能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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瓜盗人さらにつづき

シテの退場で、再びアド畑主が登場してきます。
畑の様子を見ようと舞台を一周して畑に至り、瓜蔓が引き立てられるなど散々な有様になっているのを見つけます。
今度は自身が案山子になって盗人を待とうと、案山子の面や烏帽子などを外し、自らも肩衣を外して水衣を着け、鬘桶にかかって盗人を待つ形になります。大柄な富太郎さんですが、うそぶきの面を着けるとしっくりと案山子らしくなるから不思議です。

さてシテの二度目の登場。この設定だと、盗みにやってくるのは三度目と言うことになります。所望に応えて再度瓜を献上したところ、今度は家に食べに来るというので、またまた盗みに来る羽目になってしまったという設定です。

後悔しつつの盗人なので、なんとなく気乗りしない様子でやってくる訳です。
このシテが舞台に入り、畑にやってきたという設定になるあたりで、笛方、一曲目の養老に出ていた一噌隆之さんが切戸口から出て着座します。
石田さんの時は狂言の会でしたので、この曲の前に囃子があり、囃子方が残ったままで曲が始まりましたから、大小に笛が入っての上演でしたが、今回はあらためて笛方だけが出た形です。

瓜を盗みには来たものの、案山子があまりに出来が良いので、さながら人だと感心する盗人。そして鬮罪人でも演じられる、罪人の責めの稽古になります。
近く行われる祭礼に出す作り物で演じられることになっているという設定ですが、いったいどんな祭だったのか、興味あるところです。

まず案山子を罪人に見立て「いかに罪人急げとこそ」で責めを演じますが、ここで笛が入ります。次に、自分が罪人になって稽古しているところで、畑主が持った杖でシテを打つというお約束の形。
アドが立ち上がるとシテは「南無三かかしが化けた」と大騒ぎしますが、アドが畑主の姿を現し、盗人を追い込んでの留。大変楽しい舞台でした。
(30分:当日の上演時間を記しておきます)
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卒都婆小町 一度之次第 関根祥六(閑能会別会)

観世流 観世能楽堂 2009.9.12
 シテ 関根祥六
  ワキ 宝生閑
   大鼓 安福建雄、小鼓 曽和正博
   笛 一噌庸二

老女物の一曲ですが、いささか「老女物」に括ってしまうには違和感が残ります。
年老いた小野小町という設定は、鸚鵡小町や関寺小町などと共通ですし、老女物であることには違いないのですが「なう物賜べなう御僧なう」と物乞いの形を見せたり、卒都婆問答をしたり、さらに深草少将の憑き物の様子を見せたりなど、いささか異質な物を感じます。鸚鵡小町の小町もなかなかに理知的な問答をしますが、形ではない、心理戦のような印象です。

そう思ってふと調べてみると、この曲、申楽談義に「小町」とされている曲と比定されていて、観阿弥作を世阿弥が改作したという説が主流のようです。
たしかに観阿弥の作となれば、物真似が能の重要な構成要素であった訳ですから、妙にリアルな物乞いなども納得いく感じがします。
とは言え、老女物の一つとして演じられる現代の認識の上で、どのあたりにバランスを置いて演じるのかは、演者の考え方、腕ということになりましょうね。

それとこの曲の「卒都婆」。卒塔婆と表記するのが一般的と思うのですが、なぜか都の字を書きます。卒塔婆は梵語ストゥーパの音訳でもともとは仏舎利を入れた塔の意味ですから、塔の字を書いた方が自然な感じですが、この曲では小町にちなんでなのか、わざわざ「都」の文字を使っています。
また観世流のみ「そとわこまち」と読みます。もちろん他流は「そとばこまち」ですが、老婆となった小町に「ば」と言わせたくなかったのでしょうか。観世流の謡本の詞章では、ワキは「そとば」と謡い、シテは「そとわ」と区別して謡うように書かれています。
ともかく鑑賞記は明日につづきます
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卒都婆小町のつづき

重い曲なので囃子方が長上下を着けて登場。地謡、囃子方が着座すると、笛のヒシギで習ノ次第の囃子となります。
非常にゆったりとした位のある囃子で登場したシテは、三ノ松で一度立ち止まって佇みます。摺箔に縫箔を腰巻にしてヨレの水衣を着けています。笠を被って杖をつき、再び歩み出した後、一ノ松まで出て一度正面を向き、そのまま後ろを向いて次第謡となりました。
常の形では次第の囃子でワキとワキツレが登場し、次第を謡ってワキの名乗り。さらにワキのサシからワキツレとともに下歌、上歌と風情ある謡を謡います。ワキの着きゼリフで二人はワキ座に向かい、ここであらためて習ノ次第が奏されてシテが登場します。

観世流ではこの、ワキの次第、シテの次第と繰り返される形を整理しようとしたのか、いきなりシテが習ノ次第で登場する演出が考えられ、それがこの日の「一度之次第」という小書になっています。
このため、まずシテが登場して次第を謡い、地取りで正へ向き直った後、サシ、下歌、上歌と謡います。上歌の「かかる憂き身はよも咎めじ」で向きを変えて橋掛りを歩み出し、舞台に入って「漕ぎ行く人は誰やらん」とワキ正で右手の杖に左手を添えて佇む形になります。
「あまりに苦しう候程に、これなる朽木に腰をかけて休まばやと思ひ候」と詞を述べ、笠を取って左手に持ち、正中のややワキ正寄りに、杖にすがって腰を下ろすようにして下居しました。
見ていて「祥六さんの足腰は大丈夫なのかな」と思うような、リアルに立居振舞に不自由な感じだったのですが、どうもこれは半分以上演技のようで、芸力ということですね。

卒都婆小町では、ここで鬘桶に腰を下ろす形が普通ですが、鬘桶を用いない演出もあり、この日もその形。朽木に腰を掛けたというリアルさは無くなりますが、杖にすがって下居する形も老を強調する上では効果的な演出かも知れません。

ここでワキ、ワキツレの出となりますが、このつづきはまた明日に
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卒都婆小町さらにつづき

囃子無しで登場したワキとワキツレの僧二人、一ノ松まで進んでワキの名乗りとなります。高野山より出でたる僧で、都に上ろうというところ。これは常の形のワキの名乗りと同等です。
続けて「急ぎ候ほどに」津の国、阿倍野の原にやって来たと述べ、一休みしようと言って舞台に入ります。ここでワキはシテの姿を見つけ、ワキツレに振り返って卒都婆に腰を掛けているので退けようと言ってワキ座に進みます。
ワキツレは目付にと進み、ワキ、ワキツレがシテに立ち向かう形になって「いかにこれなる乞丐人」と呼び掛け、腰掛けているのは忝なくも卒都婆であり、立ち退くようにと言って問答となります。

ワキは閑さん、ワキツレは大日向さんですが、さすがに風格ある演技。曲の位を感じさせるところです。

ここからシテ、ワキ、ワキツレの掛け合いの詞、謡から地の上歌と、卒都婆をめぐる問答が展開します。このあたり、仏教的教養を要するなかなかに難解なところで、謡で聞いていて昔の人も本当に分かったのだろうかと、疑問になるところです。
ともかく、ただの乞丐人(コツガイニン:乞食)と思った老婆に論破され、ワキ、ワキツレは「真に悟れる非人なりとて僧は頭を地につけて三度礼し給」うことになります。

この謡、シテは低く節付けを追いにくい呻きのような感じですが、知的であると同時に穏やかさを感じさせるワキと、いささか知に働く感じを受けるワキツレ、三者三様の謡が面白く感じられるところで、繰り返しになりますが老女物という切り分けとはいささか趣を異にする感じです。
地謡の途中、「佛も衆生も隔てなし」でワキツレは静かに目付から地謡前へと進み、ワキ座横あたりに着座します。ワキは「真に悟れる非人なりとて」あたりで二足下がって腰を下ろし、両手を突いてシテを拝する形になります。
シテは「我はこの時力を得」て、戯れの歌を詠みます。「極楽の 内ならばこそ 悪しからめ そとは何かは 苦しかるべき」と謡い、地謡が「むつかしの僧の教化や」と謡う中を杖にすがりつつ立ち上がって常座へと向かい、ワキも立ち上がります。
さてこのつづきはまた明日に
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卒都婆小町さらにさらにつづき

ワキは常座に立ったシテにあらためて如何なる人か名を名乗るようにと求めます。
シテは恥ずかしながら名乗ろうと言って正中へ出て下居し、小野小町がなれる果と我が身をあかします。
割と簡単に言っちゃうんですねえ、という感じなのですが、ワキ・ワキツレも、昔は優美な方だったというのにいたわしいことと謡い、地の下歌、上歌と続いて、今は百歳に一つ足りない歳になり、白髪頭に衰えた肌の姿を恥じると謡われるに合わせ、シテは笠持つ左手を上げてワキから身を隠すような形になります。

続くロンギで立ち上がったシテは常座へと向かいます。
首にかけた袋に粟豆の乾飯を入れ、物乞いして路頭をさすらっている様が謡われ、正先へと進んだシテは「涙をだにも抑うべき袂も袖もあらばこそ」と杖持つ右袖を抱きかかえるように体の前に合わせる形。
さらに左手に持った笠を返して両手で物乞う形に捧げたところから「また狂乱の心つきて」と手を下ろして杖を落とし、再び両手で返した笠を差し出しつつ「なう物賜べなうお僧なう」とワキに迫る形から、正中まで下がります。

ワキは「何事ぞ」と声をかけますが、物の憑いた態のシテは「小町が許へ通はうよなう」と言いだし、ワキは「おことこそ小町よ 何とて現なき事をば申すぞ」とたしなめます。しかしシテはさらに「いや小町と云う人は余りに色が深うて 彼方の玉章此方の文 かき昏れて降る五月雨の・・・」と激情のままに言いつのり、謡います。
既に小町ではなく、深草の少将が憑いた態ですが、これまた老女物という印象とは随分と違った激しさのあるところ。
そしてこのあたりのシテの動きから、ああ最初に登場したところでの歩み、立ち居もままならぬ様子は、演技の力による物が大きかったのだと、あらためて認識したところです。ともかくも少将の霊が憑いた小町の恨みの姿が展開していきますが、このつづき、もう一日明日に
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卒都婆小町もう一日のつづき

シテは「あら人恋しや あら人恋しや」とシオリ、ヨロッとした風に一足下がってさらにシオリます。
これにワキが「人恋しいとは さておことには如何なる物の憑き添ひてあるぞ」と問いかけます。

シテは「深草の四位の少将」と明かし、これを受けた地の「恨みの数の廻り来て」の謡で一度、右に流した後正面から後ろを向き、地謡の後の物着アシライで後見座に後ろ向きに座して物着となります。
笠を置き水衣を外して、薄黄のような色目の長絹に烏帽子を着けて立ち上がり、正中に進み出て「浄衣の袴かいとって」と謡い、イロヱになります。

他流ではもともとイロヱが入っているようですが、観世流の場合は常の形ではイロヱが入りません。これを入れる小書が彩色と思っていましたが、一度之次第でもイロヱが入るようですね。
とは言え、老女の動きですので極めてゆっくりとした動きで、ワキ正から目付へ出、少しふくらんだ程度に目付から舞台を廻って常座に戻り、正へ向き直るだけの形。これで再び「浄衣の袴かいとって」となり、シテは目付に進みます。
「狩衣の袖をうち被いて」で左の袖を上げ被く代わりの所作。扇を広げて出し「雨の夜も風の夜も」と正中で回って正面を向き、「行きては帰り、帰りては行き」と目付の手前あたりに進みます。
「一夜二夜三夜四夜」と左の手を上げて指折り数える型から、舞台を廻り深草少将の百夜通いの苦しみの様を見せます。地謡の「胸苦しやと悲しみて」で胸に扇をあてて下居し、「かように物には狂はするぞや」とワキを見上げて救いを求めるような形です。

キリになると扇を下ろして静かに立ち、サシて後ろを向き、扇を左にとってハネ扇の型。直して「花を佛に手向けつつ 悟りの道に入ろうよ」と常座で回ってワキの方へ合掌し、二度目の「悟りの道に入ろうよ」で直して扇広げて留となりました。
(87分:当日の上演時間を記しておきます)
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鵺 白頭 関根祥人(閑能会別会)

観世流 観世能楽堂 2009.9.12
 シテ 関根祥人
  ワキ 森常好、アイ 善竹大二郎
   大鼓 佃良勝、小鼓 観世新九郎
   太鼓 観世元伯、笛 内潟慶三

この曲は19年の五雲会で小倉健太郎さんの演能を観た際の鑑賞記を載せています(鑑賞記1)が、各流を通して割と良く上演される曲、人気曲の一つとも言えましょう。単なる鵺退治の武勇譚ではなく、怪物である鵺の側からの視点で描かれて、悲しみのような不思議なものを内在させているからかも知れません。
喜多流の友枝昭世さんが、この能をめぐって深い思いを述べておられるのを拝聴したことがありますが、友枝さんのみならず、この曲に思い入れをもっておられる能楽師は少なくないようです。

怪物である鵺と書きましたが、そもそもは近衛院の頃に現れた怪しい化け物には名がなく、平家物語にも「鳴く声 鵺にぞ似たりける」とあり、声が鵺に似ている怪しい生き物という次第です。
ではその怪物の鳴く声が似ているという鵺とは何かということになりますが、こちらはトラツグミのことと言われていて、主に夜間、淋しげな声で鳴くところから気味悪がられていたとも言われます。

つまり、もともとは似ていたに過ぎない鳥の名「鵺」が、いつの間にかその怪物の名になってしまった訳ですが、こうしたことは歴史上もままあるように思います。

さて舞台は次第の囃子でワキの出。角帽子の着流し僧、森さんが貫禄ある僧侶として登場してきます。アイの大二郎さんが後から出て、狂言座に控える一方、ワキは常座まで出て次第を謡います。
このつづきはまた明日に
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鵺のつづき

ワキは次第を謡い、諸国一見の僧だが三熊野に参り、さらに西国行脚を志し旅する途次と名乗ります。道行で信太の森を過ぎ、住之江や難波潟を眺めつつ蘆屋の里にやって来たと謡います。

道行を謡い終えると常座から正中へと出、振り返って「所の人の渡り候か」と狂言座に向かって呼び掛けます。呼ばれてアイが立ち上がり舞台に出てワキとの問答になります。
宿を貸して欲しいとのワキ僧の申し出に、旅の人に宿を貸すことは禁制になっていると断ります。そこでワキはあきらめて去る形でワキ座へと向かいますが、アイがこれを止めてさらに問答が続きます。

不憫だからと僧を留めたアイは、州崎の御堂なら一夜を明かすことが出来ようと伝えます。これに対して、ワキはその御堂の持ち主かと問いますが、村の者の持ち物ではないとアイが答えて、ならば勝手に泊まるまでといったやり取りがあります。アイは夜な夜な川より化け物が上がると申すぞと言いますが、法力を持って泊まるまでとワキは意に介さず、御堂に泊まることにするというやり取りです。
ついつい気を抜いてしまう部分で、およその意味は理解しているのですが、キチンと記録を取ったことがありません。少なくとも、禁制で宿が貸せないこと、州崎の御堂を勧めること、御堂には化け物が上がるということなどは、基本線として変わらないと思いますが、詞のやり取りだけに、流儀などによって微妙に違っているかも知れません。何度も見ている能ではありますが、詳細となるといささか怪しい・・・

ともかくワキは御堂に泊まることにしてワキ座へと進んで着座し、アイも狂言座に下がって着座すると一声の囃子になります。

無地熨斗目に深い緑の水衣、黒頭で右手には水棹を持った形でシテが登場してきます。
一ノ松でまずサシを謡い、続いて一セイ「浮き沈む涙の波のうつほ舟」を謡い、地「こがれて堪へぬいにしへを」シテ「忍び果つべき隙ぞなき」と謡って、ワキの謡になります。ワキは埋もれ木の如き舟に乗る人影も定かでない、不思議の者が漕ぎ寄せてきた様子を謡います。
さてこのつづきはまた明日に
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鵺さらにつづき

ワキの謡を受けて、シテは舞台に入りつつ逆にワキに対して如何なる者かと問いかけます。これにワキが答える形で、里人に夜な夜な不思議の舟人がやって来ると言われていた通りに現れる者があって、驚いている様を謡います。

ワキシテの問答となり、ワキはシテを怪しいと訝りますが、シテは蘆屋の灘の潮焼く海士人の類などと謡って答え正体を明かしません。それでいながら地の上歌では「海士人の心の闇を弔い給え」とつながり、実は正体を知らせて救済を受けたいシテの心情をうかがわせる詞章になっています。このあたりも、この曲の単なる武勇譚ではない深さが窺えるところです。

「法の力を頼むなり」と正中へ出て下居し、水棹を置いて小さく合掌します。宝生の小倉さんの時は、まず常座で水棹を放してから正中へと進み、合掌して下居するという形。水棹が舞台に倒れてコトンと音がし、これがある意味風情を感じさせるところでしたが、微妙に形が違います。

ワキはさらに重ねてシテに正体を尋ねて、シテは「これは近衛の院の御宇に頼政が矢先にかかり 命を失いし鵺と申しし者の亡心にて候」と、明確に鵺の霊であることを明かします。この曲、かなり忠実に平家物語の詞章を引いていますが、こと、この鵺という名前については、最初に書いたとおり平家物語では「鳴く声 鵺にぞ似たりける」とのみ記し、化け物の名を書いていないのに反して、鵺とはっきりさせています。

ここからクリ、サシ、クセと、頼政の鵺退治の話が展開します。
クセの前半までは下居のまま「黒雲一むら立ち来り、御殿の上に覆いたり」から「頼政きっと見上ぐれば」と右へ流して目付柱のやや上を見上げる形。
戻して「矢取って打ち番い」と矢取る形で扇を上げて腰を浮かせ、地謡が「南無八幡大菩薩」と受けるといったん腰を下ろし、「よつ引きひやうと放つ矢に」と目付柱に向けて弓引いて矢を放つ形。
「得たりや おうと」で立ち上がって「落つるところを猪の早太」で目付に出、正中へ下がって「続けさまに九刀ぞ刺いたりける」と刀を刺す形を見せます。
「火を灯しよく見れば頭は猿尾は蛇」と火の光で見回す型から「疎かなる形なりけり」とワキに向かって正中で下居します。
小倉さんの時はクセの後半からは面を切ったり、割合キビキビとした動きを見せましたが、白頭の小書もあるせいなのか、どちらかというと抑えた動きだったように思います。
このつづきはまた明日に
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粟谷能の会を観に行く

昨年春以来の粟谷能の会ですが、思い切って出かけてみました。
とても良い天気のでしたが、途中の電車の中でクシャミが出てしまい、マスクをかけての国立能楽堂。別にインフルエンザではないのですが、マスクしてると怪しいかも。

ともかくほぼ満席の盛況でしたが、今回の番組は明生さんの「通小町」、能夫さんの「葛城」でこちらは岩戸之舞の小書付。萬さんの狂言「子盗人」を挟んで、最後は明生さんと浩之さんで「石橋」の連獅子でした。

毎回、何か感心して帰ってくる粟谷能の会ですが、各曲ともそれぞれに面白かったですね。
通小町と葛城は喜多流では初見でして、これが喜多流本来の型なのか、例によって粟谷能の会らしい工夫の結果なのか判別つきませんが、これまで観ていた他流の上演とはそれぞれに異なる部分があり、興味深く拝見しました。
また石橋も喜多の連獅子は初めてですが、これまたなかなか面白い。

子盗人も萬さんの味のある演技を堪能しました。・・・休憩時間に「萬斎さんのお父さんよね。上手ねえ」という声が聞こえてきましたが、伯父さんですね、これは。

ともかく小気味よい舞台で、喜多流らしいといえば喜多流らしい上演だったように思います。鑑賞記はいずれ。
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鵺さらにさらにつづき

昨晩はFC2ブログが接続できず更新を断念しました。
本日は関根さんの鵺の最終回です。

語り終えるとシテの舟人は棹を取り直して立ち上がり、うつほ舟に乗って姿を消してしまいます。
小倉さんの時は、中入り前の「恐ろしや凄ましや」で両手を上げて棹を捨て、そのまま退場しましたが、この日は橋掛りに進んだシテは手を放すようにして棹を落とし、そのままするすると中入りした形です。

この中入りではアイが頼政の鵺退治を語ります。
ワキの待謡にひかれて、出端の囃子で後シテ鵺が登場してきます。シテは紺地の小袖を引き被いて登場し、立ち上がったワキの「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」の謡で一ノ松まで進んで、一セイ「有情非情、皆倶成仏道」と謡います。

さらに地謡の「涅槃に引かれて」で常座に立ってワキ正に出て「真如の月の夜汐に」と、起き上がって被いていた衣を取ります。白頭におそらく小飛出、白系の袷法被に半切の姿です。
「さても我悪心外道の変化」と大小前に進み「王城ちかく遍満して」と床几にかかって、鵺退治の子細になります。常の形では橋掛りを使って動きで見せるところ、白頭の小書では床几にかかる重い位の形です。
謡も運びがややゆっくりとした感じで進みますが、「矢先に当たれば変身失せて」で矢が当たった形から立ち上がって正中へ出「落々磊々と地に倒れて」と大小前に退ります。
「その時主上御感あって」と扇を懐に、笞取り出して立ち上がり、正先へ出て「右の膝をついて」から、詞章通りに片膝つき袖を上げて目付柱の上方に月を見る形になります。

一度立ち上がり「御剣を賜はり」と大小前に下がって一礼をし、立ち上がると常座からワキ座へと進みます。
「我は名を流すうつほ舟に」と押し入れられる形から流レ足で橋掛りまで進み「淀川の」と一ノ松で回って、さらに「淀みつ流れつ行く末の」と流レ足で二ノ松から三ノ松へと進みます。
「冥きより冥き道にぞ入りにける」で一ノ松まで戻って招き扇し、三ノ松まで進んで「海月も入りにけり」と飛び返って膝をつき扇で面を隠す形「海月と共に入りにけり」で立ち上がって留になりました。
位が重くなると同時に、流レ足の形が変わるなど見せ所の多い一曲でした。附け祝言は高砂が出ていませんでしたので、オーソドックスに千秋楽でした。
(74分:当日の上演時間を記しておきます)
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咸陽宮 朝倉俊樹(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2009.9.19
 シテ 朝倉俊樹
  ツレ 辰巳孝弥 佐野玄宜 金野泰大
  ワキ 高井松男、アイ 野村万之介
   大鼓 佃良太郎、小鼓 住駒充彦
   太鼓 大江照夫、笛 藤田貴寛

先日も書きましたがこの咸陽宮という能、宝生流でこそ二三年に一度ずつ上演されていますが、他流では滅多に見かけません。観世流でも稀曲という訳ではないのですが、ここ数年の各会の番組を眺めたところでは、まず見かけない曲です。この曲のほかにも夜討曽我などいくつかそういう曲があり、宝生流の不思議なところと思っています。
という訳で、このブログには18年の五雲会で今井泰行さんのシテに、殿田謙吉さんのワキで上演された時の鑑賞記を載せていますが(鑑賞記1)、今回の五雲会の当日パンフレット表紙には、その今井さんと殿田さんの時の写真が使われていました。

この曲の描く荊軻と秦舞陽の秦王暗殺未遂事件は史記にも書かれた史実ですが、当日頂いた番組表の藤代さんの解説にもある通り、能の方は史記を原典とはせず、平家物語巻五の咸陽宮を典拠としているため、いささか話が異なった形になっています。

能では始皇帝の都城、咸陽宮にある帝の御殿である阿房宮に、荊軻と秦舞陽とがやって来ますが、史記などの伝えるところでは荊軻と秦舞陽の事件は秦による戦国の統一前の話で、始皇帝はまだ皇帝に即位せず秦王政と云った頃のこと。当然ながら阿房宮も作られていません。
そして何よりも、史実から見れば、秦とともに戦国の七雄に数えられる燕と、勢力を広げつつある秦との抗争がそもそもの発端にあり、秦が中国統一を進めていく大きなうねりの中の一事件であるものが、花陽夫人の見事な琴と機転に助けられ秦の御代が続いたことを言祝ぐという、なんともお目出度い話に矮小化されていることでしょう。
なにはともあれ明日につづきます
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咸陽宮のつづき

地謡、囃子方が着座すると、後見が一畳台に引立大宮を持ち出し大小前に据え付けます。始皇帝の宮殿という訳ですが、準備が整うと狂言口開ということで、間狂言の万之介さんが登場してきます。側次に括り袴、官人頭巾を被った唐官人出立で常座に出ると、燕の国の地図と樊於期(ハンオキ:本曲ではハンヱキないしハンネキ)の首を持ってくる者には思いのままの恩賞を与えるとの皇帝の命を述べ、この分心得候へと触れて狂言座に下がります。

いきなりこう言われても何のことか分かりませんが、平家物語に沿えば樊於期(平家ではハンヨキ)は秦の国の武人で、始皇帝のために親、おじ、兄弟を殺されて燕の国に逃げ隠れていた者。始皇帝は宣旨を下し、樊於期の首を切って持ってきた者には五百斤の金を与えようと布告しています。

またそれ以前の話として、燕の太子丹が秦にとらわれて十二年、老母に会いたいので燕に帰して欲しいと始皇帝に願い出ますが、皇帝は馬に角が生え、鳥の頭が白くなったら帰そうと無理難題をふっかけます。しかし丹の思いが通じたのか、馬に角が生えて宮中に現れ、また鳥の頭が白くなって庭前の木に止まったため、皇帝はやむなく丹を故国燕に帰します。
しかし、丹を帰してしまったことを後悔した皇帝は、燕の国との境にある川の橋に細工をしたりなどして妨害します。これまた奇瑞によって丹は難を逃れて燕に帰国しますが、こうした事情から始皇帝を深く恨んで、秦に服しません。皇帝は軍勢を出して燕を攻める姿勢を見せ、燕は策を持ってこれに対抗しようとしています。

そうした背景から、燕の地図と樊於期の首を持ってこいという触れに繋がる訳ですね。平家物語に沿えば、と書きましたが、このあたりまでは概ね史記の記述と変わりません。

さてアイが狂言座に下がると、笛のヒシギに太鼓が重なり、真ノ来序となります。大変重々しい囃子ですが、これに乗って橋掛りにはまずツレの花陽夫人(カヨウブニン)と二人の侍女が出、続いて白の袷狩衣に紫の半切、唐冠をつけたシテの皇帝朝倉さんが登場してきます。さらにワキツレの大臣則久さん、こちらは紺地の狩衣に白大口、続いて野口能弘さんと井藤さんの二人の従臣がいわゆる赤大臣姿で続きます。
夫人と侍女はワキ座から順に並び、シテは台上に座し、ワキツレの大臣達はワキ正に並びます。
さてこのつづきはまた明日に
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咸陽宮さらにつづき

シテが重々しく「そもそもこの咸陽宮と申すは」と謡い出します。今井さんの時の鑑賞記にも書いたとおり、この後はワキツレの大臣達と掛け合いで荘厳な咸陽宮、なかでも帝の御殿阿房宮の様子が謡われます。朝倉さんの直面の曲は始めてですが、地謡などで拝見しているよりも、むしろお若い印象を持ちました。
ところで観世流ではこのワキツレが謡っている部分を地謡が謡うことになっていますし、宝生では「雁門なくては過ぎがたし」の後、直ぐに大臣の「帝の御殿は阿房宮」に繋がるところ、「内に三十六宮あり・・・」「長生不老の日月まで・・・」の掛け合いの詞章があります。上掛でも微妙に違うところです。

さてこの掛け合いの謡を地謡が引き取って謡う上歌の終わり「肝を消すとかや」で、笛の音から一声の囃子になります。

この囃子でワキの荊軻とワキツレ秦舞陽が登場し、ワキが一ノ松、ワキツレが三ノ松で向かい合って一セイを謡います。ワキ、ワキツレの掛け合いから道行の謡となり、二人ははるばる咸陽宮にやって来たと正面に向きます。

ワキはあらためて咸陽宮に着いたことを述べ、まず奏聞しようと二ノ松まで下がってアイに案内を乞います。アイが立ち上がり応対すると、ワキは燕の民、荊軻と秦舞陽が燕の地図と樊於期の頭を持ってきた旨を告げます。

アイはこれを受けて常座やや前のあたりまで出て、目付あたりのワキツレ大臣に言上します。ワキとワキツレはこの間、橋掛りに後ろを向いてクツログ形。観世の本では、この後大臣がシテ皇帝に奏上してのやり取りがありますが、宝生流ではこのやり取りを欠いていて、アイが両名に大極殿に進むように指示するところに繋がります。ここで確か、三里上って十八丁で大極殿とか言ったようだったのですが、テキストがありませんので確実なところは分かりかねます。

ともかくこの指示を受けて、ワキの謡になります。
ワキ荊軻の高井松男さん堂々とした謡です。いつもよりもさらに力の入った感じで、荊軻の決意のほどを感じさせるところです。
ところでこの二人はどういう次第でやって来たのか、そのあたりはまた明日に
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咸陽宮さらにさらにつづき

話は平家物語に戻り、秦の侵攻を警戒する燕では、荊軻という武人を大臣に取り立て策をめぐらします。荊軻は樊於期の首に懸賞金がかかっているのを知ると、燕に逃れていた樊於期を尋ね、始皇帝を誅殺するために首を貸して欲しいと申し出ます。樊於期の首を持って行けば警戒厳重な始皇帝の身近くに寄ることができようという計略です。

始皇帝への深い恨みを持っていた樊於期は、喜んで自ら首を切り落とし、この首を持って荊軻は秦に向かうことにします。その際、秦舞陽という武人を伴っていくことにします。この秦舞陽はもともと秦の人ですが、十三の時に敵を討って燕に逃げ込み、そのまま燕にとどまっていた人で、ならぶ者のない武勇の士でした。

こうして二人は計略を持って秦の咸陽宮へとやって来た訳です。
しかしワキとワキツレ掛け合いの謡で、荊軻と秦舞陽は金銀珠玉の階を踏んで三里が間を登って行ったものの、荊軻は登り切ったが、秦舞陽は臆して座り込んでしまいます。
ワキツレ館田さんが、三ノ松で座り込む形になります。

なんとも情けない話ですが、史記には、そもそも荊軻は秦舞陽が頼りにならない若者であることを見抜いて、別の者を伴って秦へ向かおうとしたものの、太子丹に出発を急かされてやむなく秦舞陽を連れて出かけた、と書かれているようです。

ワキ、ワキツレのやり取りの後、地謡が「実にことわりとて典獄は さしも厳しき禁中に」と謡う中、ワキがワキツレに寄り、手を添えてワキツレを立たせて、二人は一ノ松、二ノ松に立ちます。
大臣が立って地謡座前に進みつつ、臨時の節会が執り行われ、燕からの使いを待つ様子を謡います。これを受けてワキが舞台に入り目付に出ます。ワキツレは「まず秦舞陽進み出て」と一畳台に寄り、笛座側に座して樊於期の首を捧げた形になります。
一方、ワキは「その時荊軻進み寄って」と謡いつつ、立って常座へ回り、ワキツレ秦舞陽の反対側から一畳台に控える形になります。
いよいよ何かが起こりそうになってきましたが、もう一日明日につづきます
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咸陽宮もう一日のつづき

シテの詞「不思議やな箱の底に剣の影・・・」で燕の地図が入った箱の底に剣が忍ばせてあったことが判明します。(史記では地図が巻物になっていて、これに剣が巻き込まれていたことになっていたようですが)
シテは「既に立ち去り給はんとす」と立ち上がろうとしますが、地謡の「荊軻は期したる事なれば」で、二人が皇帝を抑え、ワキ荊軻が剣をシテの胸に構えます。

身動きできぬ始皇帝は死を覚悟しますが、三千人の后のうち花陽夫人という並びなき琴の上手がいて、毎日その琴を聞いている。今日はまだその音を聞いていないが、最期に花陽夫人の琴を聞きたいと所望します。

これをワキは許して剣を下ろし、ツレ花陽夫人の謡、琴ノ段になります。
実際には琴弾く所作はなく、ツレの琴ノ段の謡から、地謡が受けて、琴の曲が奏される様子が謡われます。この中で、夫人が「七尺の屏風は躍らば越えつべし 羅穀の袂をも引かばなどか切れざらん 謀臣は有無に酔へり群臣は聖人の御助け」と繰り返し歌い、皇帝はこの意味を悟ったものの、荊軻は意味が分からないままに、琴の音に聴き入って眠り込んでしまいます。
ワキ、ワキツレの二人が面を伏せて眠った形になると、シテはワキを見て一度正面に戻し、さらに「荊軻がひかへたる」とワキを見、地謡が「御衣の袖を引つ切って」と謡うに合わせて、左右と袖を引いて立ち上がり台を降ります。
ワキ、ワキツレも立ちますが、ワキツレは程なく切戸口から退場し、残ったワキも、シテが後見座にクツログ間に、地の「剣を帝に投げ奉れば」で剣を投げて切戸口から退場します。

残ったシテが剣を持って目付で打ち、左へ回って左の袖を巻き上げ、常座へ進んで小回りして、袖を返して留拍子を踏みました。
上演時間は割と短い曲ですが、なにぶん平家物語の咸陽宮の段を読んでいるのが前提のような作りの曲ですので、補足を加えていささか詳しく書いてみました。
能の幽玄などとは遠い世界の曲ですが、こういう曲も含めて「能楽」が構成されている訳ですし、案外面白く拝見したところです。
(46分:当日の上演時間を記しておきます)
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因幡堂 月崎晴夫(五雲会)

和泉流 宝生能楽堂 2009.9.19
 シテ 月崎晴夫
  アド 岡聡史

昨年10月の五雲会でもこの因幡堂が出まして、ブログにも鑑賞記を載せたところです。(鑑賞記1)同じ和泉流野村万作一門、シテは深田さんでしたがアドは今回と同じ岡聡史さん。同じ演出ということですが、シテが変わるとまた印象が違ってくるものです。
深田さんは大変生真面目な印象の方ですが、その深田さんが大酒飲みの妻をめぐる愚痴を語られると、なんだかかわいそうな感じがしたものです。

月崎さんもよく拝見しますが、なんとなく剽げた感じのする芸風の方で、深刻な話というよりは「しょうがないなあ」と思わせるような展開になります。

型通りシテ月崎さんが狂言出立で登場し、常座に出て妻への不満を語ります。
妻は「ならず者」だというのですが、まず朝寝をする、縫い針のことはしない、苧をひとさきつむぐこともしない(苧:カラムシ。繊維をとって織物を作る)と続きます。
何よりも、あろう事か大酒を呑んで酔狂を致す・・・という次第で、我慢がならないので暇をやろうと思うと、これがまた「わわしう」言い立てて自分に口をきかせない、とまあ大変な女房な訳です。

この妻が親の里に用事があって帰ったので、これ幸いと暇状を送りつけて埒をあかせたのですが、さて一人になると世帯のことがままならず、因幡堂の薬師如来に参詣して申し妻をしようと語って、因幡堂へ向かいます。

常座から舞台を一回り。道々、信心して祈ればきっと良い妻が与えていただけるだろう、などと勝手なことを言いながら因幡堂へとやって来ます。
前々から思っているのですが、月崎さんの足の運びはいささか独特でして、すり足というよりも少しパタパタと歩くような印象があります。このあたりも、月崎さんの狂言に独特な雰囲気がある理由かも知れません。
このつづきはまた明日に
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因幡堂のつづき

因幡堂にやって来たシテは正先へ出、ジャガジャガと鈴を鳴らす所作をして着座し、扇を広げて前に置き仏を拝します。さらにふさわしい妻を与えて欲しいと祈り、「南無薬師瑠璃光如来」と合掌、誓願して、一晩籠もることにします。

深田さんの時の鑑賞記にも書きましたが、因幡堂こと福聚山平等寺、真言宗智山派のお寺です。平安時代中頃の貴族橘行平が因幡の国に代参した際に、海中より引き上げられた薬師如来をまつったとか。その故事にちなんで古くから因幡堂と呼ばれていたようです。
鬼瓦や仏師の舞台ともなっていると前回書きましたが、ネットで調べているとなんと「因幡堂狂言会」というサイトに行き当たりました。(勝手にリンクさせていただきました)

HPの記載によれば、因幡堂を舞台とする狂言は因幡堂、鬼瓦、仏師、六地蔵、金津地蔵などがあるようですが(どの曲も観てはいますがついぞ意識していませんでした。そんなものですね)、この因幡堂が現存することを機縁に、年に一度、因幡堂に舞台を設営して狂言を上演しようという趣旨だそうです。
2003年に因幡堂開山千年法要に際して、一度だけの試みとして狂言会を催したところ大盛況だったのだそうで、あらためて2007年万作一門による仏師と因幡堂の上演からスタートし、2008年は茂山千五郎家の貰聟と因幡堂、今年2009年は第三回ということで、万作一門による鬼瓦と新作狂言の因幡薬師が上演されたそうです。
ご住職が音頭を取られたようですが、大変面白い試みですし、舞台となっている場所で狂言を観るという珍しい体験が出来るのは興味深いところです。

さてシテが寝入ってしまうと妻が登場し、一ノ松に立つと「のうのう腹立ちや腹立ちや」と大変な勢いで腹立ちの様を述べます。岡さんの演じる妻、狂言のいわゆる「わわしい女」の典型のような様子です。里に用事があって帰ったところが、夫が暇状をよこし、因幡堂の薬師様に申し妻に籠もっているという話を聞きつけ、怒りにまかせて因幡堂までやってきた訳です。
一ノ松から目付に出て堂に籠もっている男を見つけます。常座に下がると一思案の後「お薬師様になって示現をおろそう」と決め、再び目付まで出ると、薬師如来であるかのように男に対して「西門の一のきざはしに立ったを汝が妻に定めい、エイ」と言って中入りします。
このつづき、もう一日明日に
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因幡堂さらにつづき

シテは目を覚まし、少し睡眠の内にあらたなご霊夢を蒙ったと言い、夢のお告げに随って西門に向かいます。
シテが常座あたりから様子をうかがうと、衣を被いた女が一ノ松に立ち、男が声をかけて我が家に連れて帰ることにします。

二九十八などと同様の形でシテは女を導いて舞台を歩みつつ、女に話しかけて、薬師如来のお引き合わせで夫婦になったので「五百八十年万万年も連れ添いましょう」などと言います。
この五百八十年、居杭でも算置の言葉に出てきますが、長寿や慶事など、末永く続くように祝うときに用いるようです。しかしどうも語源がよく分かりません。割と良く出てくる語なのですが、さてどうして五百八十年なのか。
ほかにも五百八十年七回りという言い方もあるようですが、七回りの方は干支の七回り、つまり六十年が七回りで四百二十年、これと五百八十年を足して千年という意味だとか。たしかに千にはなりますが、だからといって逆算するから五百八十という語源とは考えにくいところ。
一説には日子穂穂手見命いわゆる山幸彦ですが、古事記には高千穂の宮に五百八十年鎮座されたとあり、これにちなんだという話もあるようです。

さらにシテはいずれ分かることでもあろうからと、実は今までも独り身ではなかったことを語ります。今までの妻は、朝寝をし、隣などへ行っては大茶を呑んだり、あろうこと大酒を呑んで酔狂をするので暇をやったと説明します。
我が家に着いたという設定でワキ座に二人して座します。

ワキ座に二人して座し、祝儀の盃事になります。女が盃を返そうとせず二度も三度も注がせるので、怒ったシテが無理に盃を取り上げて、被きを取れと迫りますが、女がいやがり無理に取ると、なんと元の妻。

女が怒ってシテを詰問すると、男は遁世の望みで暇を出したと答えます。ならば因幡堂には何のために籠もったとさらに問いかけられ、そなたの息災を願掛けに行った、と出任せを言って、型通りに女に追い込められます。何度観ても笑ってしまう一曲です。
(19分:当日の上演時間を記しておきます)
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敦盛 東川尚史(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2009.9.19
 シテ 東川尚史
  ツレ 佐野弘宜 川瀬隆士 金井賢郎
  ワキ 御厨誠吾、アイ 破石晋照
   大鼓 大倉慶之助、小鼓 幸信吾
   笛 成田寛人

敦盛も本ブログ初登場。生田敦盛は18年の五雲会で山内崇生さんシテの鑑賞記を書いていますが、ポピュラーな方の「敦盛」は初登場です。

ご存じのように、敦盛は一ノ谷の合戦で討たれた時に未だ十六、七だったといわれており、その討った相手である源氏の武将、熊谷次郎直実は、敦盛の最期に感じるところがあって出家してしまいました。
この曲では、熊谷次郎直実出家し蓮生法師がワキとして登場し、敦盛の霊を弔いますが、若くして、しかも健気にも逃げる途中から引き返して討たれてしまった敦盛という若武者には、いわゆる判官贔屓のように心を寄せる人が多かったのでしょう。能以外にも様々な芸能に敦盛が取り上げられています。

織田信長が桶狭間に出陣する前に舞ったという敦盛の舞。「人間五十年下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と信長公記にあり、ドラマなどでも必ずと言って良いくらいに取り上げられますね。もちろんこれは、能楽に造詣のある方ならご存じの通り、能ではなく幸若舞です。

幸若舞の敦盛はなかなかの長文で、平家物語よりもずっと詳しい記述です。御座船に乗り遅れた敦盛が、騎乗のまま海に入り船に向かうところも、老武者でもあれば馬の三頭・・・背の尻に近いあたりに下がって乗り、馬に任せるようにしていくものを、若武者だけにそうしたことも知らず、前にかかって乗り、鐙を強く踏んで手綱も引いていたため、良い馬ならなんなく船まで泳いでいけるものを、返って妨げてしまったなどという記述もあります。(ついでながら、信長公記では下天としていますが、もともとは化天・・・化楽天のようですね)
また歌舞伎でも一ノ谷嫩軍記など、人気の出し物のようで、敦盛の人気のほどが窺えます。
さて能の方は明日につづきます
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敦盛のつづき

囃子方、地謡が着座すると次第の囃子。ワキ蓮生法師が登場してきます。角帽子の着流し僧姿の御厨さんがゆっくりと登場し、型通りに次第を謡います。この次第の詞章は観世流謡本とは違っていて、残念ながら聞き取れませんでした。詞の部分と違って、こうした謡の部分でまるっきり違う詞章というのは、どちらかというと珍しいことなので、宝生の謡本でも調べてみようかとふと思ったところです。・・・が未だ入手しておりませんで・・・

次第を謡い終えると、熊谷次郎直実、出家して蓮生法師であると名乗り、敦盛を手にかけたものの、余りに痛わしいので、出家して一ノ谷に下り敦盛の菩提を弔おうとする旨を語ります。続いて道行を謡って一ノ谷にやってきたワキは、笛の音が聞こえてくることに気付き、暫し待って笛の主を確かめようとします。

ワキが語り終えてワキ座に着座すると、笛のヒシギで次第の囃子となり、前シテと前ツレ三人の都合四人が舞台に登場してきます。
シテが先頭に立ち、段熨斗目に緑のシケの水衣、白大口を着けています。ツレの三人は紺地の無地熨斗目にヨレの水衣で、シテ、ツレともに草刈りした草に擬した挟草を担っています。

舞台に入り向かい合うと揃って次第を謡い、続いてシテのみが正面を向いてサシ「かの岡に草刈るおのこ野を分けて 返るさになる夕まぐれ」を謡います。再び四人が向き合って謡から、下歌、上歌と草刈る業のわびしさなどを謡います。

上歌の終わりに立ち位置を換え、シテが正中で挟草を下ろし、ツレ三人はワキ正側に並ぶ形になります。するとワキ僧が、待ち構えていたように尋ねたいことがあるとシテ一行に声をかけます。
このつづきはまた明日に
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敦盛さらにつづき

ワキは草刈り男達に、先ほどの笛は貴方たちかと問いかけます。これにシテが自分たちだと答え、ワキが草刈りの身にも似合わない優美なことだと返します。これにシテ、ツレは掛け合いで、樵歌牧笛といわれるように草刈り人が笛を吹くのは何ら不審には当たらないと謡います。ワキも、たしかに我ながら愚かなことを言ってしまったと謡い、今度はシテ、ワキが掛け合いで、樵歌牧笛の意味を謡って展開していきます。

ところでこの樵歌牧笛ですが、和漢朗詠集に見える紀斉名の「山路日落 満耳者樵歌牧笛之声 澗戸鳥帰 遮眼者竹煙松霧之色」から引いたものと見えますが、牧笛って牧童の笛の意味ではないのかと思ってしまいます。牛の背に乗った少年が笛を吹くっていう水墨画かなんかを見たような記憶もあります。もっとも中国ならいざしらず、日本では牧畜の伝統はありませんから、牧童の笛というのも無理な話。もしかすると牧笛という言葉だけが漢籍から入り、牧場の連想から草を刈る者の笛と展開したのかも知れません。

そしてこのあとを受けた地の謡で、草刈りの吹く笛ならば名は青葉の笛と・・・と謡われます。このあたりが謡曲の詞章の面白いところでもありますね。青葉の笛といえば敦盛の持つ笛の名と決まっていますから、ここで敦盛を暗示する形。敦盛の持つ笛は笛の名手でもあった祖父忠盛のものだったと言われ、小枝ないし青葉の笛と呼ばれているものでした。

そしてこの地謡の内にツレの三人は切戸口から退場してしまい、シテは常座へ移り一度ワキに向き合った後、後見に振り返って手に持つ挟草を渡し、地謡いっぱいに正面にむき直します。
ワキは草刈り男達が皆帰ってしまったのに、一人残ったのは何故かと問いかけます。これにシテは正中に進み出て下居しつつ、十念を授けて欲しいと願い出る訳です。十念を授けるのは容易いが、そもそもいったい誰なのだ、というワキの問いかけに、シテは敦盛の霊であることを明かして姿を消してしまいます。
このつづきはまた明日に
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敦盛さらにさらにつづき

間語りの後、ワキの待謡。待謡の詞章の前半「露を片敷く草枕 露を片敷く草枕 日も暮れ宵になりしかば」と謡ったようですが、これは下掛りの謡なんでしょうね。観世の本では「これにつけても弔いの これにつけても弔いの 法事をなして夜もすがら」となっています。

さてこの待謡から一声、後シテの出になります。長絹を肩脱ぎにし白大口、梨打ち烏帽子に白鉢巻き。貴公子敦盛らしい出立です。この曲は前場が直面のため、シテ東川尚史さんのお若い面影が後場の装束にも漂う感じです。

シテはワキの法要に感謝をしつつ現れて、地のクリで大小前に進んで正中で床几にかかります。サシ、クセと謡が進んで「誠にひとむかしの」で立ち上がってクセの舞になります。平家物語巻九の敦盛最期には、戦いの始まる前に平家陣中で管弦を催し、その音が寄せ手源氏の陣にも聞こえていたことが、敦盛の笛にまつわって書かれています。
このクセ、それに続く部分では、一ノ谷に陣取った平家の陣中で今様を謡い舞い遊ぶ様が謡われ、その気分でシテの中ノ舞へと繋がる展開。修羅物で中ノ舞は珍しい形で、喜多流では男舞とするようですが、東川さんの中ノ舞も颯爽と貴公子が舞う雰囲気。女物の曲とはやはり異なる感じです。

中ノ舞を舞上げると、場面は一門が海上の船に逃げ去るところに変わります。地の「乗り遅れじと 汀にうちよれば」でシテは橋掛りへと進み、二ノ松あたりまで船を追う形となりますが、舞台に戻り「御座船も兵船も遼に延給ふ」と正中から目付に向けて雲扇。さらに「せんかた浪に駒を控え」と謡いつつ片ユウケンして戦闘の場面となっていきます。

扇で「二打ち三打ち」と打つ形。扇を広げて「馬の上にてひっ組んで」と回って安座し、太刀抜いて「因果は巡り会いたり」と正中へ打ちます。観世流では「波の打物抜いて」で太刀抜いて、その後は太刀を持っての舞になりますが、展開がいささか違います。

最後は太刀を捨て「後弔いてたび給へ」と常座にて合掌し、直して留拍子。敦盛にふさわしい舞でした。
(85分:当日の上演時間を記しておきます)
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半蔀 高橋憲正(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2009.9.19
 シテ 高橋憲正
  ワキ 則久英志、アイ 竹山悠樹
   大鼓 大倉栄太郎、小鼓 大倉源次郎
   笛 藤田次郎

高橋憲正さんが五雲会で最初にシテをされたのが平成16年五月の草薙。それ以後、17年の俊成忠度、18年の胡蝶、19年の石橋、20年の夜討曽我、そして今年は四月に竹生島と、五雲会での演能は欠かさず拝見してきました。地元金沢でも演能をされていますが、残念ながら金沢まで観能に行く機会がないため、とりあえず東京でシテをなさる会だけでも観ておこうというところです。
草薙を拝見した際、これはまた上手な方が出てきたもの、と驚きましたが、その後も研鑽を積まれている様子。この日の半蔀もしっとりとした良い舞台でした。

このブログでは、以前、金春流本田芳樹さんがシテを勤められた半蔀の鑑賞記を書きましたが、その際にも書いたように、類曲の夕顔を金春・宝生の二流は現行曲としていないためか、観世流などと比べるとやや半蔀の上演が多いような気がしています。
宝生の半蔀といえば、先日も書いたように、英照さんがお元気な頃になさったものの印象が強く残っていまして、本当に優美な一曲だったと記憶しています。

さて舞台には、まず名宣笛でワキ雲林院の僧が登場してきます。藤田次郎さんの笛ですが、一噌流の名宣笛ってこんな譜でしたか、とちょっと思うくらい独特の差し指が織り込まれています。
ワキは則久さん、無地熨斗目に柿色の水衣、角帽子の着流し僧ですが、角帽子の色目が軽く良い感じでした。登場したワキは常座で名乗り。都、北山紫野の雲林院に住居する僧であると言い、一夏の間花を立てたが、安居も終わりとなったので花の供養をしようと正先に出ます。
さてこのつづきはまた明日に
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半蔀のつづき

以前にも書きましたが、夏安居(ゲアンゴ)というのは陰暦の四月中旬から七月中旬まで九十日にわたって僧侶が一カ所に定住し修行すること。もともとインドで仏教が起こった頃、修行者は遊行しているのが常だった訳ですが、夏のこの時期は雨期のため、やむなく一カ所にとどまっていたというのが夏安居のもとのようです。
日本の梅雨はそれほど長い期間でもありませんが、日数などはそのまま持ち込まれてきたのでしょうね。

この間、花を立てていたので、夏安居の終わりに花の供養をしようというのがワキの心。正先に進み出て下居し、あらためて「敬ってもうす立花供養のこと」と供養を始めます。この供養の結縁で、草木国土悉皆成仏と祈り、数珠を取って合掌します。

この曲、立花供養という小書があって、ワキの出に先立って正先に立花を出す演出があります。この日は小書がありませんでしたが、たしかに正先にワキが進み出てあらためて祈りを捧げる時に、立花があると情趣が増すように思えます。もともと立花を出す方が通常の形だったという話もあり、うなずけるところ。小書の時はしかるべき生け花の先生などにお願いしてしつらえていただいた立花を、後見が正先に出します。

さてワキの祈りから囃子方のアシライとなり、ワキはワキ座に下がる一方、紅入唐織着流しのシテが静かに橋掛りを進んで常座へと出てきます。
シテは常座に立つと静かに謡い出します。この姿にワキは不思議を覚え、白い花が独り笑の眉を開いたのは何という花かと問います。

シテは「愚かの御僧の仰せやな」と謡掛けますが、その花の名は夕顔であると述べます。このあたりのシテの謡、風情、一段と芸に磨きをかけておられるように感じました。
このつづきはまた明日に
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ユネスコ記念能

いやあ今週は出張などもあり、ちょっとばかり立て込んでしまいまして、週の後半は更新が出来なくなってしまいました。
その慌ただしい最中でしたが、久しぶりの出張で東京に出たついでに、国立能楽堂の第7回ユネスコ記念能を覗いてきました。

2001年5月から3回に渡って、ユネスコは無形遺産保護の一環として「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」を発表していますが、この第1回に能楽が選ばれたことを記念して、能楽協会が毎年秋に「ユネスコ記念能」という催しを行っています。今回はその7回目、高澤祐介さんのシテで狂言「附子」と、今井克紀さんのシテで能「黒塚」という番組です。(ちなみに日本からは、第2回宣言で人形浄瑠璃文楽、第3回宣言で歌舞伎が選ばれています)

留学生の招待があったり、日本語、英語をはじめ10カ国語で記載された能楽入門冊子が配られたりなど、ユネスコ記念にというにふさわしい対応もあって、見所には外国人の姿がたくさん見られたところです。ほぼ満席でしたね。

狂言はお馴染みの附子ですので、誰が観ても笑えるというところです。しかし教科書に取り上げられたりなど、あまりにポピュラーなだけに、逆に能の会などで上演されることが少ないような感じがします。このブログでも取り上げていませんでしたので、少なくとも4年近く観ていないことになります。

能、黒塚は安達ヶ原の鬼婆伝説を能化したもので、観世流では安達ヶ原、他の四流は黒塚と言います。このブログでも喜多、金春、宝生各流の黒塚を取り上げていますが、安達ヶ原と金剛流の黒塚はまだでした。今回の金剛流の黒塚は初見でして、シテの今井克紀さんも初めてです。お父様の今井清隆さんの采女などを観た印象、ネットで拝見するものなどから、勝手にイメージを作っていたのですが、実際拝見してみると随分と予想とは違った印象でした。はたしてこれが金剛流の黒塚の一般的な演出なのか、克紀さんの演技の形なのか、分かりかねるところ。機会あれば金剛流の別の方の黒塚や、今井さんの別曲の上演などを拝見したいものと思っています。
観能記はいずれ・・・
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