能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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恋重荷 山本順之(銕仙会一月定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2015.01.12
 シテ 山本順之
  ツレ 西村高夫
  ワキ 殿田謙吉、アイ 深田博治
   大鼓 國川純、小鼓 曾和正和
   太鼓 観世元伯、笛 杉信太朗

恋重荷はこのブログでは三度目。金春流櫻間金記さんの演能(鑑賞記初日月リンク)と、観世流小早川修さんの演能(鑑賞記初日月リンク)の記録を載せています。
小早川さんの演能は代々木果迢会の別会でしたが、小早川さんご自身、銕仙会の同人ですし基本的には同じ形ということになります。しかし、なんだか異なった印象を受けたのですが・・・もっとも小早川さんの演能を観てから5年も経っていますので、いささか怪しいところです。

さて舞台にはまず重荷が出されます。後見の銕之丞さんが朱地の金襴に紺の縄をかけた重荷を持って出、正先に置いて下がります。
すると出し置きの形で、ツレ、ワキ、アイが登場してきます。ツレは緋大口に唐織を打掛にし、天冠を着けています。舞台に進みワキ座で床几に腰を下ろします。
ワキは一度後見座に控え、あらためて進み出て常座に立ち名乗りとなります。
・・・これは今回の演出なのか、小早川さんの時はツレのみが出し置きの形で出てワキ座で床几にかかり、ワキは名宣笛で登場したと記録しています。ワキは工藤和哉さんで、同じ下掛宝生。・・・記録の間違いではないと思うのですが・・・
ともかくも、今回は名宣笛はありませんでした。

ワキは、女御に恋をしてしまった山科の荘司を呼び出し子細を尋ねよう、と言って正中に進みつつ「誰かある」と声をかけます。アイがこれを受けて常座に出て承り、橋掛りに進んで一ノ松から荘司を呼び出します。

前シテは木賊尉の面だそうですが、無地熨斗目着流しに水衣を着け、アイの呼び掛けにこたえて少しずつ進み出ます。
さてこのつづきはまた明日に
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恋重荷のつづき

アイが、急いで来るようにとのワキ臣下の詞を伝え、シテはアイに従って舞台へと進み出ます。

ワキは白大口に緑の狩衣、風折烏帽子を着けた廷臣の形で、シテとの問答。荘司が女御に恋したことは既に人の知るところとなったことを告げ、重荷を持って庭を廻る間に女御が姿を見せようと仰った旨を語ります。
ワキは「此方へ来たり候へ」とシテを促し、シテは立ち上がると二、三足出て重荷を見込みます。

ワキが、なんとも美しい荷ではないかとシテに言い、シテも同意して地次第。「重荷なりとも逢ふまでの 重荷なりとも逢ふまでの 恋の持夫になろうよ」が謡われて、地取りから物着アシライ。水衣を肩上げにします。

シテ「誰踏み初めて恋の道」と謡い、地「巷に人の迷ふらん」でシテは二足ほど下がって面を伏せ、「名も理や恋の重荷」と謡いつつ重荷を見込んで寄ります。地「げに持ちかねるこの身かな」で左手、右手と荷に掛けて持ち上げようとしますが、上げることが出来ずに手を放し、片シオリ。サシの謡につづきます。
シテのサシを地謡が受けて謡い「由なく物を思ふかな」の謡に、シテはゆっくりと片シオリ。立ち上がって常座に向かいロンギとなります。

地謡を聞きつつ常座で正面に向き直るとシテの謡。「立つ矢のあるぞかし」とゆっくり重荷を見「いかにも軽く持たうよ」と左右、二足ツメます。
さらに地謡、シテと掛け合いの謡が進み、地の「由なき恋を菅筵」でシテは三足ほど出て下居。「苦しや独り寝の」と重荷を見込んで立ち上がり「我が手枕の肩替へて」と重荷によって手を掛けますが「もてども 持たれぬ・・・」と持ち上げることが出来ず「・・・そも恋は何の重荷ぞ」と両手を打ち安座します。
シテの謡「あはれてふ 言だになくは何をさて」と謡いつつモロシオリ。地謡の「報はゞそれぞ人心」で立ち上がると正中に出てシテ柱を見込み「乱れ恋になして思ひ知らせ申さん」と二、三足グッとツメて思いを込め、中入となりました。

このつづきはまた明日に
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恋重荷さらにつづき

中入でアイが進み出、荘司が重荷を持とうして持ち上げることが出来ず、憤死したことを述べて、臣下にこれを報告しようと言ってワキに寄ります。

アイの報告を聞いてワキの長い語り。荘司の恋心を止めようという方便で、重荷を作って綾羅錦繍で美しく包み、いかにも軽く見せて荘司に持たせた。恋が叶わぬから持てないのだと悟らせ、恋を思いとどまらせようとしたのだが、憤死してしまったとは、いかにも不憫なことだと述べます。
前々から思うのですが、この辺りの理屈は、なんだか分かったような分からないような、今ひとつ腑に落ちない感じがしてなりません。この曲の解釈も分かれるところですが、まあ現代人とは違った価値観の時代を背景として生まれてきた曲なので、理屈が通る、通らないという問題ではないのかもしれません。

ともかくもワキは笛座前で、重荷の方を向きつつ、荘司の死を不憫と言い、この由を女御に申し上げようと言って立ち上がります。
正中に進むと両手を突いて女御に向かい、いかに申し上げ候と、荘司の死を奏上します。さらに身分低い者の一念は恐ろしいので、そっと御出あって荘司の姿を一目見られるようにと勧めます。

ツレは立ち上がって地謡座前から重荷を見込んで下居。ワキも常座辺りに下居し、ツレが「恋よ恋 我が中空になすな恋・・・」と謡い出しシオリます。(「中空になくな恋」と謡ったように聞きましたが・・・)
ワキはツレを向いて両手を突き、立つようにと促しますが、ツレは盤石に押されて立ち上がることが出来ないと謡います。
地謡がこれを受けて「報は常の世の習ひ」と謡いワキが立って笛座前に着座します。

ツレの謡の終わりから太鼓が打ち出され、何者かが現れる気配が感じられるところ。出端が奏されて後シテの出となります。
出端はかなり重い位で、荘司の恨みの深さを示すような感じです。白頭に鼻瘤悪尉の面をかけ、金の袷法被、紫地に金で水文様の半切、右手に鹿背杖を持ったシテが姿を現します。
さてこのつづき、もう一日明日に
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恋重荷もう一日のつづき

後シテは出端の囃子で一ノ松まで進むと正面を向いて「吉野川岩きり通し行く水の・・・」と謡い出します。「ただ由なやな誠なき」まで謡って舞台へ。常座辺りに出て一セイ「言よせ妻の空頼め」を謡います。当日はなんだかこのあたり、詞章が違っていたように聞いたのですが、さてなんと謡われたのか。「言よせ妻の空頼め」のところは謡われなかったような感じです。

ともかくも常座に立って地謡を聞き、シテは「浮き寝のみ 三世の契の満ちてこそ」と謡い出し「巌の重荷持たるゝものか」と重荷を見、「あら恨めしや」と重荷を向いて両手で杖にすがる形になります。「葛の葉の」と謡って立廻り。
舞台をゆっくりと一回りすると両手で杖を持ち足拍子二つ。ツレを打ち据える型を見せます。

ツレ「玉襷 畝傍の山の山守も」地謡「さのみ重荷は・・・」と続き、シテは大小前まで少しずつ下がり、杖を突いて立ちます。「重荷といふも 思ひなり」と謡って、地謡「浅間の煙」で片シオリ。杖にすがりつつ「重き苦しみ」と下居。「さて懲り給へや」とツレに面を切って思いをぶつける感じです。

しかしここから場面は一転します。地謡「思ひの煙立ち別れ」で杖にすがって立ち上がったシテは足拍子二つ。盤石に押されて動けなかったツレも、ここで立ち上がり床几へ腰を下ろします。
シテは杖突きつつ角に出、「稲葉の山風吹き乱れ」と左の袖を被き、面を切ると袖を直し舞台を廻ります。
「跡弔はゞその恨みは」と正中にいたり、ツレに向かうと開いて面を切り、重荷を見、「跡も消えぬべしや」とツレに向き合います。杖を投げ捨てると「これまでぞ姫小松の」と暫し佇んで心を整えた風。ここから「葉守の神となりて」で橋掛りへ向かい、「千代の影を守らんや」と一ノ松で左袖巻いてツレを見込み、直して「千代の影を守らん」と留拍子を踏んで終曲となりました。

この終盤も他のいくつかの曲と同様に、いきなり恨みが昇華してしまったようで、いささかあっけにとられる展開ですが、これがまた能の能らしい所かも知れません。「さて懲り給へや」のところで、恨み、怒りが強く表現されるほど、思いが解放された感も強いように思います。

このところ山本さんの舞台を拝見していると、詞章の間違いなどにまま出くわしますが、それを超えたところに能の境地があるのだと思わせるような舞台でした。
ツレの西村さんが、やや俯き加減のまま、まさに盤石に押されたように微動だにせずおられたのが、たいへん印象的でした。
(73分:当日の上演時間を記しておきます)
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久しぶりの金春会

昨日は久しぶりに金春会を観に行ってきました。
あいにくの天気ではありましたが、なんだか落ち着いた雰囲気で能を楽しむことが出来たように思います。

番組は能が三番。
井上貴覚さんシテの箙、本田光洋さんのシテで小塩、そして高橋忍さんのシテで小鍛冶、これは白頭の小書付です。
狂言は三宅右近さんのシテで呂蓮。
国立能楽堂は正面はほぼ満席になりましたが、脇正面、中正面はまばらな感じで、いつもながらもったいないなあと思いました。金春会もなかなか良い雰囲気なのですが・・・

それにつけても金春の謡、ホントに独特な雰囲気だなと、あらためて思ったところ。
同じ音階を使っているとは思えない不思議な印象です。
鑑賞記は明日から、少しずつ書いてみようと思っています。

箙 井上貴覚(金春会定期能)

金春流 国立能楽堂 2015.03.08
 シテ 井上貴覚
  ワキ 村瀬提、アイ 高澤祐介
   大鼓 柿原弘和、小鼓 田邊恭資
   笛 槻宅聡

現行曲では、修羅物として十六番を数えます。敦盛、生田敦盛、箙、兼平、清経、実盛、俊成忠度、忠度、田村、経正、巴、朝長、知章、通盛、屋島、頼政の十六曲ですが、流儀によっては現行曲としていないものもあり、十六番を下回る流儀もあります。
ともかくも、この十六番ですが、これまで鑑賞記を書いてきた中で、唯一取り上げていなかったのがこの箙です。

けっして稀曲という訳ではありませんで、このブログを始める前には何度か観ているのですが、この何年かの間は、観ようと思っていた会の日にちょうど用事が重なってしまったりなど、なぜか観る機会に恵まれませんでした。

箙の主人公は梶原源太景季。波乱の一生を送った人物ですが、本曲は一ノ谷の戦いでのエピソードを中心に据えて曲が作られています。田村、屋島とともに、いわゆる勝修羅三番の一曲とされますが、田村の観能記でも書きましたように、勝修羅、負修羅という分類はあまり意味のないものと思っています。田村は観音信仰譚と捉えた方が納得できそうな曲ですし、屋島も、そしてこの箙も、主人公はエピソードとして取り上げられた闘い自体には勝利しているものの、やがては政争に巻き込まれて命を落としていく運命にあります。

景季の一生をめぐる話は後に触れるとして、ともかくもまずは舞台の様子に入っていこうと思います。

舞台には次第の囃子でワキ僧が登場してきます。無地熨斗目着流しに柿色の水衣を着け、角帽子の装束。常座に出ると斜め後ろを向いて「春を心のしるべにて 春を心のしるべにて 憂からぬ旅に出でうよ」と謡います。

・・・実は私いつものように、メモ書きが出来るようにと詞章を印刷して持って行ったのですが、これは以前この曲を観ようとした時に作って置いたもので、ワキの次第がなく、いきなり筑紫方より出た僧との名乗りになっています。
一瞬驚いたのですが、次第を欠いているのは下掛宝生の詞章ですので、たぶん以前に箙を観ようとして用意した時はワキが下掛宝生だったのでしょう。
今回はワキが福王流の村瀬提さんですので、次第を謡い、西国方より出た僧と名乗りました。
確認してみなかったのですが、さて金春の本にはどう書いてあるのでしょうね。
ともかくも、このつづきはまた明日に
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箙のつづき

次第を謡い名乗ったワキは、都へ上り洛陽一見の志と述べて道行の謡。筑紫から海路を取り、須磨の浦、生田川にやって来たと謡います。

着きゼリフで、生田川にやって来たワキは色美しく(咲く)梅があるので、暫く待って人が来たら(梅の謂われを)尋ねようようと述べてワキ座に着座します。

ワキが梅を眺めていると、前シテの男が次第で登場してきます。直面で、白大口に段熨斗目、掛け素袍の装束で、常座に出て次第の謡、サシと謡います。
時の流れを謡い、人の身の無常、有為転変の様を思う無常観漂う詞章です。景季の一生を思えば納得いくところで、この曲も修羅の苦しみ、無常を示す修羅物の基本を外していないことが分かります。勝修羅といった分類にあまり意味がないというのも、お分かりいただけるかと思うところ。

さて下歌、上歌と謡い終えたシテに、ワキが声をかけます。
この梅は名木なのかという問いですが、これにシテは「箙の梅」というのだと答えます。そしてワキの求めに従って箙の梅の謂われを語り出します。

生田の森は(一ノ谷の合戦の際に)平家方十万余騎が陣を構えたところだが、源氏方の梶原平三景時の子息である源太景季が、闘いに臨んで当地の梅から一枝を折って箙に挿し笠印として奮戦した。闘いに勝った後、景季はこの梅の木を八幡の神木として敬ったことから、箙の梅と伝えられているのだという語りです。
このシテの語を受けて、ワキ、シテの掛け合いとなり地謡に。景季の奮戦を讃えます。

つづいてクリ、サシ、クセと合戦の様が謡われます。シテは正中に座したままで居グセ。
播磨の室山、備中の水島と、二度の合戦に勝利した平家は、摂津一ノ谷に十万余騎を揃え立て籠もる形となっていた。生田の森から一ノ谷、三里ほどの間には平家の軍勢が満ち満ちて、浦には数千艘の船を浮かべていた。
時しも二月の初め、薄雪もあろうかという中、はや色を見せた梅一花に戦勝の吉兆を見、春の先駆けの梅花に、戦場での先駆けの思いをあらたにした。味方の勢は六万余騎を二手に分け、大手は範頼、搦め手は義経が率いて押し寄せた、と合戦直前の様子が謡われます。
さてこのつづきはまた明日に
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箙さらにつづき

クリ、サシ、クセと続いた謡を受けてロンギ。
夕映えの梅、暮時近く、一夜の宿を貸して欲しいという謡に、シテは我は花の主、花のもとに下臥しして待つようにと謡います。
花の主とは如何なる人かと問う謡に、シテは景季の幽霊であると明かし、地謡の「御身他生の縁ありて」で立ち上がるとワキに向いて開キ、正に直すと「鶯宿梅の木のもとに」と目付柱の方にシカケ開キ、大小前から常座へと向かい中入となります。

シテが中入するとアイ生田の里の者が進み出て、型通りにワキ僧の一行を認め、問答となります。ワキの求めに従ってアイは箙の梅の話を語ることになり、正中で居語り。高澤さんのカッチリとした語りですが、大意を書き記してみますと

平家は度々の合戦に勝ち、都合十万余騎の勢力となって一ノ谷に布陣していた。生田の森はその大手であるが、源氏方の梶原平三景時と源太景季は手勢五百騎で一の木戸を切って落とし手柄を立てて陣をひいた。
二月上旬のこととて、ちょうどこの梅の木が美しく咲き乱れていたが、源太は何を思ったか、その一枝を折って箙に挿し、敵の中に分け入って戦った。
景時は景季の姿が見えないのに気付き、どうしたのかと問いかけたが、敵の中に取り籠められてしまったとの報告があった。景時は、源太が討たれてしまっては、自分が生きていて何になろうと言って百騎ほどを引き連れ、再び平家の軍勢に駆け入り鎌倉の権五郎平景政の末裔、梶原平三景時と名乗って散々に斬りかかった。
その頃源太は、菊池三郎高望と闘い、この首を取って太刀先に刺し貫き、戻ってきたところで父景時と再会した。こうして多くの手柄を立てて本陣に戻ったが、この出来事を梶原の二度駆けと伝えている。
また源太はこの梅のもとで八幡大菩薩の御計らいに感謝し、名木と名付け、箙の梅と呼んだのであった。

と云った内容を語ります。後日触れようと思っていますが、この話は源平盛衰記の記述ほぼそのままの内容です。

語り終えたアイはワキに向かい、さてどうしてこんなことを尋ねるのかと問いますが、ワキがこれに答えて最前の男の話をします。後は型通り、アイが景季の霊を弔うようにとワキに勧めて退場します。
さてこのつづきはまた明日に
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銕仙会で求塚を観る

昨晩は銕仙会の三月公演を観ておりまして、家に帰り着いたのが11時を回ってしまったため、ブログ更新はお休みしました。
本日も葬儀に出かけたり、諸般の事情で別途に出かける用事ができたりで、落ち着かない一日を過ごしました。

さてその昨晩の銕仙会ですが、山本則俊さん、則秀さん、則重さんによる狂言「粟田口」。そして野村四郎さんのシテで「求塚」という番組です。
粟田口も求塚も、どちらかというとあまり上演の多い曲ではありません。
求塚は以前、浅見真州さんがなさったのを観ていますが、後ろの席の方達や、隣の席の方達同士で話されているのを、聞くともなく聞いていると、初めて御覧になった方が少なくない様子です。
確かにこの曲、重いし難しい。結局シテは成仏することが出来ず、亡者のままに姿を消していくという独特の形です。
今回も、様々に思うところ、感じるところがありましたが、いずれ鑑賞記に書いておこうと思います。

粟田口は、末広がりなどとよく似たプロットが基本になっていますが、これもまた独特の形で、騙された大名に同情してしまいます。こちらも鑑賞記で、他曲との違いなど触れられればと思います。

というわけで、途中になっている箙の鑑賞記は、また明日に書こうと思っています。

箙またつづき

アイが下がると、ワキが着座のまま待謡。
「花の木陰に臥しにけり」と、梅花の元でシテの訪れを待つことを謡い、一声の囃子。後シテの登場です。
後シテは平太の面をかけ、金と緑の半切に、紫と金地の法被を肩脱ぎにし、梨打ち烏帽子、背に梅の枝を挿した若武者の姿で登場してきます。

「魂は陽に帰り魄は陰に残る。執心去来の修羅の妄執」と謡い出します。修羅の妄執、苦しみが謡い出され、地謡が「修羅道の苦しみ御覧ぜよ」と謡うに合わせて常座で小廻り開キ、ワキの謡となります。

ワキは、現れ出でた若武者が胡籙(ヤナグイ)に梅花の枝を挿した様を謡い、如何なる人かと問いかけます。
シテは源太景季であると名乗り、仏の教えに導かれようと、魄霊が魂にうつって現れ出でたのだと謡います。そしてここでカケリ。
目付に出て角トリ、ワキ座の方へ廻って、大小前へと小廻りして舞台を一廻りし開キ。さらに六拍子踏んで正先にシカケ開キ、目付へと進みます。扇を広げつつ大小前に小廻りして・・・と型が進みシテの謡。地謡と続き、修羅道の様が景季の霊の現前に現れ、剣が雨と降りかかり、山里海川ことごとく修羅道の巷と現じます。
「山里海川も 皆修羅道の巷となりぬ こはいかにあさましや」とたたみかけるような修羅ノリの謡に、シテは手を打合せ大小前に下居します。

シテの謡「暫く心を静めて見れば」から、舞台はそのまま古の生田の戦場になり、地謡によって箙に梅を挿した若武者景季の様が謡われます。この部分、仕舞では好んで舞われるところです。「箙の花も源太も我さきかけん さきかけんとの 心の花も梅も散りかかって面白や」という絵に描いたような場面が目に浮かぶところですが、この後、もう少し書きたいこともあり、明日につづけます
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箙もう一日のつづきとおまけ

シテが「暫く心を静めて見れば」と謡い、地謡が「心を静めて見れば」と受けるとシテは立ち上がりシカケ開キ。「梅の花さかりなり 一枝手折りて箙に挿せば」と扇を返して目付から正中へと舞台を廻りつつ、闘いに向かう若武者の様を示します。

さらに景季は敵の強者八騎に囲まれ、兜もうち落とされて大童の姿になって奮戦します。太刀抜いて斬る様を見せます。郎等三騎に背中を合わせて闘い、拝み討ち、車斬りなどなど、技を尽くして敵の囲みを破ろうと戦う・・・と様々に太刀使う型を見せますが、そうと見るうちに夢が覚め、夜も明けてきます。下居したまま雲扇を開キ夜明けの風情。
跡弔うようにと合掌してワキ僧に頼み、姿を消したと留拍子を踏んで終曲となりました。
(72分:当日の上演時間を記しておきます)

さてシテが留拍子を踏んで終曲ですが、源太景季について少しばかり書いておこうかと思います。

梶原氏は、桓武平氏高望王流の祖である平高望の五男、良文を祖とする一族坂東八平氏の一つといわれます。高望の長男国香を祖とする清盛など伊勢平氏とは同じ平氏であっても距離感があります。
伊豆で挙兵した頼朝を助け、鎌倉幕府の樹立に後見して御家人となった者には、坂東八平氏の一族が数多く含まれていました。

梶原氏は源太景季の父、景時によって大きく勢力を伸ばします。景時は伊豆で挙兵した頼朝を、大庭景親とともに石橋山の戦いで迎え撃ちますが、頼朝の一行をあえて見逃し、これに恩義を感じた頼朝に重用されるようになったと言われています。
景時の讒言によって頼朝と義経が決定的に不和となったのは有名で、景時は大悪人と評せられることの多い人物です。

頼朝存命中は頼朝の信任厚く、権勢を振るいますが、それだけに他の御家人からの妬みも受けていたようで、頼朝の死後、御家人達の不満が噴出して一族は追放され、在地の武士達との戦闘で一族の主だった者たちは討ち死にしています。

景季は若くから父景時ともに参戦し、宇治川の戦いでは、佐々木高綱と先陣争いをしたことが有名です。この話は平家物語にも詳しいのですが、その後、一ノ谷の合戦で箙に梅を挿して戦った話は平家物語にはみえず、源平盛衰記によった逸話です。
一の谷の戦いでは大手から攻め寄せた範頼の軍に属していましたが、その後、景時ともども義経の軍勢に属し、屋島、壇ノ浦と軍功を上げました。

その後、頼朝と義経が不仲になると頼朝に従い、奥州藤原氏討伐にも従軍しています。御家人として様々に活躍していた様子ですが、景時の失脚に伴い所領の相模国一の宮に一度は引き籠もり、ここから上洛を企てて都に向かう途次、在地の武士との戦闘になって命を落としています。享年三十九歳。やはり修羅道の人でありました。

ところでシテの井上さん、初シテは平成8年の円満井会定例での箙。おそらくは思い出深い一曲だろうと想像したところです。声量のある美声が印象的でした。

索引のアップデート

鑑賞記をちょっとお休みしまして、本日は索引アップデートのお知らせ。
このブログには鑑賞記の索引を用意していますが、記事の更新と連動しているわけではないので、ついついほったらかしになってしまいます。

今回は、昨年秋の條風会から新春の銕仙会までの鑑賞記について、能・狂言それぞれに索引を更新しました。
     能の鑑賞記索引     狂言鑑賞記索引
このところ時間が取れず、鑑賞そのものも多くないうえに、これまで何度か観ているので鑑賞記を書かなかった曲もあって、番数としては大変少ないのですが、まあ人生にはこんな時もあるさ、と思って拘らないようにしています。
本当は、同じ曲でも同じということはない・・・のですが・・・

いつぞや「花もよ」の山崎有一郞さんのインタビューについて書きましたが、先日取り上げた部分の後に「僕なんか同じ曲を多いものなんか何百回も見てる、でも一回一回みんな違うね。それが能の魅力で面白い・・・中略・・・同じ配役で同じ曲をやったってまったく違う舞台になるんですよ・・・」とあります。
これは確かにそうなんです。私もそう感じるのですが、残念ながらそれを文章に表せるほどには、能を観ていないし、感じたものを文に起こせる力もありません。
そんなわけで、何回か観たことのある曲は、鑑賞記を省略しているのが現状です。
これまた、いつかそこまで能を理解し、鑑賞し、言葉に残せるようになりたいなぁ・・・と思いつつ、まあ今はこんなところさと、拘らないようにしています。とりあえずは楽しんで鑑賞し、自分なりに記録が残せればいいかな、という心境です。

それと、この索引、作成しているソフトの関係もあって、Firefoxではキレイに表示されるのですが、Internet ExplorerやChromeだと表示が崩れます。特にChromeだとゆがみが大きいので、前々から気になっていました。

今回、思い切って全体に作り直しをしましたので、今度はIEやChromeでも表示が崩れずに見られると思います。
やってみればたいしたことではないのですが、いざとなるとなかなか面倒なもので、気になりだしてから何年か経ってしまいました。
ちょっとホッとしています。

呂蓮 三宅右近(金春会定期能)

和泉流 国立能楽堂 2015.03.08
 シテ 三宅右近
  アド 三宅右矩、小アド 前田晃一

現在の狂言はきちんとした台本がありますが、狂言の草創期にはアドリブ的に演じられていたようで、日常にある滑稽な出来事をデフォルメしたり、身分の高い者を揶揄するような設定をしたりして、これをもとに即興を加えながら観客に見せていたと考えられています。
そうした中から、何度も繰り返して演じられる評判の良いテーマが出てきて、これをもとに劇化が進んで行ったのではないかとも言われます。

そうしたテーマの一つとして、「いろは」しか知らない者が他者に名前を付けるというものがあったのではないかと思われます。呂蓮では「いろは」から名前を付けるという可笑しさを笑いの種としているものの、それだけでは一曲の狂言には物足りなかったのでしょう、勝手に出家し頭を剃ってしまった夫を女房が怒るというプロット、これも類曲があるようですが、これと合わせて一曲の狂言を構成したのだろうと想像しています。

さて舞台にはシテ諸国修行 一所不住の出家が、長衣に角頭巾の長衣出立で、畳んだ衣を挟んだ竹を肩にして登場してきます。アド宿主も続いて出て笛座前に着座し控える形で、常座でシテの名乗りとなります。
小アド宿主の妻も一緒に出る形もあるようですが、今回はアドのみ。

シテはこの間は東国を廻ってきたので、これからは西国を廻ろう言って舞台を廻ります。道々、出家ほど心安い物はない、衣一衣、数珠一連あればどこへ行くのも心のままなどと言い、日が暮れたの宿を借りようと言って案内を乞います。

これに答えてアド宿主が立ち上がり、応対します。宿主は、この所の大法で往来の人に宿は貸せぬが出家のことなので宿を貸そうと家に招じ入れる形になります。シテ、アドが舞台で入れ違い、シテがワキ座に着座すると、宿主は橋掛りに向かって妻に食事の支度を命じ、常座からシテと向き合って座します。

アドはシテにどちらへ向かうのかなどと問い、シテとアドの問答が始まります。
さてこのつづきはまた明日に
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呂連のつづき

宿主は出家に、出家の境涯は心安いものであろうと問い、これに対して出家はまことに心安いものだと返します。出家には家族もなく家もなく故郷もない、ただ心のままに諸国をめぐるまでだという答えです。

また宿主は後生があるのかと問いますが、出家は後生がなくてどうするのかと返し、人の命の儚いことは朝開暮落と朝顔の花にたとえられるなどと仏の教えを語ります。今日あって明日のない命、後生大事にされるようになどと語ります。
これを聞いて宿主は感心し、有難いことを聞いて発起した。この上は頭を剃って弟子にし、諸国を連れめぐって欲しい申し出ます。
この辺りの宿主と出家のやり取りには、流儀、家によっていくつかのバリエーションがあるようです。

シテはアドの申し出に、それは殊勝と褒めますが、とは言え、出家になって願う後生も、在家の願う後生も別に変わったことはないので、そのままでいられるようにとやんわり断ります。
しかし宿主は、このままでいたのでは渡世のことが気になって後生が願えないので、ぜひとも頭を剃って欲しいと言います。シテは、それならば剃ろうが、内儀や一門の衆に相談してからにするようにと諭します。
しかしアドはかねて内儀にも一門にも出家の望みを告げていたので大丈夫だと答えます。シテはそれならば剃ろうが・・・お内儀の心が変わるやも知れぬので、もう一度相談すれるように、やけに慎重に言いますが、アドはそんな心配はない、早く出家しないのかと急かされているくらいだなどと言い、これを受けてシテはとうとうアドの頭を剃ることにします。

シテはアドに、剃る前にまず頭を揉もんでおくようにと言い、アドは立ち上がると常座で後ろを向いて肩衣を外し、前を向いて座すと扇を広げ、頭を揉む所作をします。
剃髪の前に頭を揉むというのは「重喜」にもありますので、頭を剃るときの一般的なやり方だったのでしょう。

シテはアドの後ろに立ち、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と唱え、ジョリジョリとそり始め、アドの前に回ってくると懐から出した白い頭巾をアドに被せて剃髪した態になります。さらにシテは、竹に挟んであった自分の替えの衣をアド着せ、出家の形にしてやります。
さてこのつづきはまた明日に
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呂蓮さらにつづき

するとアドは出家したのだから名前を付けてくれと求めます。

さて困ったのがシテで、今まで名前を付けたことなどありません。
まずは今までの名は何というのかとアドに問います。アドが柿ノ本の渋四郎左衛門と答えると、それは良い名だからそのままにしようと言うのですが、出家らしい何して欲しいと言われてしまいます。

そこでイロハの手本を持っていたことを思いだし、これから名を付けてやろうと思いつきます。アドに何か望みはあるかと問うと、代々ハチスという文字を付けるというので、シテは蜂の巣をつけるのか、と驚きます。アドは「蓮」の字のこととだと説明し、シテはそれなら「い蓮坊」「は蓮坊」「ほ蓮坊」などと言いますが、もっと長いのはないかといわれて「ちりぬ蓮坊」や「よた蓮坊」などという名前をひねり出します。さらに「へと蓮坊」などと珍妙な名を思いつきますが、ふと口にした「呂蓮坊」が良いということになり、ようやく名前が決まります。

ここで小アド宿主の妻が食事の用意が調ったことを告げに来ます。
小アドは夫の出家姿を見て怒り出し、なぜ自分に相談もしないで坊主になったのかとアドを責め始めます。
アドは自分が出家すればお前までも浮かぶなどと言ってなだめようとしますが、妻がおさまらないので、自分はそれほど頭を剃りたくなかったのだが、あの出家が勧めたから剃ったので、文句は出家に言えと言ってしまいます。
妻に責め立てられた出家は、本当に大丈夫かと念を押したのにどうしても剃りたいと自分で言ったのだから、アドに言えと言います。

あっちだ、こっちだと騒いでいるうちに揉み合いになり、出家が妻に出を出したと言って宿主が怒り出すと様子が変わります。宿主と妻がともに出家を打ち倒し、妻は「のういとしい人 ちゃっとござれ」と夫を呼び「心得た 心得た」とアドが続いて、二人は幕に入ってしまいます。
舞台に残されたシテは「さてもさても 強欲な目にあわせおった。このようなことでは一期、人の頭は剃ろうものではない 南無三宝 しないたり しないたり」を言って留になりました。
途中にも書きましたが、この曲、様々な演出があるようで、最後も妻が出家を追い込む形もあるようです。いずれにしても楽しい狂言でした、
(25分:当日の上演時間を記しておきます)
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ワキ方の活躍する能を観に行く

本日は神遊の第49回公演を観に国立能楽堂まで行ってきました。
今回の公演は「ワキ方が活躍する能」と銘打って、能が二番、張良と谷行。狂言は寝音曲ですが、さらにこのほかにワキ方の独吟、一調、仕舞という構成。意欲的な番組です。

張良はワキ森常太郎さんの披きで、シテは観世喜之さん。谷行のワキ帥阿闍梨は森常好さんですが、こちらはもともと観世流にはない役行者が出る形で、シテを観世喜正さん、両シテの役行者を梅若玄祥さんが勤めるという豪華な顔ぶれです。張良は何度か観ておりますが(ブログには一度だけ鑑賞記を書いています)、谷行は初見です。

萬斎さんの寝音曲も楽しかったのですが、宝生欣哉さんの藤戸の独吟、福王和幸さんが謡い観世元伯さんの太鼓で一調、そして宝生閑さんの雲雀山の仕舞と、こちらはさすがにかつて観たことがありませんでした。

単に珍しいものを観た・・・というだけではなく、それぞれに満足感ある上演でした。
さすがに国立能楽堂も満席。

いずれメモを整理して観能記にまとまようと思っています

小塩 本田光洋(金春会定期能)

金春流 国立能楽堂 2015.03.08
 シテ 本田光洋
  ワキ 宝生閑、アイ 三宅近成
   大鼓 國川純、小鼓 幸信吾
   太鼓 小寺真佐人、笛 藤田朝太郎

小塩は4年ほど前に観世喜正さんのシテで拝見していますが、春らしい一曲です。

舞台にはワキ、ワキツレの一行が登場してきます。段熨斗目に素袍上下のワキ、無地熨斗目に同じく素袍上下のワキツレですが、まずは市井の人ということなのでしょう。
舞台中央に出て次第。続いてワキが下京辺の者と名乗り、大原野の花が今を盛りと聞いたので、若い人を伴って見に行くところだと述べ、サシ謡。
ワキ閑さん、なんとなく病後のような印象を受けたのですが、いかがだったのか。先年、暫く休演なさっていた時期もあったように記憶していますが・・・

ともかくもシテの謡に続いて一同での道行。花見の心を謡いつつ大原山へと向かう風情。
謡い終えるとワキの着きゼリフ。大原山に着いたので心静かに花を眺めようと言って、一同はワキ座に着座。シテの出を待ちます。

一声。ゆったりとした運びで前シテの出。
深緑のような無地熨斗目なのか、鼠系の水衣をはおり、肩に桜の小枝を担っての登場です。観世流のみ、桜立木台を出すことになっていますが、桜を出した上に、桜の枝をシテが持って出るのはいささかうるさい感じもします。観世でも立木台を出さない形で上演する方が多いようです。

常座まで出てシテの一セイ。
老人と桜という取り合わせの妙なのでしょう。西行櫻を思い起こさせるような一セイ、上歌ですが「老いな厭いそ花心」とシテが謡い納め、ワキが立ち上がって声をかけます。
さてこのつづきはまた明日に
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小塩のつづき

ワキはシテに、多くの人々の中に老人が花の枝をかざし、たいへん花やかな様子だが、どこから来たのかと問いかけます。

このワキ、シテのやり取りは、なかなかに味わい深いものです。この後シテの謡から地謡へと謡が続き、「心なき山賤の身にも応ぜぬ花好き」と笑うだろうが、姿は老いても心は花。その心の色香を知らぬ人には答えられないと返事する形になります。
シテ光洋さんの謡、ご子息芳樹さん、布由樹さんなどによる地謡、この辺りが良い雰囲気で伝わります。

地謡に被せるようにワキの謡。戯れに腹を立てた風を見せたのだろうが、言葉の奥を語って欲しいと求めます。シテは肩から花の枝を下ろし、右前に持った形。

シテが答えて掛け合いに。ワキの問いをはぐらかすように、大原、小塩の山の景色を謡います。シテ「霞か。ワキ「雲か。シテ「八重一色の。と謡って地謡。
シテは地謡の頭で開キ、さらにシカケ開キ、正中に出て一度ワキと向き合うと左に回り大小前へ。「今日こそは神代も思ひ知られけれ」と右手を上げ開キ、地謡の終わりでワキに向いて三足ほどツメる形です。

ワキの謡。地謡の詞章を引き、ただいまの言葉の末に「大原や 小塩の山も 今日こそは 神代のことも 思ひ出づらめ」とあったのはどなたの歌かと問いかけます。
シテは、在原の業平が大原野の行幸に供奉した際に、后のことを思い出し「神代のこと」と歌ったのだと言い、「名残おしほの山深み」と謡って地謡に。
シテはやや右に向きを換え、右手を少し上げて戻しシカケ開キ。「あはれふりぬる身の程」とワキを向いて四足ほどツメ、一足退いて下居。「嘆きてもかひぞなかりける」と片シオリ。ワキもこの間に着座します。
何やら業平の歌から、我が身のように嘆く風情になりますが、シオリつつシテは正面に向きを直し、桜の小枝をそっと置き、地謡はロンギになっていきます。
さてこのつづきはまた明日に
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小塩さらにつづき

地謡がロンギを謡い出し、シテの謡。再び地謡となり「まじれやまじれ老人(オイビト)の」で花の枝を取り上げ差し出し、シテの謡「老隠るやとかざさん」で枝を見ると下ろし、地謡「かざしの袖を引き引かれ」で立ち上がったシテは正中に出ると、枝を持った右手を上げて枝を倒し、退って大小前。さらに舞台を廻って「かげらふの人の面影」とワキを向き、シテ柱を見込んで常座まで進み「ありと見えつゝ」で枝を落として、中入となりました。

シテが幕に入ると段熨斗目、長上下のアイが立ち常座で小塩の里に住む者と名乗ります。大原の花が盛りなので花見に出かけ、心を慰めようと言って目付に出、ワキ一行をみとめ声をかけます。
型通りの問答から正中に座してワキの求めに応じて語ります。

大原山の明神は大和国春日の明神と一体である。清和天皇の御時(藤原)長良卿の御息女に二条の后と申される方がお出でになった。この方がはじめてこの大原山に行啓されたときに業平が供奉していた。その折、業平が「大原や 小塩の山も 今日こそは 神代のことも 思い出ずらん」と詠じた。その歌の心は、業平が二条の后の昔を思い出して詠じたものと聞いている。
この大原山はかつて木陰もない所であったが、大和国三笠山のようにしようと木を植え、次第に深山のようになったものである。今の時分は花盛りとなり眺め尽きないことから、都はもとより遠国からも花を見に人々が訪れるようになった。
などと語ります。

型通り、アイはワキに知るところを語ったが如何なる子細かと問いかけます。ワキは、最前、老人がやって来て業平のことを懇ろに語って姿を消してしまったと話します。
アイがこれを受けて、業平の霊が現れたのだろうと推量し、花のもとに留まってなおも奇特をみるようにと勧めます。
近成さんの間語り、4年前の間語り野村扇丞さんと同流ですが、記録と比べるといささか簡単な形になっています。この辺りの違いは、いくつかの形が伝えられているのか、演出として直されているのか、興味深いところです。

ともかくもアイが下がると、ワキは最前の老人が業平の霊が仮に姿を現したものと言い、待謡。後シテの出を待つ形となります。
さてこのつづきはまた明日に
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小塩もう一日のつづき

一声の囃子。後見によって車が出され常座に据えられます。花が付けられた車で舞台が華やかになった印象です。
後シテは指貫込大口に白の狩衣。巻嬰の冠に老懸を付けての登場です。橋掛りを進み舞台へと出、車に乗り込んだ形で一セイ。「月やあらぬ」と謡い出します。

シテ、ワキの掛け合いで、花見車が現れたことが謡われて地謡。「今日来ずは 明日は雪とぞ降りなまし」と謡を聞いて「消えずはありと」で車を出て前に進みます。
舞台を小さく廻って車の横、正中側に正面向いて立ち、「かざしの袖ふれて」と右袖を上げ、ゆっくり下ろすと「くるゝより月の花よ待たうよ」と佇む形になります。

クリの謡で大小前に進むと後見が車を下げ、シテのサシ。地謡が受けて「心の色はおのづから」と両手を上げて扇広げ、打ち込んでユウケン。扇を閉じるとクセの謡となります。クセは舞グセ。
「陸奥のしのぶもぢずり誰故乱れんと思ふ」の謡に、やや右を向いて直し二、三足出るとノリ込んで足拍子。打込開いて左右。また舞台を廻って大小前から、指シマワシてヒラキ左右、扇開いて打込、上げ端で上羽して大左右と型が続きます。
扇かざして舞台を廻り、大小前で左右打ち込むと太鼓が打ち出し、「昔男ぞと人もいふ 昔かな」の謡に扇を閉じて一度後ろを向き、あらためて正面に直して序ノ舞となりました。

気品ある序ノ舞の後はシテのワカ。地謡「ありし御幸を」に常座で打込ヒラキ。シテ、地謡の掛け合いに指シ開キして左袖を返し「山風吹き乱れ」と正中へ。
袖を直すと扇を持つ手を上げて角へ。さらに正中へと戻ると「木のもとながら まどろめば」と左袖巻き上げて下居。「桜に結べる」と袖を直して立ち上がると舞台を廻り、角で扇をカザして左に回り常座へ。「曙の花にや 残るらん」とシテ柱の方を向き留拍子を踏んで終曲となりました。

太鼓入り序ノ舞物でもあり、解説書などでは三番目物としている一曲。観世喜正さんの観能記を書いた際も三番目物として記述しましたが、この辺りは様々に解釈されるところで、観世流では四番目物と扱うのが現行のようです。五番目とする考え方もあり、金春流で五番目物としている記述も見かけますが、あまり目くじら立てる話でもないようで、要は楽しめればそれで良い・・・と、そんなところの様子です。
(92分:当日の上演時間を記しておきます)
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小鍛治 白頭 高橋忍(金春会定期能)

金春流 国立能楽堂 2015.03.08
 シテ 高橋忍
  ワキ 野口能弘、アイ 金田弘明
   大鼓 高野彰、小鼓 住駒充彦
   太鼓 吉谷潔、笛 松田弘之

小鍛冶はこれまで、金剛流山田夏樹さん(鑑賞記初日月リンク)、宝生流佐野弘宜さん(鑑賞記初日月リンク)、お若いシテ二人の演能と、観世流観世銕之丞さんの黒頭別習の小書付(鑑賞記初日月リンク)、都合三度ほどブログに取り上げてきました。
今回は金春流、白頭の小書付です。この曲、小書も多々あり、白頭の小書は五流すべてにあります。それだけ好まれた曲なのでしょう。小書無しの場合、各流の流儀による違いはあまり感じませんが、白頭の小書ではそれぞれに工夫がある様子です。

舞台にはまずワキツレ橘道成の野口琢弘さんが登場してきます。白大口に紺地の袷狩衣、洞烏帽子を着けた大臣姿で登場し、常座へと進んで名乗ります。
名乗りの後、三条の小鍛冶宗近の私邸へ急ぐと言って橋掛りに入り、一ノ松から幕に呼び掛けます。

答えてワキの出。白大口、掛直垂に士烏帽子を着けたワキ宗近の野口能弘さんが登場し、勅使と聞いて幕前に着座し両手突いて畏まります。
実はワキの装束、掛直垂をこれまで掛素袍と書いていたような気がして確認をしてみたところ、これまでの小鍛冶の鑑賞記、どれも素袍と書いてありました。まあ形から見ただけでは区別つきませんし、仕方なかったかとも思うのですが、士烏帽子を着けているので、これは直垂ですね。という訳で、これまでの鑑賞記も直しておきました。

ともかくも、ワキツレ勅使とワキ三条小鍛冶宗近の問答になりますが、このつづきはまた明日に
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小鍛冶のつづき

さてワキ、ワキツレの問答から、宗近が剣を打つことをやむなく引受け、地謡でで両者が立ち上がると、ワキツレはワキ座に進んで着座。ワキは幕前からゆっくりと橋掛りを歩んで、地謡いっぱいに常座まで出ます。宗近が断ることも出来ず、進退窮まりつつ歩みを進める雰囲気です。

常座に進み出たワキは、稲荷明神に祈誓しようと言って地謡座の方へ向かい歩み出すとシテの呼び掛けになります。

ワキが正中あたりに至ったところでシテの呼び掛け。
ワキが不思議がると前シテが幕から姿を現してきます。黒頭の童子姿。箔を腰巻にし鶯色の水衣を纏って、ゆっくりと歩みつつワキとの問答をつづけます。

「げにげにそれはさる事なれども。われのみ知ればよそ人までも」でシテは常座に出、ワキ「天に声あり」、シテは「地に響く」と受けてワキに二足ツメます。地謡の上歌となり、シテは正に直し、ワキがワキ座に着座。
シテは「隠れはあらじ殊になほ」で三足ほど出、下がってワキに向くと「唯頼めこの君の」で四足ほどツメ、さらにワキに寄ってから大鼓前あたりまで戻り、上歌の終わり「などかは適はざるべき」でワキに向いて下居します。
下居のまま正に直しクリ。

シテと地謡の掛け合いで剣の威徳が謡われてクセに。
クセの前半は居グセの態で、本朝の大和武尊の東征の話が謡われ、シテはジッと謡を聞く形ですが「四方の紅葉も冬枯れの。遠山に見ゆる初雪を」あたりで、目付柱の方に面を向け、遠く山の雪をみやる風。
面を正面に直して「夷四方を囲みつゝ」と謡い、地謡を聞いて「尊剣を抜いて」と謡いつつ、腰浮かせ扇を剣の形にとり立ち上がります。
さてこのつづきはまた明日に
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小鍛冶またつづき

立ち上がったシテは指シヒラキ。「忽ちに」と数拍子踏んで「四方の草を。薙ぎ払へば」と扇で薙ぎ払う所作を見せます。
正先へ出ると「炎も草も」と下居。「天にかゝやき」で立ち上がり常座へと向かいます。「数万騎の夷どもは」とシテ柱向いて開キ。
「その後。四海治まりて」で正に向き直り、目付へと出て角トリ。左へ廻って地ノ頭から常座へと戻って「瑞相の御剣も」と開キ。「伝ふる家の宗近よ」とワキに向き指シ、開いて「下向し給へ」と下居しワキに向き合っておさめます。

ワキはシテに如何なる人かと問いかけますが、シテは答えず、誰であろうと唯頼め、御剣を打つ壇を飾って待つようにと謡い「我を待ち給はゞ」と腰を浮かせイロ。
地謡で立ち上がると、正面を向いて指シヒラキ。「御力を。つけ申すべし」と左袖上げてワキに寄り、常座へススッと進むと一度正面を向き、「行方も知らず失せにけり」とあらためて来序で中入となりました。ワキもこれに続いて中入です。

来序から囃子が狂言来序になり、末社出立のアイ金田弘明さんが登場してきます。
常座に出て立ちシャベリ。
稲荷大明神に仕える末社と名乗り、前場をおさらいする形で語ります。
一条院が霊夢を蒙り、三条の小鍛冶宗近に剣を打たせれば、ますます天下安穏であろうとのお告げに、宣旨を以て宗近に剣を打つよう命じた。宗近は相鎚を打つものがいないので辞退しようとしたが、結局は承ることにした。
と経緯を纏めた後、草薙剣のいわれに移ります。
叢雲剣を日本武尊が賜って夷を平らげていったが、駿河国の敵達が集まって尊の命を取ろうと謀をめぐらした。この地は鹿が多いので鹿狩りをしてはどうかと持ちかけ、尊が鹿狩りを始めると、野に火を放って命を取ろうとした。しかし尊は剣をもって草を薙ぎ払い、返って火の勢いを夷に向かわせ、討ち滅ぼした。それより天下治まり、今に至っても草薙の御剣と申し伝えるのは、この剣のことである。と語り、急ぎ壇を飾って剣を打つ用意をするようにと触れて退場します。
さてこのつづきはまた明日に
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