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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

枕慈童 柴田稔(銕仙会定期公演)

観世流 宝生能楽堂 2018.09.14
 シテ 柴田稔
  ワキ 村瀬提
  ワキツレ 福王和幸 矢野昌平
   大鼓 亀井実、小鼓 亀井俊一
   太鼓 小寺真佐人、笛 寺井宏明

先日書いたように、今回、銕仙会を観に行くきっかけともなったこの曲ですが、もともとの枕慈童に思い切って手を入れてあり、もはや別の曲とせざるを得ない一曲です。明治になって他流の人気曲枕慈童を収録する際に、別曲として菊慈童と呼ぶことにしたというのも頷けます。

曲の出典との関係についても、こちらの方が整合が取れていると書きましたが、そもそも本曲、および菊慈童(他流の枕慈童)の出典は太平記巻十三「龍馬進奏事」とされています。どうもこの話はそれ以外、中国の古典などにはみられないそうで、いささか不思議な話ではあります。
さてその太平記の記述ですが・・・周の穆王が寵愛していた慈童が、あるとき誤って帝の枕の上を越してしまったため、酈縣山に流されることになった。その際に帝から普門品の二句の偈を授けられ、これを菊の葉に書き付けておいたところ、この菊の葉の下露が谷川に滴り落ちて谷川の水は霊薬となった。慈童はその水の力で八百年経っても少年の姿のままであった。その後、魏の文帝の時に、慈童は彭祖と名を変え、この長寿の術を文帝に授けた、とあります。

周の穆王は紀元前940年に没したとされていますから、700年後でも800年後でもまだ紀元前。700年ではまだ秦の時代、800年でようやく前漢です。一方、魏の文帝の即位は紀元220年とされています。江戸時代にそれほど厳密に年数を数えたかどうかは分かりませんが、とは言え穆王の世から七百年後に魏の文帝の命を受けて臣下が酈縣山に分け入るという設定はいくらなんでも無理でしょう。
そう考えると、漢の皇帝の臣下が酈縣山に分け入って、八百歳を重ねた慈童と廻り会うという本曲の設定の方が合理的とも言えますし、典拠とする太平記の記述とも矛盾しません。
だから面白い曲・・・というつもりではありませんが、単なる菊慈童のパロディー的なものというだけの曲ではなく、またもともと前後二場ものだったのが半能的に演じられて定着した菊慈童と異なり、一場物を前提として作り直されているので無理がない感じもします。
前置きが長くなってしまいましたので、どの辺りが良くできているかを含めて舞台の様子は明日から書いてみようと思います。
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