能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

小鍛冶もう一日のつづき

アイが下がると後見が一畳台を持ち出して正先に据えます。一畳台には低く注連が横に張られ、台上に鎚などが用意されています。
後ワキが段熨斗目直垂に風折烏帽子の姿で登場し、一度台を見込んでからクツログ形になります。

囃子がノットを打ち出すとワキは台上に上がり「宗近勅に従って」と謡い出します。
朗々と謡い地謡に。地謡が「唯今の宗近に力を合わせてたび給へとて」と謡うとワキは幣を取り「幣帛を捧げつつ」と幣を捧げるると「天に仰ぎ頭を地につけ」で頭を下げ、両手を広げて「謹上再拝」と謡いつつ幣を振ります。

早笛の囃子となり、ワキは笛座前に下がって肩脱ぎの形に。
シテが白の半切、袷法被に、白頭に白の狐戴をのせた姿で登場してきます。地謡いっぱいに舞台に進み出、大小前で小廻りして舞働です。

舞上げると「童男壇の上にあがり」と一句謡って台上にのぼり、ワキも台にあがって、剣を鍛える場面。謡に合わせワキが打ち、シテが打って「打ち重ねたる鎚の音。天地に響ておびただしや」と剣を鍛えます。

ワキは剣を持って「表に小鍛冶宗近と打つ」と謡うと剣を裏返し、シテの謡。「子狐と裏にあざやかに」で地謡となり、ワキはシテに剣を渡して台を下り、笛座前に控えます。

シテは剣を見込み「天下第一の」と謡いつつ剣を上げ、続く地謡で台を下りると、正面向いてヒラキ。ワキの方を向くと「稲荷の神体子狐丸を。勅使に捧げ申し」でワキツレに剣を渡します。さらに橋掛りへ進み、二ノ松で「叢雲に飛び乗りて」と回り、「峯にぞ帰りける」の謡に留拍子を踏んで終曲となりました。
白頭らしい品格ある小鍛冶・・・と感じた次第です。
(63分:当日の上演時間を記しておきます)
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粟田口 山本則俊(銕仙会定期公演)

3月の銕仙会は粟田口と求塚でした。
まずは粟田口から・・・
大藏流 宝生能楽堂 2015.03.13
 シテ 山本則俊
  アド 山本則秀 山本則重

道具を買いに太郎冠者が都に出かけ、すっぱに騙されて違うものを買い込んで来てしまう・・・というプロットは「末広かり」をはじめ少なからず見かけますが、物を買いにいって人を雇い入れてきてしまうというのは珍しい展開。一方「今参」をはじめ、新しく人を雇うことにした大名をめぐるあれこれを笑いの種にした曲もあり、これを組み合わせてみる趣向ということでしょうか。

舞台には紅白段に素袍上下、洞烏帽子のシテ大名、則俊さんが登場し、正先まで出て「このあたりに隠れもなき大名です」と名乗ります。道具比べが流行しているなかで、この度は粟田口を比べようということになったが、自分の持ち物の中に粟田口があるのかないのか、太郎冠者に確かめさせようと冠者を呼び出します。

笛座まで行って太郎冠者を呼び出すと、常座に控えていたアド太郎冠者の則秀さんが立ち上がり、ワキ座のシテと向かい合います。
道具の内に粟田口はあるかというシテの問いに、アドはその様な物はないと答え、都に買いに行くことになります。

出かける際に、えーいー、はーあーと繰り返し「早戻ったか」「まだ御前をにじりもいたしませぬ」という、お決まりのやり取りを挟んで笑いを引き出し、冠者は都に向かうことになります。途次、今までの道具比べには負けたことがないので、この粟田口比べでも頼うだお方が勝つように、良い粟田口を手に入れてこようなどと思いを語りつつ都に着きます。

さてここで類曲同様、そもそも粟田口というのは何かを知らずに出かけてきてしまったことに気付きます。そこでこれまた型通り「粟田口買おう 粟田口買ひす」と呼ばわりながら歩くことにするわけですが、すると橋掛りにすっぱ則重さんが姿を現し、田舎者をたぶらかせてやろうと述べて舞台に入り、二人のやり取りになっていきます。
さてこのつづきはまた明日に
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粟田口のつづき

粟田口を買おうと呼ばわっている太郎冠者にすっぱが声をかけ、二人は舞台上で入れ違ってアド太郎冠者が常座、小アドすっぱがワキ座に立って問答となります。

さてこの太郎冠者の買いに来た「粟田口」ですが、本来は刀のことで、この曲が作られた頃では常識だったのでしょう。京都東山の粟田口あたりには古くから刀工が多く住んだようで、中でも粟田口吉光は名工といわれます。この伏線が分からないと、この狂言の面白さも半減してしまいます。
たまたま当日、隣の席に座られた二人の男性、お一人がたいへん詳しい様子で、休憩時間にこのあたりをめぐって、もうひとかたにいろいろと説明されていまして、私も大変参考になったところです。

ともかくも、粟田口を買いたいという太郎冠者に、すっぱは自分がその粟田口だと言い切ります。太郎冠者は粟田口が人だということに驚きますが、すっぱは粟田口に住む者はみな粟田口というのだが、このところ大名方が求めるので皆雇われていってしまった。自分は都の重宝として粟田口に残されていたのだが、買われていってやろうと太郎冠者に持ちかけます。

太郎冠者はそれならば買おうと代金を尋ねますが、すっぱの返答は万疋。出がけに主から粟田口は高価な物で万疋はすると聞いてきた太郎冠者は、これですっかり信じ込んでしまい、すっぱを連れて主のもとに帰ることにします。

帰りの道々、太郎冠者はすっぱに、諸方が粟田口を重宝とするのはどうしてかと問います。すっぱが答えて言うには、いざ事が起こったときには、千騎、万騎を召し連れるよりも、この粟田口一人がお馬の先に立てば、向かってくる敵など蚊や蝿を追うようなものなので、大名方からも重宝されるのだ、という次第です。
太郎冠者はこれを聞き、主人もきっと喜ぶだろう、などと言っているうちに主の屋敷に帰り着いた形で橋掛りに立ち、すっぱを橋掛りに残したまま、舞台に入って大名に報告をすることになります。
さてこのつづきはまた明日に
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粟田口さらにつづき

大名は、戻ってきた太郎冠者に粟田口を見せよと手を出します。が、太郎冠者は粟田口は手に載せられるようなものではなく、人のことだと答えます。
大名と太郎冠者の問答になり、どうして粟田口は人なのかという大名の問いに、太郎冠者はすっぱから聞いた事情を答え、納得した大名は粟田口をどこに待たせたのかと問います。

太郎冠者が門外に待たせていると答えると、大名は後々のためには初めが肝心なので「過を言おう」と言い出します。この「過を言う」は今参や文相撲などにも出てきますが、初めて見参してくる者を驚かすために大げさに言おう・・・ほどの意味と思います。
ここでは大きな声を出して太郎冠者に床几を持ってこさせ、その声を門外で待っている粟田口に聞かせて恐れ入らそう、という次第で、その持ってこさせた床几を正中に置いて、大名は腰を下ろします。

大名は太郎冠者に、粟田口について書いたものがあるのでこれと引き合わせてみたいのだが、合わせてくれるかと聞いてくるように命じます。太郎冠者はすっぱに尋ね、すっぱが応諾すると、大名は奥の違い棚から書き付けを取って来るようにと太郎冠者に言いつけます。

大名は書き付けを広げて読み出しますが、何やら読めない文字がある様子。ともかくも、粟田口には藤りん藤馬と二つの流れがあるがいずれか、粟田口に問うように太郎冠者に言いつけます。
和泉流の本に「藤りん藤馬」とあるのでこの字をとりました。狂言記に採られた大藏流本では東林東馬とありますが、昨日書きました吉光の祖父が藤馬允則國と名乗っていたようなので、この藤馬のことでしょうか。また藤りんの方は、則國の父國友が藤林の銘を使っていたようですので藤林なのかも知れません。

太郎冠者がすっぱに問うと、すっぱは藤馬の流れと答え、この答えを太郎冠者から聞いた大名は、書き付けに藤馬は惣領筋とあるのをみて感心した風。続いて、粟田口は身が古いと書いてあるので確かめてこいと冠者に命じます。
冠者の問いに、すっぱは生まれてこの方、湯風呂を使ったことがないので随分古いと答えます。冠者からこれを聞いて、大名は、それは身が古いが側近く使うにはむさいなあ・・・などと妙な問答をつづけますが、このつづきはまた明日に
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粟田口さらにさらにつづき

続いて大名は書き付けに「はばき元黒たるべし」とあるのを見て、太郎冠者に聞いてこいと命じます。太郎冠者に問われたすっぱは、常に黒いはばきもとにしていると答えます。この「はばきもと」ですが、日本刀の刀身の元に嵌めてある金具で鞘から刀が抜け落ちるのを防ぐもの。柄の直ぐ先に付いています。このはばき元が黒いものが良いという意味ですが、一方、はばきはいわゆる脚絆の意味もあり、すっぱは黒の脚絆を常に着けていると答えたわけです。
次には「はの強きもの」というのを確認することになります。これは当然「刃」の話ですが、すっぱは「歯が強い」ので岩石でも噛んで進ぜようなどと言います。

続いて大名は「めいがあるか」と確認します。刀の銘の話ですが、すっぱは上京と下京に姉と妹がおり、それに女の子が一人ずついるが、これはめいになるだろうかなどと言います。大名はそれは姪に違いないと言い、書き付けを見るとりょうめい(両銘)は上作ものとあるのを見つけます。
満足した大名は、粟田口が重宝とされるのはなぜかと問うようにと太郎冠者に命じますが、この話は道すがら冠者がすっぱに尋ねたところなので、すっぱに問うまでもなく太郎冠者が返事をします。

大名は、粟田口が書き付けに悉く合って満足した。ついては山一つ彼方に正真の粟田口を持つ方がいるので、同道して引き合わせたいが行ってくれるだろうかと問うように太郎冠者に命じます。

太郎冠者の問いに、何方までもお供しましょうとすっぱが答え、これを太郎冠者から聞いた大名は「粟田口をこれへ出せ」と命じ、冠者がすっぱを誘って大名の御前に出ます。
すっぱが舞台に入り、大名の前に出ます。大名は太郎冠者に太刀を持ってこさせ、粟田口一人いれば千騎、万騎が来ようとも大丈夫というのだから汝一人を連れて行こうと言って、太郎冠者にいて休めと言います。これを受けて太郎冠者は切戸口から退場し、すっぱを連れて大名がでかけることになります。
さてこのつづきはまた明日に
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粟田口もう一日のつづき

すっぱを伴い舞台を回り始めた大名は、粟田口というのは其方の名かと問います。すっぱは粟田口は在名、名は藤馬がじょうと言うと答えます。

大名は、粟田口と呼んでも藤馬がじょうと呼んでも答えようかと問い、すっぱが答えますと言うと、粟田口、藤馬のじょうと交互に呼び、その度にすっぱが答えると喜び、何度も繰り返して最後は大笑い。上機嫌の態です。

大名は身を軽くして行こうと、太刀、刀を持ってくれとすっぱに渡してしまいます。
大名は再び「粟田口 藤馬のじょう」と交互に呼び、すっぱに答えさせます。
粟田口、藤馬のじょう、粟田口、藤馬のじょうと段々詰めて呼んでは答えさせ、最後はまたまた大笑い。さてもさても面白いことかな、などと独り言ちします。

大名が喜んでなにがしか言っている間に、すっぱは橋掛りに行き一ノ松あたりで「良い時分でござる。外そうと存ずる。」と言うと幕に走り込んでしまいます。

大名はまた、粟田口、藤馬のじょうと呼び始めますが、今度は返事がないのですっぱを探します。
いいや のうのう 粟田口はさやばしらぬか じゃア
いいや これこれ それへとうまのじょうは錆び付かぬか じゃア
と行き来の人にも尋ねる様子ですが、いる様子もありません。
正中で節を付け
太刀も刀も すはれたり
よくよく物を案ずるに 今のヤツは都のたらしめにてありけるよな
南無三宝 しないたるなり かな
と謡い、しょんぼりした風で舞台を進みますが、突然「いえぃ」と大声を出し「今の粟田口 どれへ行くぞ 捕らえてくれ やるまいぞやるまいぞ」と走り込んで留となりました。
則俊さん長時間の熱演で山本家らしい一番でした。「南無三宝 しないたり」までで留める演出もあるようで、山脇和泉ではこの形のようです。
(44分:当日の上演時間を記しておきます)
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求塚 野村四郎(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2015.03.13
 シテ 野村四郎、ツレ 北浪貴裕 長山桂三
  ワキ 宝生欣哉、アイ 山本東次郎
   大鼓 柿原崇志、小鼓 大倉源次郎
   太鼓 三島元太郎、笛 藤田次郎

求塚は浅見真州さんがなさった際の鑑賞記を書いています(鑑賞記初日月リンク)が、さてあれから9年近い時が流れてしまいました。
この求塚という曲、現在では五流ともに現行曲としていますが、観世流の求塚は昭和二十六年の復曲です。また少し前の資料を見ると「金春にはない」とありますが、金春流も現在では上演しています。もともと宝生流と喜多流のみが演じていたようで、金剛流も戦前ながら復曲したもの。
以前の鑑賞記にも書きましたが、この曲、たいへんに難しい、ある意味つらい曲です。江戸時代には、おそらく好まれなかったのではないかと想像しています。

後の世には理解する人がいなくなってしまうだろう・・・と、世阿弥が書き残した砧が、昭和になって人気曲として持て囃されるようになりました。この求塚も、世の多くの人々が理解するには、時の流れが必要だったのかも知れません。

さて舞台には、黄緑の引廻しをかけ枝を載せた塚の作り物が持ち出されて大小前に据えられます。
次第の囃子でワキの一行が登場。無地熨斗目に薄い茶の水衣、角帽子のワキ欣哉さんに、同じく無地熨斗目、緑の水衣を着け角帽子のワキツレ大日向寛さんと則久英志さんが登場し、舞台中央にて型通りに次第。

ワキは西国方より出でたる僧と名乗り、都に初めて登ってきたと述べて道行。浦伝いの船旅を重ね、摂津国生田の里にやって来たことが謡われます。
ワキの着きゼリフで、暫く一見・・・ということになり、ワキの一行はワキ座に着座。シテの出を待つことになります。
さてこのつづきはまた明日に
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求塚のつづき

一声の囃子。ツレ二人が先に立ち、前シテの出となります。前シテの面は孫一だそうですが、シテ、ツレともに朱の箔を腰巻に白の水衣、左手に籠を持ち、一ノ松から二ノ松にかけてツレ二人とシテが並ぶ形、ツレ二人がシテの方に向き直って一セイの謡。
若菜摘みの情景が舞台に拡がります。

サシ、下歌、上歌と続き、上歌の中頃「嵐吹く森の木陰」あたりでツレが向きを換えて橋掛りを進み、ツレが笛座前まで、シテは常座を過ぎ塚の横に立ちました。

ワキが声をかけ、この辺りを生田というのかと問います。シテ、ツレが生田の森であることを謡い、ワキは求塚はどこにあるのかと重ねて問います。
しかしツレは、求塚と聞いたことはあるが一体どこのことなのか知らないと謡い、シテも若菜摘む時につまらぬ事を問わぬようにとつづけます。

ツレが、急ぎの旅の様子なのに休んでいて良いのかと謡いかけ、シテ「されば古き歌にも」と謡って地謡の上歌。「旅人の 道さまたげに摘むものは」と謡い出し、何やら問いかけ給うようだが、まずは若菜を摘もうよと納めます。

この部分、もともとこの曲を演じてきた宝生流や喜多流の本を見ると、シテの謡「されば古き歌にも」をシテ、ツレ同吟で謡い、その後を、宝生流では地謡が下歌「旅人の道さまたげに摘む物は 生田の小野の若菜なりよしなや何を問い給う」と謡って上歌に。「春日野の 飛ぶ火の野守出でてみよ」と続きます。喜多流ではシテ、ツレ同吟の後「旅人の道さまたげに摘む物は」までをシテが謡い、その後は地謡が続ける形ですが、詞章は同文です。
「旅人の」から「何を問い給う」まで謡い、その後、上音に移って「春日野の 飛ぶ火の野守出でてみよ 飛ぶ火の野守出でてみよ 若菜つまん程あらじ 其の如く旅人も 急がせ給う都を今幾日ありて御覧ぜん 君がため春の野に出でて若菜摘む 衣手寒し消え残る 雪ながら摘もうよ 淡雪ながら摘もうよ 沢辺なるひこりは薄く残れども 水の深芹かき分けて青緑色ながらいざや摘もうよ 色ながらいざや摘もうよ」となっています。
これを観世流では「旅人の」から上歌、上音で謡い出し、「春日野の」から「淡雪ながら摘もうよ」までを飛ばして「沢辺なる」へ続け「いざや摘もうよ」と謡う形にしてあります。
復曲の際に直したのか、この部分が違う形で伝わっていたのか、いずれか分かりませんが、「春日野の」の部分は古今の有名な歌を採っており、あればあったなりに面白いのですが、なければないなりに詞章が凝縮されて趣も良いように感じます。考え方の分かれるところかも知れません。
このつづきはまた明日に
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求塚さらにつづき

ロンギとなり、地謡、シテの掛け合い。シテは「若紫の菜や摘みし」と謡って三足ほど出、地謡が続けて「げにや緑の色に染む」と謡う中を角に出ます。ここも宝生流、喜多流ではもう少し詞章が長く、シテ、地謡がさらに謡いあって、シテの「長安のなづな」の謡になるのですが、いささか詞章が省略されています。

シテは「長安のなづな」と謡って角トリ、続く地謡でワキ座方へ回り、地ノ頭から塚の前へと進み、面を使ったりしつつ「何れを春とは白波の」で常座からワキ正へと出ます。ここでツレも出、「吹かるる袂もなお寒し」あたりでシテはワキ正からワキ座前へと舞台を廻り、ツレは橋掛りへと進んで退場していきます。「若菜摘み残し帰らん」と地謡が納め、シテは常座で正面向いて立ちます。

ワキがここで声をかけます。若菜摘む女達は皆帰ってしまったのに、どうして一人残ったのかと問いかけるわけです。
ここからシテ、ワキの問答となり、シテは正中、ややシテ柱に近い方に出て下居、ワキに向いて問答の後、ワキの求めに従って正面に直して求塚、菟名日少女(ウナイオトメ)の物語を語ります。

古、この辺りに菟名日少女という女がいた。その頃、小竹田男子(オサダオノコ)と血沼の丈夫(チヌノマスラオ)という男が、二人とも菟名日少女に心を寄せ、同じ日の同じ時に手紙を送った。少女はいずれかに靡いては恨みになろうと、どちらにも靡かなかったが、その後、二人が生田川の鴛鴦を射ることになった。二人の矢が同時に一つの翼に当たった。とそこまで語ると、目付柱の方にやや面を流す形にしていたところから、正面に面を直し「その時わらは思ふよう」と一人称で語り出して謡になります。

自分のために水鳥までもが命を落とす羽目になったことを憐れみ、我が身を捨てようと謡って地謡。少女が生田川に身を投げた子細が謡われますが、シテは「この川波に沈みしを」で腰を浮かせ、目付柱を見込んで立ち上がると「この塚の土中に籠めて」とシテ柱方向きを換え、戻して正に向き「二人の男はこの塚に」とワキ、塚と見て正に直します。
「さし違えて空しくなれば」と一足出して下げ、左手を胸にあて思いを深め、直してワキを向くと「科に生る身を済け給え」と四足ほどツメます。さらに「塚の内に入りにけり」と一度塚の脇に立ち、あらためて塚へ中入りしました。
さてこのつづきはまた明日に
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求塚さらにさらにつづき

シテの中入でアイが出て常座で名乗り、目付に出てワキをみとめて声をかけ、型通りの問答の後、正中にてウナイオトメの物語を居語りします。

実はこの間語り、山本東次郎家には長いバージョンがあって、ササダとチヌが差し違えて亡くなり、二人を塚に突き込めた後、死後もチヌはササダオノコに苦しめられていると続くのだそうです。血の付いた刀を残してチヌノマスラオの幽霊が姿を消したという話が出てくるとのこと。

以前の浅見さんの上演の時も、また今回も、間語りは山本東次郎さんだったのですが、さて浅見さんの時はどうだったか。
今回は、そうした長い間語りではなく、他家と同じように、シテの語りをほぼそのままに繰り返す形の間語りでした。とは言え、ウナイオトメが「すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」と大和物語にある歌を引きつつ語る間語りは、なかなかに趣き深いものです。
菟原処女の伝説は、古くから伝えられてきたものらしく、既に万葉集にも、高橋虫麻呂や大伴家持など複数の歌人により、この伝説を詠んだ歌が収録されています。芦屋の辺りのことだったようですが、大和物語では生田とされ、様々な脚色がされました。謡曲は概ねこの大和物語に依っているようです。

さてアイが下がるとワキ、ワキツレの待謡。「一夜臥す男鹿の角の塚の草」と繰り返して謡ううちに太鼓が入り、ワキは立ち上がると二、三足出て下居。「とむらう法の声立てて」と塚に向かって合掌。「南無幽霊成等正覚 出離生死頓証菩提」と経文を唱える態です。
出端を聞いて塚の中から後シテの謡い出しです。死して後も安らぎは訪れぬ様を謡います。地謡が「あら閻浮恋しや」と謡って上歌。「苦しみは身を焼く」で引廻しが下ろされて床几に腰を下ろした後シテが姿を現します。浅葱の色大口に白練を壺折にした姿で「火宅の住処御覧ぜよ」とワキに訴えかけるような態です。
さてこのつづきはもう一日、明日に
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求塚もう一日のつづき

ワキは「あら傷病はしの御有様やな」と謡い出し、「種々諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅」と観音経を唱え合掌し祈る形です。シテはこの祈りに「大焦熱の煙の内に晴間の少し見ゆる」と感謝し両手を合わせて合掌します。しかし二人の男達の亡心に苛まれるのか、気を変え「恐ろしやおことは誰そ」と苦しみの様子を述べ始め、「左右の手を取って」と両手を左右に引かれる形。「頭をつつき髄を食う」と両手を上げ、苦しみの姿を示します。

シテは「火宅の柱に」と謡い目付柱の方に目をやると、地謡の「縋りつき取りつけば 柱は即ち火焔となって」で立ち上がり、作り物の見所から見て左手前、目付柱側の縋りつきます。しかし「火の柱を抱くぞとよ」と柱から手を放し「あらあつや」と両肩を抱いて座り込み、安座の形になります。
シテは「而して起き上がれば」と謡い、扇持つ手を上げて頭の上へ落とす型。「追い立つれば漂い出でて」と立ち上がり、塚を出て四足ほど進むとワキを見込み、正面に直して開キます。
「炎熱極熱無間の底に」と六拍子を踏み、「足上頭下と落つる間は」で目付柱から正面へと見上げ、閉じた扇を差し出して下を指します。山姥にも同様の型がありますが、意味合いは異なります。シテは下居し、さらに「三年三月の苦しみ果てて」と廻って安座の形に。「少し苦患の隙かと思えば」と苦しみが一時去った風で扇を広げ、立ち上がると五足ほど出てサシ回し、「暗闇となりぬれば」の謡に扇で面を隠し左に回り、見えぬ中、塚を求めさ迷う風でワキ正から目付へと進みます。

角から「求め得たりや求塚の」と塚に向かいユウケンし塚へと寄ります。
正に向き直ると「草の蔭野の露消えて」と小さく塚を回り込み、横から塚に入ると正面に向いて「亡者の形は失せにけり」と枕扇から沈み込む形で下居し終曲となりました。

以前にも書きましたが、一般的な能の終曲と異なり、シテは法華経読誦によっても成仏することはなく、塚を覆う草の蔭に姿を消してしまいます。果たしてこれは菟名日少女の罪なのか、少女に救済が訪れないだけに、深い思いの残る一曲でした。

野村四郎さんは、ご存知の通り野村満さんや万作さんのご兄弟で、最近「狂言の家に生まれた能役者」という本を上梓されています。お若い頃から銕仙会の人気能楽師でもあり、私の学生時代も、女子学生達が四郎さんって素敵よねぇと憧れていたことを思い出します。
この曲では、いささかキーの高い謡が前場の少女にも似つかわしい雰囲気で、高齢となられた今もまた「花」をもって演じておられるのが感じられたところです。後場は細かく型なども記載してみましたが、この曲の持つ深い思いを表現しきった一番と思います。
(114分:当日の上演時間を記しておきます)
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張良 観世喜之(神遊第49回公演)

観世流 国立能楽堂 2015.03.22
 シテ 観世喜之、ツレ 川口晃平
  ワキ 森常太郎、アイ 高野和憲
   大鼓 柿原弘和、小鼓 観世新九郎
   太鼓 観世元伯、笛 一噌隆之

張良は9年近く前にブログで取り上げています。このブログを始めた最初の頃です。(鑑賞記初日月リンク
ワキ方の活躍する能としては、この張良や谷行、檀風などがありますが、いずれも上演の少ない部類の曲です。
その中ではこの張良は割合演じられる機会がある様子で、私も何度か観ています。今回はワキ森常太郎さんの披きということで、緊張感ある舞台でした。

まずは名宣笛でワキの出。「お幕」の声が聞こえ、一呼吸置いて笛の吹き出し。白大口に朱と緑の厚板に紺地の側次を着けたワキ張良が橋掛りを進み、正中に出て名乗りとなりました。
漢の高祖の臣下張良と名乗り、不思議な夢を見た話を語ります。以前の鑑賞記にも書きましたが、下邳(カヒ:ヒは機種依存文字)の土橋で馬に乗った老人と出会ったが、老人は左の沓を落として履かせよと言った。何者かと思ったものの、老人がただならぬ気配でもあり、また老いたる人を尊ぶのも大事なことと、沓を取って履かせた。老人は張良に御前は「誠の志ある」があるので、五日後に兵法の大事を伝えようと約束し、夢が覚めたという話です。

語り終えると道行の謡。型通りに謡いますが、この途中で幕が上がり、小格子厚板に水衣を羽織り、唐帽子を着けた老人姿の前シテが姿を現して幕前に立ちます。
ワキが、土橋に着いたと道行を謡い終えると、シテが声をかけます。このところ、シテの喜之さん、お声がかすれがちになってきましたが、にもかかわらず不思議に良く通ります。張良を遅いと叱責すると、ワキはワキ座で片膝を突いて下居。シテは、先刻よりやって来て暁の鐘を数えて待っていたのだが、はや時も過ぎてしまった、と謡い、地謡に。
地謡が「待つかいもなしはや帰れ」と一句謡うと歩み出し「五日に当たらんその日夜深く」あたりで一ノ松、ワキを見込んで立ちます。
「後れ給うな張良と」と左袖を上げ、小さく廻ってすたすたという感じで三ノ松。「かき消すように失せにけり」とヒラキのように両手広げて直し、中入となりました。
さてこのつづきはまた明日に
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張良のつづき

シテが幕に入るとワキが立ち「言語道断 以ての外の機嫌にて候はいかに」と語り始めます。老翁が怒って帰ってしまったことを訝りつつも、大事を伝えて兵法の師になりたいという自分の志の程を確かめるためか、と思い直す様を謡い地謡に。

地謡が受けて「思う心を見ん為と」と謡い出すと、ワキは歩み出します。一般の曲であればシテ、ワキともに中入りするならば、シテに続いてワキも幕に入ってしまうのが普通ですが、この曲はまさにワキが活躍する能で、シテとワキの中入を切り離し、さらに、単に幕に入るだけではなく、ワキも地謡に合わせて型を見せて入る形です。
歩み出したワキはススッと常座まで進むと「またこそ此処に来らめと」と向き直り、扇持つ右手からワキ座にツメて型を決め、あらためて常座に戻ると早鼓で幕に入りました。

代わってアイ張良の身内に仕える者が登場してきます。唐官人出立で常座まで出ると、張良自身と、張良の見た夢の話を語り始めます。
この間語り、良く聞くと妙でして、まず自分は漢の高祖の臣下張良の身内に仕えると名乗りますが、張良が漢の高祖劉邦に仕えるのは、この老翁とのやり取りで兵法の大事を伝えられて暫く後のことで、下邳(カヒ:ヒは機種依存文字)に潜んでいたときはまだ劉邦とは面識がありません。
まあ、この辺りは能にはよくあることで、前漢建国の立役者であった張良・・・と説明した方が、物語が分かりやすいという事なのでしょう。
さてその張良は、秦の始皇帝が六国を亡ぼし天下を平らげたため、流浪の身となっていたが、ある日不思議な夢を見た・・・という訳です。
夢の中で、下邳の土橋で馬に乗った老人と出会ったところ、沓を落として履かせよと言われた。言語道断と思ったものの、心を静めて沓を取って履かせた。老人は五日の後に兵法の大事を伝えようと言ったところで夢が覚めた。
さてその五日目、張良が実際に土橋にやって来てみると、既に老人が来ており怒って帰ってしまった。さらに五日後に来るようにと言い残したので、再度、土橋に行くことにしたのだが、今日は四日目になった・・・と語ります。

時刻も移り「いや、かように申すうちに早」と一足引いて、館の様子を見る態となり、シテ柱の方を向くと、既に張良が出かけたと聞いた様子になります。
正面に向き直ると、張良は一人で出かけたので、お帰りを皆で迎えるようにと触れて退場します。
さてこのつづきはまた明日に
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張良さらにつづき

アイが幕に入ると後見が一畳台を持ち出し、大小前に据えて下がります。
一声の囃子で後ワキの出。朱地の厚板に緑地の半切、唐冠を着けて登場し、一ノ松で開キ、半身のまま謡い出します。直すと「物凄まじき山路かな」と右足を出し幕方に半身で向く形で謡い地謡に。

逆に左足を前にして正先を見る形となり、直して「月も隈なき深更に」とシテ柱辺りまで一度進み出、退って二ノ松から再び歩み出すと「渡せる橋に置く霜の」と正中まで出て下を指して「まだ 渡りし人の跡もなし」と見回し、下がって台に右足を乗せ「嬉しや今ははや 思う願いも満つ潮の」とユウケンします。扇を閉じて立ち、ゆっくりとワキ座に向かいますが「夜馬に鞭うつ人影の」と幕方を見て立ち、後シテの出を待つ形になります。

大癋(おおべし)の囃子で後シテの出。厚板、半切に金の袷狩衣を着け、悪尉の面に唐帽子、右手に唐団扇を持って一ノ松まで出て謡い出しです。
シテは「そもそもこれは 黄石公という老人なり」と謡います。ワキはワキ座に着座し、シテは開キ。続けて「ここに漢の高祖の臣下張良という者」と語り出し「義を全うして心猛く」とイロ。「賢才人に超え」から大ノリとなり、地謡との掛け合い。

シテは「天道に通じて忽ちに」で唐団扇で小さくサシ込み開キ、「大事を伝えて高祖に仕え」とやや右を向いて左袖返し、サシ回しして橋掛りを小さく一回り廻ると「汝に伝えんと 駒を速めて」で橋掛りを歩み出して舞台に入り、常座から「張良遙かに見奉れば」とワキを見込みます。
さらに両手を広げ直しつつ「眼の光も辺りを払い」と台上に上がり、ワキが立ち上がる一方でシテは床几に腰を下ろします。「橋もとに畏まり」とワキがワキ座に下がって両手を突くと、シテはワキを見込んで「いかに張良 いしくも早く来たるものかな」と声をかけます。

「その時張良立ち上がり」と謡いつつ、ワキは立ちあがって「衣冠正しくひきつくろい」と両袖を見、ゆっくりと正先へ進みます。
シテは「あっぱれ器量の人体かなと 思いながらも今一度 心を見んと石公は」と謡い、再度張良を試すことにしますが、さてこのつづきはまた明日に
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張良もう一日のつづき

ワキはシテの謡のうちに、正先から階を過ぎ、角、常座へと進んで一畳台の脇に立つ形になります。
地謡が「履いたる沓を馬上より」と謡い、後見が後ろから出てシテの横、笛座側に控えて沓を持ち構えます。「遙かの川に 落とし給えば」の謡に合わせ、シテがとんと一つ足拍子を踏んだのを合図に、後見は沓を正先へと投げ、ワキがこれを取ろうと進み出ます。
流レ足で常座側へ、さらに正先から笛座前、戻って正先からワキ座あたりへと、川に流れる沓を追う形で所作を見せますが「取るべき様こそなかりけれ」と、ワキ座に立ち、続くノリ地「不思議や川波立ち返り」で幕方を見込みます。

ここで早笛、ツレ龍神の出。朱地の法被半切、赤頭に龍戴を頂き肩脱ぎの形で登場して舞台へ。「流るゝ沓をおっ取り上げて」と沓を取り、常座から小廻りしてワキを向くと足拍子踏んで働。
舞台を颯爽と廻って舞上げるとワキの謡。
「張良騒がず剣を抜き持ち」と謡って剣を取り、続く地謡で剣を抜きます。

この後見が沓を投げ入れてからの展開は、ハプニングが起きやすいところで、後見の投げた沓が舞台から落ちてしまったり、というのも見ています。今回は後見、喜正さんの投げた沓は見事正先の良い場所に落ち、その後のワキ常太郎さんの流れ足もキレイだったのですが、思いもかけないところでハプニング。

しかし常太郎さんはまったく動ぜず、まさに「張良騒がず」のままに剣を抜き持ち、ツレ龍神が「持つたる沓を 差し出せば」と正中から寄って沓を渡すと、これを受け取り台上のシテの横に寄ります。
「石公に履かせ奉れば」と、靴を履かせた態でワキがワキ座にさがるとシテ謡。
「石公馬より静かに下り立ち」とシテは立って台を下りワキを向きます。ワキは立ち上がると「一巻を取り出し張良に与え」の謡に、シテに寄って膝をつき、シテの差し出す巻物を受けとるとワキ座へ下がって広げ「悉く拝見し」と読む形になります。

「又かの大蛇は観音の再誕」の謡にツレ龍神は立ち上がり正先で開キ。常座から橋掛りに進んで幕に走り込み、ワキがワキ座に戻ると「石公遥かの高山に登り」と、シテはゆっくり常座から橋掛りへと進んで一ノ松。高砂同様に両手を合わせて広げ「金色の光を虚空に放し」て橋掛りを進み、幕前で両手を上げて袖を巻き、直して留となりました。

披きの常太郎さんが、ハプニングをものともせずに見事に舞台を勤めたのが光りましたが、この曲のシテもなかなかに難しいところとあらためて感じました。老練の喜之さんならではの舞台だったかと、しみじみ思い返しています。
(60分:当日の上演時間を記しておきます)
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ワキ方の独吟、一調、仕舞、そして狂言などなど

この日の番組では「ワキ方の活躍」にスポットを当てようということで、能のほか独吟をはじめ珍しい番組が組まれていました。

独吟は宝生欣哉さんで藤戸。語の部分で「さても去年三月二十五日の夜に入りて 浦の男を独りかたらい」から「又は妻子をも世に立ふずるぞ 今は恨みを晴れ候へ」までを謡います。たしかにここはワキの聞かせ処ですね。ところであらためて聞いてみると三月も二十五日、月の末では月も細く明け方近くになってようやく姿を見せるのでしょうから、夜の間は暗く、人目を忍んで偵察するには良かったのでしょう。

一調「船弁慶」は福王和幸さんの謡に観世元伯さんの太鼓。どこを謡われるのかと思っていたのですが、「悪逆無道のその積り 神明仏陀の冥感に背き」から謡い出し、終曲の「跡白波とぞ なりにける」まで謡いきりました。素謡などシテ方がワキのところも謡っている訳で、別に変ではないのですが、ワキ方の謡で「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤・・・」と聞くのは、本当に珍しい経験です。

さらに雲雀山の仕舞。一体どこをどう舞われるのかと興味津々だったのですが、最後の部分、親子の再会の場面で、シテの謡の最後の一句「枝折を道にあしびきの」と宝生閑さんが謡い、「山ふところの空木に」から地謡。シテの舞を舞う形ですが、見たことのないような型もあり、不思議な印象です。また、あらためて地謡を聞いていると、たしかにこれは下掛の謡で、通常、ワキの道行などで聞いているよりも、より鮮明に下掛らしさを感じたところです。宝生閑さんの仕舞というのも、本当に初めて拝見しました。

狂言は萬斎さんと石田さんで寝音曲。これはもう文句なく面白い一番でした。
寝音曲はこれまでも何度かブログで取り上げていて、和泉流では野村萬さんと万作さん、大藏流では善竹十郎さんと茂山あきらさんの上演について触れています。
萬さん(鑑賞記初日月リンク)、万作さん(鑑賞記初日月リンク)、十郎さん(鑑賞記初日月リンク)、あきらさん(鑑賞記初日月リンク
曲の内容などは、萬さん、万作さんのときの記載と基本的に同じですのでご参照下さい。寝て謡う小謡も「きこし きこし 小原木召され候へ」と、お二人の時と同じです。しかしシテ、アドが違うと、それぞれに雰囲気の違いが出、これがなかなか面白い。うまく表現できませんが、楽しい一番でした。なお今回の寝音曲の上演時間は26分でした。
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谷行 観世喜正(神遊第49回公演)

観世流 国立能楽堂 2015.03.22
 シテ 観世喜正 梅若玄祥、子方 馬野訓聡
  ワキ 森常好
  ワキツレ 殿田謙吉 舘田善博 野口琢弘
       梅村昌功 野口能弘 則久英志
  アイ 深田博治
   大鼓 柿原弘和、小鼓 観世新九郎
   太鼓 観世元伯、笛 一噌隆之

谷行(たにこう)、これまた上演の少ない曲で滅多に見られません。私も初見ですが、そもそもシテ方が主体となって興行を打つ今の形では、こうしたワキが主体となる、しかもワキ方が大勢出演する必要のある曲は、上演の選択から外れがちなのでしょう。
「ワキの活躍する能もあるのだ」ということを広く知らせたい、まさに今回の神遊のような主催者の意図がなければ、なかなか上演されないのだと思います。

舞台の様子に入る前に少しばかり「谷行」について書いておこうと思います。
まずは、そもそも「谷行(たにこう)」とは何か・・・という話ですが、修験道で山に入った際に、病を得て動けなくなった者を谷に突き落とす、あるいはいわゆる石子詰めにすることをいうようです。峯入りの最中に病を得るというのは、穢れてしまったと、まあそういう理解なのかも知れません。ともかくもそれをテーマにした能ですが、能で重んじられる典拠・・・になるような典籍は見つかっていないようで、実話が元になっているのかも知れない、ともいわれます。作者は不詳ですが金春禅竹との説も見受けます。

さてこの曲、シテは前場で幼い修行者松若の母として登場します。後場では伎楽鬼神となり、松若を蘇生させる役割を果たすというのが基本です。ただし宝生流では前場の松若の母をツレとしていて、後場の伎楽鬼神とは別の役者が演じるようです。
後場になると、観世流以外の四流では役行者が重要な役として登場し、伎楽鬼神を呼び出します。伎楽鬼神には台詞、謡がなく所作だけですが、役行者は山伏一行の願いを叶え伎楽鬼神を呼び出す重要な役回りでもあり、この二役をどう捉えるのか、案外難しいところでしょう。そんなこともあってか、観世流ではバッサリと役行者を省いてしまったのかも知れません。
しかしながら、やはり役行者を出した方が舞台としては良い・・・ということでしょう、観世流でも役行者を出す演出が取られるようで、今回も後場では梅若玄祥さんが両シテの扱いで役行者を勤められました。
確かにこの役行者、重い役どころでもあり、金春流の古い本に「後シテ役行者」と記されているのを見ております。現行本は確認しておりませんが、この扱いも納得いくところです。
さて舞台の様子は明日からに
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谷行のつづき

まずは出し置きで、前シテ、子方、アイが登場してきます。
前シテ松若の母は無紅唐織着流し、子方は縫箔に稚児袴、アイが長上下で続きます。前シテは地ノ頭あたり、子方が笛座前に着座しワキの出を待ちます。

再度幕が上がってワキ帥の阿闍梨(そつのあじゃり)の出、白大口に厚板、鼠色の水衣で沙門帽子を着けた形で一ノ松まで進み、名乗りとなります。
東山今熊野に住まいする客僧と名乗り、松若という幼い弟子がいるが、既に父は亡く母のみのため日頃は里に置いている。明日は峯入りなので、松若に暇乞いしようと思う旨を述べてシテ柱手前まで進みます。

舞台に向かって案内を乞うと、子方が立ち上がり、大小前に立って問答となります。
どうして寺に来ないのかとのワキの問いに、子方は母親が風邪をひいており寺には参上しなかった旨を答えます。「風の心地」とあるので、辞書上の意味としては風邪気味ないし風邪をひいた感じということになりますが、古来、悪い気にあたったため罹る神経系統の病気全般を風病と言っていたようで、風邪、感冒はもちろん、中風というように、脳神経の病気まで含まれるようです。「土蜘蛛」にも、頼光が風の心地で休んでいる場面が出てきますが、ちょっと調子が悪い程度から、寝込むほどまで、かなり範囲の広い表現の様子です。

ワキから、暇乞いに来たので母にその由を伝えるように言われた子方は、シテ前に下居してワキの到来を告げ、シテの許しを得て立ち上がると大小前からワキに声をかけます。
ワキは舞台に進み正中少し手前の辺りに下居、子方が笛座前に下がって、シテ、ワキの問答になります。

風邪の様子を問うワキに、大事ないと答えたシテは、峯入りに松若を伴うのかと尋ねます。ワキは難行捨身の峯入りには幼い松若を連れていけない旨を述べ、暇乞いして立ち上がり常座へと向かいます。
ワキと同時に立ち上がった子方が、歩みつつあるワキに声をかけ向き合う形で問答になりますが、このつづきはまた明日に
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谷行さらにつづき

松若は峯入りにお供したいと申し出ますが、ワキは難行でもあり母の具合も悪いのだからと申し出を断ります。しかし子方は母が病気だからこそ平癒祈願に参じたいのだと言い、ワキも承服して母に話そうと、子方を先にして向きを換え、子方が笛座前に着座、ワキは再び正中に下居してシテに向き合います。

ワキが松若の申し出を語り、シテ母は思いとどまるように言いますが、子方が母の現世を祈るために難行の道に出たいのだと述べて、地謡の下歌。
師匠も母も諸共に孝行の深さに涙したとの謡に、シテ、ワキともに片シオリの形です。

中入前のロンギ、「つゞりの袖も切るべきに」の謡でワキが立ち上がり、子方の後ろに立つと子方を立ち上がらせて、地謡を聞きつつ橋掛りへと進みます。
「見てや止みなん葛城や」でシテが立ち上がり見送る風。ワキ、子方は一ノ松で一度立ち止まり「親の思い子の名残惜しさを如何せん」とシテとワキ、子方が向き合うとシテのシオリ。
繰り返す「名残惜しさを如何せん」の謡で子方が中入、ワキも子方を送り込んで幕に入ります。あらためてシテも立ち上がって幕に入るとアイが常座に進み出て立ちシャベリとなります。

間語りは前場を繰り返す形で、阿闍梨が松若の様子見を兼ねて峯入りの挨拶にやって来たこと、母の病を聞いて阿闍梨は母に見舞いを述べ峯入りの暇乞いをしたこと、松若が峯入りに同行したいと申し出たため阿闍梨は一度断ったが、母の回復を祈ってのことと聞いて許したことなどを語ります。
その上で、幼い松若が難行に向かう母の心中を察し、この辺りの人に松若が戻ってきた際は皆で出迎えされるように、と触れて退場します。

アイが下がると後見が一畳台を持ち出してきてワキ正に据えます。脇正面側に沿う形、正面から見ると短い辺が手前に見える向きに据えます。一畳台の四隅にある穴の内、手前右側と奥の左側、階に近いところとシテ柱に近いところに、枝葉の着いた立木が立ててあります。毛氈が緑で、深山の森を示すようです。
後場となりますが、このつづきはまた明日に
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谷行さらにさらにつづき

後場、アシライで子方を先頭にワキの一行が登場してきます。
一同、峯入りする山伏の態ということで、子方も厚板、白大口に水衣、篠懸をかけ兜巾を着けての登場。ワキは前場と同装ですが沙門帽子を兜巾に換え篠懸をかけています。ワキツレのうち小先達は小格子厚板、同山は無地熨斗目ですが、一同ともに白大口、水衣に篠懸、兜巾の山伏姿です。

舞台中央まで出て子方、ワキを先頭に二列に並ぶ形になります。ざっと書き留めたところでは、正面から見て右の列が子方を先頭に、小先達の殿田さん、同山の野口琢弘さん、同じく野口能弘さん。左の列がワキ森常好さんを先頭に、相談役山伏の舘田さん、同山梅村さん、同じく則久さんという配置。
ワキが「かくて松若思いのほか 峯入りの姿山伏の」と謡い、一同が「兜巾篠懸」、ワキが「苔の衣」と謡って、一同による上歌。向き合って「今日思い立つ道の辺の」と謡い出します。

上歌は道行の形で、都を出て瓶原、泉川と過ぎ、三笠の山から布留を越え、三輪山を見つつ葛城にやって来たことが謡われます。
ワキはやや位置を換えて正面を向き、葛城一の室に着いたと着きゼリフ。さらに斜めにとって元の位置に戻り一同に向いて、今夜は此処に逗留すると告げます。小先達が「尤もにて候」と受け、ワキが声をかけて一同はワキ座から正面にかけて並んで着座します。ワキが手前ワキ座あたり、小先達から三人が地謡前に並び子方が笛座前あたり。残る三人が大小前に並びます。

子方がワキに寄り「いかに申すべき事の候」と声をかけます。子方は道々風の心地がすると訴えますが、ワキはその様なことは言わぬものと遮り、馴れぬ旅で疲れが出ただけだろうと言って、子方を休ませる形になります。子方は一度後ろを向き、後見が子方の篠懸と兜巾、水衣を外してモギドウの形になると、脇正面を向いて座したワキの膝に子方が頭をつけ、水衣を懸けて横になります。
峯入りの後に病に伏せば谷行にしなければならないことを踏まえてのワキの処置ということですが、この辺りの事情が追々明らかになってきます。
さてこのつづきはまた明日に
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谷行またつづき

ワキが子方を休ませると小先達が立ち上がり、常座から正中に出て下居しワキに松若の様子を尋ねます。しかしワキは旅の疲れで心配ないと答え、それは良かったと小先達は下がりますが、一度立って常座から山伏達に呼び掛けます。

相談役山伏が立ち上がり小先達に向かいます。小先達は松若の様子を阿闍梨に尋ねたところ、旅の疲れで心配ないと言われたが、今は存命不定の様子と見えたと告げ、どうしたものかと相談します。これを受けて相談役山伏は大法の如く谷行にすべきと答えます。
小先達はこれを聞き、先達阿闍梨に申し上げようと言って正中へ出、下居してワキに谷行にするべきと皆が言っている旨を告げます。
観世流の本では小先達とワキのやり取りで、小先達が安心したと答えた後、小先達が他の山伏に相談する部分が欠けており、いきなり相談役山伏が谷行にすべきと言う形になっています。本だけで読んでいると分かりにくい部分だったのですが、小先達の台詞が一つ入ると流れが整理されます。

さて小先達の谷行にすべきとの意見を聞き、ワキは松若に言い聞かそうと言います。この部分は逆に観世の本の方が詳しく、不憫で言い出せなかった事情が述べられるのですが、そうした事情を感じさせるような、沈痛な雰囲気の漂う森さんの謡。続いて子方に向けて諭す形で、峯入りして病気になったものは谷行にするのが昔からの大法であることを告げ、自分が代われるものならば命も惜しくないものを、進退窮まったと苦しみを籠めて謡います。

子方は、この道に出て命を失うのはむしろ望むところだが、母の嘆きを思うと悲しく、また皆との名残が惜しいと謡います。これを受けて地謡が「何と言いやる方もなく 皆声を上げ涙に咽ぶ心ぞ哀れなる」と謡い、一同はシオリます。

気を変えて小先達以下が谷行を行う旨を謡い、ワキとの掛け合い。ワキはなんとも出来ない思いを謡い「目もあやなくなく」と謡ってモロシオリ。地謡が受け「ともかくも ならばやと思うさえ」とワキは両手打合せ「かなわぬ事ぞ悲しき」と子方を見込みます。
再び面を上げますが「死別ならば かほどの歎きよもあらじ」と子方を見やる形になります。
さてこのつづきはまた明日に
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