能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

難波梅 梅若玄祥(国立能楽堂企画公演)

観世流 国立能楽堂 2012.01.28
 シテ 梅若玄祥
  子方 観世三郎太、ツレ 梅若紀彰
  ワキ 殿田謙吉
  アイ 茂山七五三
   大鼓 安福光雄、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 小寺真佐人、笛 松田弘之

いささか間が空いてしまいましたが、先日の国立能楽堂企画公演での「難波梅」の鑑賞記を書いておこうと思います。ですが当日の様子を書く前に、まずこの「難波梅」という曲について、今回調べたことなどもあり、いささか長くなりそうですが書いておこうと思っています。

まず今回の国立能楽堂企画公演ですが、観世文庫の創立二十周年を記念して観世文庫が所蔵する世阿弥の自筆能本四曲を23年12月から24年4月にわたり上演しようという試みです。観世文庫は観世家の所蔵する謡本や装束、面など様々な能楽資料を保存し、さらに能楽の普及に努めていこうという趣旨で設立された財団法人ですが、この所蔵品中に世阿弥自筆能本とされるものが四冊含まれています。今回の「難波梅」のほか、布留、松浦佐用姫、阿古屋松の四曲です。

世阿弥自筆とされる能本は十一曲が伝えられていますが、このうち四曲は観世文庫が所蔵し、残る七曲は生駒の聖天さんとして知られる宝山寺が所蔵しています。観世文庫の所蔵する四曲と宝山寺所蔵の七曲は伝来の経緯が違うようで、前者が世阿弥から弟四郎ないしその子の音阿弥に相伝されたものと思われる一方、後者は世阿弥の娘婿になる金春禅竹が所蔵していたものと言われます。(宝山寺本七曲は盛久、多度津左衛門、江口、雲林院、柏崎、弱法師、知章ですが、知章は世阿弥の筆ではないとされています)

さて観世文庫所蔵の四曲ですが、今回の「難波梅」が現行曲「難波」に引き継がれているのに対し、残る三曲は古くに廃曲なってしまいました。松浦佐用姫と布留は昭和になって復曲され、その後も上演が重ねられていますが、阿古屋松は今回の試みで初めて復曲されることになりました。
さてこのつづきはまた明日に。なおこの項にかかるブログの記載にあたっては、国立能楽堂一月のパンフレットに掲載されている東京大学教授松岡心平さんの「難波梅と呉服」、および法政大学能楽研究所刊行の「能楽研究」第22号に掲載された、立教大学名誉教授田口和夫さんの論文「世阿弥自筆能本<難波梅><松浦>の補筆訂正」を参考にさせていただきました。
では、明日につづきます
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難波梅のつづき

さてこの観世文庫所蔵の四曲のうち、今回の「難波梅」のみが現行曲に引き継がれている点ですが、これには色々な考え方があるようで、そもそもこれらの曲が「弟四郎ないしその子音阿弥に相伝された」という点も考え方の分かれるところのようです。

ご存じの通り、世阿弥と子息元雅父子はやがて将軍家の庇護を失い、代わって甥の音阿弥がもてはやされて、世阿弥の次の観世太夫となります。田口先生は、難波梅の一曲は両家が決定的に離れてしまう以前に世阿弥から弟四郎に相伝され、音阿弥の系譜になる観世太夫家で現行曲に繋がる形で演じられてきたもの。それ以外の三曲は世阿弥直系に伝えられた曲ではないかという趣旨の話を書いておられます。

ともかくも難波梅は現行の難波に引き継がれており、いわゆる復曲ではありませんが、冒頭部分をはじめ現行の詞章と比べると様々に異なっている点があります。こうした部分を自筆本に寄りながら、これまでも「自筆本による難波梅」として何度か上演されてきました。その際、演出も様々に見直されてきており、今回はより自筆本に沿った形となっているようです。
ところで現行の難波は各流にありますが、観世流のみ後シテを高砂同様の男神が神舞を舞う形としています。他流は老体の後シテが楽を舞うという形で、こちらの方が詞章から見ても合理的ですし、観世流のみが違うところから考えても、もともとはこの老体の形だったと思われます。

ということで、今回の演出では後シテを老体で楽を舞う形に変更しており、観世流としては「大変に違いの大きい」演出ですが、他流の形に近くなった印象です。なお曲名は「難波梅」とされていますが、観世文庫所蔵の本は冒頭部分が欠損し題名が欠けているようで、本当は何と書かれていたのか不明です。整理の都合上でしょうけれども、観世文庫所蔵本についてはこの曲の古名「難波梅」をもって題名としているようです。

さていよいよ舞台の方に移りたいと思います。
まず真ノ次第でワキワキツレの一行が登場してきます。当今に仕える臣下ということで、白大口に袷狩衣、風折烏帽子を付けたワキ臣下と、いわゆる赤大臣のワキツレ大日向さんと御厨さんが登場してきました。
さてこのつづきはまた明日に
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難波梅さらにつづき

当日は真ノ次第で登場したワキ、ワキツレが次第「山は霞みて浦の春」と謡い出し、ワキの名乗り、続いて道行という現行の詞章に従った形で舞台が進みました。(現在の本では各流とも「山も」ですが)

自筆本ではこのワキの登場する場面が、名乗り・次第・上歌の順になっていたようなのですが、昨日書きましたように冒頭の部分が欠落していて「・・・モナレバ イソギミヤコ・・・」とおそらく現行のワキの名乗りの二節め途中からに相当する部分が読み取れる後に、次第の謡「山ハカスミテ ウラノ春」が記されています。欠落部分が大きく、自筆本に何と書かれていたのか確定できないために、当日は現行の詞章に沿った形で、次第から名乗り、上歌と進めたのでしょうか。

道行の謡の後、ワキツレが地謡前に進み、ワキは正中に出て着きゼリフを述べました。これは現行本にはありません。梅の花が面白く咲いているが、由ありげの木であると正先に梅の木を見、続いて目付柱の方を向いて、花守らしい老翁がやってきたから尋ねてみようと言ってワキ座へ着座します。

これを受けて真ノ一声、子方を先に前シテの登場になります。
現在、各流ともツレは直面の若い男で出ますが、自筆本には「チコ(稚児)」と記されており今回はこれに沿って、子方観世三郎太さんが登場しました。後見に出ておられる宗家清和さんが、三郎太さんをなんとなく心配げに見ておられるように感じたのは、私の思い込みかもしれませんが、ご子息の方は堂々たる舞台姿で一ノ松まで進み、振り返って幕前まで出たシテ玄祥さんと一セイ「君が代の 長柄の橋も 造るなり」と謡い出しました。シテは子方に合わせてということか、常よりも高めの調子で柔らかく抑えたような謡です。玄祥さんがこんな声で謡われることもあるんだと、いささか驚いた次第。

子方の二の句、二人での「今は春けき 盛りかな」で二人は舞台に入り、子方が正中に出ると、シテは常座でサシの謡となります。
現行では「それ天長く地久しくして 神代の風長閑に伝わり」とシテが謡うと二人合吟となりますが、このサシ謡が長くシテのみで謡います。現行の謡の後に「伊勢の海の玉も光り 殊に 浅香山浅からざりし言の葉の 色香普き心までも 障りなき世の玩び 治まる故の 楽しみなり」と謡って、二人の下歌「春日野に若菜摘みつつ」へと続きます。
このつづきはまた明日に
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難波梅さらにさらにつづき

下歌から上歌と謡い、「関の戸ささで千里まで」の辺りで二人が動き出して立ち位置を換え、ワキも立ち上がるなか、シテが正中、子方が目付に動いてワキとの問答となります。このシテ、子方とワキとの問答が現行の詞章に比べると細かく長くなっています。文意そのものが変わっているわけではないので、長すぎるということで後の時代に簡略化されたのかも知れません。

梅は名木かという問答から始まり、シテが「難波津に 咲くやこの花冬籠り 今は春べと咲くやこの花」の歌の心を問いかけると、難波の皇子のちの仁徳天皇の即位を廻る話が導かれます。このあたりは現行の詞章と変わりありません。

クリの謡になりシテは正中で床几に腰を掛けて謡を聞く形。続いてシテのサシからクセへと仁徳天皇の即位をめぐる事績が謡わます。居グセでシテは床几に腰を掛けたまま、ワキに語るような風情です。
ロンギとなり子方が春の舞楽「春鶯囀(シュンオウデン)」を奏しようと謡うと、地謡が彼方はいったいどなたなのかとワキの問いかけを代わって謡います。
子方はこの梅の花の精であると明かし、老人は難波津に咲くやこの花と詠って帝に位を勧めた百済國の王仁であると明かします。
この地謡「咲くやこの花と詠じつつ」でシテは立ち上がってワキにツメ、そこから舞台を廻って常座へ、さらにワキに向かってサシ込み開キして再び舞台を廻る形で常座に向かい、ここで一度振り返ってから、あらためて来序で中入となりました。乱拍子を思わせるくらいに、最初の一足は出した足を上げたまま止めてから踏み、徐々に早めつつの中入。子方も立ってシテに続きます。

さて二人が幕に入ると囃子が狂言来序となり、代わってアイ末社が登場してきます。
この間狂言は流儀によって里人の居語りになったり、梅の精や末社の立ちシャベリになったりなど様々な演出があるようですが、いずれにしても観世流以外の四流はここでアイが太鼓に見立てた鞨鼓台を持って出ることになります。(残念ながらどの流儀がどうと述べるほどに見比べておりません。いずれこの辺りも観能を増やしていければと思っています)
観世流では後シテが邯鄲男の面をつけ神舞を舞う形ですので鞨鼓台を出しません。しかし今回は後場が老体で楽を舞う他流と同様の演出になったため、アイが鞨鼓台を持って出て正先に据えるところから間狂言が始まります。(ただし観世流も羯鼓出之伝の小書がついた時にはアイが鞨鼓台を出します)
長くなりますので、このつづきはまた明日に
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難波まだつづき

いささか長くなるのを覚悟で、間狂言の様子についても書いておこうと思います。

昨日も書いたように、この曲の間狂言はそもそも流儀によっていくつかの形があるようです。今回はアイ茂山七五三さんが末社の神として狂言来序で登場してきました。
鞨鼓台を持っており、常座まで出ると台を置いて名乗ります。この鞨鼓台を持って出るのは後シテが楽を舞うためで、観世流の常の形である後シテが神舞を舞う形では当然ながら鞨鼓台を出しません。ただしこの前書いた通り、観世流でも小書に羯鼓出之伝がつくとアイが鞨鼓台を持って出る形で、今回と同様の間狂言になるようです。

さてアイは、古、人皇十六代仁徳天皇が未だ大鷦鷯(オホササギ)の皇子と呼ばれていた時、応神天皇の跡を菟道稚郎子(ウジワキイラツコ)皇子と互いに譲り合って、天皇が空位となっていたことから語り始めます。
その時、百済国より来た王仁(オウジン)という人物が、難波の皇子すなわち大鷦鷯の皇子が位に就けば平和な国になろうと即位を勧め、仁徳天皇が即位した。天皇が空位であった三年の間、花も青葉も見せなかった梅が、即位ののち一夜にして花開き、それを見て王仁が「難波津に咲くやこの花・・・」という歌を詠んだ。この度、当今の臣下がこの梅のところに来られたというので、王仁の霊が舞楽を奏して臣下を慰めようとしている。王仁は太鼓を打つので、結構な太鼓を出すのだと言って常座後ろに置いておいた鞨鼓台を持ち、どこへ置こうかと目付に台を置きます。しかし「いやいやこの辺りはちと悪しい」と今度は常座へ。さらに場所が良くないと正先へ置くと「ははあ 置いたりや置いたり まんまと置き済まいた」と納得します。

続いて「我らも一曲仕りたいが、それがしほど不調法な者はござらぬ」と太鼓を打たぬ言い訳をしてから、古、笛を吹いたことがあると笛を取り出します。「音取が良かろう」と笛を構えると笛方が音を出し、笛を吹く形をしながら舞台を一巡します。
上手の笛は云々と蘊蓄を語り、(自分の笛も上手なので)ここもとで吹く笛があの辺りから聞こえるようだと笛方の方を見やります。これは笑いの出るところ。
さて続いてユリを吹くと言って舞台を回り、この度は長々と笛を吹こうと言って三段ノ舞の譜を吹く形になります。もちろん音は笛方の松田さんが出しており、その音に合わせての所作だけですが、一段を吹くと「今日は天気が良くて 鳥が啼くよ ピーヨロヨロヨロ」と鳶を真似て退場します。

なかなかに面白い間狂言なのですが、ほぼ狂言一曲くらいの長時間のものです。
ちなみに王仁、百済の人で王仁はワニと読むと、むかあし歴史の時間で習った記憶があります。実際のところ、そんな個人がいたのか、あるいは百済からの帰化人の一団を代表させた名前なのか、今となっては伝説の中ということですね。
さて明日はようやく中入り後に移ります
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難波もう一日のつづき

アイが中入りするとワキ・ワキツレの待謡です。詞章は現行と変わりません。待謡を謡い終えつつワキがワキ座へと着座し、出端の囃子が奏されます。

出端で後ツレと後シテの登場。後ツレ木華開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の神霊が先に立ち、後シテ王仁の霊が後に出て、ツレが常座にシテが一ノ松に立ってシテの謡となります。
ツレは黒垂に天冠をつけ白大口に舞衣の形、天冠は観世流の通常の形では普通の天冠だと思うのですが、この日は梅立テ天冠ということで花のついた小振りの梅の枝が立ててあるというものです。シテも繰り返しになりますが、観世流の通常の形では邯鄲男の面に透冠をつけ白大口に袷狩衣の装束で出るところ、悪尉の面に白垂、鳥兜をつけて半切に狩衣の形で登場します。
シテの謡、ツレの謡の後、現行ではシテと地謡が掛け合いで二度ほど交互に謡った後に地謡の「難波の事か法ならぬ 遊び戯れ色々の舞楽 おもしろや」となるところ、掛け合う部分の地謡の詞章をツレが謡って、地謡の「難波の事か・・・」になりました。
この最後の地謡でツレは正中から常座、大小前、再び常座と舞台を廻り、謡いっぱいに常座で答拝して天女ノ舞となりました。この間にシテは一ノ松で床几に腰を掛けています。

この天女ノ舞、私は観た事がありませんが金春流では破ノ舞になるそうです。ともかくも舞上げたツレのワカでシテが立ち上がり、謡いつつ橋掛りを進んで鞨鼓台の前に出ると撥を取って正中に下がります。この間にツレは笛座前で床几に。
地謡との掛け合い、シテは「鐘も響き」と左袖巻いて片膝をつき、立ち上がると目付へ。四拍子踏んで袖を巻き、正へ向いて袖を直すとサシて小さくゆっくりと回って大小前から正を向き、再び鞨鼓台に寄って撥で四つ叩き、楽が始まって五つ目を叩き舞になります。この叩く所作にまず太鼓があわせ、次の二つを小鼓があわせ、再び太鼓が二つあわせます。なかなかに面白いところです。
楽の四段のヲロシで再び太鼓を打つ型が入り、調子が盤渉に上がって舞上げるとロンギ。続く謡に、招き扇を繰り返したり、度々拍子を踏むなど太鼓を打ちつつ天下治まる事を言祝ぐ風情の舞が続き、最後は常座で小回りし、ユウケンして留拍子を踏みました。

松岡先生の文では、この難波梅を世阿弥は足利義持の治世と称光天皇の即位を二重に寿ぐ意味で作ったのではないかと書いておられますが、なるほど詞章をよく読むと、実に入念に組み立てられていることが分かります。
田口先生や松岡先生の説は大変興味深いのですが、このブログはこのあたりで。いささか長くなりましたので・・・
(122分:当日の上演時間を記しておきます)
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九皐会若竹能を観る

土曜日18日は、夕方からの若竹能復活特別公演第一日、序の巻を観に、矢来能楽堂まで出かけました。
長年続いていた若竹能が平成20年から中断していたものですが、この度3年振りに復活。今回はこの18日の序の巻と19日の破の巻、そして7月の22日に第三日急の巻と、三日間の公演が企画されています。

序破急と分けて、平家物語を廻る能を観ようという企画で、なかなか面白い構成です。
第一日は元NHKアナウンサーの葛西聖司さんの解説の後、仕舞七番、そして中所宜夫さんのシテで能「俊寛」という番組でした。
仕舞も、頼政、仏原、熊野、鵺、実盛、巴そして兼平と、いずれも平家物語、それも平家全盛の頃にちなんだ曲を揃えています。なるほど、こんな企画もあるなあと、感心しました。

もっとも、中所さんの能を都合がつく限り観てみようと思っていまして、その一環でもあるので、必ずしも番組の企画だけで観に行ったわけではないのですが、いわゆる五番立てのような形に拘らずに、テーマ性を持って番組を構成してみるのも面白いかも知れませんね。

葛西さんのお話は、テレビでお見かけする通り歯切れ良く、楽しいものでしたが、いずれにしても解説があるとまた一つ能の見方が深くなるような気がしています。

中所さん、相変わらず熱演ですが、俊寛は相当に思いを込められた演技と感じました。
歌舞伎と異なり、抑えた表現ゆえに、葛西さんの解説にもありましたが、平家物語という特定の話を離れて、だれもが追体験し得る普遍性を持った悲劇になっていたように思います。

長山耕三さんの鵺の仕舞も印象的でした。

なお、九皐会の長沼範夫さんが昨年大晦日に亡くなられたとか。ご冥福をお祈りします。

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