能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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栗焼さらにつづき

そこで「小さなきつね色がある」などと言って一つ食べ、これは美味いともう一つ食べたくなりますが、一つ飛ばしてしまい一つ食ってしまった上は持って行かずばなるまいとまた目付あたりまで出ます。しかし再び立ち止まると「一つ食うて叱らるるも 二つ食うて叱らるるも 同じ事じゃ」と言いだし、これに虫食いがあって片焦げになってしまったのがあるが、これこそお客さまには出されまいと、食べてしまいます。

しかしこれは苦かった様子で腹を立て、今度はこの大きなきつね色を食うてやろうと口に入れます。これは美味かった様子で、この後は止まりません。結局、四十の栗、と言っても一つ飛ばしてしまったので三十九でしょうけれども、すっかり平らげてしまいます。

はたと気付いて、さてどうしようか思案しますが、主人は日頃正直な人だから面白おかしく申し上げれば大丈夫だろうと、主人の所に戻ることにします。
舞台を廻って主を呼び出すと、笛座に控えていた主が立ち上がって二人は正中で出会います。
さて主人は焼いた栗を見せよと言いますが、すっかり食べてしまいあるわけもなし。太郎冠者は焼き上げた栗を持ってこようとしたのだが、後ろから太郎冠者、太郎冠者と呼び掛けられたという話を始めます。
「もうせん頭に頂き 鬢髪に黒き髪をなし 老人と老女と 夫婦来たり給いて 我はこれ竈の神 三十四人の父母なり 汝栗をくれいよ 汝栗をくれずば 欲し物をば取らすまじ 栗をくれたらば 富貴守らんと こと詳しうも宣へば あらたうとや思ひて 夫婦に栗を奉る」と、滔々と語り、竈の神に栗を差し上げた次第を述べます。

主人は、それは目出度いことであったと言います。太郎冠者はさらに、三十四人の公達衆が我々にも栗をくれというので、それならば進上致しましょう。しかしこの栗は私が進上するものではなく、頼うだお方が進上するものなので、なにとぞ頼うだお方を富貴栄華に守らせ給えと言って差し上げてきたと説明します。

主人は、それならば残った4つの栗を寄越せと言います。太郎冠者は全部やってしまったと言いますが、夫婦二人に三十四人の公達ならあと四つあるはずだと主人は繰り返します。算用違えだと太郎冠者は言い、適当にごまかそうとしますが、主人にツメ寄られた太郎冠者は一つ虫食いがあった、残りは、逃げ栗 追い栗 灰紛れ、などと謡い、主人が叱って留になりました。
筋立て自体は変わりませんが、栗焼く所作や、細かい台詞、栗を食べるまでに行ったり戻ったりするかどうかなど、家によって様々に演出が異なるようで、同じ大藏流でも先日の茂山家ともいささか印象が異なる一番でした。
(27分:当日の上演時間を記しておきます)
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実朝 内田成信(條風会)

喜多流 喜多六平太記念能楽堂 2014.09.13
 シテ 内田成信
  ワキ 森常好、アイ 山本泰太郎
   大鼓 柿原弘和、小鼓 曾和正博
   太鼓 観世元伯、笛 一噌隆之

この曲は昭和25年に喜多実師によって初演された新作能で、土岐善麿の作に節付けをしたものだそうです。実さんが亡くなった後も時々上演されているようですが私は初見です。なお高浜虚子の作を大倉源次郎さんが演出された「実朝」もありますが、これは別曲です。
さて最初に書いてしまいますが、なかなかに面白かった、特に後場の舞はとても良いと感じました、が・・・。
シテの内田さんは実師の最後の内弟子・・・というか、そもそもこの「條風会」は、実さんが亡くなった折に内弟子であった狩野了一、友枝雄人、内田成信、金子敬一郎の四氏が、後々、塩津哲生さんの後援で立ち上げた会でもあり、この曲を演じるに当たっても、内田さんには熱い思いがあった様子です。そうした事情もあるのでしょう、気持の入った良い演能だったと感じています。
しかしながら、これはもっぱら私の問題ではあるのですが、事前にテキストを入手するのを怠りまして、正直言って今一つよく分からないでしまったのです。本当に残念です

常々、観能の前には、少なくとも謡曲には目を通していきますし、おおかたは手許にテキストを持って観ております。いえ別に稽古しているわけではないので、ここで稽古の足しにしようとか、一言一句を確かめようとか、そういう意図ではありません。ただ手許のテキストに、所作や装束、感じたことなどを書き留めて後日の記録にしております。

そしてそうした記録をしつつ観ていると、漫然と観ているよりもよく分かるように思えるのです。一度稽古した曲であれば、謡本などが手許に無くても、曲趣、所作の意味など考えつつ観られるのですが、ほんの数年の経験のためカバーしている曲はさほど多くありません。
ワキの謡や詞のやり取りなどはおおよそ聞き取れますし、舞などの所作は観るだけでも十分のところはありますが、やはり謡をきちんと捉えて観ているかどうかで深さが違う。

そんな訳で、当日は詞章と所作を合わせてメモってはきたのですが、これでどこまで観能記としてまとめられるか、今ひとつであります。
事前のチラシに書かれた簡単な曲の解説だけでは、残念ながら足りなかったと、反省しています。
そんなわけで、余計なお世話ではありますが、能をご覧になる際には事前になんらかの形で謡曲を入手しておかれると良いと思いますし、私の拙い観能記の中にある曲でしたら、ブログの記事も読んでおかれるとなにがしかは鑑賞のお役に立つのではないか、と改めて思った次第です。

明日から、その舞台の様子を、記録した限りで記してみようと思います。
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実朝のつづき

舞台は次第の囃子で、直ぐにワキの登場となります。無地熨斗目着流し、水衣に角帽子の旅僧、森常好さんが登場してきます。常座まで進み型通り次第「捨て果てぬ身の旅なれば 捨て果てぬ身の旅なれば 花に心の染まるらん」と謡います。(この曲は昨日書いたようにテキストを手に入れておりませんので詞章は聞き取りです。間違いもあろうかと思いますがご容赦下さい)

地取りの後、正面を向いて都方より出でたる僧と名乗り、東路の春を尋ねて伊豆箱根と詣で、鎌倉へと向かうところと述べます。続いて道行。伊豆を過ぎ浦伝いに鎌倉へと向かい、鶴岡八幡宮を詣で由比の浦にやって来たと謡って着きゼリフ。暫く休らい浜の気色を眺めようと言ってワキ座に着座します。

一声の囃子、暫く囃子を聞いていると幕が上がり、前シテ老翁が登場してきます。
尉面、尉髪・・・三光尉でしょうか、残念ながら能面に詳しくないのでしかと分かりませんでしたが、無地熨斗目着流しに灰色のシケの水衣を着け左手に棹を持っています。
たぶん「渚漕ぐ海人の小舟の・・・」と謡ったように聞きましたので、舟人ということなのでしょう。

ところが、シテ、地謡の謡が終わるとワキが謡いだし、日の落ちた岩陰から立ち現れた人を見れば、磯にも岸にも船は無いのに漕ぎ出そうとしている様子、いったい如何なる者かと問いかけます。船が無いのに船を漕ごうとする、不思議な様子が謡われて、後々の伏線になります。

シテは答えをはぐらかす様子ですが、ワキは重ねて、あやめもわからぬ暗闇の中をどこへ行こうとするのかと問いますが、シテは自分も知ることはできない、ただ寄せ来る波の彼方、唐国への思いにこの岸辺をいつまでも去ることができないのだと謡い、ワキ、シテの掛け合いから地謡となります。

地謡の「影もほのかに夜の海」でワキ正まで出ると、右ウケして左右を見回しつつ目付方に出、「冴え渡りゆく松陰の」で正先を見込み、左から回って正中へ、さらに常座と進んで、地謡いっぱいに常座で開キます。

するとワキが「げに今思い出したり」と語り始めますが、このつづきはまた明日に
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実朝さらにつづき

ワキの詞が続きます。
今思い出した。鎌倉右大臣実朝公は宋に渡ろうとする思いが強く、建保四年の冬、造船を命じ・・・と言うとシテが続け、由比の浜に船を浮かべようと、陳和卿(ジンワケイ・・・当日はなんと謡ったか聞き取れなかったのですが、後に調べてみると実朝が渡宋を志したのも、そもそもこの宋人の僧陳和卿がきっかけだったようです)に任せて作らせ、押し引かせたが、少しも動かず船は朽ち果て、渡宋の志も空しくなってしまったと謡います。
棹を両手にとって「押し引くとも」と力を入れますが「巌の如く寸尺も動くことなし」から力弱く謡って「渡宋の志もついに空しくなる」で棹を落とします。

ワキは気付いた様子で「さては将軍の亡魂」がまだ迷うかと呼び掛け、なお御最期の様子を詳しく語るようにと求めます。
ここからいわゆるクリ・サシ・クセの形になっていて、ワキの謡をシテが受け、囃子でシテは大小前に進んで下居。地謡が謡ってシテの謡へ。
「右大臣家 拝賀のため」とシテが謡い、地謡が続けます。クセは居グセ。

これも当日書き留めておいた詞章の断片と、後日、実朝暗殺の伝承を照らし合わせて、おそらくこんな事が謡われていたのだろうと想像した次第です。
右大臣昇任を祝い、実朝が鶴岡八幡宮を拝賀するにあたって、大江広元が何かの予感があったのか、なぜか涙が流れてしまうのはただ事では無いから、束帯の下に腹巻を着けるようにと勧めたものの、太刀持ちの源仲章が「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と止めたため、実朝は腹巻を着けなかった。また整髪を行う者に記念と称して実朝は髪を一本与えた。出かける前には、庭の梅を見て「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」と一首を詠じた。
といった、暗殺前のことが地謡により謡われます。

ここでシテの上げ端。おそらく「かくて神拝夜深く」と謡ったのだと思いますが、ここからいよいよ暗殺の場面となります。篝火が焚かれ、地謡「輝く石段の」でシテは目付を向いて腰を浮かせ、「上にあたって」とゆっくり謡っていた地謡が、一気に調子を早め「きらめく一閃」からシテは立ち上がると、扇を取り上げ正先へ出、下がって大小前に安座。公暁によって実朝が討たれた次第が謡舞によって示されます。
シテは常座に扇を両手で持って立ち上がり、地謡がゆっくり締まって「波の音 すさまじく 失せにけり」と謡って中入。送り笛が吹かれます。

このつづきはまた明日に
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実朝さらにさらにつづき

中入となり、間狂言所の者が立ち上がって常座に出ます。
久しくどこにも出かけなかったので、由比ヶ浜へ出かけ心を慰めようと言って目付に出、ワキ僧に気付いて声をかけます。

ワキ僧はアイに、実朝が作った船がこの浜で朽ち果てた子細を語るように求め、アイが答えて子細を居語りに語ります。
実朝公は征夷大将軍頼朝の次男に産まれ、幼名を千幡と言ったが、八歳の時に頼朝公が亡くなり十歳年長の頼家公が征夷大将軍になられた。しかし子細あって頼家に代わり十二歳の時に征夷大将軍となられた。

さてその頃、宋国より陳和卿という人が来たって実朝公に会い、実朝公の前世は宋国医王山の長老であられた。ゆえに宋国医王山に参詣あるべしと申し上げた。

実朝もそうした夢を見たことがあったことから、早速陳和卿に命じて唐船を作り、六十四人の伴を選りすぐり、健保五年には見事な唐船が完成した。

しかし、この巨船が少しも動かず、百数十人の屈強の者が押し引きしたけれども動かすことが出来ずに、そのままこの浜に朽ちさせることとなった。
かくて実朝公の渡宋の夢も水泡に帰したと承っている。
と、概ね以上のような子細を語り、さてどうしてその様なことを尋ねるのかと型通りの質問をします。

ワキは最前、老人が一人やって来て船を漕ごうと立ち騒いでいるので言葉を交わした。すると実朝公のことを懇ろに語り、そのまま姿を消してしまったと語ります。
アイはそれを聞いて、右大臣実朝公の亡心であろうと言い、暫く逗留して読経し、重ねて奇特をご覧になるようにと勧めます。型通りのやり取りがあってアイが狂言座に下がり、ワキの待謡「夜もすがら 波も現のおきかけて 波も現のおきかけて とどろき渡る海の歌 この歌主の舞の袖 月影ともに待とうよ 月影ともに待とうよ」

いよいよ後シテの出となりますが、このつづきもう一日明日に
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実朝もう一日のつづき

太鼓が入って出端の囃子。割と刻みが早い感じがしますが、幕が上がり後シテの出です。白の袷狩衣を衣紋着けにし、指貫込大口、黒頭に初冠、太刀を佩いて橋掛りを進み、一ノ松にて一声です。

正直のところ、後場は囃子が入っての謡が主ですし、運びも早いのでうまく聞き取れていません。現れ出でた後シテが、自ら三代将軍実朝と謡い和歌に寄せる思いを謡ったように聞いたのですが、残念ながら確証はありません。聞こえてくる断片からそういう内容だったと感じた…というところです。

さて囃子が急調になるなかで、シテは謡いつつ足拍子を二つ踏んでノリ込み開キ。一度幕を振り返ってから向きを変え、地謡が謡う中舞台に入り正先へと進みます。
両袖の褄を取って放し、左袖を巻き上げて舞台を廻ると「大海(おほうみ)の」と謡い、地謡が「磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも」と続けて早舞に入ります。

ここもはっきり聞き取れたわけではありませんが、実朝の歌としては有名な一首ですので間違いなかろうと思います。
早舞と書きましたが、だいぶん工夫された舞のようです。舞の入りも形が随分と複雑な印象でした。途中、盤渉に調子が上がっていわゆるクツロギの形で橋掛り幕前まで進みましたが、型がかなり変則の様に感じました。もっとも喜多流の早舞自体を存じている訳でもありませんので、常の型とどう違うと分かったのではありません。単なる印象ですが、ともかくも実朝の渡宋の思いと大海の様が感じられるような、大きな印象の舞でした。

右袖を被いて橋掛りから舞台に戻り、一度、常座で沈み込むような型を見せてさらに舞台を廻って早舞を舞上げます。
さらに謡い舞いとなり、招き扇しながら橋掛りに入り、二ノ松あたりで左袖を巻き上げると、地謡を聞きつつシテはそのまま幕に入ります。シテを追うように立ち上がったワキが、常座で幕に入るシテを見送り留となりました。

繰り返しになりますが、これだけでも観能としては十分だ・・・とも思えますが、欲張るようですがテキストに目を通しておけば、特に後場の展開がもっと深い意味で理解できたのではないかとも思えます。いささか残念な思いは残りましたが、三井寺といい実朝といい、充実した舞台を拝見した印象です。
(71分:当日の上演時間を記しておきます)
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観世九皐会を観に行く

三連休の中日、12日に九皐会の10月定例会を観に、矢来能楽堂に行ってきました。
台風が近づいて来るという予報の中でしたが、関東地方の降り出しは13日になってからで、12日は曇りの天気。無事に観て帰ってきたところです。

番組は、駒瀬直也さんの道明寺、山本東次郎さんシテの清水を挟んで、小島英明さんの松虫。
指定は座敷席しか空いてなかったので、いささか腰が痛くなってしまいましたが、まずは楽しんで観て参りました。

鑑賞記は、このところもいささかたて込んでいまして「そのうち」というところです。

それにつけても、休日の神楽坂は良い賑わいで、本当はのんびり散歩でもしたいところ。
通りに面した様々な店も興味をそそられますが、さらに無数の路次が、こっちへおいでと呼んでいるようです。
いつもながら足早に通り過ぎるのは、なんだかもったいないなあと思いつつ・・・

道明寺 駒瀬直也(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2014.10.12
 シテ 駒瀬直也
  前ツレ 鈴木啓吾、後ツレ 坂真太郎
  ワキ 福王和幸、アイ 山本凜太郎
   大鼓 亀井広忠、小鼓 田邊恭資
   太鼓 小寺佐七、笛 藤田次郎

「○○寺」と、寺名が曲名になっている能は四曲あります。このうち「道成寺」や「三井寺」は人気曲で上演も多いのですが、「誓願寺」はどちらかというと上演の少ない部類。そしてこの「道明寺」はなかなか出ない一曲です。しかも誓願寺は五流が現行曲にしているのに対し、道明寺を現行曲としているのは観世流と金剛流のみのため、いよいよ観る機会の少ない曲です。

宝生流や喜多流も古い本には載っていたようなのですが、何がさて現行曲から外されたり、あまり上演されなくなったりしたのか、そのあたりの事情は観れば分かるか・・・ということで、とりあえず観に出かけたというところです。

舞台にはまず黐ノ立チ木台が出されます。正先に置かれた台は、観世の型なので白布を巻いた竹を立方体のような形に組み、真ん中に黐の木を浮かせたように取り付けたもの。
後見が据えて下がると、囃子方が床几に腰を掛け次第の打ち出しです。

この曲は脇能ですが、ワキは僧ワキで、相模国田代に住む尊性という僧と、その従僧一行という設定です。脇能では、臣下や神職であるワキ一行が真ノ次第で登場し、次第の謡を三遍返しに謡うというのが一般的です。脇能が僧ワキであるのは、この道明寺と輪蔵くらいだと聞いております。このためワキは真ノ次第ではなく、常の次第で登場します。

ワキは小格子厚板に白大口、緑の絓の水衣に角帽子の姿です。ワキツレは無地熨斗目着流しに縷の水衣、角帽子の姿ですが、ワキが大口僧の一方で、ワキツレが着流しというのは、さて福王流のせいなのか、この日の特別な事情なのか・・・観世流の装束付けでは何れも大口僧としてありますが、いささか気になったところです。

ともかくも向き合っての次第「善き光とぞ名を聞くや 善き光とぞ名を聞くや 仏の御寺なるらん」
誰がどう聞いても善光寺を謡っていると直ぐ分かりますが、さてこのつづきはまた明日に
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道明寺のつづき

次第の後、ワキの名乗り。相模国、田代の尊性と名乗り、善光寺に七日参籠して御霊夢を蒙ったので、河内国土師寺へ参ろうと思う旨を述べて道行です。
控えていたワキツレが立ち上がり、一同で「捨ててはや 久しかりつる世の中を」と謡い出し、ワキツレが「久しかりつる世の中を」を高い声で繰り返します。

さらに河内国、土師ノ里に着いたと謡って着きゼリフ。
土師寺に参ろうとワキが言い、ワキツレが尤もと答えて、一同ワキ座に着座します。

ゆったりと真ノ一声が奏されて、シテ・ツレの出になります。
先にツレの男、鈴木啓吾さんが直面に白大口、無地熨斗目の上から白の縷(ヨレ)の水衣を着けて出てきます。水衣から熨斗目が透けて薄い水色のように見える感じです。
後から出たシテ、面は小牛尉ですかねぇ、小格子厚板に茶の絓(シケ)の水衣を着け右手に杖を持っています。

一ノ松まで出て振り返ったツレと、幕前のシテが向き合い、一セイ「長月の」と謡い出します。正面に向き直ってツレ二の句、再び向き合い二人で「松風ひとりしぐるらん」と謡うと、アシライで舞台に入ります。

ツレ正中、シテ常座に立ってシテのサシ。土師寺の仏神に仕える老人と謡い、シテツレ同吟となって、下歌、上歌と続けます。
上歌の途中「宮路久しき瑞籬の」でワキが動き出し、シテ・ツレも動き出して、シテが正中から、ツレがワキ正から正先を見込む形となり、ワキが立ち上がってシテ・ワキの問答となります。

ワキは善光寺で霊夢を蒙ったので、この寺にてその夢の様を寺中の人に語りたいのだと申し出ます。この申し出に、シテはまず自分に夢の様を話して欲しい、その上で自分が寺中の人に広めようと答えます。
これを受けてワキが夢の子細を語ります。

善光寺に七日参籠した所、如来が厨子の戸を開き、老僧の声で言葉があった。河内国の土師寺は天神の御在所であり、神明をはじめ七社の神々を勧請された。また天神は一切衆生のため五部の大乗経を書き供養して埋められたが、その経典の軸から木槵樹(モクゲンジュ)の木が生えてきた。この実を取って数珠となし、念仏百万遍を唱えれば往生間違いないとのお告げがあって目が覚めたという話をします。

さてこのつづきはまた明日に
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道明寺さらにつづき

ワキの話を聞いたシテは、有難い話なので寺中にふれようと言い、さてそのワキの話に出てきた木槵樹(モクゲンジュ)をお見せしようとワキを誘います。

ワキは一度後ろを向いてから、直してシテ・ツレに向き、シテの「七社の神々を斎い申され候」の言葉に中正面奥の方を見る形、さらに「また此方なるは天神にて御座候」に合わせて目付を向きますが、「あれに見えたるこそ」と木槵樹を示すに合わせて正へ直して正先を見込み、木槵樹を見やる風情です。

シテはあらためてワキに向かい「よくよく御拝み候へ」と念を押すように言います。
ワキは神仏一体とは言いながら天神の結縁は初めて承ったと述べますが、ツレがすかさず天神の本地は救世観音と謡いかけ、ワキ・シテの掛け合いで神仏一如の理が謡われ地謡に。
地謡でワキはワキ座に、ツレは笛座前に着座。シテは角を一度見て正に直し「道明らかに曇らぬ神の宮寺」と四足ほど出ると「ありがたしありがたし」と、やや面伏せて神仏を敬う心。常座方に進むとワキを見込み、ここから地謡「和光の影に来て拝むぞ尊かりける 拝むぞ尊かりける」の謡いっぱいに、正中に出て下居、杖を置きます。

囃子の打掛でクリ「それ仏の昔神の今 後五の時代に至るまで 神も濁世に応じ給いてしばらく西都に移る」の謡い出し。シテのサシからクセへと、天神が如月の二十五日京を出で、この土師ノ里に立ち寄った後に西に下り、その地で都を思いつつ亡くなられたが、その故に神となられたことが謡われます。クセは居グセ。

ロンギとなり、草も木も木の実までもが成仏する有り難さが謡われ、地謡に。
老人は、木槵樹(モクゲンジュ)の梢の実こそ数珠の御法、必ず授け申そうと言い、自ら天神の御使い、白太夫の神である名乗って姿を消したことが謡われます。

地謡に入るとシテはやや腰を浮かせ「あの梢の木の実」と正先を少し見上げる心。立ち上がると左手に持った数珠でサシ分けワキに詰め、常座に向きを変えると三、四足。一度振り返って両手を上げて下ろし、ワキを見込んでヒラクと常座に小さく回って開キ。あらためて来序にてツレを伴い中入となりました。

来序はシテ、ツレが幕に入ると狂言来序に代わり、アイ狂言末社が登場してきます。
しかし先に進む前に、ここまで特段ことわり無く書いてきましたが、土師寺と天神の関係など、寄り道とはなりますが、いささか触れておこうと思います。
明日につづきます
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道明寺さらにさらにつづき

まずこの曲の舞台となった道明寺という寺ですが、現在も大阪府藤井寺市道明寺一丁目に建っています。しかしもともとは道を挟んで隣にある道明寺天満宮と一体で、土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源だそうです。

道真を輩出した菅原氏は土師氏の後裔ですが、土師氏は埴輪を発明したとされる野見宿禰の子孫と言われ、技術に優れ古墳の造営などにも関わったとか。
道明寺の一帯は土師氏の本拠地であったらしく、古くは野見宿禰の遠祖とされる天穂日命をまつる土師神社があったようです。その後、仏教が伝来すると、同地に土師氏の氏寺として土師寺が建てられ、道真のおばにあたる覚寿尼もこの寺に住んでいたということです。

菅原道真は、ご存知の通り宇多天皇、醍醐天皇に重用されて右大臣までのぼりましたが、左大臣藤原時平の讒訴によって太宰府権帥に左遷され、二年の後に彼の地で没しています。(実は太宰府権帥に遷任されたのが昌泰4年の1月25日で、2月の初めには京を発ち太宰府に向かった様子。また亡くなったのが2年後の延喜3年2月25日で「如月下の五日にして 都を出でさせ給ひ」という詞章はいささか妙なのですが・・・)
そしてその死後、天変地異が多発し、わけても清涼殿に落雷するという事件から、道真の祟りとして恐れられ、朝廷は贈位を行い、さらに北野に北野天満宮を建立し神としてまつるなど、道真の祟りを鎮めようとしました。

こうして道真は大自在天満天神としてまつられ、さらに道真が学芸にすぐれていたことから、学問の神としても信仰を集めることになったわけです。北野天満宮と同様に、道明寺も道真所縁の寺として信仰を集めるようになったようですが、神仏習合の考え方を色濃く反映した形だったように窺えます。

したがってこの曲の詞章をみても、天神の本地が救世観音であると謡われたり、後五の時代となり神も濁世に応じて西都に移るといった言葉が出てきたりしています。
なお後五ですが、これは末法思想の一つの見方のようです。
学生時代に習った末法思想では、正法千年、像法千年、その後一万年を末法と三時に分けますが、大集経には釈迦の入滅後二千五百年を五百年毎に区切り、この最後の五百年、すなわち後五は闘諍堅固と呼ばれて、仏教徒の間に論争が激しくなり仏法が衰え邪見が蔓延るとあるそうで、これも末法思想のうちなのだそうです。

ともかくも、この道明寺という曲は、こうした末法思想や天神信仰に則った一曲で、このあたりを踏まえてみると、なるほどと思うところがあります。
また老人が自ら明かす「白太夫の神」ですが、道真が太宰府に下る際に伴をしたとされ、伊勢の神官渡会春彦のこととも言われます。道明寺天満宮の末社に白太夫社があります。
それよりも菅原伝授手習鑑に登場する松王丸、梅王丸、桜丸の父である白太夫の方が有名かも知れませんが・・・
明日につづきます
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道明寺またつづき

さて話は戻りまして、狂言来序でアイ末社の登場です。括り袴に水衣、末社頭巾を被った末社出立で出てきます。面は登髭ですか、狂言面は能面にも増して様々な表情のものがあり、何と特定し難いのですが、髭があるので・・・

アイは常座に出ると、河内国土師の寺、七社勧請の霊神に仕え申す末社の神と名乗り、道明寺の縁起から述べ始めます。
当地の木槵樹(モクゲンジュ)は、昔、菅丞相が時平の大臣の讒言により筑紫に流されたときに、この寺に逗留し、五部の大乗経を供養した後、埋めたところから生えてきた木を木槵樹と名付けたもの。その実を取って百八の数珠となし念仏百万遍すれば往生間違いないと続けます。
アイはさらに続けて、相模国、田代の尊性が善光寺に籠もって祈念をしたところ、河内国土師寺の木槵樹の実を取って、百八の数珠となし念仏百万遍すれば往生間違いなしとの霊夢を蒙ったので当地にやって来た。そこで諸神の御喜び限りなくて、先に白太夫の神が現れ、尊性と言葉を交わされた。さらに重ねて舞楽を奏し、奇特を見せようと約されたが、そのお待たせする間に、我等のようなる末社も出でて、慰めするようにとのことで、こうして罷り出たのだとしゃべります。

そして急ぎ御礼申そうと、目付に出てワキを認め、正中に出て下居、当社に仕える末社と名乗り御礼申し上げる形になります。
一渡り挨拶して立ち上がると常座に戻り、一段のご機嫌に申し上げたと喜びます。
「めでたかりける 時とかや」と謡って囃子が入り「やらやらめでたや めでたやな」と謡い舞いになります。
この曲では間狂言は三段之舞を舞うと記されたものもありますが、この日は三段之舞はなく、三段ノ舞の後の謡い舞いの部分のみを舞って、暇乞いし幕に入りました。
凜太郎さんのアイでもあり、三段之舞がなくていささか残念ではあったのですが・・・

さてアイが幕に入ると出端の囃子となり、後ツレ天女の登場です。
が、この後、長くなりそうなので、もう一日明日につづきます
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道明寺もう一日のつづき

軽やかな出端、笛の音に幕が上がり、紫の色大口に緋の長絹、天冠を着けた後ツレ天女が登場してきます。地謡の「久方の 天の岩戸の神遊 いま思い出も面白や」を聞きつつ、一ノ松で長絹の袖露を取り、常座に進んで答拝して天女ノ舞となります。

この日の上演、前ツレ鈴木啓吾さん、後ツレ坂真太郎さんともに充実した演技で、天女ノ舞も「ツレの舞」のレベルを超えていた感じです。もっとも鈴木さんも坂さんも、既にベテランの域になりつつあり、当然と言えば当然ではあるのですが・・・

天女ノ舞を舞上げるとノリ地の謡に大左右、サシ込み開いて「琵琶琴和琴 笛竹の」とサシてワキに向かい、正先から常座にと回ると、雲扇して「などや遅きぞ 白太夫 急いで出でよと 待ちたまふ」と後シテの出を待つ形、きれいに決まりました。

イロエ出端の囃子で後シテの出。茶金の半切に白地の袷狩衣、白垂に鳥兜を着けて、面は・・・あれが茗荷悪尉なんでしょうか、目に金泥が入っているような印象です。
重々しく橋掛りを進んで一ノ松に。「月も輝く宮寺の」と謡い出しです。

大小前に控えていたツレが立ってワキ正へ。ここから「いかに白太夫の神」とシテに謡いかけ、笏拍子を打つようにと勧めます。シテ、ツレの掛け合いになり、シテは笏拍子の役を辞しますが、重ねての求めに笏拍子を打つことにし、地謡「輝けるその中に」から正面を向いて開キ、ツレが笛座前に下がる一方、シテは舞台に進んで大小前、さらに四足ほどサシ込み開キして両袖の露を取り「笏拍子は面白や」と答拝して楽になります。

この楽、悪尉楽というんだそうで、悪尉の面を着けて舞う楽だから悪尉楽なのでしょうけれども、常の楽とは随分と雰囲気が違います。ずっと重い感じです。
ゆったりと舞上げると二足ほど出て七つ拍子。左右と引いて「膝を屈して仏を敬い」と両手をついて平伏します。

立ち上がると目付にゆっくり進み「寿福を招き」と角トリ。左へ回って正中から大小前。開いて左袖を巻き、正中で枕扇の形。立ち上がり舞台を廻って大小前。招き扇から「木の実を振い落し」と木の実を落とす態で作り物に寄り、扇で実を掬い取る形。
ワキに向いて「尊性に与えつつ」とワキに捧げる形から、正先へノリ込み。扇カザして舞台を廻り、ワキ正向いて手を打合せ、拍子二つ踏んで左袖を巻き上げると「神楽の夢は覚めにけり」と少し出て留拍子。終曲となりました。
(114分:当日の上演時間を記しておきます)
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道明寺補遺

いささか長くなりましたが「道明寺」の様子、書き記してみました。
舞台の様子は昨日までに記載の通りですが、あと少しばかり道明寺を廻って書いておこうと思います。

道明寺には「笏拍子」の小書があります。観世の笏拍子では楽の初めの所・・・初段までと聞いたのですが、シテが実際に笏を打って拍子を取るのだそうです。しかももともと上演の少ない曲ではありますが、観世流の上演ではむしろこの「笏拍子」の小書が付いた方が多い様子です。

鐘を撞いたり砧を打ったり、舞台上でシテが何かを打つ所作は様々にありますが、本当に音を出す曲としては、隅田川の鉦くらいしか記憶がありません。珍しいことでもあり、観てみたい気もしますが、逆に小書無しの方が珍しそうなので、これはこれで良かったことにします・・・か。

ところで能を離れますが、道明寺というと桜餅。
関東風の桜餅は、小麦粉を使って焼いた皮に餡を挟み、桜の葉を巻いたもの。こちらは長命寺餅とも言われます。なんでも向島の長命寺の門前で売り出されたのが起源とかいうことで、当然ながら関東在住の私にとっては、子供の頃から桜餅と言えばこれ。

しかし長じてから、なんだかブツブツとした、ピンク色のおはぎの外側に餡がなくて中に餡が包み込まれ、桜の葉で巻かれているモノと出会いました。「道明寺」という名だったので、こういうものを「道明寺」というと覚えたのですが、これが関西の桜餅だと知ったのは後のことです。

こちらは道明寺門前の菓子屋が作った・・・訳ではなく、道明寺粉を使っているから道明寺というらしい。道明寺粉は水に浸して蒸した餅米を干して乾燥させてから粗く挽いたもので、道明寺の尼さんが発明したので道明寺粉というのだ、とそんな話があるようです。
餅米を粉にしたものは、白玉粉や道明寺粉、寒梅粉や微塵粉など、製法やキメによって何種類もありますが、道明寺は独特な食感ですよね。
うるち米を粉にした上新粉も捨てがたいのですが・・・

全くの余談でした・・・が、道明寺を観ようと思い立って最初に思い出したのが桜餅でした・・・

九皐会のあれこれ

さて道明寺について長々と書いてきましたが、10月の九皐会はその他、山本東次郎さんのシテで狂言「清水」、仕舞三番の後に小島英明さんのシテで「松虫」という番組でした。

清水は和泉、大藏両流の鑑賞記を書いていますし、松虫も昨年秋には観世流の和泉雅一郎さんがなさった時の鑑賞記を書いておりまして、演出など基本的な違いはありませんので、今回の鑑賞記は省略いたします。

振り返っての感想としては、東次郎さんのなんとも味わい深い狂言が印象的でした。山本家のカッチリとした芸風でありながら、不思議に可笑しい。あの独特の雰囲気に引き込まれてしまいます。役者の名前を意識して狂言を観たたのは、東次郎さんが初めてだったと思うのですが、あれから40年近い月日が経ってしまいました。

仕舞は奥川さんの菊慈童、喜之さんの井筒、そして永島忠侈さんの籠太鼓の三番。
能と狂言だけの会も多くなっていますが、仕舞や一調などが入ると、定例会に来たなあとしみじみと感じます。
装束能とは違って、面も着けず、紋付き袴だけで舞われる仕舞ですが、それだけに演者がどのように曲を捉えているか、その思いが大きく影響するように感じています。

松虫は、小島さんの熱演で、黄鐘早舞も綺麗でした。
何度か書いているように、どうもこの松虫という曲、松虫を探しに行ったまま草むらで友人が亡くなっていた、などと理解しがたいところがあるのですが、理解しがたいところはそのままに、雰囲気を楽しんでも良いのかなと、そんなことを考えつつ拝見しました。

今回は座敷席で、これはこれで矢来能楽堂らしい楽しみでもあるのですが、ちょっと腰が痛くなりました。
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