った曲・・・ということになっているのですが、ここでいう『友』とはいろいろと意味も考えられましょう。いずれにしてもなんだか不思議な話です。
まずは名宣笛でワキ館田さんが素袍男の姿で登場してきます。津の国阿倍野の市で酒を売っているのだが、若い男達がやって来ては酒宴をして帰って行く。今日もやってくるかと待ってみようと言ってワキ座に着座します。

囃子が次第を奏し、ツレの大島さんが先に立ち、シテが登場してきます。
観世流や宝生流ではシテとともに三人ほどの若い男が登場するのですが、喜多流ではツレが一人だけで、無地熨斗目に深草色のヨリの水衣を肩上げにし、橋掛りから正中まで進みます。
後から登場するシテは段熨斗目に白大口、深草色のこちらはシケの水衣を着けおり、笠を被らず直面のままです。橋掛りから常座まで進み、二人向き合う形になって「もとの秋をも松虫の音にもや友をしのぶらん」と次第を謡います。
なかなかに良い雰囲気の謡です。ツレの大島さんは美声ですね。

古今集仮名序に「松虫のねにともをしのび」という詞がありますが、これに基づく中世の説話の中にこの曲のような話が出てくるのだそうで、どうやらこの辺りを出典にしている曲のようです。(ちなみに仮名序のこの後は「たかさご すみの江のまつも あひおひのやうにおぼえ」と続きますが、この部分は「高砂」の基になったと言われていますね)

次第の後、地取りでツレが正面を向き、続いてシテのサシ。二人向き合っての下歌、上歌と続き、秋の朝風に吹かれつつ阿倍野の市へやって来たと謡います。上歌の終わりにツレが目付の方へ、シテは常座から大小前へと進みます。

このつづきはまた明日に
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松虫のつづき

シテ、ツレにワキが呼び掛けて、シテとワキの掛け合いになります。

ワキは夜更けまで酒宴をしようと誘い、シテは「仰までもなし何とてかこの酒友をば見捨つべき」と応じます。
さらに地謡が、秋の夜に酒を酌み交わして帰ることを忘れると謡い、シテは大小前から目付へと進み、舞台を一巡りして常座に立ってワキに向かいます。この間にツレは目付から下がって大小前を通り、地謡前に着座して控えます。

この地謡の謡に「松虫の音も盡きじ」と「友こそは買ひ得たる市の宝なれ」とあり、ワキは、詞の末の「松虫の音に友を偲ぶ」とはどういう謂われかと尋ねます。詞としては、上歌の最後のこの部分よりも、次第の謡にそのままの詞章がありますが、ここは話の展開上、今の詞の末としたのでしょう。

この詞が古今集仮名序に依ることは昨日書きましたが、考えてみれば仮名序の内容にはいささか頭をひねるものが少なくありません。そのため解説書やそれにちなんだ説話のようなものも多々作られたようで、この曲もそうした物をもとにして作られたのでしょう。
「高砂」の話も書きましたが、「志賀」も仮名序に「おほとものくろぬしはそのさまいやし。いはばたきぎおへる山人の花のかげにやすめるがごとし」をそのままに能に写し入れていますね。

さてワキに促されたシテは常座から大小前に進み二足ほど出て下居、松虫と友に関わる話を始めます。
昔、この阿倍野の松原を二人連れが通ったときに、松虫の音が面白聞こえたために、一人がその音を慕って野に分け入ったまま待てども帰らないために、もう一人が尋ね行ってみると、友は既に草露に伏して亡くなっていた。泣き悲しんでもいかんともしがたく、そのまま土中に埋めたが、今も松虫の音にその友が偲ばれると、シテの語りから地謡へと物語が続きます。

「音に友をしのぶ名の」とワキを向いたシテは「世にもれけるぞ悲しき」とシオリ。さらに続く地謡の中で、男はその亡き友を偲ぶ者の亡霊であると明かされ、「恥ずかしやこれまでなり」ですっと立ち上がります。「立ちすがりたる市人の」とそのまま幕の方に進み出し、橋掛りへと入ります。
このつづきはまた明日に
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松虫さらにつづき

たしか観世などでは、このシテに合わせてツレ一同も立ち上がり「阿倍野の方に帰りけり」で退場してしまったと思うのですが、ここではツレは動かず、この謡で橋掛りを進んでいたシテは、二ノ松で立ち止まって正を向き、ロンギになります。

地謡とシテの掛け合いで、名残を暫しとめ給えとの呼び掛けに、シテは松虫の鳴くのも我を待つ声かと謡い、舞台に戻って大小前に下居して合掌し「しのぶぞよ松虫の音に」で再び立って常座で小回り、あらためて中入となります。ツレはここで立ち上がり、シテに従って退場します。一度、中入しかかったシテが舞台に戻り、さらにもう一度中入をし直すという形は、おそらく松虫くらいでしょうか。

それはともかく、中入の後はアイの阿倍野の里人が登場し、型の如くワキを見つけ、ワキの問いに対して、松虫の音に惹かれて命を失った男と、その友の話を繰り返します。
さらにワキに重ねての弔いを勧めて退場し、ワキの待謡となります。

後シテは怪士の面に法被、半切の姿で武将のような形です。亡霊とはいえ、この曲の主題から考えるとどうしてこういう形で出るのか、ちょっと疑問なのですが、やはりそう思う人もいるようで、若男や童子、十六などの面を用いることもあるようですし、法被の上に水衣を重ねることもあるようです。

シテは常座に立ってワキの弔いに感謝をしますが、ワキとシテの掛け合いとなり、シテは忘れ得ぬ友ぞ懐かしいと謡います。

シテが大小前に進んでクリ・・・喜多流なので序ですが、さらにサシを謡い、クセになります。クセは舞グセで、曲舞の基本的な形をなぞっています。
クセを舞上げたシテは「盃の雪を廻らす花のそで」と謡って黄鐘早舞になります。

舞上げるとワカを謡い、ノリ地に合わせて舞ったシテは、「招く尾花のほのかに見えし」と招き扇し、常座で袖を返して留拍子を踏みました。
(78分:当日の上演時間を記しておきます)
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酢薑 野村萬(喜多流自主公演能)

和泉流 喜多六平太記念能楽堂 2008.11.23
 シテ 野村萬
  アド 野村万蔵

酢薑は一昨年の10月に竹山さんと月崎さんのシテ、アドで観たときの鑑賞記を書きました。今回も同じ野村家の酢薑ですので基本は同じです。
アド津の国の薑売りが先に登場し、藁苞のようなものを棒の先にくくりつけて肩に担い、都に売りに行くと言って舞台を廻りワキ座にクツロギます。

代わってシテ、和泉の堺の酢売りが出て常座で名乗り、酢の効用などを語りつつ舞台を一回りして常座に戻ると、こちらは竹筒をくくりつけて肩に担っていた棒を持ち替え、先に出して売り歩く形でワキ座の方へと向かいます。

この酢売りを薑売りがとがめて問答となっていくわけですが、何度も観ている曲にも関わらず、やはり何度観ても面白いという次第。
わけても萬さんと万蔵さんの笑いは、それぞれに独特で、ついつい引き込まれてしまいます。
今回、よくよく聞いてみると、二人が辛いと酢の秀句を言い合って大笑いになるという決まりの型のところ、二人同時に笑い出すのですが、万蔵さんの笑いの方がやや繰り返しが早く、シテ萬さんが笑っているうちに「さあさあおりあれ」とアドが声を掛ける形になっています。このタイミングは、二人笑うたびに同じでしたので、計算した上でのやりとりなのでしょうね。

前回も書きましたように、流儀によって、家によって、様々に演出されているようなのですが、前回と今回は同じ野村家ということで、特段の違いはありません。
今回聞いていてそう言えばと思ったのは、シテの言葉の方が「す」を無理にも入れている感じがするところで、例えば先祖の酢売りが推古天皇の御代に御門に参った際のところで「かすこまって(当然、畏まってでしょう)」や「巌の上に亀あすぶ(遊ぶ)」など、他にもいくつか、こうしたところに気付きました。
(19分:当日の上演時間を記しておきます)
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龍田 粟谷充雄(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2008.11.23
 シテ 粟谷充雄
  ワキ 高井松男、アイ 山下浩一郎
   大鼓 亀井実、小鼓 住駒匡彦
   太鼓 三島卓、笛 一噌幸弘

一昨年の十二月に、宝生の藤井雅之さん(当時は波吉雅之さん)の龍田の鑑賞記を書いていますが、今回は喜多流。お、あのときもワキは高井松男さんだった・・・
この龍田という曲。藤井さんの時の観能記に書いたように、斑鳩の里に流れる竜田川の近くに鎮座する龍田神社の縁起を能に展開しています。後場の龍田姫が神楽を舞うのが見せ所ですが、晩秋の風情ある能ですね。

なお斑鳩にある龍田神社と、三郷町にある龍田大社の関係については、波吉さんの時の鑑賞記に書きました。また龍田と竜田の使い分けですが、今回は現在の地図の表記などにもとづいて川の名は竜田、神社や祭神などその他は龍田としました。

さてまず舞台には作り物の宮が出されてきます。
宝生では引廻しを掛けた宮の作り物だけでしたが、喜多流でも同様に紫の引廻しが掛けられた宮だけが出されます。観世流では普通は一畳台の上に宮の作り物を出します。

次第の囃子でワキの旅僧、ワキツレ従僧の御厨さんと梅村さんが登場してきます。
次第で出たときの型の如く、正先で向かい合って次第を謡い、地取りでワキツレが下居すると、ワキは「六十余州に御経を納むる聖」と名乗り、南で御経を納めたので、これから河内の国へ急ぐと語り、ワキツレが立って三人で道行の謡。奈良の都を発って西大寺を過ぎ、竜田川にやって来たと謡います。

ワキは川を渡って龍田明神に参詣しようと言い、ワキ座に向かいますが、ここでシテが呼び掛けで登場してきます。
さてこのつづきはまた明日に
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龍田のつづき

昨日はちょっと体調を崩しまして、更新をお休みしました。

さて一昨日のつづきで、幕から呼び掛けで登場した前シテは、ワキが川を渡ろうとするのを止め問答になります。ここは上掛りと下掛りでいささか詞章が違っている部分。
概して下掛りの方が細かなやりとりになっていて、シテの呼び掛けに対するワキの言葉も、上掛りと同じ「不思議やな此川を」の後に「な渡りそと呼ばわる方を見れば 向に女の候が申し候」と説明のような詞章が入り、シテがワキに暫く休むようにと言い、ワキは六十余州に御経を納める聖だがこの川を渡って龍田明神へ参るところと答えるやりとりに続きます。

二ノ松まで出たシテとのやりとりから、ワキは「竜田川紅葉乱れて流るめり 渡らば錦中や絶えなん」という古歌を思い起こします。この歌、古今和歌集の巻五、秋下に題しらず、よみ人しらずとして収録されていますが、この曲では後に出てくるように帝の歌としているようです。いずれにしても紅葉流れる川面の美しさが伝わってくるような歌ですね。

シテはこのワキの言葉のうちに橋掛りを進み、舞台に入り常座へ出つつ紅葉が当社のご神体であると述べますが、ワキはこれに対して、既に季節は紅葉の時を過ぎ川面には薄氷で波も見えぬのだから、渡っても差し支えなかろうと主張します。しかしシテは藤原家隆の歌「竜田川紅葉を閉づる薄氷 渡らばそれも中や絶えなん」を引いて、川を渡るのは神慮に背くと重ねてワキを止めます。

地謡が続けて「氷にも中絶ゆる名の竜田川」と謡い出し、この謡のうちにシテは常座から目付へ出、ワキを向いてツメる形。さらに笛座の方を向いて舞台を右へ回り、常座に戻ってワキを向きます。
シテは自ら龍田明神の巫であると名乗り、明神に参るならば道案内をしようと言います。ワキがお供する旨を述べ、シテが「こなたへ御入り候へ」と言って、ワキ、シテの二人は作り物の宮の方を見る形になります。ここは特に舞台を廻るような所作もなく、二人が振り向いたらいきなり明神の境内になってしまったような展開です。

ワキは、霜月十一月というのに今を盛りの紅葉を見つけ、これは神木かとシテに問い掛けます。
さてこのつづきはまた明日に
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龍田さらにつづき

ワキの問いかけに、シテは当社は紅色を愛でるによって紅葉を神木としている由を答えます。ワキはこの明神に参る有り難さを謡いつつ、下居して宮に向かって合掌し、地謡がこれを受けますが、下歌でシテもワキにならうように宮を向いて下居し合掌し、上歌の「殊更にこの度は」で着座のままシテは正面に、ワキは目付方に向きを変えます。

夕暮れの龍田の嶺を見上げ、冴えを増す川音を聞く風情が謡われますが、「いざ宮めぐり始めんとて」で、二人は向き合って立ち上がり、ワキはワキ座に着座し、一方のシテは舞台を廻ります。
そして実は自分は龍田姫であると名乗って、扇を広げつつ目付に出、「社壇の扉を押し開き」と開いた扇で戸を押し開けるようにして、作り物に中入りします。

シテが中入りするとアイの所の者が出、常の形の如くワキ座に座したワキの一行を見つけて、ワキの求めによって龍田明神の謂われを居語りに語ります。語り終えたアイは、重ねて奇特を見るようにワキに勧めて退場し、ワキ、ワキツレの待謡が謡われて、出端の囃子となります。

出端の最後に作り物の中でシテが「神は非礼を受け給はず 水上清しや龍田の川」と謡い出し、地謡の「和光同塵おのづから」で引廻しが下ろされて、床几にかかったシテが姿を現します。

後シテは薄黄の大口に紫の舞衣、紅葉の付いた天冠の装束で、龍田姫が姿を現した形。地のクリの謡(喜多流ですから序ですかね)で瀧祭の神と龍田の明神が同体であると謡われ、サシで民が安全に豊かなるのも当社の故と神威を謡い、クセになります。シテは作り物を出て、クセの謡で舞います。

古歌を引きつつ、クセを舞い上げると「さるほどに夜神楽の 時移り事去りて」と時刻が移り、月も霜も白くなるなる中に、幣を振り「謹上再拝」と神楽になります。

神楽を舞上げたシテは、「ひさかたの月も落ち来る 瀧祭」と謡い、夜が明け始めるころ、神は上がらせ給いけりと、常座で留拍子を踏んで終曲となりました。
神楽でトラブルはありましたが、秋の曲である龍田らしい良い舞でした。
(90分:当日の上演時間を記しておきます)
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十二月五雲会を観に行く

さて本日は、宝生流の公式な会としては今年最後になる、十二月の五雲会を観に行ってきました。おかげさまで大変満足して帰って参りました。

番組はいつものように能四番に狂言二番で、曲は以下の通りです。
能  和布刈  シテ 高橋亘
狂言 鬼瓦   シテ 山本則直
能  春栄   シテ 藤井雅之
能  玉葛   シテ 宝生和英
狂言 太刀奪  シテ 山本則俊
能  乱    シテ 小倉伸二郎

能、狂言ともに、それぞれ面白かったんですネ。けっこうお世辞でそう書いたりしちゃうこともありますが、今回、ホントに面白く拝見しました。
それぞれについて書き始めるときりがないので、詳細はいずれ鑑賞記に書きますが、とりあえず簡単に印象など・・・

和布刈の前場は、なんと言ってもシテ高橋亘さんの謡。前にも亘さんの声が好きだという話を書きましたが、音色的にも良い感じがします。このところ直面の曲を続けて拝見しましたが、前シテ老人がなかなかに良い感じです。後場ではワキの所作も見せ所となっていますが、面白く拝見しました。

春栄は観世流では滅多に上演されない曲で、私は初見です。宝生流では割と演じられているのが不思議ですが、これがなかなかに面白い。劇的な能って、なんだかくさい感じになってしまいそうですが、子方を登場させることで上手く昇華されている感じがします。思わずホロッとしちまいました。

玉葛。青年宗家らしい好感の持てる一曲でした。後場の舞が綺麗で、ご自分でも自信を持って舞っておられる感じを受けました。春日龍神を拝見した際にも書きましたが、面を着けられると、何倍か大きくなられる感じがします。実は来年二月の式能、第一部のチケットを入手済みでして、和英さんの翁を楽しみにしています。

そして乱。小倉伸二郎さんの舞をほとんど観たことがなかったことに本日気付きました。調べてみると、シテで拝見したのは平成17年の弓八幡だけです。ツレとか地謡などで良くお見かけするせいか、もっと観ているように錯覚していたのですが、確かにこんなすてきな舞は観た記憶がありませんね。宝生の乱はどちらかというと地味な形と思いますが、すっかり堪能させて頂きました。一度だけちょっとバランスを崩された感じだったのですが、見事に立て直して終曲まできちんと勤められました。

狂言はどちらもとても面白かったですね。いつもながら分かっているのに笑ってしまうというところです。
いずれそれぞれの鑑賞記で、もう少し詳しいところを書いてみようと思います。
実は明日も観能です・・・
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代々木果迢会別会を観に行く

代々木果迢会が十周年ということで、国立能楽堂で記念別会があり、昨日に引きつづきのために家中から若干の不評を買いつつも観に行って参りました。

小早川修さんの清経で恋之音取の小書。浅見真州さんの巻絹で、こちらは諸神楽の小書。さらに浅見慈一さんの望月と、能が三番。別会らしい豪華な番組です。
浅見真高さんの謡で笠之段の一調と、東次郎さんの狂言福の神もあり、本日も昨日に続いて実に良い観能でした。

昨日同様、本日の観能分も鑑賞記はいずれ後ほどと思っていますが、今日もそれぞれに良い能でした。
小早川さんは三、四年ほど前に小塩を拝見した際、ちょっと気になる点があったように記憶していたのですが、今日の清経はとっても良い一番でした。音取を観て、一噌仙幸さんのうまさがしみじみと分かった気がしています。

巻絹は(何度か書いたと思いますが)好きな能ですが、諸神楽の小書でさらに惹かれる曲になった感じです。融の十三段をふと思い出しました。

望月は曲自体としても面白いものですが、慈一さんが熱演でして、獅子も見事でした。

さて果迢会ですが、実は代々木の能舞台には行ったことがありません。年に四回の果迢会は平日のため、残念ながら今のところスケジュールが合っていないという状況です。
果迢会の名前を初めて聞いたのは、たしか銕仙会の青山能に出かけたときで、その日のシテが慈一さんだったと思うのですが、並んで開場を待っていたおばさま達とお話ししたら「私たち、カチョウカイから来たんです」と言われ、カチョウカイ・・・??? これが頭の中で果迢会には変換できず、一応分かったふりをして、後日調べてみたという次第です。

さて今年はこの果迢会別会をもって観能は終了です。
いや今年もいろんな曲を観ましたが、今年一年を振り返っての感想は、大晦日にでもちょっと書いてみようかと思っています。
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綾鼓 香川靖嗣(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2008.11.23
 シテ 香川靖嗣、ツレ 金子敬一郎
  ワキ 宝生閑、アイ 野村扇丞
   大鼓 柿原崇志、小鼓 曽和正博
   太鼓 小寺佐七、笛 藤田六郎兵衛

6月に金春流桜間金記さんの恋重荷を観て鑑賞記を書きましたが、今回はその姉妹曲ともいえる綾鼓。恋重荷の際にも書きましたが、古くは綾の太鼓という曲があり、これを世阿弥が恋重荷に改作したらしいのですが、その古い方の綾の太鼓を洗練したのがこの綾鼓ではないかと言われています。
一説には、こちら綾鼓は綾の太鼓を世阿弥の子十郎元雅が改作したものとの話もありますが、いずれにしても綾の太鼓がどんな内容だったのか、資料が残っていないようですので、想像の域を出ない話ではあります。

前回も触れたように、恋重荷は観世・金春両流が、綾鼓は宝生・金剛・喜多の三流が現行曲としていますが、喜多流の綾鼓は昭和27年に土岐善麿により改作されたもので、宝生・金剛のものとは詞章が異なります。底本は宝生流の古い本のようなのですが、だいぶん手直しされています。各流の現行をふまえ、さらに現代の感性を取り入れての作だけあって、実に良くできた構成になっています。

さて舞台はまず後見の高林さんが鞨鼓をつけた桂の立木を出してきます。これが綾鼓ということになります。四角の立木台に生の木がつけられていますが、桂かどうかは分かりませんでした。

出し置きでツレ女御の金子さんが登場しワキ座で床几にかかります。ツレは緋の大口に紅入唐織を壺折に着け、天冠を戴いたきらびやかな装束で存在感があります。この形は恋重荷も同様で、このツレが終始舞台に出ているという存在感は、ある意味この曲の重要なポイントになっているのかもしれません。ただし観たことはありませんが、金剛流の綾鼓では前場のツレは登場しないのだそうで、これはまた別の主張があるのかもしれません。

このつづきはまた明日に
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綾鼓のつづき

六郎兵衛さんの吹く独特の名宣笛でワキ臣下の閑さんと、アイ従者の野村扇丞さんが登場してきます。閑さんは白大口に深緑の狩衣を着け風折烏帽子の姿。扇丞さんは狂言の長上下での登場です。

常座まで進んだワキは「筑前の国木の丸の皇居に仕え奉る臣下なり」と名乗ります。喜多の謡本では「これは木の丸殿に仕え奉る臣下にて候」と始まりますが、閑さんの詞章の方がもともとの形なんでしょうね。
続いてワキは、庭掃きの老人が女御の姿を見て恋い慕うようになったが、(女御が)これを不憫に思われて、桂の木に鼓をかけて老人に打たせその音が皇居に聞こえたならば女御の姿を見せようということになったので、老人にこのことを申しつけようと思う旨を述べます。

ワキは「いかに誰かある」と呼んで正中へ進み、アイが常座に出ます。ワキはアイに老人を呼ぶように言いつけて後見座にクツロギます。アイはこれを受けて橋掛りの入口から幕に向かって老人を呼んで狂言座へと下がります。
代わってワキが立ち上がり橋掛りへ進むと、前シテの出。小格子厚板に水衣で右手に萩箒を持っています。三光尉らしいのですがなんだか灰色のような生気を感じさせない面。
ワキが一ノ松、シテが幕前に立ち、ワキが子細を話し「急ぎ参りて鼓を仕り候へ」と言うと、シテは幕前に下居して承り、ワキの「こなたへ来たり候へ」で、二人は舞台に進みます。

ワキが地謡前に立ちシテは常座に立つと、ワキが「この鼓・・・」と示し、シテは作り物を見て「げにやゆかりも秋深き月の桂の み池のほとり 影ぞ待ちたる下枝にかかる鼓の声出でば」と謡います。このあたりの詞章も手直しされていて、宝生、金剛の詞章とは異なっています。
地謡がこれを受けて「それこそ恋の束ね緒の・・・」と次第を謡いますが、これも「後の暮ぞとたのめおく・・・」というもとの次第とは詞章が変わっています。次第の地取りでシテは箒を後見に渡し扇に持ち替えて正へ向き直り、一セイとなります。
このつづきはまた明日に
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綾鼓さらにつづき

シテの一セイは「後の世の近くなるをば驚かで」と、宝生流や金剛流ではサシで謡われる詞章が謡われて、続く「老にそへたる恋慕の秋露も涙もそぼちつつ」を地謡が謡い、宝生・金剛流の一セイ「さなきだに闇の夜鶴の老の身に・・・」の詞章は省かれています。

シテは地謡でワキに向いて正中へ出、下居してサシ「心がらなる花の雫の」と謡います。もともとのサシの詞章で一セイを謡い出すため、続く地謡の詞章が順にずれていく形で謡が進行し、クセは全くの異文です。

地謡が「初月(ミカヅキ)のひとめ見しより消えやらぬ」と謡い出し、満月に願いを掛けても「みえぬ色にや迷ふらん」とシテはシオリます。続く「いざ立ちよりて」でシテが立ち上がり、目付の方に二足ほど出てから作り物に向いて近寄り、シテの謡「ひとうち打てば」と鼓を打つ形を見せますが「おぼつかな」と面を伏せて、力なく謡ます。

さらに地謡が「さてまた打ちて」と謡うのに合わせて、鼓に寄って何度か打つ所作を見せますが、「たより渚のさざれ石に」と音が鳴らぬ様子に、地謡に合わせて流れる水を見回して、シオリつつ常座へ向かいます。
「ふり仰ぐ玉のとぼその窓のうち」とワキ座の方を見上げ「もしや御衣のすそだにも」と二三足よろよろと出ますが、「ひきつづ打ちに打ち」と再び鼓に打ちかかり、また下がり、さらに鼓に寄り、と謡に合わせて鼓への執念を見せます。

しかし「この鼓などか音せぬ」とあきらめ、タラタラと下がって「いかなれば音が出でぬぞ」と大小前に座り込んでモロシオリの形になります。詞章と型が融合し思いのこもる前場の見せ所ですね。

このつづきはまた明日に
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綾鼓さらにさらにつづき

ワキは「いかに誰かある」とアイを呼び出し、老人に打たせた鼓は綾の鼓なのでいくら打っても鳴ることはないから思いあきらめるように老人に伝えよと命じます。これを受けてアイは目付に出てシテに語りかけます。

シテは「さては恨めし綾の鼓」と面を上げて鼓を見、地謡が「たばかられ惑はされし・・・」と受けると、がくりと肩を落とした感じを見せます。

「時の鼓のうつるもくやし」で面を上げて立ち上がると「思い知らせん」と作り物に寄り、下がっての足拍子に怒りを込め、橋掛りへと思いをつのらせつつ進みます。
「池のさざなみたちまちに底白波にぞ入りにける」と三ノ松で膝をつき入水した形を見せて、二度目の「底白波」で立ち上がって中入となりました。

大変緊張感の高い中入ですが、その後はアイが座を立ち、常座で老人が水に入って死んだことを述べ、これまでの子細をあらためて語ります。そののち、大小前に進んで笛座前に座したワキに老人の死を告げます。
これを受けたワキは、その由を申し上げようと立ち上がって正中へ進み、下居してツレに報告する形になります。

ツレは「御出であってご覧候へ」とのワキの言葉に、立ち上がって地謡前から作り物を見込む形になります。ワキは常座へと下がり、二人が作り物に向いたところから、ツレの「いかに人々聞くかさて・・・」と、これは宝生流・金剛流の本と同じ詞章を謡います。
かなり調子を高く取っていて、女御の異常な心持ちを表しているかのような謡。ちょっと苦しそうな高さです。

後シテの出に向けて緊張が高まってきますが、このつづきはまた明日に
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綾鼓もっとつづき

ワキがツレの謡を受けて掛け合いとなり、ツレ「なほうちそふる ワキ「声ありて と他流と同じ形で後シテの出、出端の囃子になります。
ツレは地謡前のそのままの場所で床几にかかり、ワキは笛座前に着座してシテの出を待つ形です。
(喜多の謡本では、この日ワキが謡った「声ありて」をシテが謡う形で書かれており、その後に出端とあるのですが、先に幕を上げて幕内でシテが謡う形にでもしない限り、これは無理な話。この日もそうだったように現実問題としてワキが謡って、出端の囃子というのが素直な流れでしょうね)

さて出端の囃子で、後シテが登場してきます。白頭に悪尉の面をつけ、法被半切で鹿背杖を重々しく突きながら橋掛りを進み、一ノ松まで出て正面を向きます。鹿背杖を突く曲は他にも多々ありますが、かなり強く音を立てて突く形で、これがこの後も悪鬼となった老人の怒り、悲しみを表すようです。
正面を向いて杖を一つ突き、開キの型でさらに一つ突いて「重波(シキナミ)のまた立ち帰る恋の渕」と謡い出します。ここからの詞章は宝生流などの詞章とは全く異なり、土岐善麿の創作です。

シテの謡を受けて、地謡、さらにシテが謡った後、地謡が強くかつ静かに「一念執心の魔境より」と謡い出すと、シテは向きを変えて舞台に進み常座に立って、立廻りかイロヱなのか、執心を見せて舞台を巡る形になります。

囃子に合わせて、常座からシテはツレを見込んで足拍子を踏み、目付に出て左へと回り、正中から常座へと舞台を一回りします。さらにツレの方へツメて杖を右手に笞のように持ち、正中で一度膝を突いてから立ち上がり、杖を戻して右回りに常座へと戻って小回り、開いて「綾の鼓は」と謡い出します。舞台を一回り、逆に半回りする形ですが、思いの対象となるツレが床几にかかって居るだけに、より強く形にも表れる感じがします。

このつづき、もう一日つづけて明日に
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綾鼓もう一日のつづき

「恨みの鼓は憂き人の・・・」の地謡に、シテはツレに向かって三四足ツメ、足拍子を一つ強く踏んでツレをキツく見込む形になります。一度常座へと戻りますが、さらにツレにツメ寄る形となり、シテは「鳴るものか 鳴るものか」と謡いつつ、ツレを作り物の前に引き据えて恨みの形を見せます。

地謡の「打てや打てやとせめ鼓」で、杖を打杖のように突き出す形でツレを責めてから常座まで下がり、足拍子を踏んで「しもとを振り上げ」と杖を両手に取って振り上げた形を見せます。
つづく「因果はめぐる桂の池の」でツレは立ち上がり、ワキ座の方へ、またもとの方へと逃げ惑うような形から、両手を挙げて大小前に小回りして座り込みます。ツレがシテに翻弄される様を視覚的にも見せようという展開でしょうか。

シテはツレを見込んだ後、「ありし面影照りまさる」と作り物を見やり、「月の桂の綾の鼓うち捨てよ」とツレを再び見込み、幕の方に向きを変えて杖突きつつ橋掛りへと進みます。
「しもとをふり上げふり返り」と二ノ松で一度振り返った後、続く地謡の「また音もなく失せにけり また音もなく」までで幕に入り、地謡の最後の一句「失せにけり」だけが舞台上に残る形。深い余韻を残しました。

女御の守護神となってしまう恋重荷とは全く異なる展開ですが、宝生の形とも違い、また前ツレを出さない金剛とも異なった主張があります。恋重荷も観世と金春での違いもあり、五流それぞれに違いがあっていろいろと考えさせられる曲です。
恋重荷でも、重荷を女御にも持たせて突き飛ばすような型付けも古くは行われていたようで、梅若六郎さんが同趣向の演出を試みておられるようですが、持てぬ重荷や鳴らぬ鼓を考えたのが女御なのか、なぜそうしたのか、何となく腑に落ちない点があるからか、様々な解釈と演出が出てきそうな一曲です。
(68分:当日の上演時間を記しておきます)
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紋所の話ふたたび

以前、宝生流の高橋亘さんと私の家の紋所が同じという話を書きました。
夜討曽我に出ておられた高橋さんの腰帯につけられた紋が、当家と同じ丸に三つ柏だということに気付いたという話です。

ところでこのあいだ、本家の当主が亡くなり葬儀に出席することになりました。そこで一瞬驚いたのは、葬儀場に掲げられた家紋が丸に三つ柏ではなかったことでした。最初は葬儀場運営会社のマークか、などと思ったのですが、まもなく家の裏紋だということに気付きました。

実は私の家は代々修験道の行者のようなことをしていたようなのですが、曾祖父の時におそらく明治の廃仏毀釈にあい、還俗して神官となったらしいのです。
私の祖父はその長男だったのですが、どうしても不便な田舎で神官になるのが嫌で家を出てしまい、教師になって転々としながら生涯を終えました。
そんな訳でもともとの家のしきたりなど、よくわからないことがたくさんあります。

この裏紋の話も、私の父も祖父からは何も聞いていなかったようで、いつだったか父と本家を訪ねたときに、もう一つ紋があるのだと聞かされ驚いたものでした。
この紋は珍しいもので、ちょっと差し障りもあって細かいことは書きませんが、少なくとも通常の書店で見かける家紋辞典などでは見かけたことがありません。

そのときの話では「丸に三つ柏のほかにもう一つ紋があって女の人がつけるのだ」と聞いたように記憶していたのですが、葬儀などの際はどうやらこちらの紋を使うのが正式ということのようです。
明日、もう少しつづけます

紋所の話をつづけて

この二つの紋が、どういう経緯で使われるようになったのか、もはや本家でも分からなくなってしまったようです。さらに、本家に残っている古い文書にはこの裏紋ではなく、全く別の紋所と丸に三つ柏の二つが並べて書かれていて、江戸時代にはこちらの二つを使い分けていたようにもみえます。

今回、いささか気になってネットなどで調べてみたのですが、そもそも紋所というのは必ずしも一家に一つだけというものでもなく、シチュエーションによって表裏と使い分けたり、本家は表紋で分家は裏紋と使い分けたりといったことがあるようでした。

特に丸に三つ柏の紋は、神社や仏閣の紋として用いられる例が多く、そのため神官の一族がこれを自分の家の紋所として用いることもあったようです。
そう考えると、当家で丸に三つ柏を用いているのも納得がいくところです。
古い文書にある使われなくなってしまった紋所が、もともとの家を表すすものなのかもしれません。これと丸に三つ柏を併用していたのが、いつの間にか丸に三つ柏のみが正式な紋として通常使われるようになり、さらに婚姻か何かの関係で、もう一つの紋が持ち込まれてきて裏紋になった、とまあ、そんなことでしょうか。

高橋家が神職などにご関係があるのかどうかは存じ上げませんが、ちょっとしたルーツ探しのような感じで、紋所を見たりするのも面白いかもしれません。

大晦日にひとこと

さて、このブログを始めてから三度目の大晦日がやってきました。
今年は本当に激動の年で、仕事上も冷や汗の出るような問題が次々と起こりました。そんな状況でしたが、能六十三番と狂言三十八番、今年も鑑賞し、ブログに書き綴ってきたところです。

激動の年だったからこそ、観能という時間をもってきたことが、精神衛生上もとても良かったと思っています。仕事が立て込んでいるなかで、東京まで出かけていくのもそれなりに負担ではありますが、その負担によって、日常から離れることが出来たということなんでしょうね。

今年の能六十三番のうち、二十四番は観世流。関根先生の会や銕仙会などに加えて、梅若研能会、代々木果迢会などを初めて拝見したことも、番数が多くなった原因ですね。
狂言は、運良く野村狂言座などにも顔を出すことが出来ました。

来年はどんな年になるのか・・・アナリストの話などを聞くと、経済はあまり期待できそうにありませんが、滅入っていても仕方ないので、一日一日、出来ることを確実に進んでいきたいものと思っています。

12月の観能、五雲会と代々木果迢会別会の鑑賞記が未済になっています。新年は、この能七番と狂言三番の鑑賞記を書いていくつもりです。
鑑賞も、若干数は減るかもしれませんが、観たい会は出来る限りおさえて行きたいと思います。

来年もよろしくお願いいたします。
皆様、良いお年をお迎え下さい。

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頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

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