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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

延年之舞もう一日つづき

宝生流では割と早い時代に延年の型が失われてしまっていたようなのですが、観世元章ともほぼ同時代である明和年間に、他家から養子に入った宝生太夫(幼名丹次郎)が、座付笛方の一噌又六と申談して「延年之舞」を作ったという資料があるそうです。

宝生流の十一代友精(トモキヨ)と十二代友通(トモミチ)はいずれも幼名が丹次郎で、友精は金剛家から、友通は宝生の別家から養子に入っているので、この二人のいずれか。一方一噌又六の方は、友精の時であれば一噌政邑か政香、友通であれば次の代の一噌又六郎ということのようです。
山中さんは、おそらく十一代友精と一噌政邑ないし政香の協同作業だったのではないか、と述べておられます。

このときに、他流の型などをふまえつつ、全く新しい演出として宝生の「延年之舞」が作られたようで、当時記録された型と現在行われている型は、ほとんど変わっていないそうです。
様々な「延年」の集大成的に作られたため、最初から大変重い扱いの演出だったようです。そして、そのように重い扱いだったため、その後200年以上経っても、その内容にほとんど変化がないということなのでしょうね。

このあたりは山中さんが指摘されていますが、一方で他流ではむしろ古い延年の形を残したような演出であるため、延年ノ手が入る位置が違ったり、宝生流ほど重い扱いでなかったりということのようです。
山中さんご自身は、宝生の延年之舞が、大変重い扱いなので、その源流を調べてみたかったと書いておられますが、このような演出の変遷なども調べると面白そうですね。
まあ、私は研究者ではないので、書かれたものを読んで感心しているだけですが・・・

ところで、十一代宝生友精ですが、金剛家から養子に入ったと書きました。
実は以前にも触れた坂戸金剛家最後の当主、金剛右京さんには跡継ぎがありませんでした。この右京さんと、明治の大名人と言われた十六世宝生九郎知栄は仲が良かったのだそうです。
あるときの話で、かつて金剛家から宝生宗家に養子が出ているので、自分も宝生家から養子を迎えたいと右京さんが言い、九郎さんもこれに応じたということがあったそうです。この金剛家から宝生家に行った養子というのが、十一代友精のことのようですね。
さてその養子話がもし実現していれば、坂戸金剛家が今でも続いていたかもしれませんが、歴史にもしもは無いので、これはまあお話ということで・・・
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