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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

花月 観世喜之(九皐会三月定例会)

観世流 矢来能楽堂 2018.03.11
 シテ 観世喜之
  ワキ 森常好
  アイ 深田博治
   大鼓 安福光雄、小鼓 幸清次郎
   笛 一噌庸二

「・・・喜之先生の花月!?」
というのが番組を見たときの最初の印象です。
中所さんから雲林院上演のお知らせをいただき、さて当日の番組はとみると「花月 観世喜之」。花月は面白い曲ではありますが、どちらかというと初シテの方をはじめ、お若い方が演じる小品といった印象を持っていまして、喜之さんのように会を主催する重鎮がなさるというのを、あまり見かけた記憶がありません。そんなわけで、いささか腑に落ちない感じを持ちながら、矢来の能楽堂に向かいました。
ですが、当然のことながら始まってみれば何の違和感もなく、八十歳を過ぎてなお少年を演じることができる能楽の面白さをあらためて認識したところです。

とは言え、喜之さんがどういうお考えで今この時に花月を演じようとされたのかなどと、とりとめもなく考えているうちに、さて花月というこの能、どういう曲なのかもう少し調べ、考えてみようと思い立ちました。
というわけで、花月の鑑賞記はこれまで三度ほど書いていますが、今回は趣向を変えて、舞台の様子は簡単にまとめ、この花月という曲自体を廻ってのあれこれを書いてみようと思います。

まずは舞台の様子を簡単に。
次第でワキの出、角帽子に茶の水衣、無地熨斗目の着付けで登場し常座で次第。次第の後の名ノリ。これまであまり意識しませんでしたが、この花月では下掛宝生の詞は観世の本と比べるといささか委しく語るようです。観世の本では出家した経緯を述べ、諸国修行の由を述べて道行となりますが、森さんの謡では出家の経緯を語った後に、都は人の集まるところなので都に上り、行方知れずとなった子供を尋ねようと思う旨を述べます。
このためか、道行の後の詞は、観世の本では都に着いたので清水に参り花を眺めようとあるのに対して、清水に着いたので心静かに行方を尋ねようと謡い、「清水寺門前の人」とアイを呼び出します。
さてこのつづきはまた明日に
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花月のつづき

ワキとアイの問答、何か面白いことを見せてほしいというワキのことばに、アイは花月を呼び出す約束をして、ワキに「まず かう御通り候へ」と声をかけ、ワキがワキ座に向かいます。アイは後座に入って幕に向かって声をかけ、シテの出。紫の色大口に水色の水衣を肩上げ、前折烏帽子を着け、右手に弓、左手に矢を持って登場し、正中に出て名乗ります。

喜之さんも一頃はだいぶん声が掠れておられたのですが、この日はさして気にならず、花月の名の由来を謡って地謡に。「天下に隠れもなき 花月とわれを申すなり」と地謡が納めるとアイが立って角に出、シテに向いて声をかけます。
どうして遅くなったのかというアイの問いに、シテは今まで雲居寺に居たのだが春の遊びの友達と仲違いしないようにとやって来たのだと答えます。

アイはいつものように歌を謡って遊ぶように言って、扇を顔の前に出し、シテが後から寄り添うように立ちます。「来し方より」の一句をシテが謡って地謡。小歌の独特の節回しを地謡が謡う中、二人寄り添ったまま舞台を廻り、地謡座あたりから大小前へ。正を向いて三足ほど出ると、アイのみが目付へと進んで上を向き、鶯が花を散らすと言い出します。一緒に舞台を廻っていた二人ですが、シテがアイを突き放すようにする型がよく観られる場面。この日はシテが突き放した感は少なく、むしろアイの深田さんがススッと出たような印象でした。

鶯を射て落とすようにというアイの詞に、シテも弓は落花狼藉の小鳥をも射て落さんがため…と目付柱を見上げ、伝説の弓の名人養由基と我が身を引き比べつつ「思ふ心は 養由にも劣るまじ あらおもしろや」と謡って地謡。シテは目付柱に寄り角トリして柱を見上げ、左に回って大小前「履いたる足駄を踏ん脱いで」の謡に両足を交互に上げて足駄を脱ぐ型。後ろを向いて矢をつがえると「よっぴきひやうと」と目付柱に狙いを定めますが、「射ばやと思へども佛の戒め」の謡に弓矢を捨てて立ちます。弓之段と呼ばれるこの部分、謡も型も面白い見せ所の一つです。

アイはシテにいつものごとく地主の曲舞を謡い舞いするように求めます。
これを受けてシテのサシからクセになりますが、このつづきはまた明日に
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花月さらにつづき

シテのサシから地謡となり「五濁の水に影清し」の謡にユウケン。
続いてクセ。仕舞でもよく舞われる部分ですので型の子細は書きませんが、、清水寺の縁起を謡う地謡に乗せて舞います。

クセを舞い終えると、ワキが独り言ちする風で「これなる花月をいかなる者ぞと思ひて候へば、某俗にて失ひたる子にて候 やがて名乗って悦ばせばやと思ひ候」と言います。この辺りも単に「名乗って逢はゞや」と言う観世の本とはいささかニュアンスが異なるところ。

ワキがシテに声をかけて問答になり、ワキが「これこそ父の左衛門よ見忘れてあるか」とシテに自分の素性を明かします。この間にアイは立ち上がって常座から角へと出、ワキに何事を言っているのかと問いかけます。

ワキが親子であることを明かすと、アイはなるほど瓜を二つに割ったようだと感心し、花月に、鞨鼓を打って父を慰めるようにと言って狂言座に下がります。
物着となりシテは後見座で鞨鼓を着けます。この間にアイは常座に出て立ちシャベリ。
こんな目出度いことはあるまい、これも当寺の観世音の御利益であろう。恩愛のちぎり浅からぬ故に、この寺のお力で引き合わせられたのだろうなどと述べます。

アイはあらためて、シテに鞨鼓を打つようにと促し、シテが常座に出て「さてもわれ筑紫彦山に登り 七つの年天狗に」と謡って地謡。「とられて行きし山々を 思ひやるこそ悲しけれ」と地謡を聞いて鞨鼓です。

鞨鼓を舞上げるとキリの舞。これまた、仕舞でよく舞われる部分で、観ていてもたいへん面白い。常座から角へと進み「降り積む雪の白峰」と見上げて舞台を廻ります。山々を廻る謡に合わせて様々な型を見せます。
「かやうに狂ひめぐりて 心乱るゝこのさゝら」と撥を合わせて持ち、左手で数える型からワキの方を向き、「今よりこのさゝら さっと捨てゝさ候はゞ」と撥を捨てます。
「あれなる御僧に つれ参らせて佛道」の謡にワキは先に幕に入り、シテはこれを見送ると常座で回り、開いて留拍子。終曲となりました。
(53分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)

とりあえず舞台の様子は以上として、明日から「花月」を廻って少しばかり思うところを書いてみようと思います。
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花月を廻って

「花月」は四番目物に分類されますが、四番目物は雑物とも呼ばれ、他に分類されない様々な曲が含まれています。
そうした中で、自然居士や東岸居士とともに「花月」は喝食をかけたシテが鞨鼓を舞うという独自の一群をなしていて、遊狂物などとも言われることがあります。

遊狂というのは、世阿弥が息子の元能に相伝した「三道」の中に出てくる言葉で、日本国語大辞典によれば「遊び戯れる人、すなわち遊芸者」とされています。三道は能作論書で、冒頭の種・書・作の三道を概説した部分に「放下には、自然居士、花月、東岸居士、西岸居士などの遊狂」とあります。またもう少し後の方に「放下」と一項を立て、ここにも「自然居士・花月、男物狂、もしは女物狂などにてもあれ」と、花月の名が記されています。

三道は能作に関する書で、ここに挙げられた自然居士や花月は曲名ではなく、こうした人を主人公にした能を作るには、という文脈で語られています。西岸居士という能はありませんが、東岸居士の詞章には西岸という語句が何度か出てきますし、もともと西岸居士がツレとして出ていたが後に省略されたという説もあります。

ともかくも、三道の文脈から考えると、自然居士や花月、東岸居士、西岸居士といった遊芸者がいて、この人たちを主人公にして能を作ると良いと読めます。ここから二つのことが推測されます。
一つはこれらの遊芸者たちが実在の人物だったらしいということ。
そしてもう一つは、明確に彼らを主人公とした能を作ったとは記載していないものの、おそらくは世阿弥の時代までに、自然居士や花月、東岸居士といった能が作られていたらしいということです。そうした経緯もあってか、観阿弥作と明らかになっている「自然居士」以外の、花月と東岸居士は「世阿弥作か?」という扱いになっています。

ところで彼らが実在とするならば、いったいどんな人物だったのか興味あるところですが、このつづきはまた明日に
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花月を廻ってのつづき

自然居士・花月・東岸居士、西岸居士のうち、自然居士以外はどんな人物だったのか不明ですし、自然居士にしても生没年不詳。
講談社版日本人名大辞典の自然居士に関する記載には『鎌倉時代の遊芸僧。絵巻「天狗(てんぐの)草紙」などにみえる禅宗系の説経者。簓(ささら)をすりながらまうので「ささら太郎」ともよばれた。「謡曲拾葉抄」は,和泉(いずみ)(大阪府)日根郡自然田村の人で,円爾(えんに)の孫弟子とつたえる。観阿弥作の能「自然居士」で知られる。』とありますから、考える手がかりはありますが、花月や東岸居士の話は出てきません。

とは言え、花月の和泉流の間狂言では花月を「自然居士のお弟子にて」と紹介し、また東岸居士の詞章にはシテの言葉に「先師自然居士」とありますので、いずれも自然居士の流れをくむ人物と設定されている様子。そこで自然居士についての簡単な記載から、精一杯想像力を膨らませて、彼らの人物像を考えてみようと思います。

鎌倉時代の遊芸僧とありますが、生没年不詳なのになぜ鎌倉時代と分かるのかというと、実は手がかりがあります。絵巻「天狗草紙」は南都北嶺の諸大寺での僧徒の横暴と驕慢ぶり、あわせて浄土宗や時宗など、当寺の新興宗教の異様な振る舞いなどを七類の天狗に例えて風刺した全7巻の絵巻ですが、この興福寺巻に「永仁四年十月六日」の日付があります。有難いことに国立博物館所蔵の国宝・重要文化財がネットで見られるようになっていて、ここで重文に指定されている「天狗草子絵巻模本 興福寺巻」を見ることができ、日付が記載されているのも確認できます。この永仁四年は1296年、鎌倉時代の末期です。

ネットで見られる東大寺巻や延暦寺巻、興福寺巻などは、横暴と驕慢ぶりを描いたという割に、あまりそうした絵柄は見受けられません。一方、伝三井寺巻とされる浄土山臥遁世巻と諸天狗成仏巻には、様々な雑芸の徒が描かれていて、第四段には一遍の踊りと「自然居士」と書かれた男の踊る姿が描かれています(こちらはネットでは見られないので図書館などで確認ください)。年齢のほどは分かりませんが、髭を生やした様子が見て取れ、喝食姿の自然居士とはずいぶんと印象が違います。
さてこのつづきはまた明日に
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月を廻ってさらにつづき

ともかくも、この絵巻から想像する限りでは、鎌倉時代の終わり頃には、絵巻に名入りで描かれるほどに、自然居士は有名だった様子です。観阿弥が京都で活躍したのは1370年頃からですから、自然居士は百年近くも前の人ということになりそうです。

さて人名辞典に戻ると、自然居士は禅宗系の説経者で「謡曲拾葉抄」が円爾の孫弟子とつたえる、とあります。別な本では、自然居士は南禅寺で修行した僧で、東福寺聖一国師すなわち円爾につき、東山の雲居寺で説経をしたともあります。いずれにしても臨済宗系の僧侶の様子です。しかし僧侶とはいうものの、絵巻の自然居士は烏帽子を被り髭を伸ばした俗の格好で踊っていて、僧侶という言葉から想起される風体とは、およそ異なった印象です。
これはどういうことでしょうか。

そこで三道にある「放下には自然居士…」という記載です。
放下というのはもともと禅宗から出た言葉で、ものごとを放り投げて無我の境に入ることを〈放下す〉と言い、ここから何かを放り投げて曲取りする曲芸を指すようになったようです。日本大百科全書には、放下は僧形の下級芸能者で品玉、輪鼓を放り投げて曲取りする曲芸をもっぱらにし、室町時代ごろに定着。品玉、輪鼓、手鞠、コキリコなどを行って大道に立つと解説されています。また世界大百科事典では、室町期には僧形をした放下僧や、烏帽子姿で短冊を付けた笹竹を負った放下師などが活躍し、品物を投げて曲取りする散楽系の曲芸やコキリコなどでリズムを取り物語歌を歌い歩きしたと解説されていて、二つの事典では僧形なのか、僧形でないものも含むのか、この点は微妙に違います。

いずれにしても、室町時代に放下と呼ばれる雑芸人が定着した様子で、自然居士はその走りなのでしょう。自然居士自身は、絵巻でもあくまで宗教者として描かれていますし、雲居寺で説教していたという伝承もありますから、布教の便法として歌や踊りを取り入れていたということなのだろうと想像しますが、僧形には拘らずに踊りに合う形をしていた様子が見受けられます。こうした系譜に連なる人々が、さらには曲芸なども取り込んで、放下として定着していったということなのでしょう。
そこでもう一つ、説教という視点からはどんな様子が見えてくるのか、明日その辺りを考えてみたいと思います。
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花月を廻ってさらにさらにつづき

「説経」というと、お説教、お小言といった言葉が浮かんできますが、もともとの意味は当然ながら仏教の教義や経典を平易に説いて教化することです。
したがって仏教伝来以来、さまざまに説経は行われてきたわけですが、かなり古い時代から言葉に抑揚を付けて説経を行うこともなされていたようです。

調べてみると
「日本古代の教化(きようげ)僧は唱導を事としたが,おなじく教理を説く説教ははじめ経典の内容を解説した。これに対して唱導は音韻抑揚で譬喩談を語った。《元亨釈書》巻二十九は〈本朝音韻を以て吾道(仏教)を鼓吹する者,四家あり。経師と曰(い)ひ,梵唄(ぼんばい)と曰ひ,唱導と曰ひ,念仏と曰ふ〉と述べ,経師はすなわち説経師である。…」"唱導", 世界大百科事典, JapanKnowledge版
という記載もありまして、元亨釈書は元亨二年(1322年)に朝廷に上程された仏教通史書ですから、鎌倉末期には経師(説経)と唱導は別物とされていた様子です。なお梵唄は声明のことです。

音韻抑揚を使ったという唱導が、歌や踊りによる布教に繋がっていったように思えるのですが、どうもそうではない様子でして、経師の方が伴奏に簓などを用いだし、踊りなども加えて芸能化していったようです。上記の世界大百科事典の解説では、唱導はそのままの形を長く伝え、江戸時代になって説経節やチョンガレと結合し節談説経となっていったことが記されています。

そういう意味では、自然居士はまさに説教師ということになりそうです。そして、花月や東岸居士、西岸居士もこうした説教師の中にいた、ということでしょう。
しかしながら天狗草子に見られる自然居士の姿と、能での自然居士の様子は相当に異なっています。
さらに「花月」について言えば、アイとのなんとも怪しい関わり方や「恋といへるくせもの」という謡。なぜ弓矢を持っているのかなど、気になるところがまだまだあります。
明日はこの辺りについて書いてみようと思います
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花月を廻ってまたつづき

自然居士を絵巻に見られる姿と大きく異なった形で能に登場させたのは、やはり観阿弥の独創ということなのでしょう。
世阿弥もこの能にはかなり手を入れている様子なので、観阿弥が演じた自然居士が現在と同様の喝食姿だったのかどうか、いささか疑問も残ります。しかし風姿花伝に「自然居士の物まねに、高座の上にての振舞を、時の人、『十六七の人体に見えし』なんど、沙汰ありしなり」とあって、世阿弥は四十を過ぎた観阿弥の演じた自然居士が十六七に見えたと書き記していますので、詳細は別としても観阿弥が自然居士を若い男として演じたことは間違いなさそうです。

自然居士を廻っては、上の引用にある「高座の上にての振舞」が、世阿弥によって省略された場面で、五音にその詞章と思われる部分が残っていることなど、まだまだ触れておきたいこともあります。しかしそのあたりを書いていると、いつまでも「花月」に到達できそうにないので、観阿弥が自然居士を若い男に仕立て直したというところを確認して、花月の方に話を移し、自然居士を廻ってのあれこれは、またいつか機会のあるときに触れてみたいと思います。

さて、花月などで用いられる喝食の面へ話を進めようと思います。
喝食はもともとは禅寺で食事の種別や進行を唱えて衆僧に知らせること、またその役名を言い、喝食行者とも言います。もともとは年齢には関係なかったらしいのですが、後々、日本の禅林では7、8歳から12、13歳の小童が勤めるのが一般の風習となり、室町時代には稚児の別名となって、本来の職責とは異なり、公家や禅僧の若道の相手役となったと言われます。(日本大百科全書をもとに記載)

喝食面は、この喝食を模したものですが、室町期に成立してきたわけで、当然に男色も想起させるものだったのでしょう。遊狂物のシテが喝食をかけることにより、若い男というだけでなく、色気ある男の物まねによって観客を惹きつける趣向もあったのだろうと想像します。
そして花月ではアイとの絡みなど、さらにこうした面が強調されているようです。
さてこのつづきはまた明日に
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花月を廻ってまたまたのつづき

花月という能については、昨日ふれたように男色的要素が見られることと、遊狂物といわれるに相応しい芸尽くしと、二つの面から特徴的な能とされています。
生き別れになっていた父子の再会という筋書きはありますが、これはさほど重要視されておらず、場面設定のための背景といった位置づけに感じられるところです。

さてこの芸尽くし、冒頭に「花月」の名の由来を数え上げる場面を含め、男色的要素を感じさせる小歌、弓ノ段、曲舞、鞨鼓、山廻りと、比較的短い一曲の中に、これでもかと詰め込まれています。そんななかで弓ノ段に関連して興味深い論文を見つけました。
法政大学国文学会の会誌「日本文學誌要」73号に掲載された伊海孝充さんの…<花月>の「春の遊び」…と題した一文ですが、伊海さんは大阪大学名誉教授の天野文雄さん(以前鑑賞記の中で、藤戸に関する天野さんの説について書いたことがあります)が「禅寺の喝食である花月がなぜ弓矢をもっているのだろうか」と疑問視されたとをとりあげ、この問題提起は重要であるとして、論考されています。

伊海さんはここで「小弓」という遊戯のことを持ち出されています。「小弓」は平安時代から貴族や子供に賞玩されてきた遊戯だそうで、念のため古事類苑を見てみましたが小弓に関しては応和(961~964)、承暦(1077~1080)、長治(1104~1105)年間などの記事があります。もともと宮中で小型の弓をもって的を狙って得点を競う遊び、小弓合ないし小弓会から広まったようですが、雀を的代わりにする「雀小弓」なども、子供の遊びとして人気があった様子です。

花月が鶯を狙うという場面、観客は雀小弓を連想しただろうというわけです。その小弓は蹴鞠とともに「春の遊び」と認識されていた様子で、伊海さんは鞠小弓が春とともに詠み込まれた歌などを引き、小弓と「春」の季節感の関係性を強調しています。
そして花の咲き満ちる清水寺で喝食の少年「花月」が行うのに最も相応しい芸能として「小弓」が使われたのだと結論づけています。花月が登場した場面でのアイとシテの問答にも「今まで雲居寺に候ひしが 花に心を引く弓の 春の遊びの友達と 中違はじと参りたり」とある部分、弓の「張る」と春を関係づけているのもその流れであるということです。

先にふれた天野さんの説は、放下僧の例を引きながら、禅的要素に起因して花月に弓矢を持たせたのだという結論ですが、なんとなく伊海さんの説の方が「春の清水寺」を舞台とする能、しかも遊狂物に相応しいように思えました。

長々と書いていますが、明日・明後日は出張ですので戻ってきて落ち着いたら、花月の芸尽くしをめぐってもう少しだけ書いてみようと思います
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花月を廻ってなおつづき

花月を廻って、様々なことを書いていますが、花月を特徴付ける大きなところ「芸尽くし」では、弓ノ段に関連しての話を書きました。
舞台の方は、弓ノ段の後に曲舞があり、親子の再会の後には鞨鼓、そして山廻りと続いていきます。そこで、曲舞、鞨鼓、山廻りについて、少しずつ気になることなどを書き記しておこうと思います。

まず曲舞ですが、二つほど。
一つは「甲グリ」の話です。「カングリ」と読みますが、このブログでは「能狂言のあれこれ」の「ツヨ吟とヨワ吟」の項目で簡単に触れています。
ですが、より詳しく分かりやすい説明が、時々引用させていただく「謡曲の統計学」のサイトにありますので、ぜひ参照されると良いと思います。統計学をまとめられた大角征矢さんが、「能・謡 ひとくちメモ」として書かれたものから36話ほど掲載されていて、この一話で「ツヨ吟の甲グリ」に触れています。

しかし私、どうもこの甲グリが音楽的にはあまりしっくりしないように思えて仕方ないのです。だからこそ何か特別に強調したい部分に用いられているのかも知れないなあ、などと考えています。

そこでこの花月ですが、「楊柳観音」のところに使われています。
クセは清水寺の草創について触れ、大同二年の春、坂上田村麻呂が清水寺を創建したと始まります。これは能「田村」の詞章と同じですが、さらにあるとき、清水の音羽の瀧が五色に見えたので水上を尋ねると「こんじゆせんの岩の洞」に青柳の朽木があり、その木から光が差して異香が四方に薫じていた。これは疑いもなく…「楊柳観音の御所変にてましますか」と続く部分です。

この清水寺創建をめぐる部分が二つ目の話です。
清水寺の本尊はご存知の通り千手観音でして、どうして楊柳観音が出てくるのかが分かりません。謡は「朽木の柳は緑をなし 桜にあらぬ老木まで皆白妙に花咲きけり さてこそ千手の誓には」とあって、千手観音も出てきますが、どういう伝承をもとにこの謡が書かれたのか、探した限りでは解説したものがありませんでした。

さらに「大同二年」です。
清水寺の寺伝では、寺の開創は宝亀九年(778年)とされ、行叡居士から霊木を託された賢心が音羽山の草庵と観音霊地を守ったとされています。後に坂上田村麻呂が寺院を建立したとされますが、それは延暦十七年(798年)と伝えられています。
大同二年は807年で十年近い開きがあります。坂上田村麻呂が亡くなったのは弘仁二年(811年)ですから、807年でも変ではありませんが、寺伝と明らかに異なった時期になっているのは妙です。
ところでこの大同二年ですが、実は東北から、私の住む茨城まで、この年を創建・中興とする寺社が多々見られます。またその創建などには空海や坂上田村麻呂の名前が必ずといって良いほど出てきます。どうも何か大きな歴史的事件が背景にありそうな気がするのですが、現状、これ以上のことは分かりません。おいおい色々と調べてみようかと思っています。
「こんじゆせん」というのもなんだか分からないのですが、こちらも将来の課題です。
というわけで、鞨鼓などの話は、また明日に
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