能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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九皐会別会を観に行く

本日は秋の九皐会別会。久しぶりに国立能楽堂に出かけました。

観世喜正さんのシテで松浦佐用姫と、遠藤和久さんのシテで安宅。
狂言は佐渡狐で、萬さんの奏者、万禄さんと扇丞さんのお百姓。それに、喜之師の乱の舞囃子と仕舞が四番。なかなか盛り沢山の番組でした。

いずれ鑑賞記を書きますが、松浦佐用姫は初見。観世流の復曲で、新しく演出が作られただけあって、なかなか面白い一曲。舞台の使い方、囃子の扱いなども、考えられている印象です。
安宅はご存じの一曲ですが、瀧流の小書がついて終盤がぐっと締まった感じ。ああ、やっぱり安宅は面白いワ、と思った次第です。歌舞伎に取り入れられ、人気の出し物となったのが納得いきます。

帰り、とんだハプニングで常磐線の特急が遅れ、いささか大変でした。
そもそもは終演が20分ほど予定より遅くなったため、予定した特急に間に合わず、その後の電車が点検を要する状況になったためなのですが、ま、安宅の最後の部分が特に面白かったので、あれを観たために遅くなったと考えれば、納得いきます。
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松浦佐用姫 観世喜正(九皐会別会)

観世流 国立能楽堂 2012.10.06
 シテ 観世喜正
  ワキ 舘田善博
  アイ 野村万禄
   大鼓 柿原弘和、小鼓 鵜澤洋太郎
   笛 一噌隆之

この松浦佐用姫という曲は、観世宗家に世阿弥の自筆本が伝えられているそうで、世阿弥の作であることは間違いないようです。しかしどういう子細か長く廃曲になっていまして、もちろん他流も演じません。日本名著全集『謡曲三百五十番集』などには「松浦」として出ていますが、これは自筆本からおこしたようで「サシコト」といった表記や「女釣竿持つべし、姿水衣」などといったト書きのようなものも記載されています。

昭和38年に当時の宗家二十五世観世左近(当時は元正を名乗っていましたが)が復曲、さらに58年に大槻文蔵さんが復曲しています。この二度目の復曲の後は度々再演されて演目として定着し、平成12年に正式に観世流の演目とされました。私の持っている観世流續百番集は平成13年の版ですので、乱曲、三曲の後に、「求塚」「三山」そして一番最後に「松浦佐用姫」が収録されています。

さてそれではいったいどんな話なのかということですが、万葉集に松浦佐用姫を詠んだ歌として
 遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名(万葉集巻五871)
 原文(得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈)

 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 (万葉集巻五874)
 原文(宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣)

などがあり、また肥前国風土記にも松浦佐用姫をめぐる伝説が記載されているそうですが、こちらは原文にあたっておりません。(874番の歌は山上憶良の作で後ほど登場します)
万葉集871番には、「大伴佐提比古郎子 特被朝命奉使藩國 艤棹言歸 稍赴蒼波 妾也松浦[佐用嬪面] 嗟此別易 歎彼會難 即登高山之嶺 遥望離去之船 悵然断肝<黯>然銷魂 遂脱領巾麾之 傍者莫不流涕 因号此山曰領巾麾之嶺也 乃作歌曰」とあって、極めて簡単ながら大伴佐提比古郎子(大友狭手彦)と松浦佐用姫の話であることが分かりますが、この能ではどういう話と捉えているのか、舞台の順とは異なりますが、間語りをもとに書いてみようと思います。
明日につづきます
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松浦佐用姫のつづき

間語りでは、まず辺りの名所などをあげます。
まずは玉島川、松浦の里を流れるために松浦川ともいわれる川で、昔、神功皇后がこの川で手ずから鮎をとられた川であると示します。また続いて鏡山を上げ、これも神功皇后が山の頂に鏡を埋めて戦勝を祈らせたために鏡山とされた由来を語ります。

続いて人皇二十八代宣化天皇の御宇に大伴狭手彦が遣唐使となった際の話に移ります。狭手彦はこの地まで来て唐土に渡ろうとしますが、波風が強くしばらく逗留せざるを得なくなります。
この地の長者の娘である佐用姫は容顔美麗な方でしたが、この時に、帝のお使いのつれづれを慰めようとして、狭手彦のもとに通いかりそめの契りを結びます。佐用姫は誠を尽くし、狭手彦もその気持ちを受け止めての日々が続きましたが、やがて順風が吹き狭手彦は遣唐使の務めとして海を渡ることになります。

佐用姫は狭手彦と別れ難く唐土について行こうとしますが、狭手彦はこれを許さず佐用姫を残して船出します。
佐用姫は肩に掛けた領巾(ひれ)を振って招きますが、船が戻ろうはずもなく海原を遠ざかっていってしまいます。佐用姫は紅の涙を流し、そのままそこにて亡くなってしまったとか。今も領巾山には女房の領巾を振り転ぶ姿の石があり、これこそ佐用姫が石になったものと伝えられている、という語りです。

大伴狭手彦は宣化天皇二年に新羅遠征に赴いたといわれており、この際の話と思われますが、宣化天皇二年は537年、唐が建国するのは618年ですから「遣唐使」はいくらなんでも無理ですね。とは言え、こうした混同は能では割とよくあることですので、あまり気にせず、舞台の方に進みたいと思います。

まずは次第でワキ僧の出。柿色の水衣に着流し、角帽子の旅僧姿のワキ舘田さんが出て常座で次第を謡います。次第の後は名ノリ。行脚の僧であるが、東国から都に上り、さらに西国修行と志して筑紫に下って博多に逗留した。肥前国松浦潟は聞こえた名所なので、これから急ぎ尋ねようと述べます。
「これは行脚の僧にて候」という名ノリは寡聞にして聞いたことがありません。通常は「諸国行脚の」とか「諸国一見の」とか言いそうなものですが、こちらの方が古い形なのかも知れません。常々は観世の謡本と異なるところの多い下掛り宝生流のワキですが、今回は世阿弥自筆本をもとに復曲された曲のためか、舘田さんの謡う詞章も謡本の通りです。
明日につづきます
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松浦佐用姫さらにつづき

松浦潟に向かうと名乗ってワキの道行。箱﨑から筑紫潟、浦伝いに松浦について着きゼリフ。世に優れて見所多いと聞くところ「あれに釣人の見え候」とやや右に流して釣人を認めた風。この辺りのことを尋ねようと言って、ワキ座に下がります。

囃子は一声、ゆったり目に間をとって前シテの出です。薄紫の縫箔でしょうか、腰巻にした上に白の水衣。雪綿を置いた笠を被り、右肩には釣り竿を担っての登場です。
常座まで出て一セイの謡。二の句からサシと、割と伸びやかに謡います。

下歌、上歌と松浦潟の有様などシテが謡いますが、この終わりにワキが立ち上がりシテに声をかけます。この辺りのことを教えてほしいという訳ですが、シテが答えてまず松浦川を示し、この湊で佐用姫が鏡を抱いて身を投げ、その魄霊が残って今の鏡の宮となっているので御参りされるようにと勧めます。
さらにワキが雪の積もっているのは松浦山かと問いかけ、シテは幕方を向いて、あれは松浦山で、領巾山(レイキンサン)と書いて領巾(ヒレ)振る山と読むのだと教えます。

ここからシテの語り。この山を領巾振る山というのは、昔狭手彦という人が唐土に使いの船出をするときに、佐用姫が船の跡を慕って山の上に上り、衣の領巾を上げ袖をかざして招いたが、船影が遠くなるままに、招き疲れて臥しまろんだことから領巾振る山というのだと謂われを語ります。さらにワキに向きつつ山上憶良が詠んだ「海原の沖行く船を帰れとや 領巾振らしけん松浦佐用姫」の歌を示して上歌。一度正面に戻した後ゆっくりとワキに向き、直して左から五足ほどサシ込み開キ、ワキを向くと左手を被っている笠に添えてワキ正に出て「沖つ波間に行く船の」と眺める形。正面に直してから「今に知らるるあはれかな」と五足ほど下がってワキを向きます。

ワキはさらに佐用姫と狭手彦の謂われを詳しく物語るように促し、クリでシテが大小前から正中に出て着座、釣り竿を置いて笠を外します。この間にワキはワキ座に下がって着座しています。
サシ、クセと狭手彦と佐用姫の物語が語られます。クセは居グセですが、シテの上げ端「佐用姫いつしか後朝の」地謡が受けて「恨みを添へて松浦潟 前の渚に立つ浪の」と聞いて腰を浮かせ「声も惜しまず鳴く田鶴の」で立ち上がります。
謡に合わせ正先に出、舞台を廻って常座近くから大小前、「領巾山にあらねども」と幕の方を見てから常座に進み、正に直して一度開キ、ワキ向いて正中まで出て腰を下ろし「げに恥ずかしき世語り」とワキに対峙するように向いた後、正面に向き直ります。
さてこのつづきはまた明日に
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松浦佐用姫さらにさらにつづき

ワキは続いて鏡の謂われを問います。シテはこれに答え、さらに受衣の望あり袈裟を授けて頂きたいと申し出ます。ワキは「易き間のことなり」と言いつつ、畳んだ掛絡を持って立ち上がり、シテに寄って首から掛絡をかけてやります。
ワキがワキ座に下がり、シテも一度立ち上がって二三足下がり、再び腰を下ろします。

シテが「掌を合はせ座をなして」と合掌し、二人同吟で経文を唱え、これを受けて地謡。有り難い法を得て、このお布施に狭手彦の形見の鏡を見せるので、暫く待つようにというシテの詞を地謡が代わって謡う形。「形見の鏡を見せ申さん」でシテは立ち上がり、二、三足ワキに寄ってから正面に直し、「真は我は佐用姫の」と幕方を向いてゆっくり歩み出し、常座で一度立ち止まって正へ向き直した後に、あらために送り笛で中入となりました。
この地の謡「真は我は佐用姫の 領巾(レイキン)山の澄む月の」の「佐用姫の」から「領巾山」をゆっくりと引いて「佐用姫の霊」と聞こえるような柔らかい謡い方。この日は大槻文蔵さんが地頭を務められていて、なるほどと思った次第です。この松浦佐用姫を復曲した文蔵さんならではなのかも知れません。
銕仙会では時折お見かけしますが、近い芸系とは言いながら九皐会で大槻文蔵さんをお見かけした記憶はなく、この曲だからこそということなのでしょう。九皐会のいつもの地謡とはいささか異なる雰囲気です。

ともかくもシテが中入りすると、松浦の里に住まいする者としてアイ野村万禄さんが登場してきます。間語りは先に記した通りですので省略して、ワキとアイの型通りのやり取りがあり、アイが狂言座に下がります。

ワキは、初めから不思議な海士少女(あまおとめ)であったが、さて佐用姫の幽霊だったか。いざ今宵は神鏡をも拝むのだろうかと述べて待謡。いよいよ佐用姫の霊を待つ形になります。ワキ座前には後見が鏡の台を持ち出して据え、鏡が後場の鍵になってくることが示されます。

待謡の終わりの笛のアシライからヒシギが吹かれて一声。収まりの良い感じです。
後ジテはゆっくりと姿を現しますが、摺箔に朱の色大口、単狩衣を衣紋着けにし、透冠に真之太刀を穿いています。これはどう見ても男装。狭手彦の姿を映しての形なのでしょうけれども、果たしてこの装束はどなたの発案なのか。『謡曲三百五十番集』には「鏡を持ち練貫をかい取りたるべき心」とあって男装とは読み取り難いところ。なにやら井筒の女をふと思い起こさせる装束です。
もう一日つづきます
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松浦佐用姫もう一日のつづき

橋掛りを進んだシテは一ノ松で謡い出し。前場より調子を低くとって思いに苦しむ雰囲気です。「袖に涙の誘ふかな」とシオリ、一セイ「唐土船も寄せやせん」と高く引き立てて謡い出し脇正面奥の方に船を見る心で遠く見やります。「松浦の朝日 鏡の面」と左手に持った鏡を覗き込み、続く地謡で橋掛りを進むと、常座からは両手に鏡を捧げて数足出、鏡を左手に取ると、ワキ座前の鏡台まで出て鏡を置き、正中まで下がります。

ワキは鏡の前に出て地謡座前から鏡を見る形で下居、正中に立ったシテが斜め後ろからワキと鏡を見る形です。ワキは鏡を覗き込み、冠を着けた男が映っていることを謡います。シテは、執心の報いか狭手彦の姿が鏡に残っているのだと謡いつつ正中で着座しシオリ、ワキもワキ座に戻って着座します。

ワキは菩提心を起こし仏果を得るようにと諭しますが、シテは今宵一夜の懺悔を果して、昔の有様を見せようと謡い、シテ、ワキの掛け合いから地謡「海山に振動して」でシテが立ち上がり目付にスッと寄ると常座に回り込んで後ろを向いて腰を下ろし、後見が狩衣、冠を外します。二句目の「海山振動して」で立ち上がったシテは摺箔に領巾を首から掛けた形で両髪を下げています。
「心も昏れてひれ伏すや地によって倒れ」の謡いに、目付に出て下がり一度下居した後立ち上がります。ワキは「船は煙波に遙かなり」の謡いに、唐船を見るように正先に出ますが、シテは舞台を廻ってワキ座から常座を見込み「上りて声を揚げ」と立廻りになります。
立廻では橋掛りを幕前まで進んで振り返り「なうその船しばし」と声をかけます。
大ノリの地謡に肩に掛けた領巾を外すと二ノ松辺りで振り招き、回って一ノ松でさらに領巾を振りますが、布を両手に引き「領巾振る山なるべし」と遠く伸び上がるような形です。

笛のアシライが入ってシテの謡。領巾を右手に提げて橋掛り欄干に垂らし「そのままに狂乱になって」と布を欄干に残したまま舞台に入り「形見の鏡を身に添へ持ちて」と台から鏡を外すと正中で鏡の塵を払うようにし、両手に持って鏡面を覗き込んで「思へば恨めし形見こそ」と拍子を踏み、鏡を左手にとって舞台を廻ると再び正中へ。
左手の鏡を胸に抱え込み「身をば波間に」と目付から正中、さらに目付へと進み「かつぱと」二つ拍子踏んで腰を落とし船より飛び込んだ態。
立ち上がると常座に下がって「夜もしらしらと」とワキ座を見「明くる松浦の」と幕方を見ると、そのまま橋掛りを進んで幕に入り「浦風や夢を覚ますらん」とワキ留になりました。

冠を外す場面の扱い、領巾を振り欄干に掛ける形など、復曲ならではの演出と思います。宗家により正式な演目とされたのもうなずける一曲でした。
(102分:当日の上演時間を記しておきます)
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佐渡狐 野村萬(九皐会別会)

和泉流 国立能楽堂 2012.10.06
 奏者 野村萬
  越後の百姓 野村扇丞、佐渡の百姓 野村万禄

佐渡狐は何度もブログで取り上げていますし、野村家の上演も少なからず観ていますので、特に演出上などで記すことはありませんが、この曲での奏者の役割が実に重いものだとあらためて感じたところです。

佐渡に狐がいるか、いないのかで言い争いになるお百姓達ですが、先に年貢を納めた佐渡の百姓が、奏者に寸志を渡して佐渡に狐がいることにしてもらう、というのがこの曲の眼目のようです。
だからこそ、狐が実際にどんなものなのか見たこともない佐渡の百姓が、奏者の説明を聞き違えたりしながら、越後の百姓に説明するところの面白さが際立ってきます。

どうもこの曲は、筑紫奥などお百姓が年貢を納める形の脇狂言とは、出来上がった経緯も違うようで、少なくとも江戸時代初期までの狂言本には出ていない曲のようです。
しかも、その後の狂言本に見かけられるようになっても、当初は奏者が登場せずに、佐渡と越後のお百姓が年貢を納めた帰り道、狐の有無を廻って言い合いになるという形だったそうです。

奏者が登場して、袖の下を受け取ったり、佐渡のお百姓に贔屓して狐の姿を教えたりなど一連のやり取りが入ることによって、良く上演される曲になっていったのだろうと思われます。
そういう意味では、奏者の役を萬さんや万作さんが演じ、シテと記載する野村家のやり方も、納得できるような気がします。
(29分:当日の上演時間を記しておきます)
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安宅 勧進帳・滝流 遠藤和久(九皐会別会)

観世流 国立能楽堂 2012.10.06
 シテ 遠藤和久
  子方 遠藤瑶実
  ツレ 佐久間二郎、坂真太郎、長山桂三、鈴木啓吾、古川充
     桑田貴志、中森健之介、小島英明、遠藤喜久
  ワキ 福王和幸
  アイ 野村扇丞、野村太一郎
   大鼓 佃良勝、小鼓 幸清次郎
   笛 一噌幸弘

安宅は、宝生流大坪喜美雄さんの延年之舞の小書付の上演についてブログで取り上げています。(鑑賞記初日月リンク)この際にも、いくつか気になる点など記載しておりますので、併せて参照いただけると幸いです。

今回は観世流で、九皐会の安宅は以前にも拝見していますが、ブログで取り上げるのは初めてになります。今回は勧進帳と滝流の小書付です。滝流は後ほど、舞台の進行に合わせて説明したいと思いますが、勧進帳の小書については先にふれておきます。

安宅のハイライトは、やはり弁慶が勧進帳を読み上げる部分であろうと思いますが、ここは観世流のみツレ同山との連吟になっています。しかし実際問題として、ありもしない勧進帳を読めと言われて、適当な往来物の巻物一巻を取り出した弁慶が読み上げる勧進帳を、同吟するという形はどう考えてもしっくりしません。「天も響けと」という力強い謡を強調するために連吟の形にしたのかもしれませんが、結局のところ、観世流でも他四流と同様に、シテ弁慶が一人で読み上げる形を勧進帳という小書上の演出とし、実際には常に勧進帳の小書を付けて演じることとしているようです。
従って勧進帳の小書は付いていますが、結果的には他流の小書無しと同じ形ということです。なお勧進帳という小書が金春流にもあるらしいのですが、どのような演出なのかは承知しておりません。

さて舞台は名宣笛でのワキの登場。ワキ福王和幸さんの富樫と、アドアイ野村太一郎さんの従者が登場してきます。笛方の一噌幸弘さんは、他の和洋楽器とのセッションなど様々な取り組みをされていて、能管も楽器として捉えて演奏されているという印象を受けます。この日の名宣笛も、名宣笛の譜を吹いているというよりも、登場してくる富樫という人物自体を表現しているような印象を強く感じました。
さてこのつづきはまた明日に
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安宅のつづき

登場したワキは加賀国の富樫の何某と名乗り、義経主従十二人が作り山伏となって奥州に向かっており、新関を設けて山伏を留めている旨を述べると従者を呼び出します。山伏が通行する時は知らせるようにと命じてワキ座に下がり、アドアイはその旨を触れて下がります。

続いて次第の囃子、一同の登場です。シテ弁慶は幕を出ると欄干に寄って出、様子を覗うような様から一度戻し、次々に橋掛りに同山、オモアイ能力が登場してきます。
舞台に入った一行は左右に分かれて立ち、向かい合うと次第の謡「旅の衣は篠懸の」と謡い出しです。
以前にも書きましたが、同山の人数は流儀によって異なる様子です。観世流では九人というのが普通のようで、子方、シテ、オモアイまで入れると謡本通り一行十二人となります。この人数の話は以前書いた通りですが、この日も同山九人が登場し、五人と四人に分かれて水衣も異なったものを着けています。

次第の後は地取りの代わりのように、オモアイの謡「おれが衣は篠懸の 破れて事や欠きぬらん」が入り、サシ、シテ、ツレの掛け合いから上歌、下歌と続き、続く上歌「気比の海 宮居久しき神垣や」は道行の形で安宅に向かう道すがらが謡われ、シテは目付との間を数足行き来して「花の安宅に着きにけり」と元に戻ります。
シテが声をかけ一同が着座、ワキ、アドアイはワキ座の後ろに下がり、ワキ座では子方が床几に腰を掛けます。

シテは一度後見座に向かい、直して正中に出ると子方が「如何に弁慶」と声をかけて問答。
弁慶が発案して義経を能力の姿にすることにし、オモアイの笈を持ってこさせます。シテはアイの持ってきた笈をワキ座の子方の前に押し出して正中あたりに戻り、アイに声をかけます。この間に子方の装束が直されます。
さてシテがオモアイに関の様子を見てくるようにと命じ、アイは立ち上がり出かけた風になりますが、山伏を詮議しているというのに山伏の姿はよろしくないと気付き、兜巾を外します。二ノ松辺りまで一度進んでから一ノ松に戻し、関の様子を見ている風でシャベリますが、山伏の首が斬って掛けられているのに気付いて「山伏は貝吹いてこそ逃げにけれ 誰追い掛けてあびらうんけん」と歌を詠み、逃げるように報告に戻ってシテにも一首詠んだと歌を披露します。
さてこのつづきはまた明日に
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安宅さらにつづき

オモアイの報告を受け、シテを先頭にツレが続き舞台を出て橋掛りへと進みます。子方は最後に立ちますが橋掛りには進まず後見座にクツロギ。シテ、ツレは幕前まで進んでから戻り、シテを先頭に橋掛りに並びます。
アドアイがワキに山伏一行がやって来たことを告げ、シテのみ舞台に入って常座に立ち、ワキ、アドアイとの問答になります。
言い合いの末にシテは最期の勤めを始めようと言い、ワキ正を向いて座すと後見が出て肩上げします。ツレ一同は橋掛りに座していますが、シテが立って正先に進むと舞台に入り、シテを先頭に雁行の形で座し、最後の一人がシテの真後ろに座る形となってノット。

シテ、ツレの掛け合いで山伏の謂われを謡い、この即身成仏の山伏を討つからには、熊野権現の罰が当たるだろうと、ツレ一同が中腰になり、激しく数珠を揉みます。

するとワキが話を変えるように、東大寺の勧進と言うからには勧進帳があるだろうから、ここにて聴かせていただこうと言います。
これを受けてシテは一度立って後見座に行き、巻物一巻を持って目付に立ち、巻物を広げると「高らかにこそ読み上げけれ」と謡いつつ巻物広げて読む形になります。

「それつらつら」と読み上げるシテをワキが見込み、耳をそばだてて読み上げる声を聴く様子を見せます。
まさにそれらしくシテの読み上げる勧進帳を、ワキが覗き込むような形を二度ほど見せ、シテが巻物を見せないようにかばって対峙する形になりますが、最後はシテが「天も響けと読み上げたり」と力強く謡って巻物を両手に捧げます。

この勢いにワキが急いで通るようにと言い、シテに続いてツレ一同がが舞台に入ってきた時とは逆順に橋掛りへ進み、一ノ松までに後ろを向いて並びます。
最後に子方が立って常座に出ると、アドアイが「判官が通る」とワキに告げワキが止まれと呼び掛けます。子方は常座に伏す形。

一同は「一期の浮沈極まりぬ」と身構えますが、シテ弁慶が先頭に出て「ああ、暫く」と一同を留めて、その場からワキに向かって、なぜ強力を通さぬのかと声をかけます。
さてこのつづきはまた明日に
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安宅さらにさらにつづき

シテはワキと問答しつつ常座に出て子方を見込み、強力のせいで関を越えられないとは腹立たしいと金剛杖で打擲する型です。
シテが子方を促して立たせ杖を手に正中に出ると、同山九人が弁慶に続き、ワキに向かって押し寄せる態。これを先頭に立った弁慶が金剛杖を持ちつつ堪える形になり「勇みかかれる有様は 如何なる天魔鬼神も恐れつべうぞ見えたる」と富樫、従者に迫ります。
弁慶、同山は一団となってワキに迫りますが、弁慶以下、前方のツレは堪え、一方で後側はぐいぐいと迫る様子になります。同山九人のため、最後の一人は真後ろからガンガンと押していく形です。

この勢いにワキが、はやはや通り候えと言って一同を通し、舞台上に展開した一同は関近くの山中で休んでいる形になります。
シテ、子方が言葉を交わしている内にワキ、アドアイは橋掛りへと進みます。

この後、地謡のクリからサシ、クセと続くところですが、ここは省略されてワキの言葉になり、アドアイに関を通り過ぎた山伏を追いかけ、先ほどの詫びに酒を届けるようにと命じます。このクリ、サシ、クセの部分は、関をなんとか逃れたところで、この数年の来し方を振り返り一行がしみじみと運命を思いやる場面、省略するには勿体ない感じもするのですが、小書がつくと省略されることが多く、大坪さんの延年之舞の際も省略されました。
その分だけ、この後の舞へ舞台の緊張が凝縮されることも確かでしょう。

さて、橋掛り入り口でアドアイとオモアイのやり取りがあり、この間に子方が立ってそっと後見座にクツロギます。シテ弁慶が自ら立って応対をし、富樫と従者が舞台に入ってワキ座に進み、シテは立って一ノ松へと進んで「げにげにこれも心得たり」と謡い出します。地謡が「怪しめらるな面々と」と謡い始める中、一同は下居し、ワキはシテに寄ります。シテは正中に出てワキから盃を受け「面白や山水に」と謡うと、地謡で立ち上がり、目付に進んで「盃を浮かめては」と扇を落として下がって立ちます。滝流の小書の演出で、盃を流れに浮かべた様を見せ、「もとより弁慶は三塔の遊僧」と左袖撒いて扇を見込み、扇に寄って足拍子、下がって大小前で左右。地謡の「鳴るは滝の水」で答拝して男舞に入ります。
既に扇を舞台に落としているので、男舞は数珠だけで舞う形です。またシテの「たべ酔いて候ほどに」からのワキとのやり取りも省略されています。

男舞は勇壮に舞われますが、二段で調子が盤渉に上がり、橋掛りへ進むと欄干下に水の流れを見て曲水の盃を追うような型が入ります。そこから舞台に戻り、舞は二段で舞上げて扇を拾い上げます。

シテのワカ「鳴るは瀧の水」地謡が大ノリの謡になり、シテが扇で舞うなか「笈をおっ取り 肩にうち懸け」と子方以下、同山一同幕に走り込み、シテの留となりました。
最後の部分が小書のためだいぶん変化していますが、緊張感のある面白い演出でした。遠藤さんも熱演でした。子方以下が走り込む様子は、邯鄲の楽の終わりをふと思い出させる形です。
(85分:当日の上演時間を記しておきます)
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