能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

鞍馬参 佐藤融(国立能楽堂企画公演)

和泉流 国立能楽堂 2012.12.08
 シテ 佐藤融
  アド 佐藤友彦

当日も書きましたが、これまで知っている鞍馬参からみると前半が省略されたような形での上演です。

以前ブログに書いた大藏流善竹十郎さんの上演(鑑賞記初日月リンク)では、アド主、シテ太郎冠者が登場し、主が初寅のため鞍馬に参ることにしたと太郎冠者を呼び出します。
主は太郎冠者に初寅のため鞍馬に参るので、なんぞ道具を持てと命じますが、道具は何を持っていくのかといったやり取りの後、太郎冠者一人を連れて鞍馬に参詣することになります。

その鞍馬参りの通夜ということで、二人は鞍馬の御前に出ますが、どの様に通夜をするかで悶着の末に、ようやく夜が明け家に戻ることになります。この道すがら、太郎冠者が通夜の間に何やら大声を出したという話になり、実は多聞天より福を下されたと太郎冠者が打ち明けるという展開です。

今回の上演では長上下のアド主が太郎冠者を従えて登場すると、正先へ出て名乗り、夜前鞍馬へ参詣したが、太郎冠者が大声を上げたのでその子細を聞こうと思うと述べて、大小前に座して控えていた太郎冠者を呼び出します。
ここからの展開は、鞍馬からの道すがらのやり取りと概ね同じになっていますので、要は前半部分、実際に鞍馬に参詣して通夜をするというところが完全に省略されている形になっています。

これがこの日の独特な演出なのか、狂言共同社に伝わる形がこういう演出なのかは分かりませんが、一昨日書きましたように、名古屋の狂言共同社と野村又三郎家は、それぞれに山脇派、野村派の狂言を伝えており和泉流と言っても台本に違いがあります。そうした違いのある一曲なのかもしれません。
アドの名乗りが正先というのもあまり見かけない形です。

ともかくも主人は太郎冠者を呼び出してワキ座に向かい、シテが常座に立って問答がはじまりますが、このつづきはまた明日に
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鞍馬参のつづき

アドは夜中に声がしたのは何故かとシテに問います。
シテがこれに答えて言うには、通夜をしていると香の衣に香の袈裟、皆水晶(みなずいしょう)の数珠を持った八十ばかりの老僧がやってきて、福ありの実を下されたということです。

これを聞いて面白くないのがアドの主人。長年の信心を重ね、前夜の鞍馬参りも自分が言い出したこと。福が下されるならまず自分であるべきに、同道している太郎冠者に福が下されるとは納得できない様子。なんとかして福ありの実を取り返してやろうと独りごちし、太郎冠者に向き合います。

主人は太郎冠者に、実は自分にも奇特があったと言い出します。夕べ通夜をしていると、香の衣に香の袈裟、皆水晶の数珠を持った八十ばかりの老僧が現れ、福を太郎冠者に預けておくから、太郎冠者から受け取るようにと言われたという次第。それゆえ、太郎冠者の受け取った福は自分の物なので、渡すようにと迫ります。
太郎冠者が拒むと、主人は小さ刀の柄に手をかけて太郎冠者を脅かします。

これに対して太郎冠者は一ノ松まで下がって独白。一度言いだしたからには、福を渡さなければ収まらないだろうけれども、ただ渡すのも腹立たしい。嬲ってから渡そう、と言って舞台に戻ります。
太郎冠者は主人に、福を渡すには「福渡し」ということをして渡さなければならないと説明します。そして「福渡し」とはどうするのだと聞く主人に、自分が「鞍馬の大悲多聞天は 御福を主殿に参らせたりや 参らせた」と言うので、「たばったりや たばったと」言うのだと説明します。

この後は、主人の言い方が遅いと、早すぎるとか様々に難癖をつけて主人を嬲りますが、拍子にかかって福渡しをしようということになり、二人で拍子をつけて何度か繰り返します。
最後は太郎冠者が「目出度いことがござる」と言いだし、ただいまの御福が此方のお蔵に収まったと告げ、主人が「それこそ目出度けれ いて休め」と言って留になりました。
前半部分を欠いているのですが、福渡しからのやり取りがなかなかに詳しく、全体としての上演時間は善竹十郎さんの時の記録と、あまり変わりませんでした。
(18分:当日の上演時間を記しておきます)
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松山天狗 梅若紀彰(国立能楽堂企画公演)

観世流復曲能 国立能楽堂 2012.12.08
 シテ 梅若紀彰
  ツレ 観世喜正 小島英明 桑田貴志
  ワキ 工藤和哉
  アイ 井上靖浩
   大鼓 柿原光博、小鼓 幸正昭
   太鼓 小寺佐七、笛 藤田六郎兵衛

松山天狗は金剛流のみが現行曲としていて、観世流は平成6年の復曲です。詞章を西野春雄先生が作られ(といっても本自体は伝承されていた訳で補綴されたという意味だろうと思いますが)、梅若玄祥、当時の六郎さんの作曲。先代の銕之丞さんも復曲に関わっていたそうです。

成り立ちの経緯もあってか、玄祥さんや現銕之丞さん、大槻文蔵さん、それに観世喜正さんなどが、その後も再演を繰り返して磨きをかけているようで、今回も上演にあたっては演出を見直しているそうです。
松浦佐用姫の時も思いましたが、やはり復曲という形の場合、古典的な能の制約事には一応従うものの、面白く見せるための工夫に力が入るようで、特に後場は歌舞伎のような面白さを感じたところです。なかなかに面白い試みと思いました。

さて舞台の方は、地謡、囃子方が座に着くと一畳台が運び出されてきて大小前に据えられます。次に半畳台とでも云うのでしょうか、寡聞にして存じておりませんが、ちょうど一畳台の半分の大きさの台を持ち出してきて一畳台の前にT字型に据えました。
ほうほうと思ってみていると、今度は利休鼠のような色目の引廻しをかけ、上部にはこれでもかというくらいに松の枝を載せて幣のついた注連縄まで張った塚が運び出されてきて、一畳台の方に載せられました。
金剛流の松山天狗を観ていないのですが、金剛ではどうなのでしょうか。さほどの稀曲扱いはされていない様子なので、機会あれば是非確認してみたいところです。

さて後見も下がって落ち着くと、次第の囃子。ワキ西行法師の工藤さんが、無地熨斗目着流しに水衣、角帽子の上から笠を被って登場してきます。
さてこのつづきはまた明日に
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松山天狗のつづき

ワキは常座にて次第の謡。笠を外して正面を向き名乗り。新院本院が位を争い、新院が負けて讃岐、松山に流されて崩御された。その跡を弔うため讃岐へと向かうところと述べます。続いて笠を被り直して道行、讃岐国に着いたと謡って笠を外し、正面を向いて着きゼリフ。人を待ち新院の御廟所である松山を尋ねようと言ってワキ座に下がります。

一声の囃子、笛が藤田流のせいなのか印象が随分と違います。前シテ老人、この日は朝倉尉だったようですが、小格子厚板にシケの水衣、右手に持った杖には何やら緑の小枝が付いている様子です。橋掛りを進んで一ノ松で立ち止まり一セイ、続いてサシを謡い、ワキが「いかにこれなる尉殿」と声をかけました。

当日買い求めた国立能楽堂のパンフレットに掲載された詞章では、一セイ、サシ、下歌、上歌とシテが謡ってワキとの問答になっていますが、この下歌と上歌を当日は省略するとの変更内容が別紙で挟み込まれていました。
金剛の本を見ると、一セイの後は直ちにワキの問いかけから問答になっています。するとサシ、下歌、上歌は西野先生の作ということになるのでしょうか。

ともかくもワキはこの辺りの人かとシテに問い、シテは逆に御僧はどこへ行くのかと問い返します。ワキが自ら西行という者と名乗り、新院がこの讃岐に流されて程なく崩御されたので跡を弔おうとやって来た旨を述べます。
シテは天下に隠れなき西行上人かとあらたまった風で、まずあれに見えたる太山は白峰と申す高山なり、と言いつつ目付柱の先、遠くの方に山を見る風情。ワキもこれに合わせて中正面あたりに向く形です。
いわゆる名所教えのような形でシテは「少しあなたに見え候ふこそ 御廟所松山にて候へ」と今度はワキ正奥の方に松山を見る形です。

「お僧をいざなひ奉り」とワキを向き、地謡で「はや馴れそめて」と一度幕方を見た後、ワキに向き直ると橋掛りを進み、「まだ踏みも見ぬ山道の」で舞台に入ります。
シテの老人がワキを伴って松山へと向かう道行という態で、ワキも二、三足シテに向かって出、「風の音さへすさまじき」とシテは常座でワキ正側を見回すような形からやや前に出てワキに向いて前に出、「松山に早く着きにけり」と振り返って、ワキと共に二人して塚を見る形になります。
このつづきはまた明日に
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松山天狗さらにつづき

塚に向かい合うとシテは「これこそ新院の御廟所松山にて候へ」とワキに教えます。
ワキは「さては新院の御陵にてましますか」と受け、昔は宮中にあって百官に傅かれていたのが今はこの田舎の苔の下と思いを馳せ、「涙もさらにとどまらず あら痛はしや候」と謡いつつ塚に向かって下居、合掌します。笛のアシライが西行の思いをしみじみと感じさせます。

「誠にあさましきおん有様」と立ち上がったワキは、斜め正先の方を向き
下の詠「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」と謡います。
シテは両手を杖に添えて聴き入っていた様子ですが、「あら面白のご詠歌やな」と西行の歌に心動かされた風で、ワキの謡から地謡へと続き、「鄙人なれどかくばかり」の繰り返しでワキはワキ座に下がって下居。シテは「心知らるる老いの波の」と杖突きつつ角に出てワキを見込みます。
「春を得て咲く花を」と目付柱を向き、正面に向き直ると目付柱の下の辺りから見回すようにして面を使いつつ、左に回って正先から正中に下居します。

ワキが「いかに尉殿」と声をかけるとシテは杖を置いて扇を持ち正面を向いてワキの言葉に聞き入ります。新院がご存命の時にはどの様な者がやって来て御心を慰めたのかとワキが問いかけます。
シテはワキを向き、御逆鱗があまりのことであったので、白峰の相模坊に従う天狗どもがやって来た以外には参内した者はなかったと答えます。自分も常々参って木陰を清めたなどと言った後、あらためてワキに向き、それにつけても先ほどの詠歌の言葉が心の底から面白く感じられ「老いの袂をしぼるなり」と片シオリ。

地謡が「暇申してさらばとて」と謡い出すと立ち上がり、常座の方へとゆっくり進みます。常座で一度振り返って正面を向き、あらためて運びを早め塚に中入です。
ワキが立って見送る形になりますが、太鼓の打ち出しで囃子がアシライ、地謡は続けて下ノ詠「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 空行く月の 済むにまかせて」と謡い、囃子が来序を奏します。この下ノ詠は今回の演出変更で入ったようですが、金剛にはもちろんありません。
来序が狂言来序に代わり、幕が上がって間狂言の登場ですが、このつづきはまた明日に
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松山天狗さらにさらにつづき

間狂言は番の鳶ということで、鳶の面をかけて末社出立で出てきます。
常座に立ち相模坊に仕える鳶と名乗り、続いて崇徳院を廻る一連の出来事を立ちシャベリします。今回、これまでこの能の原典など触れずに書いてきましたが、間狂言をなぞる形で、新院こと崇徳上皇を廻る出来事を書き留めておきます。

人皇七十五代崇徳院と申し奉りますが、新院となられ第一皇子の重仁親王を位に就けようとされていたが、美福門院の願いから鳥羽上皇は第四皇子を位に就けた。これがもととなり、宇治の悪左府、六条判官為義父子が新院に付く一方、関白内大臣モトミチは源義朝、平家の清盛を大将として、保元二年七月十七日寅の刻に合戦が始まり辰の刻には新院方が敗れてしまった。

新院は八月十日直島という所に流された。四方に築地を作らせ、日に三度の供御を差し上げるほかは訪れる者もなかった。都では玉楼金殿に住み、百官卿相に傅かれて三十八年を暮らしていたのに、こうした暮らしに涙の乾く暇もなく、思いを込めて五部の大乗経を写し、平治元年の春の頃、仁和寺に上らせた。しかし主上がこれを許さず返したために、瞋恚の炎消し難く、新院は天狗の姿に身をやつされ、爪をも生やし恐ろしき姿となった。

大乗経の奥に血を持って恨みの言葉を書き記し、海に沈めた。その思いを見て白峰の相模坊が新院の玉体に近づいた。平治元年十二月、義朝の謀反もひとえに讃岐の院の恨みの力があったためであろう。
長寛二年四十六歳で志度にて崩御され白峰にて煙となし奉った。それより五十年が経ち御跡を慕う者もいなかったが、西行法師が遙々来たられたるのを新院の霊が老人の姿になって導き、西行は御陵に歌を捧げて詠じた。これを老人が嬉しく思いかき消すように姿を消した。
さらに新院の霊は夜になって西行に姿を現そうとしておられるが、それまで舞楽を奏して西行を慰めよと命じられたので、自分もこれまで罷り出た。皆々、その由心得るようにと番の鳶はシャベリ、退場します。

聞き書きなので私の聞き間違いが多々ありそうですが、ともかくこうした内容をシャベリ、アイ番の鳶は退場します。
この崇徳院の話の補足など、明日につづきます。
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松山天狗またつづき

間語りを踏まえていささか解説すると、そもそもこの能は讃岐国に配流された崇徳院の御陵を西行が弔いに訪れるというのが発端です。
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子ですが、実は鳥羽天皇の祖父にあたる白河法皇と、鳥羽天皇の中宮待賢門院の不義の子であったと言われていて、白河法皇の存命のうちは鳥羽天皇もはばかって崇徳天皇に位を譲り上皇となったものの、法皇が亡くなると関係も悪化していきます。鳥羽院は崇徳天皇に譲位を迫り、天皇の第一皇子重仁親王ではなく、上皇が寵愛する美福門院の子である体仁親王を位に就けます。これが近衛天皇です。

しかし近衛天皇は病弱で在位13年で崩御、後継をどうするかが問題になりました。崇徳院は今度こそ重仁親王が即位することを大いに期待しますが、院の弟に当たる雅仁親王が即位してしまいます。後白河天皇です。間語りで第四皇子と言われているのがこの体仁親王すなわち近衛天皇のことか、雅仁親王すなわち後白河天皇なのか、うまく聞き取れませんで分かりませんでした。

さてこの翌年、鳥羽院が崩御するとにわかに動きが出てきます。左大臣藤原頼長は時の関白忠通の弟ですが、父忠実の寵愛深く氏長者の地位についています。当然、忠通とは不仲ですが、忠通の推薦した後白河天皇が即位し、極めて立場が悪くなってしまいます。
しかも近衛天皇の崩御は忠実・頼長親子の呪詛のせいだという噂が流れ、なにがしかの動きを取らざるを得なくなっていました。

頼長(シャベリでは通り名であった宇治の悪左府ですが)は崇徳院側に立ち、六条判官こと源為義やその子為朝、平忠正などを集め気勢を上げますが、保元元年7月11日、天皇方は関白忠通(シャベリではモトミチと聞いたのですが)の命によって、為義の子義朝や忠正の甥にあたる清盛などが兵を率い、院を急襲して謀反を鎮圧します。いわゆる保元の乱の次第です。

崇徳院は7月23日讃岐へ配流されていますがシャベリでは8月となっていたように聞きました。ともかく配流されてからの院は、シャベリの通り大乗経を仁和寺に納めようとしたものの、天皇の意向で拒否されて大いに怒り、生きながら天狗のようになった言われています。一節には白峰の天狗相模坊は院自身の変わり果てた姿であるとか。

さて間狂言が退場すると、出端の囃子が奏されて作り物の内より後シテ崇徳院の霊が謡い出します。
このつづきはまた明日に
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松山天狗またまたつづき

シテの謡、地謡、シテの詞と続き、西行にここまでやって来た志は返す返すも嬉しいと述べます。また詠歌の言葉の面白さに「いでいで姿を現はさんと」と謡い、地謡が「言ひもあへねば不思議やな ご廟しきりに鳴動して」と謡うと後見が引廻し外し始め「玉体 顕れおはします」と引廻しが下げられて、床几にかかった後シテが姿を現します。

緋の長袴に黒の単直衣、冠は立纓ですが、能装束として直衣は滅多に見かけませんし、冠は通常の初冠の立纓よりも大きく高く、塚の高さ目一杯の感じです。
この日の面は二十余(はたちあまり)というのだそうで、蛙(かわず)のような感じですが、まるで銀色に見えるほど血の気のない不思議な印象の面です。後で調べてみると藤戸の専用面として用いられることがある面だとか、なるほどと納得がいきました。

塚の中で地謡を聞き「夜遊の舞楽は面白や」で立ち上がり作り物を出て、半畳台の台上で答拝。右手の笏、これも常の能の道具よりも大きく立派ですが、これで左右して台を下り、楽を舞い始めます。
常の楽よりも緩急がある感じで、最初から替えの拍子を踏んで雰囲気が違います。
さらに二段から調子が上がり、オロシで橋掛りに入ると二ノ松で一度佇む形。さらに位が変わって急調の中、シテは舞台に戻り急ノ舞の形です。

舞上げると地謡となり、正中から半畳台に退く形で、台上で中腰になり、両袖を巻いて「あたりを払って恐ろしや」と立ち上がります。
地謡が急調の謡で「天狗の姿はあらはれたり」と謡うなか、ツレの相模坊、小天狗二人が幕を出て橋掛りに三人が並びます。法被半切に黒頭で魔王団扇を持った相模坊が、一ノ松で名乗り、法被半切に赤頭で羽団扇を持った小天狗二人は二ノ松、三ノ松と並びます。

大ノリで「逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し」と地謡が謡う中、小天狗が先に舞台に入り、シテの両側に控える形。相模坊は一ノ松で舞働を舞出します。相模坊が舞台に入り小天狗ともども舞の所作。さらに相模坊は二ノ松に向かい、小天狗がシテに向かう形で両側に下居して舞上げになります。
シテの謡、地謡が受け「御感のお言葉数々なれば」とシテがワキを向くと、ワキが両手突いて礼をし、続いて小天狗も両手を突いてシテを拝します。
シテは台を下り「虚空にあがるとぞ見えしが」と一ノ松で欄干に足をかけ、下ろして三人の天狗と橋掛り上ですれ違い、歌舞伎のように右左と体を交わしつつ「飛び翔って失せにけり」とシテ、ツレ三人続いて幕に入ります。

囃子のみが残る中、ワキが立ち上がって見送りワキ留めとなりました。
歌舞伎のような演出は賛否あるかも知れませんが、私としては面白く拝見した一曲です。金剛では相模坊と小天狗一人の形で、登場人物が一名少なくなるようですが、機会を見て一度確認してみたいと思っています。
(96分:当日の上演時間を記しておきます)
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女郎花 佐藤章雄(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2012.12.16
 シテ 佐藤章雄
  ツレ 友枝雄人
  ワキ 大日向寛
  アイ 山下浩一郎
   大鼓 高野彰、小鼓 観世新九郎
   太鼓 梶谷英樹、笛 中谷明

「おみなめし」と読みます。
この曲の仕舞は学生時代にはお馴染みの一番でしたが、どうして「おみなえし」ではないのだろう、と当然ながら思ったものです。しかし調べてみても、オミナエシの別名という以外に特段の語源のようなものには行き当たりません。「オミナエシは能ではオミナメシ」と、そう覚えておく以外になさそうですね。

まずは名宣笛が吹かれて、無地熨斗目の着流しに柿色の水衣、角帽子を着けたワキ大日向さんが登場してきます。常座まで出ると、九州松浦潟から出でたる僧と名乗り、都に上るところと言って道行の謡。松浦の里を立ち出で、筑紫潟を遠く離れ旅を続けると謡って着きゼリフ。津の国山崎、石清水八幡宮にやって来ます。「我らが国の宇佐の宮とご一体」であるので参詣しようと思うと言います。
そして常座から正先を眺めやり「女郎花の今を盛りと咲き乱れ」と女郎花の花に気付いた風で「立ち寄り眺めばやと存じ候」と常座から正中へと進みます。

女郎花の花を見ている風情で、男山の麓の野辺は千草の花盛りである様子を謡い、この男山の女郎花は古歌にも詠まれた名草であると謡います。
土産に花一本を折ろうとして「この女郎花の辺に立ち寄れば」と謡いつつワキ座に向かって歩み出します。この間に幕が上がり、シテが幕の内から呼び掛けます。

シテの呼び掛け、花を折るなというわけですが、ワキがワキ座に進んで向き直るとシテが幕を出てきます。無地熨斗目着流しに茶の水衣を着けた老人です。
花の色は蒸せる粟の如し、などと言いつつ橋掛りを進み、二ノ松と三ノ松の間辺りに立ってワキを見やり、男山の名草である女郎花をどうして手折ろうとするのか、心ない旅人だとワキを咎めます。
さてこのつづきはまた明日に
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女郎花のつづき

シテ、ワキの問答になりますが、これがなかなかしゃれてます。
女郎花を折るなというシテに対し、ワキはご覧の通りの出家の身、仏に手向けると思って一本許して欲しいと言います。
一方シテは、菅原道真もご神木を折らずに手向けよと仰せだし(どこにそんな話が出ていたのか不明ですが・・・)、古い歌にも「折りつればたぶさにけがる立てながら三世(みよ)の仏に花たてまつる」とあるように、出家の身ならばこそ折るなと申し上げているのだ、と返します。この歌、僧正遍昭の一首で、半蔀には最初の句が「手に取れば」として出てきます。手で折ってしまうと花が穢れてしまうので、生えているそのままに三世の諸仏に花を捧げる、というような意味でしょうか。僧正遍昭がそう言ってるのだから、同じ出家のあなたも、花は生えているそのままに仏に捧げてはいかがかというわけですね。

ワキは簡単には引き下がらず、古い歌を引かれるならば同じ僧正遍昭が「名にめでて折れるばかりぞ女郎花」と詠んでいるではないですかと言い、女郎花の名に引かれて折っただけだと主張する風です。
するとシテは、いやだからこそ「われおちにきと人にかたるな」とあるではないかと反論します。ワキの引いたのが古今集にある僧正遍昭の歌の上の句、シテが引いたのがその下の句ですが、「われおちにき」は私が堕落してしまったというような意味でしょうから、名に引かれて手折ってしまったがこれで堕落したと言わないでくれ、ということ。逆に言えば、花を折ってしまうと出家としては堕落したと言われても仕方ないというくらいの話でしょう。

いささか詳しく詞章に拘ってみましたが、なかなかに面白いやり取りです。
とは言え、これを謡として聞いていて面白さが分かるのかと言われると、さてどうでしょうか。能を観るのに特段の身構えが必要だとは思いませんし、分からないところは飛ばして、自分の感性に訴えてくるものを楽しめばそれで良いとも思うのですが、一方で、こうしたやり取りの面白さも、事前に謡曲の原文と、簡単な現代語訳くらいに目を通しておくと、かなり楽しめると思うのです。

さてワキは、こうしたシテの言い分に納得した様子で「暇申して帰る」と、ワキ座から数足ほど進みます。
さてこのつづきはまた明日に
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女郎花さらにつづき

立ち去ろうとするワキにシテが声をかけ、二人は向き合って地謡の下歌に。シテが花折ることを許したことが謡われ、シテはワキに向かって左手を伸べて勧めるような型。
上歌に続き、シテは舞台を廻って再びワキに向き合います。

ワキが女郎花を眺めていて未だ八幡宮に参っていないと言い、シテはちょうど今、参詣しようとしているところだとワキに向き、道案内をしようと言って正中から正面を向き正先の方を見やる形。ワキはこれに合わせてワキ座からやや斜めに正先の方を見る形で、二人して八幡宮に同道する様子になります。
シテが「山下の人家軒を並べ」と謡い、二人はワキ正を向いて人家を見る形です。

続いて二人同吟から地謡となり、二人は「御旅所を伏し拝み」と着座して合掌します。上歌の「久方の」でシテが立ち上がりワキは合掌を解きます。さらに「月の桂の男山」の繰り返しで笛のアシライが入り、シテが正先に歩み出すとワキも立ち上がってワキ座へと下がります。
正先に進んだシテは、開クと「苔の衣も妙なりや」と目付柱を向いて歩み出し、廻って常座へ。ワキは地ノ頭に立って、「しるしの箱を納むなる」と二人して正面を向きます。

さらに「法の神宮寺有り難かりし霊地かな」でシテ、ワキが向き合い、ワキが正中のシテに近づいて二人が正中で寄り添う形になります。二人して石清水八幡に向かう様子を示します。「山聳え谷廻りて諸木枝を連ねたり」とシテが目付柱を向いて開キ、ワキも同じ方向に向きを換えます。ここからシテが正面に向きを戻し、ワキはワキ座へ下がり、シテは正先へとツメてから「三千世界もよそならず」と目付の方を見回しつつ出て舞台を廻り、大小前に戻って八幡宮にやって来た様子。ワキが正先の方を向いて両手を突き「かたじけなしと伏し拝む」と拝する形になり、この姿をシテが見込みます。

シテ、ワキ二人して参詣の道をたどる様を示しているようで、派手な所作がある訳ではないのですが、二人の位置関係の変化が思いの外、写実的な印象を強めているように感じます。
シテは、これこそ石清水八幡宮なので心して拝むようにとワキに言うと、気を変えて場面が変わった風で、はや日の暮れて候へば御暇申し候ふべし、とワキに別れを告げる風です。ワキは立ち上がってシテを向くと、話を変えて男山と女郎花の謂われを尋ねます。
さてこのつづきはまた明日に
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女郎花さらにさらにつづき

ワキの問いに、シテは男塚、女塚の謂われを語り出し「此方へ御入り候へ」とワキ正へ向かって二足ほど出ます。ワキもワキ正方を見ると、シテはこれが男塚と示し、今度は二人してワキ柱の方を見て、こちらは女塚と示します。この男塚女塚について女郎花の謂われもあるのだが、この塚の主は夫婦の者と教えます。ワキがどこの国の何という苗字の人かと問うと、シテの返事で、女は都の人、男はこの八幡山に小野の頼風という人と答えます。
「恥ずかしや古を」と謡ってシテは下向き加減。地謡となり、ワキ向いてシテは二三足出、これに合わせてワキは二三足下がります。ワキが着座し、シテは舞台を廻って常座へ。「夢の如くに失せにけり」と中入になりました。

笛が森田流のため送リはなく、静かにシテが幕に入ると長上下のアイが登場。常座で八幡山下(さんげ)に住まいする者と名乗って、久しぶりに社参すると言って目付に出、ワキを認めます。
型通りにワキがアイに問いかけ、アイが頼風夫婦のことを語ることになります。

この八幡山に小野頼風という人がいたが、訴訟があって長らく京に滞在し女と関係が出来た。訴訟が済んだら八幡に連れて帰ると頼風は約束したが、さて訴訟が終わると頼風は八幡へと帰って行った。
女は都を出て頼風を尋ねたが、たまたま頼風は社参のため留守で、屋敷の者達は女を追い出してしまった。このため女は頼風が心変わりしたものと思い込んで、近くの放生川に身を投げてしまった。
さて社参の帰り、頼風が放生川を通ると女が死んだと騒いでいる。そこで見に行ってみると、身を投げて死んでいたのは都の女だった。たまたまの留守を勘違いしてしんでしまうとは、と嘆いた頼風は、自身も川に身を投げて死んでしまった。
人々は二人の遺骸を引き上げて塚の内に突き込めたが、これが男塚、女塚である。
その女塚から女郎花が咲き、このあたりの名草となったのだ、と子細を語ります。
この後は型通りのやり取りで、ワキが頼風夫婦の霊を弔うことになり、アイが退場します。

さてこの男塚、女塚は、今も残っているようですが、小野頼風という人が実在の人なのか、お話の中だけのことなのか、このあたりはどうもはっきりしません。
「架空の人物」と明記している資料もあれば、実在の人らしく書かれているものもあります。ともかく16世紀初頭に書かれた連歌師宗碩の「藻塩草」にも取り上げられているということなので、それ以前から伝えられていた話なのでしょう。この能は世阿弥作とも言われますが亀阿弥の作というのが本当のようです。
ともかくも、後シテの出はまた明日に
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女郎花またつづき

さてアイが狂言座に下がるとワキの待謡。「一夜臥す 男鹿の角の塚の草」と謡い出すと、やがて笛のアシライ、大小の打ち出しとなり、ワキは正先の方に向きを換えると合掌して「南無幽霊成等正覚出離頓生菩提」と謡います。
太鼓打ち出しから出端の囃子。後シテの出です。

先にツレ、唐織着流しの女が立ち、後からシテ浅葱の色大口に長絹を肩脱ぎにし、黒垂に風折烏帽子、面は中将のようです。橋掛りを進んでツレが常座まで出、シテは一ノ松で謡い出しです。
シテ、ツレが交互に謡って地謡「消えにし魂の女郎花 花の夫婦は現れたり あら有難の御法やな」でシテは拍子を踏んで小さく一廻り、ツレともどもに歩み出してツレが大小前から正中へ、シテは常座に出て小廻りし、二人合掌してワキに感謝する形になります。

ワキが亡霊の現れたことを謡い、ツレ、シテが頼風と都の女の子細を謡います。
ツレは「猶も恨の思深き放生川に身を投ぐる」と正先に出て一度膝をつき川に身を投げたことを様式的に示して立ちます。ツレがワキ座に退くとシテが「頼風これを聞きつけて」と常座から正先を見込みます。
死骸を土中に込めたことをツレが謡い、シテは「その塚より女郎花一本生ひ出でたり」と正面を向き花を見る心です。正中に出、戻って拍子を踏むと地謡。四拍子を踏み、面を上げて「男山の昔」を思う形から、大小前へと進み「跡の世までも懐かしや」と片シオリしてクセになります。

短いクセでも「よしなき水の泡」と下を覗き込み、左の袖を返して「つづいてこの川に身を投げて」と上げ端では片膝ついて川に身を投げた様。立ち上がって角トリし大小前からワキ正へと出てさらに「跡弔いてたび給へ」とワキに向かって願う様子を見せて目付から大小前へと回り左右、打込開キして「あら閻浮」と謡って片シオリ、地謡が「恋しや」と受けてカケリです。
このカケリは修羅物と違うのは当然ですが、キリに向かって気分を変えていく感じがします。
キリは仕舞でもよく舞われるところですが「邪淫の悪鬼は身を責めて」と四拍子を踏み、修羅道とは異なる地獄の苦しみを舞うところ。雲扇して剣の山を仰ぎ、扇を剣に見立てて「剣は身を通し」と身を貫く様など苦しみを見せた後、最後は「罪を浮かめてたび給へ」と常座からワキに合掌した後、シテ柱を向いて留拍子、終曲となりました。

佐藤章雄さん、体調を崩されていたと聞いていたのですが、無事一曲を勤められました。いささか本調子ではなさそうな感じも受けたところです。

余談ですが、粟谷明生さんのブログを拝読していたところ、嫌いな曲の第4位に女郎花が入っていました。第2位が盛久、第1位は龍田だそうです。それぞれ非常にやり難い曲なのだそうです。私は明生さんの盛久を観て大変に感動したのですが、演者と見所は違うものだなあと思った次第です。
(77分:当日の上演時間を記しておきます)
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雪の銕仙会

本日は銕仙会の一月定期公演を観に出かけたのですが、東京は久しぶりの雪で大混乱。
結局、翁付老松を観ただけで帰路についたものの、JR各線が運転見合わせ。常磐道も通行止めのためバスも動かないという状況。なんとか今日のうちに家まで戻ってこられたのはラッキーかも知れません。
ま、こんなこともありますよね。ちょっと「イイ思い出」になるかも知れません。

仏師 野村万蔵(喜多流自主公演能)

和泉流 喜多六平太記念能楽堂 2012.12.16
 シテ 野村万蔵
  アド 野村太一郎

どうも勘違いというのはあるもので、この仏師、何度かブログで取り上げたような気がしていたのですが、ブログに書いたのは類曲「六地蔵」の方で、仏師はブログには出てきておりませんでした。前回観たのも、もう7、8年前のことだったか・・・

さてこの仏師、都のすっぱが田舎者に仏像を作ってやると騙すという基本は六地蔵と同じですが、仏師一人が仏像になったり、もとの仏師に戻って田舎者の相手をしたりということで、六地蔵に比べるとシンプルな作り。面白いという点では、六地蔵の方が賑やかで、舞台上をすっぱの仲間達が走り回るなど楽しめますが、仏師一人の形もまた味があります。

まずは登場したアド田舎者の太一郎さん、持仏堂を建立したので仏像を作ってもらおうと都に上る旨を名乗り、舞台を廻って都へとやって来ます。この辺りの展開は六地蔵と同じで、軒を連ねて家々が立ち並ぶ様に感心したり、仏師の家がどこかを聞かずに来てしまったことに気付き、「仏買おう 仏買いす」と呼ばわって歩いたりなどします。

その後の展開も六地蔵同断で、シテすっぱの万蔵さんが十徳出立で登場し、橋掛りで田舎者を騙してやろうと言い、舞台に入ってアドと行き会います。
仏師を捜しているというアドに、自分こそ真仏師(まぶっし)と答え、アドが蝮と聞き違えるのも同様です。

アドは持仏堂を建てたので安置する仏像を作って欲しいと言い、シテはどのような仏像にしたいのか田舎者に尋ねます。
六地蔵では、六種の地蔵について田舎者が知る限りを述べますが、この曲ではシテがいろいろと言い、アドが選ぶ形です。大きさは何丈もあるものか、あるいは手のひらに乗るほどのもかなどシテが尋ね、一間四方の持仏堂に合う大きさということで、仏師の背丈ほどの仏像を作ることになります。また仏の種類も天の邪鬼などあれこれとシテが挙げ、吉祥天に落ち着きます。
このつづきはまた明日に
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仏師のつづき

ではいつまでに作ろうかということになり、「六地蔵」と同様に、お急ぎならば明日の今時分、お急ぎでないならば三年三月九十日とシテが答えます。六地蔵でも同じですが、お急ぎで無い場合は来年の今時分と答える形もあるようです。

この後代金の話になり、すっぱは万疋でおりゃると値を言います。当然高いという話になるのですが、結局は万疋で買うことになり、三条の大黒屋渡しということになります。
これは他の曲でも良く聞かれるやり取りで、以前、薩摩守の鑑賞記を書いた際に、万疋は現在価値で言うと250万から1000万位ではなかろうかと推測しましたが、身の丈の仏像を買おうと考えれば、あながちむちゃくちゃな想定でもなさそうに思います。

出来上がった仏像は、ここを一町ほどまっすぐ行って左に曲がったところの薦垂れの中に置いておこうとシテが言い、二人は別れて翌日となります。

シテはなにぶん楊枝一本削ったこともないのに大胆なことを引き受けたが、これも下心のあったところで、自分が仏になるにも都合が良いので身の丈ほどの仏像にしたのだ、などと言って、後見の持ち出した面を被り、仏像の真似をします。

アド田舎者はやって来て、薦を上げ仏像を見ますが、触ってみると暖かいのに驚き、また印相が気に入らないなどと言って、仏師を探しに戻ります。
シテは急いで面を外し仏師として田舎者に会いますが、触ったら暖かいと言われて、膠を温めて付けてあるので触ってはならないと言い、膠の乾くまでなら印相はいくらでも直してやろうと言って、田舎者に再度仏像を見に行くように勧めます。

シテは急いで先ほどの所に戻り、面をつけると違う形をします。田舎者が見に行くと印相は変わっていますが、これまた気に入らないと仏師を探しに戻ります。
こうしたことを何度か繰り返すのですが、仏師のとる形はどうもある程度シテの裁量に任されているようで、万蔵さんらしいおかしさが印相に出ている感じです。

一緒に行って直してくれれば簡単なのになどというアドの言を、仏師は人の前では仏像を直さないものだなどと言いつつ、何度か行き来するうちに、仏像の格好をするのに間に合わなくなり、嘘が露見したシテをアドが追い込んで終曲となります。

しかし六地蔵、仏師、いずれも見る度に思うのですが、すっぱはこれで代金を巻き上げられると思っていたのでしょうかねぇ。単に田舎者を嬲って楽しもうということだったのか、いささか気になっております。
(25分:当日の上演時間を記しておきます)
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葛城 高林白牛口二(喜多流自主公演能)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2012.12.16
 シテ 高林白牛口二
  ワキ 殿田謙吉
  ワキツレ 梅村昌功 吉田祐一
  アイ 野村扇丞
   大鼓 佃良勝、小鼓 森貴史
   太鼓 小寺佐七、笛 藤田朝太郎

事情があって途中で帰らなければならない可能性が高かったため、指定を取っておいた一階正面席から二階席の端の方に移っての鑑賞。喜多の能楽堂、二階席はちょっと覗いたことがある位だったのですが、上から見下ろしてというのもなかなか面白いものです。

さて舞台には次第の囃子でワキ、ワキツレの一行が登場してきます。ワキの殿田さんがシケの水衣で黒の色味は褐色(かちんいろ)でしょうか、ワキツレ梅村さんと吉田さんは茶のヨレの水衣、いずれも山伏姿なので白大口で、水衣の上から篠懸をかけて兜巾を着けています。

型通りに舞台中央で向き合っての謡、続いて出羽の羽黒山より出でたる山伏というワキの名乗り、三人での道行、ワキの着きゼリフと続きます。
葛城山に着き、雪が降ってきた。木陰に立ち寄って雪の止むのを待とうと、ワキ一行はワキ座に向かいます。この進み掛けたところにシテの呼び掛け。ワキは歩みをとめ、声がかかってゆっくりと一足振り返ります。

何方へ行くのかというシテの問いかけに、ワキは葛城の明神に向かうところと答えますが、このやり取りのうちにシテが橋掛りを歩んできます。
シテは薄い黄色系の箔を腰巻にして、白の水衣、被った笠には雪を置き、右手にこれまた雪を置いた小枝を持っての登場です。
「おや杖を突いていない」と思ったのですが、この曲なぜか金春で観る機会が多く、以前の本田光洋さんの鑑賞記(鑑賞記初日月リンク)で書いたように小枝と杖を持って出る形を見ていたせいか、なんとなく杖を持って出るのが定番と思い込んでいたようです。観世流も本来は杖を持たないらしいのですが、大和舞の小書付で演じられることが多く、この場合は杖を持つので余計にそう思ったのかも知れません。
しかし同じ喜多流、粟谷能夫さんが「岩戸之舞」という小書を付けて演じられた時には杖を持たずに登場しました。杖を持たないのが流儀のやり方なのでしょうね。
さてこのつづきはまた明日に
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葛城のつづき

割と長めのシテ、ワキの問答となり、シテは雪宿りに自分の家にて一夜を明かすようにと勧め、ワキもその申し出に従うことにします。
地謡が雪中の道を下り柴の庵に着いたことを謡うなか、シテは常座から目付に出、ワキがシテに寄って並ぶ形になります。シテが舞台を廻り大小前に向かうとワキも同じ方向を向いて、シテの歩みに着いて行くような風になります。地謡いっぱいにシテは後見座を向いて笠を外し、ワキがワキ座に着座して、庵に着いた形です。

舞台上は庵の中、シテはここに標(しもと)の候、と小枝を差し出し、篠懸を乾すようにと勧めます。どうも見落としてしまったのですが、ここで差し出した小枝には雪が付いておらず、最前の雪の付いた小枝を後見座で取り替えたのか、小枝に付いていた雪を外したものか、さてどちらだったのだろうと気になりました。

この後は標を廻ってのやり取りが続き、地謡の謡い出しでシテは開キ、拍子二つ踏むと角に出て開キ、「言の葉そへて大和舞」と七つ拍子踏んで角へ出て角トリ。舞台を廻って常座から「松が枝そへて焼かうよ」と枝を差し出しつつワキに寄って下居、枝を置いてクセに入ります。

クセは舞グセ、曲舞の方をなぞりつつ、山伏一向に標をあつめ柴を焚いて身を休めるようにと勧めて正中に下居します。

ワキが「はや夜に入りて候ほどに勤めを始めうずるにて候」と言って、夜の勤行を始めようとします。これに対してシテが苦しみがあるので加持祈祷をしてほしいと言いだし問答になります。やり取りのうちに、葛城の神が岩橋を掛けなかったために、明王の策に縛められて苦しみを受けていることが明かされ、地謡でシテは立ち上がると、ワキ正から廻って常座に行き一度正面を向いて開キ、あらためて「神隠れにぞなりにける」と中入です。笛が一噌流藤田朝太郎さんですので送リが吹かれて思い深く退場しました。

代わってアイ扇丞さんが登場してきます。そういえば粟谷能夫さんの時もアイは扇丞さんでした。
この山下に住まいする者と名乗り、あまりの大雪と驚きつつも目付に出てワキを認め、型通りの問答から葛城の岩橋について知るところを語ることになります。
このつづきはまた明日に
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葛城さらにつづき

アイの語りでは、そもそも葛城山の一言主の神は女体の神であっことが述べられます。さて人皇四十二代文武天皇の御代のこと、役の優婆塞を召して仰せあるは、各地より修行の者が来たるが、大峯に参る道を確保するため岩橋を掛けるように命じられた。

所の守護神であるので、葛城明神にまず仰せがあったのだが、明神は行者に夜な夜な出でて橋を架けようと言った。なぜかというと葛城の明神は女体だが、姿形が醜いため夜橋を架けたいということだった。しかし行者はこの様な大事のものを昼に通さずに夜出るなどということがあるものかと断り、このため橋は架からなかった。行者が怒って明神を策で縛めたという子細を語ります。

どれほどの醜さだったのか、昼は出られないという話にはなんだか裏の事情があるような気がして仕方ないのですが・・・一言主をめぐっては古代の氏族関係などいろいろと事情がありそうに思うのですが、話が逸れて行ってしまうので、ともかくも間語りは、型通りのやり取りが続いて終わり、アイが狂言座に下がってワキ一行の待謡となります。

三人が立って向き合っての謡い出し、「夜の行声すみて」で太鼓が打ち出し、一同はワキ座に戻ってワキツレが着座、ワキのみ立って「一心敬礼」と合掌します。
出端の囃子が奏されて後シテの出。緋の大口に紫の長絹、天冠に蔦を絡ませています。なんだか遠目にはゼラニウムのような雰囲気に見えましたが。

常座まで進み出たシテは、夜もすがら、勤行の法に引かれて現れたと謡いワキを向きます。ワキは現れ出でた女体の神の姿を謡い、掛け合いから地謡へ。
シテは角へ出「みぐるしき顔ばせの」と左袖をワキ方に出しつつ進んで正先で左袖を上げ、「よしや吉野の山かずら」と角トリして舞台を廻り、大小前で開キ、左右、「大和舞いざや奏でん」と打込して、「ふる雪の」と謡います。
地謡「標木綿花の 白和幣」で序ノ舞です。

舞上げた後も地謡に合わせて舞う形で終曲へと向かいますが、この項の初日に記した通り、時間の都合でこの最後の部分を観ることができず、やむなく席を立ちました。
(というわけで80分を少し越えるところと思いますが正確な上演時間は不明です)
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