能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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お休みをしておりましたが…

前回記載しました通り、8月初に母を亡くしまして、以来20日以上更新をお休みしました。
高齢でしたし、三年ほど前に入退院を繰り返した時期もあったことから、ある程度の覚悟は出来ていたつもりですが、それでもやはり、いざとなると慌ただしくもあり、寂しくもありで、なんとなく落ち着かない日々を過ごしています。

また、今年は本当に例年にない高温が続いていて、一体いつまで夏の盛りが続くのかという感じです。
なんとも不思議な気分ですが、そうは言っても9月に入り月も変わりましたので、また少しずつ観能記などを書いていきたいと思います。

まだ7月の梅若会定式能、狂言「貰聟」の観能記が残っていますので、明日からこれを書いてみようと思っています。
またこの20日ほどの間に、たまたま縁あって多田富雄さんの書かれた「寡黙なる巨人」を読む機会を持ちました。昨年暮に、水戸の芸術館で多田さんの作品である花供養を観て鑑賞記を書きましたが、この能が強く思い出された次第です。
そんな話も追々書いてみようと思っています。
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貰聟 野村万之介(梅若会定式能)

和泉流 梅若能楽学院 2010.07.18
 シテ 野村万之介
  アド 石田幸雄 高野和憲

毎度毎度、同じようなことを書いてしまうのですが、シテ、アドの表記は番組表の上段に万之介さん、下段右に石田さん、左に高野さんが書いてあったのでその順で記載したものです。
この貰聟は一昨年の一月に茂山家の公演を観て鑑賞記を書いています。(鑑賞記初日月リンク)その際にも、一般に「○○聟」という狂言は聟がシテのはずだが・・・と書きました。古い狂言の稽古本などを見てもその様に記載されているのですが、番組表を見ると舅役の役者がシテとして記載されることが多いようです。
配役からすると当然ながら舅を年配の役者が演じることになるため、聟をシテの位置に書くのは抵抗があるのかも知れません。というわけで、今回も万之介さんが舅、石田さんが聟、高野さんが女という配役です。

舞台にはまず長上下の舅と女が登場してきます。舅は笛座前に着座し、女はその舞台中央寄りに少し下がって着座して聟の登場を待つ形です。
すると橋掛りから、酔っ払って機嫌良くなった様子で、ふらふらと千鳥足で何やら謡いながら聟が登場してきます。
「いやというものを大盃で三つ・・・」などと言って思い出したように大笑いしつつ常座まで出ます。

段熨斗目を壺折にしていますが、薄い萌黄のような色と白との段になっています。茂山さんのときの鑑賞記に少し詳しく書いていますが、茂山家ではこの曲に限り紅白段とするのだそうです。野村家では紅白の段熨斗目を用いる曲はないそうで、茂山家の形は大変珍しいとのこと。
また茂山さんの形では、酔った聟はご馳走になった先で何やら気に入らないことがあった様子で、「苦々しいことじゃ」などと千鳥足ながら不機嫌な様子での登場でした。
さてこのつづきはまた明日に
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貰聟のつづき

機嫌良く帰ってきた風の聟ですが、常座あたりへ来ると「いや何彼と言ううちに戻った。ああまた見たむない女共の面を見ずばなるまい」と一転して不機嫌な風になり、妻を呼び出します。

立ち上がってワキ座に出た女と、これからまた酒を呑むという聟とが口論になり、聟は暇(イトマ)をやるから出て行けと言い放します。女は暇の印がないと困るので、チリを結んででも印にしてくれと言います。
すると聟はワキ正でしゃがみ込んで何やら拾って結ぶ様子を見せ、チリを結んだと女に渡します。塵というと今の語感ではもっと小さいもので、結ぶことが出来る程度のものはゴミと言う感じがしますが、時代による、あるいは地域による違いかも知れません。

女は、塵を結んでというのはものの例えでちゃんとした印を寄越せと怒ります。すると聟がそれならばと腰の物を渡し、小さ刀を受け取った女はこれは本気かと、今度は許して欲しいと言いますが、聟が追い立ててしまいます。
女が後見座にクツロギ、聟は「常々きゃつの面が見たむない見たむないと思うたれども、かな法師が母じゃと思うて了簡をしておいた」などと言い、女を追い出して「よいやまいばれ」をしたので、もう少しどこかへ行って酒を呑んでこようなどと独白して、「ざざんざ」を謡いつつ退場します。

茂山さんの時と基本的な流れは同じなのですが、途中まで機嫌良く帰ってきたり、かな法師(子供)のことを女ではなく聟が口にしたり、また女を追い出して内に入る茂山さんの形に対して、外に呑みに行くなど細かな点に違いがあります。こんなところを比較しながら見るのも面白いところです。

また「ざざんざ」は「ざざんざ 浜松の音は ざざんざ」という謡ですが、野村家の狂言では良く耳にするように思います。たしか樋の酒でも酔った二人が謡う中にあったようです。万作家の若手の会が「ざざん座」というのも、この謡にちなんでのことかも知れません。

さて聟が退場すると、女が立ち上がって常座に出、今はああ言っていても自分がいなければ何ともならないだろうに、と言いますが、さて行くところもないので親里へ行こうと述べます。そして、自分もあの男に飽き果てたので、暇をくれたのは幸いだなどと言いながら舞台を廻りますがが、常座に戻ると、後でかな法師が尋ねるだろうと言って泣く形になります。
さてこのつづきはまた明日に
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貰聟さらにつづき

さて女は常座から案内を乞い、立ち上がった舅がワキ座に出て「いや、おごうの声じゃが、えいおごう」と声をかけます。女が泣き、どうしたのかと舅が聞くと、女は「また我男が酒に酔うて暇をくれてござる」と答え、舅が「またか」と声を出します。

この曲、この女と舅のやり取りを聞くまでは、こうした暇をやるやらぬの騒ぎが度々繰り返されてきたことが分かりません。ここで初めて、なんだまたまたの騒動なのかと分かるわけで、作劇の面白いところです。

舅は度々のことでもあり、了簡して帰るようにと諭しますが、女はこの度は暇の印に腰の物をくれたのでこれまでとは違うと言います。親も一腰には驚いた様子ですが、とは言え昔から七度までは戻れというなどと、なんとか娘を戻そうとします。しかし女は、七度や十度のことではなく、も早堪忍袋が切れたので戻るのは嫌だと言いつのります。淵川に身を投げるのといったやり取りの後、それでは奥へ引っ込んで出てくるなと舅が言い、二人は冒頭と同じ形で笛座前に着座します。

今度は狂言袴に肩衣をつけた常の形、いささか意気消沈した様子で聟が登場してきます。常座でひとしきり、酔いが覚めて妻がいないのに気付いたが、妻がいないと世帯のことがどうしようもない。またかな法師が尋ねてなんともならない、と困った様子で独白し、自ら迎えに行こうと言いつつ舞台を廻って舅の家にやってきた形になります。

案内を乞うと、舅がワキ座に着座し、聟は正中に出て着座してやりとりとなります。おごうを戻して欲しい、来ていないなどとのやり取りになるうちに、女が立って一ノ松あたりに出て話を伺う様子。聟が「かな法師が尋ねましてどうもなりませぬ」と言うと、女が思わず「おおかな法師が尋ねましょうとも」と大声を出してしまいます。

それから女は舅のそばに寄り、ワキ座側から袖を引いたりしますが、そのうちに聟と女が顔を合わせてしまい、一緒に帰ろうとします。
これに、舅が女を引き戻して叱りますが、戻さぬと言う聟と組合になってしまい、聟と女が舅を打ち倒して退場。舅が「来年から祭には呼ばぬぞよ」と言って留。
茂山家と基本は同じですが、微妙な違いが面白いところです。一般的に大藏流よりも和泉流の方が細かいやり取りがあるようで、時間もやや長くかかるように思います。
(35分:当日の上演時間を記しておきます)
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足利能を観に行く

昨晩は栃木県足利市に「足利能」を観に行ってきました。
7月の梅若会定式能以来の観能ですが、実のところまだ亡母の四十九日も済んでいないので、行くかどうか迷ったところです。が、7月のうちにチケットを入手しておいたものでもあり、百萬、海士と母子の情愛を描いた演目であるのもまた何かの縁かもしれないと思い、出かけることにしました。

足利市は隣の県ですが訪れたのは今回が初めて。北関東自動車道が東北道に接続したお陰で、行ってみようかという気になりましたが、小山や宇都宮などと違い、茨城からはいささか縁遠い感じの町です。街の中を渡良瀬川が流れる緑豊かな町で、足利氏ゆかりの地。
本当は朝から出かけて史跡などを見れば良かったのですが、午前中は所用があり、足利に着いたのが開場の一時間前。それから暑い日差しの中を、有名な足利学校だけでも見てみようと歩き回ったところ、熱中症になりそうな暑さ。くたくたになって会場に戻りました。

足利能は今年が26回目だそうで、足利氏二代目の足利義兼が建てた持仏堂が基となっている鑁阿寺(ばんなじ)を会場に、薪能として開催されていたそうです。
今回はその鑁阿寺が工事中のため、足利市民プラザでの開催ということでしたが、鑁阿寺が会場なら足利学校も直ぐそばですから史跡めぐりには好都合だったかも知れません。

足利市についてもちょっと書いておきたいように思うのですが、それはいずれ後々にということにして、能の話を先に書いておこうと思います。
今回は最初に書いたように、能が百萬と海士の二番。梅若万三郎さんと中村裕さんがそれぞれシテを勤めました。また狂言は野村万蔵さん、扇丞さんなどによる墨塗です。能はこうした地方公演には良くあることですが、いささか端折っての上演でした。しかし以前にも書いたように、案外その方が曲の緊張感が高まって面白くもあります。今回もホールでの公演という割には良い演能だったと感じています。
それぞれについては明日に続きます
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百萬 梅若万三郎(足利能)

観世流 足利市民プラザ 2010.09.11
 シテ 梅若万三郎、子方 丸山豊
  ワキ 村瀬提、アイ 野村万蔵
   大鼓 大倉慶之助、小鼓 森貴史
   太鼓 金春國和、笛 藤田貴寛

一同上下での登場。地謡が10人というのはあまり見かけないのですが、会場が広いのでこれもありかというところ。
次第の囃子が奏されると直ぐに子方とワキが登場してきます。ワキは段熨斗目に素袍上下、着流し僧の形にする場合もありますが、ここは里人といった様子。

さてこの百萬という曲、このブログでは平成18年に一度、宝生流東川光夫さんの演能について鑑賞記を書いています。人気曲の一つで上演も多いのですが、その後は機会がなく4年ぶりになりますね。(鑑賞記初日月リンク
それ以前も、宝生、喜多、金春と観ていますが、観世流の百萬は本当に久しぶりです。

以前に書いたように、観阿弥の得意とした嵯峨物狂をもとに世阿弥が改作した曲で、当時実在の人物だった女曲舞の百萬を主人公に据えています。

さて舞台に入った子方とワキは正中へと進み、ワキの次第から名乗りとなります。
和州三吉野の者と名乗ったワキは、南西大寺あたりで拾った子供を連れ、嵯峨の大念仏にやってきたと述べます。子方をワキ座に導くと「門前の人のわたり候か」と橋掛りに向かって声をかけ、アイの門前の男が登場して問答となります。

幼い人に何か見せてやりたいというワキの求めに、アイは百萬という女物狂いを呼び出そうと言って念仏の拍子を取ります。
ワキと子方がワキ座に退き、アイは大小前で念仏を始めますが、さてこのつづきはまた明日に
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百萬のつづき

アイは大小前で扇を広げて、翁のように口元を隠すような形にし「南無釈迦牟尼仏 南無釈迦 釈迦 釈迦」と謡い出し、地謡がつけて、さらにアイが謡い舞う形になります。

この内にシテの出となり、箔を腰巻にし濃い緑の長絹に烏帽子を着け、右手に笹を持ったシテが登場してきます。
万三郎さんのシテを拝見するのは一昨年以来ですが、何ともいえず典雅な雰囲気を感じます。品なんでしょうかねぇ。

さてシテは、調子に乗って念仏の拍子を取っているアイに近づくと、持っている笹でアイを打ちます。アイは驚いて「蜂が刺いた」とワキ座に逃げ、シテは「あら悪の念仏の拍子や候。わらわ音頭を取り候べし」と言って、常座で念仏の音頭を取り始めます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と地謡と掛け合いの謡となり、常座から二三足出たシテはワキ正で「雲晴れねども西へ行く」と振り返り、さらに左袖を返して左右、打込開きと謡に合わせて型を見せつつ、角に出て、太鼓が入っての大ノリの謡で「力車に七車」地謡「積むとも尽きじ」シテ「重くとも 引けやえいさらえいさと」と、いわゆる車ノ段の謡い舞いになります。

「頼めや頼め南無阿弥陀仏」と車ノ段が結びになり、ノリが平ノリに代わって「げにや世々毎の」と笹ノ段に移ります。
仕舞でもよく取り上げられる部分ですが、「なほ三界の首枷かや 牛の車の永久に」と正中に出て両手を上げて足拍子を踏みます。
この型、肘を曲げてあげた両手をやや頭の方に寄せ、首枷を象徴するように見せるのが普通ですが、万三郎さんは両手をやや開いてあげたのみで、首枷のような形にはしませんでした。このあたりは万三郎さんの美意識なのかもしれません。

笹ノ段は見せ場が続き、詞章に合わせての舞が面白いところ。「裾を結びて肩にかけ」と笹を上げて肩に担い、開いて拍子を踏むと「南無阿弥陀仏と信心を致すも我が子に逢わんためなり」と笹を両手に持って正先へ出、下居して笹を置き両手を合わせ合掌の形で結びます。
さてこのつづきはまた明日に
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百萬さらにつづき

笹ノ段で合掌したシテは、我が子に逢わせて狂気を留めさせて欲しいと祈ります。
このとき子方がワキに向かって声をかけます。ワキが何事かと問うと、子方はシテの物狂いが自分の母と気付いたので、ワキに問うてくれるようにと頼みます。
この子方の詞のうちにシテは合掌を解いて再び笹を持ち、立ち上がると常座へと進みます。

思いもかけないことを聞いたワキは、直ぐに問うてみようと言い、立ち上がると、シテに里はいずこかと問いかけます。
ここからワキとシテのやり取りとなり、シテは自分は奈良の都に住む百萬という者だが、夫に死に別れ、子供に生き別れてしまったために思いが乱れてしまったと語ります。

ワキはシテに、今も子があれば嬉しいだろうかと問いかけます。シテは言うもでもないことで、こうして人に面をさらすのも、もしかしてわが子に廻り逢うだろうかと思うからだと答えます。
ワキは「まこと信心私なくは、かほど群集のその中に などかは廻り逢わざらん」とシテを力づけ、この詞に喜んだシテが、法楽の舞を舞うので囃して欲しいと述べて、地の次第となります。
次第は「我が子に鸚鵡の袖なれや 親子鸚鵡の袖なれや 百萬が舞を見給え」

これを受けてシテの謡からイロヱ、さらにシテクリ、サシと続くのですが、この日は地次第で開く型を取ったシテがそのまま大小前に進み、地謡はクセの謡へ。この間のイロヱなどは省略されました。

初日のブログに書いたように、地方での公演は一部省略されての上演が多いのですが、これはこれで案外面白いものです。
このつづきはまた明日に
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百萬さらにさらにつづき

「奈良坂の 児手柏の二面 とにもかくにも侫人の」と謡い出されるクセは、この百萬という曲の中心をなす部分です。実在の百萬は曲舞の名手と言われていますが、その高名な百萬の曲舞の物真似を得意としたのが観阿弥だった訳で、世阿弥の風姿花伝にも「亡父の名を得し盛り、静が舞の能、嵯峨の大念仏の女物狂の物まね、ことにことに得たりし風体なれば、天下の褒美・名望を得しこと、世もて隠れなし」とあります。

シテは「思い重なる年なみの流るる月の影惜しき」と正中へ出て、角の方に月を見る形。舞台を廻って「何地とも知らず失せにけり」とシオリ、シオル形のままに常座から「奈良の都を立ち出でて」と橋掛りへ進みます。
三ノ松で向き直り、橋掛りを戻ると一ノ松あたりに進み「玉水は名のみして 影うつす面影」と水を見込む形になります。

「かくて月日を送る身の」で舞台に戻り、舞台上での舞が続きます。シテの上げ端が二度ある二段クセの形で、クセの最後は「親子鸚鵡の袖なれや 百萬が舞を見給え」と大小前左右の後、ワキを見込む形です。
申楽談義には「曲舞は、次第にて舞い初めて、次第にて止むるなり」とありますが、クセ前の地次第の詞章「親子鸚鵡の袖なれや 百萬が舞を見給え」がクセの終わりにもう一度出てくるわけです。
杜若のクセなども同じ形で、地次第、シテの一セイ、イロヱ、クリ、サシ、そしてクセと続きます。古い形を残しているということですね。

さて地謡があらためて「あら我が子戀しや」と謡ってシテの立廻です。常座から舞台を三角に回って常座に戻るだけですが、シテの子を探す思いを形に見せる風。
シテはこんなに人の多い中になぜ我が子がいないのかとシオリ、南無釈迦牟尼仏と合掌します。地謡が受けて謡うなか、シテは舞台を廻りワキ正に出るとタラタラと下がって下居して合掌の形になります。

ここでワキが立ち上がり子方を立たせてシテに差し向け、親子の再会となるわけです。キリ地で子方を送り出したシテが常座まで見送り、留拍子を踏んで終曲となりました。
短く凝縮された時間の中に細やかな感性が感じられた一曲でした。
(52分:当日の上演時間を記しておきます)
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墨塗 野村万蔵(足利能)

和泉流 足利市民プラザ 2010.09.11
 シテ 野村万蔵
  アド 吉住講 野村扇丞

舞台上で本当に顔に墨を塗ってしまうという、珍しい狂言の一曲。
なかなかに楽しめます。

舞台にはまずシテの大名とアドの太郎冠者が登場してきます。段熨斗目に素袍上下、大名烏帽子を着けたシテは正先へ出ると「はるか遠国の大名」と名乗り、長く在京したが訴訟が叶い安堵の御教書をいただき、新知も拝領した。さらにお暇をいただいたので国許に帰ることにしたと述べ、太郎冠者を呼び出します。

この出だしは、萩大名や入間川、鬼瓦などと同じで、大名と太郎冠者を登場させ場面を設定する部分です。登場した大名主従が、長期にわたった都での訴訟を終えて国許に帰ることになり、さてそれではということで様々な事件が起こるという次第。
この曲では、大名が都で親しくしていた、というよりも通っていた女のところへ別れを告げに行っての騒動がテーマになっています。

万蔵さんの大名は、訴訟が叶った喜びを表すように力強い名乗りで太郎冠者を呼び出した後、「さて、か、かの方へは、暇乞いに行ったものであろうか」と太郎冠者に問いかけます。「彼の方」をどもるのが可愛げを感じるところで、なにやら恥じらう風情になります。

吉住さん演じる太郎冠者は、そのあたりを十分心得た態で「これはお出で為されずばなりますまい」と大名に勧め、この言葉でがぜん元気良くなった大名は、それではと太郎冠者を伴い、二人舞台を廻って女のもとへと向かいます。
さてこのつづきはまた明日に
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墨塗のつづき

舞台を廻って女の家にやってきた風で、シテ大名は常座で「いや何彼と言う内にこれじゃ」と言い、自分はそのまま奥に通るのでその由を女に言うように、と太郎冠者に言いつけてワキ座へと進み、床几にかかります。

残された太郎冠者が案内を乞うと、小アド女が登場してきます。
扇丞さんが勤める女は朱の小袖に美男鬘で登場すると、聞き慣れた声がすると言って「えい太郎冠者珍しや」と太郎冠者に気付きます。

太郎冠者が主人の大名も来ている旨を告げ、喜んだ女が角へと出て大名と話す形になります。大名は別れを告げに来たのですが、自分からは言いだし難く、太郎冠者に子細を語るように頼みます。しかし太郎冠者に断られ、女には急かされて、暇乞いに来たと語ります。この際、「い、い、いとま乞いのために」とまたまたどもる風。

さて女の方は「こなたが御国許へお下りなされて わらわは後でなんとしましょうぞいのう」などと困り果てたようなことを言いつつ、後見座に向かい鬢水入を持ち出してきます。そしてもとのように角に着座すると水入の水を、さかんに目のあたりにつけて泣く真似をします。

この様子に大名は「それ見よ あれじゃによって そち言うてくれというに」と、太郎冠者に恨みがましく言いますが、太郎冠者もどうすることもできず、大名は女をなだめようと、また都にお礼に上ってこようから、それまでは文の便りもしようなどと言います。
このあたりの大名の慌て振りが面白いところ。しかし女はさらにすねた様子で、その間も頻りに水入の水を目のあたりにつけて泣く真似をしています。

この様子に大名はさらに言葉をかけつつ、自分も泣いてしまうという次第です。
さてこのつづきはまた明日に
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墨塗さらにつづき

さて大名と女が、互いに泣き合っているうちに、太郎冠者はその騒ぎを避けるように立ち上がって橋掛りへと向かいます。
すると橋掛りからは、女が水入の水で泣き真似をしているのが良く見えてしまう、というのがこの曲の鍵の部分。太郎冠者は「これはいかな事、あれはまことに泣くかと思えば鬢水入をそばに置いて その水を目へ塗って泣く真似をしおる。さてさて憎いことかな」と言うと、舞台に戻りシテの袖を引いて「ちょっとお出でなされませ」と、大名を橋掛りへと導きます。

太郎冠者は、大名に女の泣き真似を知らせようと誘った訳ですが、さて女が泣き真似をしていると告げても、大名は信じようとしません。
その上、涙というのは「四十余の骨骨が潤わねば」一滴も出ないものだと言い、国許に帰ったら自分の妻に言いつけようという事だろう、などと言ってまた床几に戻って女と泣き合う始末です。

太郎冠者は苦々しいものだと言いつつ思案しますが「いや、いたしようがある」と言うと、後見から水入を受け取り、女の膝元にある水入とすり替えてしまいます。
このすり替えた水入には墨が入っているという訳です。
この墨、糊が混ぜてあるという話も聞きますが、本当のところは分かりません。

さて、女は墨に気付かず泣き真似をし続けますが、最後の別れにお互いの顔をよく見ておこうということになり、大名と女が顔を合わせます。
これで驚いたのが大名で、そそくさと立ち上がると太郎冠者を橋掛りへと連れて行きます。
これは一体どうしたことかと大名が問うと、太郎冠者が墨入りの水入と取り替えたいきさつを語り、大名は女の不実に怒ってなんとか恥をかかせたいものだと考えます。
そして鏡を取り出すと、これを自分の形見といって女に渡すよう太郎冠者に命じ、女が鏡を受け取ると顔を写してみるようにと勧めます。

女が鏡を見ると墨が顔についていて、怒った女が太郎冠者と大名の顔にも墨を塗り、笑いつつ逃げる二人を女が追い込んでの留となりました。
楽しい一曲ではあります。
(25分:当日の上演時間を記しておきます)
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海士 中村裕(足利能)

観世流 足利市民プラザ 2010.09.11
 シテ 中村裕、子方 丸山喜弘
  ワキ 村瀬慧、アイ 野村太一郎
   大鼓 大倉慶之助、小鼓 森貴史
   太鼓 金春國和、笛 藤田貴寛

海士はこのブログ初登場です。「あま」は女性の仕事ということからか、現在では「海女」と書かれるのが普通ですが、能の曲名としては「海人」と書かれ、観世流のみが「海士」の表記を用いています。

讃岐国、香川県に現存する四国八十八カ所第八十六番札所である補陀洛山清浄光院志度寺に伝わる、海女の玉取伝説をもとに作能されたもので、金春権守が演じた古作の能とされています。
金春権守は金春禅竹の祖父にあたる人ですが、申楽談義の中で、世阿弥はこの人の能については酷評といっても良いような言い方をしています。この海士についても、クセ前地謡の上歌にある「あらなつかしのあま人やと、御涙を流し給えば」の「御涙」の節付けがよろしくないとか、玉之段を「黒頭にて軽々と出で立ちて小ばたらきの風体」だったのが、女物の曲には似つかわしくないなどと述べています。
現在では前後二場の能ですが、もともと金春権守が前場の部分のみを一曲として演じていたものに、早舞の入る後場を加えて、世阿弥が全体を改作したのではないかという話も聞きます。

ところで志度寺に残る玉取伝説ですが、これは話としては面白いのですが、なぜ藤原房前の母が海女とされたのか、そのあたりの経緯がよく分かりません。
藤原房前は鎌足、不比等と続く藤原氏の三代目の世代に属する人物で、不比等の四人の男子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の二番目。この四人はそれぞれ藤原四家である南家、北家、式家、京家の始祖となりますが、房前の子孫北家が最も栄え、道長などもこの系統に属します。
話は長くなりますので、明日につづきます
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海士のつづき

さて藤原不比等の妻は蘇我娼子、後に県犬養三千代と再婚していますが、武智麻呂から宇合までは蘇我娼子の子(宇合については異説もあるようです)で、歴史上には志度の海女の話はでてきません。
藤原氏は、鎌足が後の天智天皇、中大兄皇子と語らって蘇我入鹿を暗殺したことから歴史の舞台に登場してきますが、入鹿とは従弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂も中大兄皇子側に立って暗殺にも荷担しており、蘇我娼子はその姪にあたります。

ところで歴史の皮肉というか、天智天皇の死後、その子大友皇子と、弟とされる大海人皇子の間で権力闘争が生じ、大海人皇子が勝利して天武天皇となります。藤原氏は大友派と見られていたようで、天武朝では不比等は不遇を託つのですが、天智天皇の娘であり蘇我氏の血を引く鸕野讚良皇女(一文字目は機種依存文字のため表示されない場合はご容赦ください「ウ」です)が皇后となっており、天武天皇の死後に持統天皇として即位するに至って不比等にようやく陽があたってきます。
さらに県犬養三千代との出会いが藤原氏の興隆を決定付けるのですが、いずれにしても海女伝説との結びつきは見えてきません。

一方の志度寺ですが、香川県東部の現さぬき市、旧志度町にあり、志度湾を臨む推古天皇の頃の創建とされる古い寺で、十一面観音を本尊としています。不比等、房前が堂宇を建立したと伝えられており、海女伝説に繋がりそうですが、このあたりの勢力と藤原氏になんらかの繋がりがあったのかも知れません。

さて、どうも気になる点があって歴史的な話などを長々と書きましたが、そろそろ能の方に話を移したいと思います。海女の玉取伝説は能の展開に沿って触れていきたいと思います。

舞台上は次第の囃子が奏され、直ぐに幕が上がると白大口に長絹、金風折烏帽子を着けた子方を先頭に、素袍男姿のワキ、ワキツレ二名が続き、都合四人が登場してきます。
舞台中央で向かい合っての次第謡となりますが、このつづきはまた明日に
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海士さらにつづき

次第を謡った一同は、地取りでワキツレが下居してワキのサシ。これを受けて子方が自ら「房前の大臣」と名乗り、自分の母は讃州志度の浦、房崎というところで亡くなったと聞いたので、彼の地に下って追善をしようと思う旨を述べます。

これを受けてワキ、ワキツレの下歌、上歌からワキの着きゼリフになりますが、この日は下歌、上歌が省略されて、子方の名乗りから直ちにワキの着きゼリフとなりました。
ワキは、男女の別は知れないが一人やって来る者があるので、この所の謂われを詳しく聞こうと言ってシテを待つ形になります。

一声が奏されて、箔を腰巻にし、浅葱の水衣を肩上げに着けた前シテが登場してきます。常座まで出たシテはやや俯き加減の様子で、一セイ「海士の刈る藻に栖む虫にあらねども われから濡らす袂かな」を謡います。
この後、シテのサシ、下歌とあって、ワキが語りかける形ですが、ワキの下歌・上歌同様に、シテのサシ・下歌が省略され、一セイからワキの詞となりました。
これだけ省略すると、曲の展開が一挙にスピーディーになる感じです。前後場とそれぞれに見せ場のある曲ですので、こうした演出も良いかも知れません。

さてワキとシテのやり取りで、ワキはシテに水底の海松藻を刈ってくるようにと求めます。シテは高貴な方達が、わざわざ水底の海松藻を刈れとはよほどに飢えているのかと訝しみますが、ワキは海松が欲しいのではなく、水底に映った月を見るために藻を刈って欲しいのだと答えます。
不思議なやり取りですが、この水底に映る月から、シテは海に沈んで龍宮に取られた明珠を海士が潜(カヅ)き上げた話を導きます。

ワキの問いに答えて、シテが語り出します。
淡海公不比等の妹は唐の高宗皇帝の后となっていますが、藤原氏の氏寺興福寺に、唐の国から華原磬、泗濱石、面向不背の珠の三つの宝が贈られます。(なんでも華原磬は袈裟をかけるまで鳴り止まない金鼓、泗濱石は墨をすると水が湧いてくる硯だとか)
面向不背の珠は玉のうちに釈迦の像があり、どの方向から拝んでも同じ面を見せるので面向不背というのだそうですが、前の二つの宝が無事興福寺に届いたのに、珠は志度の沖で龍宮に取られてしまったという訳です。
このつづきはまた明日に
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海士さらにさらにつづき

この珠を惜しんで、淡海公は身をやつして志度の浦に赴き、海女少女と契りをこめて一人の子をもうけます。この子が今の房前の大臣だとシテが語ります。

すると子方が自ら房前の大臣であると告げ、かつて家臣から自分の母が讃州志度の浦の人であると聞かされたが、余り詳しく言うと差し障りがあると、家臣が言葉を濁してしまったことを謡います。地の上歌からクセへと謡がつづき、房前の大臣が亡き母を思って海士人を懐かしむ様が謡われます。
房前は子方が演じていますが、地元足利のお子さんだそうです。なかなか堂々とした舞台でした。能一般の約束事として、子方が演じているから子供の役という訳ではなく、年齢は不詳です。大臣と言っているので相応の年齢を想定しているのだろうと思われますが、房前は生前、大臣の位には上らず、天然痘にかかり不比等の四人の子供のうちで最初に亡くなったそうで、残念ながら想定された年齢の手がかりはありません。

さてクセの謡が終わると、ワキがシテに向かって珠を潜き上げた様子を語って欲しいと求めます。これに答えて、シテはまず海士と淡海公とのやり取りから語り始めます。
海士は、もし珠を取ってこられたならば、自分の産んだ子を世継ぎにして欲しいと求め、これに不比等が応じると、子供のためなら命も惜しくないと腰に千尋の縄を着けて、もし球を取ったらこの縄を動かすので引き上げて欲しいと言い置いて海底に飛び入った、と子細を語り出します。

この「その時人々力を添え引き上げ給えと約束し」の詞から「一つの利剱を抜き持って」の謡となり、地謡が受けての部分が玉之段です。仕舞でもよく取り上げられるところで人気ある一番。私もずっと昔、習ったことがあります。
海底に飛び入った海士が龍宮に分け入り、宝珠を探した末に見つけて取って逃げるが、龍宮の守護神が追っかけてきます。海士は剱を持ち替えて自らの乳の下を掻き切り、珠を押し込め剱を捨てて伏してしまいます。龍宮では死人を忌むので誰も近寄ってきません。海士は約束の縄を動かし、人々が喜んで引き上げると、珠はどことも見えず海士が浮かび上がってきた。と謡われ、詞章に合わせたキビキビした所作で舞われるところです。
型の子細は記載しませんが、見る度に良くできた一番と思います。前場だけで一曲となっていたという説も納得いく感じがします。
このつづきはまた明日に
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海士もう一日のつづき

玉之段が終わるとシテのクドキで、海士は浮かび上がってきたものの珠が見えず一同が落胆したところ、海士が苦しい息の下から乳のあたりを探すようにと言い、傷口から珠が取り出され、その子は約束通り房前の大臣となったと謡い、自らその海士の幽霊であると明かします。

シテは子方に寄ると文のようなものを渡し、シオリつつ下がるとシテ柱から橋掛り二ノ松まで進み、立ち止まって子方を見込み「波の底に沈みけり」と一度下居し、立ち上がって中入となりました。

アイ当浦の住人、野村太一郎さんが舞台に入り、ワキとのやり取りから、玉取伝説をもう一度整理する形でシャベリます。さらに追善のため管弦講を催すとのワキの詞を受けて、管弦講の触れをして切戸口から退場します。

ワキは子方に文を開いてみるように勧め、子方が読む形となって、海女が亡くなって十三年が経っており、その弔いを行うこととなります。
囃子が出端を奏し、朱の舞衣、深緑の色大口に、龍戴を着け、左手に巻物を持った後シテ龍女が登場してきます。おそらくは龍女成仏の話を素地に置いての龍女姿だと思いますが、常座に出て「ありがたの御弔い」と感謝します。

地謡との掛け合いの謡で、大小前へと進んだ後シテは、手に持った経巻を広げ恭しく読む形。さらに捧げ持ち「あらありがたの御経やな」とイロヱガカリの早舞に入ります。
カカリで巻物を巻き直したシテは、子方に寄って経巻を渡して常座へと戻り、一度下がって答拝して舞へと入っていきます。

ゆったりとした入り方で始まった早舞は、段が進むに合わせて少しずつテンポを速め、五段の舞が気持ち良く舞われました。舞上げるとシテの謡から、地謡が受けて、シテは正先から角、扇左にとって子方に向き、ワキ正から羽根扇して舞台中央へと進みます。
さらに舞台を廻り、最後は常座で開いて「この孝養と承る」で留拍子を踏んで終曲となりました。
だいぶん端折った上演でしたが、客席も最後まで飽きずに舞台に注目でき良かったかと思います。
(79分:当日の上演時間を記しておきます)
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喜多青年能を観に行く

喜多流では年に一度、若手の会「喜多流青年能」が催されます。喜多流職分会の主催になっていますので、流儀をあげて若手に機会を与えているということなのでしょうね。

というわけで、昨日はその喜多流青年能を観に、目黒の十四世喜多六平太記念能楽堂に行ってきました。一昨日の夜から台風が通過するため風が強くなるという予報。常磐線は風に弱いので、こりゃあちょっとあぶないなと心配していたところです。
いささか早い時間の指定券を取ってあったので、これなら大丈夫だろうと出掛けましたが、予想通り私の乗った電車までは大丈夫だったものの、その後は風の影響で遅延が生じたようです。あぶないところでした。

さて、そんな天気だったせいか、能楽堂はかなり閑散とした感じ。昨年だか、一昨年だかの青年能では補助席が出るほどの満員だったのだそうですが、ちょっと残念な感じです。私としてはゆったりした感じで、悪くはなかったのですが・・・

最初に高林昌司さんの枕慈童クセと、谷友矩さんの賀茂の仕舞二番。いやあお二方とも本当に若い。高林昌司さんは高林呻二さんのお子さんですね。谷さんは大作さんのご子息ですかね。ついこの間まで子方で出ていたと思います。
そもそもこの会は「子方からシテ方に進んだ若い人たちに機会を与え育てていく」というのが趣旨のようですから、こうした若い方が出てくるのは当然なのですが、流儀として若い人を育てていこうとする姿勢には共感を覚えます。

その後は佐藤寛泰さんのシテで東北、狂言の地蔵舞を挟んで、最後は塩津圭介さんのシテで項羽という番組でした。いずれもこのブログではいままで取り上げてこなかった・・・ということは少なくとも4年は観ていないという・・・曲ですので、明日からそれぞれについていささか詳しく書き記してみようと思います。
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東北 佐藤寛泰(喜多流青年能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2010.09.25
 シテ 佐藤寛泰
  ワキ 村瀬堤、アイ 山本則秀
   大鼓 大倉慶之助、小鼓 森貴史
   笛 藤田貴寛

東北はたいへんポピュラーな能ですが、このブログでは初登場。たしか五年くらい前に観たと思うのですが、ここしばらく遠ざかっておりました。
いわゆる本三番目物といわれる曲の一つで、典型的な夢幻能。後シテは序ノ舞を舞います。主人公は和歌の誉れ高い和泉式部ですが、こうした曲の常として何か大きな事件が題材になっている訳ではなく、和泉式部が植え置いたという東北院の梅を登場させ、和歌の徳や東北院の風光などを織り交ぜて、穏やかな気分を感じさせようと云う一曲。

さて舞台には次第の囃子でワキ僧、ツレの従僧が登場してきます。角帽子の着流し僧で、向かい合って次第を謡い、ワキは東国より出でたる僧と名乗ります。
都を見たことがないので、この春思い立って都へ上るといい、三人の道行。武蔵野を発って山また山を越え、都に向かうと謡います。

一行は都の東北院にやって来たという設定で、アイの門前の者が登場してきます。常座まで進んだワキが、狂言座に立ったアイに向かい合う形です。

ワキがアイに問いかけて、この東北院に植えられた梅が和泉式部という名であることを聞き出します。「さてはこの梅は和泉式部と申すぞや」と納得したワキは、花を眺め楽しみます。

すると幕内から前シテ里女が呼び掛けで登場してきます。
何を言っているのかというシテの問いに、ワキは初めて都に上った者だが、この梅を人に尋ねたところ和泉式部というのだと教えられて、感心して眺めているのだと答えます。
このつづきはまた明日に
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東北のつづき

ワキの詞に対して、唐織を着流しにしたシテは橋掛りをゆっくりと歩みつつ、梅というのは好文木、あるいは鶯宿梅などとこそいうべきで、知らぬ人のいう和泉式部などという名は用いるべきではないと咎めます。

さらに、この東北院がかつて上東門院の御所であった頃に、和泉式部が方丈の西のつまを寝所とされ、そこに梅を植えて軒端の梅と名付けて愛でていたと語り、一ノ松に立ちます。

そしてシテ、ワキの掛け合いとなりシテは舞台に入って常座に立ちます。地謡の上歌となり、シテが常座で小さく開キの形を取るとワキはワキ座に下がって着座し、二人はその軒端の梅を愛でつつ時を過ごす形になります。

そしてロンギの謡。シテが花の蔭に休らうとみえると、我こそ梅の主であると明かして木隠れして姿が見えなくなってしまいます。掛け合いの最後「花の蔭に」で一度ワキを向いたシテは、そのまま常座へと回り込んでワキに向き直り、三、四足ほどワキにつめて「我こそ花の主」と告げる心。あらためて舞台を廻って常座に戻り中入となりました。
本三番目物らしい中入で、自らの素性を明かしつつも花に隠れて姿を消してしまうという幽玄の世界です。

さて中入になるとアイが舞台に出て再びワキと向かい合います。
アイはワキの求めに従って、あらためてこの東北院の謂われ、和泉式部について語ります。東北院の名の由来、この寺が都の艮(うしとら)王城の鬼門にあたるので東北院と名付けられたことから語り出します。さらに和泉式部へと話が移り、因幡国の人であるが和歌の道に才があって都に上り上東門院に仕えたこと、後には信心に勤め誓願寺に日夜朝暮御参りしてついに往生を遂げたこと、さらにあの方丈のところに梅を植え置き軒端の梅と呼ばれるようになったことなどを語ります。

軒端の梅は通称であり、梅の名は鶯宿梅と言うのだと言い、その和泉式部が姿を現したのも奇特であろうから、さらに読経をして供養するようにと勧めてアイは退場します。
このつづきはまた明日に
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東北さらにつづき

アイが下がるとワキの待謡。
「夜もすがら 軒端の梅の蔭にいて 花も妙なる法の道 迷わぬ月の夜とともに、彼の御経を読誦する」と読経をしつつシテを待つ形です。「花も妙なる」のところを「迷わぬ月も」と謡ったように聞いたのですが、福王流ではそういう詞章なのかもしれません。

一声の囃子が奏され、やがて緋大口に紫の長絹を着けた後シテ和泉式部の霊が登場してきます。三番目物らしい典型的な装束で橋掛りを進んで舞台に入り、常座に立ったシテは一セイ「あらありがたの御経やな」と謡い出します。

優美に登場したシテは、只今読誦していたのは「比喩品よのう」と感じ入った風で、かつての思い出を語ります。
和泉式部が世にあった昔、この地が上東門院の御所であった頃に、御堂関白(道長ですね)がこの門前を通りかかり、車の内で法華経の比喩品を声高らかに読み上げたことがあった。
これを聞いて和泉式部が「門の外(ホカ) 法(ノリ)の車の音聞けば 我も火宅を出でにけるかな」と歌を詠んだことを思い出した由を謡います。
法の車の、と出て四つ拍子を踏みます。佐藤さんの型なのでしょうけれども、足をやや高めに上げての拍子です。

ワキは、なるほどその歌は和泉式部の歌として田舎までも広まっていることを謡い、さてその歌の心のように火宅を早く出で給えと謡いかけます。
これに対して地謡の謡で、和泉式部が歌舞の菩薩となってこの寺に住し、三つの車に乗って火宅の門を出で、成等正覚を得たことが謡われます。
車に乗る形からかと思いますが、法の車で四つ拍子を踏んだように、ここでは七つ拍子を踏み、正先へ出るとゆったりと舞台を廻り、常座に戻ってワキに向かい「成等正覚を得るぞ有り難き」と合掌する型です。
このつづきはまた明日に
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東北もう一日のつづき

ここで囃子が調子を変えてクリの謡。和歌の功徳が謡われますが、シテは合掌を解いて大小前へ進むと、正面を向き二足ほど出てそのまま謡を聞く形です。
続いてシテのサシ。「のどけき心を種として」で扇を広げ「天道にかなう詠吟たり」とユウケンして、クセの謡となります。

この東北のクセも仕舞として良く舞われるもの。曲舞の基本的な型をなぞりつつ、東北院の風光を謡い舞いします。
大小前からシカケ、開キなどの型を見せ、足拍子を踏むと角へ出て舞台を廻り大小前で左右打込して上げ端「見仏聞法のかずかず」で上げ扇と展開していきます。

大左右から型通り打込などの型を織り交ぜつつ舞台を廻り、最後は大小前にて左右打ち込みしてクセを舞上げます。
そして「春の夜の」の謡で扇を閉じ、常座近くへ進むとゆったりと答拝して序ノ舞へと入っていきます。

優美に序ノ舞を舞上げるとシテのワカから地謡のノリ地となり、シテ、地謡の掛け合いから終曲に向けて謡い舞いが続きます。

実はこの地謡のノリ地の後、シテの謡からの部分は、喜多流と観世流では詞章がかなり違っています。
謡い舞いは詞章に合わせるように、型もやや派手目の型で構成されています。「これまでなりや」と別れを告げるに謡に正先へ出て雲扇、舞台を廻って常座で扇を左に取ると、正中で正面を向き「和泉式部が臥所よとて」と羽根扇して、シテは常座に戻り扇かざして一回りした後、留拍子を踏んで終曲となりました。
観能記としてはここで終わりですが、明日一日分を使って、最後の部分の喜多流と観世流の詞章の違いを書いておこうと思います。
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