能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

政頼 野村萬斎(横浜能楽堂企画公演)

和泉流 横浜能楽堂 2016.02.11
 シテ 野村萬斎
  アド 石田幸雄
  立衆(鬼) 中村修一 内藤連 飯田豪 竹山悠樹 月崎晴夫
  立衆(犬) 金澤桂舟
   大鼓 原岡一之、小鼓 成田達志
   太鼓 林雄一郎、笛 一噌隆之

セイライと読みます。「朝比奈」や「博奕十王」など「鬼狂言」と分類される一群の曲があり、特にこの政頼を含めて閻魔大王の登場する曲は能がかりの演出で独特の構成になっています。今回の政頼は、アド閻魔大王のほかに、立衆の鬼が五人も登場する大がかりな一曲でした。
なお今回は大曲でもあり、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある「和泉流狂言大成」(大正七年山脇和泉著)を参考に鑑賞しましたが、詞章に若干の相違があるようです。

まずは切戸口から囃子方が登場し座に着きます。大曲のためか上下姿。
後見が一畳台を持ち出してきてワキ座に据えて、切戸口から退場すると囃子。次第が奏されてアド、立衆の出です。
狂言の次第は、冒頭に笛が「ヒッ」と短く吹き、大小で奏されますが、能の次第に比べると簡単な構成で、大小もあまり力を入れずに軽く奏しているような雰囲気です。

立衆一人が先導に立ち、アドの閻魔大王、立衆四人が後に続きます。
閻魔大王は武悪の面を着け、赤頭。「狂言大成」には厚板に法被、半切とあるのですが、見たところ紺地に金文様の袷狩衣を衣紋付けにし、朱地の半切のようでした。大王の冠を着け、手には笏を持っています。
立衆五人も武悪面に赤頭、「狂言大成」には鬼頭巾とあるのですが、頭巾の形ではなかったように記憶しています(若干あやしいですが…)。いずれも厚板に括り袴で、先頭の一人と閻魔大王に続く一人は大きな五角の板を棒の先に付けた物を立てて持ち、残る三人は熊手、鉞、刺股を持っています。
舞台に進んで次第の謡になりますが、さてこのつづきはまた明日に
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政頼のつづき

一同は舞台に出ると次第を謡います。「地獄の主 閻魔王 羅齋(らさい:和泉流狂言大成では囉の字を用いていますが)にいざや出うよ」
謡につづいてアドが閻魔大王と名乗り、人間が禅宗だ、浄土宗だといって極楽に行ってしまうので、地獄は飢饉だと言い、自ら獄卒を連れて六道の辻に出て罪人どもを責め落とし、取って服しようと思う旨を述べます。

続いて道行「住み慣れし地獄の里を立ち出でて 地獄の里を立ち出でて 足に任せて行く程に 六道の辻に着きにけり」と謡って、一同は舞台を回り、六道の辻についたと着きゼリフ。アドが立衆に、罪人が来たら精を出して責め落とせと命じ、ワキ座前の台上に上り床几にかかります。
立衆のうち五角の板を持った二人は、台の手前側に右が金、左には黒の板が付いた棒を立てて、鋸と十字槍に持ち替え、他の三名とともに台から大小前にかけて並んで座します。

ここで再び次第の囃子が奏され、シテ政頼の出となります。
たびたび触れています「和泉流狂言大成」には、白小袖、大口、白水衣、白鉢巻とあるのですが、この日の萬斎さんの出立は、白地に黒で大きな丸紋をつけた括り袴、脚絆も白。上は掛け素袍のような形でしたが、士烏帽子を着けて、右手に笞、左手にはなんと作り物の鷹を、まるで鷹がとまっているように載せての登場です。

一ノ松まで進むと、斜め後ろを向いて次第。「罪を作らぬ罪人を 誰かは寄ってせこうよ」と謡い正面に直すと、娑婆に隠れもない政頼と申す鷹匠…と名乗ります。
唯今、冥途に赴くところと述べて道行。「住み馴れし娑婆の名残を振り捨てて」と謡い出し「足に任せて行くほどに」と繰り返しますが、この二度目の「行く程に」で、橋掛り欄干まで出て戻り道行の形。後ろを向いたところで謡い納め、続いて「これは道あまたある」と言いつつ舞台へ進みます。

シテが舞台に入ると、立衆鬼のうち二人が立ち上がり、人臭くなったと騒ぎ出します。
さてこのつづきはまた明日に
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政頼さらにつづき

鬼達は、人臭いので罪人が来たのだろうと言い、急いで責め落とそうと言い合うと「如何に罪人」「急げとこそ」とイロ、責メ。
責メというのは鬼狂言で、地獄の鬼が罪人を地獄に追い落とそうとする働キ事のことで、本曲では二度演じられます。

シテは最初は動きませんが、ややあって鬼達と入れ替わりシテは舞台に入ります。さらに橋掛りへと戻ると「急げ 急げ」「こっちじゃ こっちじゃ」と責め立てる鬼に挟まれて、シテは一ノ松と二ノ松の間で下居「なうなう左様に責めらるるものではござらぬ。極楽へやって下され」と声を上げます。

これからシテと鬼二人の問答。
鬼はシテが手に載せた鳥に目を付けます。問われたシテは、鷹であると答え、自分は娑婆に隠れもない政頼という鷹匠と名乗ります。

鬼達はシテを殺生を家業とする罪人だと責めますが、シテはこれに対して、鷹に鳥を捕らせそれを鷹の餌にしているのだから科にはなるまいと反論。しかし鬼は、鷹が捕ろうとも言わぬのに無理に獲物を捕らせ、鷹には食わせず自分で食ってしまうのだろうと言い、ともかくも罪の軽重は大王の御前で裁くので、御前へ引っ立てようと二度目の責メになります。

「如何に罪人」「急げとこそ」と声を上げて囃子。「如何に罪人」と「急げとこそ」の間に、二人は何か声を上げていまして「地獄遠からず 極楽遥かなり」のように聞いたのですが・・・

ともかくも鬼二人が足拍子を踏み、シテも立って、シテが先に舞台に入ります。
鬼は持っていた鋸に馬のように跨がった形になり、シテを追い立てます。一度橋掛りに戻ったシテを二人で追い立てて舞台に進め、アド閻魔大王の前にシテが出て下居、鬼二人も着座して、大王が声をかけます。
さてこのつづきはまた明日に
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政頼さらにさらにつづき

大王はシテに何者だと声をかけます。
鬼に促されて、シテは政頼という鷹匠と名乗ります。ここでアド閻魔大王とシテ政頼の間で、再び、鷹匠は殺生を第一とする罪人だ、いや科にはなるまいという問答。シテが捕った鳥は鷹に食わせて「餌がら」というものを人間が料理して食べるのだという説明に、大王は「下郎の業だ」と言います。
しかし政頼は、鷹狩りは下々のものではなく古来帝王の御遊覧より起こったことだと言い、これを聞いた大王が鷹の子細、鷹野の起こりを語るように求めます。

政頼の語りになり、鷹にまつわる話から鷹狩りについて、仕方を交えつつ語ります。
まずは鷹の吉相として、目が明星のようであるとか、はし爪が三日月のようであるなどと言い、羽根、毛、尾、などなど吉相を数え上げます。
またその名は、摩加陀国では「しゅおう」、契丹国では「かんせん」、新羅国では「こてう」、百済国では「くり鳥」と言い、太唐では「はしゅ鳥」と数え上げ、そして日本では「鷹と名付く」と言いつつ笞持つ右手をあげて笞を倒します。
さらに我が朝にて、鷹狩りのはじめは人皇十七代仁徳天皇の四十二年、御狩に行幸あり鷹を放ち雉を捕らせたことにある。宮中公家大名小名、みな鷹狩りを第一の遊覧としており「なんぼう面白きことにては候はぬか」と言いつつ、シテは腰を浮かせて大王を指します。

「さてさて子細を聞いて肝を潰した」と大王は驚き、鷹を使って見せて欲しいとシテに求めます。
シテは、鳥がいればとって見せましょうと言い、大王はあそこの大山は死出の山といって麓には様々な鳥が沢山いると答えます。
するとシテは、犬はいないかと問います。犬をどうするのかと尋ねる大王に、シテは、犬を連れて来て草の間を通らせると鳥の居所を嗅ぎ出す。勢子といって大勢の草を打ち払う役人も必要だと言います。

これを聞いた大王は、勢子には鬼達をあてることにし、犬を引いてこさせる事にします。さてこのつづきはまた明日に
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政頼またつづき

鬼の一人が犬を連れて来ます。「さあさあ行け行け」と声をかけると「びょうびょうびょうびょう」と犬が鳴く形。狐、狸、犬と、狂言の役者さんはなかなか大変です。
シテが橋掛りまで見に行き、恐ろしげな犬でござると言うと、犬を連れて来た鬼は、人食いの犬でござるなどと答えます。

残った四人の鬼達は勢子ということで棒を持って立ち、大王が犬を使い、犬を連れて来た鬼も勢子に加わって、一同で声をかけながら舞台を廻ることになります。

シテ政頼が、良い場所を選んで鳥を追うようにと促し、先に立って犬を連れた大王が、おそらく「嗅げ 嗅げ」という意味と思いますが、声をかけると、鬼の一人が「ほーほー」と声を出し、残る鬼達が「ほーとり ほーとり」と声を合わせます。
一同は橋掛りへと進み、幕前まで行って戻ってくると、大王が一ノ松に立ち、鬼どもが橋掛りに並びます。

シテは幕前で「いでいで鷹を使はんと」と謡い出して囃子。
地謡が謡い出し「いでいで鷹をつかはんと。十王犬をやり給ひ。鬼は草を打ち払へば。死出の山の南の方よりおん鳥一羽飛び来たるを。政頼これを見るよりも。たばなしをしつつあはせければ中にて掛てぞ捕ったりける」と謡います。
謡のうちに大王と犬が出て犬は切戸へ。

シテは謡に合わせて、まるで狙いをすませて鷹を放つ間合いをはかるような態で、手に載せた鷹の羽根を開き、鷹を放したように袖で包んで鷹を隠します。まさに鷹が放たれたように見えるのは磨かれた技ですね。

シテはワキ正に進み、獲物をつかまえた様子で、後見から渡された羽根を抱え「餌がらを上げさせられい」と大王に獲物を差し上げるように、鬼に渡します。
さてこのつづき、もう一日明日に
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政頼またまたのつづき

鬼から獲物を受け取った大王、さっそく「むりむりむり」と餌がらを食べる様子。さてもさても美味いことだ、人を喰うより口当たりが良いなどと食べていますが、鬼達の視線を感じて「汝らも少しずつ食べへ」と餌がらを渡します。

渡された鬼達も順に「めり、めりめりめり・・・」、次の鬼は「がり、がりがりがり・・・」、続いて「ばり、ばりばりばり・・・」と食べていきますが、段々残り少なくなる様子に、「こちへおこせ」などと争いになります。最後の鬼は残りが小さくなってしまった様子で「こり、こりこり・・・」と音も小さく食べる様子になります。

さて大王は政頼に感謝し、珍しい事をして見せて命を延ばした、などと言います。閻魔が命を延ばしたというあたりも笑いを誘うところ。
大王は政頼に、なんでも望みを叶えてやろうと言います。
とは言え、極楽に行かせて欲しいなどと言わず、地獄にいて鷹狩りをし、大王を慰めるようにと続けます。

政頼は大事を申し残したので、一度娑婆に帰して欲しいと求め、それは難しいという大王に、娑婆には鶴や雁など良い鳥が沢山いるので、鷹を使って餌がらを大王に送りましょうといいます。

大王は、ならば三年に限って娑婆に戻してやろうと約束し、その三年の間には、近親者で病気になったり弓矢で死んだりする者もあろうから、その折には餌がらをこちらに送れと言い、シテが承って、大王の謡。大ノリで「如何にや如何に政頼よ」と謡います。

続いて地謡になり、大王は「三歳の間」と指折り数えて政頼を見込み、シテは両手突いて挨拶すると立ち上がって常座へ。大王も立ちあがってシテを追い「招き返して玉のかんざし石の帯を」の謡に、冠をとってシテに渡します。
シテ政頼は走り込むように幕前まで進み「再び娑婆にぞ帰りける」の謡に留拍子踏んで終曲。大王も常座で見送る形でした。
大曲でもあり、デジタルライブラリーのテキストを使いましたので、いささか詳しく舞台の様子を書き留めることができました。
それにつけても萬斎さんの狂言は実に面白い・・・
(45分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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重衡 味方玄(横浜能楽堂企画公演)

観世流 横浜能楽堂 2016.02.11
 シテ 味方玄
  ワキ 殿田謙吉
  アイ 高野和憲
   大鼓 亀井広忠、小鼓 成田達志
   笛 一噌隆之

この重衡(しげひら)という曲、廃曲の扱いになっているのですが、昭和58年に橋の会により復曲されて以来、浅見真州さんや銕之丞さんなど、観世の能楽師により繰り返し上演されている一曲。
各流の現行曲には入っていないため、当然ながら謡本は公刊されていないのですが、いつもお世話になっている半魚文庫さんには「笠卒都婆」の曲名で収録されています。作者不詳とされていますが、作風からみて元雅の作ではないかとの説が有力のようです。

まずは舞台の様子から。
政頼に続いて、本曲も囃子、地謡は上下姿です。
一同着座すると次第の囃子、ワキ僧の出となります。無地熨斗目に茶の絓水衣、角帽子というごくごく普通の僧侶姿での登場です。

型通り常座で斜め後ろを向き次第「春を心のしるべにて はるを心のしるべにて うからぬ旅に出でうよ」を謡います。地取りで正面向き、諸国一見の僧と名乗り、この度は都に上り寺社に参ったので、これから南都七堂に参ろうと思う旨を述べ、道行の謡です。

都を旅立ち、井手の里、瓶原、泉川と進み南都、奈良坂に着いたと謡います。
「けふ三日の原 泉川 河風霞む春の空」は、おそらくは古今集の「都出でて 今日瓶の原 泉川 かは風寒し 衣かせ山」をひいたのだろうと思いますが、都を出て三日目、ちょうど瓶原にいると、泉川の川風が身にしみるというところでしょうか。泉川は木津川の別名で、瓶原を流れています。

ともかくも南都奈良に着いたと着きゼリフ。「休らはばやと思ひ候」と言って、ワキはワキ座に向かい、着座します。
さてこのつづきはまた明日に
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重衡のつづき

ワキが着座すると次第の囃子、前シテの出。
小尉の面に尉髪、小格子厚板着流しに柿色の絓水衣、右手に杖を突きつつ登場し、一ノ松あたり、柱のところで一度正面を向き、斜め後ろに少し進んで次第の謡です。

実は味方玄さんのシテを拝見するのは初めてだったのですが、この次第の謡も味わい深く、一曲の期待が高まります。「苦しき老いの坂なれど 越ゆるや程なかるらん」と謡い、地取りで正向きサシ。
「花は雨の過ぐるによって紅正に老いたり。柳は風に欺かれて。緑漸く垂れり」と無常感漂う詞章をしみじみと歌います。「人間万事塞翁が馬」とやや体を上げ「何か法ならぬ」と杖を突きます。

上歌「老の鶯音もふりて」と続き、「春の日の影ともに。遅き歩を辿り来て」でやや右を向き少し出ると「来て」に合わせて杖を一突き。「通ひ馴れたる奈良坂や」と向きを変えて橋掛りを進み、シテ柱に到ったあたりでワキが立ちあがります。シテは「花の木陰に着きにけり」と常座に立ち、ワキが声をかけます。

ワキ僧は、初めてやって来たのだが、仏閣の有様に驚いていると言います。シテはこれに答えて、朝暮見慣れている自分たちにも「この奈良坂に上りて見れば」と中正面あたりを見廻す態で、目を驚かすばかりだと言い、初めてやって来たというワキに、仏閣を教えようと促し、名所教えになります。

ワキはワキ柱の方を向き、東に当たり大きなる御寺が見えるのは大仏殿かと問います。シテもワキに合わせてワキ座方を見、あれこそ三国無双の大伽藍 東大寺大仏と答えます。
続いてワキは幕方を見、西に当たりと塔婆の見える御寺は如何なる寺かと問いかけます。シテは右手の杖を突き、振り返るように見て、遍昭の歌に「浅緑糸よりかけて白露の 玉にもぬける春の柳」と西の大寺の柳を詠めるとある、その西大寺であると答えます。
名所教えは更に続きますが、このつづきはまた明日に
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重衡さらにつづき

ワキは「衣ほすなる佐保の川の 流につづき寺は如何に」と問いつつ、ワキ正を向き、少し左から正面に向き直ります。
シテは階の方を見つつ法華寺であると答えます。

中正面、目付柱の遠くのあたりを見つつ、ワキが南に見える寺は何かと問い、これにシテは正面を向き、法相流布の興福寺、山科寺とも言うと答えます。

さらにワキは右寄りのあたりを見つつ、その末に続いて見える寺は何かと問います。
シテはやや右を向き、春日の御綸旨の使いに下った在中将が建立した寺、不退寺であると答えます。
ワキはさらに右、ほぼワキ正の方向を見つつ「さてなほ遠く見えたるは」、シテ「今日も命は知らねども」と、シテ・ワキ向き合い地謡「飛鳥の寺の夜の鐘」と続きます。

地謡が「飛鳥の寺の夜の鐘」と繰り返すうちに、シテはゆっくりと出てワキ正の真ん中あたり。「音に聞きし鐘の音は」と杖に両手を添えてすがる型。左手に黒い数珠を持ち「奈良の都路も」とゆっくりと舞台を廻り始め、正中から「春に帰りて花ざかり」と常座に至り「八重桜木は面白や」と遠くを見、二句目の「八重桜木は面白や」で三、四足下がって、前に構えた杖にすがる形となります。

ワキが、暇申そうと言ってワキ座に向かおうとすると、シテが回向して欲しいと声をかけます。誰を志して回向すべきかと問うワキに、シテは「重衡と御回向候へ」と答えます。ワキが重衡は此所で果てられたのかと尋ね、これに答えてシテが重衡の最期を語る形。
重衡は一ノ谷で生け捕られ、関東に下ることになったが、南都の訴訟により木津川にて斬られたと言いつつ、中正面奥の方を向き、木津川を眺めやる様子。一門の栄華、栄え衰えること目の当たりの有様と、数珠持つ手を上げて片手で祈り、手を下ろします。

地謡が受けて、朝には紅顔、夕べには白骨となる無常を謡い、シテはワキを向くとそのまま正中まで出て下居、杖を置き数珠を右手にとります。「木津川の波と消えて あはれなる跡なれや」の謡に片シオリ。
ロンギの形で、シテが「その重衡の幽霊は」と謡い、地謡の「我が亡心の来たれりと」で腰を浮かせ、杖とって立ち上がると「三笠山はあれぞかし」の謡に左手を上げて山を指す心。「笠卒都婆の 花の蔭に隠れけり」と右から廻って杖を捨てて常座に、あらためて送り笛に送られつつ、ゆっくりと中入となりました。
さてこのつづきはまた明日に
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重衡さらにさらにつづき

シテが幕に入ると後見が杖を下げ、アイ奈良坂辺に住まいする者が進み出ます。久しく出かけなかったが八重桜が盛りなので、出かけて心を慰めようなどと言って出てワキに気付きます。型通りの問答の末に正中に座して、ワキの求め応じて重衡の最期を語ることになります。

重衡は入道相国清盛公の四男であるが度々の合戦に遣わされていた。治承四年、南都の大衆が蜂起し、これを鎮めるために重衡が大将軍として南都に攻め込んだ。
夜戦になり暗いので灯りを求めたが、松明の火が大仏殿に燃え移り、折からの風にあおられて多くの伽藍に火の粉が降りかかった。
後に一ノ谷の合戦で重衡が生け捕られた後、南都の大衆の求めにより、重衡は木津川のあたりで斬られることになった。
最期にあたって仏を拝みたいと重衡が言い、折から駆けつけた知時が木仏を探してきて重衡に向かわせた。重衡は十念を唱えつつ首を述べて斬らせたと聞いている・・・と概略、そのようなことを語ります。

この後は型通りの問答になり、さらなる弔いを勧めてアイが退場。ワキの待謡です。重衡の跡を逆縁ながら弔うとワキが謡って一声の囃子。後シテの出です。

シテは白地に金の波を描いた半切に長絹肩脱ぎ、立烏帽子に白鉢巻き、太刀を佩いて一ノ松に進み出ます。
「あら閻浮恋しや」と謡って左袖を巻き、直して一セイ「奈良坂の この手に執るや梓弓」と謡い、地謡と掛け合い。「八十氏人の数々に」の謡に面を切り見廻し、ヒラキ。
「心の雲も晴れゆく月の」と左袖巻いて廻り「夜声の御法の有難さよ」とサシて舞台に進み常座でワキに向き合掌します。

シテ、ワキの問答となりますが、このつづきはまた明日に
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重衡またつづき

ワキは現れ出でたシテを見て、甲冑姿で現れたのは如何なる人かと謡います。
シテが重衡の幽霊と明かし、逆縁ながら弔いの読経にひかれて現れ出でたと謡うと、ワキはそれならば身の罪証の様を語るようにと求めます。
これを受けてシテは「忘れて年を経しものを」と謡いつつ正中に進み、床几にかかって地謡を聞きます。

地謡から、シテはあらためて「さても重衡は」と謡い出し自らの最期の様を謡います。
一ノ谷で生け捕られ、京鎌倉に渡されたところが、南都の訴訟によって木津川にて斬られることになった。そこに近藤左衛門の尉知時という者が、貴賤の人々立ち囲む中を掻き分けて来たり、重衡に声をかけた。重衡は、最期の際に仏一体拝みたいと願ったところ
「安き間の事とて」で扇広げ「あたりに有りし木仏を一体迎へ」で扇を両手で持って立ち上がると下居して、「河原の砂にすゑ置き」と扇を置きます。

「知時が着たりける直垂の袖のくくりを解き」と謡いつつ左の袖を手繰り「仏の御手にかけ」と袖を見る形。「中将に控へさせ奉り」まで謡って地謡。
「重衡望み足りぬれば 合掌し弥陀仏に向ひて」の詞章に合わせて合掌し「懇ろに申させ給ひけるは」に続けてクセ「伝え聞く調達が」の謡となります。

シテは暫く地謡を聞く感じ。「却って得脱の」でゆっくりワキの方を向き「今重衡が逆罪を犯す事」と正に直して扇を取り上げて閉じます。
「只三宝の 教戒を受くる心なり」で下居のまま両手を突くと「一念弥陀仏 即滅無量罪と聞く時は」で扇広げて構えて立ち上がり「只今唱ふる声の内 涼しき道に入る月の」とサシて右に回り正中から「光は西の空に」とシテ柱に向けて雲扇。「到れども魄霊は なほ木の下に残り居て」と招き扇から大小前に進んでサシ込み、「ここぞ閻浮の奈良坂に」と左に回り「帰り来にけり三笠の森の」でワキ正から常座へ進んで左の袖を被くと「花の台はこれなりや」と拍子を踏み、「重衡が妄執を助け給へや」とワキに向かって合掌します。

シテの謡「あら恨めしや たまたま閻浮の夜遊に帰り 心を澄ます所に また瞋恚の怒るぞや」謡いつつ二、三足出てサシ込み開キ、カケリとなります。
さてこのつづきはもう一日明日に
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重衡またまたのつづき

カケリのうちに橋掛りに入り、二ノ松で舞上げ「あれご覧ぜよ旅人よ」と左手を上げます。
ワキは東方よりの灯火がたくさん見えると言いつつ下がると、あれは何の灯火かと問いかけます。
シテは春日の野守の飛火と答え、古の春日野の飛ぶ火の言われを謡い「松明の火の働くが飛ぶやうなればとて」と一ノ松あたりまでツツっと進みます。
「また修羅道の折を得て」で舞台に入ると「あの春日野にともすぞや」と開イて胸サシ「あれ追っ払へ春日野の」と開キつつ謡って地謡に。

「野守は無きか出でて見よ」と聞いて足拍子を左右踏んで扇を広げ、角へ向かうと角トリ。左へ回って「燃え焦るる瞋恚の焔」で大小前へ「焼狩と見えつるは」と小廻りして出て、招キ扇しながら「武蔵野を焼きし飛火のかげ」と謡って目付に進み、地謡「野守の水を照らししは」で扇カザシて下見て立つ形。

「鏡にうつる胸の焔」と胸を押さえ、扇を後ろに跳ばして太刀を抜くと、地謡の「すは一刀の剣の光」に正へ打って出て「差し違え」と太刀を差す形。
大小前から面切りつつ出て、両手で「春日野の草薙や」と太刀を捧げると角に出ます。
「山河を動かす修羅道の」の謡に橋掛りに入り、繰り返す謡に小さく回ると、一ノ松で太刀を捨て「瞋恚を助けてたび給へ」と合掌し、繰り返す謡に合掌を解いて左袖を巻き、詰めて終曲となりました。

おそらくは五百年近く、上演されないままに番外扱いになっていたらしいこの曲ですが、実に味わい深い能でした。復曲以来、度々上演されているのが納得できる一番ですが、最後の部分では、記載した通り「瞋恚を助けてたび給へ」と繰り返し、読経により一時安らぎを得たものの、救われないままに再び修羅道に落ちて行くという、修羅物としては珍しい形になっています。このあたりが長く上演されなかった理由でしょうし、今観ると深い味わいを感じさせるところでもありましょう。

それにつけても、当代の人気役者の一人でもある味方玄(しずか)さん、シテとして演じられるのは初めて拝見しましたが、実に深い演技でした。機会あれば是非また拝見したいと思っています。
(99分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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重衡と横浜能楽堂

さて観能記は昨日までで終えましたが、もう少し「重衡」という能と、併せて今回初めてお邪魔した横浜能楽堂について、記載しておこうかと思います。

まずは重衡ですが、間語りのところで清盛の四男と記しました。間語りの部分はテキストがなく聞き書きですので聞き間違いもあり得ますが、「ん」の音が聞こえたように感じました。平家物語でも清盛の子は、嫡男重盛、次男宗盛、三男知盛、そして四男重衡と書かれています。
しかし史実では重盛と宗盛の間に、清盛が太政大臣となる5年ほど前に24歳で亡くなった基盛がいて、重衡は五男になります。
保元物語には活躍の様が華々しく描かれ、尊卑分脈などにも記されている基盛が、どうして平家物語では存在そのものが記されていないのか、これには諸説あるようです。しかし、少なくとも物語としては、長男重盛と二男宗盛の対比の形で描かれることで、平家の凋落の原因が際立ち面白味を増していると思います。

重衡の鎌倉護送は能「千手」で取り上げられていますが、一ノ谷の合戦で捕えられた重衡は鎌倉に送られ頼朝と引見します。この際、頼朝が重衡の人物をみて厚遇し、政子の侍女千手の前が重衡を慰めるため遣わされて、重衡を思慕するようになったとされます。
しかし南都宗徒の強い要求によって、重衡は南都に引き渡され木津川あたりで斬首されます。遺骸は妻の輔子が引き取って葬ったとされいますが、その墓が奈良坂の暮群の一角にあった笠塔婆であると信じられていて、後にこの笠塔婆は南都焼き討ちによって伽藍が焼失した因縁のある般若寺に移されて重要文化財となっています。

南都焼き討ちは南都の寺々にとって大事件だったようですが、平家物語はこの能「重衡」と同様・・・というよりも能が平家物語に依ったのでしょうけれども、夜戦に灯りが必要なので民家に火を掛けたところ、延焼して大仏殿をはじめ東大寺、興福寺など多くの伽藍が焼け落ちてしまったとしています。しかしもともと計画的な放火との説もあり、真相は不明です。
とは言え、計画的であったとしても伽藍が一宇残さず焼け落ちるほどのことは想定していなかったと思われ、平家一門、わけても当事者である重衡にとっても驚きの事件だったと想像されます。その罪証を意識する故に、救われないままに修羅道に落ちて行くこの能が成立するのだろうと思います。
横浜能楽堂の話はまた明日に・・・
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重衡と横浜能楽堂・・・つづき

さて今回の観能は、横浜能楽堂の企画公演、4回にわたる「生と死のドラマ」の第2回「死者の行く先」として上演されたものです。この第3回で「仲光」の古演出が試みられた話は先日書いたとおりです。

この横浜能楽堂ですが、横浜市西区の掃部山公園の一角にあります。
掃部山公園・・・言わずと知れた井伊掃部頭直弼にちなむ命名です。もともと不動山と呼ばれていた横浜の海を見下ろす小高い丘ですが、維新後に旧彦根藩士が買取り井伊家の所有となりました。その後、大正年間になって井伊家から横浜市に寄付されて、直弼の官位にちなんで掃部山公園と名付けられたようです。
掃部山公園1 掃部山公園2

この一角に平成8年建設されたのが横浜能楽堂。旧染井能舞台を移設復元して能楽堂の形にしたものです。明治8年に根岸の旧加賀藩主前田邸に作られ、その後、染井の松平頼寿(旧高松藩主松平家の八男)邸に移された舞台です。関東では現存最古だそうですが、鏡板には松に加えて梅、さらに竹も描かれている珍しいものです。
写真は開演前に撮らせて頂きました。
能楽堂入口 舞台1舞台2

横浜能楽堂といえば、長く館長を務められた山崎有一郞さんが有名です。いつぞや「花もよ」の記事に関してブログでも触れましたが、お父様の山崎楽堂さんの影響で、幼少から能に親しみ100歳を越える今日まで、それこそ観ていない曲はないというほどの方です。
現在の館長は中村雅之さんですが、横浜能楽堂らしい独特の企画も多く、以前から気になっていた能楽堂です。

今回はじめて訪れてみて、雰囲気の良さに驚きました。
また機会をみてお邪魔できればと思います。

満仲 豊嶋三千春(金剛定期能)

金剛流 金剛能楽堂 2016.03.27
 シテ 豊嶋三千春
  ツレ 豊嶋幸洋、子方 溝前辰樹 溝前幸孝
  ワキ 村山弘
  アイ 茂山千三郎
   大鼓 井林清一、小鼓 竹村英雄
   笛 杉市和

満仲(まんじゅう)はツレ多田満仲の名前を曲名にしたもので、観世流はシテ藤原仲光の名から「仲光」の曲名で演じます。だから同じ曲・・・ではあるのですが思いのほか違いがあります。
当日の様子はこの後に記載しますが、下掛の満仲では冒頭に仲光が美女丸を迎えに行く場面があります。上掛の本はこの部分を欠いていて、シテ仲光が美女丸を迎えに行った子細を語り、直ぐに満仲の館の場面になっていきます。下掛の本の形の方が古い、もともとの構成を残していると言われますが、確かに上掛の形は後々に整理されたものという印象があります。

いつもお世話になっている「半魚文庫」さんのテキストには、「仲光」はあるのですが「満仲」はありません。半魚文庫さんは名著全集本『謡曲三百五十番集』と、赤尾照文堂版『謡曲二百五十番集』を底本にしていますが、これらは上掛、わけても観世流の謡本をもとにしているようです。そんな訳で、今回はいささか古いのですが明治31年発行の金剛流謡本、訂正者が金剛鈴之助(後の23世、坂戸金剛家最後の宗家、金剛右京)と金剛直喜(金剛謹之助、初世金剛巌の父、現宗家の曾祖父)の二人になっている本をテキストに起こして持参し、鑑賞させて頂きました。さすがに古い本でもあり、所々、現在の演出とは違っている点がありました。わけても最後の部分に大きな違いがあるのですが、この話はいずれ後ほど。

ともかくも舞台の様子ですが、囃子方、地謡が座に着くと出し置きのツレ豊嶋幸洋さんが登場してワキ座で床几にかかります。アイ太刀持ちの千三郎さんが続き、ツレの足許に太刀を置いて狂言座に下がり、シテの出となります。白大口に掛け直垂、士烏帽子を着け正中まで出て名乗ります。
さてこのつづきはまた明日に
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満仲のつづき

さてシテ仲光は、摂津国多田の満仲に仕える藤原の仲光と名乗り、満仲が一人子を中山寺に上らせたのに、子は学問には心を入れず明け暮れ武芸をたしなんでいる。満仲は子を叱ろうと迎えを送っているが、一向に帰ってこないので自分が迎えに行くことになったと語ります。さらに自分の子である幸寿が中山寺に召し使われているので、良い機会だから尋ねようと言って、常座から橋掛りを向いて、幕に向かって案内を乞います。

手許のテキストには、声をかける直前に着きゼリフがありますがこれは省略されていました。ともかく、幸寿が幕前に出てシテとの問答になります。

幸寿が間に立って美女丸につなぎ、美女丸が幕前に出るとシテは下居して美女丸に向かい、下向するように勧めます。美女丸が応じると、シテは立ち上がって子方二人を伴い橋掛りを進み、途中で美女丸を先に立たせて舞台に入ると、美女丸がワキ正に。シテは大小前、幸寿が地謡前に着座して、シテがツレ満仲に奏上します。
ここも古い本では、館に着いたところでシテの着きゼリフがあり、暫く待つようにと美女丸を待たせるやり取りがありますが、ここでは省略されています。

シテとのやり取りの後、ツレ満仲は美女丸に声をかけ、まず経を読んでみよと命じます。しかし美女丸は一字も読めないと「涙に咽ぶばかりなり」と謡いつつ片シオリ。
歌は、管弦はとたたみかける満仲に、美女丸が答えられず地謡に。

「父が言ひし事に跡をつけぬ庭の雪」の謡に、満仲が立って扇で美女丸を指し、ワキ座で後ろを向いて片袖を脱ぐと「御佩刀を取り給へば」で太刀とって進み出ます。
「走りいづるや仲光が」と地謡が続け、シテが満仲を留めると、美女丸は後見座に逃れ、満仲の前に、シテが正対して座します。

満仲は、なぜとめたのか、この太刀で美女丸の首を討ってこいと言います。
なだめようとするシテに、満仲は、遅くなるなら仲光ともに自分が斬ろうと、シテに決めつけます。
シテは「畏まって候」と太刀を受け取り、一方の満仲は切戸側をまわって鏡板にクツロギます。
一呼吸置いてシテの独白となりますが、このつづきはまた明日に
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満仲さらにつづき

シテ仲光は一人思案しますが、自分の計らいで美女丸を逃がそうと決心し、幸寿を呼びます。この間に、美女丸と幸寿は立ち上がり常座に出て下居しています。

仲光は美女丸に逃げ落ちるようにと言いますが、美女丸は早く自分の首を取って父に見せるようにと返答します。そうこうするうちにシテが「や また御使いの来たりて候」とシテ柱の方を見、満仲からの使者がやって来た様子。地謡が「はや首取れや仲光と 言の葉も涙もすすむこそ 悲しかりけれ」と謡い、美女丸が右手を上げ仲光が畏まり、さらに仲光は扇を逆手にして片シオリ。

シテが美女丸の命を惜しむと、幸寿が声を上げます。幸寿は自分の首を取り美女丸と偽って満仲に見せるようにと申し出ます。
仲光は「なんぼうけなげに申したり」と美女丸に子細を告げ「時刻移りてはかなふまじ」と、袖を結んで太刀を取り「太刀おっ取って仲光は」と立ち上がり「我が子の後ろに立ち寄れば」と幸寿に手を掛けます。
これに美女丸は「美女は余りの悲しさに 仲光が袖に取り付きて」と謡いつつ立ち上がって仲光をとめ、下居してシオリ。しかし幸寿は主の命に代わることは弓矢取る身の習いだと言います。

シテが「悲しやな互いに争う命のうち」と謡い、美女丸が階の向かって左に下居、シテを真ん中に幸寿が向かって右、美女丸が左に並ぶ形になります。仲光は「中にてなかなか仲光が」と謡うと、地謡が謡う中、幸寿に掛けていた手を放して常座まで進み、後見に太刀の鞘を取らせて抜き身を持って正面を向き、美女丸と幸寿の掛け合いの謡を聞きます。

地謡が「かなたこなたとも幼き 御身にだにも理の あるいは御主」と謡うのを聞き、仲光は「子は惜しし」と謡って幸寿の方を見やります。「主君をばいかで手にかけんと 心よわしや白真弓 左手にあるは我が子ぞと」の地謡に少しずつ幸寿の方に出ると「思い切りつつ親心の 闇討に」で正中から太刀を立てて出て足拍子「現なき我が子を夢と なしにけり」と太刀を捨ててシオリ、幸寿は首取られた態で切戸から退場します。
美女丸はこのやり取りに、仲光の捨てた太刀を取り腹を切ろうとしますが、仲光がこれを止めます。
この曲の重要な場面ですが、このつづきはまた明日に
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満仲さらにさらにつづき

美女丸を止めた仲光は「これは何事を遊ばされ候ぞ 御身替わりに立ちし者のきやう養と思し召され 何方へも御忍びあって給はり候へ」と言い、美女丸は太刀を落とします。この仲光の台詞は上掛にはありません。

シテ仲光は立って狂言座の方を見「いかに誰かある」と声をかけ、アイが常座へ出ます。仲光はアイに美女丸を何方へも忍ばせ、幸寿の遺骸を取り片付けるように命じます。
シテが大小前に下居すると、アイが美女丸の後ろに立ち「まずお立ち」と声をかけて美女丸を立たせ送り込みます。
二人が橋掛りに入るとシテが立ち上がり、橋掛りの入口まで進んで二人を見送る形。美女丸が幕に入ってしまうと、仲光は舞台に戻り大小前で下居し「如何に申し上げ候」と声を上げます。この間に、鏡板にクツロイでいたツレ満仲がワキ座に戻って、この仲光の奏上を受ける形になります。

満仲は美女丸の最期を問い、さらに仲光に幸寿を連れてくるように命じます。美女丸以外に子が無いので、幸寿に跡を譲ろうという訳です。しかし仲光は、幸寿は美女丸との別れを偲んで元結を切り、行方知れずになってしまったと返答します。
地謡が受け「仲光にも御いとまを給はり候へ」と仲光の心情を謡い、満仲が二人の者に別れる思いを謡って地謡の下歌。「げにや王土に住む習い 貴命は誰も遁れぬぞと 仲光をとにかくにすかし給ふぞ哀れなる」との謡に、シテは少し面を上げ、ふっと息を抜いた感じで頭を下げます。

続く上歌のうちに幕が上がり、ワキ恵心僧都が美女丸を伴って登場してきます。ワキは白大口に小格子厚板、水衣に角帽子の姿で二ノ松まで出、美女丸は三ノ松で正を向きます。
ワキの詞、比叡山の恵心僧都と名乗り、多田の満仲の館に急ぐと言って美女丸と向き合い、直して、早満仲の御館に着きて候と言って、一ノ松から「いかに案内申し上げ候」と声をかけます。
シテが立ち上がり応対に出ますが、このつづきはまた明日に
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満仲またつづき

ワキは幸寿が亡くなったことを悼みますが、仲光は御前には言わないで欲しいと念を押し、満仲に取り次ぎます。

ワキは舞台へ進み、シテが大小前で下居。満仲も恵心僧都を尊んでか、床几から立ちワキ座で下居、ワキはワキ正に座します。美女丸は後見座に控えています。
満仲は僧都に何故の御下向かと問いますが、これに対してワキは美女御前のことを話すために来たと言い、美女丸なら既に仲光に命じて沙汰させたという満仲に、真相を話します。
美女丸を討てと命じられたものの、主君を手に懸けることはできないと、仲光が我が子幸寿の首を取り、美女丸を助けたのだと説明すると、僧都は立ち上がって「美女御前のご不審免しおはしませと 美女を引き具し満仲の 御前にこそ参りけれ」と謡いつつ、後見座に行き美女丸を引き立たせてワキ正まで出、美女丸を満仲に向かわせます。

満仲は美女丸に、幸寿が殺されたならば、なぜ自害しなかったのかと詰問しますが、ワキが幸寿の仏事と思い美女丸を許されよと取りなして地謡。
「涙を流し申しければ」の謡にワキはシオリ。「猛き心もよわよわと」と満仲は腰を落として力を抜き、美女丸を許した風情。「仲光余りの嬉しさに 御盃や菊の酒」の謡に、仲光は立ち上がって扇を広げ満仲に酌、美女丸、僧都は地謡座前に移り、仲光は美女丸にも酌をします。「一世の契の二度逢ふぞ嬉しき」と地謡が納め、シテ仲光は大小前に下居します。

仲光が「親子鸚鵡の盃の」と謡い、地謡が「いく久しさの心かな」と謡うと、僧都が「いかに仲光 目出度き折なれば一差し御舞ひ候へ」と言い、地謡が「いく久しさの心かな」と繰り返して、シテは下居のまま答拝して男舞になります。

実はここが手許のテキストと大きく違っていまして、地謡の「一世の契の二度逢ふぞ嬉しき」の後、テキストではワキ詞「あまりに目出度き折なれば美女御前一さし御舞ひ候へ」地謡「鴛鴦の」で、美女丸が舞います。
もともとの形ではシテ仲光ではなく、美女丸が舞う形だったのを、おそらくは宝生の本を参考にしつつ仲光が舞う形に直したのだろうと思います。
いずれにしてもこのつづきはまた明日に
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満仲またまたのつづき

男舞は他流と同様に重い位を保ったままで、「目出度き折」とはいうものの仲光の複雑な心境を映すように、思いのこもった舞です。四段では正先で扇、袖を返し、一度腰を落として思いの深さを表し、再び立ち上がって舞い続ける形。目付に出て袖を直して五段。常座から角へ出て小廻りし、扇カザして舞台を廻り、地ノ頭から大小前に行って小廻り、打ち込んで舞上げ。下掛なのでカカリの後、五段に舞います。

昨日書いたとおり、金剛流の古い形では美女丸が舞う構成になっていたようで、仲光が舞うよりもこの方が落ち着きがよい様な気がします。宝生流にもそういう上演記録があるそうです。
先般、横浜能楽堂の企画公演で「生と死のドラマ」と題して4回にわたる公演があり、この第3回で観世流の野村四郎さんが、「仲光」を「古演出による試演」として、美女丸が舞う形で上演され、金剛能楽堂でたまたま後ろの席に座られた方が、この横浜の公演を御覧になったという話は先日、記載した通りです。

さて舞上げると、仲光が「鴛鴦の 友なき水に 浮き沈み」と謡って上扇。地謡を聞きつつ橋掛りへ進み、「あはれやな 我が子の幸寿があるならば 美女御前と相舞せさせ 仲光手拍子囃し・・・」とシテ柱から狂言座あたりに進んで謡います。この謡も、美女丸が舞い、その姿を仲光が見る演出の方がしっくりきます。

地謡「思は涙」にシオリ、地謡と掛け合いで謡いつつ舞台に戻り、「上露も下露も」と角で下を見込むと左へ廻り大小前で下居。
「今日は喜の都帰り これまでなりとて 恵心の僧都は 美女を伴ひ帰り給へば」でワキが美女丸を伴って舞台から橋掛りへと進みます。
「仲光遥かの脇輿に参り」で、シテは立ち上がり二人を追います。一ノ松を過ぎたワキと、一ノ松あたりに到った美女丸が振り返り、シテは下居。
「暇申して帰りけるが」の謡にシテは立ち上がり、僧都と美女丸は幕へ。シテ仲光は常座に戻って二人を見送ると「暫しは御輿を見送り申して うちしをれてぞ 留まりける」の謡に、ワキ正へ向きを変え、タラタラと下がってシオリ、片膝ついての留となりました。
劇的要素の強い一曲でしたが、さてこの満仲を廻って、明日もう少しだけ書き記しておこうと思います。
(85分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)

満仲を廻って

一昨日、続きを書こうと思っていたのですが、諸般あって一昨日、昨日と、ブログに手が出ませんで本日となりました。
実は今日は、国立能楽堂の企画公演で「寺社と能」と題し、翁・末広がり・春日龍神という番組を観てきまして、いささか珍しい番組なのですが、この話はいずれ後ほど。

ということで満仲の観能を廻って、気付いたことなどをアトランダムに記しておこうと思います。

まず振り返って、なぜ美女丸が舞う形からシテの男舞に変わったのかという疑問です。これについて書き残されたものも無いようで、全く想像の域を出ませんが、おそらくは舞があるならシテが舞うべきという考え方と、もう一つは長丁場のドラマを演じた上で舞まで舞えるような子方の確保が難しいということではなかろうかと思っています。

鑑賞記でもちょっと触れました横浜能楽堂の企画公演の際、西野先生の解説があり、美女丸が舞う意味のお話があったそうです。武芸だけに興味を持ち、学問も詩歌管弦も何も出来なかった美女丸が、幸寿の死をきっかけにして、少なくとも舞が舞えるほどに成長したという意味があるという趣旨だったそうですが、これは納得いくところです。そういう意味でも、この子方は大変難しい役どころと思いますが、横浜では例の長山凜三クンが勤めたそうですので、見応えあるものだったと想像しています。

ところで、観世流の仲光は明治初期に梅若実によって復曲されたもので、宝生の満仲とも相違があります。
梅若実の復曲は明治5年、7年、12年といくつかの説を見かけますが、八木書店さんから刊行されている梅若実日記をざっと見た限りでは、5年と7年には仲光に関する記事は見あたらず、5年5月23日に「満中 亀太郎」の記載が見られるだけです。(「仲」ではなく原本も「中」と書かれているようです。)
一方12年には3月24日に、本願寺様の御能が決まり満仲の件で鉄之丞を清孝の所へ行かせたとあり、翌25日に満仲の相談に近右衛門、金之丞、幸太郎が来たこと。そして29日に「東本願寺様大門様」がお出になって能を献上したことが書かれています。
その三曲目に仲光を実自身が演じ、満仲を幸太郎、美女丸を万三郎、そして幸寿を清廉が演じた記載があります。さらにここには「御好ニ付 再発ニテ初テ相勤」とあって、素直に解釈すれば、これが仲光の復曲初演であろうと思われます。大変な短期間に復曲の作業をしたと伝えられていますが、大正頃までの観世流の本を見ると仲光は番外の扱いになっていますので、正式に流儀の曲とされたのは昭和になってからの様子です。
・・・「満仲」からの話、明日につづきます
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満仲を廻って・・・つづき

話は満仲から逸れてしまうのですが、前々から、金剛流の舞はなんとなく華麗な感じがすると思っていました。今回、舞台を観ていて、どうも途中で反転する動きが入っているためではないか、とふと思いました。満仲の舞は華美なものではありませんが、基本の型がそういう動きになっているということかと思いました。

ところで京都で能を観るのは二度目、囃子方の皆さんなど、やはり東京ではあまり見かけない方が多い印象です。ワキ方、囃子方の皆さんを再度、流儀を添えて記載しておきます。ワキ方:村山弘 高安流、大鼓:井林清一 石井流、小鼓:竹村英雄 幸流、笛:杉市和 森田流。

金剛能楽堂の舞台。いい感じの大きさと思います。
ロビーから
ロビーから舞台を覗く

金剛能楽堂舞台
舞台の様子

内部の全景
二階席から

二階席から
観客席の全景 明るい雰囲気です

ロビーでお茶の接待などもあり、家庭的な雰囲気です。子方の溝前さん兄弟、一昨年の一角仙人のときも拝見しましたが、今回もロビーでご家族を見かけました。
満仲を廻ってと書きましたが、満仲の話はまた明日に
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