能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

巻絹 片山九郎右衞門(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2013.11.08
 シテ 片山九郎右衞門、ツレ 観世淳夫
  ワキ 大日向寛、アイ 内藤連
   大鼓 原岡一之、小鼓 田邊恭資
   笛 藤田次郎、太鼓 桜井均

このところ慌ただしく、銕仙会を観たのも一月以上も前になってしまったのですが、久しぶりに鑑賞記を書いてみようと思い立ちました。

さて九郎右衞門さんの巻絹ですが、一月以上も経っているのに、流麗な神楽の様子が目に焼き付いている感じです。
巻絹はこのブログでは既に四度ほど鑑賞記を書いておりまして、神楽についてもその都度に思うところを書いてきました。
観世流関根祥人さんの神楽留の小書付(鑑賞記初日月リンク
同じく観世流浅見真州さんで、こちらは諸神楽の小書付(鑑賞記初日月リンク
さらに金剛流工藤寛さんの演能(鑑賞記初日月リンク
そして喜多流友枝昭世さんの演能(鑑賞記初日月リンク
と、以上四番です。小書はもっぱら神楽の扱いと装束にかかるものですので、小書が付いても付かなくても、基本的な能の演出自体にはさほどの違いはありません。そういう意味では、今回の小書無し観世流の巻絹も、演出上で特筆すべきものはありませんが、そう言ってしまうには惜しい位の素敵な舞台でした。

名宣笛で登場したワキ大日向さんの名乗りも、なかなかに良い感じ。前々から気になるワキ方ですが、このところ風格を増した印象を受けます。
続いてツレ淳夫さん。白大口に黒地の掛素袍が映えます。「音なしの天神へ参らばやと思ひ候」と二足程出て「や」と、梅の香に気付くあたりも自然な雰囲気です。着実に経験を積まれている様子を感じました。

その後の様子など、明日につづきます
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巻絹のつづき

期限に遅れて到着したツレを、アイが縛めてシテの登場となります。
呼び掛けの穏やかな声からシテの出。緋大口に白の水衣を肩上げにし、木綿襷をかけて御幣を右手に、橋掛りを進みます。小書無しの標準的な装束で舞台に入ると、「引き立て解かんとこの手を見れば」と常座から二足程ツメて、ツレの様子を見込む形。

「なさけなや」と下がってシオリ、ワキとの問答です。
ツレが音無の天神で歌を詠んだ経緯を巡るやり取りから地謡に。「曇らぬ神慮」と目付柱の方に出ると、ワキ、ツレと見込み、「神の通力と知るなれば」と常座に戻って後ろを向くと、後見に御幣を渡してツレに寄ります。
「打ち解けこの縄を」でツレの縄を解き、その場に座します。

クリの謡になり、シテは立ち上がると常座で扇を受け取り、大小前に進んでサシ。
「眠はるかに眼を去る」とユウケンし、クセに入ります。
舞グセですが、実は九郎右衞門さんのシテを拝見するのは初めてでして、このクセあたりから所作の美しさ、舞の優雅さに見とれてしまった次第です。
九郎右衞門を襲名される以前から、地謡など舞台上では何度も見かけておりましたが、なぜもっと早くから拝見しなかったのか・・・と。

ともかくもクセの終わり、七つ拍子を踏んで左右からワキを向き、ワキの「さあらば祝詞を参らせられ候ひて」の勧めに、後見座を向いて腰を下ろし、幣を受け取ると立ち上がって正面に向き直ります。

幣を両手で捧げてワキ正に出て下居。「謹上再拝」と幣を振り、膝に立てると「そもそも当山は」の謡。地謡が「されば御嶽は金剛界の曼荼羅」と謡うと、立ち上がって「華蔵世界 熊野は胎蔵界」と謡いつつ幣を右手に取り、一度後ろを向いたのち常座で正に直し、下がりつつ幣を戴いて神楽です。
このつづき、もう一日書いてみようと思います
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巻絹もう一日のつづき

何度か書いてきたように、神楽は通常では本来の神楽の部分を舞った後、御幣を中啓に持ち替えて神舞に準ずる舞を続けます。これが直りで、観世流ではカカリ、初段、二段と神楽で舞って、三段、四段を神舞の二段、三段で舞うのが通例といって良いと思います。
この日の神楽は直りのある通常の形でしたが、なんと言えば良いのか、うまく言葉が出てきませんが、ともかく素敵な舞でした。

中ノ舞などのいわゆる呂中干の舞では、上掛の観世・宝生ではカカリから初段、二段と進み四段までの五つの節で五段とするのが基本の形。下掛はカカリの後を初段から五段まで舞い、六つの節で五段とするのが基本です。なぜか、略して三段にするときは上掛、下掛ともカカリから初段、二段、三段までの四節で舞います。
ここから先は確認していないので「多分そうだろう」という話になってしまうのですが、呂中干の舞とは別系統になる神楽も、上掛では五節五段、下掛は六節五段が基本らしく、上に書いたように三段、四段で神舞の二段、三段を舞うのは上掛の形。下掛では直りありの場合は、カカリ、初段、二段と神楽を舞った後、三段から神舞の形になり、三段、四段、五段まで神舞の部分が三段あるらしいのですね。

ただしこれまで鑑賞記に書いた四番のうち、金剛流工藤さんと喜多流友枝さんが下掛なわけですが、いずれも総神楽の形でして直りがありませんでした。
そう言えば、その前の観世流の二番も、神楽留の小書では二段の神楽のところまでで舞上げになってしまうし、諸神楽の小書は総神楽の形で全部を神楽で舞いますから、直りのある巻絹を取り上げるのは初めてですね。

さて舞台の方は、どうかこのまま舞が続いて欲しい・・・と思う内に神楽舞上げとなり、地謡でサシ込み開キ扇を閉じて幣を受け取り、常座で正面を向いてイロヱ。
その後は仕舞でも良く取り上げられる「証誠殿は阿弥陀如来」からの謡い舞いとなり、幣を振りつつ神憑りの舞になりますが「神はあがらせ給ふと云ひ捨つる」で幣を後ろに投げ、神が離れた態で留となりました。

繰り返すようですが、舞台を観て良いの悪いのという感想は基本的に書かない様にしています。良い悪いは個人の感覚の部分が大きいと思うからですが、ついついこの日の舞台は良かったと、珍しく書く気になりました。
(70分:当日の上演時間を記しておきます)
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年末近くに

11月の銕仙会は、九郎右衞門さんの「巻絹」の後、石田幸雄さんの狂言「鐘の音」、そして浅見真州さんによる「碇潜」という番組でした。
鐘の音の鑑賞記は今回は省略して、碇潜の鑑賞記へ・・・と考えたのですが、碇潜に関しては今回少しばかり調べてみたこともあり鑑賞記が長くなりそうです。そこで碇潜はあらためて年明けに書くことにして、年内は思いつくことなどを少しばかり書き連ねてみようかと思います。

まずは漱石と謡を巡っての話。
私、実はたいへん反省をしています。
もう5年程前になるのですが、本田光洋さんの熊野の鑑賞記を書いた際に、漱石の「吾輩は猫である」に登場する苦沙弥先生と謡の話を書きました。
夏目漱石が下掛宝生の宝生新に謡を習っていたのは有名な話ですが、自身をパロディ化したと思われる「猫」の苦沙弥先生にも謡を謡わせていて、「吾輩は猫である」には「後架で謡をうなり後架先生と渾名されても一向平気で『これは平の宗盛にて候』を繰返している」との記載がある旨を鑑賞記に書きました。

これについて、下掛宝生なら「これは平の宗盛なり」ではないのか、「猫」の原文もあたってみた方が良いのではというコメントを戴いたのが発端です。

「猫」のこの一節は妙に記憶に残っていて、まず間違いはないつもりだったのですが、念のためということで、鑑賞記を書く前にも、最近の版ではあるものの「吾輩は猫である」も一応参照してありました。
そんなことから、コメントへの反論みたいな形になってしまい、もう少し余裕を持っていろんなことを調べてみれば、もっと「楽しくブログが書けた」のに・・・と、いたく反省しています。
さてそこで・・・というのは明日につづきます
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年末近くに・・・2

あのとき、観世流のみならず金春や喜多の謡本なども確認したのですが、下掛宝生の謡本までは手が回りませんでした。
そこで今回落ち着いて探してみると、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに昭和8年発行の下掛宝生流謡本刊行会による「湯谷」があるのを見つけました。著作者は宝生新で、ワキの台詞はこれまた「平の宗盛なり」です。
漱石が亡くなった大正5年から17年ほど経っていますし、「猫」が書かれてからだと28年ほどの時間が流れていますが、だからといってこの間に「候」から「なり」に変更されたとは思い難いところです。漱石もやはり「宗盛なり」と稽古したのだろうと考える方が、妥当に思えます。

となると「吾輩は猫である」の方ですが、この作品は明治38年に俳句雑誌「ホトトギス」に掲載されたのが初出です。さすがにこれは見つかりませんでしたが、同じ明治38年の10月6日発行の奥付がある大倉書店刊「吾輩ハ猫デアル」で、「矢張是は平の宗盛にて候を繰返して居る」と記載されているのを確認しました。

やはり謡本は「宗盛なり」で、小説は「宗盛にて候」ということのようです。
となると、漱石が間違えたか、それとも意識してそう書いたのかということになりますが、私は漱石が意識してそう書いたと考えた方が楽しそうだなぁと思っています。

以前にも書きましたが、口の中で転がしてみると「是は平の宗盛なりを繰返している」よりも「是は平の宗盛にて候を繰返している」の方が、なんだかおさまりが良い感じがするのです。
漱石の心の内を想像してみるのも、ちょっと面白いかと思っています。

実は5年程前のコメントのやり取りを読み直してみまして、さほどトガった感じにはなっていなかったので、正直ホッとしています。ですが、自分の記憶としては「反論する」的な書き方をしたように思っていました。たぶん余裕を無くしていたのでは・・・と思います。
今回、いたく反省しているのは「余裕を失っていたかもしれない」ということです。
個人の趣味として楽しみで書いているのが、自分の機嫌を悪くするタネになってしまっては仕方ないという思いです。
のんびり、楽しく書き綴っていきたいもの・・・と、あらためて思っています。
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年末近くに・・・3

学生能の話を少しだけ。

今年、卒業以来何十年か振りで、大学のサークルの自演会を観てきました。
自演会では、仕舞や舞囃子だけでなく学生能を演じるのが恒例で、私自身も大昔にシテを勤めました。シテ、ワキはもちろん、囃子方も学生が勤めることになっていて、私は2年、3年の時は笛方として出演しています。

今回、現役の皆さんの演能を観ていて、この「全部学生で演じる」というのは本当にスゴいことなんだと、あらためて気付きました。当時も先生は「囃子まで学生の手でやるというのが重要」と仰っていましたが、その意味が今になって腑に落ちたように感じています。
さすがに地頭は先生なり、プロのお弟子さんなりにお願いしていましたが、それ以外を学生で固めるというのはかなり厳しいものです。

通常、素人会などで能を演じるとすれば、素人のお弟子さんはシテのみで、ワキ、囃子、地謡すべてプロが固めるのが普通でしょう。囃子方の会であれば、素人のお弟子さんが小鼓なり、大鼓なりを打ち、それ以外の楽器や、シテ、ワキ、地謡などはプロが固めるということになりそうです。
こうした形であれば、曲の位など、仮に素人のお弟子さんがうまくできなくても回りがサポートできます。

しかしこのサークルの学生能の形だと、誰かのサポートを期待して・・・という訳にはいきません。ともかく、みんなが能を作り上げるんだという意識をもって自発的に取り組まないと一曲にならないわけです。
その意義がようやくわかったような気がした、今回の自演会でした。

所詮、素人の芸ですから、技量の善し悪しはある意味問うても仕方ないところです。
それよりも、学生達がなんとか自分のパートを勤めながら一曲を構成していこうとすること自体に、感動を覚えたところです。
ああ、私自身、素晴らしい経験をさせてもらっていたんだなあ・・・としみじみ思った一日でした。
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大晦日にひと言

毎年、大晦日を迎える度にひとこと書いています。
今回は八回目ですが、飽きやすい性格の私がよくまあ続けているものだと、我ながら感心しています。

今年は能が31番、狂言14番を観ました。
相変わらず雑事に追われて、東京まで出かけての観能が難しくなっていますが、去年よりはほんの少し鑑賞した番数が増えています。ただし、何度も鑑賞記を書いている曲は省略しているものもありますので、鑑賞記を書いた曲数は昨年と同様というところです。

今年は下掛宝生の会での檀風など、稀曲の類も何曲か観ることができました。
慌ただしい毎日ではありますが、まあ無理をせず負担にならない範囲で、来年も気になる番組を観、記録していこうかと思っています。

昨年の大晦日には「政治も経済も、大きく変化しようとしています。世界も大きく動いています。」などと書きました。昨年末の政権交代以来、仕事のうえでも様々な変化を感じています。

能狂言も時代によって変化しています。
学生時代に読んだ小林秀雄の当麻にある有名な言葉「美しい花がある。花の美しさというものはない」を時折思い出します。来年もまた、花の美しさを愛でる余裕だけは持っていたいと思っています。

皆様、どうぞ健やかに新年を迎えられますよう、お祈りいたします

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