能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

高野物狂のつづき

まず舞台にはシテ高師(たかし)の四郎が素袍上下に掛絡をかけた姿で登場してきます。常座に出ると常陸の国平松殿の御内に高師の四郎と名乗ります。高林さんの詞は節付けがあるような雰囲気でやや謡うような感じです。
この間の桜川にも書いた通り、常陸が謡曲に出てくるのは極めて少ないのですが、平松殿というのはどの様な来歴の人なのか。謡本には見あたりませんが、当日はアイとのやり取りに常陸の国筑波郡とあったようでした。

シテは昨年亡くなった主君平松殿の命日なので参詣すると言って、常座から正先に出、着座合掌して「有り難や昔在霊山名法華・・・」と偈文を謡い、さらに「慈眼視衆生悉く・・・」と合掌の手を下ろして上歌を謡います。この上歌は観世では地謡が謡う形になっています。

シテの上歌の間に右手に文を持ったアイが登場してきます。シテが謡い終えるとアイは一ノ松で高師の四郎に仕える者と名乗り、春満殿の御文を持ってきた由を語ります。この間にシテは立ち上がって大小前に移り、アイが舞台に入ってきます。

ワキ正に座したアイは、シテに向かって声をかけ春満がいなくなった由を伝えるやり取りとなります。
アイは立ち上がって春満の文をシテに渡して退場しますが、受け取ったシテは正中に着座し、文をひろげて読む形になります。

文には如来の教法に逢う有り難さを説き、一子出家すれば七世の父母悉く成仏すると聞いて自らも出家し、修行の道に赴くことにした決意が述べられています。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです
スポンサーサイト

高野物狂さらにつづき

春満の文には、父母亡き後は父とも母とも慕ってきた、高師の四郎と別れる名残惜しさは尽きないと「墨衣思い立てどもさすが世を 出づる名残の袖は濡れける」と歌が書き残されています。
この文をシテは実際に読むように眼で追いつつ、しみじみと謡い上げます。

この文の部分、観世の本と比べるとだいぶん文章がそぎ落とされている感じです。念のため宝生の本もあたってみましたが、こちらは同じ上掛りということか、ほぼ観世と同文でした。
ともかくシテが文を読み上げ、これを地謡が受けて下歌、短めの上歌と文を読んでの高師四郎の心情が謡われ、春満を追って行方知らぬ旅に出たことが示されて、大小に笛のアシライでシテの中入となります。

中入後、松の立木の作り物を正先に出す形があるようで、三鈷の松が名勝として取り上げられていることが視覚的にもはっきりすると思いますが、この日は作り物は出されず、舞台には子方春満が先に立ち、ワキの高野山の僧とワキツレ従僧が、次第の囃子で登場してきました。

子方春満は無地熨斗目着流しに水衣、角帽子の出家姿。子方の出家姿というのはあまり見かけない形ですね。観世流では縫箔に稚児袴の稚児姿で出ますが、これは改作の影響らしく、観世以外の各流は出家の形のようです。続くワキ、ワキツレ住僧二名、いずれも角帽子に水衣の出家姿ですが、福王流のためか普段見慣れた宝生のワキ僧とはいささか装束の色が違っている感じです。
舞台中央で向かい合っての次第謡の後、ワキは自らを高野山の住僧と名乗り、いづくとも知らずやって来て出家を望んだ幼い人を預かっているが、本日は三鈷の松に伴って慰めようと思う旨を述べて、ワキ座へと着座します。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

高野物狂さらにさらにつづき

一声の囃子が奏されて後シテの出。白大口に深い青緑の水衣を肩上げにし、前場で読み上げた文を笹に付けて右肩に担い、物狂いの態での登場です。一ノ松に立ってサシを謡います。
「あら覚束なの御身の行方やな 呼子鳥」と謡いつつ舞台に入りカケリになります。呼子鳥の謡のうちに正中へと進んで足拍子を踏み、角から大小前。足拍子を踏んで正先へ乗り込む形から笹を肩にし、目付から大小前へと舞台を廻ります。

カケリを舞い上げ「誘われし 花の名残を尋ねつつ」と謡い、地謡が「風狂じたる心かな」と受けると、シテは「肌身に持てるこの文を」と文付けた笹を胸に当てる形になります。
この後の地謡で「筑波の山やらんと」と常陸の名山、筑波山が詠み込まれ、シテは幕方を指して古里を思い、さらに正先から大小前を廻って橋掛りへと入ります。「いざや狂い上らん」と一ノ松に立って正を向き「立ち上る雲路の」と謡って、続く地謡で舞台に戻り、高野山に狂い上る様です。

「主君になどか逢わざらんと懇ろに祈誓して」の謡で、正先に下居し合掌。さらに「三鈷の松の下に」と立って常座へと向かい、シテ柱の前に着座します。

するとワキがシテを見咎め、物狂は山中に入ることは出来ないので立ち去るようにと求めて問答となります。観世流はここで春満が、この物狂は高師の四郎と気付き、ワキが名乗るようにと勧めるのを、思う子細があるので気付かぬふりをして欲しいとワキに求める形になっています。
ワキに咎められたシテは常座に立ち、ワキ座のワキと問答。シテは主君に従って出家の志も語ります。掛け合いから二人揃っての謡。そして地謡が三世の主君を尋ねて高野山へやって来たと謡ううちにシテは常座から正中へと出てワキに向かって着座します。
このつづきもう一日明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

高野物狂もう一日のつづき

シテはクリ(喜多流なので序とすべきですね)で正面を向いて笹を置き扇を持ちます。クリで正中へと移り着座する形の方が馴染みがありますが、ここでは既に正中でワキに向かって着座しており、向きを変えるだけです。さらにサシで三鈷の松の謂われを述べてクセに続いていきます。

クセでは高野山の霊地としての尊さが謡われますが、クリから下居したままのシテはクセ「さればにや」で立ち上がり、クセを舞う形になります。
弘法大師の投げた三鈷が、光とともに飛び去って松の梢に留まり、これを持って三鈷の松となった謂われから、その奥の院の深山の様子を曲舞に仕立てていますが、ここは静さを感じさせての舞。

クセを舞い上げると「尋ね来し」の謡からシテの男舞。中ノ舞を舞う流儀の方が多いようですが、喜多流は男舞なんですね。
男舞を舞上げると、ノリ地の地謡に合わせて激しい舞を見せ、「常磐の三鈷の松陰」と正中からシテ柱あたりに松を見上げる形。さらに「あら忘れじや」と正中で両手打ち合わせて「高野の内にては謡い狂わぬ御制戒をわすれて狂いたり」と戒を思い出した風で常座へと戻り、さらに正中へ出て「許させ給え御聖」との謡に、着座してワキに謝るように合掌して静まります。

ここで子方がワキに、物狂が高師の四郎であることを告げ、主従再会の場面。
続く地謡で、四郎が鬠(もとゆい:機種依存文字のため表示されない場合はご容赦ください。髪の下側「友」を「會」に換えた字)を切り、春満に従って出家したことが謡われ、シテの所作も扇持つ手を上げて扇を倒し、鬠を切った形を暗示します。
最後はシテが子方を立たせて退場させ、常座でユウケンして留となりました。
観世の形だと主従下山するため、入山を咎めるワキに出家の志を告げるのは嘘になってしまいます。喜多流など各流の伝える形の方が、素直な展開ですね。
(75分:当日の上演時間を記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

佐渡狐 野村萬(喜多流自主公演能)

和泉流 喜多六平太記念能楽堂 2010.05.23
 シテ 野村萬
  アド 野村太一郎 野村万蔵

当日の番組にも、シテ野村萬と明記されていたのでそれに従いましたが、太一郎さんが越後の百姓、万蔵さんが佐渡の百姓で、萬さんは奏者役です。

さて佐渡狐は昨年に三度、今年も二月にブログ登場していますが、ポピュラーな曲ではあるものの、それにしても観る機会が多いような感じです。どうもある時に立て続けに同じ曲を観るような気がしています。狂言方のほうで、その時のテーマのように集中的に上演しているのかも知れないなあと考えたりしています。

曲の流れ自体は昨年7月の牛久市民能で万作さんが奏者をされた際の鑑賞記に詳しく取り上げていますので、こちら(鑑賞記初日月リンク)を参照下さい。同じ展開ですが、それにつけても萬さんも万作さんも、奏者の、ともすればずる賢い印象になってしまいそうな役柄を、うまくこなして悪意のない笑いに繋げています。まあ、そのあたりが技量ということなのでしょうね。

そういえば、狐のなりかっこうを尋ねられた佐渡の百姓に、奏者が「犬よりも少し小さい」を思い出させようと扇で何やら形をなぞり「犬」と言ますが、これを佐渡の百姓は「猪」と答えてしまいます。このときの扇でなぞる形、もちろん犬よりも少し小さな動物の形と思っていましたが、今回の演技を見ていて「い」の文字の形をなぞる意味もあるのかなあ、とふと思いました。見ようによっては、そんな風にも見えるという程度の話ですが・・・

太一郎さんの演技を拝見するのは、たぶん今回が初めてです。故八世万蔵の長男で今年二十歳、お若い演者で汗をかきつつ精一杯の熱演でした。今回の越後の百姓は生真面目な役柄でもあり、余計にそうした印象を持ったのかも知れません。ご活躍をお祈りしています。
(29分:当日の上演時間を記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

索引の更新

そういえばしばらく放っておいたことに気付きまして、能の鑑賞記索引狂言鑑賞記索引を久しぶりに更新しました。
能18番、狂言9番を追加しています。これで索引に掲げた曲は能が147曲242番、狂言が84曲134番となりました。いずれも流儀によって曲名の表記のみが異なっているものは同曲と数えています。能も狂言も、現行曲数は二百数十番というところですから、まだまだ先は長いというところ。特に狂言は狂言の会を積極的に観に行かないと、演じられる曲の範囲が狭いような感じがします。

とは言え、昨年11月の金剛流工藤寛さん主催の会「天地人之会」から、今年5月の喜多流職分会自主公演能の一部までをカバーしていますが、あらためて索引を手直ししながら振り返ってみると、この半年間にも実に様々な曲を観たものだなあと、しみじみ思ったところです。

梅若玄祥さんが演じた新作能「花供養」もこの期間に入っています。なんだかもっと時間が経っているような気がしていたのですが、時間の感覚が少しずれているのかも知れません。
あまり頻繁に観能に出かけることは出来ませんが、無理のない範囲で観能とブログの鑑賞記を続けていきたいと思っています。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

吉野静 粟谷能夫(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2010.05.23
 シテ 粟谷能夫
  ワキ 村瀬提、アイ 野村扇丞 高部恭史
   大鼓 亀井広忠、小鼓 曽和正博
   笛 一噌庸二

いずれの曲でも流儀によって多少の相違はあるものですが、この吉野静は金春流と喜多流では前後二場の現在能として演じる一方、他の三流では前場を省いているために、大分違った構成になっているようです。

前場ではワキの佐藤忠信が次第で登場して、吉野の衆徒の裏切りによって義経が吉野山を落ちた後、一人山に残った思いを謡います。
シテ静御前が登場し忠信になぜ山に残ったのかと問いかけ、忠信は義経から「防き矢射よ」と命ぜられ、弓取ってこその面目と感じて山に残ったことを明かします。

忠信と静が言葉を交わしていると法螺貝や鐘の音が聞こえてきます。道行く人に聞いてみると、吉野の衆徒が義経を追い掛けようと集会をする知らせとのこと。

一計を案じた忠信は、自らは都道者の真似をして集会の座敷へ出て義経兄弟が仲直りしたと皆に伝えて時間稼ぎをし、また静が法楽の舞を舞ってさらに時間を引き延ばして義経を安全に落とそうとします。
この約束をしてシテ、ワキが中入りするというのが前場の構成。

宝生流ではワキが登場して次第を謡った後、前場のあらすじに相当するところを語って後場のアイとのやり取りへと展開していきます。一昨年の高橋章さん(鑑賞記初日月リンク)、昨年の佐野弘宜さん(鑑賞記初日月リンク)の鑑賞記を参照いただければと思います。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

吉野静のつづき

都道者(みやこどうしゃ)というのは、熊野など有名寺社を巡る都からの参拝客のことのようで、忠信はこの都道者のふりをして衆徒が集まっている大講堂に入っていくことにするわけです。

次第で登場したワキ村瀬提さん、直垂に白大口の姿です。次第を謡った後、正を向いて判官に仕える佐藤忠信であると名乗り、頼朝義経不仲のゆえに判官は吉野山に籠もったものの宗徒が心変わりしたため、山を落ちることとした旨を語ります。
自らは、判官に防ぎ矢射よと命ぜられたため、唯一人この山に残っているという子細を語ると、サシを謡います。

古、天武天皇が戦を避けて吉野の宮を出、山野に迷ったように、判官もいずれに落ち行くのかと思いの内を謡いますが、この謡の途中で幕が上がり、シテ静御前が紅入唐織着流しの姿で橋掛りを進んできます。

シテが一ノ松と二ノ松の間あたりに佇み、ワキは橋掛りを見つつ、静御前かと声をかけます。
シテは忠信かと問いかけ、ワキ忠信がこれに答えて自分一人が防ぎ矢のため残った旨を語る内に、常座へと進みます。

ワキが静の身を労ると、シテ静は、女の身では遅れまいとしても付いていくことが出来ず山路に迷ったことを述べつつ、正中に出てワキを向いたまま下居します。
ワキは何やら気付いたように正面を向き、貝鐘の音が聞こえてくると言い出します。判官を追う衆會を招集する貝鐘だろうと推量し、自らは都導者の体で衆會に紛れ込み、静には法楽の舞を舞って時間を稼ぐようにと話します。
これを受けてシテが謡いつつ片シオリ。ワキは地謡で目付から常座へと進み、立ち上がったシテが眼で追う中を橋掛りへと進んで行きます。

シテも「静はそのまま」と謡った後、地謡に合わせて向きを変え、大小アシライで中入となります。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

吉野静さらにつづき

中入の後、アイ二人が法螺貝を吹く形で登場してきます。オモアイが「つうわい ついわい」、アドアイが「ぶっうぅ ぶっうぅ」と貝吹く形をしながら三度繰り返して出、オモアイが地謡座前、アドアイがワキ正側に立って問答となります。
二人は義経が落ちて行ったことから、大講堂で集会をしようと言い合い、着座して語り合い始めます。

ワキは二人が話しあっているうちに、水衣に笠を被って登場し、二人の座した真ん中の大小前に音を立てて座します。これにアイがワキを咎めて「何とて衆徒の座敷へ、濡れわらんずにて出でられ候ぞ」と問いただします。ワキは素知らぬふりで、都道者なので衆徒の座敷とも知らずに入ってしまったと言いますが、都の者と聞いてアイは興味を引かれる訳です。
都では義経の噂はどうなっているのか、と問うアイに、ワキは頼朝、義経の兄弟はついには仲直りしたと嘘の情報を伝えます。

アイは続けて、義経がどのくらいの人数を連れて吉野を逃れたのかと問います。
これにワキが十二騎と答えると、それならば追い掛けようとアイがはやり立ちます。しかしワキは「暫く」とこれを止め、十二騎とは言っても並の軍勢の百騎にも二百騎にも相当する強者と諭します。ワキの詞を受けて地謡となり、ワキは笠を被ってオモアイに頭を下げるような形から、立ち上がって一度正先へ出、ワキ座へと向かいます。

アイ二人も「いやこちもお暇申し候わん」と立ち上がり、登場した時と同様にオモアイが「つうわい ついわい」、アドアイが「ぶっうぅ ぶっうぅ」と法螺貝を吹く様子で退場します。

二人の退場を受けて大小アシライとなり後シテ静御前が登場してきます。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

吉野静さらにさらにつづき

シテは忠信との約束により舞装束となり、忠信遅しと待ちかねた風情で、静烏帽子を着け、赤の箔を腰巻にして紫の長絹。常座に出て「さても静は忠信がその約束を違へじと、舞の装束ふき繕い、忠信遅しと待ち居たり」と謡います。

あくまでも都道者を真似たワキは、現れ出でた静に法楽の舞を舞うように促します。
シテも都人と信じたふりをしつつ、ワキに都人ならば義経の噂を知っているだろうと問いかけます。集まった衆徒に聞かせようという心。これを受けワキが兄弟仲直りと告げ、衆徒が追跡を思い止まろうとする様子。

ワキはあまり問答を長引かせるのもまずかろうと静に舞を促します。「げにこの御代も静が舞」でイロヱ。ワキ正、やや前に出たあたりから舞台を一回りし、大小前で小回りし左右打込と、舞台を廻るだけですが、なかなかに優美な雰囲気です。
地謡の序「それ神は人の敬うによって威を増し 人は神の加護によれり」が謡われ華やいだ雰囲気が感じられるところです。(この序の部分は宝生流などにはありません)

さらに、義経は神道を重んじ朝廷を敬っての忠勤、私心が無かった。人が讒言をしようとも神は正直の頭に宿る、と謡われ、シテは「義経を守り給え」の謡に合掌して心を込める形です。
続くクセは舞グセ。梶原景時の讒言に追われたものの、義経の真に頼朝と仲直りの話。衆徒もいたずらに義経を追って不忠をなし給うなと謡が進みます。
「そもそも景時が」と謡を聞き、足拍子を踏んで出るとサシて目付の方を向いて開き。「義経執節の勅を受け」と右へ廻って常座で小回り、目付に出て角取りすると舞台を廻って地ノ頭から大小前へと戻り、シカケ開きから足拍子を踏んで左右打込扇広げて上げ端になります。
シテの上げ羽から、義経の郎党は精鋭と説き、これを聞いて衆徒は誰一人義経を追おうとはしなかったと謡い舞います。
このつづき、もう一日明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

吉野静もう一日のつづき

クセの終わりは「賎やしづ」の拍不合の謡。シテは扇閉じつつ常座へ進み序ノ舞になります。宝生では中ノ舞でしたが、下掛りは序ノ舞の様子です。

この序ノ舞がまた良かった。
粟谷能夫さんの演能は、粟谷能の会や能楽座などで何度か拝見していますが、特にこうした舞の巧さは見事です。どこがどうと説明しにくいのですが、穏やかに優美に、力強さを秘めた舞で、ゆったりと始まった序ノ舞が徐々にテンポを上げていくのに沿うように、舞の中に引き込まれていく感じがします。

序ノ舞を舞い上げたシテは「賎やしづ。賎の苧環。繰り返し」と謡って上げ扇。
地謡が「昔を今になすよしもがな」と受け、さらに衆徒が静の舞の面白さに時を過ごしてしまったり、義経主従の武勇を恐れて思い止まったり、忠信の謀通りにことが進み、義経は無事に落ち延びたと謡います。

シテは替えの拍子を踏み、舞台を廻り打込開きと型を見せつつ舞い続け、「主君も今は忠信が 賢き謀りに難なく君をば落とし申し」の謡でワキへ胸サシして、忠信の活躍を認める形。最後は常座で扇をかざして回り、静も願いが叶って都へ帰ったと留の拍子を踏みました。

これまでこのブログでは宝生流の吉野静の演能について鑑賞記を書いていますが、前場のある形は初めてのため、少し詳しく観能記を書きました。
前後で見た方が面白い能だと思いますが、しかし中入前後の場面展開が早いため、シテもワキも装束替えなど大変忙しいのではないかと想像します。しかしそれだからこそ、後場の序ノ舞が活きてくる感じもします。
予想以上に面白い曲というのが感想でしたが、シテの技量によるところが大きいのかも知れません。
(76分:当日の上演時間を記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

舎利 金子敬一郎(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2010.05.23
 シテ 金子敬一郎、ツレ 塩津圭介
  ワキ 村瀬慧、アイ 吉住講
   大鼓 柿原光博、小鼓 森貴史
   太鼓 助川治、笛 栗林祐輔

4月の五雲会に続いての舎利。観る時は続くものです。というわけで舎利はこのブログ三度目の登場。最初が観世流松木崇俊さん(鑑賞記初日月リンク)、二度目が先日の宝生流和久壮太郎さんの演能です(鑑賞記初日月リンク

まず後見が一畳台を持ち出してきて正先に据え、舎利塔という設定で小さな台の上に火焔玉を載せたものを置きます。これは各流とも同じ形。

続いて名ノリ笛でワキの登場になります。無地熨斗目の着流し僧ですが、東京で観る機会の多い下掛り宝生流のワキと比べると、なんだか装束の色が濃いような感じです。
この日は三番ともワキが福王流という、東京ではあまり見かけない配役でして、謡の感じも随分と宝生とは違う印象です。
ワキは出雲の国、美保関の僧と名のり、常座で名乗った後に道行を謡います。この謡のうちにアイが登場してきて狂言座に控えます。能力頭巾に水衣、括り袴の能力姿です。

道行を謡い終えたワキは、都に着いたと語り、仏舎利を伝える泉涌寺へ参ろうと言います。「これなる寺を泉涌寺と申すげに候」と言いつつ、常座から正先方を見て寺をうかがう形です。寺中の人に案内を乞おうと言って少し前に出、狂言座の方を向いて「門前の人のわたり候か」と問いかけます。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

舎利のつづき

呼び掛けられたアイが「誰にてわたり候ぞ」と答えると、ワキは美保関から上った僧だが、大唐より渡った十六羅漢や仏舎利を拝ませて欲しいと申し出ます。しかしこれにアイは当寺の大法で拝ませることは出来ないと、一度は断ります。

しかし結局アイは仏舎利を拝ませることを認め、ワキを促すとアイとワキが入れ替わり、舞台へ進んだアイが「ざらざらざら」とワキ座側へ戸を開ける仕草。さらに「ざらざらざら」と今度はワキ正側に戸を開ける仕草をして、十六羅漢や仏舎利を拝めるようにします。

ワキは正中へ出てサシ謡。仏舎利を拝む有り難さを謡い、着座して合掌し「一心頂礼万徳円満釈迦如来」と拝します。
このワキの謡を受けて地謡の上歌となりますが、ここで幕が上がり、黒頭にほとんど黒一色といっていい色目の無地熨斗目、同様にほとんど黒色の水衣という怪しい装束のシテが登場してきます。

上歌の最後「何に例えん墨染めの」でワキは立ち上がってワキ座へと退き、シテは地謡の謡いっぱいにゆっくりと常座へ出ます。
常座に立ったシテの謡、佛在世の時は法の御声を聴きながら、なお今の世になっても執心により見仏の縁あると、何やら怪しい様子です。

ワキは現れ出でたシテに何者かと問いかけますが、シテはこの辺りに住む者だが御舎利を拝むためにやって来たと答えます。どう見ても怪しいと思うのですが、ワキは仏舎利を拝もうとするならば自分と同じ心の者だと謡い、二人同吟から地謡へと謡が展開していきます。この地謡のうちにシテは舞台を一回りし、常座に戻ります。

続いて地の序「それ仏法あれば世法あり 煩悩あれば菩提有り・・・」でシテは大小前に進んで下居、サシ・クセへと続いていきます。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

舎利さらにつづき

シテのサシ、地謡と掛け合いクセと謡がつづきます。この末法の世になって、仏法が東漸し唐土を経て日本に伝わり興隆にある証として、仏舎利がこの寺にあり目前に拝することが出来るのは尊いこと謡いますが、居グセでシテはじっと座したままです。

クセが終わるとワキの詞。あたりの景色が一変した風で突然の稲光の様子を告げます。これに対してシテは「今は何をか包むべき」と、自らが古の足疾鬼の霊であることを明かします。
シテ、ワキ掛け合いで、怪しい里人が面色変わり鬼となって舎利に執心を見せる様が謡われ、地謡の中ノリの「栴檀沈瑞香・・・」という切れの良い謡に続きます。

シテは二度目の「栴檀沈瑞香」で立ち上がると「上に立ち上る雲煙を立てて」と目付に出て上方を見回し、ワキ座へと廻るとさらに小回りして台へと寄って足拍子を踏みます。
観世の松木さんのときは、ここで橋掛りへ進んで一ノ松まで走るなどの型を見せましたが、今回は宝生の和久さんと同様に、台に一度上がってまた舞台に下りて回り、「舎利殿に飛び上がりくるくるくると」の謡そのままに、台と舞台を使い、最後は再び台上に上がって宝珠を取り、台を踏みつぶして幕へ走り込み、中入りとなりました。

シテが中入りする際に、狂言座に控えるアイの前を走りすぎると、アイは「くわばらくわばら、揺り直せ揺り直せ」と橋掛りで転がります。

舞台に入ったアイは舎利が無くなっていることに気付き、ワキを問いつめますが、ワキは怪しい里人が足疾鬼の霊だったという事情を語り、アイは正中に着座して上を見上げ、天井に穴が空いていると気付いてワキへの疑いを解きます。
アイはワキに疑ったことを謝り、舎利の謂われを語ります。一馳せ二千里を走るという足疾鬼が、釈迦入滅に際して牙舎利を持って逃げたため、仏弟子の阿難が進み出て韋駄天に託して無事に舎利を取り戻したという話です。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

舎利さらにさらにつづき

語り終えたアイは数珠を揉み「南無韋駄天」と幕の方を向いて祈り狂言座に下がります。

舞台は天上界という設定になりイロヱ出端で後シテが登場してきます。赤頭に紺地の法被、朱地の半切で左手に舎利を持っています。シテは台の前まで進みますが、このとき半幕でツレ韋駄天の姿が垣間見えます。
シテがこの姿を見ると囃子の運びが早くなり、シテはワキ座前に右袖を被いて隠れた形になります。これに合わせるように一度幕が下り、早笛の囃子になって韋駄天が走り出てきます。この半幕を使う形は観世、宝生とはことなりますが、なかなかに面白い。

ツレ韋駄天は走り出て名ノリ。天神の面を着けキビキビとした動きで、まさに俊足の神という風。シテに向かって「その牙舎利置いていけ」と開きながら謡います。
シテは立って「いや叶ふまじとよ」と振り返り、シテ・ツレが足拍子を踏み重ねて舞働となります。

舞働では橋掛りまで追い掛け、すれ違って舞台に戻り舞働を終えると、さらに大ノリの謡のうちに一畳台から追い落とされた態で、シテは台のワキ座側に下ります。
これをさらに韋駄天が追い掛ける型を見せるイロヱ。

さらに大ノリの謡にのって、シテ・ツレの争いが演じられ、一畳台に上がったツレが台の前に座したシテを打ち、シテが左手に持っていた珠を両手で頭上に差し上げて、これをツレが取って幕へ走り込みます。
シテは台に飛び上がり、後に降りて橋掛りを幕前まで進むと、飛び返って袖を被き立って留拍子。流儀によって微妙な違いもあり、楽しく拝見しました。
附祝言は千秋楽。
(62分:当日の上演時間を記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

冬のオペラ

突然何を書き始めたのか・・・という声が聞こえそうですが、北村薫さんの短編小説集「冬のオペラ」の話です。なぜここに出てくるかというと「舎利」つながり。

この短編集は、「三角の水」「蘭と韋駄天」そして短編集自体と同名の「冬のオペラ」という三つの短編から構成されています。自ら「名探偵」を名乗る巫弓彦が探偵役として登場し謎を解明するのですが、この独立したような、実は密接に繋がった三編の最後「冬のオペラ」に謡曲「舎利」が出てくるという、そういうわけです。
もちろん「蘭と韋駄天」という二番目の短編の題名にも、既に韋駄天の名が出てきていて、三編目の冒頭に前奏曲として謡曲「舎利」の一部が出てきても、すんなりと入ってくる感じです。

ネタバレになってしまうので、冬のオペラ自体の筋には触れませんが、なんだかちょっとやるせない、でも北村さんらしい優しさのある作品です。

北村さんといえば、落語家春桜亭円紫が探偵役を勤める「空飛ぶ馬」など円紫シリーズもあり、こちらは落語や古典から、芥川龍之介の文学論まで(「六の宮の姫君」のテーマになっています)様々な話題がちりばめられています。
早大一文の出身で高校の国語の教師をしていたという、北村さんの来歴に寄る部分も大きそうな気がしますが、この方の人柄なのか、どの作品にもなんとも言えない優しさを感じるところです。

私は「時と人」三部作の「ターン」から読み始め、すっかりファンになってしまいました。私としては同じシリーズの「リセット」が一番気に入っていますが、おーなり由子さんの絵が素敵な「月の砂漠をさばさばと」もお気に入りの一冊です。

ただし実を言うと、最初の一冊「ターン」は高村薫と北村薫を間違えて買ったというのが真相で、本との出会いはかくも偶然の産物かと我ながら思った次第。この間は、その高村薫さんの「レディ・ジョーカー」にはまり込んでおりました。

たまには能楽以外の話も良いかな・・・と、書いてみました。
なお北村薫さんは男性、高村薫さんは女性ですが、小説だけ読むと逆のようです。

五雲会を観に行く

昨日は水道橋の宝生能楽堂に五雲会を観に行って参りました。
週間予報では曇り時々雨くらいとなっていましたが、思いのほかの晴れで気温も上がりました。私、こんな暑そうな日は、必ず上着を持って行くことにしています。

夏場の能楽堂は概ね冷房がやや効きすぎの状態です。これってやむを得ないと思っています。観ている方はじっとしているだけですが、演じている方は体を動かしていますし、装束も着込んでの演技ですから、相当に暑いだろうと思います。
昔は夏場には演能が無く、あってもせいぜい袴能ということで装束は着けなかったそうです。私は、袴能というと、銕仙会で七世銕之亟、観世雅雪さんの演能を観たくらいしか記憶がありません。今回ふと気になって調べてみたら、私が拝見した袴能が雅雪さんの最後の舞台だったようですが、ともかく今では各能楽堂とも冷房完備なので、袴能もまず見かけませんね。

能の舞台は客席に張り出した形・・・というよりも舞台を観客席が取り囲んだ形が基本ですから、舞台だけに冷房をあてるというのは土台無理なのでしょう。演者を考えれば客席も冷やさざるを得ないということだろうと想像しています。

ともかくも、昨日は能四番と狂言二番の番組を楽しんで参りました。能四番は、水上優さんの養老、今井泰行さんの草紙洗、大友順さんの船橋、そして佐野弘宜さんの小鍛冶。狂言二番は小笠原匡さんの茶壺と野村扇丞さんの文蔵です。
それぞれの様子については後ほど、観能記にまとめますが、各曲ともなかなか面白いのに見所の入りが少ないのは残念ですね。五雲会は年間券を購入される方が多いようで、年末近くの会は満席になりますが、今頃は空いています。天候不順の時期でもあり、やむを得ないのですが、扇丞さんの文蔵の頃は正面席も空席が目だつ状況で、せっかくの熱演だったのに・・・と思った次第です。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

能楽師を先生と呼ぶ違和感

このブログには「拍手」というのが設置されていて、拍手とコメントをいただけるようになっています。しかしせっかくのコメントのチェックを、私、ずっとしておりませんで、3月・・・といっても、今年なのか去年なのかさえ明らかではないのですが、その頃に頂いたコメントを放置していたことに気付きました。

コメントは『能・狂言の鑑賞者である人々が能楽師を「先生」と呼称するのに抵抗があります。「先生」は弟子が師を呼ぶ場合の敬称だと思います。』というものです。
このコメントは、このブログの開始早々の頃の「観世流の会あれこれ」という記事にいただいたもので、たしかにそのブログ記事には、たくさん「先生」という記載があります。

コメントをいただいた方が、今もこのブログを読まれているのかどうか分かりませんが、この「先生」をめぐる呼び方の話は、なかなかに深いものを含んでおりまして、この機会に思うところを書いておこうか、と思い立ちました。

実はこの「能楽師を先生と呼ぶ違和感」の話題は、別のブログなどでも見かけたことがあります。たしかに同じ古典芸能であっても、歌舞伎役者を先生とは呼びませんし、文楽なども同様でしょう。「どうして能楽師は・・・」という疑問が出てくるのも理解できるところです。

しかし私自身そうであったように、能楽鑑賞をする人たちの多くが能楽師を先生と呼ぶことに疑問を感じていないことも、また事実です。この背景には、能楽の成り立ちや現在に至る公演のあり方、そもそも能楽という舞台芸術がいかにして伝承されてきたのかという歴史が隠れています。
明日はそのあたりから書いてみようと思います。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

能楽師を先生と呼ぶ違和感・・・承前

ここで一つ計算をしてみようかと思います。
何流でも良いのですが、とりあえず宝生流を例に取り上げてみます。座席数が分かって計算しやすいのと、宝生流では個人の会が極端に少ないので、入場料を取る公演となると流儀主催の会を中心に考えればよいという理由です。

宝生流には定例会として毎月の月並能と五雲会があります。いずれも学生席があったり、五雲会には年間一括の割引があったりなどしますが、そうした点を無視して、毎回、全席が一般観客によって満員になったと仮定します。
宝生能楽堂490席について計算すると、月並能の入場料は一回の公演あたり3,348千円、五雲会は2,450千円になります。一番の能についてシテ、ツレ、ワキ、アイ各1名、囃子方4名、地謡8名、後見2名が出演、狂言はシテ、アドなど3名が出演するとします。
月並能は能三番と狂言一番、五雲会は能四番と狂言二番の番組ですから、番数に応じて延べ人数を計算すると、月並は54名、五雲会は72名となります。延べ人数で入場料を平均的に分配すると、月並の出演は一人あたり58,737円、五雲会では31,410円と計算されます。

もちろん延べで計算していますから、一回の会で何番も出演すれば当人の取り分は多くなりますが、一方で、会館の運営経費、人件費、なにより装束や面にかかる費用などを考えると、一人あたりの取り分がどう考えてもたいした金額にならないことがおわかりいただけると思います。

実際の出演料はこうした平均値とは全く違った決め方をされているようですが、ともかくどう分けようとも、もともとが月々6百万円弱に過ぎないわけですから、これだけで宗家以下流儀の数多くの能楽師が芸を伝承し、家族を養っていくのはどう考えても無理だと言わざるを得ません。

歌舞伎のように昼の部・夜の部一日2回公演で一月ロングラン、しかも千席を超える劇場での公演というのとは、全く異なった興業形態だからです。これが「先生」の背景にあります。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

能楽師を先生と呼ぶ違和感・・・さらにつづき

能楽は世阿弥によって大成されたというのが定説です。それ以前にも長い歴史があったようですが、現在に繋がる芸術性の高い能をまとめ上げたのは、やはり世阿弥の力だったと言えましょう。
同時に、足利義満の庇護を受け、能が「武家の式楽」となっていくきっかけを作ったという意味でも、世阿弥の存在は大きいと思います。

能楽は室町幕府時代から戦国大名の時代を経て、江戸幕府に至る長期にわたって、武家の式楽として尊ばれました。一日に何番もの能を自ら演じたという豊臣秀吉を始め、多くの武将、大名が自ら能を演じ、これにならって臣下達も稽古をしたようです。さらに江戸時代になると一般民衆まで謡が教養として広がっていきました。

一方、能の公演自体は幕府の儀式や大名家での会などが主体で、勧進能のような特別な興業のみ、広く木戸銭を取って一般にも見せたようです。小屋掛けをし、常時公演を行った歌舞伎などとは一線を画する行き方です。

良くも悪しくも、こうした歴史が能を形作ってきました。連続興業を行わないことは一期一会の緊張感の高い演能を導き、能楽がより芸術性を高めていく原動力になったと言えましょう。しかしこれは同時に、演能だけでは生活できないことを意味し、武家の庇護が存在の前提になってしまったわけです。

このため江戸末期の幕藩体制崩壊によって、能楽は存亡の危機に立たされました。能楽を愛好する華族や資産家などの庇護もあって、明治期以降も能楽は存続することが出来ましたが、江戸時代までのように俸禄をもらって生活することは不可能となってしまいました。そこで、従来から行っていた素人に謡などの稽古をつけることを生計の柱とするようになっていった、ということのようです。
茶道や華道と同じように、お弟子さんを取ることによって成り立つ部分を生計の基礎に置いた・・・つまり先生になったということです。
この項、さらにつづきます・・・
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

能楽師を先生と呼ぶ違和感・・・さらにさらにつづき

先に書いたように、能楽師は役者と教師の両面を持った存在ということです。このあたりが歌舞伎役者とは決定的に違います。芸の伝承のためにプロを目指す弟子を取るということなら、歌舞伎やその他の芸能にもありますが、あくまでも素人の弟子に教えるわけですから、お茶やお花の先生と似たような立場ということになります。・・・だから「先生」なんですね。

能楽の観客は、そのかなりの部分を「お弟子さん」が占めています。国立能楽堂が企画する公演などはさほどでもありませんが、流儀の定例会や、能楽師の主催の会などは、素人のお弟子さん達がチケットの安定的な受け皿となっています。このため流儀の会だと、自分の先生が出るところだけを見て帰ってしまう方も少なくありません。

お弟子さんは常々、自分の先生から謡や仕舞の稽古を受けて月謝を支払いますが、年に一、二度は発表会があり、謡や仕舞、舞囃子や、ことによると能を演じたりといったことになります。この際、特別に御礼を差し上げるわけで、数十万から数百万といった金額も耳にしますが、金額の多寡はともかくとして、こうしたものが「能楽」を運営していくうえでの重要な基盤になっています。
言ってみれば、私のようなお弟子さんでない一観客が、今のようなチケット代で質の高い演技を観ることができるのも、多数のお弟子さんのお陰ということになりますね。

またそうした発表会では、自分の習っている先生以外にも同流、同系統の能楽師が出演することが良くありますが、こうした能楽師も弟子の目から見ればやはり「先生」でしょう。広がって能楽師全般を「先生」と呼んでしまう感覚もおわかりいただけると思います。

私自身も学生時代ですが、四年間月謝を払って習っていましたし、そういう意味で「お弟子さん」でした。当然ながら師匠は「先生」ですし、先生の主催する会に所属する他の能楽師も「先生」でした。ブログを書いていても、能楽師というとついつい「先生」と記載してしまうわけです。
もう一日、この項つづけます
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

関根祥人さんの訃報

本日は「能楽師を先生と呼ぶ違和感」のつづきを書いた後、ネットを何気なく検索していたところ「関根祥人さんの訃報」を発見。あまりのことにしばらくぼーっとしてしまいました。
何かの間違いでは、と新聞社のページなどあちこち確認しましたが、間違いではないようです。

このブログでは、各流に渡って様々な能楽師の方を取り上げてきましたが、なんとなくおわかりいただけると思いますが、私の最も気になっている能楽師が関根祥人さんでした。
このブログを始める前ですが、閑能会で巴を拝見した帰り、観世能楽堂からの夜道を歩きながら涙が流れて仕方ないという経験をしました。何時拝見しても何かしら心に残るものを感じた方でした。

本当に惜しい・・・

今日はかつて親しくしていた方の葬儀に参列してきましたが、行年64歳で急逝されたということで、まだまだお若いのに惜しいと多くの参列者が口にしていました。
実は、何年かぶりでこの方にお目にかかろうと思い立ち、先々週、アポイントを取ってもらったのですが、それがなんと今日の、しかもちょうど葬儀の開始時刻でして、深く感じるところがあった次第です。

そういう思いで過ごした今日の最後に、50歳というあまりに早い関根さんの逝去を聞き、なんとも不思議な思いを感じています。
心よりご冥福をお祈りします・・・

能楽師を先生と呼ぶ違和感・・・もう一日つづき

さて私自身は、ブログを続けているうちにこの問題に引っかかりまして、個々の能楽師についてはブログの表記上、原則として「○○さん」と書くことにしました。
就職して以降何十年にもなり、既に「お弟子さん」であった時代は遠い昔のことになってしまいました。

能を観るについても「お弟子さん」であるうちは、まず自分の先生、同門の先生方の会を優先的に観に行くことになります。私はたまたま何年か前に、稽古していた観世流ではなく金春流の会を観に行ったのがきっかけで、その後は五流の、かつ様々な系統の能楽師の演技を観に行くようになりました。もはや「お弟子さん」ではないことを認識したのは、ようやくその頃になってからのことです。

そしてブログの表記も直すようにしたのですが、今でも集合的に能楽師を指す時に「先生方」といった表記を使っています。これまで書いてきたように、能楽師は職業的「教師」でもあると考えれば、さほど変な表記ではないと思います。また、同様に職業的教師と考えれば、個人名に「先生」をつけても無茶苦茶な話ではなかろうと思います。自分の師でなくとも、学校の先生は「先生」と呼びますよね。

ただ、私の場合は「お弟子さんではなく全くの一観客」であることを、自分自身意識するためにも、個人名に先生をつけるのをやめているという次第です。「お弟子さん」を離れることによって、ブログを書いていても自分の好きなもの、好きなことに広がっていける良さがあります。ですが同時に、自分の観能歴の最初に稽古をした期間があったことで、長く観能を続けてこられた基礎のようなものを得られたとも思っています。

とりとめもなく思うところを書いてみましたが、多くの観客が能楽師を「先生」と呼ぶ背景が少し整理されたでしょうか。こういう能楽のあり方が良いのか悪いのか、そういう点は私も特にまとまった考えを持っておりません。ただ、今の形態にはそれなりの必然性があると考えています。・・・この項終わり。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

ふたたび能楽師について

能楽師を先生と呼ぶ違和感の話を延々と一週間も書いてしまいましたが、とりあえず自分なりにまとまりをつけたか、と思っています。
が、珍しくコメントを複数いただいたこともあり、また関根祥人さんの訃報からいささか思うところもあったため、もう一日だけ、この話題について書いてみようと思います。

お二方からコメントをいただきましたが、いずれも「先生」というのは自分の師という意味にこだわらなくても良いという考えをベースにされているようです。
この点は、実は私も同感なのです。「中国では・・・」というお話も書いていただきましたが、ハングルでも最もよく使われる尊称は「先生(ソンセン)」と習いました。とりあえず相手の肩書きが分からない時はソンセンと呼んでおくといった話でした。

私自身の気持ちとしても、とりたてて「先生=自分の師」という意識はないので、何年か前、初めてこの話題を耳にした時は「別にこだわる話ではないでしょう」と結論付けました。しかしながら、あらためて考えてみると、多くの観客が演者を「先生」と呼ぶ演劇というのは能楽以外に思いつきません。それはどういうことなのか気になりまして、私なりに考えてみた、という次第です。

碧水さんが書いておられるように、能楽師自身が「先生」と呼ばれることを求めている側面もあるのかもしれません。「師」という職業が最近は大変多くなってきまして、不思議な感じがしています。「士」だと男の意味が強いからなんですかね。言葉狩りのようなことも、妙に増えている感じがするのですが、なんのせいなのか・・・

かつて宝生流の高橋亘さんがコメントで、お祖父様で人間国宝でもあった高橋進さんが「能楽師なんて嫌な呼び名だね。能役者だよ。お客様に気に入られる役者にならなきゃ」と常々おっしゃっていたという話を紹介して下さいました。(高橋亘さんのコメント
なんだか、一つの答えがここにあるような気がします。

さて関根祥人さんですが、かつて祥六さん、祥人さん親子をとりあげた「能楽師」という映画がありました。私は見ておりませんが、なんとしても見たいと思い探したところDVDになっていることが分かりました。商品の到着を待っているところです。祥人さんの逝去は何度思い出しても残念でなりませんが、逝った方は嘆いても戻らず、むしろかつて拝見した演能が強烈に思い出として刻み込まれたように思います。ご冥福をお祈りしつつ、これまでこのブログで取り上げた一覧を記載します。
 H18.09.20 巻絹月リンク
 H19.03.04 須磨源氏月リンク
 H19.09.08 邯鄲月リンク
 H19.12.15 砧月リンク
 H20.10.12 卒都婆小町月リンク
 H21.07.18 道成寺月リンク
 H21.09.12 鵺月リンク
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

養老 水上優(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2010.06.19
 シテ 水上優、ツレ 辰巳大二郎
  ワキ 則久英志、アイ 小笠原匡
   大鼓 飯島六之佐、小鼓 森澤勇司
   太鼓 麦谷暁夫、笛 小野寺竜一

このブログでは、昨年9月の閑能会別会で観た高梨良一さんの鑑賞記を書いています(鑑賞記初日月リンク)。あのときは水波之伝の小書が付いていまして、いかにも観世流らしい華やかな舞台でした。今回は宝生流の小書無しで、いささか趣が異なるところです。

一同着座すると真ノ次第が奏されてワキの一行が登場してきます。
ワキ則久さんを先頭に、ワキツレ館田さんと御厨さんが登場、白大口に狩衣の大臣姿で、型通りに登場すると、舞台上で向き合って三遍返しの次第。雄略天皇に仕える臣下と名乗った後、道行を謡って美濃の国養老の滝にやって来た形になります。

この養老伝説は、古くは続日本紀巻七に元正天皇の養老改元の詔が見られ、これを起源とするようです。「朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。」とあって、天皇ご自身が美濃の国多度山の泉に行かれたことが述べられています。
ご自身その水によって肌が滑らかになり痛いところが治ったとされ、この泉の水を飲む者は白髪が黒くなり、禿頭に髪が再び生え、また見えぬ眼が見えるようになるなど、病も悉く平癒する泉であるとあります。
この泉にちなんで、元亀三年を養老と改元された由が記されていますが、ここでは孝行息子の話は出てきません。その話は十訓抄に出てくるのですが、なにはともあれ養老元年、元正天皇の御代と、時代がはっきりした話です。

しかし各流ともなぜか「雄略天皇」の御代としており、これは能独特の設定なのでしょうね。聞くところでは、金剛流の現行本には「当今に」とあるようで時代が定かでありません。しかしこれも明治初年の金剛唯一編の謡本には「雄略天皇」ありますので、後に改作されたのだろうと思います。
ともかくもつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

養老のつづき

ワキの着きゼリフがあり、ワキツレ梅村さんが「然るべう候」と答えて、一同ワキ座へ向かい着座します。脇能らしいキビキビした舞台展開です。

代わって囃子は真ノ一声となり、シテ、ツレの登場となります。ゆったりした囃子で先にツレ辰巳大二郎さんの登場。無地熨斗目に青鼠のような色の水衣、白大口を着けています。先に鑑賞記を書いた高梨さんのときは、水波之伝の小書付のため、負柴に桶を持っていましたが、今回は右手に桶のみを持っています。持ち物無しで出る形も多いように思います。

後から小格子厚板に水衣、白大口に右手に杖を持ったシテが登場してきます。一ノ松と三ノ松に立って向かい合い。一セイを謡います。一セイに「美濃の御山の松陰に、なお澄む水の緑かな」とあり、養老の泉が謡われています。ツレの二の句から同吟となり「行くこと易き心かな」と謡って舞台へと進みます。ツレが正中に、シテが常座に出てシテのサシ「故人眠り早く覚めて夢は六十の花に過ぎ」から、二人の謡が続きます。

小謡でも謡われる上歌「長生の家にこそ・・・」をシテ、ツレが謡い、その終わりに立ち位置を換えて、シテが正中へ、ツレが目付へと進みます。ワキは立ち上がり、二人の上歌が終わると「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候」と問いかけます。ワキは養老の滝を親子が見つけた話を知っており、その親子かと問いかける訳です。
二人がその通りと答えると、ワキが帝よりの勅使であると名乗ります。

この曲では一セイから主題となる養老の泉のことが謡われ、老についても明るく詞章に織り込まれています。老人が登場すると、多くは老境の諦観のような展開になりますが、この曲はまさに「養老」の名の通りの作能がされているようです。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

養老さらにつづき

ワキの勅使がシテに泉を養老と名付けた謂われを詳しく述べるようにと促し、これを受けて、シテ・ツレ掛け合いの形で、泉を見つけた息子が家に水を汲んで帰り、父母に飲ませた子細が語られます。

ワキはその泉のありかを尋ね、シテが「御覧候へこの滝壺の少し此方の岩間より、出で来る水の泉なり」と正中から階の先を見やる形になります。ちょうどこれに合わせるようにワキはワキ座から階の先の方を見、ツレは目付から階の先の方を見やる形になり、三人の視線の先に滝が現れる訳ですが、この日の舞台はまさに三人の視線が一点に集まった感じで、面白く拝見しました。

シテ、ワキの掛け合いから、地謡がこれを受けて上歌「老をだに養はば」と謡い出し、ツレが地謡前に下がり、ワキも下がってワキ座に座すところ、シテは正中から笛座前へと進み、大小前から常座へと地謡いっぱいに動きます。

地のクリでシテは常座から正中へと進んで着座し、シテのサシ謡になります。本来の脇能の形式では次はクセになるところですが、地謡、シテの掛け合いから、地の下歌、上歌と続いていきます。下歌「いざや水を結ばん」のところで、ふと気付くとシテが地謡前笛座に近いあたりに座したツレの方を向いています。ああ「結ばん」と呼び掛ける相手はツレの男だったのかとあらためて思った次第です。
これは他流ではどうだったでしょうねぇ。あまりこの場面を意識したことはなかったのですが、今度は気を付けて観てみましょう。

地の下歌「曲水に浮かむ鸚鵡は」でシテが杖を取って立ち上がり、常座へと進み「月を汲もうよ」と遠く幕方を見やる形になります。宝生流ですから月の出を東に見る形でしょうか。観世だと方角が逆になるので西の月になってしまいますね。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

 | HOME | 

カレンダー

« | 2010-06 | »
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。