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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

呉服 辻井八郎(座・SQUARE第21回公演)

金春流 国立能楽堂 2018.07.15
 シテ 辻井八郎
  ツレ 井上貴覚
  ワキ 野口能弘
  ワキツレ 野口琢弘 舘田善博
  アイ 小笠原匡
   大鼓 原岡一之、小鼓 観世新九郎
   太鼓 小寺真佐人、笛 藤田次郎

呉服は十年ほど前に、宝生流小倉健太郎さんの演能の鑑賞記を書いています。
この曲、あまり上演されません。例の観世流演能統計でも193位、輪蔵や第六天よりも演能回数が少ないという稀曲の類です。私もたしか三度目の鑑賞ですが、今回は作り物の機織台が出されまして、これは初めて見ました。

囃子方、地謡一同が座に着くと、機織台が持ち出されてきます。下は当日のパンフレット表紙と、中のページの写真ですが、表紙では左から二番目が機織台です(著作権に影響がない程度に画質を落としました)。これはおそらく二十八年前に金春晃實さんがなさった時の写真ではないかと思いますが、今回のものとは少し違うようです。何分、国立能楽堂にも機織台は備えていないため、今回は写真や記憶をもとに、シテの辻井さんはじめ皆さんで作られたとのこと。
今回のものは、もう少し糸の傾斜が緩い感じです。上部に鋸の歯のような形に見えるのは朱の鬘帯で、上に赤い布を巻いた弓のような形のものが付けられていました。下に見える糸の束は見所から見て左から緑、黄、赤、白、紫と、揚げ幕と同じ色、順序になっていました。写真は白黒でよく分かりませんが、こちらから見て左から紫、白と並んでいるようで、今回と逆順のようにみえます。
表紙  img1002.jpg
ともかくも舞台にはワキ、ワキツレの一行が登場し、三遍返しで次第を謡います。
当今に仕える臣下と名乗り、住吉明神に参籠したので浦伝いに西の宮に参ると言って道行。津の国呉服の里に着き、機織りの音が聞こえると言いワキ座に着座します。
さてこのつづきはまた明日に
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呉服のつづき

真ノ一声でシテ、ツレの出。唐織着流しに側次姿で登場し、ツレが先に立ち橋掛りで向き合っての一声、二ノ句、同吟からアシライ。二人は舞台に入ってツレが正中、シテが常座に立ってシテのサシ。さらに同吟から下歌、上歌と型通りに謡って、立ち位置を入れ替えて、ツレが角、機織り台の近くに立ち、シテは大小前で床几に腰を下ろします。
ワキが声をかけて問答に。

この日、シテの面は越智(えち)作の小面ということでした。越智は生没年不詳ですが、室町時代初期の面打ちといわれていますので、七百年ほど前の面ということでしょうか。金春宗家所蔵のようですが、こういう面が現に舞台上で使われること自体が、能の能らしいところかも知れません。

さてワキが声をかけての問答で、シテは自分たちが応神天皇の御宇に唐国からやって来た「くれはどり」と「あやはどり」であるとあかし、後撰集七一二 清原諸実の歌「くれはとり あやに恋しく ありしかば 二村山も こえずなりにき」を引いて、この歌も二人を思う心だと謡います。

打掛のアシライからクリ。シテのサシから地謡となり、クセに。
「応神天皇の御宇かとよ」の謡にシテは立ち上がり、開いて左右、打込から舞台を廻り、大小前に戻って上扇、大左右から、また舞台を廻り大小前に戻って、小回りして打込開キ、と曲舞の型に沿って舞い、扇を閉じて下居します。詞章は、応神天皇の御世に呉の国の勅使が、綾女糸女をつれてやって来て綾の御衣を奉ったことを謡うもの。

続いてロンギ。「夜もすがら機を織り給へ」の謡に、シテ、ツレは「暁の空を待ち給へ 姿をかへて来らん」という心で立ち上がり、ワキに向いて三足ほど詰めた後、常座へと向かって一度向き直り、あらためて中入となりました。
このつづきはまた明日に
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呉服さらにつづき

中入となり、ワキがワキツレに声をかけアイ所の者を呼び出します。
型通りのやり取りがあり、アイが正中に進み出て座し、くれはどり、あやはどりの謂われを語ります。

神功皇后が三韓を切り従え天下一統に治まった後、(その子である)応神天皇の御宇には呉の国から四季折々の貢ぎ物がもたらされた。応神天皇三十七年に、呉の国から織姫がやって来て和泉国深井の里から都に上ろうとしたが、遠いのでこの地に留まり、初めて山鳩色の御衣を献上したと聞いている。また「くれはとり」というのは、機織りの際に糸をあちらからこちらへ送る木をクレハといい、このクレハを取ることから「くれはとり」というのだ、などと語ります。

語り終えたアイが下がると、アシライでワキが立ち上がって向き合い待謡。出端が奏されて後シテの出となります。

後シテは紫長絹に緋の大口、天冠を着けた天女の姿です。常座まで進んでシカケ開キ「君が代は 天の羽衣まれにきて なづともつきぬ いわおならなん」と謡い出します。
地謡が受けて、シテは大小前に正面を向いて立ち、さらに「錦を織る機物のうちに」と謡い、「衣うつ砧の上に」と七つ拍子踏んで開キ。ワキ正にシカケ開キから正に直して「取るや呉服の手繰の糸」と両手を合わせて扇を左に取ります。
機織台の前で「踏木の足音」と拍子を踏み、「きりはたちやう」の機織りを模した謡の声に左右、打込からサシて正先。後ろを向いて大小前に戻り、正に向き直って答拝から中ノ舞です。

舞上げてから大左右。呉服の霊は妙幢菩薩となって、当今の御世を言祝ぎ、謡い舞のうちに終曲となりました。
辻井さんはこういう優雅な曲も得意なんだなと、あらためて思ったところです。

妙幢菩薩は地蔵菩薩の別名なので、お地蔵さん・・・ですかといささか違和感がありますが、一般には僧形で示される地蔵菩薩も、密教では髪を高く結い上げ、いわゆる菩薩形で表されるようですから、天女の姿もあり得ることの様子です。
(95分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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融 笏ノ舞 山井綱雄(座・SQUARE第21回公演)

金春流 国立能楽堂 2018.07.15
 シテ 山井綱雄
  ワキ 森常好
  アイ 能村晶人
   大鼓 安福光雄、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 古屋潔、笛 杉信太朗

山井さんの融は以前にも拝見したことがありますが、今回は笏ノ舞の小書付で、だいぶん雰囲気が違いました。
ちなみに、このブログで融の鑑賞記は三度(観世流浅見真州さん金春流山中一馬さん金剛流金剛永謹さん)書いていますが、山井さんの融を観たのはブログを書き出す以前でしたので、記録がありません。

まずはワキの出。名宣笛で登場し常座で名乗るのが通常の形ですが、今回は笛がないまま登場して二ノ松に立ち名乗り。続いて「思ひ立つ」と下歌を謡い、上歌を一句謡って歩み出し、上歌いっぱいに常座に出て「これは早 都に着きて候」と詞。心静かに一見せばやと思ひ候、と言ってワキ座に着座しました。

一声で前シテの出、無地熨斗目着流しに柿色のような水衣を肩上げ、腰蓑を着け右肩に田子を担っての出です。常座に出て一セイ「月も早 出汐になりて塩釜の 浦さびまさる 夕べかな」を謡い、続いて「あまりに苦しう候ほどに しばらく此の所にて 休まばや」と言って田子を下ろして立ちます。

サシ、下歌、上歌が省略されて、ワキが直ぐに「如何にこれなる尉殿」と声をかけて問答になります。型通りの問答で月の出となりますが、ここでは特に月を見上げるような型はなく、地謡の「実にや古も 月には千賀の塩釜の」で正を向いて開キ、舞台を廻り大小前でシカケ開キ、「千賀の浦わを詠めん」とワキと向き合って下居します。

ワキが、千賀の塩釜を都の内にうつした謂われを語るように求め、シテの語り。
シテは正面に向き直って語り出します。嵯峨天皇の御宇、融の大臣が陸奥の千賀の塩釜をこの地にうつして塩を焼かせたが、その後は相続する人もなく荒れ果ててしまい、紀貫之の歌にも「君まさで 煙絶えにし 塩釜の うらさびしくも 見え渡るかな」と歌われている。と、古今集八五二番の歌を引いて語ります。

ところで「千賀の塩釜をうつし」ですが、観世の大成版は「移し」で、長年何の疑問も持たずにいたのですが、流儀によって「写し」ともあるようで、考えてみれば陸奥から塩釜を移設して来たわけではないので、「写し」の方がおさまりが良いようにも思います。
ともかくもこのつづきはまた明日に
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融のつづき

シテの語りを地謡が受け「げにやながむれば」と謡い出し、シテはゆっくりと左の手を上げ、右手に重ねて「老の波も帰るやらん」とやや面を伏せると、安座に直して「あら昔恋しや」とモロシオリの態になります。
さらに地謡が上歌「恋しや恋しやと」と謡い続けると、モロシオリの手を下ろしてゆっくりと立ち上がり、右から廻って幕方を向き、あらためて「なくばかりなり」と再びモロシオリになります。

ここでワキがたちあがり「只今の物語に落涙仕りて候」と言った後、転じて名所を尋ねて名所教えとなっていきます。
目付柱の先の方を見る感じで音羽山を教え、やや脇正面寄りに中山清閑寺。ワキ正の遠方に稲荷山、さらに幕の方に向いて深草山から、竹田、淀、鳥羽とみやる形です。
さらにロンギとなり、笛柱の方に大原、小塩を見て、地謡裏の方角に嵐山を見て名所教えを終えると「空澄み上る月影に」の謡にスッと右手を出して開キ。「身をばげに 忘れたり」の謡に、はっと気付いた態で両手を打合せ、田子を取り上げると両肩に担って立ち上がり、正中から正先へと出て両方の桶を下ろして汐を汲んだ形で立ち上がると、右の肩に担います。

しかし「汐曇りにかきまぎれて」の謡に、田子を落として一ノ松までススッと進み、ここからあらためてゆっくりと歩んで中入となりました。
アイが進み出ての間語り。型通りにワキとの問答から、融の大臣の話を語って下がります。

ワキの待謡から出端でシテの出。
後シテは白系の狩衣に、指貫は浅黄色のようで、指貫としては珍しい色です。巻嬰の初冠で黒垂は着けず、一ノ松に進み出て「忘れて年を経しものを」と謡い出します。
サラサラと謡って地謡の「さすや桂の枝々に」で舞台に入り常座へ。さらに「ここにも名に立つ白河の」で袖の露取って橋掛りに進み、幕前まで進むと、笛のアシライ、大小の流し打ちで大小前まで戻っての舞。
笏を持ち急ノ舞を舞うのですが、急々ノ舞の位とでもいうのか本当に早い。以前、山中一馬さんの笏ノ舞を観ましたが、こんなに早かったかなあという印象です。

大小前で舞上げた後はロンギの地で常座に進み、笏を扇に持ち替えての謡い舞。「月も早」と地謡座の方に向いて雲扇した後「この光陰に誘はれて」で両袖を巻き上げて橋掛りへと進み、「あら名残惜しの面影や」で左の袖を被いて、そのまま幕に入り、ワキが常座まで送っての留となりました。
常の融とは随分と異なり、融は古くは鬼の能であったという話も納得できるような、そんな一番でした。
(78分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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「初秋ひたち能と狂言」を観に行く

「観に行く」とは言っても、既に10日も前のことになってしまいましたが、9月1日に日立シビックセンターへ、二十二回目になるというこの会を観に行ってきました。

この会、原則として二年に一度の開催で、観世流と喜多流が交互に出演し今回は喜多流の年。粟谷能夫さんの羽衣霞留と粟谷明生さんの融、それに野村万蔵さんの萩大名に、友枝昭世さんの仕舞松風という番組です。

正直のところ、地元でこんな豪華な会を観られるというのは大変有難い機会と思います。
が、当日、訳知りの方にうかがったところではチケットの売れ行きがあまり良くなかったようで、「この地域の文化的な水準の低さ・・・」と嘆いておられましたが・・・

ともかくも、仮設舞台ですし、多目的ホールなので音響も今ひとつではあるのですが、演能自体は本当に良かった、観に行って良かったとしみじみ思ったところです。

おなじみの演目ではありますが、気付いたことなど、明日から少しばかり書いておこうと思います。
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羽衣 霞留 粟谷能夫(第22回初秋ひたち能と狂言)

喜多流 日立シビックセンター 2018.09.01
 シテ 粟谷能夫
  ワキ 宝生欣哉
   大鼓 亀井広忠、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 小寺真佐人、笛 杉信太朗

霞留の小書は十一年ほど前、亡くなられた狩野琇鵬さんのシテで拝見しています。その際の鑑賞記にも書きましたが、喜多流では羽衣に三つの小書があります。舞込、霞留そして雲井之舞ですが、雲井之舞は大正四年の大正天皇即位式に際して催された天覧能の際に十四世喜多六平太が演じた形で、時間の制約で大幅に章句を短縮し形を整えたものだそうです。
残る舞込と霞留ですが、「霞留」は幕末の土佐藩主である山内容堂の求めで作られたものだそうで、十四世喜多六平太の「六平太芸談」には、霞留は舞込と大体は似たようなものだけれども、どうも無理をして作った様な跡があると書かれています。
その舞込は、能夫さんの叔父さんにあたる粟谷幸雄さんのシテで観ていますが、たしかに面白い一番だった記憶があります。
*羽衣の鑑賞記(喜多流粟谷幸雄さん金剛流蓮元早苗さん喜多流狩野琇鵬さん金春流高橋忍さん金剛流金剛龍謹さん

さて今回の舞台ですが、霞留では作り物は出さず、後見が一ノ松あたりの欄干に長絹を掛けます。
一声の囃子でワキの出となりますが、今回はワキツレ無しで欣哉さんのワキ一人のため、一セイは正面中央ではなく常座で謡い、担っていた釣竿を後見座に置くと二ノ松あたりに進みます。「是ハ三保の松原に白龍と申す漁夫にて候」まで謡い、以下、下歌、上歌を省略して「我三保の松原にあがり」と詞。「これなる松にうつくしき衣かかれり」と羽衣に気付いた態で欄干に寄り、長絹を取り上げると「家の宝となさばやと存じ候」と言いながら舞台に入りワキ座へと向かいます。

ワキが常座辺りにかかったところでシテの呼掛。ワキはそのまま地謡座前まで進みますが、ゆっくりとシテが橋掛りに姿を現します。
このつづきはまた明日に
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羽衣のつづき

シテは白の摺箔に赤系の縫箔を腰巻にしたモギドウの形、天冠は牡丹の花です。
地謡座前で向き直ったワキと問答の形で謡い、「悲しやな羽衣無くては飛行の道も絶え」あたりで一ノ松に出ます。

ワキは「天の羽衣取り隠し」と謡いつつワキ座前で一廻りし、正に向き直りますが、ワキ「白龍衣を返さねば」シテ「力及ばず」二人「詮方も」と謡って地謡。
シテの「天の原 ふりさけ見れば 霞立つ 雲路惑ひて 行方知らず」から地謡が受け、上歌「迦陵頻伽の馴れ馴れし」でシテは向きを換えると舞台へと向かって常座に進み「空に吹くまで懐かしや」とシオリます。

ここでワキが声をかけ「あまりに御嘆き候程に 衣を返し申そうずるにて候」と衣を返すと述べます。
天人の舞楽を見せて欲しいとのワキの求めに、舞を舞うには先に羽衣を返して欲しいとシテが言い、衣を返したら舞わずに天に上ってしまうのではと言うワキに「疑いは人間にあり」とシテが窘める場面。
その言葉にワキが恥じてシテに寄り「衣を返しあたふれば」と衣を返します。

ここで常の形では物着になるのですが、今回はシテが「少女は衣を取り返し 霓裳羽衣の曲をなし」と謡い、ワキ、シテかけ合いから「東遊の駿河舞」の地謡へと謡い継ぎました。この部分、以前の狩野琇鵬さんの時のメモを確認してみたのですが、このときはワキが衣を返して物着。シテは長絹を着けてから「少女は衣を着しつつ 霓裳羽衣の曲をなし」と謡い出しています。
この「少女は衣を取り返し」というのは粟谷家の伝書にある霞留の形のようで、情景描写がより丁寧な感じです。シテは二度目の「東遊の駿河舞」で向きを換えて大小前へと進み「この時や始なるらん」を聞いて大小前で床几に腰を下ろして物着となります。

物着アシライのうちに後見の狩野了一さんが長絹を広げ着付けをしましたが、畳んであるときは朱のような色と思った長絹が、広げてみると少し橙色がかった薄い桃色のようなきれいなもの。狩野さんが前を合わせて糸でとめましたが、狩野琇鵬さんのご子息であるのも何かの縁かと思われた次第。
さて物着を終えると打掛のアシライを聞いて序となりますが、さてこのつづきはまた明日に
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羽衣さらにつづき

序「それ久堅の天といつぱ 二神出世の古・・・」が謡われ、常の形ではシテのサシがあってクセになりますが、霞留の小書では「久堅の空とは 名づけたり」からサシを省いてクセの「春霞 棚曳きにけり久堅の」に続きます。

クセはしばらく地謡を聞き「月清見潟富士の雪」で立ち上がると、四足ほど出て四拍子踏み開キ。左に回って大小前でシカケヒラキ、左右打込、扇広げて上羽と、常のクセの形です。
「落日の紅は」と雲扇…は観世流なので…カザシヒラキ、六つ拍子踏んで扇カザシ、地ノ頭から大小前「白雲の袖ぞ妙なる」と左右打込し、直して合掌「南無帰命月天子本地大勢至」と謡って合掌を解き、常座に進んで正に向き直り、序で答拝して序ノ舞となりました。

霞留は序ノ舞が盤渉序ノ舞になり、初段の途中から調子が黄鐘から盤渉へと上がります。杉信太朗さんの笛、いつもながら良く鳴って伸びのある音なので盤渉が冴える感じがします。
さてこの小書では三段目が破ノ舞の位になりますが、二段あたりから常よりも速い感じになっていました。三段を流れるように舞上げると、シテ、地の謡、破ノ舞の一連の部分が省略されて、地の「東遊の数々に」へと続きます。

二度目の「東遊の数々に」でシカケヒラキ、「其の名も月の色人は」と扇左肩二ソムケ…観世流で言う抱扇の形、左に回って大小前。さらに小さく一廻りすると「七宝充満の宝を降らし」とアフギ(招キ扇の形)から、扇を左右持ち替えて左の袖を抑え「國土にこれを施し給ふ」と扇を落とします。宝を國土に施す意での所作と思いますが、霞留独特の形。
シテは橋掛りへと移り、「浦風に棚曳き棚曳く」と一ノ松で左右見渡し、二ノ松あたりに進むと、ぐっとしまった謡に「愛鷹山や富士の高嶺」と、左の袖を懸けて空中高くから遥か地上を見下ろす形。左の袖を被くと「天つ御空の 霞に紛れて」の謡に、そのまま幕に入ります。
立ち上がっていたワキが常座へと進み、「霞に紛れて」までで地謡が謡を止め「失せにけり」は謡わずに囃子だけが奏される中、ワキの留拍子で終曲となりました。
小書が付いた上に、さらに省略もあり、また仮設舞台で橋掛りが短いことなどもあって、50分に満たない上演時間でしたが、充実した羽衣を観た感があります。
(48分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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融 粟谷明生(第22回初秋ひたち能と狂言)

喜多流 日立シビックセンター 2018.09.01
 シテ 粟谷明生
  ワキ 宝生欣哉
  アイ 野村万之丞
   大鼓 亀井広忠、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 小寺真佐人、笛 杉信太朗

金曜日の夜は久しぶりに銕仙会を観に行って来たのですが、このあたりの話はまたいずれということで、ひたち能と狂言の続き、粟谷明生さんの融について書いておこうと思います。

ワキは羽衣に引き続き宝生欣哉さん。今度は諸国一見の僧ということですが、二ノ松あたりで名乗り、下歌、上歌と謡い、その上歌の終わり近く「宿の名残も重なりて」あたりで橋掛りを歩みだし、「都に早く着きにけり」と常座に出て上歌をおさめました。
「これは早都に着きて候・・・」と詞。「心静かに一見せばやと思ひ候」と言ってワキ座に着座、前シテの出となります。

一声が奏されて前シテ、無地熨斗目、水衣に腰蓑を着け、右肩に田子を担っての登場。常座まで進んで一セイ。「うら寂びまさる」あたりでまとめて握っていた田子の紐を放して桶を下げた形とし、サシ、下歌、上歌を省いて「あまりに苦しう候ほどに しばらく休まばやと思ひ候」と(たぶんそんな感じのことを)言って田子を置き、常座に立ちました。

このワキ、シテの出の形、7月に観た山井さんの笏ノ舞と同じです。今回は特段の小書はないので、シテ明生さんの考えでこの形を取られたのだと思いますが、融の前場はシテ、ワキのやり取りが多く、名所教えなどもあって長丁場ですので、このあたりを詰めるのも見所としては観やすい感じがします。

この後は汐汲みを廻っての問答になりますが、途中「や 月こそ出でて候へ」でシテ、ワキが幕方に月の出を見る形となりました。観世流とは方角が逆で揚げ幕の方が東になりますから(喜多流の方が古い形のように思いますが)月の出で幕方を見上げる形です。
「僧は敲く月下の門」「推すも」「敲くも」「故人の心」と謡い継ぎ、「目前の秋暮」とシテは小さく左右に面を使って、地謡の上歌。五、六足出て「籬の島隠れ」と目付柱方を見、ワキと向かい合ってツメてから左に回り、正中あたりから常座へと進んで「千賀の浦曲を眺めん」と正面を向きます。
ワキが塩釜の謂われを語るように求め、シテは大小前から正中辺りまで出て下居、語となりますが、このつづきはまた明日に
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融のつづき

さて正中での語から「君まさで 煙絶えにし 塩釜の うらさびしくも 見え渡るかな」と古今集、紀貫之の歌を引いての謡、そして地謡の下歌、上歌へと続いていきます。

上歌の「恋しや恋しやと」で立つ気配を見せると「慕へども願えども」で立ち上がって三、四足ほど出て「音をのみ鳴くばかりなり」の謡に、モロシオリしつつ下がって大小前に立ちます。ワキも立ち上がってシテを向き、物語に落涙したと言いながら名所教えを乞います。

シテが教えようと答え、ワキは目付柱の先、遠く見やる態で音羽山かと問います。シテも同じ方角を見て音羽山候よと答え、この後、ワキに向き直る形を交えつつ、ワキ正方向に中山清閑寺、やや右へ今熊野、さらに幕方に里一村の森の木立を見て、ちょうど幕の右端の方角に稲荷山。
後見座の奥に藤の森。「野山につゞく里は如何に」と笛柱の奥、地謡の方角に深草山を見て、竹田、淀、鳥羽と見やる形です。ロンギとなって一度、シテ・ワキ向き合い、さらに地謡裏の遠方に大原を見ます。ワキがワキ柱の方角を見「西に見ゆるは何處ぞ」の謡に、シテは正面からゆっくりとワキに向きを合わせて「松の尾の嵐山も見えたり」と謡います。
名所教えの方角取りは金春流も同様なので、先般の山井さんの時と同じですが、何度観てもこの場面の面白さを感じるところです。昔、京の都でこの能を観ていた人たちは、名所の数々を現実の場所として知悉していたのでしょうから、田舎から出てきた旅僧に教える気持でこの場面を観たのかも知れません。
さて、汐時も早過ぎて、とシテが思い出したように謡い、「忘れたり」と両手打ち合わせて田子に寄ると、目付柱近くで舞台先まで進み、両の桶を舞台から下ろして汐汲む形。下がって両方の桶を見ると、ワキ座から常座へと進み、桶を置いて中入です。

アイ六条あたりに住まいする者が進み出て、東山に出て心を慰めようなどと言って型通りにワキに気づき、ワキの求めで正中で融の大臣のことを語ります。
源融は嵯峨天皇の皇子で、清和天皇の御代、貞観十四年八月に左大臣に任ぜられたが、遊舞を好み、何事か世に面白きことがあるかと問うた。ある人が陸奥国千賀の浦で塩焼くほど面白いものはないと言ったので、塩釜をうつし、塩を焼かなくてはそれらしくないだろと、難波から汐を汲み、海に千人、道に千人、此の所に千人、都合三千人に汐を運ばせて塩を焼かせた。
かの業平も「塩釜にいつか来にけん朝なぎに 釣する舟はこゝに寄らなん」と詠じたとか。かの大臣はそうして一生を過ごし、寛平七年七十三歳にて亡くなったが、相続する人もなく、この地もこのようになってしまった。貫之の歌にも詠まれたと承っている。
と語り、その後は型通りのやり取りをワキと交わして下がります。
さてこのつづきはまた明日に
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融さらにつづき

アイが下がるとワキの待謡。
出端が奏されて後ジテの出となります。白の狩衣に紫の指貫、直纓の初冠に黒垂の装束。融の後場としては一般的な形ですが、喜多流はもともと黒垂を着けなかったそうで、これはシテの粟谷明生さんの工夫だそうです。

一ノ松に立って「忘れて年を経しものを」とシテの謡い出し。「融の大臣とは我がことなり」とワキに述べるように謡い、「我塩釜に心をうつし」と一度正面に直しますが「あの籬が島の松陰に」と、やや左を向き、籬が島の方を見やる態。「三五夜中の新月の色」まで謡って正に向き直り一セイ。地謡が受けて「さすや桂の枝々に」と謡う中、向きを換えて舞台に入り常座へ。
「光を花と 散らす装ひ」と謡いつつ拍子を踏み、ヒラキ。大小前でサシて「あら面白や曲水の盃」と正先へ打込ヒラキ。扇開きつつ一廻りして正先で「うけたりうけたり」と盃を汲んで両手で捧げる型から「遊舞の袖」の謡を聞きつつ正中に立って早舞です。

早舞は小書はありませんが、クツロギ入りの五段で舞われました。三段で橋掛りに入り、しばし留まった後、大小、太鼓の流しで舞台に戻り五段まで舞上げます。
笏ノ舞もそれはそれで面白いのですが、ああ上手のシテが舞う早舞はやはり五段で観たいもの。
舞上げるとロンギ。

名月に照らされるのになぜ影も姿も薄いのかと問いかける地謡に「それは西岫に 入り日のいまだ近ければ その影に隠さるゝ」ワキ正側・・・西方を差して謡います。「釣針と疑ひ」では扇持った右手を高く上げて釣針の形。ここから扇を左に持ち替えてやや寝かせ「弓の影とも驚く」と弓の形。舞台上に水面が生じ釣針や弓の影を映したかと感じたところ。
「鳥は池辺の樹に宿し」と正先に鳥を見上げ「魚は月下の波に伏す」と扇頭二当テ・・・観世でいう枕扇の形。「鳥も鳴き」と左の袖を懸け、「月も早」でワキに向かってカザシヒラキ・・・観世の雲扇の形。「影傾きて」の謡に幕方、東方を見ると、左の袖を巻き上げて正先から常座へ。「あら名残惜しの面影や」と聞きつつ橋掛りへ進んで幕前で一度立ち止まって舞台を振り返ると、繰り返す「名残惜しの面影」にそのまま後へ下がる形で幕に入り、ワキがワキ座で留の形となりました。
こんな舞台を観ると幸せな気持ちになります。
(74分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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銕仙会を観に行く・・・枕慈童と菊慈童

観に行く・・・と言っても、もう10日も前のことになってしまいましたが、14日の金曜日に銕仙会定期公演を観に行ってきました。
学生時代には、毎月の公演鑑賞はサークル活動の一貫のようなものでしたので、ほとんど全回を観ていましたが、地方の勤め人になってみると金曜日の夕方からの公演は、なかなか観る機会が作れません。ですが最近仕事も変わり、当日は時間の融通もついたので、思い切って初番から観ることにしました。

今回は、観世宗家の柏崎、山本東次郎さんの鱸包丁、そして柴田稔さんの枕慈童という番組です。それぞれに楽しみな曲でしたが、枕慈童は初見でもあり、前々から一度観てみたいと思っていたのが、今回鑑賞を思い立ったきっかけの一つでもあります。

さてこの枕慈童という曲、あまり演じられることがなく、例の観世流演能統計では60年間で40回、176位となっています。摂待の下、金札と同順位で道明寺や桧垣より一つ上という順位。なかなかの珍しさ・・・と思います。
この辺りの事情は観世流を習った事のある方ならお分かりと思いますが、この曲、観世流だけの曲で、他流の枕慈童は、観世流では菊慈童という曲名で演じられ、こちらは演能統計の38位、60年間で678回も上演されています。

観世流だけ、他流の枕慈童を菊慈童と呼び、さらに枕慈童という別曲がある。という訳ですが、ではなぜそうなっているのか、というとご存じの方は少ないのではないか思います。
私も長年の疑問だったのですが、九習会のホームページに第7回九習会で枕慈童が上演された際の荒木亮さんの解説がありまして、これを読んで初めて事情が分かりました。詳細はそちらを参照されると良いと思いますが、要は十五世宗家の左近元章による明和改正の一貫で直された枕慈童が、そのままの形で残っており、明治になって他流の人気曲「枕慈童」を収録する際に、菊慈童と呼ぶことにしたということだそうです。

そう言われてみると、元章が良かれと思って手直ししたということか、この枕慈童という曲は小品ながら菊慈童よりも整理されて、面白い曲に仕上がっているようにも思えます。原典とされる太平記の記述とも、枕慈童の方が整合しているようですが、このあたりについては、枕慈童の鑑賞記の中で触れてみたいと思います。
鑑賞記の方は明日から、少しずつ書いてみようと思います。
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柏崎 観世清和(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2018.09.14
 シテ 観世清和
  子方 谷本康介
  ワキ 森常好
  ワキツレ 舘田善博
   大鼓 亀井広忠、小鼓 観世新九郎
   笛 一噌庸二

この柏崎は、武田志房さんの演能の鑑賞記を書いていますが、もう10年も前のことになってしまいました。(武田志房さんの柏崎鑑賞記)
この曲、申楽談儀には「鵜飼、柏崎などは榎並の左衛門五郎作なり」とあり、「わろきところをば除き、よきことを入れられければ」世阿弥の作といってよいとあって、世阿弥が改作したことが分かります。その榎並左衛門五郎は、摂津猿楽の榎並座の棟梁で、榎並座は後に金春座に吸収されたとも言われますが、いずれにしても詳細は不明です。

ともかくも世阿弥の改作により、現行の形になってきたわけですが、その際に土車の曲舞を入れたと申楽談儀にあり、本曲中のクセはもともと土車のものであったことが分かります。もっとも現行の土車にもクセがありますが、こちらは柏崎に曲舞を移した後に、あらためて作られたということでしょう。

柏崎のクセには「善き光ぞと仰ぐなりや」とあって、善光寺の曲舞とも言われますが、後場は善光寺を舞台としています。世阿弥の改作がどの程度のものであったのか分かりませんが、榎並左衛門の旧作から善光寺信仰が土台となった曲だったようで、そこに善光寺にちなんだ曲舞を持ち込んだ様子です。

ついつい長野、善光寺というと、東京からなら軽井沢回りの上信越道を、関西からなら名古屋回りを想像しますが、山姥の百万山姥一行が辿ったように、古くは京都から若狭、越前、加賀、能登、越中とつづく北陸道を進んだようです。百万山姥は親不知が難所であったためか、土地の人の勧めで手前、上路から山道に入りましたが、そのまま北陸道を進めば柏崎に到ります。柏崎から善光寺までは、直線距離なら7、80㎞といったところですから、古くから関わりある所だったのでしょう。
さて舞台の様子は明日から、たどってみようと思います。

柏崎のつづき

舞台は出し置きでシテが登場し、地謡座の前に床几を置き、ちょうど目付柱を向いた形で腰を下ろします。
囃子方、地謡一同が着座すると間もなく「お幕」の声が聞こえ、、無紅唐織着流しのシテが橋掛りを歩み出したので、一瞬「おや」と思ったのですが、そうそうこの曲はシテの出し置きだったと思いだした次第です。
出し置きは、後々登場するワキなり、シテなりを待ち受ける役者が、舞台上に先に出ている形で、作り物が出されるのと同様、準備中のような扱いです。とは言え役者の登場ですから、その役なりの「位」を表しての歩みという事になりましょう。

なかでもシテが出し置きで出るのは極めて珍しい形で、柏崎も下掛では出し置きにせず、先にワキが登場して案内を乞い、シテが登場する形と聞いています。

ともかくもシテが着座すると、はじめて囃子方も床几を用意し次第を奏し始めます。
ワキの出、白大口に掛素袍、守袋を首から掛け、男笠を被っての登場です。一ノ松で止まって一度正面を向き、あらためて斜め後ろを向いて次第。地取りで笠を外して正を向き名ノリ。越後柏崎殿の御内、小太郎と名乗り、鎌倉にいた柏崎殿が病で亡くなり、御子の花若殿は御遁世されてしまった。そこで形見を持って柏崎に下るところと述べます。

再度笠を被ると道行。碓井の峠を越えて、と歩み出して舞台に入り、越後に早く着きにけりと常座に出て笠を外します。碓氷峠を越える道は、古くは鎌倉街道と言われた道の一つで、鎌倉を発ち武蔵から上州を抜けて信濃に到り、善光寺辺りを通過して越後に到る道と思われます。鎌倉街道といわれる道は様々にあって必ずしも明らかではありませんが、この道筋もそうした内の一つだろうと思われます。
なお、観世の本では、ワキは柏崎に着いたと述べた後、直ぐに案内を乞いますが、下掛宝生流では「あら笑止や 人一人御座候はねば さながら茅屋となりて候ハ如何に」とあって、柏崎殿の屋敷が荒れ果てていることに驚く様子が演じられます。

ワキは案内を申そうと言って橋掛りへ戻り、一ノ松から案内を乞います。この声にシテは殿のお帰りかと期待を込めますが、ワキは「小太郎が参りて候」と常座に出て両手突いて黙ってしまいます。なぜ物を云わないのだと問うシテとワキの問答となり、柏崎殿が亡くなり、息子の花若殿も遁世してしまったことを伝えます。
ロンギとなり、シテが柏崎殿の最期の様子を問い、ワキが応える形で進みます。ワキは下居して扇を広げ首から守袋を外して扇に乗せると、形見を御覧になるようにと言いつつ立ち上がってシテに寄り、形見を渡します。シテは形見に涙し、ワキはさらに花若殿の文があるとシテによって文を渡します。
さてこのつづきはまた明日に
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柏崎さらにつづき

ワキから文を受け取ったシテは、両手で文を広げて読む形。少しずつ読み進める形で謡います。
思いを込めて読み上げ「書いたる文の怨めしや」と文を下ろすと、地謡に。下歌を聞きつつ、もう一度文を上げて見、ゆっくりと下ろして文を畳むと、上歌でワキと向き合い「母に姿を見みえんと」で立ち上がり、大小前で一度腰を下ろして文を床に打ちつける型。片シオリから文を懐中にし、シテ・ワキともに立ち上がると、ワキは地謡前に下がって腰を下ろし、シテは常座にて正を向いて合掌。直して二、三足下がると片シオリ。
橋掛りを向いて、もう一度シオルと手を下ろし、アシライで中入。ワキもシテを追って立ち上がり、つづいて幕に入ります。

二人が中入りすると「お幕」の声が聞こえ、子方を先に立たせて、ワキツレが登場してきます。子方は青色の角帽子を被り、水衣の出家姿。ワキツレは角帽子に無地熨斗目着流し、水衣の姿で舞台に進み、子方が正中、ワキツレが常座に立ってワキツレの名乗りとなります。

ワキツレは信濃國善光寺如来堂の聖と名乗り「これに渡り候幼き人は」と子方を見て、何方とも知れずやって来たが、自分を頼るとのことで師弟の契約をし、如来に日参していると言い、今日も向かう旨を述べると、「まずかうかう御座候へ」と言って子方を誘い、ワキ座に着座します。

一声の囃子、無紅縫箔を腰巻に、水衣を着けて笹を肩に担った後シテが登場してきます。一ノ松で立ち止まり「これなる童どもハ何を笑ふぞ」と謡い出し、「うたてやな心あらん人ハ」と笹を下ろして続け、「子の行方をも白糸の」と謡いつつ向きを変えると舞台へ。
常座に出ると、地謡の「乱れ心や狂ふらん」に足拍子二つ踏んで少し出、下がってカケリ。
角に出て佇み、左に回ってワキ座前から大小前、拍子二つ踏んで正中へ打込。笹を肩にすると角で小さく回って常座に。小回りして笹を差し出しヒラキでカケリを終えてサシ。「げにや人の身の徒なりけりと」と謡い出します。
さてこのつづきはまた明日に
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柏崎さらにさらにつづき

シテの謡から地謡に、下歌を聞き、上歌「越後の国府に着きしかば」でヒラキ。「人目も分かぬ我が姿」とゆっくり右の方を向き、謡に合わせて舞台を舞う形になります。
笹を使って舞い、「西に向かへば善光寺」と幕方を見、直して大小前で正を向くと拍子を踏み、「死して別れし夫を導きおはしませ」の謡に正先へ出て笹を置いて下居、合掌します。

ワキツレが立ち上がって声をかけ、ここは内陣、女人の身には叶わない場所なので出て行くようにと言います。シテは笹を持って立ち、シテ柱向いて進みつつ「極重悪人無他方便。唯稱彌陀得生極樂とこそ見えたれ」と謡います。
もともと源信の往生要集みえる文らしく、観無量寿経にそのような意味の事が記されていると書かれている部分の様子ですが、この言葉にワキツレは「不思議の物狂」と驚き、誰が教えたのかと質します。

シテは「教へは元より彌陀如來の」と謡い出し、笹を返して合掌しつつ「聲こそしるべ南無阿彌陀佛」と納めます。地謡となり、「彌陀は導く一筋に」でシテは角に出ると左に回り、大小前からサシ込み開キ。「光明遍照十方の」とサシて右へ回り、大小前から正中に出て下居。「夜念佛申せ人々よ」で笹を一度立て「夜念佛いざや申さん」と笹を右前に放り投げます。

後見が長絹を持って出てシテに渡し、シテはワキを向くと「如来へ参らせ物の候」と言って、烏帽子直垂は夫の形見だが如来に参らせ夫の後生善所を祈りたいと、手に持つ長絹を示します。ここで物着。物着アシライで長絹を羽織り、烏帽子を着けると座したまま「あらいとほしやこの烏帽子直垂・・・」と謡い出します。
この形だと、この後、なにがしかの舞がありそうで、シテの謡も「扇おつ取り 鳴るハ瀧の水」と謡いつつ立ち上がり、いかにも舞に入っていきそうです。
しかしこのあとクリで後ろを向いて歩み出したシテは常座で正向き、「九品蓮臺の 花散りて」と謡いつつヒラキ、ノリ地で扇広げてサシて、その場で回ると大小前で左右、扇を閉じて立ち、サシ謡になり、舞はありません。
古くは舞があったとの話もありますが、ともかくもこのつづきはまた明日に
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柏崎もう一日のつづき

シテの謡は「つらつら世間の幻相を観ずるに 飛花落葉の風の前にハ 有為の轉變を悟り」と始まり、地謡とともに生死の去来の変転を謡い「これも憂き世の習ひかや」とシオリしてクセになります。

クセは舞グセ。今回の鑑賞記冒頭に記した通り、善光寺の曲舞と言われるように善光寺信仰の色濃いものです。舞自体は曲舞の型を踏襲していて、詞章に沿った具体的な型はほとんど見られません。
せいぜい初めの方で「煩悩の絆に結ぼほれぬるぞ悲しき」の謡に扇を下ろしてシオリする程度で、後は強いて言えば終わり近く「夫の行方を白雲の靉く山や西の空の かの國に迎へつつ」の詞章に、正中での打込から幕方へ向かって雲扇の型があるくらいでしょうか。そうした具体性よりも、謡と舞が醸し出す雰囲気から、善光寺の功徳を感じてということなのだろうと思います。
最後は型通りに「称名も鉦の音も 暁かけて燈火の 善き光ぞと仰ぐなりや」で、サシて角に出、扇カザして左へ回って正中から常座へ。この後「南無歸命彌陀尊願ひをかなへ給へや」といったん出てタラタラと下がり座して合掌する形で留めます。

ロンギとなり、ワキツレが子方を立たせます。「今は何をか褁むべき」で子方を先に歩ませて「これこそ御子花若と」と地謡の前辺りに進ませシテに向かわせます。
母子の再会の場となりますが、「よくよく見れば 園原の伏屋に生ふる箒木の」の地謡に、シテは扇を広げて立ち上がり、招き扇。子方に寄ると「ありとハ見えて逢はぬとこそ」と子方の背を押して歩ませ「聞きしものは今ハはや 疑ひもなき」と一ノ松で自らは立ち止まり、子方を見送ります。
さらに「その母や子に逢ふこそ嬉しかりけれ」と一ノ松で正を向いてユウケン。繰り返す「逢ふこそ嬉しかりけれ」で左の袖を返し、留拍子踏んで終曲となりました。

夫を亡くし、子が遁世してしまうという、二重の悲しみで狂女となったシテが、善光寺の御利益によって子との再会を果たし、クルイ覚めるという一曲です。シテの謡は力強く、悲しみに打ちひしがれて弱るのではなく、悲しみと惑いに高揚して狂ってしまう強さが感じられます。
節付けも何カ所か、調子が外れたかと思うような独特の部分があり、ワキ小太郎との問答から、夫の最期を聞かせて欲しいと求め「委しく語り おはしませ」の部分など、「語り」で抑えたところから「おはしませ」の「お」が一気にウキ音へ上がるため、非常に高く謡上げる感じになります。感情を抑えかねるシテの様子が現れるような節回しでした。
(101分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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