能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

最後の晩餐

このところブログ更新ができず、いささか呻吟しております。
10月の金春会はなんとか書いたものの、月末近くの国立能楽堂特別公演、鵜祭と実盛の一件。さらに12月の頭には緑泉会を観に行ってきまして、これまたブログのネタが積み上がっております。
そんな状況ですが、またまた寄り道をして別な話を書こうという次第。

実は、やけに慌ただしくなってしまっている原因の一つでもあるのですが、11月も半ば過ぎに仕事で8日ほど欧州に行っておりました。
ミラノからパリ、ブリュッセル、ロンドンにエジンバラと、金融関係では大混乱の各地を回ってきたのですが、仕事はさておきまして、初日のミラノは休日から入ったため、現地の見聞を広めるということにして、かの有名な「最後の晩餐」も見て参りました。

最後の晩餐は、先般の20年以上にもわたる修復により本来の姿を現したと言われていて、テレビでも特集されたので御覧になった方も少なくないと思います。
もともとサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたものですが、現在まで保存されたのは、ある意味奇跡といっても良いほどのことと、今回、あらためて認識しました。

というのも、この絵がもともとテンペラ画の技法により描かれており、しかも食堂から厨房へと繋がる通路の上の壁面に描かれていたこと。さらにこの修道院自体が第二次世界大戦の際に米国軍の爆撃を受け、壁画の部分は残ったものの3年にもわたって屋根のない状態にさらされていたことなど、壁画が失われても当然と思われる数々の状況に遭遇してきたからです。

説明を受けてなるほどと思ったのですが、本来、壁画や天井画というのはフレスコ画の技法によって描かれるべきものを、レオナルドがあえてテンペラによったのだそうです。フレスコはご存じと思いますが、漆喰に顔料を混ぜていく手法なので長く絵が保たれます。最後の晩餐の真向かいの壁にも壁画があるのですが、こちらはフレスコで描かれているので保存状態が良好です。ただしこちら側の絵の下の方に左右一体ずつ描かれている人物像のみ色が落ちてしまっています。実はこの二体の絵はレオナルドがテンペラ画の技法で描き加えたものなのだそうで、フレスコとテンペラの保存性の違いが一目瞭然にわかる実例となっています。
ではなぜレオナルド・ダ・ヴィンチはテンペラ画の技法によったのか、と、まあそれは明日につづくということで
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きのうのつづき

なんでまた保存の難しいテンペラを用いたのか、そのあたりはレオナルド自身に聞いてみないと本当のことはわからないのでしょうけれども、フレスコの技法では漆喰が乾くまでの時間に描ききらなければならないし、重ね塗りや描き直しが困難であることなどを嫌ったのだろうと言われているようです。まあ、ともかくも大天才なので、絵を描く技法もいろいろと試していたらしいのですね。

しかしなにぶんにも食堂と厨房間の通路上に描かれているため、ただでさえ傷みやすいテンペラ画に湯気や油などがあたったようで、レオナルドの存命中から壁画に傷みが出ていたそうです。さらに通路を広げるために、ちょうどキリストの足のある部分が切り取られていまして、よくもまあ現代まで持ったなあと感心するところ。

さらに危機的だったのが爆撃です。
爆撃を受けた当時の写真が展示されているのですが、よくぞここまで破壊されて壁画が残ったものだと感心せざるを得ない状況です。建物自体は修復されていますが、爆撃で壊れた方の壁や天井は漆喰の色が白いのですぐわかります。壁画の右上のほうなど、本当にギリギリ破壊を免れたことがよく分かる状況です。
しかもその後3年にもわたって屋根のない状態が続いたわけですから、よくぞ絵が残りましたねと、心から拍手を送りたいような感じです。

しかしこの壁画、建物を修復して、もとあった食堂の形を再現した上で「壁画」として見せているのは素晴らしいことと思います。
この絵は一点透視図法という、遠近法の手法を用いて描かれていて、その証拠にキリストのこめかみあたりに、消失点とするために釘を打った跡があるそうです。この図法の効果は建物と一体化しているので、実際に建物の中に置かれた形でないと、本当の感じがつかめないだろう、というのが今回、実際に見てきての印象です。
・・・もう一日、書いてみようと思います・・・つづく

さらにつづき

ガイドをお願いした方が、もともと美術専攻で、その関係でイタリアに来てそのままガイドになってしまったという方だったので、まず展示室・・・というよりも旧食堂を再現した建物そのものですが、ここに入ると最後の晩餐の近くではなく、向かい合った反対側の壁画の方に連れて行かれました。

この建物、壁画を保存するためもあってか、一度に25人までが約15分ずつ見学できるようになっています。壁画のある部屋に到達するまでに何枚かのドアがあり、一枚のドアを通ってグループの全員がその先に進み、後ろのドアが閉まると次のドアが開くという仕掛けで、おそらく外気がどっと流れ込んだりすることのないように、調整されているのでしょう。
そうして入った壁画のある部屋、約15分の間は自由に見て良いのですが、ここで反対側の壁の方に行ったのは正解で、まずそちら側のフレスコで描かれた壁画の説明を聞き、そこからゆっくりと最後の晩餐に近寄ってみると、この絵がここにあることの意味がわかるような気がしました。

ゆっくりと近づいて細部まで眺めた後、あらためて遠ざかったりしてみると、この場所にあることによって絵に奥行きが生じていて、キリストや使徒たちが背景から浮かび上がっているように見えます。
帰国してから調べてみたところ、一説にはこの絵は「最後の晩餐」の劇をもとに描かれたという話もあるそうですが、部屋の中を前後に動きながら見た壁画の印象を思い返すと、確かに劇中の登場人物を見ているような遠近感を感じていました。

とまあ、その後は出張中も、帰国後も、何かと慌ただしくしていますが、ふと思い返すと良いものを見てきたなあと、しみじみ思い出す次第です。

鵜祭 本田光洋(国立特別公演)

金春流 国立能楽堂 2011.10.29
 シテ 本田光洋 
  ツレ(海女)本田布由樹 大塚龍一郎
  ツレ(八尋玉殿の神)本田芳樹、子方 青木美乃里
  ワキ 高井松男
  アイ 茂山茂
   大鼓 河村眞之介、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 三島元太郎、笛 藤田次郎

この鵜祭という曲、金春流のみが上演する脇能で、能登、今の石川県羽咋市に鎮座する気多大社の鵜祭の神事を原典としています。
いつもというわけではないのですが時々購入する国立能楽堂のパンフレット。今回買い求めてページをめくってみると、金沢大学教授の西村聡さんが十月の演目をめぐって一文を書かれていて、この中に「鵜祭」に関して、能登の七尾の畠山氏が日吉・金春・観世など諸座の猿楽を都から受け入れ支援していた話が出てきます。
畠山氏が天正五年(1577年)に滅亡するまで、この地を各座が訪れたようで、その中で、羽咋の気多神社に伝わる珍しい神事に取材した「鵜祭」を、金春座が所演曲に加えたことが書かれています。

七尾の畠山氏といえば、おりしも日経新聞に連載中の小説「等伯」の主人公、長谷川等伯は、もともと畠山氏に仕える下級家臣の出自であった様子で、畠山氏の没落が中央で活躍する長谷川等伯を生み出した遠因ともなっているようです。
そんなことを考えていると、歴史の不思議さをしみじみと感じるところです。

さて舞台にはまず一畳台が運び出されてきて大小前に据えられ、続いて運ばれてきた紺の引廻しを掛けた宮がこの上に置かれます。するとさらにもう一台、一畳台が運ばれてきて先ほどの宮を載せた台の手前に並べて置かれました。あまり見かけた記憶のない一畳台の並べ方で、いささか驚いていると真ノ次第。
黒というか褐色なのか、狩衣を着けた大臣ワキ高井松男さんに、赤大臣のワキツレ則久さんと梅村さんが登場してきました。
さてこのつづきはまた明日に
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鵜祭のつづき

次第の三遍返しに続いてワキの名乗り。当今に仕える臣下が、能登国気多の明神に急ぎ参詣せよとの宣旨を蒙って、能州に下向する旨が語られます。
続く道行、有乳山(あらちやま)から越の長浜を遙々とたどり、一の宮に着いたと謡われます。有乳山は越前敦賀あたりの山の様子ですが、越の長浜はどのあたりなのか。氷見に松田江の長浜の地名がありますが、この辺りのことなのかも知れません。佐渡島に越の長浜という名勝があるようですが、さすがにこちらは違いそうです。ともかくも勅使が能登国一の宮気多の明神にやって来たことが謡われるわけです。

ワキの着きゼリフ、心静かに神拝しようというワキに、従臣が「然るべう候」と答えて一同はワキ座に着座します。すると真ノ一声の囃子、前シテ、ツレの出になります。

ゆっくりと幕が上がり、唐織壺折りに肩にエブリを担い、笠に雪を積もらせたシテ。ツレ二人・・・本来は三人出ることになっているのだそうですが・・・は、白の水衣に同じくエブリを担って雪のかかった笠姿。シテツレの一声から、シテ、再び三人での謡と続きシテのサシ・・・と、シテのみと、ツレを含めての謡が続いて、気多明神の神祭に向かう海女少女たちの風情を示します。いつもながら光洋さんの謡には、しみじみとした味わいが感じられます。

下歌、上歌と謡い、シテはエブリを肩から下ろして右手に持ち、ツレ二人と立ち位置を換えて常座に向かい、エブリと笠を後見に渡して正面を向きます。ツレはその間に地謡座前に進んでいます。

ワキが声をかけ、この雪深い中に、女達がやって来ることの不審を尋ねます。これに対してシテが霜月初午の御祭礼の儀式にやって来た旨を答え、ワキはこれを聞いて、まさにその御祭礼の儀式のことを帝が耳にされ、急ぎ見てくるようにとの宣旨により勅使として赴いたことを語ります。

ワキはさらにその神事の謂われを問いかけますが、さてこのつづきはまた明日に
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鵜祭さらにつづき

シテは秘事なのではっきりとは言い難いとしながらも、この国の「ゆのがう」という所から鵜をとってきて贄にする。鵜は自ら贄となるが、その後放つと飛び去ってしまうという神事のあらましを話します。

この「ゆのがう」というのは何でしょうね。湯の郷ででもあるのでしょうか。
気多大社のホームページを見ると、鵜祭は12月16日未明の神事で、前もって七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽の鵜を、同地の鵜捕部三人が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして14日の夕方ごろ神社に到着し、鵜が餌止めとなると書かれています。
祭の夜、鵜捕部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答を交わした後に、鵜を本殿に向かって放つと、本殿の灯火に惹かれて殿内の台に止まるのだそうです。この鵜を取り押え、海浜に運んで放つと闇空に飛びたち、行くえも知れず消え失せるとか。
鵜浦町には湯川という地名も見えますが、ともかくも「ゆのがう」は鵜浦町の旧字名なのかもしれません。

ワキが不思議のことと驚いて、シテとの掛け合いから地謡「忝なしや神の代の 尽きぬ御恵み ひとえに仰ぎ給へや」でシテは五足ほど出てワキを向き、さらに正中へ進むとクリになります。シテは正面を向いて下居し、ワキがワキ座に下がって地謡のクリの謡。
気多神社の地形を示し、七星常住の仙境と謡います。

シテのサシ、地謡と続き、正一位勲一等気多不思議智満大菩薩と号する当社祭神をたたえ、クセの謡へと続きます。
クセは居グセで、神功皇后以来の当社の神徳が謡われますが、これを受けてワキはシテ一行に、この様な神秘を残さず語られるのは、一体どういう方達なのかと問いかけます。
シテは答えつつワキの方に向いて膝を立てる形になり、地謡の謡で気多の明神であることを仄めかして中入となります。
地謡のの「神とは言はん恥ずかしや」の繰り返しで立ち上がると、ワキを向いてから右に回り、常座へと立ち、向き直ってあらためての中入です。幕方に向かって二足踏みしめた後、来序の囃子で乱拍子のように一足ずつ進み、宮の後に回り込みます。
ツレの二人はシテが常座に至るあたりで立ち上がり、シテが宮の後ろに姿を消すと、幕に進んで中入します。
囃子が狂言来序に変わりますが、このつづきはまた明日に
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鵜祭さらにさらにつづき

狂言来序で登場するのはアイ末社の神。括り袴にヨレの水衣を着けたいわゆる末社出立で登場すると、能州気多の明神に仕える末社の神と名乗り、気多明神の神徳を立ちシャベリします。

気多の明神は日本第三の社として天下に隠れ無き神であり、一度参詣すれば息災延命の神徳がある。そのため国々、在所よりご参詣の人々も袖を連ね踵をついで夥しい。神功皇后が三韓を従えて国土を豊にしたのも当社の御神徳である。
さてその当社御神事数々あるうちにも、霜月初午の神事はとりわけ奇特なものである。当国、鵜の郷と申す所に毎年鵜が一羽飛び来たり、人々が育てて神事の日にこれを供えると、階を上って自ら贄になり伏すが、再び飛び去っていく。これは明神の神徳であると、気多の明神を讃えます。
・・・あらためて書いていて、一昨日「ゆのがう」ってなんでしょうねと疑問に思ったところ、これは「鵜の郷」かもしれませんね・・・

アイは続けて、そこに当今の臣下殿が御下向されたのを、明神が嬉しく思されて仮に姿を現し神秘を物語られ、なおも舞楽を奏して臣下殿を慰めようとされたことをシャベリます。末社にも臣下殿を慰めよと命があり、こうして出てきたと言って、一度目付あたりに進んでワキを認め、常座に下がって臣下の様子などを独言してから正中に出、御礼申し候と言ってワキ臣下に礼をする形になります。

さらに常座に戻って「目出度かりける時とかや」と謡って三段ノ舞。
末社が三段ノ舞を舞う基本的な形ですが、舞上げると「やらやら目出度や目出度やな」から謡い舞いして「もとの末社に帰りけり」と下居して留め、暇して退場します。

囃子が出端を奏して後ツレ八尋玉殿の神の登場となりますが、長くなりましたので、もう一日明日に続けることにします
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鵜祭もう一日のつづき

出端で登場してくるのは、後ツレ八尋玉殿の神。ハチジンギョクデンの神なんだそうですが、どのような神様なのか気多大社のホームページなどを見ても不明です。もっとも気多大社の祭神は大己貴尊、いわゆる大国主命ですので、この後、気多の明神が女神として登場するあたりから考えても、気多大社のサイトで八尋玉殿の神を探そうというのが無理かもしれません。

ともかく袷法被、半切に黒頭、冠を戴き太刀を佩いた八尋玉殿の神が登場し、大入杵の神王と号し今はこの地に跡を垂れる神と一声。大入杵命は崇神天皇の皇子だそうですが、ともかく、一声を謡ったツレは地謡で角へ出、ワキに向かって下居して一礼、立ち上がると台上に片足を乗せて扉を開く形。宮の引廻しが下ろされると後シテが床几にかかって現れ、ツレは地謡前に座します。

後シテは紫の色大口に銀の舞衣、天冠を戴いた女神の姿。大柄な芳樹さんの一方、光洋先生が小柄なので、見た目にも良いバランスです。

シテは八尋玉殿の神に、もろともに舞楽を奏して客人を慰めようと誘い、地謡のうちにツレが立ち上がって一畳台の前のやや右よりの場所に立ち、宮の内で立ち上がったシテともどもに答拝して楽の相舞となります。

シテ、ツレの相舞というのは、ままある演出ではありますが、楽の相舞というのは私は見かけた記憶がありませんでした。金春流では富士山や源太夫といった曲に楽の相舞があるそうですが、それもシテが男神ということで、女神がシテでツレが男神というのはこの曲だけだとか。観世流にはそもそもこの鵜祭も富士山も源太夫もありませんので、見た記憶がないのも、ある意味当然かも知れません。
ともかくもカカリの終わりでシテが台を下り、並んで舞う形から途中で立ち位置を入れ替え、また戻ったりしつつ五段に舞い上げてシテの謡になるとツレが下がり、地謡前で床几にかかります。地謡の謡でシテはワキに向き、向き返って幕方を見やって「真鳥も現れたり」と雲扇すると早笛、子方の出となります。

子方は白大口で鵜の冠を着け、いったん一ノ松に立ち、その後舞台に入って舞働となります。
台前で舞上げるとシテの「この鳥少しも驚かず」の謡から鵜祭の神事に沿った形になり、地謡に合わせて台上に上るとシテ前に下居、両手突いて一礼の後、立って台を下りるとワキ正に下居します。
シテ、ツレが立ち上がり、シテは台上に片膝突いてユウケンし、ツレが子方を立ち上がらせて放つ形。子方がそのまま飛び去った風に退場し、ツレが続いて一ノ松まで進みます。
シテは正中で見送ると、角へ出て扇カザシ舞台を廻って常座へ小回りして開キ「神は上がらせ給ひけり」と留拍子を踏んで終曲となりました。

初めてみる曲で、かつ見たこともない展開の曲でしたが、なかなかに面白い一番と感じました。
(110分:当日の上演時間を記しておきます)
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寝音曲 茂山あきら(国立特別公演)

大藏流 国立能楽堂 2011.10.29
 シテ 茂山あきら
  アド 茂山童司

寝音曲はこれまでも何度かブログで取り上げていて、和泉流では萬さんと万作さん、大藏流では善竹十郎さんの上演について触れています。
萬さん(鑑賞記初日月リンク)、万作さん(鑑賞記初日月リンク)、十郎さん(鑑賞記初日月リンク
その際も書きましたが、全般的な印象として三宅派の演出の方が詳細で・・・まあ、それはこの曲に限らずで一般的に野村家の上演は時間的にも長めになりますが、これにくらべて大藏流の方がシンプルな感じがします。
とは言え狂言の場合、流儀以上に家毎の違いが大きいこともあって、今回の茂山家の形は萬さんや万作さんの際と、十郎さんの際との中間くらいの感じ。上演時間も18分ほどで、これまた25分を超える野村家と12分程度の大藏家との間になっています。

話の展開は基本的に十郎さんの時と同じですので、謡うのも放下僧小歌ですし、最後は二人笑いあった後に、主人が「もっと謡え」と太郎冠者を追い、冠者が逃げ込んで留になりました。

概略をおさらいすると、まず主人が立って、夕べ太郎冠者が謡うの聞いたのでもう一度謡わせようと太郎冠者を呼び出します。呼ばれた太郎冠者はいったんは否定するものの、聞いたぞという主人に、あっさり謡ったことを認めます。
例によって酒を飲まねば謡えないという冠者に主人が酒を勧めますが、「数よう三合いただきましょうか」と催促した冠者は、三杯目を飲み干すと今度は女共の膝枕で寝ながらでないと謡えないと言い出します。

主人が寝て謡えと勧め、冠者は両手を耳の所で合わせて主人に寄りかかる形になり、主人が冠者の肘を下から持つ形で謡い出します。
まず「木買わせ木買わせ 小原木召せ」と小謡を謡い、その後放下僧小歌。「東には」で主人が冠者の手を持ち上げて下ろし、「音羽の嵐に」で再び上げ、さらに「西は法輪」で持ち上げます。

その後は「忘れたりとよ」でシテが自ら立って謡い舞いし、舞おさめると主人が「声もよう出て面白かった」と褒めます。太郎冠者は「お、忘れました」と笑ってごまかし、二人笑いあった後、もっと謡えと主人が冠者を追い込みました。

小柄なあきらさんの太郎冠者が味わいある演技で、酔うほどに謡うほどに元気が良くなってくる変化など、大変面白く拝見しました。
(18分:当日の上演時間を記しておきます)
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実盛 観世銕之丞(国立特別公演)

観世流 国立能楽堂 2011.10.29
 シテ 観世銕之丞
  ワキ 高安勝久
  アイ 茂山宗彦
   大鼓 安福建雄、小鼓 曾和正博
   太鼓 助川治、笛 松田弘之

この実盛は三年ほど前にブログで取り上げていまして、奇しくもこの国立能楽堂特別公演では「鵜祭」を舞われた本田光洋さんのシテで拝見しています。(鑑賞記初日月リンク

まずワキが白大口に黒系の水衣、角帽子の僧侶姿で登場し、ワキ座にて床几。ワキツレは薄い小豆色の水衣ですが、小林努さんと有松遼一さんの二人が登場して並んで着座します。高安流のワキはあまり見かける機会がありませんが、装束などもワキ宝生とは何となく違いを感じます。

狂言口開ですので、アイの宗彦さんが常座に出て名乗り、遊行上人が説法の最中に独り言を言う不審を述べます。
以前、本田光洋さんのシテで拝見した時は、アイが和泉流の石田幸雄さんで野村家らしく口開も長めだったように記憶しているのですが、宗彦さんは力の入った口開であるものの割とスッキリした印象でした。

アイが下がるとワキの謡い出しで、ワキ、ワキツレ掛け合いから同吟で称名念仏の様が謡われますが、この謡の途中「各々帰る法の場」で幕が上がり、シテが静かに姿を現します。謡の間にゆっくりと橋掛りを進んで「浮かむも易き道とかや」と、謡いっぱいに一ノ松からやや下がった柱の近くあたりに佇みます。

シテは小格子厚板にシケの水衣の老人姿で、サシ謡「笙歌遙かに聞こゆ孤雲の上」と謡い出し、「あら尊や今日もまた、紫雲の立って候ぞや」とワキに遠く合掌し、直して詞を続けて、念仏の声が聞こえるので今日もまた法の場に進んで聴聞しようと言いつつ、橋掛りを歩み出して、常座からワキを見「ここを去る事遠かるまじや 南無阿弥陀仏」と、成仏に期待をかける思いを述べつつ下居して合掌します。
さてこのつづきはまた明日に
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実盛のつづき

ワキがシテ老人に「いかに翁」と声をかけます。下掛りだと「御前に候」とシテの返事が入る所ですが、ここはワキの詞が続きます。ワキは老人が毎日やって来るので志ある人と思うものの、その姿が余人に見えないために誰と話をしているのかと皆が不審がっている。どうか名を名乗るようにと求めます。

これに対するシテの返事からのシテワキのやり取りは、なかなかに面白いところです。何度も名乗るようにと催促するワキに、シテは周りの人を退けてくれるようにと求めます。ワキが応じると、シテは一度立ち上がって正中へと進んで下居し「昔長井の斎藤別当実盛は、この篠原の合戦に討たれぬ、聞こし召し及ばれてこそ候ふらめ」と話し始めます。

ワキは、(実盛は)隠れもなき名将だが、その物語ではなく名を名乗るようにとさらに急かします。しかしシテは、その実盛がこの前の池水で鬢髭を洗い、その執心が残るのか今もこの辺りの人には(実盛の姿が)幻のように見えるそうだと答えます。
しかとは言わず、はぐらかすようなやり取りのうちに、ワキはシテが実盛の幽霊と気付いて問いかけます。これを受けてシテが「我実盛が幽霊なるが、魂は冥土にありながら、魄はこの世に留まりて」と、実盛の霊であることを認めます。

余談になりますが、ご承知の通り中国では霊を「魂(コン)」と「魄(ハク)」とに分けて捉えていて、「魂」は言わば精神を支える気、「魄」は肉体を支える気と言った分け方をされています。道教の考え方がもとにあるのでしょうけれども、現代中国人がどう考えているのかはわかりません。
ともかくも、魂があの世に行ってしまったのに、肉体を支える魄がいまだ現世にあるのは、執心から思いが残り肉体の名残のあるこの世に留まり続けているからなのでしょう。魄の字は文字通り白骨死体を意味している訳ですが、朝長の一節にも「魂は善所におもむけども、魄は修羅道に残つてしばし苦を受くる」とありますね。

さて自ら実盛の幽霊であると明かしたシテは、腰を浮かせつつワキを向き「顕れ出でたる実盛が名を洩らし給ふなよ」とワキに念を押す形。立ち上がると右に回り、常座で「行くかと見れば篠原の」と振り返って正を向き「池の辺にて」と正へツメ、下がって「幻となりて失せにけり」とあらためて中入り。
この日は送り笛がなく、無音の中をシテが静かに中入りしました。松田さんは、以前書いたようにシテの求めがあれば、森田流ながら送りを吹かれるのだそうですが、この日の中入はこれはこれで素晴らしい緊張感でして、銕之丞さんらしい後場を期待させる演技でした。
明日につづきます
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実盛さらにつづき

実はいささか失敗したと反省しているのですが、本田光洋さんの実盛を観た際に、どうも石田さんのアイ、口開の詞章と間狂言が気になりまして、今度見る時は確認してみようと思いつつ、アイの詞章についてはほとんど気にとめずに一曲見終わってしまったのでした。痛いなあ・・
前回気になったのは、石田さんの口開では独り言をする話が出てこず、中入り後に初めて上人が説法中に独り言する話が出てくる点でした。通常、口開の詞章の中でアイは遊行上人が独り言することの不審を述べると、およそ手に入るテキスト類には、そうした趣旨の解説がされています。
さて今回は・・・メモはないのですが、なんとない記憶では、口開の中で独り言の不審を述べていた様でした。はっきりと記録していないのが残念です。野村家の間狂言でも観てみたいものです。

ともかくも宗彦さんが登場してワキの求めに従って実盛の最期を語り、実盛を踊り念仏で弔うので人々に触れて回るようにとのワキの依頼に、立って触れた後、下がります。

ワキ・ワキツレの待謡「鉦をならして夜もすがら」と謡って、ワキが「南無阿弥陀仏」と四度ほど繰り返します。
出端の囃子で後シテの出。朱が基調色の袷法被を肩脱ぎにし厚板には大きな桐文、緑の地に金で源氏香文様の半切りを着け、白垂れに右折の烏帽子を着け白鉢巻の姿です。常座まで進んで謡い出し、「輪廻の故郷隔たりぬ」と幕を見込んでから正へ直し、「命は無量寿仏となう、頼もしや」と謡ってから、あらためて「念々相続する人は」と謡い、地謡との掛け合いで念仏の有り難さを讃えます。シテは謡いつつ、サシ込み開キから角トリして左へ回り、正先で扇下ろして常座に小回り、地の「ありがたや」でワキに向かって合掌します。

ワキは先の老人が甲冑姿で現れたことに驚きを示します。シテ、ワキの掛け合いで、鬢髭も白い老武者なのに、極めて花やかな出立で、余人には見えないけれども、上人には明らかに姿を現したことが謡われます。上に、やや詳しく装束を書きましたが、確かに老体には不似合いなほど華やいだ装束です。
面は前後を通して三光尉を用いていますので、ワキの「見ればありつる翁なるが」の詞章も納得がいくところです。
この曲、いささか後場が長大でして、もう一日、明日につづきます
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実盛もう一日のつづき

シテ、ワキ掛け合いから地謡「暗からぬ夜の錦の直垂に」でシテが詞章に合わせて舞う形で、「黄金作りの太刀刀」と七つ拍子を踏んで開キ、ワキに寄り、また舞台を廻って、地謡の最後「などかは到らざるべき」で常座にて合掌の形になります。

ここからクリとなり、シテは合掌した手を解くと「それ一念弥陀仏即滅無量罪」と謡いつつ正中に進んで床几。クリ、サシ、クセと展開していくのですが、シテのサシ謡を受けて地謡が篠原の合戦の有様を語って聞かせようと謡い、クセに先だってシテの語になります。

木曽方の手塚太郎光盛に討たれて首を取られたものの、木曽方では一体これは誰であろうということになり、斎藤別当実盛であろうと義仲が言った。しかし実盛ならば鬢髭が白いはずなのに黒々としていることから、皆が不思議がっていると樋口の次郎が出て、実盛はかねて六十になって戦う際には鬢髭を墨で染めて若やいで討ち死にしたいものと言っていたので、首を洗わせて御覧になってはと、涙を流したことを語ります。
この「洗はせてご覧候へと 申しもあへず首を持ち」で、床几にかかったままじっと語っていたシテが扇を広げ立って水掬う型を見せて地謡へ。

立ち上がったシテは正先に出て「水の碧も」とやや下を見る心、さらに「気晴れては」から六拍子開いて正先へ出、片膝着いて「髪を梳り」と型を見せ「元の白髪」とユウケンして立ち上がり、舞台を廻って常座へ進みます。「あら優しや」と両手を合わせ「皆感涙を流しける」と開キます。

クセの謡になり、シテは大小前に立ってクセの基本形をなぞる形で舞います。
実盛が都を出る時に、宗盛公が言うには定めて今度の合戦では討ち死にすることにもなろう。故郷に錦を着て帰るという言葉もあり、生国である北国に向かう実盛に赤地の錦の直垂を下された。その錦を着て家に帰るのは、弓取りの名は末代までと謡い舞いになります。

さらにロンギからは手塚の太郎光盛との組み合いの様を見せて、「影も形も南無阿弥陀仏、弔いて賜び給へ 跡弔いて賜び給へ」と終曲になりました。
銕之丞さんの能は、気力が見所にも拡がって、シテの演ずる人物がさながらそこで苦吟しているような感覚があります。いつもながらの演技に、しばし篠原の地に幽霊を見ているような感に浸りました。
(97分:当日の上演時間を記しておきます)
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三山 津村禮次郎(緑泉会)

観世流 喜多六平太記念能楽堂 2011.12.03
 シテ 津村禮次郎、ツレ 坂真太郎
  ワキ 森常好
  アイ 高野和憲
   大鼓 亀井広忠、小鼓 飯田清一
   笛 一噌庸二

この三山という曲は、宝生流と金剛流の二流のみが上演してきた曲で、わけても宝生流は得意曲としていたそうです。しかし観世流では、室町時代に上演の記録があるものの江戸時代には既に廃曲となっていたようで、昭和60年に横道萬里雄氏の協力で八世観世銕之亟(当時は静夫)さんが復曲上演して以降、広く演じられるようになったものです。
訳知りの方の説では、大昔の観世流ではこの曲の演出が地味で見所がなく、それでおそらくは廃曲になってしまったのに対し、宝生流ではシテ、ツレが枝を持って打ち合うという演出がうけて人気曲となったとか。そのせいなのか、復曲された観世流の演出でも後場にはシテツレの打ち合いから後妻打ちの型が続き、緊張感ある舞台となっています。

この三山、観世流では復曲のためか大成版の謡本がやけに丁寧に記載されていまして、通常は記載されないワキとアイのやり取りや間狂言の詞章まで書かれています。クセで中入りする形、通常こちらで演じられているようで緑泉会の当日もこの形でしたが、この形に加えて、宝生流と同様にクセの後にシテ・ワキのやり取りを経て中入となる詞章も記載されています。また地謡の最後の部分は、復曲に際しておそらく詞章を手直ししたのだろうと思われます。

さて舞台は次第の囃子でワキ、ワキツレの一行が登場してきます。
ワキは小格子厚板に白大口、水衣を着け角帽子の、ちょっと名のある僧といった感じ。ワキツレ従僧で常太さんと野口能弘さんの二人が従っています。

ワキは大原の良忍聖と名乗り、大和路に向かい念仏を広める旨を述べて道行、宇治を過ぎ大和にやって来ます。さてこのつづきはまた明日に
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三山のつづき

いやあ、年末のここに来て、どうやら食中毒になったらしく、この数日は苦しい状況となりました。
お正月が目前なのに・・・いやはや、今年一年を象徴するような一件であります。
本日は、少しだけ落ち着いてきたので、三山の鑑賞記の続きを書いてみます。
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大和にやってきたワキの一行、このあたりは三山といって名所があると聞いているので、ところの人に聞いてみようと言って、ワキが常座からアイに呼び掛けます。

呼ばれて、アイ「ところの人」の高野和憲さんが進み出ます。
ワキが、三山という名所があると聞いたので教えてほしいと問いかけると、アイがこれに答えます。三山というのは一つの山の名ではなく、北に見える耳成山、南に見える天の香具山、西に見える畝傍山の三つの山を、三山と言うのだと答え、心静かに眺めるように勧めます。「重ねて御用もあらば・・・云々」のやり取りの後にアイが下がり、ワキ一行がワキ座に向かおうとすると、シテの呼び掛けとなります。

シテは幕前に出ると少しずつ橋掛りを進みながら、知っている人は少ないが、この山は万葉集第一に詠まれている三山の一つ、耳成山ともみなし山ともいう山で、妄執の物語があるのだと述べます。
一ノ松手前あたりで立ち止まって正面方を向くと、耳成山の池水に沈んだ人の昔の話を聞くようにと、ワキに求める形で謡います。
ワキは、たしかに万葉集では大和に三山があり、香久山が夫、畝傍、耳成山は女で、争いがあったと書かれていることを思いだし、その子細を教えてほしいと問いかけます。

常座に出たシテは「まづ南に見えたるは香久山」と正面を見、角柱の方に向きを換えつつ「西に見えたるは畝傍山」、さらにワキ正を向いて「この耳成までは」と三つの山を順に見る形で、ワキもこれに合わせて三つの山を見る風情です。
シテ、ワキの問答の形で、香久山に住む男が、畝傍山の桜子と耳成山の桂子、二人の女に二道かけて通ったいきさつが語られ、シテは争いの末に桂子が池水に身を沈めた跡を弔ってほしいとワキに求める形になります。

ワキが、なおも三山の謂われを詳しく物語るように求め、地のクリでシテは大小前から正中に出て下居、ワキがワキ座に着座してシテのサシ、地謡と続き、クセへと桜子、桂子の争いが謡われます。居グセで桂子のつらい思いが謡われ、上げ端の後「この夕暮を限りぞと」と聞き「思い定めて」と立ち上がると謡に合わせ迷う様を見せ、「身を投げ空しくなり果てて」と素早く右一足を出して戻し、池水に身を投げた風で「池水の底に入りにけり」と中入になりました。
このつづきまた明日に
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大晦日にひと言

この数年、だんだんと時間の余裕を失っているようで、今年は鑑賞記を書いた能が二十三番、狂言が十番に留まりました。
振り返ってみれば、今年は三月初めの東日本大震災があまりに大きな事件で、一月、二月が遠い昔のことのように感じられます。今年の上半期は九皐会を連続で観に行こうと思い立ち、正月の喜之先生の翁から観能を開始したのですが、その後、こんな展開になるとは思ってもみませんでした。

震災後の呆然とした日々が過ぎ、間もなく仕事に変化が生じ、さらに家族に病人が出たり、自分自身が病気になったりと、信じられないくらいに色々なことのあった年でした。
こんな年もあるんだなあと、しみじみ振り返っているところです。

そんなこともあって、今年の観能は番数も少なかったのですが、さらに能は観世流がほとんどで喜多流・金剛流は一番も観ず終いになりました。

来年はどんな年になるのやら先のことはわかりませんが、その時々の巡り合わせで、観に行くことが出来る曲は、きっと何かのご縁があるのだろうと思って、流れに任せてみようと思っています。
観能に限らず、人生の流れに身を任せてその瞬間に集中してみようと、そんなことを考えています。どんな流れになるのか、いささか楽しみではあります。

皆様 よいお年をお迎えください。
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