能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

東北 遠藤喜久(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2011.02.13
 シテ 遠藤喜久
  ワキ 大日向寛、アイ 善竹大二郎
   大鼓 柿原弘和、小鼓 鵜澤洋太郎
   笛 松田弘之

東北は昨年9月に喜多流の青年能(鑑賞記初日月リンク)で観て以来、このブログには二度目の登場です。

前回のブログでは、この曲の喜多流と観世流での詞章の違いなどにもふれましたが、今回はその観世流です。なお前回書きませんでしたが「東北」は「とうぼく」と読みます。この曲の舞台となる東北院(とうぼくいん)の名にちなんだ曲名です。

舞台にはまず次第の囃子でワキ僧、ツレの従僧が登場し向かい合って次第を謡い、ワキは東国より出でたる僧と名乗ります。前回は福王流の村瀬堤さん、今回は下掛り宝生流の大日向寛さんのワキですが、このあたりは特に違いはありません。都を見たことがないので、この春思い立って都へ上るといい、三人で道行の謡。武蔵野を発って山また山を越え、都に向かうと謡います。

ワキは着きゼリフで都の東北院にやって来たと言い、庭に咲く梅の名をこの辺りの人に問おうと述べます。ワキツレはワキ座に向かって着座し、ワキが常座あたりまで進んで狂言座のアイを呼び出します。

ワキの問いに、アイはこの東北院に植えられた梅が和泉式部という名であると教え、ワキは「さてはこの梅は和泉式部の植え給うによって花の名も和泉式部と申すぞや」と納得し、「実にや昔の春を残し 色香妙なる花盛り あら面白や候」と謡ってワキ座へと行きかかります。この謡は下掛りの本には見えますが、福王流にはない謡なのか、前回の村瀬さんは謡いませんでした。

このとき幕内から前シテ里女が呼び掛けで登場してきます。
このつづきはまた明日に
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東北のつづき

幕が上がりシテがワキ僧に呼び掛けます。
その梅を人に尋ねたら何と教えられたのかと問いますが、これに対するワキの答えは、自分は初めて都に上った者だが、あの梅のことを人に尋ねたところ和泉式部というのだと教えられたというものです。

シテは幕を出て橋掛りをゆっくりと歩みつつ、梅というのは好文木、あるいは鶯宿梅などとこそいうべきで、知らぬ人のいう和泉式部などという名は用いるべきではないと咎めます。
一ノ松と二ノ松の間あたりに佇むと、この東北院がかつて上東門院の御所であった頃に、和泉式部が梅を植えて軒端の梅と名付けて愛でていたと語り、花の縁に読経されるようにと勧めます。そしてあらためて、これこそ和泉式部の植えた軒端の梅、とワキに向かって二足ほどツメてしっかりと伝える感じです。

ワキは、これが軒端の梅かと感心し方丈の西の端は和泉式部の御休所かと問います。これに合わせてシテは橋掛りを歩み、舞台に入って常座あたりに出て答えます。
二人の問答から地謡の上歌となり、二人はその軒端の梅を愛でつつ時を過ごす形です。

続いてロンギの謡。シテは目付に出て角トリし舞台を廻って常座に戻ります。さらに「花の蔭に」の後の地謡で正中まで出ると右に回って小回りし再び常座で正面を向きます。あらためて「木隠れて見えずなりにけり」と中入になりました。
送リ笛に送られて静かに中入です・・・と、あれ? と思ったのは、この日の笛は森田流の松田弘之さん。森田流って送リ笛を吹かないのではなかったかと。

この件、さすがに訳がわからずプロにお話を伺いましたところ、森田流では送リを吹かない原則ですが、松田さんのご一門ではシテの希望があれば吹くことにしておられるのだそうです。送リ笛が無いと中入りするシテは無音の空間を進まなければなりません。これはかなりの緊張感を要するそうです。観ているほうも同様で、私も送リ笛が無いと思わず緊張して息を詰めてしまうことがよくあります。シテの衣擦れの音ばかりが聞こえる緊張感もある意味では良いのですが、送リ笛をほしい気持ちもよく分かります。
明日につづきます
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東北さらにつづき

さてシテが幕に入ってしまうと、アイが再び舞台に出てワキと向かい合います。
アイはワキの求めに従って、まず東北院の名の由来から語り始めます。この寺が都の艮(うしとら)王城の鬼門にあたるので東北院と名付けられたこと。また賀茂川が都の北、王城の鬼門から流れて都の内へと入ることから、川除のご祈祷のためにここを寺とされたのだと語ります。

さらに和泉式部へと話が移り、因幡国の人であるが和歌に才があって都に上り上東門院に仕えたこと。後に信心に勤め誓願寺に日夜朝暮御参りしてついに往生を遂げたこと。さらにあの方丈の西の端に梅を植え置き軒端の梅と呼ばれるようになったことなどを語ります。軒端の梅は通称で、梅の名は鶯宿梅と言うのだと言い、さらに読経をして和泉式部を供養するようにと勧めてアイは退場します。

昨日書いた通り、森田流ながら送リ笛が吹かれたため、逆に間語りの終わりに吹かれる知ラセ笛はありませんでした。一噌流と同じ形です。知ラセもまた風情があって良いものなのですが、森田流と一噌流で分けたのか、それぞれどちらかしか吹かないことになっています。ちなみに藤田流は両方吹くようで、廃絶した春日流も両方吹いたと聞いたことがあります。

さてアイが下がるとワキの待謡。
「夜もすがら 軒端の梅の蔭にいて 花も妙なる法の道 迷わぬ月の夜とともに、彼の御経を読誦する」と読経をしつつシテを待つ形です。

一声の囃子が奏され、緋大口に薄紫の長絹を着けた後シテ和泉式部の霊が登場してきます。長絹には紅白と青緑の梅の花が描かれ、金で松と蝶があしらわれていて大変美しいものでした。橋掛りを進んで舞台に入り、常座に立ったシテは一セイ「あらありがたの御経やな」と謡い出し、ワキを向きます。
さてこのつづきはまた明日に
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東北さらにさらにつづき

優美に登場したシテは、只今読誦していたのは「比喩品よのう」と感じ入った風で、かつての思い出を語ります。ワキとの問答は型通りにワキの方を向き、また正面に直す形を繰り返し、シテ「出ずるは火宅」ワキ「今ぞ」シテ「すでに」とワキに向かって二足ほどしっかりと出て地謡になります。

これに対して地謡の謡で、和泉式部が歌舞の菩薩となってこの寺に住し、三つの車に乗って火宅の門を出で、成等正覚を得たことが謡われます。
「三つの車にのりの道」と七つ拍子を踏み、ワキに寄り正中で左の袖を返し、右扇をワキに差し出し形から常座へと向かいます。

囃子が調子を変えてクリの謡。シテは常座で小回りして大小前に立ちます。
地謡をそのまま聞いてシテのサシ、さらにクセ前の地謡と、シテは謡を聞く形で、最後「天道にかなう詠吟なり」とワキを向いて二足ほど出ますが、クセに入って元に戻し正面を向きます。喜多流の記録と比べていただくと、微妙な違いがおわかりいただけると思います。

続くクセは仕舞として良く舞われます。曲舞の基本的な型をなぞりつつ、東北院の風光を謡い舞いします。最後は大小前にて左の袖を返して左右、「春の夜の」の謡でワキを見て袖を直し常座へと向かいます。後見座を向いて一呼吸置き、正に向き直して序ノ舞へと入りました。

序ノ舞を舞上げるとシテのワカから地謡のノリ地。シテは上げ扇から左右打込、開いて「げにや色に染み」と謡い出します。この後は、以前に書きましたように喜多流と観世流では詞章がかなり違います。
シテの謡に続く地謡「よしなや今更に」でシテはサシ込み開キ、右回りに常座に行き「恋しき涙を遠近人に」とワキ正方を斜めに見上げる形から、ワキの方を向いて正中へと進み「いとま申さん」と開いて下居。
シテ「これまでぞ花は根に」と立ち上がり七つ拍子を踏んで大小前へと向かい「方丈の灯火を」と扇を胸に当て正中に出て開きます。
目付に出て舞台を廻り、常座に戻って留拍子を踏んで終曲となりました。しっとりとした印象の三番目物らしい一番でした。
附け祝言は千秋楽。私は附け祝言が謡われる形の方が番組の終わりに気持ちの整理がつく感じがして好きです。
(95分:当日の上演時間を記しておきます)
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弓八幡 辰巳孝弥(五雲会)

このところ、時々間があきつつの更新ですが、いささか忙しい日々が続いています。
と言っても、飲めないのに飲み会に誘われたり・・・とっても美味しいお酒が飲めたのですが、その話はいずれまた・・・とか、えらく気を遣うゴルフ行く羽目になったりとか、直接仕事ではないのですが、ともかくブログ更新が途切れがちです。
さて本日からは二月の五雲会の鑑賞記を書いていきたいと思います。

宝生流 宝生能楽堂 2011.02.19
 シテ 辰巳孝弥、ツレ 辰巳大二郎
  ワキ 御厨誠吾、アイ 竹山悠樹
   大鼓 大倉栄太郎、小鼓 鳥山直也
   太鼓 林雄一郎、笛 成田寛人

このブログでは何度も名前だけ出てきた弓八幡ですが、観能記としてふれるのは初めてです。高砂、弓八幡、養老などは脇能のうちでも世阿弥の作とされる閑雅な曲で、後場では若き神が颯爽と登場し神舞を舞うという展開です。
これまでの記事では「高砂、弓八幡、養老などの」と、多くは三曲の名をまとめて取り上げてきましたが、この三曲でみると弓八幡は素直な曲で、申楽談義にも「直ぐなる体は弓八幡なり 曲もなく(変化のない) 真直ぐなる能なり 当御代のはじめのために(を祝って)書きたる能なれば 秘事もなし」と記されています。
特に技巧的なところ、見せるべき型も見あたりませんが、それだけに脇能らしい脇能と言っても良いかも知れません。

まずは成田さんの笛から真ノ次第、ワキ御厨さんの後宇多院に仕える臣下と、ワキツレ則久さん、高井さんの従臣が登場します。
三遍返しの次第謡からワキの詞。後宇多院に仕える臣下が、二月初卯の八幡の神事の日に八幡山に参詣することが述べられます。続く道行の謡、着きゼリフで一行は八幡山に到着し、一同、ワキ座に着座します。

八幡山は、次第の謡に「御代も栄ゆく男山」とあるように、男山、石清水八幡宮のこと。初卯の神事は遠く平安時代から続く伝統的なもので、旧暦二月の初卯の日に斎行されます。現在でも一般には公開されていない様子ですが、ここは院に仕える臣下が陪従(べいじゅう)せよとの宣旨によって参詣しているわけです。

すると真ノ一声でツレの若い男を先に立て、ゆっくりとシテ老人が姿を現します。ツレは直面、白大口、無地熨斗目にヨレの水衣。シテは尉髪、白大口に小格子厚板、右肩に緑地の布袋に入れた弓を担っています。緑の地の袋に朱の紐がかかって綺麗な配色です。
さてこのつづきはまた明日に
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弓八幡のつづき

先に立った男が一ノ松で振り返り、幕前に出たシテと向き合って一セイの謡。ツレがさらさらと二の句を謡い、二人「雲もおさまり風もなし」と謡って舞台に進みます。
ツレが正中、シテが常座に立ちシテのサシ「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむす」が謡われます。おやどこかで聞いたような・・・この後は二人の謡で「松の葉色も常磐山」と続きます。

下歌、上歌と続いて、最後にシテは正中に進み、ツレは常座に一度戻った後に目付まで出ます。合わせてワキが立ち上がり、上歌が終わると詞。シテ老人が翁錦の袋に弓を入れて持つ姿を訝しんで声をかけます。

シテが答えて言うには、自分は当社に長く仕える者だがここに持っているのは桑の弓で、今日(院の臣下が)ご参詣なさるのを待ち捧げ物にしようと思っていたとのこと。ワキはその捧げ物とは老人が自身思いついたことか、さてまた当社のご神託かと問います。
シテはもちろんご神託だと答え、神の御代には桑の弓、蓬の矢で世を治めたことを述べます。
桑の弓、蓬の矢は、いつぞや弓矢立合でも謡われることを書きましたが、もともとは礼記にある桑弧蓬矢が原典のようで、古代中国で諸侯に男子が生まれた際に桑の弓と蓬の矢で四方を射て成長を願ったことが元になっていると思われます。・・・直接の関係はありませんが、「礼記(らいき)」はもともと礼経の注釈書の意味でしょうけれども、四書五経とする時は礼経ではなく礼記があげられますね。たしか何やらの謂われがあったようですが・・・

さてワキは、その弓を袋から取り出して神前に捧げるように求めます。しかしシテは、古く周代に弓箭を包み干戈を納めた例によって、弓を袋に入れ剣を箱に納めることこそ太平の御代のしるしであると語ります。
地謡が謡う中、シテは袋に入ったままの弓を両手に捧げ、進み出たワキに渡します。
さてこのつづきはまた明日に
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弓八幡さらにつづき

弓を受け取ったワキは両手で捧げ、シテは正中で開いて常座へ、ツレが笛座前に着座し、ワキは常座に立ったシテと向き合います。
ワキはシテに弓を持って世を治めた謂われをさらに語ってくれるようにと促します。

これを受けてクリの地。ワキはワキ座に着座し、シテが正中に出て下居します。クリの謡を聞いていて、しみじみ宝生流の謡の難しさ、独特さを感じたところです。
続くシテのサシ、クセと石清水八幡の縁起が謡われます。クセは居グセです。

そもそも本朝にて弓箭を以て世を治めた始めと言えば、これ則ち当社の御神力である。欽明天皇の御代に豊前宇佐の郡、蓮台寺の麓に八幡神が現れた。神功皇后も異国退治のために九州四王寺の峯にて七日にわたり神に祈り、めでたく治めたと謡われます。

欽明天皇の御代に八幡神が現れ宇佐八幡宮の創建となります。八幡神は十五代とされる応神天皇、神功皇后はその母で、このクセの謡は時代が前後して分かりにくいのですが、このあたりは間狂言で整理されます。

クセに続いてロンギ。掛け合いの謡のうちにシテは自ら高良の神であると名乗り、この御代を守ろうと今ここに来たのだと、立ち上がってワキにしっかりと言い聞かせる感じです。続いて「八幡大菩薩の御神託ぞ疑うな」と常座へと移り正面を向いて開いた後送り笛で中入となりました。
「高良の神」は「かわらのしん」と謡います。石清水八幡の摂社高良神社に祀られる神ですが、もともと河原社と呼ばれていたのが変化したとも、かわらに音の似た九州の高良神を勧請したとも説があるようです。

中入になるとアイ男山山下(さんげ)の者が呼び出されます。ワキはアイに初卯の御神事の子細を語るように求め、アイがこれに答えて語ります。
このつづきはまた明日に
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弓八幡さらにさらにつづき

間語りですがおおよそ以下のようなことを語ります。
人皇十五代神功皇后が異国を退治しようとされ、九州松羅の沖にて楠を一本切り、舟を四十八艘作らせられた。それよりその木を切り出した山を舟木山と言うようになった。
この舟一艘には神が一社ずつ乗るかと思ったところ、一艘に大神、小神三百七十五社乗って舟を浮かべた。そして舟を止め、黄金の鈴を掛けて七日七夜祈り、日を選んで異国の地に渡り三韓を征服された。
その征服の後、十二月十四日に応神のご誕生があった。

当社は、欽明天皇の御代に、八幡神が王城近くに旗の落ちた所を鎮座の場所にすると決めて旗を投げたところ、この本宮の地に旗が落ちたことによって創建された。それは卯の年、如月の卯の日、卯の刻であった。
ここに一人の巫女が舞い、初卯の御神事のはじめとなった。
と、まあこんなところです。石清水八幡が欽明天皇の御代の創建と、ここでも言っていますが、宇佐八幡との混同ではないでしょうか。

それはさておき、アイが下がり囃子が入ってワキ、ワキツレが立ち上がり、待謡となります。前回、東北の際に書きましたが、知ラセ笛があった方がなんだか良いように思えますね。

待謡で「音楽の聞こえて異香薫ずなり」と謡われ、いよいよあらたかなる神の出現。ワキ、ワキツレはワキ座に下がって着座し、出端の囃子となります。
幕が上がり、高砂同断の装束付のシテが登場し囃子に乗って常座まで進みます。

常座に立ったシテは「ありがたや もとよりも人の国より我が国、他の人よりも我が人と」と謡い出し、ワキを向いて「高良の神とは我が事なり」と名乗ります。
さてこのつづきはまた明日に
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地震の影響

金曜日の午後から混乱の日々を過ごしています。
我が家は瓦の一部が落ちたのと、食器棚が倒れて大半の食器類が壊れてしまったのが被害の大きなところで、その他、いろんなものが倒れたりしたものの、家族全員怪我もなく無事に過ごしています。

ただ、ここ水戸でも本日13日の夜現在でまだ停電の地域もあり、私の家は通電していますが、我が家を含むかなり広い地域で断水が続いています。
我が家の電気は昨日の夕方通電したものの、ネット接続は基地局に支障があった様で本日までできませんでした。というわけで、地震後はじめて家のPCからブログ更新をしています。

ともかく大変な災害でした。テレビの画面を通して東北各地の様子を見るにつけ、あまりの凄まじさに声もありません。
実は本日は九皐会の三月定例会を観に行こうと、かねて予定していたのですが、常磐線は取手以北は不通状態ですし、仕事柄、昨日も今日も出勤して緊急対応にあたっていますので、とても出掛ける様な状況ではありません。九皐会のHPを見ると本日の定例会は催会されたようですが、仮に観に行けたとしても、とても能楽を楽しめる様な心境ではありませんので、やむを得ないところだろうと思っています。

明日以降も、まだ常磐線は土浦あたりまでがやっとの状態の様で、土浦以北は一体いつ頃復旧するのか見当がつかないそうです。
まだまだ余震も続いていますし、部屋も片付けが済んでいませんが、家族一同無事であったこと、ありがたいことだと感謝しています。

観能記の方は、もう二、三日、落ち着いてから更新したいと思います。

国立能楽堂主催公演の中止

3月中の国立能楽堂主催公演が中止になり、チケットは払い戻しと決まりました。
実は私、企画公演「調伏曾我」のチケットを持っているのですが、常磐線の復旧はいつになるか知れず、仕事も家も、とても今月中に能楽を楽しめる状況にはならない見込みのため、私にとっては有り難い決定でした。

私はこんな時だからこそ、芸術、芸能は大事にすべきと思っています。
得てして、魔女狩りの様に、苦しんでいる人がいるのだから楽しいもの、賑やかなものは慎まなければならないといった風潮になりがちです。そうならないように気を付けるべきだと思うのですが、でも現状、電気が足らず、計画停電が行われている中では、特に夜間の公演は自粛すべきなのだろうと思います。

能楽を深く愛好するゆえに、今回の国立能楽堂の中止決定は良い選択だったと思っています。
・・・正直のところ、調伏曾我という、言ってみれば稀曲を観る機会でしたし、早々と手に入れたチケットだけに残念なのですが・・・

弓八幡もう一日のつづき

震災の混乱はまだまだ続いていて、我が家ではライフラインは回復したのですが、近隣でも断水や停電が続いている地区も少なくない状況です。しかも原発の問題もあり、大変心配なところです。
ですが、少しずつでもリズムを取り戻していこうと思います。
五雲会の弓八幡の最後の部分が残っていますので、本日は久しぶりに観能記を書いておこうと思います。

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地謡が受けて「如月の 初卯の神楽面白や」と謡うにあわせシテはワキ正に出て開キ、目付柱の方を向いて「謡えや謡え日影さすまで」と謡いつつ開キ、続く地謡で両袖の露を取って大小前に行きサシ込み開キ、答拝して神舞となりました。

舞は脇能らしい颯爽とした舞で、好感が持てます。しかし初段あたりから笛が鳴らなくなってしまいまして、急遽、笛に後見が出ましたが、結局そのまま吹き続けて最後はなんとか音が出て吹ききった感じです。良い舞だっただけにいささか残念ですが、シテが動ぜず舞上げたので観ていても安心感があり良かったと思いました。

神舞を舞上げると論議で後見座に向きます。
一呼吸置いて「かく新たなる御影向」と正面を向き、三足ほど出て開キ。「ことに君の神徳」と七つ拍子を踏んで謡い舞いが続きます。
「月の桂の男山 さやけき影は所から」と正中で小回りして雲扇、月が出る感じです。
扇持つ手を広げつつ正面を見上げて六拍子。
さらに常座へと向かい、目付方に出ると両袖を巻き上げて常座に戻り「神託ぞ豊かなる」と袖を戻して留拍子を踏み、終曲となりました。

シテの辰巳孝弥さん、この曲には力が入っていた様子で、上演後はロビーに紋付き袴で出て、お弟子さんなどに挨拶されていました。
先にも書きました通り、特に技巧のある曲でもなく素直な脇能ですが、素直な曲を素直に演じられた感じでした。
(80分:当日の上演時間を記しておきます)
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書き終えたところで地震。富士宮市で震度6強とか。一体どうなっているのでしょう・・・

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震災の日々

なんとかリズムを取り戻そうと、昨日は弓八幡の鑑賞記の締めの部分を書きました。

しかし茨城県内もまだまだ県の北部を中心に断水などの混乱が続いていまして、道路もあちらこちらに段差やひび割れなどが見られます。なんと言ってもガソリンが入手困難になっているため、物資の入手が難しく、ガソリンを求めて各スタンドに長蛇の列が出来、これが渋滞の原因になったり、また物流が滞っているために買い物も一仕事になっています。

さらにテレビでは連日、福島の原発の状況が繰り返し放映されています。
隣県のことでもあり、避難対象地域に知人もいます。一体この先どうなってしまうのかと、心配を禁じ得ません。

という訳で、本日は鑑賞記をあきらめました。
常磐線も計画停電の影響で、上野取手間は本数を減らしての運転のようですが、そもそも取手より北では電車が動いていません。土浦までは復旧の話もある様子ですが、それ以北はいつになるのか。
常磐高速はなんとか三郷から水戸インターまで開通したようですが、電車で東京まで行ける様になるのは何時になることやら。能楽堂で能狂言を楽しめるには、本当に、しばらく時間がかかりそうです。

歌争 月崎晴夫(五雲会)

ライフラインも復旧してきて、水戸近辺ではだいぶん生活も落ち着いてきました。ガソリンは相変わらず手に入りにくいのですが、そう遠くないうちに状況が良くなってくるのではと期待しています。
土浦以北の常磐線は、何時になったら復旧するのか今のところ見当がつきませんので、能楽堂に行くのは困難ですが、今日からまた先月の五雲会の鑑賞記を書いてみようと思います。
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和泉流 宝生能楽堂 2011.02.19
 シテ 月崎晴夫
  アド 竹山悠樹

大藏流では土筆と書いて「つくづくし」ないし「どひつ」と呼ぶ曲。和泉流では「うたあらそい」です。どちらも同じ歌を巡ってのドタバタですが、設定がやや違っていまして後々そのあたりにも少しふれてみようと思います。

さて舞台にはシテ、アドいずれも半袴の狂言出立で登場し、シテ月崎さんが笛座に控えると常座に立ったアドの竹山さんが「この辺りの者」と名乗ります。
長閑な日なので野遊びに行こうと思い、心易くしている人がいるので誘い立って出かけようと言い、舞台を廻ってシテの家に向かいます。

案内を乞うと常の如くシテが立ち上がってワキ座に出、アドとの問答になります。
アドは野遊びに行こうと思うが一緒に行かないかと誘い、シテもお供しようと同意します。
しかしすぐに出掛けようとするアドを、シテは「ちとお目にかくる物がござる」と留め中に招じ入れる形。「まずこうお通りなされい」と言い、ざらざらざらと扇で戸を開ける型を見せてシテを通し、アドがワキ座、シテが常座に着座します。

アドは「はあこれは庭を作らせせられたか」とシテの男が庭を作ったのに気付きます。
さらにアドは「向こうの花壇に赤う芽を出したは何でござる」とシテに問いかけます。
これにシテは「芍薬でござる」と答え、その芍薬が昔から歌には詠まれていないなあと口にします。

これを聞きとがめたアドが芍薬の歌はあると主張したことから狂言らしくなってきます。シテは芍薬の歌は聞いたことがないと言いますが、応仁の歌にあると言い「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今は春べと 芍薬の花」と歌います。
さてこのつづきはまた明日に
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歌争のつづき

アドが応仁の歌として詠み上げると、シテは「何がどうじゃといわっしゃる」と釈然としない様子ですが、再度アドが歌を詠み上げると今度は「なんじゃ芍薬」と言って大笑いをし始めます。
「芍薬、芍薬」と言って笑うシテにアドは腹を立て、応仁の歌を笑うことはなるまいと言いますが、シテは応仁の歌を笑うのではなく吟じようを笑ったのだと言います。
この歌は「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今は春べと 咲くやこの花」であって芍薬の花ではないと笑うわけですが、これに気を悪くしたアドは、ここに歌争いをしに来たわけではないと言って、もう野遊びに行くと出て行こうとします。

シテは自分もお供しようとアドについて出、只今は失礼したなどと言いながら、二人して野へとやって来ます。

さて舞台を廻り野へ出てみると、春の野は青々として気持ち良く、二人は土筆を見つけます。そなたの足の下にもあるなどと言い合って二人は笑い合います。
やがてシテが何か言い捨てのようなことを言いつつ土筆を摘もうかと言い「春の野に つくづくし おれてぐんなり」と詠みます。
これを聞いてアドが「ぐんなり ぐんなり」と大笑いをします。

今度はシテがむっとしてアドを問いただすと、アドは歌の留に「ぐんなり」とは聞いたことがないと笑います。
シテは慈鎮和尚の歌に「我が恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風さわぐんなり」とあると主張しますが、アドは「またくわした」とさらに笑う始末。

気分を悪くしたシテは、自分の歌を笑うのは仕方ないが、慈鎮和尚の歌を笑うのはなるまいと言います。しかし先ほどと逆に、アドは慈鎮和尚の歌を笑うのではなく吟じ様が悪いのだと言い「我が恋は 松を時雨の そめかねて 真葛が原に 風さわぐなり」と慈鎮の歌を詠み、また「ぐんなり ぐんなり」と笑います。
さてこのつづきはまた明日に
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歌争さらにつづき

大笑いするアドにシテは気分を害した様子で「そなたの身の上にもこれよりおかしいことがある」ので、そんなに笑うものではないと諫めます。しかしアドはこの「ぐんなり」ほどおかしいことは無いと言ってさらに笑います。

するとシテは、いつぞやの月の夜に川原で相撲が催された時のことを話し始めます。
・・・東方から出た小男が勝ち続け、もはやこの男に勝つ者はなかろうと思った所に、裸になって西方から出てきたのがアドの男だった。
さてどうなるかと見ていると、小男の技にアドの男は持ち上げられ、地面にずでいどうと落とされてしまった。男はびっこをひきつつ、蛙がのたくるように「ちと御免あれ」と言いつつ引っ込んだ。この時の顔を今思い出すと・・・と言って大笑いします。

これは確かにアドの男のことだったのですが、本当なだけに男は怒り出し、そんなことを言うのは自分と相撲が取りたいのだろうと、シテの男と相撲を取ろうとします。

シテは相撲など取りたくないと断りますが、アドは無理矢理相撲の形になってシテを投げ飛ばし、両手を打ち合わせて「勝ったぞ」と言って退場してしまいます。
シテがこれを追い込んで留。
なかなか楽しい一曲です。

大藏流では二人が野に出て土筆や芍薬をみつけ、この歌争をする形が通常のようです。出てくる歌は同じですが・・・
なお今回は和泉流の古い本に従って「応仁」の歌と書きましたが、一般には古今集仮名序にあるこの歌の作者は「王仁」と表記されます。「わに」百済から来た人だそうで、中学か高校の歴史の教科書にも出ていた様な記憶があります。
(18分:当日の上演時間を記しておきます)
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兼平 藤井雅之(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2011.02.19
 シテ 藤井雅之
  ワキ 舘田善博、アイ 深田博治
   大鼓 高野彰、小鼓 森澤勇司
   笛 藤田貴寛

五番立てで言う二番目物、武将の霊がシテとなって登場する修羅物は、現行では十六番を数えます。今のところ観能記で取り上げていないのは箙、朝長、そしてこの兼平の三番になりまして、今回はその兼平。木曾義仲の乳母子である今井兼平が主人公です。

今井兼平は木曾の豪族中原氏の出で、筑摩郡今井に所領を持ったことから今井を名乗ったとのこと。義仲よりも二歳ほど年上だった様で、巴御前は妹と伝えられています。平家物語巻九の木曾最期には、近江粟津の浜で義仲が討ち死にし兼平が後を追って自害した話が出ていますが、これをもとに能に仕立てたもののようです。

さて舞台には角帽子着流しのワキ僧舘田さんに、同装のワキツレ従僧の森常太郎さん、梅村昌功さんが従っての登場。向き合っての次第謡となります。
ワキは木曾から出た僧と名乗り、義仲が近江国粟津が原で亡くなったと聞いたので、跡を弔おうと粟津に向かう旨を述べます。

道行で木曾を立ち、夜を重ね日を添えて近江路に至り、矢橋の浦についたことが謡われます。着きゼリフでワキは、矢橋の浦に着いたので舟を待とうと言い、ワキツレがもっともにて候と相鎚を打つと、三人はワキ座へ進み着座します。
すると後見が舟を持ちだし、ワキ正に据えてシテの出を待つことになります。

一声の囃子で前シテの出。無地熨斗目に水衣肩上げの老人姿で舞台に進み、後見の置いた舟の後ろの部分に乗り込む形で立ち、棹を左手に持って一セイを謡います。面は尉面でして、私は詳しくないので何と判別できませんが、なんだか柄本明さんに似てるよなあと思いつつ見ておりました。
このつづきはまた明日に
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兼平のつづき

シテが謡い終えると、ワキが便船したいと申し出ます。しかしシテは、これは柴を積んだ舟で渡し船ではないので乗せられないと断ります。
こういうやり取りが能らしいところですが、ワキは柴舟なのは分かっているものの渡に舟がない。自分たちは出家でもあり、御利益もあろうから乗せてほしいとさらに頼みます。
結局、シテは舟に乗せることに同意し、地謡の「とくとく召され候え」でシテが棹に手を掛けて舟漕ぐ形になると、ワキがするすると進んで舟の中央部分に乗り込み下居します。
続いて名所教え。ワキが見え渡る浦山は皆名所だろうから教えてほしいとたずね、シテが同意します。ワキはまず、向かいの大きな山は比叡山かと問いかけ、シテは、ややワキ正側の方に向きを変えて答え、山王二十一社から八王子、戸津坂本の人家まで残らず見えることを示します。
シテ、ワキの問答がつづき、比叡山の謂われが語られ、根本中堂や大宮権現の御在所である橋殿などが見える様が示されます。

掛け合いから地謡となり、横川から「さてまた麓はさざ波や 志賀辛崎の一松」とシテは左、右と向きを変えつつ、移る景色を示す風。「さざ波の水馴棹こがれ行くほどに」と正面を向いて棹に手を掛けてさらに舟を漕ぐ形から、さらに「粟津の森は近くなりて」と幕の方を見ます。
地謡の最後は「粟津に早く着きにけり」と、柴舟が粟津の浦に到着し、シテは棹を落として舟を下りるとすすっと狂言座まで進み、その後は送リ笛に送られて静かに中入りしました。ワキもゆっくりと舟を下りてワキ座にと着座します。

シテが幕に入ると後見が舟を下げ、アイが立ち上がって釣り竿を右肩に担い、常座に出て「粟津の浦の船頭」と名乗ります。

当日いただいた藤城さんの解説にもありますが、粟津に着くとシテは何も言わずに棹を落として姿を消してしまいます。「夢ばし覚まし給うなよ」と言い残して行く八島の前シテではありませんが、もう少し愛想があってもよさそうな気もしますね。
このつづきはまた明日に
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兼平さらにつづき

アイは常座での名乗りで、今日は自分が舟を出す番だと言って目付に進み、ワキの一行に気付くと、向かいへ渡そうと声をかけます。
ワキが向かいからやって来たと答えると、アイはこの所の大法では自分以外の者は渡すことは出来ないはずで妄語を仰せかとワキに問い質します。

アイは棹を置いて正中に出て問答となりますが、ワキが先ほど老人の舟に乗った子細を語ってアイも一応収まり、ワキはアイに、木曾殿、兼平の果てたる様を語ってほしいと頼みます。
型通りのやり取りですが、知っている限りはということでアイが正面を向いて座し、語り出します。

まずは木曾義仲の御事、また今井四郎兼平の御最期として、義仲が平家を西海に追っ下した後、その義仲の都での狼藉を鎮めるために、東国から範頼、義経の兵がやって来た。
義仲は宇治勢多の橋をひいて、寄せる敵を討とうとするが、範頼、義経は六万騎を二手に分けてそれぞれを率いて布陣した。
佐々木四郎高綱、梶原源太景季らを先頭に押し寄せると、木曾の軍は落ち、義仲も落ちて都に向かった。兼平は義仲を追い、大津打出浜で再会した。兼平が巻いて持っていた旗を上げると三百騎ほどが集まったので、敵うまいとは思いつつも最期の戦いととって返して戦ったが、あるいは討たれ、あるいはちりぢりになってしまった。
兼平は、このうえは御腹を召され候えと義仲に勧め、自らは防ぎ矢として八騎を討ったが、義仲が討たれたのを聞いて自害した。

と語ります。聞き書きなのでいささか違っているかも知れませんが、いずれにしても平家物語巻九の木曾最期を基礎に置いた語りです。
語り終えたアイが下がると、ワキ、ワキツレが着座のまま待謡を謡い出します。続く一声の囃子で後シテの出。袷法被肩脱ぎに半切、梨打烏帽子に白鉢巻きの武将姿で登場し一ノ松に立ちます。
さてこのつづきはまた明日に
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兼平さらにさらにつづき

一ノ松に立った後シテは「白刃骨を砕く苦しみ眼晴を破り・・・」と謡い出し「粟津の原の朝風に」と幕方を振り返ると、向き直って舞台へと進み常座に出ます。

甲冑を帯びて現れ出たシテの姿に、ワキ僧は一体誰かと問いかけます。ご承知の通り、能では装束も極めて様式化されているため、歴史的な実際の服装と、装束が異なった形となる場合が多々あります。舞台上で甲冑を着けることはありませんで、袷法被に半切の組み合わせで甲冑を着けたことを表します。

シテは愚かな問いだと評し、そもそもワキ僧がここまでやって来たのも、自分を弔うためだったのではないかと言って、自ら兼平の幽霊であることを明かします。
さらにシテ、ワキの問答で、前日、矢橋の浦の渡し守として現れ出でた舟人こそ、兼平が現世に現れた姿であったことが明らかになります。

地謡のクリでシテは正中に進み、床几にかかってサシ、クセと謡が続きます。
クセの前半では平家物語の木曾最期をふまえ、兼平と同じところで戦って死のうと言う義仲を兼平が諫め、自分が防ぎ矢を仕るので落ちて御自害されるようにと兼平が勧め、義仲が唯一騎、粟津の原の彼方にある松原さして落ちて行ったことが謡われます。

上端「頃は正月の末つ方」からシテは義仲を演ずる形になり、床几にかかったまま謡に合わせ仕方で義仲が落ち行く様を演じます。馬が深田に落ち込んで動けなくなり、兼平はどうしたかと振り返ったところに矢が飛んできて、内兜を射抜き義仲は深手を負ってしまいます。地謡「今ぞ命は槻弓の矢一つ来たって内兜に」と右手を挙げ、扇をすっと後ろに倒して矢に射抜かれた様を示します。

「たまりもあえず馬上より」で立つと一度左膝を着いて馬上から落ちた形。常座へ出て「所はここぞ我よりも主君の御跡を先ず弔いてたび給え」とワキに向き、兼平の霊が僧に回向を頼む形に変わります。

さらにここから兼平の最期を見せる形となり、「御内に今井の四郎」と七つ拍子を踏んで扇広げ、正先へ出つつ雲扇、太刀抜いて四つ拍子を踏むと「大勢を粟津の汀に追いつつめて」と橋掛りに入り幕前まで進んで太刀打って六拍子。舞台に戻ると太刀を構えて回り「太刀を咥えつつ逆様に落ちて」と安座。あらためて立つと常座で小回りして開キ、留拍子を踏んで終曲となりました。
(81分:当日の上演時間を記しておきます)
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胡蝶 佐野玄宜(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2011.02.19
 シテ 佐野玄宜
  ワキ 則久英志、アイ 中村修一
   大鼓 亀井洋佑、小鼓 飯富孔明
   太鼓 金春國和、笛 寺井宏明

胡蝶は宝生流高橋憲正さんの演能(鑑賞記初日月リンク)、観世流観世喜之さん(鑑賞記初日月リンク)と浅見慈一さん(鑑賞記初日月リンク)の演能を取り上げています。今回が四度目でもあり、簡単に気付いたことなど書いておくのみに留めようと思います。

まず舞台には梅の立木台が出されます。流儀によって台が四角だったり丸だったりあったと思うのですが、この日は四角の台。次第の囃子でワキの登場となります。
ワキツレは出ずワキのみ。以前にも書きましたが、観世流の本にはワキツレ従僧二、三人と装束付けまで記されています。ですが、このブログに取り上げた演能ではすべてワキツレは登場していません。確かにワキツレの出る必然性には乏しい曲ではあるのですが・・・
ワキは角帽子の上から笠を被って登場しますので、名乗りで笠を取ると角帽子の先をちょっとのばし、道行で笠を再び被り、着きゼリフで笠をまた取って角帽子を直します。ワキが角帽子に笠を被って出ると、その度に角帽子を直す所作にちょっと愛嬌があるなあと思ったりします。

ワキがワキ座に向かおうとするとシテの呼び掛け。どのあたりでどの詞章を謡うかは、流儀によっても演者によっても区々かと思いますが、ワキとの問答をしつつゆっくり橋掛りを進んだシテは「大内もほど近く処からなるこの梅を」で二ノ松あたりまで出て立ち止まり、正を向きました。続くワキの詞「・・・今見ることの嬉しさよ」で再び橋掛りを歩みだし、ワキの「名所には住めども心なき」あたりで舞台に入って、シテ「これは都の花盛り」と常座に出ました。
つづきはまた明日に
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胡蝶のつづき

シテ・ワキの掛け合いから地謡に合わせて、シテは常座から目付に出て舞台を廻り、正中あたりから常座へと戻ります。
この地謡の出だし「梅が香に昔を問えば春の月 答えぬ影ぞ袖にうつれる」は、新古今にとられた藤原家隆の歌。有名な歌ですが、下の句を「答えぬ影も我が袖に」と変えて、「移る匂も年を経る・・・」と続けていくのが謡曲の面白いところです。

ワキがシテに、この宮の謂われや自らの名をも語るようにと求め、シテが自ら人間ではなく、梅花に縁のないことを嘆く身であると述べつつ正中に進んで下居、片シオリしてクリ、サシ、クセに続いていきます。

クセの前半は下居したままで、上げ端の後「昔語りを夕暮れの」で立ち上がると「月も差し入る宮のうち」と目付の方を向いて二三足出「人目希なる木の下に」と正先を見込み、さらに舞台を廻って「夕の空に消えて夢の如くなりにけり」と常座で一度正に向き直ると、あらためて「夢の如くなりにけり」と中入りしました。
謡のどのあたりで立ち上がったか、その後の所作など、これまでの記録と見比べていただけると微妙な違いが面白いかも知れません。
なお、森田流寺井宏明さんの笛ですので送り笛はありませんでした。

中入の後、アイ一条大宮のあたりに住まいする者が登場し、常座で「今日は長閑に候間、罷り出でて心をなぐさばやと存ずる」と言い、目付に出てワキ僧を見つけて問答に入りました。
ちょうど良い寸法で知らせ笛が吹かれ、ワキの待謡から後シテの出。緋の大口に紫の長絹、天冠の蝶を着けて常座に出て謡います。

この曲、太鼓入り中ノ舞が舞われるのですが、宝生流ではさらに中ノ舞舞上げの後、地謡に乗せて謡い舞いして「雪をめぐらす舞の袖 返す返すも面白や」で六拍子踏んで破ノ舞となります。観世流は中ノ舞だけで破ノ舞がありません。
深い思いを見せるような曲ではありませんが、春らしい趣を感じる一曲でした。
(74分:当日の上演時間を記しておきます)
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再び震災をめぐって・・・風評被害

二月五雲会の観能記の途中ですが、三月の最終日ということで震災について書いておきたいと思います。

原発の問題がなかなか好転しないままに時間だけが経過しています。
何種かの農作物が出荷制限などの措置を受けていますが、それ以上に風評による被害が広まっています。

私の地元茨城は、11年半ほど前にJCOの事故に際しても深刻な風評被害を受けました。あのときも「茨城県産」というだけで返品を受け、東海村から60キロ以上も離れた現在の筑西市にあるお煎餅屋さんまで出荷できない状態に陥りました。
そんなことにならなければ良いな、と思っていたのですが、この2週間ほどの間に信じられないくらい広範囲に風評が広がっています。

出荷自粛などの措置に該当しているのは、ほうれん草やパセリ、原乳など限られた品目に過ぎませんが、既に葉物はもちろん、様々な農作物などに返品や著しい価格の下落などが起きています。
昨年収穫して、ほとんど外気に触れない形で貯蔵されているサツマイモも買い入れを拒否されたり、他地域の原産でも茨城県で加工したものということで出荷できない状況になっている例もあるようです。

茨城県の水産加工業では、アフリカ産のタコを使った酢蛸などの出荷量が多いのですが、加工する際に地元の水を使っているだろうから、その水が放射能に汚染されていないという証明がなければ仕入れないといった要求もされているそうです。もやしなどの製造業でもこうした話がある様子。

しかし「証明を」と求められるのは、手間がかかってもまだ良い方で、問答なしに受け入れを拒否されてしまうケースも少なくないようです。地元の酒造会社では、これまでアメリカなどへの輸出も進められてきましたが、今回の件で輸入を断られたという話も聞きました。

茨城県のホームページを見ると、3月30日に調査した範囲では既に原乳には基準値を上回るようなものが無かったようです。
しかし現実がどうかよりも、買ってくれるかどうかが問題なわけです。

汚染された疑いのあるものをできれば避けたいという心情は十分わかるのですが、一人一人のそうした気持ちが積み重なると、震災からなんとか復興しようとしている農業者や製造業者、流通業者を打ちのめしてしまいます。
義援金やボランティアもありがたいことで、被災地にいる者としては心から感謝するところですが、でも復興は被災者自らが自分の力で生きていけるようになることが最も重要だと思います。そのためにも、風評が早く沈静化し、正常な流通に戻れることを心から祈っています。
どうか、福島や茨城などの産物であっても自粛などの対象となっていないものは、これまで同様にご購入いただければと、心よりお願いする次第です。

このブログの趣旨から外れましたが、三月の終わりにひと言書かせていただきました。
明日より観能記に戻ります。

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