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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

鱸包丁 山本東次郎(銕仙会定期公演)

大藏流 宝生能楽堂 2018.09.14
 シテ 山本東次郎
  アド 山本則孝

鱸包丁(すずきほうちょう)は十年ぶり。十年前も東次郎さんのシテでしたが、相変わらず見事な仕方話です。しかしながら以前にも書きましたが、この鱸包丁、狂言の詳細を理解して楽しむにはなかなか難しい一曲です。

話の筋自体は簡単で、甥が伯父に鯉を求めて来いと言われたものの、口でごまかそうと鯉を買わずに伯父を訪ね、立派な鯉を手に入れたのだが川獺が半分食べてしまったので、持ってこられなかったと嘘をつきます。甥の人となりをわきまえている伯父は、鱸を手に入れたのでご馳走しようと言い、鱸を持ってこいと奥に声をかけて、さて鱸が来たならばこう料理して、酒を振る舞おうと仕方に話し、さんざんに料理や酒、茶の話までして、甥に礼の仕方まで教え、さて鱸は包丁が食ってしまった、と落とすものです。

これが実際に観てみるとなかなかに難しい。まず伯父が鯉を求めてくるようにと言った理由として、伯父の「かんどなり」という聞き慣れない言葉が出てきます。古語辞典で調べる限りでは官職について官名を名乗ること、またその披露宴とあり、なるほどそんなものかとも思いますが、伯父が官職に就くというのも、どういうことかよく分かりません。

さらに伯父が仕方に話す中身がまた難しい。
まずは鱸をどのように料理して食べたいかと甥に問いますが、甥が鱸を「うちみ」で食べたいと言うと、その「うちみ」について伯父は長々と蘊蓄を語ります。これがなかなかに聞き取りにくいのです。後刻、調べてみると、寛和元年花山院の御代に、政頼(せいらい)を鷹匠として諸国に狩をして巡られた際、遠江國橋本宿の長の家で鯉を料理してもてなしたが、この時の料理が打ち身の始まりで、「打ち身」は鯉か、海の魚ならば鯛にしか用いない料理法だという話です。
花山院の話は不明としても、打ち身は鯉と鯛に限られ刺身と似た料理だったようです。古事類苑を見ると江戸時代後期の貞丈雑記には「うちみと云は、さしみの事也」とあるようですから、刺身と混同されて絶えてしまったと思われます。ともかくこれは調べておかないと、舞台を見聞きしているだけでは、聞き取るのは困難です。

この後も、伯父は鱸の料理を仕方で様々に語り、さらに茶についても色々と語ります。この仕方の見事さは、狂言役者の腕の見せ所と思いますが、正直のところ細々したところはよく分からないのが普通だと思います。
もっとも江戸時代の観客でも、そういう料理を食べる機会のある階層の人たちは別として、一般の観客が本当に分かって観ていたのかどうか、この辺も分からないところではあります。
要は、まあまあそんなものかなあとアバウトに納得しつつ、演者の技量を楽しめば良い、と、そういうことかと思います。そういう意味でも、東次郎さんの演技は素晴らしいものでした。

なお最後の落ちは、鱸は「ほうじょう」が食ってしまったというものですが、「嘘」を意味する法定ないし放生などと、包丁をかけて落としている訳で、これまたそうした知識がないと、なんだか分からないままに終わってしまったということになりそうです。
ちなみに和泉流の狂言「謀生種」の謀生(ほうじょう)は、まさに嘘を意味する言葉です。
(27分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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枕慈童 柴田稔(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2018.09.14
 シテ 柴田稔
  ワキ 村瀬提
  ワキツレ 福王和幸 矢野昌平
   大鼓 亀井実、小鼓 亀井俊一
   太鼓 小寺真佐人、笛 寺井宏明

先日書いたように、今回、銕仙会を観に行くきっかけともなったこの曲ですが、もともとの枕慈童に思い切って手を入れてあり、もはや別の曲とせざるを得ない一曲です。明治になって他流の人気曲枕慈童を収録する際に、別曲として菊慈童と呼ぶことにしたというのも頷けます。

曲の出典との関係についても、こちらの方が整合が取れていると書きましたが、そもそも本曲、および菊慈童(他流の枕慈童)の出典は太平記巻十三「龍馬進奏事」とされています。どうもこの話はそれ以外、中国の古典などにはみられないそうで、いささか不思議な話ではあります。
さてその太平記の記述ですが・・・周の穆王が寵愛していた慈童が、あるとき誤って帝の枕の上を越してしまったため、酈縣山に流されることになった。その際に帝から普門品の二句の偈を授けられ、これを菊の葉に書き付けておいたところ、この菊の葉の下露が谷川に滴り落ちて谷川の水は霊薬となった。慈童はその水の力で八百年経っても少年の姿のままであった。その後、魏の文帝の時に、慈童は彭祖と名を変え、この長寿の術を文帝に授けた、とあります。

周の穆王は紀元前940年に没したとされていますから、700年後でも800年後でもまだ紀元前。700年ではまだ秦の時代、800年でようやく前漢です。一方、魏の文帝の即位は紀元220年とされています。江戸時代にそれほど厳密に年数を数えたかどうかは分かりませんが、とは言え穆王の世から七百年後に魏の文帝の命を受けて臣下が酈縣山に分け入るという設定はいくらなんでも無理でしょう。
そう考えると、漢の皇帝の臣下が酈縣山に分け入って、八百歳を重ねた慈童と廻り会うという本曲の設定の方が合理的とも言えますし、典拠とする太平記の記述とも矛盾しません。
だから面白い曲・・・というつもりではありませんが、単なる菊慈童のパロディー的なものというだけの曲ではなく、またもともと前後二場ものだったのが半能的に演じられて定着した菊慈童と異なり、一場物を前提として作り直されているので無理がない感じもします。
前置きが長くなってしまいましたので、どの辺りが良くできているかを含めて舞台の様子は明日から書いてみようと思います。
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枕慈童のつづき

まず舞台には大小前に一畳台が出され、緑の引廻しを掛けた大藁屋が持ち出されて台の上に乗せられます。
次第の囃子が奏されてワキ一行の出。菊慈童と同様に白大口に袷狩衣の臣下と、いわゆる赤大臣の従者二人が登場し、舞台中央で向き合って次第。次第の詞章は菊慈童(他流の枕慈童・・・以下同じ)と同じです。

続いてワキの名乗り。これは実に簡単で、自ら漢の皇帝の臣下と名ノリ、酈縣山から薬の水が流れ出ているので水上を見に行くと言って道行になります。菊慈童では、もともとあった前場が省略された関係か、道行、着きゼリフなどがなく、ワキの名乗りからいきなりシテの出となりますが、この辺りは形を整えたということでしょう。
ワキが着きゼリフを述べている間に引廻しが下ろされて、大藁屋の中で座した形のシテが姿を現します。

藁屋には菊籬が取り付けられており、シテの座した見所から見て右側、地謡側には朱の布をかけた枕が置かれています。

シテのサシは「山迤邐として霜侵せる紅樹。水縈廻として露潤す黄菊。あら面白の折からやな」で、あらためて作られたものの様子です。この間にワキが立ち上がり「不思議やな これなる庵の内を見れば」と声をかけます。菊慈童では、シテのサシの後に地謡の上歌が入るのと比べると展開が早くなっています。

さてそのシテ・ワキの問答ですが、ワキは「いと美しき童子あり」と言い、いかなる人ぞと問いかけます。これに対してシテは周の世に慈童という者であったと答え、逆にワキに何の為にこの深山に分け入ってきたのかと問い返します。
この辺りのやり取りは菊慈童と大きく異なるものではありませんが、とは言え、ワキは漢の皇帝の臣下と名乗り、周の世は八百年の昔なのに、今も童子の姿であるのは如何なることかと聞きます。
ここでちょっと不思議なのは穆王の名が出てこないことです。周の世と一口に言っても、春秋戦国時代とニアリーイコールの東周の時代は除くとして、その前の西周の時代でも三、四百年続いたと言われます。どこを起算して八百年と言っているのか、妙と言えば妙です。菊慈童に穆王とあるので、当然に穆王の時代を考えていたが、穆王の名を入れ忘れた・・・のか、あるいは何かの考えがあって外したのか、いささか気になるところではあります。
ですが昨日書いたとおり、穆王から起算しても、また春秋時代の始まりである紀元前771年から起算しても、七百年ではいずれも漢代で、魏の文帝まではまだ二、三百年の時間があります。七百年は単に「遠い昔」という程度の意味なのでしょうけれども、気になるといえば気になるところです。そこで、あえてここを八百年とし漢の時代の出来事にしたのではないかと想像されます。

慈童と臣下の問答はまだ続きますが、長くなりましたのでこのつづきはまた明日に
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枕慈童さらにつづき

どうして今も童子の姿なのかというワキの問いに、シテは誤って帝の御枕を越えてしまい流された際に、枕に妙文を記して賜ったので、その妙文を水で菊の葉に書き写し、流れに浮かべたところ、流れが薬の水となって寿命が延び神通を得たと説明します。

ほぼ原典である太平記の記述の通りですが、菊慈童では枕の妙文の話は出てくるものの、菊の葉に妙文を書き写したことで水が不老不死の薬になったことは、地謡の上歌で「この妙文を菊の葉に 置く滴りや露の身の 不老不死の薬となって」と謡われるため、ことの経緯が理解しがたいところがあります。
もっとも下掛の本には地謡の上歌の後、クリ、サシ、クセがあって、穆王をめぐる話がより委しく謡われますが、とは言え観世の枕慈童のシテの詞のように、薬の水の謂われをはっきりと謡っている訳ではありませんので、わかりやすさという意味では枕慈童の整理の方がすっきりとしています。

シテはさらに、立ち寄って枕を拝むようにと勧め、ワキが「妙文を拝し奉る」というと、シテが「いでいで舞楽を奏しつつ この客人を慰めんと」と謡ってワキを見、地謡が「西に向ひてうち招けば」と謡い出すとシテは幕方に招き扇。ワキはワキ座に戻り、座し直したシテは「聞きも馴れざる仙樂を奏せば」で腰浮かせて立ち上がり、「慈童は立ち出でゝ」と台を下り「舞を奏づる姿も たをやかに面白や」の謡にサシ込み開キ、答拝して楽を舞出します。
で、あれ? 盤渉?

観世流大成版には能ノ小書「無シ」と書いてあり、予想していなかったのですが楽が盤渉 です。事前のチラシにはなかったのですが、当日のパンフレットをよくよく見ると「盤渉」と小書が書かれていました。

さて楽を舞上げると大ノリの地謡で左右ヒラキ、後見が壺のようなものを出してきて藁屋の前、常座寄りに置くと、サシ込み開キ、六つ拍子踏んだシテが「この御薬を奉らんと」の謡に壺を取り、ワキ正に出して汲み入れる型から「勅使にこれを捧げつつ」と壺を捧げ持ってワキに渡し、ワキ一行は立って正先を回って退場。
シテは「汲めや掬べや飲むとも盡きじ」の謡にワキ座からワキ一行を見送って常座まで進み、開いて留拍子を踏み終曲となりました。
(42分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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それで観世の枕慈童は・・・

舞台は昨日までに記載した通りでしたが、楽が盤渉であったのは小書のためとして、その後は薬の水を詰めた壺を勅使に捧げ、長寿を祝福する曲に仕上がっています。

菊慈童も詞章には「慈童が七百歳を我が君に授け置き」とありますが、このあたりを具体的な薬水の瓶に示し、長寿を象徴させたあたりが工夫なのでしょう。
一方で、妙文とされる二句の偈自体は枕慈童には出てきません。

菊慈童で謡われる二句の偈は「具一切功徳慈眼視衆生 福寿海無量是故応頂礼」。妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の偈、いわゆる観音経の最後の部分です。
そう言えば1976年に日本で最初の五つ子として誕生した、山下さんの家の五人兄弟に、当時100歳だった清水寺の大西良慶貫主が、この「福寿海無量」と「観音妙智力」から一文字ずつとって名前を付けたことが有名になりました。
この大事な妙文を、観世の枕慈童では省略しているのですが、この辺りはどういう考えだったのか、不思議なところです。

いずれにしても、妙文を菊の葉に水で書き、その葉を流れに浮かすと、流れの水が薬水となった。その薬水を帝に捧げるという、薬の水を真ん中においた形で一曲を整理したようです。
それだけ、慈童の不思議よりも、祝言の意味の方が強くなったように思えます。

今となっては、観世元章の改編の意図を確かめるすべもありませんが、枕慈童が当時の正規曲に含まれず「別の部」28曲に含まれていたために、こうした形で残されたことは、ある意味幸運だったと思います。

そして肝心なことですが、シテの柴田さん、とても良い印象の舞台でした。
実はずっと以前に柴田さんの能を観て、いささか気になるところがあり、ついつい遠ざかっていたのですが、あらためて良い印象を持ちました。
また機会があれば拝見してみようと思います。

この項、終わり
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放下僧 中所宜夫(緑泉会例会)

観世流 喜多六平太記念能楽堂 2018.09.17
 シテ 中所宜夫
  ツレ 中森健之介
  ワキ 村瀬慧
  アイ 内藤連
   大鼓 國川純、小鼓 飯田清一
   笛 藤田貴覚

この日は所用があったのですが、中所さんからのお知らせに「放下僧は・・・とても変な曲」とあり、そう言われてみるとたしかに不思議な感じの曲だった記憶もあって、いたく興味をそそられました。という訳で、とりあえず本曲だけでも観に行ってみよう、と出かけた次第です。このため、当日はこの放下僧と、狂言の栗焼しか観ておりませんが、どのあたりが「変な曲」だったのか、それは舞台の様子の中で触れてみたいと思います。

さて舞台ですが、まずはツレが登場してきます。無地熨斗目に素袍上下の姿で常座に出、下野の国の住人、牧野左衛門何某の子、小次郎と名乗りますが、ツレの名乗りなので登場楽もなく、こういう始まり方も能としては珍しい部類と思います。
ツレは、父親が相模国の住人、利根信俊に討たれてしまったので敵を討とうと思う旨を述べ、幼少より出家した兄に相談をしようと言って、シテ柱奥から幕に向かって案内を乞います。

これに答えて直面、角帽子に無地熨斗目、水衣姿のシテが姿を現し幕前に立ちます。
シテの「や 此方へ渡り候へ」で立ち位置を変えて二人とも舞台に進み、シテは地謡前、ツレは常座に座して問答となります。

何のために来たのかと問うシテに、ツレは親の敵を討とうと思うが一人ではどうしようもなく日々を過ごしている。どうか一緒に敵を討って欲しいと言います。しかしシテは幼少よりの出家の身であり今更敵討ちも出来ないと、拒む様子。
そこでツレは親の敵を討たぬ者は不孝であると言い、唐土の故事を語ります。
その故事の語ですが、このつづきはまた明日に
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放下僧のつづき

この曲、どうも不思議なところが多く、ツレの語というのも本当に珍しい。私の知る限りでは、本曲の他は、観世流のみの曲「楠露(くすのつゆ)」くらいしか見あたりません。

しかもこの語、唐土の話として、母を虎に食われて敵を討とうとし、虎に似た大石を虎と思って射たところ巌に矢が立ち血が流れたという話をひき、「孝の心深きにより 堅き石にも矢の立つ」という孝行譚に仕上げているのですが、どうも変なのです。
石を虎と思って射たら矢が刺さったという話は、史記の李将軍列伝にあり、前漢の将軍李広の事績として知られていますが、母親の話は出てきませんし、この「石に立つ矢」というのは、「念力岩を通す」と同様、心を込めて事を行えばどんなことでも成就する意味とするのが普通です。
また、李広の母が虎に食われ、李広が大石を虎と思って射た、という話は史記ではなく西京雑記などにみられるようですが、これもまた心を込めて行えば金石をも貫き通すという意味で書かれているようです。
どこでどうしてこの話を孝行譚に仕上げたのか、不思議な話です。

ともかくも、ツレが語る妙な孝行譚を聞いて、シテは「面白き事を引いて承り候ものかな」と感心し、諸共に思い立とうと、あっさり敵討ちを承知してしまいます。
そこでどうやって敵に近付こうかという相談になりますが、ツレは、このごろ放下が持て囃されているので、自分が放下に、兄は放下僧になり、敵の利根が禅法を好むので禅法を語ると良いだろうと提案します。

「いざいざさらば」と立ち上がり、地謡を聞き「命の限り兄弟は 我が心をや頼むらん」あたりで向き合うと、シテは常座へ、ツレは一度地謡座の前に行き、繰り返す「我が心をや頼むらん」でシテが先に立ち、ツレが後から続いて中入となります。

二人が幕に入ると直ぐに次第が奏されてワキの出。
白と紺の段熨斗目に白大口、黒系の掛け素袍、男笠を被ってワキが出、続いてアイ信俊の下人が、格子柄の縞熨斗目に半袴、肩衣で太刀を持ち、ワキが常座に立つと後ろに控えます。
ワキは常座で斜め後ろを向いて次第。
謡い終えると笠を外し正面に向き直って、相模国の住人利根の信俊と名乗り、うち続き夢見が悪いので瀬戸の三島へ参ろうと思う旨を述べます。
さてこのつづきはまた明日に
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放下僧さらにつづき

ワキは名ノリを終えると「いかに誰かある」と声をかけつつ正中へ。これを聞いてアイ下人が常座に出ます。ワキは瀬戸の三島に参詣すると告げ、道中、自分の名字を明かすことの無いようにと命じます。

命じたワキはワキ座に着座しますが、アイは常座に立ってシャベリます。参詣の供を命ぜられたこと喜んだうえで、幕の方を向くと「やあやあ」と声を出し、放下がやって来る様子に気付く態。主に申し上げようと言って正中に出、ワキに放下がやって来るのでこちらに通そうと言います。しかしワキに無用と言われてしまい、畏まって候と常座に戻ります。
しかし納得いかなかった様子で、さらに誰やらと話している風で、殊のほか放下が面白いと聞き、どうしても見たいと放下を一存で招き入れてしまいます。
アイがここまで語って地謡座前に着座すると一声の囃子、後シテ、後ツレの登場となります。

後シテは、今度は金の角帽子を被り、緑の格子文様の厚板、茶の色大口に縦縞目の水衣、右手に白垂と団扇を付けた拄杖(しゅじょう)を持っています。後から出たツレは梨子打烏帽子に白鉢巻、紅入厚板に白大口、法被を肩上げにして右手に弓、左手に矢を持っての登場です。
シテが一ノ松、ツレは幕前に立ちサシ。「面白の我等が有様やな」と謡い出し、ツレ、シテと謡い継いで、二人同吟で一セイ。ツレの二ノ句、同吟から地謡の上歌に。この上歌の終わり近くにアイが立ち上がり、シテ柱奥あたりに立って二人に声をかけます。

アイは二人に名を問いますが、これがこの後の伏線になっています。
アイの問いにシテは浮雲流水と答え、続いて問われたツレも浮雲流水と答えます。二人とも浮雲流水かと驚くアイに、シテは自分が浮雲で向こうは流水と言うのだと答えて、さらにあれなるお方の名字は何かと問います。
これに対してアイは相模国の住人利根信俊、と言ってしまってから口止めされていたことを思い出し「では おりない」ととってつけたように言います。なかなか面白い会話劇になっています。
シテは「いや苦しからず候」と言い、ただ放下がやって来たと申し上げて欲しいと続けます。アイは正中に出て下居し、最前話をした放下がやってきたので名を問うたところ浮雲流水と答えたことを申し上げます。ワキは先ほどは無用のことと言っていたのですが、浮雲流水とは面白い名だと興味を持った様子で、放下を中に通すように言います。
こうして二人は敵の前に出ることになりますが、さてこのつづきはまた明日に
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放下僧またつづき

ワキの命でアイが二人を招じ入れ、シテは大小前、ツレはワキ正に立ちます。
ワキは扇を広げ顔を隠してワキ座に立ち、二人に向き合います。

ワキはシテの姿を異形の出立と言い、拄杖に団扇を添えて持っているが団扇の一句を聞きたいと所望します。
拄杖は禅僧が行脚の際に用いる杖、あるいは上堂して法を説く際などに用いる法具で、遊山用と儀式用では長さなどに違いがあるようです。
しかしいずれにしても「杖」で、これに白垂や団扇を添えるという形は、およそこの放下僧の装束くらいしか見ることがありません。不思議な形なのですが、それをワキが問うたわけです。

これにシテがもっともらしい答えを返すと、今度はワキがツレの持つ弓矢について問います。ツレは弓矢の謂われを語り、地謡の「我等もこれを持ちて」の謡に常座で弓に矢をつがえワキに向けて構えますが、シテが間に入り、アイもワキを守るように出て、地謡の終わりでツレは弓矢を置いてワキ正に出ます。緊張感ある場面ですが、ここではまだ何も起こらず、ワキは放下僧の祖師禅法は何かと問います。

いわゆる禅問答で、わかりにくい言葉の応酬が続きますが、シテ、ワキのやり取りが続き、ワキ「生死に住せば。シテ「輪廻の苦。ワキ「生死を離れば。シテ「断見の科。ワキ「さて向上の一路は如何に。の後、ツレが「切って三断と為す。といきなりワキ正で太刀の柄に手をかけ、斬りかかろうとする形になります。
シテがすかさず「暫く」と遮り、身構えたワキ、アイも落ち着きを取り戻して地謡に。

地謡が終わるとアイとワキの問答になり、ワキはアイに二人が面白いので瀬戸の三島まで連れて行くからその様に伝えよと言います。これを受けてアイは二人に、同道するようにと言い、さらに鞨鼓を打ってみせよと求めます。
ツレの弓矢の下りから、二度にわたって緊張する場面を見せながら、面白いから神社まで連れて行くというのも、どういうことなのか些か理解に苦しむところです。が、ここはそういうことと納得しないと先に進めないので・・・
ともかくも、物着となり、ツレは背に差した笹を取って笛座前に着座。シテは後見座で後ろを向いて鞨鼓を付けます。
様々な芸尽くしの本曲、その中でも見せ場の一つ鞨鼓となりますが、このつづきはまた明日に
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放下僧またまたつづき

鞨鼓を付けたシテは大小前に出て謡い出します。地謡と交互に謡い、地謡の「柳は緑花は紅なる その色々を現せり」に扇を広げてユウケン。クセになります。
クセのはじめはじっと立って謡を聞く形。この間にアイが切戸口からそっと退場します。このクセの謡がまた難解。一つ一つの言葉が理解できないわけではないのですが、何を言いたいのかさっぱりわからない。参考までに半魚文庫さんの謡曲三百五十番から、この部分を掲載してみます。

クセ「青陽の春の朝には。谷の戸出づる鴬の。凍れる涙とけそめて。雪消の水の泡沫に。相宿する蛙の声。聞けば心のある物を。目に見ぬ秋を風に聞き荻の葉そよぐ古里の。田面に落つる雁鳴きて。稲葉の雲の夕時雨。妻恋ひかぬる小牡鹿の。たゝずむ月を山に見て。指を忘るゝおもひあり。シテ「うらの湊の釣舟は。地「魚を得て筌を捨つ。これを見れかれを聞く時は。嶺の嵐や谷の声。夕の煙朝がすみ。皆三界唯心の。ことわりなりと思しめし。心を悟り給へや。

シテはこの謡に合わせ曲舞を舞いますが、舞い終えると一セイ「月の爲には浮雲の。と謡いつつ正面向いて扇を閉じ胸元に入れ、撥を持つと常座で鞨鼓の舞出しになります。

小気味よく常座で鞨鼓を舞上げると撥を右手にまとめて持ち「面白の花の都や」と小歌の謡い出し。小歌は室町時代の俗謡を取り入れたとされる部分で、本曲のほか花月などにもあります。本曲の小歌は京の名所尽くしになっていて調子も良く、演能以外でも好んで謡われたようです。狂言「寝音曲」でも、大蔵流ではこの小歌を謡いますし、地歌にも取り入れられている様子です。

中所さんのお知らせには「この小歌は・・・実は裏に大変卑猥な内容を隠しており、それに気がついた仇が思わず笑い転げてしまいます」とあります。が、さてどの辺りが卑猥なのかは置くとして、この小歌の途中「げにまこと 忘れたりとよ」辺りでワキは笠を残して切戸から退場してしまいます。

小歌を舞い終えたシテは、ツレともども「さのみは何と褁むべき」と謡いつつ、小刀を構えてワキ座に寄り、二人して笠に斬りつけて敵を討った態。キリの謡に、シテが常座で留拍子を踏んで終曲となりました。
(61分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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放下僧をめぐって

舞台の様子は昨日までに記載した通りですが、さてこの放下僧、敵討ちの活劇としても面白く、またシテの芸尽くしが楽しいこともあって、割合良く上演されます。
私自身も「面白い曲」というほどの感じでとらえていましたが、小歌の部分はノリも良く京の名所が様々に読み込まれていることもあって、清水寺見物の際に口ずさんだりしていました。

ですが、今回の中所さんのお知らせから、あらためて委しく見てみると、どうも変なところが沢山ある一曲です。作者は不明ですが、宮増の作というのがもっとも有力な説のようです。宮増は小袖曾我や鞍馬天狗など、数多くの能の作者とされていますが、どういう人物だったのかよく分かりません。室町時代に活躍した能役者ともされるのですが、宮増を名乗る役者は何人もいて、能作者の宮増が誰であるのか決定的なものはありません。
さらには西野春雄さんのように、宮増は宮増グループに属する何世代かの作者達の総称ではないかと唱える学者も出てきて、いよいよもって実態がわかりません。

せいぜいがところ室町時代の作であろうと想像されるところですが、それにしても、舞台の様子を書きながら触れたように、なんだかしっくりしない、不思議なところが少なくない曲でした。
クセの部分も、あらためて読み直してみると、何がテーマなのかよく分かりませんし、冒頭部分の孝行譚も、なんだか無理やり作り込んだような感じです。さらに中所さんの仰るように小歌に隠された意味があるとなると、この曲、なかなか奥の深そうな感じがします。

中所さんは、この敵討ちの能と嘉吉の変をめぐる音阿弥の役割を重ね、演じられたようです。中所さんが数年前に電子書籍として上梓された「能の裏を読んでみた 隠れていた天才」(Amazonから購入できます)に、音阿弥と嘉吉の変との関わりの考察が記されていますが、なかなかに興味深い見解です。

なお、この日の舞台は敵討ちに向かう緊張感と間狂言の笑い、様々な芸尽くし、と盛り沢山で、充実した一番でした。シテはもちろんですが、本曲のツレはなかなかに重い役どころ。中森健之介さんの熱演が印象的でした。
この項、終わり

栗焼 野村万作(緑泉会例会)

和泉流 喜多六平太記念能楽堂 2018.09.17
 シテ 野村万作
  アド 石田幸雄

栗焼は4年ほど前に大蔵流山本家、泰太郎さんと則孝さんの鑑賞記を書いていますが、好きな狂言の一つです。何度観ても面白い一曲。
本曲は、大蔵流と和泉流で流儀による違いはあまり大きくありませんで、上演時間もほぼ同じです。なによりもまず、シテ太郎冠者が栗を焼く様、焼き上がった栗をついつい食べきってしまう、そのあたりの演技の面白さが眼目ですが、さすがに万作さんの太郎冠者は面白い。見事な一番でした。

ところで大蔵流では、最初に登場したアド主人が、さる方から重の内を戴いたが太郎冠者に「すいさせよう」と言ってシテを呼び出します。一方で和泉流の本には重の内という言葉が入っていませんで、今回の上演でも「すいさする物がある」と言って太郎冠者に当てさせますが、「重の内」の言葉はありませんでした。
この重の内、重箱に入れた食物の意味ですが、江戸時代後期に書かれた貞丈雑記には、昔は重箱というものはなく、「どごんぞう」という狂言(鈍根草のことでしょう)に「宿坊から重の内が参りました」とあるが、この狂言は室町時代に作られた狂言ではなく、後の世に作られた狂言だろう、と書かれています。注釈として重箱自体は室町時代にもあったが表向きには出てこない物だったともあります。
なるほど、そんなものかと思いますが、「鈍根草」も狂言記には貞丈雑記の通りの表現がありますが、和泉流狂言大成の鈍根草には重の内の言葉ありませんで、この辺りは不思議なところです。

また大蔵流では、太郎冠者が重の内を推量して菓子の類でござろうと饅頭、羊羹などと言い、また果物の類なら梨、柿、葡萄などと推量します。一方、今回の和泉流の形では、源平餅か花せんべい、饅頭の類と推量します。和泉流狂言大成にもこの形で書かれていますが、果物は出てきません。この源平餅と花せんべいですが、現在では源平餅を四国高松の吉岡源平餅本舗が、花せんべいを京都の鶴屋吉信が作っています。ただし吉岡源平餅本舗の創業は江戸末期の文久二年ですし、鶴屋吉信も江戸後期の享和三年の創業ですので、和泉流の太郎冠者が言うお菓子が、この二軒の老舗の物なのかどうか・・・

一曲の冒頭のところの言葉にちょっとこだわってみましたが、それはさておき、本当に面白い一番でした。栗の芽を切っておかなかったので、栗が爆ぜて飛んでしまったと、あわてて火を除けて芽を切り直したり、一つ一つの所作が面白い。
以前、今回アドの石田さんがシテで栗焼をなさったのも観ていますが、何度観ても面白い好きな狂言です。
(26分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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