能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

久し振りにひとこと

ほとんどが能楽堂へ行くのは初めてという皆さんと、近々、観世能楽堂に行くことになっています。せっかくの機会に、何が何だかわからない・・・でも残念なので、解説のようなモノを作ってみましょうと、請け負ったのが昨年の末。結局、一月の半ばまで、格闘することになりました。

というわけで、鑑賞記はもちろん、毎年大晦日に書いていたひと言も、すべて飛ばしました。
そうこうするうちに、はや立春。
例年にない厳しい寒さ続きで「春」を感じるところでもありませんが、ここが寒さの底ということで、これから新春を楽しむつもりで日々を過ごしていこうと思っています。

さて昨年は、「座・SQUARE」の第20回記念公演まで鑑賞記を書きましたが、その後も年末までに何度か観能に出かけています。
観世流のみが現行曲としながらも滅多に上演されない「身延」、そして最高の秘曲とも言われる「関寺小町」、「桧垣」と観ています。
メモは残していますので、明日からまた、少しずつ舞台の様子など、書いておこうと思います。
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身延 鈴木啓吾(九皐会定例会)

観世流 矢来能楽堂 2017.09.10
 シテ 鈴木啓吾
  ワキ 舘田善博
  アイ 高野和憲
   大鼓 亀井広忠、小鼓 森澤勇司
   笛 八反田智子

観世流のみが現行曲としているこの曲、その観世流でも滅多に上演されることのない、いわゆる稀曲の類です。時々参照させていただいている大角征矢さんによる観世流演能統計をみると、平成21年までの60年間に、上演されたのはわずかに13回となっています。
そんなわけで、この曲の解説なども見あたらず「作者不詳」。某解説書には何曲かの解説の後に「他に身延もある」と書かれているのみでした。
ともかく、舞台の様子・・・だいぶん時間が経っていますが、メモを頼りに書き綴ってみようと思います。

まずはワキ日蓮上人の出。
花帽子を被り、鼠色の指貫込大口に朱の衣、掛絡をかけ、登場するとワキ座で床几に腰を下ろします。
左の手に持った経巻を水晶の数珠とともに上げ、サシの謡い出し。
「凡そ方便現涅槃、星霜二千二百余回、後五百歳中今少し、広宣流布の時を待ちて・・・」と、釈迦の滅後二千二百年あまりが経ち、末法の五百年に入り、法華経広宣流布の時を待つという、日蓮上人らしい謡い出しになっています。

末法初年は永承七年(1052年)とされていますが、貞応元年(1222年)に生まれ弘安五年(1282年)に入滅した日蓮の生涯と重なる詞章。ワキの謡に続いて地謡の下歌、上歌と続き、法華読誦の功徳に花薫じ、身延山は自然の霊地であると謡います。
次第の囃子でシテの出となりますが、このつづきはまた明日に
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身延のつづき

次第で登場したシテは、面は深井でしょうか、花帽子を被り摺箔に無紅唐織着流し、右手に数珠を持っています。
装束付けをみると、面は深井が基本の様子ですが「又ハ」として姥、姥鬘の形も記載されています。ただし深井の場合は鬘、無紅鬘帯とあって花帽子の記載がありません。姥の場合は花帽子と明記されているのですが、大成版の装束付けとは異なった形が喜之家の形なのか(九皐会は謡本も能楽書林版を使いますし)、シテの工夫なのかは分かりません。ともかくもこの日は老女ではなく、中年の女性の形で花帽子を被っての登場でした。

一ノ松で立ち止まり次第。地取りでゆっくりと正面を向きサシ。続けて下歌、上歌と謡い、上歌の終わり近く「御法に後るなよ御法に後れ給ふな」で向きを変えて舞台に入ると、常座まで出て佇みます。
下歌、上歌の詞章から、法華経の功徳により、この身そのままに成仏へと導かれようと願う思いが読み取れます。

シテの謡が終わると、ワキがシテに声をかけます。
シテはワキに向いて答える形で、この山のはるか麓に住む女と言います。上行菩薩の御再誕といわれる日蓮上人が、この地に来られたのに、法に逢い難き女人の身である自分は、この機を逃すことなどできないと続けます。

日蓮宗の解説をするほど仏教に詳しいわけではありませんが、上行菩薩というのは法華経の従地涌出品第十五で、地から湧き出てくる数多の菩薩の筆頭に置かれ、日蓮上人はこの上行菩薩の生まれ変わりといわれます。
女性は成仏が難しいとされますが、同じく法華経の提婆達多品第十二には娑竭羅龍王の女が成仏した話が書かれていて、法華経の教えを信ずれば女性も成仏できると信じられた・・・いわゆる女人成仏が、この曲の鍵になっています。なお娑竭羅龍王の女については、海士の鑑賞記(海士の鑑賞記より)で触れていますので、併せてご参照いただければと思います。
さてこのつづきはまた明日に
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身延さらにつづき

さてシテの言を聞いたワキは、たしかに理屈は通るが、遥か麓から時を違えず毎々参詣されるからには、現世の人ではなかろうと尋ねます。

シテはこれを認め、度々上人の御経読誦を聴くうちに、法華経の功徳により苦患を免れたと謡い、地謡の下歌。変性男子となり正覚に至るのに、竜女に劣るものではないと謡う地謡に、ワキに向かって二足ゆっくりとツメ、二足引いて地の上歌。
このような素晴らしい事を知らずにいた過去を悔やめば悲しいが、今は喜びの涙、このような有難い御法に遇うことができた嬉しさに、上人の御前に涙する・・・と謡う地謡に「身を知れば先立たぬ」とやや面を曇らせ、「かかる御法に遇う事よ」とワキを向き、正中へと進んで「上人の御前に涕泣するぞ哀れなる」と下居して片シオリします。

あらためて正に向いたシテは胸元から中啓を出して構え、地のクリ。続くシテのサシでは「ありがたや衆罪如霜露恵日の光に 消えて即身成仏たり」と、法華経の功徳により成仏に到ることを謡い、地謡の「ただ一時も結縁せば それこそ即ち 仏身なれ」でシテがワキに向き直りクセへ。

「帰命妙法蓮華経 一部八巻四七品」の謡にシテは腰を浮かせて合掌し「文々悉く神力を示し演べ給ふ」と合掌を解いて立ち上がります。「濁乱の衆生なれば この経は保ちがたし」と角へ進み「暫も保つ者は」で角トリ。続いて「我則歓喜して 諸仏も然なりと一乗の 妙文なるものを 深着虚妄法 堅受不可捨ぞ悲しき」の地謡に、舞台を左に廻り大小前、サシ込して開キ、左右打込、扇を広げて前に出し「始め華厳の御法より」と謡いつつ上扇と、クセの基本的な型をなぞりつつ、法華経の功徳を示します。

続く地謡で大左右。正先へ打込、小さく開いて「正直捨方便無常の道に到るべし」でやや面を伏せた形で右へ回り、常座に戻ると小さく回って角へ。扇カザして左に回り、大小前で左右して「花待ち得たり嬉しの今の機縁や」とワキに向きます。
さてこのつづきはまた明日に
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身延さらにさらにつづき

シテの一セイ「おもしろや 妙なる法の華の袖」
地謡が受けて「夕陽や連れて 廻るらん」を聞きつつ、幕方を向いて扇を閉じ常座に向かい、扇を右の手に取り左手には数珠、序ノ舞の舞出しです。

数珠を持って舞う形はあまり観たことがないので、扇と数珠をどのように扱うのか少しばかり注意してみたところです。初段の途中でワキの方を向いた際に少し腰を落とす型があり、二段の段のところで扇を持ち替えた際に数珠を右手に。三段では羽根扇を右手で受けて左手で扇を直し、数珠を左手に取り直す・・・と、中啓と数珠を持ち替えつつの舞ですが、流れるように自然な所作で、あえて気にしていなければ、持ち替えたことに気付かないでしまいそうです。

序ノ舞を舞上げて常座でワカ。「紫雲たなびき光さし」の地謡にやや面を上げ、「千草にすだく虫の音までも」と面を下げて、左右打込「妙法蓮華の称へかな」と開キます。
上歌「げにありがたき法の道」を聞き、「末暗からぬ灯火の」と五足ほど出て「永き闇路を照らしつゝ」で六つ拍子。角へ出ると角トリして左に回り、正中で正面に向いて開キ「げにありがたや頼もしや」と手打ち合わせてワキに向きます。

「御法の御声も時過ぎて」と謡い、地謡が続けると「既にこの日も入相の」と幕方を遠く見やる形。「鐘響き月出でて」で抱え扇。「げにも妙なる法の場」で四拍子踏みサシて角へ。「身延の山の風の音」と扇カザシて「水の御声もおのづから」でやや下を見る心で左へ回って常座へ。「草木国土みな成仏の霊地なり」の謡に小さく回って合掌。繰り返す「成仏の霊地なりけり」に、合掌を解いて扇広げ、留拍子を踏んで終曲となりました。

いささか細かく詞章と所作を書き連ねましたが、既にお分かりの通り、シテワキのやり取りや所作を細かく観ていかないと、何の盛り上がりもない「それだけ」の曲です。
法華経を深く理解し信心のある人には、感じるところの多い曲と思いますが、この曲が稀曲であることが、なるほどと思えるような一番でした。
(80分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)

土浦薪能

身延、関寺小町、桧垣を観たと、先日書きましたが、九皐会で身延を観た後の10月は土浦の薪能を観ています。
土浦の薪能は、土浦城東櫓の復元を記念して平成10年に開始されたもので、以来毎年土浦城址本丸で開催され、今回が20回の記念の会でした。たまたまお誘い頂いて出かけたのですが、当日はあいにくの雨で、会場は近くの市民会館。土浦城址の櫓を背景に観能ということで期待していたのですが、いささか残念でした。

第1回は出演者として近藤乾之助さん、野村万蔵さん、そして観世栄夫さんの名前が記され、曲目は舞囃子「邯鄲」狂言「清水」能「船弁慶」とあります。万蔵さんは現在の萬さんですが、乾之助さんも栄夫さんも鬼籍に入られ、20年の歳月を感じるところです。

その後、梅若六郎、現在の玄祥さん(今年、梅若実を襲名されるそうですが)の出演もあり、ここ数年は銕之丞さんが演じておられるようです。
今年は20周年記念ということで、演能に先立ち第一部として薪能ワークショップという企画があり、銕之丞さんの解説や、装束付けの体験などがあったそうです。が、この時間帯は別のイベントに顔を出していたためパスしました。

当日の演目は、仕舞が二番、狂言「萩大名」と、最後に「猩々乱」。
仕舞は銕仙会の若手ということで、鵜澤光さんが「笠之段」を舞い、小早川泰輝さんが「船弁慶」。泰輝さんは多分、始めて拝見したと思うのですが、なかなかしっかりした舞でした。しかしそれにつけても鵜澤光さん、これまでもシテでも拝見していますし、なんどか舞台を観ています。しかし素人が言うのも変ですが、あらためて上手いなあと、正直のところ驚きました。

狂言は茂山千作さんの大名に、茂さんの太郎冠者、松本薫さんが小アド亭主。千五郎さんも千作を襲名されて、一段と味わいが深い感じがします。
もともとは彦根の井伊家お抱えだった千五郎家が茨城で公演されるのは、桜田門外ノ変を思い起こすと、いささか申し訳ないような気もしますが・・・もっとも当日の会場は土屋家の治めた土浦藩ですし、まあ良いかと。

乱は20周年を記念しての選曲だったようですが、銕之丞さんの華やかな舞で、会場の皆さんもなんだか晴れやかな雰囲気になりました。
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関寺小町 武田志房(第四十二回花影会)

観世流 国立能楽堂 2017.11.04
 シテ 武田志房
  子方 武田章志
  ワキ 殿田謙吉
  ワキツレ 大日方寛 御厨誠吾 野口能弘
   大鼓 亀井忠雄、小鼓 鵜澤洋太郎
   笛 藤田六郎兵衛

観ようか、やめようか、演能の情報があるたびに長年迷い続けた一曲。とうとう思い切って見所に足を運びました。
滅多に上演されないこの曲、能の最奥とされますが、能楽に関わりを持ち始めて四十数年、観てみたいという気持の一方で、まだ早いのではないだろうか、全く理解できずに退屈に感じてしまわないだろうかと恐れる気持も強く、竦んでしまっていました。
宝生の今井泰男さんが流儀としては百年ぶりに上演されたときも、観世の片山幽雪さんが工夫を重ねてなさったときも、チケットを申し込もうとして、途中で止めてしまいました。

しかし観ていない曲がだんだん数少なくなる中で、観てみなければはじまらないと思い立った次第です。というわけで、本人としては清水の舞台から飛び降りるつもりで出かけたのですが、これが予想に反して面白い。深くわかった訳ではありませんが、観能を楽しむことができたことに、我ながら驚いています。

ということで、当日のメモをもとに、舞台の様子など書き綴っておこうと思います。

まずは地謡、囃子方が登場し着座。囃子方も肩衣つけて長上下、曲の重さをあらためて認識するところです。続いて作り物、緑の引廻しを掛けた藁屋が運ばれます。
藤田六郎兵衛さんの笛から次第。やはり位が重い。
その次第で、白大口に緑の長絹を着けた子方を先頭にして、ワキ一行の登場。ワキ、ワキツレは角帽子のの大口僧。ワキのみ小刀をさしています。
さてこのつづきはまた明日に
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関寺小町のつづき

登場した一行は向かい合って次第を謡い、地取りでワキツレは腰を下ろし、子方とともに正面を向いたワキが名乗り。江州関寺の住侶と名乗って、この山陰の藁屋に住む老女が歌を詠むと聞いたので、老女の私宅に急ぐところと言います。

続いて拍合の上歌が来るのが一般的な流れと思うのですが、ここはワキ、ワキツレが拍不合のサシで「颯々たる涼風と衰鬢と 一時にきたる初秋の 七日の夕に早なりぬ」と謡い、ワキの詞。今宵は七夕の祭と言い、上歌になります。なにやら一段、趣き深い感じがします。
観世の本では、冒頭のワキの名乗りの中で「今日は七月七日にて候程に 七夕の祭を執り行い」とありますが、下掛宝生にはこの言葉はない様子。サシの謡を聞くと、冒頭で七夕の日と断るのは些か説明的な感じもあり、冒頭の名乗りの詞章は省かれているのかも知れません。

上歌の終わり「松風までも折からの」で後見が立ち上がって藁屋に寄り「手向けに叶ふ夕かな」と引廻しに手をかけると、ワキの着きゼリフで引廻しを落とし、床几に腰を下ろしたシテが姿を現します。
ワキは、老女の私宅に着いたので暫し様子を覗おうと言い、従僧を促してワキ座へと着座します。

引廻しを下ろされた藁屋には左右に、地謡側をやや高くして短冊が下げられています。
藁屋の中からシテの謡い出し。囃子のアシライはなく、シテの謡のみで老残をしみじみと謡い上げます。最後の「あら来し方恋しや」と繰り返すところで笛がアシライ、若き日を思ってシテがシオリます。

この謡に、ワキは子方を立たせてシテを向き、二足ほど出て藁屋の内に声をかけます。
関寺の辺りに住む者だが、老女の事を聞き、歌詠みのすべなど尋ねようと稚児達を連れてやって来たと述べます。観世の本には「この寺の稚児達歌を御稽古にて候が」とあって、歌詠みの老女の所に稚児を連れて来た訳がわかるのですが、他流の本ではこの章句を欠いているので、なぜいきなり稚児を連れて来たのか分かり難い感じがします。観世流のみなので、この辺りを斟酌して後から補ったのかも知れません。
さてこのつづきはまた明日に
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関寺小町さらにつづき

ここからシテとワキの問答になりますが、思いもよらぬ事を承るものだと答えたシテは、続けて「埋れ木の人知れぬ事となり花薄穂に出すべきにしもあらず・・・」と述べます。
前もって詞章をよくよく読んでおけば良かったのですが、後日、どうもこのシテ・ワキのやり取りが気になり、確認してみると古今集仮名序を下敷きにしたやり取りであることに気付きました。

「今の世中、いろにつき、人のこころ、花になりにけるより、あだなるうた、はかなきことのみいでくれば、いろごのみのいへに、むもれ木の人しれぬこととなりて、まめなるところには、花すすきほにいだすべきことにもあらずなりにたり」を、我が身のことに引き換えて述べ、さらに続く「心を種として言葉の花色香に染まば・・・」も、仮名序冒頭の一文を引いているのは明らかです。

名だたる歌人であった小野小町ですから、仮名序を踏まえた詞章になっているのは、当然のお約束でしょうけれども、この後も、ワキが難波津の歌、安積山の歌をあげ、シテは「この二歌を父母として」と謡い、ワキが「手習ふ人の始めとなりて」と続けて、仮名序にある「この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける」を、ふまえてのやり取りになっています。
難波津の歌は仁徳天皇の即位に際しての王仁の作といわれる「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」、また安積山の歌は「安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅くは人を 思ふものかは」、こちらは万葉集にある「安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに」を元にした歌です。

ワキが「都鄙遠国の鄙人や」と謡い、シテは続けて「我等如きの庶人までも」と謡いつつ、ワキの方を向いていたところから一度目付柱の方を見、床几から下りて下居します。
地謡の上歌、浜の真砂は尽きるとも詠む歌は尽きないと謡う謡に、シテはワキに語りかけるようにワキを見、正に戻し、再びワキに向き合います。
さてこのつづきはまた明日に
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関寺小町さらにさらにつづき

ワキは、女の歌詠みは稀だと言いつつ「我が背子が 来べき宵なり ささがにの 蜘蛛の振舞 かねて著しも」というのは女の歌かと問いかけます。能「土蜘蛛」にも引かれている歌ですが、シテは答えて、この歌は衣通姫の詠んだもので、自分もその流を学んだと言います。

衣通姫と聞いて、ワキは小野小町もその流と聞いているが「侘びぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば 住なんとぞ思ふ」というのは小町の歌ですねと問います。
シテはカゝル謡で、この歌は大江惟章が心変わりした頃、文屋康秀が三河の守(実際は掾)になって下る際に私に誘いの歌を寄越したので、返歌として詠んだ歌で、聞けば涙も流れる悲しさと答え、シオリます。

ワキはこれを聞きとがめ「我が詠みたりしと承る」また「衣通姫の流」ともいい、小町なのではないか。老女は百歳にもなろうというが、小町が生きていればそのような年齢、これは小野小町の果てであろう、隠さないでいただきたい、と謡います。この「げに年月を考ふるに 老女は百に」あたりで再びシテがシオリます。

シテは、外目には現れないようにしていたのだが・・・とワキを見て謡い、地謡の上歌。
「うつろふものは世の中の 人の心の花や見ゆるは はづかしや」とシテは正面に向き直り、謡の章句を聞きつつ「さそふ水あらば今も 住なんとぞ思ふ 恥かしや」と再びワキに向きます。

クリ。打掛の囃子も位が重く柔らかな印象。クリの詞章「げにや褁めども 袖にたまらぬ白玉は・・・」は古今集恋二、安倍清行朝臣「つつめども 袖にたまらぬ 白玉は 人を見ぬめの 涙なりけり」をふまえてのもの。ワキは子方を立たせ、ともにワキ座に下がって着座します。

シテサシから地謡、クセへと続いていきます。梅若玄祥さんを地頭に、地謡が詩情豊かに聞かせますが、このつづきはまた明日に
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関寺小町またつづき

クセは「あるは無く 無きは数そふ 世の中に あはれ何れの 日まで嘆かん」と、新古今の小町の歌からの謡い出し。およその意味としては、生きている人は亡くなり、亡くなった人の数は増えていく世にあって、いつの日まで私は歎き続けるのであろう、といったところでしょうけれども、続けて「と 詠ぜし事も我ながら 壁生草の花散じ 葉落ちても残りけるは露の命なりけるぞ」・・・そう詠んだのは自分であるけれども、いつまで続くことかこの命は、と百歳に到る思いを謡います。

「せめて今はまた初めの老ぞ恋しき」今となっては初老の頃さえ懐かしいとシオリます。古は栄華を楽しんだ身が、今は賤の小屋住まいであることを、玉造小町子壮衰書を底本としたと思われる章句で謡います。

上げ端「関寺の鐘の声」を謡ってシテは「逢坂の山風の」と目付柱の方を見やり、正面に戻すと「飛花落葉の折々は」で扇を出し、続いて短冊を取り出すと「硯をならしつつ筆を染めて藻塩草」の謡に、扇を筆に見立てて墨を含ませる態。
「書くや言の葉の枯れ枯れに」で短冊に歌を書き付ける様を見せ、「あはれなる様にて強からず強からぬは」と再び墨を含ませて書き継ぎ「女の歌なれば」と短冊をみると「いとどしく老いの身の 弱り行く果ぞ悲しき」と短冊を下ろして左に置き、シオル形になります。

子方がワキを向き、ワキも振り返って子方と向き合う形。子方が七夕の祭のことを告げ、ワキはこれを聞いて立ち上がると、少しシテに寄って下居し七夕の祭に出てくるように声をかけます。
シテは老女のことでもあり・・・と遠慮しますが、ワキは重ねてシテを促し、立ち上がって藁屋の側まで寄って下居します。
さてこのつづきはまた明日に
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関寺小町またまたつづき

地謡の上歌「七夕の 織る糸竹の手向草」でワキはシテの手を取り、シテは杖を突いて立ち上がります。
「幾年経てか陽炎の。小野の小町の。百年に及ぶや天つ星合の」と藁屋を出ると、杖を突きつつ常座方へ向かいますが「雲の上人に馴れ馴れし」と大鼓の前あたりで正面を向き、「袖も今は麻衣の」と左の袖を上げて見込み「浅ましや傷はしや目も当てられぬ有様」の謡に両手で杖にすがりつつ腰を下ろして杖を左に置きます。

「とても今宵は七夕の」とシテは扇を出して構え、ワキが子方を向くと、子方は立ち上がって「手向の数も色々の」で大小前から出て開キ「或は糸竹に懸けて廻らす盃の」で目付に向かい角トリして左に回ります。
この「盃の」にちなんで、子方がシテに酌をする型があるという記載を資料で見かけたのですが、見落としたのか、書き落としたのか、それとも本当に無かったのか、当日のメモには子方が酌をする記録がありません。時日も経っており、残念ながら思い出せませんので、このあたりは不明という次第です。

さて「雪を受けたる童舞の袖ぞ面白き」の謡に、子方は大小前から出て下がり、一セイ「星祭るなり呉竹の」で袖を返して小さく回り、子方舞となります。
この辺りは流儀によって違いがあるようで、宝生流の形ではここでイロエ。下掛の各流では子方の中ノ舞、さらにワカ「年待ちて 逢ふとはすれど七夕の 寝る世の数ぞ すくなかりける」(「寝るよ」からは地謡)が入るようです。

子方は舞上げるとワキ座に着座します。シテの謡「代々を経て住む行くすゑの」地謡「幾久しさぞ萬歳楽」シテは子方の方を見、扇で床を打って拍子を取る様子です。
シテの詞で「あら面白の只今の舞の袖やな・・・」から、稚児の舞に心引かれ、自らも舞おうと「狂人こそ走り候へ。百年は」と謡いつつ、杖取ってすがりつつ立ち上がり、その場で小さく回って笛座を向き、サシて正面に向き直り、序ノ舞の舞出しです。
さてこのつづきはまた明日に
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関寺小町もう一日のつづき

杖を持って舞う形で、途中で扇を広げますが二段では角で杖と扇を持ち替えます。角からシテ柱に向かい、ここで暫し柱に寄りかかり休息を取る型が入ります。三段を静かに舞ってワカ「百年は 花に宿りし 胡蝶の舞」と謡って上扇。

ノリ地の「あはれなり あはれなり 老木の花の枝」に十足ほど出て「さす袖も手忘れ」と謡いつつサシて、地謡の「裳裾も足弱く」で開キ。「漂ふ波の」と謡いつつ扇カザシ、地謡「立ち舞ふ袂は翻せども 昔に返す袖あらばこそ」で左に回って正面に向き直り、「あら恋しのいにしへやな」と謡いつつ両手で杖にすがりつつ腰を下ろします。

地謡「さる程に初秋の短夜 はや明け方の関寺の鐘」と聞きつつシオリ、杖を置いて下居。
シテ、地謡と交互に謡って、シテ「羽束師の森の」と平ノリに戻り、扇を胸に杖取って、ゆっくりと立ち上がると「暇申して帰るとて」の謡にワキに向き、「杖に縋りてよろよろと」と、左に向いてつつっと賴りなく歩む態。
藁屋に入ると「小町が果の名なりけり」と下居し、謡が終わると残る囃子に作り物を出て留。いわゆる残り留で終曲となりました。

メモをもとに舞台の様子を書き綴ってみました。
この曲の難しさは百歳の小町という、生身の老女が主人公であることでしょう。いくつかの資料にも見かけましたが、当時、百歳の老女など見たこともないというのが普通のはずで、それを想像の中で演じなければならない。しかも見苦しくもなく、かつ小町らしい機知に富んだ様子もそれとなく示しながら演じる、その難しさが最奥の曲になったということかと思います。
思い切って観に行って良かった・・・それが素直な感想です。
近くの席の若い方が気持ちよさそうに寝入っておられましたが、それもまた良し。例え寝てしまっても、観に行ったことを良かったと思う日が来ると、思っています。

なお「玉造小町子壮衰書」ですが、平安中期ないし末期に成立した古詩で、小野小町の物語として読みつがれてきたものです。杤尾武さんの校注で岩波文庫に収録されていますが、杤尾さん自身が『壮衰書は本来小野小町を題材にしたものではないのではなかろうか。・・・中略・・・原壮衰書は「玉造小町」を冠することなく、「女人壮衰書」とでも称したものと考えられる』と書いているように、栄華を極めたのち零落して老いさらばえ、町を徘徊する女子を主人公に、世の無常と仏の救済を描いたものだったようです。
これがいつの間にか小野小町の物語と解されたとういのが真相のように思われます。謡曲には「一夜泊りし宿までも 玳瑁を飾り 垣に金花を懸け 戸には水晶を連ねつつ・・・」とありますが、壮衰書には「家装珻瑁・・・垣画丹青・・・戸浮水精」などの章句がみられます。
(110分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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