能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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雲雀山もう一日のつづき

サシからクセと、古歌を引いた詞章がつづき、シテが姫の不遇な様子、雲雀山に隠れ住む子細を謡い舞いして中ノ舞。
クセの舞は仕舞でも取り上げられることの多いところですが、なかなかに味わいのある部分。松井彬さんの能はあまり拝見する機会がありませんが、端整な芸風で好感の持てる舞姿です。中ノ舞ももう少し舞が続いてほしいと思うような、味わい深いもの。

この謡い舞いで、ワキ豊成が侍従に気付いて、中ノ舞を舞上げて一ノ松に進んだシテに声をかけます。
ここからシテとのやり取りで親子再会へといたり、子方中将姫の隠れる藁屋の戸をシテが開けて、子方をワキに引き合わせます。
二人を引き合わせたシテは正中に下がって控え、ワキ、子方が先に退場すると、その姿を追うようにシテが常座で見送り終曲となりました。

ところで中将姫。伝説は最初に書いた通りですが、なぜ中将姫と呼ばれるのか、これにはいくつかの説があります。八、九歳の頃、節句の宴の際に孝謙天皇の御前で見事に琴を弾き三位中将の位を授かったとも、十三歳の時に中将の内侍になったともいわれています。いずれにせよ伝説上の人物ですし、本当のところは分からないということでしょう。
ちなみに女性である孝謙天皇の御代に藤原仲麻呂が台頭し、豊成はその勢いに左遷されて都を離れ、中将姫が身を隠すきっかけとなったという説もあります。また母光明皇太后の病気のために一度退位した孝謙天皇が、淳仁天皇の後に再び位に就き、称徳天皇として道鏡の専横を許したものの、天皇の崩御によって道鏡が失脚した一連の事件は、日本史の教科書にも出てくる有名な事件です。

また、雲雀山に隠れ住んだ中将姫は、その地の藤村家に身を寄せ、婦人病に効果のある秘薬を藤村家に伝えたという話もあります。この藤村家出自の母を持つ津村重舎が、明治初年にこの家伝薬を「中将湯」として日本橋で売り出し、「中将湯本舗津村順天堂」の看板を掲げました。これが現在も漢方製剤の会社として続いている株式会社ツムラの起源となっています。また「津村順天堂」が売り出した日本初の入浴剤「浴剤中将湯」は、後に内容を大きく手直して名前を変え、現在は製造元も別の会社となっていますが「バスクリン」として商品は健在です。
(76分:当日の上演時間を記しておきます)
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観世会を観に行く

先週の日曜日、5日は久しぶりに観世会を観てみようと思い立ち、渋谷の観世能楽堂まで行ってみました。

今年の夏は、暑いことは暑いのですが、関東地方、わけても海岸に近い方は案外しのぎやすい日々が続いています。この日も晴れたものの風が涼しく気持ちの良い一日。私としてはエアコンなしで過ごしたいので、こんな日は助かります。

ともかくも開場の10時半よりも前に、観世能楽堂に着きました。
観世能楽堂前庭
前庭にパラソルなどが用意されていて、ちょっとしゃれた気分です。

番組は観世芳伸さんのシテで芦刈、銕之丞さんの班女は笹之伝の小書付、そして岡久広さんの安達ヶ原。
狂言は山本泰太郎さんのシテで狐塚です。
例によって、事前に番組を十分チェックしておらず、安達ヶ原が蝋燭能だったのでビックリ。白頭、急進之出の小書も付いています。
狂言の狐塚も小唄入の小書付で、後段の雰囲気が変わります。

何はともあれ、このところも慌ただしく、泊まりがけの出張などもあったため、観能記は追々ということで・・・

芦刈 観世芳伸(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2012.08.05
 シテ 観世芳伸
  ツレ 清水義也
  ワキ 舘田善博
  アイ 山本則秀
   大鼓 安福光雄、小鼓 鵜澤洋太郎
   笛 一噌隆之

この曲は古名を難波といい、『五音』には詞、曲とも世阿弥の作とあるようですが、『申楽談儀』をみると「喜阿も『難波の蘆を御賞翫こそ かへすがへすもやさしけれ(この曲のシテの詞章)』など おほかた申しけるなり」とあって、喜阿弥がこの曲を演じていたことが分かります。喜阿弥は世阿弥の父、観阿弥と同世代の田楽の役者ですから、おそらくは難波という古作の能があり、これを世阿弥が改作したというところでしょう。

さてツレを先頭に、ワキ、ワキツレが続いて、次第の囃子で登場してきます。ツレは唐織着流し、朱地に松の意匠でしょうか、ツレの装束としてはちょっと重い感じがします。ワキ、ワキツレは素袍男。ワキの舘田さん、ワキツレの森常太郞さんと梅村昌功さんはツレ日下左衛門の妻の従者という役処。

舞台中央で向き合っての次第「難波の浦を尋ねん」と謡ってワキの名ノリ。都のさるお方に仕える者だが、主人の若子の乳母がお里である津の国日下の里に下りたいというので供をしてきた由を述べます。道行の謡で淀川を舟で下り、難波の浦にやって来たことが謡われて、ワキの着きゼリフ。一行は日下の里に到着します。

若干妙な詞章なのですが「難波のうち日下の里に着きて候。このところにて左衛門殿の行方を尋ね申さうずるにて候」とワキが言い、ここで突然に一行が日下の左衛門を捜していることが分かります。
下掛りの本を見ると、次第の後、ワキの名ノリが長く、ここでツレの女が、津の国難波の浦日下の左衛門の妻であったものが、夫と離れて流浪の身となり都のさる方の若子の乳母となったが、夫を訪ねて日下の里に下ることになり、その供をしてきたのだと述べる形になっています。こちらの方が話としてはわかり易いのはもちろんです。ただ、ワキの名ノリが長いと、曲の印象が間延びする感もあり、上掛り、下掛りで演出を変えたのかも知れません。

ともかくも一行は左衛門を捜すこととして、所の人を呼び出します。これに応えてアイ日下在所の者が登場してきますが、このつづきはまた明日に。
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芦刈のつづき

ワキは進み出たアイに、日下の左衛門という人はいるかと問いかけますが、アイは貧窮して此処にはもういないと答えます。
この由をワキがツレに伝えるとツレの謡となり、貧しさの故に姿を消してしまうとはと嘆きます。サシ謡の最後にシオリますが、詞にかわって、とは言え此処にしばらく逗留して、左衛門の行方を捜したいと言います。

これを受けてワキはアイに、しばらくこの地に逗留するので何か面白いものがあったらお見せするようにと求めます。アイは、この浦には浜市があり面白いこともたくさんあるが、中にも若い男が難波の芦を刈って売り歩いているのが、色々に戯れ言を言って面白いのでご覧になってはどうかと勧めます。
ワキが喜んで、その男を待とうと言い、ワキは地謡前に下がり、狂言座から立ち上がったアイが橋掛りに入り口に立って幕に向かって声をかけます。
これを受けて一声。シテの出になります。

この曲、流儀によっては小屋の作り物が出されます。曲の冒頭から出されている場合と、このシテの出の前後で出す場合とあるようです。
金剛右京さんからの聞き書き「能楽藝話」、これは坂戸金剛家の最後の当主だった金剛右京さんの談話を三宅襄さんがまとめたものですが、この中で右京さんが芦刈の作り物について「芦刈には昔はどの流儀でも作物を出したものです。宝生と金春は今でも、舞台目付柱か橋掛りかに藁屋の作り物を出すと思います」と述べています。昔は各流とも作り物を出したのが、だんだんに整理されたようです。

さてアイの声掛けで、シテ観世芳伸さんの出。長閑な一声の囃子で、白大口に段熨斗目、大振りのぼかしで染め分けられた水衣を着け、いささか粋な感じのするシテが、直面に男笠を被り、芦を担って登場してきます。地謡に山科彌右衛門さんが出ているので、あらために比べてみると、けっこうお顔の印象は異なります。以前は双子でそっくりとばかり思っていたのですが、芸風もそれぞれに違いを感じるところです。

橋掛りの途中、一ノ松で謡い出し、正面に向き直り一セイ「難波なる 見つとはいはじ」と謡い出して橋掛りを進み常座まで出ると、地謡「我だに知らぬ面忘れ」で四拍子踏んでカケリとなります。
このつづきはまた明日に
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芦刈さらにつづき

シテのカケリ。
さてこの男、笠を被って芦を担って登場しサシ、一セイを謡ってカケリを舞うという狂女物と同様の進行、物狂いといえば物狂いの態です。
これがこの曲のいささか不思議なところで、夫婦生き別れになったとはいうものの、別にシテの左衛門は物狂いになっているわけではありません。雲雀山と同様なのですが、物売りが物狂いに通じるという捉え方なのでしょう。どちらかというと珍しい類型の曲ですが、この雲雀山と芦刈を続けて観たのも何かの縁かも知れません。

さてカケリの後、シテは謡いつつ常座から目付へ、さらに地謡で左に回って常座に戻り、サシ込み開いて常座でのサシ。ここでは一転して、受けがたき人身を受けたのにもかかわらず、貧家に生まれたのは前世の報いか、世過ぎの苦しさに芦刈人となった身を嘆き、地謡の下歌、上歌で舞台を廻りつつ、心情を表します。

このカケリの後の展開について、昨日も書きました「能楽藝話」には、「観世・宝生では前シテの出で、立ち舞ふ事のなかなかにの後にサシ、下歌、上歌、初同がありましょう。ところが流儀では、かくれ処はあるものを、の次がすぐ名宣で、ワキとの問答と続き、クセの後にロンギが入ります。それから舞になります。これなどは、昔各流が話し合いの結果、下懸と上懸とわざと区別をつけて違えたのです」という話があります。
この右京さんのいう「昔」がいつのことか分かりませんが、江戸時代の中期なのか、ともかく「話し合いの結果」というのは興味深いところです。上掛り、下掛りで異同のある曲は多々ありますが、こういう経緯で違いが生じたものも、この芦刈一曲だけではないのかも知れません。

さて常座に戻ったシテは、地謡の終わりで後ろを向いて笠を外し、後見に笠を渡して正面に向き直ります。
するとワキが声をかけて問答になります。右京さんの話の通り、下掛りはシテサシの代わりにシテの名ノリがあり、ワキが声をかけて問答に入りますが、最初のワキの声掛け、シテの返答、ワキの問いまでは若干違いがあるものの、その後のやり取りは観世の問答も基本的に同文で、一昨日書いた申楽談義にある喜阿弥の台詞「難波の蘆を御賞翫こそ かへすがへすもやさしけれ」もこのシテの問答の中で出てきます。
さてこのつづきはまた明日に
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芦刈さらにさらにつづき

シテ、ワキの問答では、ワキが「よしとあしとは同じ草にて候か」と、芦の名にまつわる問いを発し、シテは薄も穂が出ると尾花とも言うだろうと返事をしたり、難波では芦というが伊勢では浜荻というなどといったやり取りもあって、ちょっと面白い問答です。

シテの「芦という」から地謡となり、芦をめぐっての謡のうちに足拍子、芦を両手に捧げてワキに勧めたり、あるいは芦を刈る所作を見せたりなどしつつ、舞台を廻って常座にと戻ります。
ワキが話を変え、御津の浜とはどこかと尋ねます。シテが「忝くも御津の浜の御在所はあれにて候」と指し示すと、ワキはその場所よりも「忝くも」というシテの言いに気を留めます。

シテの返しで、難波の浦は仁徳天皇が皇居を置いたゆえに御津の浜ということが示されます。海辺の宮なので、漁村の篝火まで禁裏の灯火かと見えたことを述べ、「や」と一声でワキを向いて語っていた形から、シテは目を目付の方に転じます。
ここから笠之段「あれご覧ぜよ御津の浜に 網子調ふる網船の えいやえいやと寄せ来たるぞや」とシテが謡って地謡に。非常に調子の良い、聞いても観ても面白い部分です。

笠之段は仕舞でもよく演じられる部分。「海士の小舟なるらん」までは御津の浦の景色を見せるところで、舞台上に浜辺の景色が拡がるかどうかはシテの力量というところ。
上げ扇で「雨に着る」から今度は笠尽くしになります。
足拍子の多い舞いで、さらに手に持った笠を様々に使います。この最後あたりで「風のあげたる古簾」と、目付で、通常のクセの終わり近くに扇をかざすように、右手に持った笠をあげてかざす形にします。
この部分、笠を投げ上げる型があり、もともとこの曲ではその投げる型の方が一般的だったようです。とある本にも「投げないこともある」とあります。

この点について右京さんの「能楽藝話」に「私が六つか七つの頃です。父が舞台で芦刈の稽古をしていました。風のあげたる古すだれと笠を投げる型がありますね。あれは古簾が風にまき上がるのをうつす心です。普通は笠を捨てるだけですが、父はそれを高く上げてクルクルと廻して、消えて無くなる心で稽古していました。上からクルクルと廻って落ちてきて、スーツと消えてなくなる風に見えました。ですからシテ自身が、つれづれもなきと舞台を廻る間、笠は宙で廻っていました。今でもその鮮やかさは目に残っていますが、私には真似出来ません」という話があり、大変興味深いところです。
さてこの曲、もう一日明日につづきます
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芦刈もう一日のつづき

シテの謡い舞が終わるとツレがワキに声をかけ、芦売りに芦一本を持ってくるようにと言わせます。シテは芦を笠に載せワキに渡そうとしますが、直接輿の内に渡すように言われ、ツレに寄って芦を差し出します。するとシテは驚いたように立ち上がり、そのまま橋掛りに進んで幕前に下居、一方のツレはシオリます。

ワキとツレの問答になり、芦売りこそ捜していた左衛門であることが分かり、ツレが自ら左衛門に面談すると言って立ち上がります。橋掛りへ進んで一ノ松あたりに腰を下ろし、出てきて欲しいと謡いかけます。
先に書きましたように流儀によって藁屋の作り物を出す形があり、この場合はシテが身を恥じて藁屋に入ってしまいます。そこでツレが藁屋の前に行きこの謡を謡うわけで「とくとく出でさせ給ひ候へ」という詞章がしっくりする感じがします。

シテが心の内を述懐するように謡い出し、ツレとの掛け合いで姿を現すことにして二人舞台に戻り、正中で腰を下ろして向き合う形になります。ここでも「小屋の戸を押し開けて」の詞章があり、作り物を出すのが相応しい展開です。

ワキが目出度いことなので烏帽子直垂を着けるようにと勧め物着。シテは後見座に向かいますが、ここは物着アシライではなくアイが出てシャベリの形。ワキとのやり取りで「難波の蘆は伊勢の浜荻」をもじって「難波のアジは伊勢のハマグリ」などと地口を言ったりします。当日この物着にいささか手間取った様子で、アイの詞章の終わりと、装束が整ったのがほぼ同時。アイが立ってシテに声かけて狂言座へ、シテが立って常座へ進み、続く地のクリで大小前から正中へと進んで下居。サシ、クセと謡が進みます。
クセの上げ端前「然れば目に見えぬ鬼神をもやはらげ」で立ち上がり、その後はクセの常の型をなぞります。
ワキが一差し舞うようにと勧めて男舞。目出度さを感じさせスッキリと舞上げるとキリ。左右打込開いて正先へ出「月も残り」と雲扇開キ、シテが目付へと向かうとツレが立ち上がって退場。シテは「大伴の 御津の浦わの」と常座で拍子を踏んで開キ、左袖を返して「帰ることこそ嬉しけれ」と留拍子を踏んで終曲となりました。
なかなかに面白い一曲でした。

ところで、今回「能楽藝話」の芦刈にかかる部分をひきましたが、この金剛右京さんは金剛流二十三世の宗家、昭和11年に亡くなっています。祖父が名人といわれた金剛唯一ですが、若くして宗家を継承した後、東京から京都に移り弟子家である野村金剛家の金剛謹之助の指導も受けたと言われます。子がなかったため、一時は宝生家から養子を迎えてなどとも考えていた様子ですが、結局後嗣を立てず、東京に戻って亡くなった右京さんをもって坂戸金剛家は途絶しました。
その後は金剛謹之助の子息初世金剛巌が二十四世の宗家となり、子息の二世巌、そして二世巌の子息現二十六世の金剛永謹さんへと宗家が引き継がれているのは皆様ご承知の通りです。
(86分:当日の上演時間を記しておきます)
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天地明察

基本的に能楽のみを話題とするブログなのですが、時々、ほかの話も書いてみたくなることがありまして、本日は天地明察。冲方丁さん原作の小説ですが、映画化が進んでおりまして、本日、水戸での試写会に行ってきました。

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原作はここ一年ほどに読んだ小説の中では私としてはイチ押しでしたが、映画も一つの世界を作って、なかなかに面白い出来になっています。原作とは異なるところもありますが、これはこれで良いかな・・・と感じました。

9月15日から全国ロードショーだそうです。よろしかったら、ぜひ映画館に足を運んでみてはいかがかと思います。

狐塚 小唄入 山本泰太郎(観世会定期能)

大藏流 観世能楽堂 2012.08.05
 シテ 山本泰太郎
  アド 遠藤博義 山本則孝

以前、三宅右近さんの狐塚を取り上げましたが(鑑賞記初日月リンク)今回は大藏流。狐塚のある田に鳥追いに行くという主題の曲ですが、以前にも簡単に記した通り、和泉流では太郎冠者が一人で鳥追いに行く形。一方、大藏流は太郎冠者と次郎冠者が二人して鳥追いに遣わされます。さらに今回は小唄入の小書がついているため、鳥追いの場面で二人が小唄を謡いつつ鳥追いをする形になります。

舞台には小アド主人が出、シテ太郎冠者、アド次郎冠者が後ろに控えます。主人の遠藤さんが、コトのほかの豊作で目出度いことだが、田を鳥が荒らすのが気がかりと言い、太郎冠者、次郎冠者を呼び出します。
鳥追いを命じられた二人は、そんなことは子供でも出来ることなので子供をやって欲しいと抗弁しますが、夜中でもあり子供はやられぬと主人に断られ、鳴子を渡されてしまいます。

やむなく二人は承って出かけることとし、主人は狂言座に下がり、シテアドの二人が狐塚の田に向かうと言って舞台を廻ります。
和泉流では太郎冠者が一人行くことになっているため、日が暮れてきた、暗くなってきたと怖々歩く道中で笑わせますが、大藏流では二人で歩く内に、最初鳴子を持っていたシテが、アドに持つようにと言います。今度はアド次郎冠者が鳴子を受け取って先に立ち舞台を廻りますが、橋掛りに入って幕前まで進みアドが二ノ松まで戻ったあたりで、幕前にいるシテに、鳴子を戻すので太郎冠者が持っていくようにと主張します。
なんだか文荷のやり取りのようですが、どちらが長く持ったなどとの言い合いの後、二人で綱を引いて持っていくことになり、鳴子についた綱の両端を二人がもって、まずは三ノ松に向かってホーイホーイと鳥を追い、続いて二ノ松に向かって鳥を追い、そのまま鳥を追いつつ舞台に入って狐塚にやってきたという設定になり着座します。
さてこのつづきはまた明日に
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狐塚のつづき

狐塚の田にやって来た二人は、小書付のため鳴子を引きつつ小唄を謡います。

「面白や昨日の早苗今日は穂よ 稲葉のそよぐ秋風に 田の面の鳥を追はんとて 引けや引け引けこの鳴子 いざいざ鳥を追はうよ いざいざ引くものを謡はん」

と謡い、引き物尽くしの謡が続きます。聞き書きのためかなり怪しいのですが、とりあえずこの後も記しておきます。

「神の御前にみ注連縄引く 仏のお前に千の綱引く
ねの日の御幸に御車牛引く とののたかのの犬を引く
橋の上にはおいて駒引く 橋の下には上り下りの舟引く
春立つ山には霞たなびく 砂取る浦には網を引く
植え揃う田には苗代水引く 我らはここにてホーイホーイ鳴子引く
名所は都に聞こえたる 安積の沼にはかつみ草 しのぶの里には文字摺
思ふ人には引かで見せばや あねはの松の一枝
塩竈の浦は雲晴れて 誰も月をば松島
いとど寂しき秋の暮に 月出るまで暇なきを
いざさし置いて休まん いざさし置いて休まん」

と、だいぶん聞き違いがあるかも知れませんが、二人してホーイホーイと鳴子を引きつつ謡い、謡い終えると主が切っておいたという庵を捜しあてた態で二人舞台に並んで座します。

ここに主人が出て、夜寒なので二人に酒を呑ましょうと言い、一ノ松から声をかけて舞台へと入ってきます。
二人は狐が化けて出たと思い込み、主人の勧める酒を呑んだ振りをして捨てたりします。
最後は二人が鳴子の綱で主人を縛り上げ、煙でいぶして正体を現せと迫りますが、主人が綱をほどいて二人を追い込み終曲。
小唄の風情が聞かせ所ということで、ドタバタだけでない一曲と仕上がっていますが、こういう曲調は山本家の芸風には合うなあと思いつつ、拝見しました。
(30分:当日の上演時間を記しておきます)
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班女 笹之伝 観世銕之丞(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2012.08.05
 シテ 観世銕之丞
  ワキ 宝生欣哉
  アイ 山本東次郎
   大鼓 佃良勝、小鼓 幸清次郎
   笛 藤田六郎兵衛

班女は人気曲の一つで上演も多く、このブログでは5年ほど前に宝生流の波吉雅之さん(現藤井雅之さん)と金剛流の見越文夫さんの演能を取り上げています。宝生流(鑑賞記初日月リンク)、金剛流(鑑賞記初日月リンク)。
今回は観世流であることと、笹之伝の小書が付いている点で若干の変化があります。

狂言口開、東次郎さんが登場し、野上の宿の長であるが遊女花子が吉田の少将と契を交わして以来、交換した扇を眺めてばかりで勤めを怠っているので、皆からは班女と呼ばれており、差し障りもあるので追い出そうと思う旨を語ります。金糸と黒地を織り込んだような渋い装束で、宿の長という重みを感じさせるところ。

この「皆から班女と呼ばれて」というのは、以前にも書きましたが前漢の成帝の寵姫であった班婕妤(ハンショウジョ:フォントの制約で表示されない場合は、真ん中の字ショウは女偏に捷の旁)にちなんでのこと。彼女が帝の愛を失った我が身を扇にたとえた詩を作ったことから、花子に班女とあだ名を付けたという訳です。

さて花子への怒りがつのっている宿の長は、橋掛り幕に向かって声をかけ花子を呼び出します。アイの怒りの台詞が続く間にシテが登場し、こちらは対照的になんとも鬱々とした様子です。シテの紅入唐織は青の色も使われていて、きらびやかと言うだけではない、何やら深いものを感じさせる雰囲気です。

橋掛りですれ違って常座からワキ正に進み下居したシテに、アイが様々に言いかけ、シテの扇を取り上げては、この扇のためかと怒りを見せて扇を残して退場します。
シテは鬱々とした気分のまま謡い出し、地謡に送られる形でゆっくりと立ち上がると、アシライで中入となります。
このつづきはまた明日に
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班女のつづき

シテが幕に入ってしまうと囃子が次第を奏し、ワキの出になります。
ワキは色大口に長絹ですね。単狩衣で出ることもありますが、いずれにしても貴人の形。吉田の少将と一応名前が付いていますが、特に実在の誰かをモデルにしたということではなさそうです。ワキツレは素袍上下の従者。

次第、ワキの台詞、道行と進行しますが、東国から都に戻る途次、野上の宿にやって来たという態。あくまでも都への道の途中ということで、この道行には特段の型がなく「野上の里に着きにけり」の謡の後、ワキは直ちに従者を呼び出し、花子を尋ねてくるようにと命じます。

これに対して「畏まって候」とワキツレが立ち上がりますが、直ぐにワキに復命する形で「花子のことを尋ねて云々」という台詞になります。
以前にもここは妙だという話を書きましたが、どうも古くはアドアイ野上の長の召使いが出ていて、これとワキツレとが問答をかわす場面があったようです。これが省略されてしまったため、どこかに聞きに行った様子もないのに、いきなり従者が「尋ねてきたところ・・・」と返事する形になってしまったようです。たしかにそのやり取りだけのために狂言がもう一人登場し、一場面入るのは煩雑な感じもありますが・・・

従者の返事を聞いた少将は、もし花子が帰ってきたならば都に上るようにと伝えるように指示をし、ワキ座で床几にかかると一呼吸おいて「急ぐ間ほどなく都に着きて候」と、野上の宿から都へと時間、空間を飛ばします。
ワキの出は、旅をする場合、次第、名ノリ、道行、着きゼリフと進行しますが、この曲は、東国からの帰途に野上の宿に寄り、ここでのやり取りの後に目的地である都に帰ってくるという設定のため、こうした通常とはやや異なった展開になっているということでしょう。

ワキは宿願の子細があるので、これから直ちに糺へ参ると言い、場面は糺の社、下鴨神社になります。
囃子が一声を奏し、後シテの出です。一声は狂女越でしょうね。独特な雰囲気です。
さてこのつづきはまた明日に
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班女さらにつづき

後シテは唐織肩脱ぎ、笹を担った狂女の態。橋掛りを一ノ松まで出て謡い出しです。
この笹を担う形が笹之伝の小書で、この曲の通常の形は扇を持って出ます。狂女物ですから笹を持つのが当たり前の形ではあるのですが、なにぶん形見の扇がこの曲のテーマですから、あえて扇で出るのでしょう。そこを、さらに小書を付けて笹を持って出て狂女を強調するという演出かも知れません。

「春日野の雪間を分けて生い出で来る」と謡い出し、男女の語らいを守る神々に祈誓すれば、きっと願いも叶うだろうと謡いながら舞台に入り、「守らんと誓ひおはします」と常座に下居して合掌。「謹上再拝」と祈って立ち上がり、地謡の「人知れずこそ 思ひそめしか」でカケリです。この辺りの流儀による異同は、いつぞや記した通りです。

シテの謡から地謡の下歌、上歌と続き、シテは舞台を一巡して「祈るなりなほ同じ世と祈るなり」と合掌します。
ここでワキツレの詞「いかに狂女 なにとて今日は狂はぬぞ」から、シテとの問答になります。班女の扇はどうしたかといったやり取りがありますが、以前にも書いたように、このワキツレは少将の従者ではなく別人、おそらくは下賀茂あたりの人が出て声をかけるのが、もともとの形だったのでしょう。

この後はクリ、サシ、クセと続いて、正中に座したシテが思いを込める形です。
クセの前半「さるにても我が夫の」で立ち上がると常座から橋掛りに進み「頼めて来ぬ夜は積もれども」と笹を左に抱え、遠く思いを込めて眺める様子。「夕暮れの秋風」と舞台に戻り、正中で「あの松をこそは」と笹上げて振り返る型。そこからワキ正、正中の間あたりまで出て、上げ端「せめてもの形見の扇」と手に持った笹を見て落とし、胸元から扇を取り出すと広げて地謡にあわせて大左右の型に入りました。笹之伝の小書はこの上げ端の部分まで笹で舞い、ここから扇で舞う形です。

「その報いなれば今更」と六拍子踏んで角に出、扇かざして舞台を廻り大小前で左右、地謡の「絵にかける」で扇閉じて常座へ回り中ノ舞。
舞上げるとワカ「月をかくして懐に 持ちたる扇」と上げ扇開いた後、扇をじっと見る心。この辺り思いのこもるところです。

ワキが狂女の持つ扇が見たいと言い、一度は拒んだシテも扇を差し出して、最後は二人扇を開いて見せ合う形、目出度くも再会が果たされて「妹背の中の情けなれ」と留拍子を踏んで終曲です。

艶のある一曲ですが、銕之丞さんの舞台はある意味、わかり易い・・・と言うと誤解されるかも知れませんが、曲の意味、シテの心情が切々と感じられる演技で、いつもながら能の楽しみをしみじみと感じたところです。
(89分:当日の上演時間を記しておきます)
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安達原 白頭 急進之出 岡久広(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2012.08.05
 シテ 岡久広
  ワキ 殿田謙吉
  アイ 山本則俊
   大鼓 柿原弘和、小鼓 観世新九郎
   太鼓 小寺佐七、笛 寺井宏明

いや失敗しまして・・・というのも、観世流の安達ヶ原、他の四流は黒塚ですが、この安達ヶ原は既にブログで書いたとばかり思い込んでいたため、今回はメモも取らずひたすら舞台を楽しんだという次第で、観能記を書くには全くの資料不足。
面白かったことは間違いないのですが、正直言って困りました。

喜多、金春、宝生、金剛と、各流の黒塚はブログで取り上げていまして、喜多流粟谷明生さん(鑑賞記初日月リンク)、金春流中村昌弘さん(鑑賞記初日月リンク)、宝生流大友順さん(鑑賞記初日月リンク)、金剛流今井克紀さん(鑑賞記初日月リンク)の演能です。

この曲をめぐる様々な話は、上記のこれまでの記事でふれていますので、今回特に記載しませんが、不思議の味わいがある曲には違いありません。特段、何かの恨みの故に鬼になってしまったという訳ではない様子で、そういう意味では山姥とも共通する部分があると思います。しかし一方で、死屍累々の小屋に一人住んでおり、ワキ阿闍梨の一行を迎えたり、部屋の中を見るなと言い置いたりなど、人との関わりを切ることが出来ない様子も窺えます。自然の中に生き、山廻りに姿を消してしまう山姥とは、また一線を画する存在です。

ともかくも、資料不足で細かい点は不明ですが、気付いた点など、明日、少しばかり記しておこうと思います。
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このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

安達原のつづき

この曲の作り物は極めて重要な位置づけで、冒頭、引廻しを掛けた作り物に入ったまま、シテが登場し、ワキ阿闍梨の一行が登場して宿を借りようとすると引廻しが下ろされてシテが姿を現す。この時点ではシテの住む小屋の設定です。
それが問答の末、ワキの一行が小屋の内に招じ入れられると、舞台全体が小屋の中となり、作り物はシテの閨を示すわけです。
今回、特に演出上の変化などは感じませんでしたが、こうした舞台空間の扱いは能の能らしいところと思います。

白頭ですので、前シテも姥の扱いですが、装束など記録しておりませんし記憶があやふやです。ともかくも枠かせ輪が目付に出されて、これを回しつつ様々に思いを述べる糸繰りの段が前場の重要な部分になります。
ここから、あまりの夜寒に薪を取ってこようと、シテが出かけることになるわけですが、この時に枠かせ輪が目付に置かれているか、正先かで雰囲気が違ってくる点は、以前に書いた通りです。

ともかくも立ち上がったシテは、途中で「や」と足を止め、ワキに閨の中を見るなと言います。以前にもふれていますが、ワキが見ることはないと否定すると、下掛りの本ではそのまま中入となりますが、上掛りではさらにワキツレ従僧にも念を押す形になっています。今回も、一度ワキが返答した後、あら嬉やと一安心した風の後、さらに一、二足進んでから、かまへてご覧じ候ふな、とさらに念を押し、ワキツレには此方の客僧もご覧じ候ふなと声をかけて返事をさせます。いささかくどい感じがするところですが、それだけ「見るな」という禁忌を強調したということでしょう。

後シテは白頭、急進之出の小書ですので、白頭に負い柴で、早笛で幕が上がると一度橋掛りを進み出て阿闍梨一行を捜すように見て退り、幕内まで下がったところから一気に走り出てきます。喜多流には急進之出の小書がありませんが、ブログにも取り上げた粟谷明生さんの日立での公演で、この観世の急進之出同様の出方をされたのは、粟谷能の会のレポートに詳しいところです。

ワキとの激しいイノリの所作の後、祈り落とされた後、走り込んでワキ留の形となります。このあたりは小書が付かなくとも、様々な形があるところで、舞台上で留、橋掛りでの留、走り込んでのワキ留と、見られます。
いずれまた、観世の安達ヶ原を観る機会があれば、細かいところなども記しておこうと思います。
なお当日の附け祝言は猩々。附け祝言の猩々は久しぶりで聞きました。
(70分:当日の上演時間を記しておきます)
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