能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

宝生会月並能を観に行く

本日は久しぶりに宝生の月並能を観に行ってきました。
五雲会は時々観ていますが、月並は2年ぶりかなというところ。先月は萬狂言を観たこともあり能は観ていませんので、なんだか間があいたなあという感じです。

五雲会と違って全席指定なので、ギリギリに行っても大丈夫かと思ったのですが、なにぶん心配性でもあり能楽堂には開演30分ほど前に着きました。

曲は松尾、狂言の茶壺を挟んで、錦木、鉄輪と、能三番に狂言一番のいつもながらの構成ですが、今回は時間の関係と、いささか体調が悪かったために、最後の鉄輪を断念しまして錦木を観たところで帰ってきました。
それぞれに見所もありまして、鑑賞記はいつものように明日から書いていこうと思います。

それにつけても松尾を観ていて、神舞っていいよなあとしみじみと思いました。前々から書いていますが、私、神舞が舞われる脇能が好きです。
こういう曲は、大方のところ劇的な要素はほとんど無くて、前場で老人が出てきて神社の由来などを語り、後場でその神の本体が登場して舞うという、言ってみればそれだけの能です。何が面白いのかと聞かれても上手く答えられないのですが、でも妙に惹かれるんですね。
今日の松尾は、後々鑑賞記でも書くつもりですが、宝生流だけが現行曲としていて、しかも滅多に上演されない稀曲の類です。しかし、まあこれこそ取り立ててどうというところのない曲で、本地垂迹、和光同塵の理を説いているものの、せっかくの松尾大社の由来も具体的な話は出てきません。当社が「日本第一酒造神」とされているのも、触れて良さそうな気がするのですが、なんだか通り一遍に作られたような印象を受けます。

ですが、それにもかかわらず、観ていてなんだかとっても良い気持ちになってしまいまして、これぞ御神徳かと有り難く思った次第。
明日につづきます
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松尾 朝倉俊樹(宝生会月並能)

宝生流 宝生能楽堂 2010.11.14
 シテ 朝倉俊樹、ツレ 高橋憲正
  ワキ 殿田謙吉、アイ 山本則孝
   大鼓 亀井広忠、小鼓 幸正昭
   太鼓 桜井均、笛 小野寺竜一

松尾「まつのお」と読みます。高砂や弓八幡などと同様に後場で神舞が舞われる脇能ですが、宝生流だけが現行曲としています。このあたりをめぐっての話は後ほど書くこととして、まずは舞台の流れから。

舞台にはまずワキ臣下とワキツレ従臣が登場してきます。脇能らしく真ノ次第で登場し、舞台中央で次第を三遍返しに謡ってワキの名乗りとなります。
ワキはいわゆる大臣ワキの装束で、霊験あらたかという松の尾の明神に初めて参詣する由を述べ、ワキツレの大日向さん、則久さんともども道行。御所を出て西に向かい、嵯峨野、大井神社から嵐山渡月橋を渡って松尾へと進んだのか「上は嵐の山風の 声も通ひて松の尾の 神の宮居に着きにけり」と松尾の明神へとやって来ます。

ワキの一行がワキ座へと進んで着座すると真ノ一声。しばらく囃子を聞いていると、ツレの若い男が先に立ち、シテ老人が続いて登場してきます。
橋掛りを進み、ツレ一ノ松、シテ三ノ松で一声。続いてシテのサシ、二人での謡と続き、松尾社の尊さを讃え、さらには長月の紅葉の様子から秋の心持ちを謡います。

ツレは白大口に無地熨斗目、ヨレの水衣で右手に扇を持っての形。高橋憲正さん、先月の黒塚を観ることができませんで大変残念でしたが、今回は直面のツレなので、ちょっと良かったかなというところ。
シテ朝倉さんは高砂同様の、白大口に小格子厚板、シケの水衣を肩上げにし、右肩に杉箒を担っています。
このつづきはまた明日に
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松尾のつづき

シテ、ツレは橋掛りで一声「秋風の 声吹き添えて松の尾の 神さび渡る 景色かな」を謡うと舞台へと進み、ツレが正中に、シテは常座に立ってサシを謡います。さらに二人の同吟、下歌、上歌と謡って立ち位置を換え、シテが正中、ツレは目付に出てワキに向かう形になります。

ワキはシテに向かい尋ねたいことがあると声をかけます。シテはワキを見て、見慣れぬ人なので都からの参詣かと問いかけ、これにワキがよく分かったものの驚きつつも、都から初めて当社を参詣した者なので、社の謂われを詳しく聞かせて欲しいと頼みます。

これに答えてシテ、ツレの掛け合いとなりますが、シテ、ツレは掛け合いで、社域の秋の様子を謡うと、さらにシテ、ワキの掛け合いになります。これを地謡が受けて「松の尾の山の梢の秋ならで」と謡い出し、ツレはシテの後を回るようにして笛座前に進んで着座します。地謡が続く中、シテは正中へ出て開キ、左へ回って常座に立ってワキに向き合います。
囃子が変わってシテは大小前から正中へと進み、地謡のクリの謡い出しで杉箒をおいて下居。後見が寄って肩上げを下ろします。

形式通りに、クリからシテのサシ謡となり地謡が受けてクセになります。
クセでは和光同塵、本地垂迹の教えをもとに、仏が松尾の地に神と現じたことが謡われます。型通りの居グセで、謡が淡々と続きます。

ロンギとなり、地謡の「花の裳裾も色々に」でシテ、ツレが立ち上がり、夜神楽を待つようにという謡にのせて、中入となります。
このつづきはまた明日に
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松尾さらにつづき

シテ、ツレが笛の音に送られて姿を消すと、ワキが「いかに誰かある」と呼びます。答えて進み出たワキツレ大日向さんに所の者を呼んでくるように言いつけ、ワキツレは常座まで行って狂言座の方に声をかけます。

間狂言山本則孝さんが進み出て正中でワキ臣下に向き合い、ワキの問いに答えて松尾明神の謂われを語ります。
当社明神は君の間近くに鎮座するが、本地寂光の都を出でてこの閻浮提に示現されたのだと本地垂迹の理を説きます。西の山の端に下ったが、この地は地形もすぐれて常楽我浄の結縁を示すところであり、何事も祈りをかけて叶わぬということはない、と当社の尊きことを語ります。

アイが語り終えて下がるとワキ、ワキツレの待謡。「げに今とても神の代の 誓いは尽きぬしるしとて 神と君との御恵 まことなりけりありがたや」が謡われて出端の囃子となります。

後シテは高砂同様に半切、袷狩衣、黒垂に唐冠の装束で颯爽と登場し、常座に出て「それ千代の松ヶ枝には 万歳の緑 常磐には御代を守りの御影山」と謡い出します。「松尾の神とは我が事なり」と謡ってワキを向くと、地謡が「八乙女の 袖もかざしの玉かづら」と続け、シテは正面に向き直って八足ほど進みます。
「かけてぞ祈る玉松の」と謡いつつ開キ、地謡が「光も塵や・・・」と続けると袖の露を取って大小前へと進み、答拝して神舞を舞い始めます。

神舞らしい颯爽とした舞で、初日にも書いた通りなんだか良い気持ちになりました。
神舞を舞上げると後見座にクツロイだ後、地とシテの掛け合いで謡い舞いとなり、常座から出て七つ拍子を踏み、ゆっくりと目付まで出ると角取りして左に回ります。常座に戻ると左袖返して正中へ出、さらに舞台を廻って常座に戻り「光も散るなり」と足拍子。ワキ正へ進んで両袖を巻き上げ、目付に出てから舞台を廻って常座に戻って袖を下ろし、ユウケンして留拍子となりました。
もう一日つづきます
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松尾さらにさらにつづき

まずはすっきりした脇能らしい能だと思いますが、正直のところそれ以上のものではないという印象です。世阿弥作ということなのですが、どうなのかなぁ。本脇能の定石に沿ったきちんとした作りの曲ではあるのですが、神が松尾の明神である必然性が感じられないんですよねえ。

この松尾明神ですが、京都嵐山の松尾大社がそれで、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)です。神社のHPを参考にすると、祭神大山咋神は古代から有力な神であったらしいのですが、5、6世紀に秦氏の大集団が渡来してこの地に住し、松尾山の神を一族の総氏神として崇敬したことが当社隆盛のきっかけとなったようです。

秦氏は当地の開拓に努め、農業をもとに諸産業の発展に尽力したようですが、中でも酒造に力を入れたらしく、室町時代末期以降、当社が「日本第一酒造神」と仰がれる由来ともなったとか。全国の酒造家から崇敬されているそうです。
そう言えば年末に上演されることの多い狂言「福の神」では、出現した福の神が酒を献上されて「日本大小の神祇、別しては松の尾の大明神」にまず捧げます。
アドの男達に、なにゆえ松の尾の大明神に捧げるのかと尋ねられた福の神は、松の尾の大明神は酒神なので初穂を献上しないと機嫌が悪いからだと説明します。広く松尾大社が酒造の神として崇敬されていたことがうかがえるところですね。

こんなに由緒ある神社なのに、この曲では本地垂迹の理が説かれるだけで、松尾社の由緒についての具体的な話が何も出てきません。あえて間狂言の語りの内容も書いておきましたが、この内容も別に松尾明神に特定されるようなものではありません。
福の神をもじったような替え間でもあば納得できそうですが、なんとなく通り一遍に松尾明神を持ち出したような印象になってしまっています。

なぜに宝生流だけにあるのかそのあたりの事情もよく分かりません。神舞を舞う能では高砂、弓八幡、養老の三曲が有名で各流ともに上演の多いところですが、それ以外の曲は流儀によって演じる頻度に大きな違いがあるように感じます。後場で出現する神様、というよりも神社との関係などが絡んでいるのかも知れません。

繰り返しになりますが、脇能としてはそこそこに出来た曲と思いますし、当日の朝倉さんは舞も上手でいらっしゃるので、それなりに良い気分を楽しめたのですが、なんだか物足りない感じの残る一曲でした。
(75分:当日の上演時間を記しておきます)
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茶壺 山本東次郎(宝生会月並能)

大藏流 宝生能楽堂 2010.11.14
 シテ 山本東次郎
  アド 山本則俊 山本則秀

茶壺は能の会では良く演じられる曲ですので、このブログにもこれまで三度ほど登場しています。18年にはこの日アドを演じた則俊さんのシテで観ていますが、他の二度は和泉流で拝見しました。この曲は流儀による違いが少なく、場面展開などは全く同じですが、微妙な違いもありますので、気付いたことなど書いておこうと思います。

まず登場するアド茶壺の持ち主、酔った形で謡いながら登場しますが、この日は「ざざんざ 浜松の音は ざざんざ」でした。狂言記もこの謡で登場するように書かれています。和泉流で観た時は「都なれや東山 これもまた東の 果てしなの人の心や」だったと思います。いずれにしても大変に酔っ払って、ふらふらしながら登場して寝てしまうという点は同じです。

アドが寝入ってしまうとシテが登場してきますが、この間の小笠原さんが狂言袴に十徳の姿だったのに対し、東次郎さんは狂言袴に肩衣を着けた一般的な形で「こやのの宿(しゅく)を走り回る心の直ぐにない者」と名乗りました。この名乗りも狂言記と同じです。小笠原さんは「洛中に心の直ぐにない者」と名乗っていまして「こやのの宿」の名は入日記を謡うまで出てきません。

この大藏流の形では、舞台が「こやのの宿」近くになっていることが最初から示され、目覚めたアドも、栂尾で茶をつめてもらって帰る途中、こやのの宿に知った者がいて酒を呑まされたと語ります。
大きな違いではありませんが気付くと面白いものです。

それにつけても東次郎さん、いつもながら味のある芸でした。初めて拝見したのは三十年以上前になりますが、則俊さん、則直さんとは少し感じが違って、なんとも暖かみを感じますね。
(20分:当日の上演時間を記しておきます)
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錦木 亀井保雄(宝生会月並能)

宝生流 宝生能楽堂 2010.11.14
 シテ 亀井保雄、ツレ 野月聡
  ワキ 宝生欣哉、アイ 山本則重
   大鼓 柿原弘和、小鼓 幸信吾
   太鼓 大江照夫、笛 一噌幸弘

錦木はこの曲の中では「美しく色どり飾りたる木」と紹介されていますが、本当はどういうものなのか、五彩の木片を束ねたものとか五種類の木の枝を束ねたものとか言われますが、調べた限りではよく分かりませんでした。能の中では小ぶりの枝に紅緞を巻き付けたものが用いられていますが、能の道具の常として様式的なものですから、この作り物から本物はどうだったのかを探るのは難しそうですね。

さて舞台上にはまず塚が出されてきます。紫の引廻しをかけて緑の葉を載せた形ですが、これが錦木塚であるというのは後ほど明かされるところ。もっとも錦木塚は歌枕として古来有名であったようですので、昔の人は塚が出てきたところで「錦木塚」だとすぐに分かったのでしょう。

舞台が落ち着くと次第の囃子が奏されて、角帽子着流しのワキ、ワキツレが登場してきます。ワキツレは工藤和哉さんと梅村昌功さん、舞台中央まで進み出て型通りに向かい合っての謡。ワキの名乗り道行と続き、「陸奥(みちのく)きょうの里」に着いたと着きゼリフがあって一同はワキ座に着座します。

「きょうの里」は「狭布の里」とも書かれますが、現在の秋田県鹿角市の一部、旧鹿角郡に属する地域が古く「きょうの里」と呼ばれていたようです。一説には京都によく似た地域ということで「京の里」と呼ばれたとも云い、またこの能でも後々出てきますが当地では鳥の毛を織って布を作ったので「毛布(けふ)の里」になったという説、はたまたその布の幅が狭いので「狭(きょう)の里」になった、と諸説あるようです。

鹿角というと私は、高橋克彦さんの小説「竜の棺」「霊の棺」に登場する枢機卿鹿角典征を思い出してしまいます。十和田湖に関わる話でもあり、高橋さんも鹿角の地名からこの登場人物の名前を思いついたのでしょうか。
余談はさておき、ワキの一行がワキ座に着座すると囃子が奏されて、ツレを先に立てたシテが登場してきます。
このつづきはまた明日に
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錦木のつづき

先に立ったツレは唐織着流しで特に何も持っていません。観世流では細幅の布を手に懸けて登場しますが、何も持たないのはちょっと意外でした。
一方、後から出たシテは直面で、白大口に掛け素袍で右手に錦木の作り物を持っています。次第の囃子でツレが一ノ松まで進んで振り返り、三ノ松まで出たシテと向き合って次第謡。地取りで正面を向いてシテのサシ謡になります。

続いて二人向き合って謡が続き、下歌「徒らに過ぐる心は多けれど 身になすことは涙川 流れて早き月日かな」と謡い、上歌へと続きます。
上歌では陸奥のきょうの里の、細布、錦木が詠み込まれ、この「狭布の都の名にし負ふ」で二人は橋掛りを歩み始め舞台へ入ります。
「錦木の 千度百夜徒らに悔しき頼みなりけるぞ 悔しき頼みなりける」とツレは目付に立ち、シテは正中に進みます。

この二人の様子にワキは、市の人かとみれば夫婦の様子で、女の持っているのは鳥の羽で織った布らしく、また夫の持っているのは薪かと思うと美しくいろどり飾った木らしい。実に不思議な売り物だと言い、二人に向かってそれは何というものかと問いかけます。

これに対してツレとシテは、これは細布と錦木といっていずれも当所の名物であると答えます。
ここからのワキと、ツレ・シテのやりとりはなかなかしゃれていると思うのです。ワキは細布、錦木のことは聞き及んでいるが、どうして名物なのかと重ねて問いますが、これに対してツレは、細布・錦木の名前を知っているのに、その故を知らないとは仕方ない人だと、いささか批判するような感じです。シテはそのツレを「いやいやそれも御理」と、諫めるのかと思いきや「その道々に縁なきことをば 何とて知ろし召さるべき」と言い、二人で「見奉れば世を捨人の 恋慕の道の色に染むこの錦木や細布の知ろし召さぬは理なり」と謡います。
出家した身では、恋愛にまつわる錦木や細布の謂われを知らないのも道理だろうと言うわけです。
このつづきはまた明日に
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錦木さらにつづき

ワキもしゃれた答えと思った様子で、錦木細布は恋路をめぐる謂われがあるのかと納得し、シテ、ツレが掛け合いで答え、地謡「錦木は 立てながらこそ朽ちにけり けふの細布 胸合わじとや」が謡い出されます。
ツレはこの地謡が一句謡われるとシテの後を回って笛座前に下がり、シテは地謡に合わせて正中から前へ出、一度「歌物語恥ずかしや」とワキに向き、さらに舞台を廻って地謡の終わりに常座に立ちます。

ワキはあらためて錦木細布の謂われを語って欲しいと求め、シテは「語って聞かせ申し候べし」と答えて正中に出て下居、錦木を置いて扇を取り出し語りになります。
シテの語りでは、昔からこの地では、男が錦木を作ってこれぞと思う女の門に立てると、女は逢うと思う男の錦木を取り入れ、逢わないと思う男の錦木は取り入れないという習があったと明かされます。
ところが三年百夜、錦木が千束を数えるまで通い続けて憤死した男がいて、この亡骸と千束の錦木を築きこめて錦塚とした謂われが語られます。

先ほどの地謡「錦木は」の歌は、後拾遺和歌集にある能因法師のもので11世紀初頭の頃の歌と思われます。この歌では錦木を千束まで立てたのかどうかは触れられていませんが、その後、11世紀末から12世紀初頭には千束の錦木が詠み込まれている歌が出てきますので、古くから千束の錦木の伝説はあったようです。

鹿角にはこの千束の錦木、錦木塚についての悲恋物語が伝えられているそうで、推古天皇の頃のこととも言われているようです。千日にわたって錦木を立て続けた若者と、細布を織っていた娘。娘の父親が身分の違いから錦木を取り入れるのを許さなかったとも、娘が願をかけて細布を織っていて錦木を取り入れることが出来なかったとも伝えられているようです。
もっとも一説には、この千束の錦木が、深草少将の百夜通いの影響で出来上がった話ではないかという説もあり、推古天皇の頃から伝えられた伝説・・・というのは微妙なところですが。

さて、ワキはこのシテの語りを聞いて、その錦塚を教えて欲しいと頼み、シテ、ツレが立ち上がってワキを誘うような形から地謡。
謡に合わせてシテは作り物の塚を見込み「錦塚はこれぞと言い捨てて 塚の内にぞ入りにける 塚に入りにけり」でシテが塚に入って中入。ツレは後見座にクツロギます。
このつづきはまた明日に
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160000ヒット御礼

おかげさまで本日16万ヒットを越えました。
平成18年6月にブログを開始して4年半近くなりますが、様々な紆余曲折がありました。
特に今年は母を亡くしたこともあり、観能自体の回数も少なかったため、ブログも滞りがちになってしまいました。なかなか思ったように時間が取れないため、観能は月に一、二度がいいところ。毎週、時には週に何度か能楽堂に足を運ばれてブログを書いておられる方もいらっしゃいますが、ただただ「凄いなあ」と感心している次第です。

昨日も夜に用事が入ってしまい、錦木の観能記を中断しました。まあ、無理をしても仕方ないので、楽しいと感じられる範囲で、今後も観能、ブログを続けていきたいと思っています。

本日、16万ヒットに当たられたのは、どうやら福井県の方のようです。各所からアクセスいただきありがとうございます。
今後も細々ながら続けていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。

錦木さらにさらにつづき

ツレが後見座にクツログと、アイ狭布の里に住む者が進み出てワキの一行に気付いて問答となります。

アイはワキの求めで錦木、細布の話を語りますが、この悲恋物語にあわせて、細布についても詳しく語ります。
この地では鳥の羽を織って布にし子供に着せると、鷲にさらわれなくなるという言い伝えがあり、女達は鳥の羽を織って細布を作ったという話です。

この布、幅が狭かったので狭布とも、鳥の羽で織られているので毛布とも云われ、「けふの里」の名になったらしいという話は初日に書きました。実際は羽根を織り込んだ幅狭の布を下着のように着て背中の防寒に用いたのではないかと思われます。
背中にしか余裕が無く、胸側では合わせることが出来ないので「けふの細布 胸合わじとや」と歌に詠まれたという話もあるようです。

間語りが終わりワキ、ワキツレの待謡。夜もすがら経文を読み錦塚に回向する次第。
囃子が出端を奏し、後見座にクツロイでいたツレが立ち上がると常座に出てワキに向かい、サラサラと謡い出します。「夢ばし覚まし給うなよ あら貴の御法やな」と、夢幻の内に二人の幽霊が現れ出たことを示します。

続いて塚の中からシテの謡い出し、地謡と掛け合いとなり、地謡の「蔭より見えたる塚の幻に」で塚の引廻しが外されて、半切、袷法被を肩脱ぎにした黒頭のシテが姿を現します。宝生流では錦木男という、この曲専用の面があるそうですが、はたしてこの日の面がそうだったのかどうか、分かりませんでした。いずれにしても怪士の類の面です。

ワキは塚の内が人家のように見えることに「夢かや現かや」と驚きますが、二人の幽霊に対して、昔の様子を見せるようにと求めます。
シテは「いでいで昔を現さんと」と立ち上がって塚を出、ツレが代わって塚に入り下居します。(シテは塚の中で床几にかかっていますが、シテが塚を出ると後見が床几を片付けます)

塚を女の家に見立て、シテは錦木を持って女の門口に立った風。門を叩けども答えはなく、機織りする音が聞こえるだけと、シテツレの掛け合い、地謡と謡が続き、シテは舞台を廻って目付に出ると「細布織りて取らせん」の地謡にタラタラと下がって常座に安座して錦木を置きます。
さてこのつづきもう一日明日に
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錦木もう一日のつづき

シテが安座すると地のクリとなり、ツレは立ち上がってワキ座へと向かい、ワキ・ワキツレが少しずつ席を譲ってツレがワキ座に着座します。

シテのサシからクセへと続き、懺悔の姿を示し教典の功徳を得ようと、夢中になおも錦木、細布の子細を見せる様子。クセは舞グセになります。
シテは錦木を持って立ち上がり、ワキ座に座したツレの前まで進んで錦木を置くと、立ち上がって常座へ、ここから「互いに内外にあるぞとは」とツレを見込みます。

正面を向きワキ正あたりまで出ると「夜は既に明けければ」と遠く見やる形から「すごすごと立ち帰りぬ」と常座へと戻り、再びワキ正あたりまで出て「さながら苔に埋もれ木の」とツレを見込み、舞台を廻って左右打込、上げ端で上げ扇と型が続きます。

クセの後半、錦木を立てつつ三年になり、姿を見せぬ女に「あらつれなや」とシオってクセが終わります。
クセの後、地謡「錦木は」で後見座に向き、正面に向き直ると一転した感じで「千束になりぬ 今こそは」と謡、足拍子を踏んで喜びが表される感じになります。現実とは異なり、三年千束の錦木を立て続け、思いが遂げられて女と逢うことが出来た喜びが示されます。左右打込、開いて地謡「雪をめぐらす 舞の袖かな」で男舞。

現実が悲恋の話なので、この展開はちょっと分かりにくいのですが、もしかしたら男舞に持っていくために、無理矢理夢の中で思いが遂げられたことにしてしまったのかも知れないなあ・・・などと考えたところです。

男舞を舞上げると謡い舞いが続き、朝となり夢も覚めて「松風颯々たる 朝の原の野中の塚とぞなりにける」と留拍子を踏んで終曲となりました。

あまり上演の多い方の曲ではありませんで、内外百番ずつに分ければ外の百番の部類でしょうけれども、錦木、細布の伝説も面白いので、いささか詳しく書き記してみました。
もしかすると、舞のあたりで急にハッピーエンドになってしまう展開が、今一つ上演が少ない原因かも知れません。
(103分:当日の上演時間を記しておきます)
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