能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

通盛 出雲康夫(喜多流職分会自主公演能)

もう一月近くも前のことになってしまいましたが、5月の末に喜多流職分会自主公演能を観に行って参りました。
時間の都合で、一曲目の通盛、狂言の水掛聟、そして飛鳥川まで観て帰ってきました。

いささか時間があいてしまいましたが、その折の鑑賞記をのせておこうと思います。
本日はまず、出雲康夫さんの通盛です。
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喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2012.05.27
 シテ 出雲康夫
  ツレ 大島輝久
  ワキ 福王和幸
  アイ 石田幸雄
   大鼓 亀井広忠、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 観世元伯、笛 藤田朝太郎

以前、観世流の長沼範夫さんのシテ、観世喜正さんのツレで観た時の鑑賞記を書いていますが、その折も書いた通り、井阿弥の原作とされる曲です。(鑑賞記初日月リンク
通盛と小宰相を描いた独特の情趣のある曲で、世阿弥がこの曲を改作してその後の修羅物に連なる新境地を拓いた曲とされています。

名宣笛が吹かれ、ワキ僧の福王和幸さんが舞台常座まで進みます。ワキツレ従僧の村瀬慧さんが続き、常座に立ったワキの後ろに控えます。
ワキ僧の名ノリは、阿波鳴門に一夏を送る僧であるとし、平家の一門が果てたこの地で毎夜磯辺に出て、経を読み弔っていると語ります。

名ノリ終えるとワキツレともどもワキ座に着座し、楫音ばかりが聞こえるだけの静かな浦の様を謡います。楫音・・・カジオトは船をこぐ櫓や櫂の音のことですが、古くは櫓や櫂を総称して楫と言ったようで、ここでは舵のことではありません。
この謡い出しで直ぐに後見の内田安信さんが舟の作り物を持ち出し、ワキ正に据えました。左の前側には篝火を模した籠が下がっています。

一声の囃子でシテ、ツレの出。
紅入唐織着流しのツレが先に立ち、シテは無地熨斗目に水衣肩上げの尉姿。そのまま橋掛りから舞台に入り、舟のところまで進むと、ツレが中央部の向かってやや右よりに立ち、シテは後ろの部分に立って後見から渡された棹を持ち、二人、舟に乗って進む形でツレの謡「すは遠山寺の鐘の聲、この磯近く聞こえ候」となります。
このつづき、また明日に
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通盛のつづき

ツレのサシの後、シテ、ツレの掛け合いで謡が進みますが、ここは観世とシテ、ツレの詞章が逆になっています。
その二人の謡のうちに、二人の舟がワキの読経する磯に近づいてきたという態。ワキが「誰そや・・・」と声をかけて問答です。

二人は下居して合掌し「弘誓深如海歴劫不思議の機縁」と謡います。地謡の下歌で合掌を解き、船中で下居のまま扇広げたシテは立ち上がって「葦火の影を吹き立てて」と扇で煽ぐ様を見せ、再び下居して「聴聞するぞありがたき」とワキに合掌。
上歌の終わり「猶々お経 遊ばせ」とシテがワキに向かって左手を差し出し、経を読むよう進める形です。

ワキが、火の光で心静かに御経を読むことが出来たと喜び、さてこの浦は平家一門が果てた場所ゆえ、どのような方が亡くなったのか語るようにと求めます。
これに答えて小宰相の子細を二人が語り出します。

通盛は清盛の異母弟である教盛の長男です。父である平教盛は、数多い清盛の兄弟のうちでも、特に清盛に目を掛けられていて、六波羅の清盛の館の惣門脇に家を持っていたので門脇宰相、後に中納言に進んでからは門脇中納言と言われたという話のある人です。例の「俊寛」に登場する、俊寛とともに流された藤原成経の舅でもあり、成経の助命嘆願に動いたことが知られています。

通盛はこの教盛の嫡男ですが、その弟の教経が屋島の謡に「今日の修羅の敵は誰そ なに能登の守教経とや」と謡われる武勇の人であったのと比べると、どうもあまりパッとしない人物だったようです。
その通盛が有名なのは、もっぱらその妻である小宰相との夫婦愛によるもので、平家物語も巻九「小宰相身投」の一章を小宰相に割いています。小宰相は宮中でも有名な美人だったそうですが、通盛の妻となると都を落ちる通盛に付き従い、通盛が討たれたとの報に接すると、自ら身を投げたと言われています。小宰相の身投げに気付いた一門の人々に、一度は海中から救い上げられますが、まもなく息絶えてしまったことから、人々が通盛の残した鎧を身につけさせて海に沈めたとされています。
さて、このつづきはまた明日に
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通盛さらにつづき

話は戻りまして、シテ、ツレの二人は舟に座した形のまま、小宰相身投の子細を語り出します。二人同吟になるところは、型通りに向き合う形になるため、狭い舟の中ではいささか苦しい感じがするところです。

地謡の下歌「沈むべき身の心にや」で二人はシオリ、上歌「西はと問えば月の入る」でワキ柱方向、遠くに月を見る態。シテが正面、ツレがワキを向いて「涙もともに曇るらん」とシオリ、ツレは船中を地謡座の方へ進もうとしますが、シテが「乳母は泣く泣く取り附きて」と、小宰相の身投げを止めようとする乳母のように、ツレを遮る形になります。

「御衣の袖に取り付く」とツレの両袖にシテが手を掛けますが、ツレはこれを振り切って舟を下りて後見座へ。入水した形です。
シテも舟を下りるとワキの方に向いて下居、あらためて立ち上がると送り笛にて中入となりました。

以前の鑑賞記にも書きましたが、前場の上歌に「姥も頼もしや祖父はいふに及ばず」の句があり、詞章を尊重すれば前ツレは姥姿で出るべきということになりましょう。おそらくは、古い時代には前シテ尉、前ツレ姥として出、二人中入して、後場は通盛と小宰相に姿を変えて登場したのでしょうが、中入前の入水の悲劇を見せるのに若い女の姿の方が良いという判断なのか、あるいは二人ともに中入りして、後場に二人して登場してくるのが煩雑という判断なのか、前ツレは若い女の姿で出るのが現在の形になっているようです。
もっともこの日はツレは後見座にクツログだけでしたが、中入りする形もあり、これはまた演出をめぐって、色々と考えられた末のことだろうと想像します。

さて、シテの中入の後、後見が舟を下げると、アイが登場し小宰相入水の次第をシャベリます。石田さんらしいかっちりしたアイですが、問われるままに通盛と小宰相の馴れ初めからを語ります。
上西門院に仕えていた小宰相が、ある日女院の前に、手紙を落としてしまいました。手紙には一首の歌が添えられており、「わが恋は 細谷川のまろき橋 踏み返されて ぬるる袖かな」とあります。女院は小宰相が通盛から恋を打ち明けられつつ、一向に会おうとしないので、その恨みの文であろうと推察し、自ら筆をとって「ただ頼め 細谷川の丸木橋 ふみ返しては 落ちざらめやは」と返事を書き、これが縁となって二人が結ばれたという、平家物語巻九にある話を語ります。
さてこのつづき、もう一日明日に
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通盛もう一日のつづき

アイの退場の後、ワキの待謡から出端。シテが舞台へ進むと、後見座にクツロイでいたツレは立ち上がって舞台に入り、先に大小前へと進みます。
シテが常座まで出ると、ワキが「如我昔所願」と謡い、シテが「今者己満足」と謡って合掌。
ワキ、シテ、地謡と謡が続き、シテは常座で一廻りしてワキを向き、あらためて「あら有り難の御法やな」と再度合掌します。

続くワキの謡で、波間に二人の幽霊が浮かび上がったことが知れますが、ツレはこれに答えて謡いつつワキ座へと向かい、ワキが地謡座前に進んで、シテが舞台の中心となります。白大口に長絹肩脱ぎで貴人の武将という出立。
自ら越前の三位通盛と名乗って正中に出、床几に腰を下ろします。

サシ、クセと謡が続き、「いたはしや御身は通盛ならで・・・」の地謡にツレを向き,ツレに語りかける風です。「亡き跡弔ひてたび給へ」と扇広げて酒を汲む型を見せて立ち上がり、「通盛酌を取り」とツレに寄って酒を注ぐ型から立ち上がり、二足ほど下がって下居します。

上げ端の後、弟である教経が通盛を探しに来たとの謡に、幕方を向き、正に直すとツレに暇乞いする形から立ち上がり、常座に進むと正面に向き直ってカケリとなりました。

カケリの後は岡部の六弥太と組んで討たれた末期を示しますが、キリの謡「読誦の声を聞く時は」で座してユウケンして、成仏にいたる様を見せます。
立ち上がって七拍子踏み返し、舞台を廻ると常座で合掌し留拍子を踏んで終曲となりました。
しっとりとした雰囲気の残るシテの演技でした。
(86分:当日の上演時間を記しておきます)
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六月の喜多流職分会自主公演能

本日は、目黒の十四世喜多六平太記念能楽堂に、自主公演能を観に。
と言っても、諸般事情がありまして、午前中も夜も別件があり、結局は野村萬さん、万蔵さんの「水汲」と松井彬さんの「雲雀山」のみ観て、帰ってきました。

雲雀山は、もう三十年くらい以前に、観ることにしていた会に所用で行けなくなって見逃して以来、不思議と縁の無い曲。今回も危うく逃すところでした。

とりあえず、五月の鑑賞記を書き終えてから・・・と考えています。

水掛聟 野村万作(喜多流職分会自主公演能)

和泉流 喜多六平太記念能楽堂 2012.05.27
 シテ 野村万作
  アド 深田博治、村井一之

この水掛聟は19年6月に高澤祐介さんのシテで観た際の鑑賞記(鑑賞記初日月リンク)を書いています。今回は万作家の上演で、高澤さんの時と同じ和泉流三宅派ですし基本的に同じ展開でしたので、気付いたことなど書くにとどめ、筋を追うのは省略させていただきます。

まず高澤さんの上演の際は、シテが高澤さんで、三宅右近さんがアド、右矩さんが小アドの配役。もちろんシテの高澤さんが聟役で、アド右近さんが舅、小アド右矩さんが女になります。で、今回はというと、シテ万作さんが舅でアド深田さんが聟、小アド村井さんが女という配役でした。当日の番組にもシテ野村万作、アド深田博治とキチンと書かれていますが、シテとアドの配役が逆になっています。
どうも狂言のシテ、アドというのは、能に比べるとあまり厳格なものではない様子で、時々、シテとアドの配役が逆になっている例に出くわしますが、これは本来はどうなのでしょうか。大正年間に出版された山脇和泉氏編纂、実際は十六世元清が編纂を開始し、早世した十七世元照の遺作となった和泉流狂言大成では、シテ聟、アド舅、小アド女(シテの妻)とされているようですが・・・

それにつけても記憶というのはいい加減なものだと思ったこと。
私、舅も聟も、お互いに自分の所有する田が隣同士なのに気付いていなかったのだと思い込んでいたのですね。ところが、よく台詞を聞いてみると、先に登場した聟は単に隣の田に水が取られていると腹を立てるものの、それ以上の説明はありませんが、後から出てくる舅は「隣の聟の田には水が満々とある」と言い、隣が聟の田であることを知っていることが明らかです。
あれぇ、と思って以前の鑑賞記を調べてみると、舅が「隣の聟の田には水があり、これはいけないと鋤で畦を」もとのように戻してしまったと書いてあります。こう書いたのに、どこで思い込んでしまったことなのか。もちろん上にふれた和泉流狂言大成でも、最初の場面での聟の台詞には、隣の田の所有主の話は出てきませんが、舅の台詞には聟の田と明記されています。

いやあ、こんなこともあるんだなあと、しみじみ思った次第でした。
(20分:当日の上演時間を記しておきます)
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