能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

インフルエンザにかかりまして・・・

何年かぶりでインフルエンザになってしまいました。
もちろん予防接種をしていたのですが、事前の予想と流行った型が違ったということなんですね。前回かかった時も予防接種をしていたのですが・・・

昨日の夕方には平熱に落ち着きまして、今日からは「人に感染させないための自宅療養」中です。
それにつけても三日間、まあよく寝たこと。一日中、寝ていた感じで、特に一日目と二日目は、一日の区切りが曖昧になるくらいよく寝ていました。
我ながらよく眠れるものだと驚いています。

という訳で、明日あたりからまたブログ更新を再開したいと思っています。
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大瓶猩々 寺井栄(観世会定期能)

観世流 観世能楽堂 2013.12.01
 シテ 寺井栄
  ツレ 大松洋一 松木千俊 下平克宏 小早川修
  ワキ 梅村昌功、アイ 遠藤博義
   大鼓 大倉栄太郎、小鼓 森澤勇司
   笛 藤田次郎、太鼓 小寺真佐人

昨年十二月の観世会の鑑賞記もこの曲が最後。昨年観た最後の曲になりました。
この大瓶猩々(タイヘイショウジョウ)は初見。猩々の類曲という所ですが、観世流にしかなく、しかも滅多に上演されません。いったい誰が、どの様な経緯でこの曲を作ったのか興味のあるところですが、そこは研究者ではなく一観客ですので「興味があるなあ」というところにとどめて、舞台の様子に移りたいと思います。

まずは名宣笛でワキ高風が白大口に側次を着けて登場してきます。
常座に立つと「これは唐土かね金山の麓に 高風と申す民にて候」と名乗り、親に孝あるにより次第に富貴の身となったと語ります。さらにどこからともなく童子が多数やって来て自分の酒を買うので、今日も来たならば名を尋ねようと言ってワキ座に着座します。
下掛宝生にこの曲の本が伝えられているのかどうか分かりませんが、梅村さんの詞章は、ほんの少し観世の本とは異なっていました。

さてワキが座に着くと、一声の囃子。前シテ童子が登場してきます。
黒頭に紅入り縫箔を着流し、紺地の水衣を着けています。「渡津海のそことも知らぬ波間より 現れ出づる日影かな」と謡うと、ワキが「今日の市人は何とて遅く来たり給ふぞ」と声をかけます。

シテは「嬉しやさらばと内に入り・・・」と謡いつつ、正中に下居しワキに向き合います。地謡が続け、シテ・ワキが語り合う態になります。
地謡が終わると、ワキはシテに名を名のるようにと求めます。
これに答えてシテは潯陽の江に住む猩々であると名乗ります。そして高風が孝行なので泉の壺を与えようと言って地謡。
地の「夕べの空も近ければ・・・」を聞き、「さ丹塗の面も」で立ち上がり、常座に進むと開キ、向き直って来序で中入となりました。
このつづきはまた明日に
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大瓶猩々のつづき

シテが来序で中入りすると、代わってアイ水神が狂言来序で登場してきます。括り袴に黄の褸(ヨレ)の水衣、うそぶきと思しき面をかけて登場し、唐土潯陽の江に住む水神と名乗ります。
この後はうまく聞き取れませんでしたが、ともかく潯陽の江に猩々が住んで日夜酒を飲んでいること。猩々は姿顔は人のようだが長い尾があり、言うことは人に勝っていること。さらに木に登ること自在であるなど、猩々の様子を語ります。

さらに、古く唐土にいた男が海川を住処として、この猩々と一緒に葉の酒を飲み、心を通い合わせて、よろず富貴の身となったことを語り、酒を湛えて猩々を待てば、その香りにつられて猩々がやって来ると言います。
そして「いらざる独り言を申さずとも」猩々が酒盛りをするだろうから、皆々これを見物しようと触れて退場します。

特段の説明をせずに舞台の流れで書きましたが、現在、猩々は半能の形で演じられるのが普通です。というか、私は半能の形でしか観たことがありませんし、各流の謡本をみても前場があるようには見えないのですが、ものの本などには「いくつかの流儀で半能形式」とあります。さて前後のある形で演じている流儀はどこなのでしょうね。

ともかくもこの大瓶猩々は、観世流などで演じられなくなってしまった猩々の前場はかくあったのかと思わせるような構成です。
アイが退場すると、後見の手で一畳台が運ばれてきて正先に置かれ、黒の大瓶に朱の蓋をかけた作り物が出されて、一畳台と階の間に置かれます。
すると下リ端が奏され、ツレ二人が登場してきます。ツレは猩々の面に赤頭。赤地の箔に緋の大口、赤地の唐織を打掛にした、常の猩々と同装です。舞台中央まで進み、並んで左右、打込。渡り拍子で「御酒と聞く」と地謡が謡い出します。

やや右を向くと直して正面にサシ込み「はや色づくか一重山」と開キ。サシて開キ「菊の盃すゑ置き」と五足ほどツメて「秋の夜深く待ちけるに」と下居。
ツレ二人は向き合って「不思議やこの友の」と謡うと正面に直し「沖に向かいて」と今度は幕の方を向くと、扇を広げて立ち上がり、「など遅なはり給ふぞや 急ぎ給へ友人」と招き扇して、シテを待ちます。
さてこのつづきはまた明日に
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大瓶猩々さらにつづき

再び下リ端が奏されます。幕が上がり、ツレがユウケンしてシテを迎えると、ツレ二人に挟まれてシテが登場し、三人が橋掛りに並びます。
ツレは、先に出たツレと同装ですが、シテのみ赤地に青海波の文様の半切と、赤地に亀甲文様の法被を着けています。

「かの高風に妙なる泉を与えんとて」と、橋掛りに並んでいた三人が向きを変え、舞台へと進んで「潯陽の江の 汀も近く現れたり」と笛座、正中、常座に立ちます。

地謡「頃は秋の夜月面白く」で、後ろ側のシテ、ツレ二人が左手を上げて頭の毛を掴み、月見上げる形。「汀の波も更け静まりて」で前のツレ二人が台上に上り、シテは扇を広げて背から銀柄杓を取り出します。「泉の口を」でシテも台上に上り、ツレが蓋を外した大瓶から、杓を使って「涌き上り涌き流れ」で扇を盃に見立てて酒を汲む所作。

ツレ二人は台を下りて橋掛りに入り、シテは杓を大瓶に置いて台を下りると「何れも戯れ 舞ふとかや」で中ノ舞の相舞になります。
舞台上にシテ、ツレ三人、橋掛りにツレ二人が立ち中ノ舞を舞うわけですが、二段まではまったく同じに舞い、三段で扇を逆手に取るところ、シテのみが逆手に取り、ツレはここで下がって安座しシテが舞上げる形になります。

「菊の露 積りて尽きぬこの泉」と謡って上扇、開キ。左右、打込、開キと続き、ツレは下居。シテは「これまでなりや 酔伏す夢の」で扇左にとって枕扇。「覚むると思へば」でシテ立ち上がって台上へ、ツレも遅れて立ち上がります。
「命長柄の柄杓の酒を」でシテが杓を取って酒を汲み、汲んだ酒を杯に見立てた扇に満たして勧める型を見せると、杓を置いて台を下り、「何れも足もとはよろよろ」と一同下がり、サシて入れ違い、シテはワキ座前へ。
ツレ二人は先に立って橋掛りに入り、橋掛りにツレ四人が並ぶ形。

シテは扇かざして常座で回り、開いて留拍子を踏み終曲となりました。
後場の型も、家々によって微妙な違いがあるようですが、今回観たところはこういう形だったということで、記録させていただきました。

なお猩々が複数出てくるという意味では、置壺や双之舞などの様々な演出があり、人数では宝生の七人猩々が最多を極めますが、これらはあくまでも「猩々」の特殊演出でして、この「大瓶猩々」は別曲です。
(53分:当日の上演時間を記しておきます)
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索引の追加

昨年9月以降の鑑賞記索引を追加しました。
だんだん、曲数が増えてきたため、いささか探しにくくなってしまったように思いますが、これはこれでご容赦下さい。

  「能の鑑賞記 索引
  「狂言鑑賞記 索引

空腕 山本則孝(出雲康雅の会)

大藏流 喜多六平太記念能楽堂 2014.02.01
 シテ 山本則孝
  アド 遠藤博義

この日の会は、冒頭で大島輝久さんによる解説があり、続いてこの「空腕」、そして出雲さんの朝長という番組でした。
大島さんの解説は、朝長という人物自体についてと「朝長」という曲についてのお話でしたので、後日、朝長の鑑賞記の中で触れさせていただきます。

さて狂言「空腕」ですが、うかつにも鑑賞記に何度も書いたような気がしていて、今回はほとんどメモも取らずに、ひたすら楽しんでおりました。割と上演の多い曲で何度か観ていますし、「杭か人か」など割合よく似た構成の曲でもありまして、鑑賞記を何度か書いたように思い込んでいた次第です。
ところが調べてみると前回観たのは9年も前の話で、このブログを始める前のこと。当然ながら鑑賞記の記載もありませんでした。

というわけで、たいしたメモもなくいささか怪しいのですが、空腕の舞台の様子を書いておこうと思います。

この曲、大藏、和泉両流にありますが基本的な構成は同じです。ただ、細かい言葉などは家々によって様々な様子です。
まずは長上下でアド主の遠藤さんが登場し、シテ太郎冠者を呼び出します。

シテ則孝さんが出てくると、アド主は明日振舞をするので淀に行って鯉を買ってくるようにと言いつけます。シテはあのあたりは物騒だから、こんな遅くなってからでは勘弁して欲しいと断ります。しかしアドは、日頃シテが腕自慢をしているのに断るとは何事か、と許しません。
丸腰では物騒だからという太郎冠者に、アド主は太刀を持ち出してきて貸し与えて送り出し、笛座前に控えます。
さてこのつづきはまた明日に
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空腕のつづき

この曲、シテの独演的な部分が多く、それだけ技量の求められるところと思います。

迷惑な事だとぼやいてみたものの、結局は行かざるを得ない太郎冠者、やむなく鯉を買いに淀へと向かうことにします。
しかしこの曲の曲名「空腕」の通り、日頃は腕自慢を吹聴している太郎冠者ですが、実は腕が立つわけでもなく大変な臆病者です。淀に向かう内にとっぷりと日も暮れてしまい、怖くてたまりません。

この曲、流儀により、家により細かい違いがあると書きましたが、この太郎冠者の空腕も、当初から主人が見抜いていて、太郎冠者を懲らしめてやろうと淀に鯉を買いに行かせるという展開の家もあるようです。

ともかく、怖いのでびくびくしながら歩いていると杭を人と見間違えたりして、大騒ぎをしてしまいます。目が見えるから怖いので、目を閉じて歩けば大丈夫だなどと言って、太郎冠者は目を閉じて歩き出しますが、今度は石に躓いてしまいます。
それでは仕方ないので、再び目を開いて暗い中を歩きますが、鳥羽縄手にさしかかると、人が大勢立ち並んでいる様子に気付きます。

これは大変なことになったと太郎冠者は、主人から借りた太刀を抜いて振り回すならまだしも、太刀を先に差し出した形で、命を助けて欲しい、太刀を差し上げますので、これを納めて命ばかりは助けて欲しいと命乞いをします。

さてここで主が立ち上がり、太郎冠者の帰りが遅いので見てこようと言って出かける様子。舞台を廻って鳥羽縄手あたりにやってくると、太郎冠者が平伏して太刀を差し出し、命乞いをしている姿を見つけます。
もちろん太郎冠者の先に大勢がいる様子もなく、何もないところで太郎冠者が自分の大事な太刀を差し出している様に、主人は腹を立てて算段し「致しようがござる」と言って、太郎冠者の背中を扇で打ち、太刀を取り上げてしまいます。

太郎冠者はすっかり切られたものと思い込み、目を回して倒れてしまいます。
さてこのつづきはまた明日に
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空腕さらにつづき

太郎冠者が倒れ込んでしまうと、主は先に家に戻った態で笛座前に控えます。
暫しの後、起き出した太郎冠者。自分は斬られて死んでしまったと思い込んでいます。
夜のこととて暗いわけですが、冥土の闇とはこういうことかなどと言っていると、月が出て明るくなります。

景色が見えるようになり、娑婆と同じだなどと最初は言っていますが、そのうち自分は死んでいないことに気がつきます。
生きていた事に喜びますが、さて借りてきた太刀が無いことに気付きます。しかしそこは太郎冠者のことで、なんとか言い逃れをしようと言って帰ることにし、舞台を廻って主人の屋敷に戻ってきます。

さて主人を呼び出した太郎冠者は、恐ろしい目にあったと言い、淀に行く途中で東寺のあたりで七、八人の男に声をかけられたが、太刀を抜いて戦うと蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。次に上鳥羽と下鳥羽の間では七、八十人が申し合わせて待ち構えており、逃がすなと長道具を持って襲いかかってきた。これも、槍の柄を太刀で切り落とし、相手が逃げて行った・・・などと武勇伝を続けます。

その後さらに大勢と出くわし、拝み討ち、車斬り、蜘蛛手、かくなわ、十文字と戦ったが、太刀が折れてしまった。そこで、逃げるなと言い置いて戻ってきたと言い、手柄であったろうと主人に同意を求めます。

主人はひとまず手柄だったと褒め、さてその太郎冠者の留守に新たに太刀を求めたので見せようと言って、取り上げてきた太刀を持ち出してきます。
太刀を突きつけられた太郎冠者ですが、見覚えがないと白を切ります。
これに怒った主人は、太郎冠者の後を付けていくと誰も居ないところで命を助けてくれの、太刀を進ぜようなどと命乞いをしていたので、自分が納めてきたのだと明かし、太郎冠者の背を扇で打ちます。

太郎冠者は、太刀を折ったのは本当のことで、太刀が名作物なので、私より先に癒え合って戻ってきたのだろうなどと言い訳をし、主人が太郎冠者を追い込んで留になりました。狂言としては長い方で、太郎冠者の空腕立ての仕方話など見せ場の多い一曲。則孝さんの熱演でした。
(42分:当日の上演時間を記しておきます)
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朝長 出雲康雅(出雲康雅の会)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2014.02.01
 シテ 出雲康雅
  ワキ 森常好、アイ 山本東次郎
   大鼓 國川純、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 観世元伯、笛 一噌仙幸

この会の冒頭、大島輝久さんの解説があったことは先に書いたとおりですが、大島さんが述べておれたように、「源朝長」という武将はどちらかというと知名度の低い人物です。源義朝の次男で悪源太義平の弟、というよりも頼朝や義経の兄ということで、歴史に興味のある方なら誰もが知っていても良いような出自ですが、およそこの「朝長」という能以外に、主人公級で扱われている物語や劇はないだろうと思います。

最大の理由は、わずか16、7歳で、しかも大規模な戦闘の中などではなく、落ち延びる途中で自害したというところにあるようです。大島さんの解説を概ねなぞる形で、この頃の時代背景と朝長について少しばかり見ておこうと思います。

保元・平治の乱と一口に言いますが、わずか4年ほどの間に起こったこの二つの戦いで、権力が一気に平清盛に集中していきます。保元の乱は崇徳上皇と後白河天皇という兄弟の争いに、摂関家、源平両家がからみ、それぞれがまた身内で争い合ったというもので、源平両家では後白河天皇方についた平清盛と源義朝が勝者となります。
しかしその後、勝者側である後白河天皇の側近である信西(藤原通憲)に対する反感から、藤原信頼と源義朝が反信西派の中心になって起こしたクーデターが平治の乱・・・と簡単に言ってしまえば、そういう位置づけです。

その起こりは77代白河天皇に遡ります。77代以降の天皇は白河、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条、六条、高倉、安徳と続きますが、鳥羽天皇が崇徳天皇を嫌ったことが事の始まりとされます。崇徳天皇は鳥羽天皇の第一子ですが、実は鳥羽天皇の祖父である白河天皇の種であるとの話があり、これが親子確執の原因になったといわれています。
さてこのつづきはまた明日に
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朝長のつづき

鳥羽天皇が崇徳天皇を嫌い、むりやり崇徳天皇の弟にあたる近衛天皇に譲位させた後も、崇徳上皇は、いずれは再び自ら、あるいは自分の子が皇位に就けることを期待して悶々とした日々を過ごしていたわけです。
しかし近衛天皇が17歳で子のないままに崩御し、崇徳上皇は皇位への期待を高めますが、次に即位したのは崇徳上皇と近衛天皇の兄弟である後白河天皇。しかも後白河天皇はその子である守仁親王、後の二条天皇が即位するまでのつなぎとして即位したため、これで崇徳上皇の系譜に皇位が戻ってくる望みは全くなくなってしまいます。

そんな中、鳥羽上皇が崩御し、崇徳上皇と後白河天皇の間が抜き差しならないところに到ります。さらにこれ以前からの関白藤原忠通と異母弟頼長の勢力争いがからみ、騒乱へと展開していきます。崇徳上皇、藤原頼長側には、源為義や平忠正をはじめとする武将が付き、後白河天皇、藤原忠通側には、為義の子である義朝や忠正の甥である清盛などが付いての争いが一気に武力衝突となったのが保元の乱です。

保元の乱は義朝や清盛の活躍もあり、あっという間に天皇方の勝利となったわけですが、この際に義朝は父である為義の斬首を命じられ「父殺し」の謗りを浴びるようになってしまいます。また信西が取り仕切った乱後の論功行賞で、清盛が播磨守・大宰大弐となったのに対し、義朝は左馬頭に留まったことなどから、義朝の不満が高まります。
権力を掌握した信西に対し、信頼や義朝などが中心となった反信西派が起こしたクーデターが、保元・平治の第二幕、平治の乱という訳です。

反信西派は、清盛が熊野詣で不在の時を狙って事を起こし、既に二条天皇に譲位していた後白河上皇や二条天皇を幽閉して一気に優位に立ちます。信西を確保して斬首し、気勢を上げましたが、熊野から急遽、清盛が都に取って返し、上皇、天皇を救出したことから、様相が大きく変化します。

信頼や義朝は上皇や天皇を奪われたために逆賊になってしまい、六波羅合戦で敗退。信頼は捉えられて斬首。義朝は長男義平とは別行動になってしまい、次男朝長らと逃げ落ちますが、その途中、膝に矢を受けて動けなくなった朝長が自害。義朝も尾張国まで逃げますが、ここで同行していた鎌田政清の舅である長田忠致の館に身を寄せたところ、浴場でだまし討ちに遭って命を落としてしまいます。
非常に大まかですが、朝長を観るにあたっては、この程度でも知っていると話が分かりやすいかと思います。
このつづきはまた明日に
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朝長さらにつづき

さてようやく舞台に移ります。
一同着座すると、名宣笛でワキ僧が登場してきます。無地熨斗目着流しに角帽子の姿で、ワキツレ従僧の舘田さんと常太郎さんを従えて橋掛りを進み、ワキは常座へ、ワキツレは橋掛りに控えて下居。ワキの名乗りとなります。

ワキは嵯峨清涼寺から出た僧と名乗り、大夫の進、朝長が都大崩で重手を負い、美濃国青墓の宿、長者の屋にて自害して亡くなってしまったので、その後を弔おうと青墓の宿へ急ぐことを述べます。
アシライでワキが進み、ワキツレも舞台に入って三人が向き合う形で道行の謡です。

近江路を進み、瀬田の長橋から鏡山。老蘇の森を過ぎて青墓の宿へとやって来ます。
着きゼリフで朝長の墓所を尋ねようとワキが言い、尤もにて候と答えてワキツレがワキ座に着座すると、ワキは常座から狂言座のアイを呼び出します。

アイは東次郎さん、青墓宿の長の下人という設定です。ワキに呼ばれて狂言座で立ち上がります。ワキはこのあたりにあるという朝長の墓所を教えて欲しいと尋ね、アイがこれに答えて正先の方を見、あれに見えたると墓所を指し示します。その後は常のやり取りがあり、ワキはワキ座に下がって着座、アイも狂言座に着座して次第の囃子になります。

前シテの出、青宿の長者である中年の女性という設定で、黒地と薄茶地の落ち着いた無紅唐織着流し、右手に数珠を持って出て常座で斜め後ろを向いて次第の謡です。
次第の謡からサシ、下歌、上歌と謡って、青墓の長者であると名乗り、何の事とは言わぬままに、月日が経ち冬から春へと季節は巡っても、いたわしい有様が思い出されると、しみじみと思いを述べるところ。上歌の終わりにゆっくりとワキを向いてから正中へと進み、下居して合掌します。

シテはワキに気付いた態で、この墓所に七日毎に参って弔っているが自分以外には弔う人もない。それだというのに、旅人と思しき僧が涙を流して弔いをされているのは、何か特別な志をお持ちかと問いかけます。
さてこのつづきはまた明日に
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朝長さらにさらにつづき

シテの問いかけに、ワキは朝長ゆかりの僧であることを明かし、朝長が青墓にて亡くなったと聞いて直ぐにも駆けつけたかったのだが、敵の目もあり忍んで下向してきたところと答えます。

大島さんの解説にもあったのですが、およそ修羅物のほとんどは古戦場に僧侶が立ち寄り、仮に老人の姿となって現れた古の武将の霊と言葉を交わし、その場に留まって弔いをしていると、生前の姿で再度幽霊が現れるという展開です。しかしこの曲は、まだ縁者が身を憚らなければならないほど、武将の死から時間が経っていない時点での出来事です。
こうした展開は珍しく、後ほど触れますが、前シテと後シテが別人格であることも特徴的です。

ともかくも、朝長の所縁とはどういうことかとのシテの問いに、ワキは朝長の乳母子何某であると明かします。二人は朝長への思いを分かち合うように言葉を交わして地謡。
夕煙が一片の雲となって消えてしまい、空には色も形も留めていない様にたとえ、亡き人の哀れを謡います。シテは空を見るようにやや面を上げた後、面をやや伏せてシオリ。

ワキは朝長の最期の様子を聞かせて欲しいと求め、これに答えてシテの語となります。
シテは青墓の宿の長ですから、朝長を迎えた方からの視点です。

暮れし年の八日の夜になって・・・と始まるのですが、平治物語などによると義朝達が事を起こしたのが平治元年十二月の九日。その後、清盛が取って返し、上皇・天皇が脱出したのが二十五日で、六波羅合戦で義朝達が敗れたのが二十六日とされています。義朝が朝長の死を知った後、長田の館で殺された日は諸説あるようですが、二十九日とするのが有力で、となると青墓に到ったのが二十八日なら辻褄が合いそうです。「暮れし年の八日」は暮の二十八日という意味でもあるのか、各流とも同じ詞章でもあり気になるところです・・・門を激しく叩く音がし、誰かと問うと鎌田殿が名乗られたので門を開けた。すると義朝親子や鎌田、金王丸など四、五人が入ってきて一夜を明かさせて欲しいと仰せられたのでお泊めした。
朝長は都大崩で膝に矢を受け負傷していたが、夜更け皆が寝静まった頃に朝長の声で南無阿弥陀仏と二度ほど念仏が聞こえた。鎌田殿が見に行ってみると、既に朝長が腹を切って目も当てられぬ有様となっていた。
義朝がなにゆえ自害するのかと問うと、朝長は膝を射られて馬の鐙を踏むのも難儀となり、この先、路次で敵に遭って雑兵の手にかかるよりは、此処でお暇したいと思ったと答えたと語ります。
さてこのつづきはまた明日に
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朝長またつづき

シテの語から地謡。
朝長が事切れると、義朝らが遺体に取り付いて嘆かせられた有様は、よそ目にも哀れであったという謡にシテはシオリ。「悲しきかなや」で面を上げますが、「亡魂尊霊もさこそ哀れと覚すべき」でワキに向いて訴えるような様を見せて、正に戻します。

地の下歌「かくて夕陽影うつる」で腰を浮かせたシテは、脇座の先あたりを見上げる形からワキともどもに立ち上がり、「雲たえだえに行く空の」でゆっくりと正に出つつ上を見る心。ワキが少し出て正に向き、シテ、ワキが並ぶ形から「かの旅人を伴ひ青墓の宿に」と向き合います。
シテはワキ正から大小前に向きを変えて少しばかり出ると正面に向き直り、二句目の「青墓の宿に帰りけり」でワキはシテを見る形になります。

シテはあらためて「見苦しう候へども しばらくこの所に逗留候ひて 心静に朝長の御跡を御弔ひ候へ」と言い、ワキが「心得申し候」と答えます。
ワキはワキ座に着座しますが、シテは「いかに誰かある」と呼び、アイが目付に出てきます。シテはアイに旅の僧侶のお世話をするように言いつけ、アイが「畏まって候」と受けて素早く笛座前に移ると、ゆっくりと中入。アイは退場するシテを常座まで見送りつつ出て、シテが幕に入ると「これは長に召し使はるる者にて候が・・・」しゃべり出します。

ことわり無く書いてきましたが、上掛では前ツレの侍女とトモの従者が出ていて、シテはツレ侍女に僧の世話を命じて中入りし、アイがあらためて登場する形になっています。
いずれにしてもこの中入りはどうも変則的です。地謡の後にシテ・ツレないしシテ・アイのやり取りがあったり、本来は朝長の霊を供養し迎える立場である青墓の長が、幕に入ってしまうなど、中入の様式からみても、劇の構成という点からもおさまりが良くない感じがします。
この点はいずれあらためて考えてみたいと思います。

さてこのつづきはまた明日に
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朝長またまたのつづき

アイは目付に出てワキ僧を認め、最前遭った僧と気付きます。正中に出て着座するとワキに名乗り、ワキ僧の求めに朝長の最期を語ります。

先ほどの謡と重なりますがアイの言葉をおおよそにまとめると、義朝は平治元年極月の都大崩の戦いに敗れて逃れた。この青墓の長者大炊の娘延寿は、かねて義朝の寵愛が深く十歳の娘も居たので、馴染みであるこの宿の長を頼みここまで逃れ来たものである。
家に入れ一行を休ませたが、朝長は傷が重く一足も動けない。雑兵の手にかかって犬死にになるよりはと、朝長は自害して果ててしまった。
義朝は朝長の御首をうち小袖を引き被かせると、悪源太は北国へ、佐(頼朝)は道に遅れ、朝長はかくなりたると、猛き義朝も涙に咽んでいた。その有様を見て涙を流さない者はなかった。
極月の二十九日。義朝は尾張国知多の郡、長田の庄司忠致を頼って行かれたが、長田が心変わりして湯殿を仕立て、正月三日に湯殿にて義朝を討ってしまった。また長田の婿である鎌田も討たれた。
この青墓の宿の長は、朝長の追善として七日七日に墓所に行き、香華を手向けている・・・と語ります。

この後は常のようなやり取りとなり、朝長が若年から観音懺法を尊んでいたことにちなみ観音懺法にて弔うことになります。アイはこの段を常座にて触れ狂言座に下がります。

ワキ、ワキツレは立ち上がり、脇座の前に出ると正面に向き直り、ワキが前、ワキツレが後ろに控えて雁行の形になって下居。ワキ、ワキツレの掛け合いから三人の待謡となります。

「声満つや 法の山風月ふけて」と謡い出し、「音澄み渡る折からの」で扇を置くとワキツレが先に合掌、「御法の夜声感涙も」とワキも合掌し、待謡を謡い終えると出端の囃子となります。

ワキ一同は合掌を解いて立ち上がりワキ座へ、アイは切戸口から退場し、囃子に乗って後シテの登場となります。
さてこのつづきはまた明日に
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朝長なおつづき

後シテは、面は十六でしょうか、紅葉柄の大口に長絹を肩脱ぎ、左折りの梨打烏帽子に白鉢巻きで登場し、常座まで出てヒラクと「あら貴の懺法やな」と謡い出します。ワキを向いて正中まで出「有難や きけば妙なる法の御声」と合掌。

シテ・ワキ同吟で「楊枝浄水唯願薩埵」謡って開キ。地謡「心耳を澄ませる。玉文瑞諷」で正へ行きカカリ、サシて常座へ。ワキに向き正中近くで「あら貴の弔やな」と合掌します。

ワキは観音懺法の声澄む中に、灯の影に朝長の姿が見えるのは、夢か幻かと謡います。
これに答えてシテ朝長は「もとより夢幻の仮の世なり。その疑を止め給ひて。ただ/\御法を講じ給へ」と弔を続けるように促し、シテ、ワキの掛け合い。
地謡「あはれとも。いはゞ形や消えなまし」シテは正面を向いて開キ、足拍子二つ踏んで六足ほど出、開キ。七つ拍子踏んで「深夜の 月も影そひて」と袖返して月を見上げ、ワキに寄ります。
さらに角で角トリして左へ回り「御法を説かせ給へや」と常座に戻ってワキに向かい二足ほど出て開キます。

地のクリで正中に出て袖を返し床几に腰を下ろします。
シテのサシ「さてもこの有様 源平左右にかき集め・・・」と当日のメモに、聞いたとおり記載したつもりなのですが、ここは各流とももともと「昔は源平左右にして朝家を守護し奉り」だったのではないかと思います。現在の喜多流は詞章を変えたのか、それとも私の聞き違いか・・・
ともかくも地との掛け合いからクセの謡。

悪源太義平は石山寺で生け捕られて誅せられ、兵衛の佐も捕らえられた。義朝は長田に討たれてしまったが、この宿の主人は女人ながら一夜の情けをかけてくれたのみならず、後々に朝長の跡を弔ってくれるとは、真に深き志を受けて朝長の後生も心易く思し召せ、と謡います。
クセは居グセ。ロンギになり、地謡「源平両家」シテ「入り乱るゝ」で、シテは床几に腰を下ろしたまま扇をスッと出して両手広げ、扇を広げてサシ、ワキを向くと七つ拍子踏み返し、扇を閉じて「朝長が膝の口を」と袖を巻くと、膝口を矢で射られて馬の腹に射付けられた様を、立って戻し飛び上がって床几に戻る仕方に演じます。

「一足もひかれざりしを」で立ち上がると正先へ。回って座し「雑兵の手にかからんよりはと」と扇を広げて自害した様。「修羅道にをちこちの」で再び立ち上がり、後見座を見込んで常座へ小廻りし「亡き跡とひて たびたまへ」とワキに合掌。後ろを向いて留拍子を踏み、終曲となりました。
(108分:当日の上演時間を記しておきます)
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朝長またまたのつづき

昨日までで舞台の様子は終えましたが、この曲を廻ってもう少しだけ書いておこうと思います。

まず観音懺法について。
仏教上の詳しいことは分かりかねますが、懺法というのは簡単に言ってしまうと懺悔の力で仏性を取り戻す儀式と言えそうです。天台系の法華懺法と禅宗系の観音懺法が有名とものの本にはありますが、さて朝長が観音懺法を尊んでいたのかどうか、少なくとも平治物語にはそうした記述は見あたりません。

ただ、足利義持が禅宗に傾倒していて、臨済宗相国寺の僧達が観音懺法の修行をしていると、それを聞いていて経文を数句飛ばしたと指摘したという話が残っています。将軍家が観音懺法に傾倒していたとなれば、能作者たちもこれを考慮したと考えて良さそうに思えます。
相国寺は現在でも重要な法要として観音懺法を修しているそうですが、「朝長」の観音懺法は相国寺のそれを参考にしたとも言われています。

次に小書「懺法」について。
朝長には有名な小書「懺法」があります。これは太鼓方の小書ですが、滅多に上演されません。太鼓を特殊な締め方をして、独特な音を出すようにし、この音で朝長の鎮魂をしようという小書と聞いています。
もちろん私は観たことがありませんで話に聞いているだけですが、普通の太鼓の皮ではこの懺法の締め方をすると一度の舞台でダメになってしまうとか。しかも低い音なのに緩めているわけではなく、後の調べといって終演後に橋掛りで太鼓方が太鼓を打ち、通常の高さの音を出すのだそうです。
修羅能では、屋島の弓流、清経の音取、そして朝長の懺法と、三つの小書が有名ですが、中でも懺法は滅多に上演されないという意味でも貴重な小書です。

さて最後に中入の不思議をめぐって。
鑑賞記中に、極めて変則的な中入と書きました。そもそも前後でシテが全くの別人格であり、しかも弔うべき前シテが姿を消してしまうのは妙だということです。
さてこの件は、実は次に鑑賞記を書こうとしている国立能楽堂企画公演「藤戸」にも共通する問題です。
そこで後日、日をあらためて、朝長や藤戸の改作をめぐる話も書いてみようと思っています。
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現代能「始皇帝」を観る

20日の夜、国立能楽堂で現代能という試みを観てきました。

新作能ではなく、能の要素を用いながら、新しい演劇の形を模索した作品と感じました。
詩人、那珂太郎氏の作品がベースになっていますが、照明を用いたり、演者がコロスとして登場するギリシャ劇を思わせるような演出があったりですが、それでいてこれは「能」であると感じられる不思議な演劇でした。

主人公、始皇帝を観世銕之丞さんが勤められましたが、中入と思しき形で途中本幕から退場し、後場に相当する部分では舞があるなど、能の構成を基本において構成されています。
舞は楽をベースに新作されたのだと思いますが、実に面白い。この舞だけでもまた観てみたい思いにかられました。

この作品を、能をベースに作る必然があるのかどうか、そのあたりはよく分かりませんが、それでも演劇の一つの形として、また七百年続いた能の発展する形として、興味深い、しかも見応えのある試みだったと思います。

普段、能をご覧にならない方々の感想が、ネット上にも何件か上がっています。
大変興味深く読ませていただいています。

藤戸 山本順之 浅見真州(国立能楽堂企画公演)

観世流 国立能楽堂 2014.02.06
 シテ 山本順之 浅見真州
  子方 馬野訓聡
  ワキ 福王茂十郎、アイ 小笠原匡
   大鼓 安福建雄、小鼓 曾和正博
   太鼓 小寺佐七、笛 一噌庸二

国立能楽堂の企画公演では、あるテーマに沿ってシリーズ的に上演されるものがあり、今回の藤戸は「能を再発見する」と題したシリーズの四回目になります。
能の長い歴史の中で、改作の手が加えられたと目される曲も少なからず存在します。章句の手直し程度なら、ほとんどの曲が何らかの手直しを受けていると言っても良いのかも知れませんが、設定や登場人物などまでを変化させていると考えられる曲もあります。

そんな中から、もともとの形を探り出し上演してみようというのが、このシリーズの試みです。今回は藤戸が取り上げられ、前シテ老母が中入りせずにそのまま舞台に残り、後場では別の演者が漁師の幽霊として登場してくるという展開としています。

この曲の見直しに到った経緯や、先日鑑賞記を書いた朝長との関連などについては、当日の番組冒頭で、馬場あき子さん、福王茂十郎さん、天野文雄さんの鼎談があり、また2月のプログラムにも天野さんの解説が収録されています。これらについては、鑑賞記の後で、その概要、私なりに感じたことなどを書いておこうと思っています。

ではまず舞台の様子から。

まずは次第の囃子で、素袍上下に烏帽子、白鉢巻きのワキ佐々木盛綱役の福王茂十郎さんが、ワキツレ従者の知登(ともたか)さん、喜多雅人さんを従えて登場してきます。
舞台中央で向き合って型通りの次第謡。
謡い終えるとワキツレが下居し、ワキが佐々木三郎盛綱と名乗り。藤戸の先陣の恩賞に備前児島を賜ったので、本日入部すると言って道行。
ワキツレが立ち上がって三人向き合い、浦伝いに船で藤戸にやって来たと謡います。
さてこのつづきはまた明日に
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藤戸のつづき

道行の謡からワキの着きゼリフ「急ぎ候ほどに藤戸の湊に着きて候」。気を変えてワキは「いかに誰かある」と従者を呼びます。ワキツレが出て下居「御前に候」と答えます。
ワキは、訴訟ある者は名乗り出るよう触れるように命じます。これを受けてワキツレ一人が立ち上がり、ワキがワキ座に着座し残りのワキツレが地謡前に控える中、常座に出て、この浦の御主佐々木殿のご入部につき、訴訟ある者は罷り出るようにと触れて、ワキ座に向かいワキの横に控えます。

一声の囃子。子方を先に立て前シテ漁師の母の出です。
現行では子方を出しませんが、今回の演出では古い記録をもとに子方、亡き漁師の子を出し、先に出た子方が二ノ松あたりに立つと、後から出た漁師の母が幕前にて「この島のお主のお着きと申すはまことか」と謡い出します。
前シテに対しては孫という設定になる子方が「さん候 お着きと申し候」と返し、漁師の母は(盛綱が)我が子を失わせた人であるので、せめては会ってみようと言って、子方ともども一ノ松まで出て、一セイ「老いの波 越えて藤戸の明け暮れに 昔の春の 帰れかし」を謡って舞台を向き、シオリます。

観世流の現行の形では、一声で登場した前シテが一ノ松に出て一セイを謡い、ワキとの問答になります。これは宝生も同じですが、下掛では現行でも前シテがまず「この島のお主のお着きと申すはまことか」と謡い出し「皆人の形見には・・・」と続けます。下間本など下掛系の古い本には、このシテの詞章の間に、今回のように子方の「さん候 お着きと申し候」の詞が入っているものがあるのだそうで、今回の演出ではこれを取り込んだようです。

ワキは床几に腰をかけたまま母に声をかけますが、この詞「不思議やなこれなる女の」を「不思議やなあれなる女の幼き者を伴い」と、子方を伴っていることにより手直しがされています。
その後は現行の謡本通り、漁師の母が「海士の刈る藻に栖む虫の我からと・・・」と謡い出し、「皆報いぞと言いながら」で子方の肩に手をかけて歩み出し、謡いつつ橋掛りを進んで「科も例も波の底に」あたりでシテ柱まで進むと子方を先に行かせます。子方はワキ正に出、母は常座でワキの方を向くと「御前に参りて候なり」と子方ともども下居します。
さてこのつづきはまた明日に
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藤戸さらにつづき

ワキと母の問答になります。このあたりは現行本通りですが、漁師の母がワキ盛綱に、我が子を海に沈めたと詰問し、ワキが「ああ音高し」とこれを制します。母は少し腰を浮かせる形で「なう尚も人は知らじとなう」と言い、腰を下ろすと、その折の子細を明らかにし跡を弔うなり、また残った母(すなわち自分)を訪れて慰めてもくれれば少しは恨みも晴れようものを、と繰り言を述べます。
ここから地謡、下歌から上歌に。「絆となって苦しみの」あたりでゆっくりワキに向き直り、「せめて弔はせ給へや」と腰を浮かせて訴えるような態から、「跡とむらはせ給へや」と腰を下ろしてシオリます。

ワキは「この上は何をか隠すべき その時の有様語って聞かせ候べし 近う寄って聞き候へ」と言って語になります。現行の観世の本では、まず「言語道断 かかる不便なること・・・」の詞があって「今は何をかつつむべき」となります。福王流も同じ詞章ではないかと思うのですが、「言語道断・・・云々」の部分は下掛の本には無く、ここも今回の演出は下掛の本に準拠したのではないかと想像しています。

ワキの語り。母は正中に下居します。
ワキは正面に向き直ると、前年三月二十五日の夜、浦の男と二人きりで、馬で渡せる瀬の場所を探したところ、首尾良く見つけることができた。家の子若党にも隠して、二人だけで夜に紛れて忍び出たが、さて浦の男がこのことを人に洩らしてしまうのではないかと思い、不便ながら引き寄せて二刀刺し、そのまま海に沈めて帰ったと語ります。母はシオり、ワキは母を向くと、さては(あの男は)汝の子であったか、何事も前世のことと思い今は恨みを晴らすようにと声をかけます。

母は我が子を沈めた場所を問い、ワキが「あれに見えたる浮洲の岩の・・・」と示すと、三人が中正面あたりを見る形になります。

母は「あの辺ぞと」と立ち上がりワキとの掛け合い。母「好事門を出でず」で母とワキが向きあい、ワキ「悪事」、地謡「千里を行けども・・・」で母は正面に向き直り「子をば忘れぬ親なるに」とワキを向き「失はれ参らせし」でガクリと下居「こはそも何の報いぞ」とシオリます。
このつづきはまた明日に
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藤戸さらにさらにつづき

クセ。居グセですが、最後の辺り「二十余りの年なみ かりそめに立ち離れしをも」で、子方を向き、子方も向き直って二人向かい合う形になります。母は一度右手を上げて直し「またいつの世に逢ふべき」とシオリます。

この後は母の謡「世に住めば 憂き節繁き川竹の」につづく地謡で、母が徐々にワキを向き「亡き子と同じ道になして賜ばせ給へ」で右手を上げて膝を叩くようにして立ち上がり、ワキに縋りつく型から正中に下がります。「人目も知らず伏し転び」で子方が立ち上がって母を抑える形になり、母はモロシオリ、子方もシオリます。
母がワキ盛綱に迫ってから下がるまでは常の形と同じですが、子方がこれに絡む形としています。

ワキ盛綱が「今は恨みてもかひなき事にてあるぞ・・・」と声をかけますが、この詞、常の形では最後が「まづ我が屋に帰り候へ」となるところ、この詞を省き「いかに誰かある」とワキはアイを呼びます。
「御前に候」と進み出たアイに、ワキは「これなる女どもを傍らへしのばせ候へ」と命じ、「畏まって候」と受けたアイが、母と子方に「まずお立ちゃれ」と声をかけた立たせます。
常の形では、前シテを立たせたアイが送り込んでの中入ですが、ここは母と子方の二人に後ろから声をかけて諭しながら歩ませ、「しばらくそれに御待ち候へ やあ」と留めて、二人は後見座にクツロギます。

アイは立ち戻ってワキとのやり取り。
亡き漁師を管弦講で弔い、また一七日は浦々の網を止めてかたく殺生禁断とすべきことをワキが命じ、アイが触れて下がります。

常であれば間語りの入るところですが、ワキ、ワキツレの待謡となります。
盛綱達が立ち上がり謡い出します。
さてこのつづきはまた明日に
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藤戸またつづき

ワキ座から笛座前にかけてワキ、ワキツレ、アイと並び、さらに小鼓前あたりに漁師の母、大鼓前あたりに子方が並んで弔いの場面となります。
ワキ、ワキツレによる待謡の最後「心を静め声を上げ」で一同は腰を落とし立て膝の形で合掌し、ワキが「一切有情 殺害三界不堕悪趣」と経文を唱える謡。

太鼓入り出端が奏されて漁師の霊の出となります。
どうも出端の太鼓が、常よりも柔らかく、高刻みもゆったりとした風に感じたのですが・・・

漁師は黒頭、褸(ヨレ)の水衣。杖を突きつつ出て橋掛りを進み、一ノ松で正面を向いて謡い出しです。
ここも下掛の本に依ったようで「うたかたの 哀れに消えし露の身の 何に残りの 心なるらん 水烟波濤に暮れては 閻浮の春を知らず 海月浮雲に沈んでは 中有の巷茫々たり」の謡が入り、続けて上掛でも謡われるサシ「憂しや思ひ出でじ 忘れんと思ふ心こそ・・・」に続きます。

漁師と盛綱の掛け合いになり、ワキ「いかなる恩をも」漁師「賜ぶべきに」と漁師は杖を一つ突いて、続く地謡で歩み出し。シテ柱から「海を渡すよりも」と常座に出てワキを見ます。
杖を左手にして横に上げ太刀に見立てた形で「胸の辺りを刺し通し」と二度ほど刺す型。三、四足ほど下がってから角へと向かい。両手を上げて回ると「千尋の底に沈みしに」とゆっくり片膝ついて安座の形になります。

漁師「折節引く汐に」と謡って杖に縋りつつ立ち上がり、舞台を廻って「浮きぬ沈みぬ」と一度膝を突いて再び立ち上がります。「埋れ木の岩の」と左右を見、常座で下居。
「悪龍の」と立ち上がるとワキに迫ろうとして正中で杖を上げますが「御弔ひの 御法の御船に法を得て」と杖突きつつ二、三足出、杖を右手に上げて「水馴れ棹」と棹のように取り直し、流レ足で常座まで回り橋掛りへ。
「願ひのままにやすやすと」と一ノ松で回って、さらに流レ足で二ノ松へと到ります。

「かの岸に至り至りて」で母と子方が立ち上がり、子方はワキ正から橋掛りへと進みます。母が正中に進んで、漁師と子を見送る形になり、漁師の霊が幕に入る姿を合掌して見送って終曲となりました。
(78分:当日の上演時間を記しておきます)
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能の改作・・・藤戸・朝長をめぐって

舞台の様子を先に書きましたが、この藤戸は2月の国立能楽堂企画公演、能を再発見するシリーズのⅣ。
このシリーズ、大阪大学名誉教授の天野文雄さんなどが中心となって、現在演じられている能を見直し、古い形を探ったりする中で再発見していこうというものです。
これまでに高砂、卒都婆小町、雲林院が取り上げられ、今回はその四回目ということでした。

藤戸は、前シテが我が子である漁師を佐々木盛綱に殺された母親で、後シテはその亡くなった漁師の亡霊という設定です。当然ながら、現在の演出では母親として登場した演者が中入りし、漁師の亡霊の姿で登場してきます。
しかし、もともとは母親が中入りせず、盛綱ともども漁師の弔いの場に連なっていたのではないかという仮説をもとに、藤戸を再構成した試みです。

ところで、この藤戸の再考以前に、天野さんは朝長の前シテ青墓の宿の長が中入りせず、後場に別の役者が朝長の霊として登場したとの説を示していました。
前後のシテの人格が異なり、しかも前シテこそ、後シテの弔いの場に最も居るべき人物であるというのが、その最大の理由です。しかも朝長は、現在の詞章をみても、中入りするのが不自然と見える形になっています。いくつかの徴証を積み上げて、朝長は中入のない形が原形だったと結論づけ、さらに藤戸や天鼓も同様だったのではと推論した論文をまとめておられます。

その後調査を進める中で、天鼓に関しては特段の資料が見つからなかったものの、藤戸については、いくつかの証拠となりそうなものに気付き、今回の藤戸につながってきたという話です。

ここで取り上げられた朝長と藤戸を、続けて観たというのも何かの縁かと思います。
また、朝長も藤戸も作者は不詳となっていますが、いずれも十郎元雅の作ではないかとの説があるようです。もしも同一の作者だとすると、これまた興味深いところです。
この項、もう少し、明日に続けてみようと思います。
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