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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

千鳥 山本東次郎(能楽BASARA)

大蔵流 国立能楽堂 2018.09.24
 シテ 山本東次郎
  酒屋 山本則孝
  主人 若松隆

だいぶん間が開いてしまったのですが、この間、初めて四国松山に行ったり、仙台に行ったりなど、一応出張なのですが割と慌ただしく日々を過ごしておりました。

さて先々月になってしまいましたが、9月は久しぶりに様々な能の会を観た月で、緑泉会の後、九皐会の駒瀬直也さんがプロデュースする会「能楽BASARA」を観に行きました。
この会では冒頭に林望先生の解説があり、続いて山本東次郎さんのシテで千鳥。最後に、観世喜正さんのシテ、駒瀬直也さんのツレで輪蔵という番組でした。

駒瀬さんがプロデュースする会で、ご自分はツレというのも不思議な感じがしたのですが、実際に観てみると「なるほど」と思う一曲でした・・・が、輪蔵の話は後にということで、まずは東次郎さんの千鳥について。

千鳥は、このブログでは10年ほど前に大蔵流茂山逸平さんがシテをされた時と、6年ほど前に和泉流野村萬斎さんがシテをされた時の鑑賞記を載せています。
茂山逸平さんの千鳥(鑑賞記初日月リンク
野村萬斎さんの千鳥(鑑賞記初日月リンク
鑑賞記を確認しながら今回の上演を観ましたが、同じ大蔵流でもあり、茂山逸平さんの時と舞台の進行で特に異なるところはありませんでした。

東次郎さん、お歳を感じさせない元気で明るい、そしてなかなかに賢しい太郎冠者で、たいへん楽しく舞台を拝見しました。則孝さんの酒屋は、すっかり太郎冠者に翻弄されてしまった感じです。
筋立て、舞台上の展開は、以前に茂山逸平さんの太郎冠者で観た時と同じですが、そこはそれ持ち味の違いがあり、やはり全体的には山本家の方がかっしりした印象で、茂山家の方はともかく楽しい狂言だったように思います。

ともかくも、同じとわかっていても面白いのが狂言です。
あらためて粗筋を記載しますが、長くなりそうなので明日につづけます
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千鳥のつづき

千鳥の粗筋ですが、登場した主人が太郎冠者を呼び出し、今晩急に客が来ることになったので酒が必要だから酒屋に行ってこいと命じます。しかし「ないないの通いの面」が済んでいないので、それは無理だと冠者が断ります。
主人は、太郎冠者は酒屋と合口なのだから、ともかくも行ってこいと重ねて命じます。冠者は、酒を持ってきても飲ませてくれたこともないと文句を言いますが、主人は今回は初口を飲ませようと言い、納得して冠者が出かけると主人は下がります。

酒屋に太郎冠者がやって来て、酒屋と冠者のやり取りになります。
酒屋は先の支払が済んでいないので酒は渡せないと言いますが、今日の代わりだけは持ってきたという太郎冠者の言葉で、別の所に渡そうと一樽用意してあるものをやろうと言います。
早速に太郎冠者が持ち帰ろうとしますが、代わりを置いていくようにと酒屋が冠者を止めます。止められた太郎冠者、ただいま進じましょうと代金を探しますが、もともと何も持ってはいませんから探す形だけ。しばらく探した後に、主人から預かった際に忙しさに紛れ棚の端へ置いてきたので、取って来ると言い、酒樽を持って帰ろうとします。

酒屋は代金を取りに帰るなら酒樽を置いていけと言い、またまた二人の言い合いになります。酒屋は、代わりのある時はよその酒屋に行き、無い時だけ自分の所に来るではないかと言い、その証拠に、酒をきらしてはいられない筈なのに、しばらく来なかったではないかと問い詰めます。
太郎冠者は機転を利かせ、この間は主人ともどもに尾張の津島祭を見物に行っていたので留守だった、留守の間に酒を飲むはずが無いだろうと切り返します。

酒屋はどうやら珍しい話を聞くのが大好きらしく、この津島祭の話も聞きたくてたまりません。太郎冠者に祭の話を所望し、酒樽はさておき、冠者が祭の話をすることになります。
太郎冠者は話の間になんとか酒樽を持ち帰ろうとしますが、酒屋が都度、酒樽を元に戻すように言い、何度かそのやり取りを見せることになります。
最初が、旅の途中、伊勢の浜辺で子供が千鳥をふせるのを見たのが面白かったと言い、仕方で話そうと言います。酒屋に相手をさせ、酒樽を千鳥に見立てて、酒屋が「浜千鳥の友呼ぶ声は」と謡い、太郎冠者は「チリチリヤ チリチリ」と謡い舞います。酒屋の目を盗み冠者は酒樽を持ち去ろうとしますが、酒屋が気付いて酒樽を戻されてしまいます。
千鳥の曲名は、このやり取りからついたものでしょうけれども、祭の話はさらに続きます。

次は祭に山鉾を引くところ。これまた酒樽を山鉾に見立て、太郎冠者は山鉾を引くと言いつつ酒樽を持ち去ろうとしますが、またまた酒屋に戻されてしまいます。

違う話をと所望する酒屋に、太郎冠者は忙しいので代わりを取りに帰ると言います。話を聞きたい酒屋は太郎冠者を引き留め、もう一つ話をしてくれてうまくできたら、代わりなしに酒樽を持たせないものでもない、と言い出します。
そこで今度は流鏑馬の話をすることになり、太郎冠者は杖竹を馬に見立ててまたがり、酒屋は「馬場のけ、馬場のけ」と馬場先の人を払う役になり、冠者が「お馬が参る、お馬が参る」と走り回ります。
二人で舞台を廻り歩くうちに、太郎冠者が隙を見て酒樽を取って逃げ、酒屋が追い込んで留となります。

ところで、天正狂言本に浜千鳥という曲が収録されていますが、これが本曲のもともとの形のようです。天正狂言本は法政大学能楽研究所の能楽資料デジタルアーカイブで、研究所所蔵の天正六年の奥書があるものを見ることができますが、これにはくずし字で「者満千鳥」と書かれています。
この本では、冠者がおじのところに酒を取りに行かされる形で、須磨明石の浦の浜千鳥が友呼ぶのが面白いと、浜千鳥の友呼ぶ声はちりちりやちりちりと囃し、隙をみて酒を持ち逃げして留とあります。
津島祭の話は後に付け加えられてきたようで、狂言も現在のような形になるには相応の年月と、演者の工夫があったことがうかがえます。
(26分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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輪蔵 観世喜正(能楽BASARA)

観世流 国立能楽堂 2018.09.24
 シテ 観世喜正
  ツレ 駒瀬直也
  子方 佐久間瑞稀 坂瞳子
  ワキ 森常好
  ワキツレ 舘田善博 梅村昌功
  アイ 山本泰太郎 山本凛太郎
   大鼓 佃良勝、小鼓 幸正昭
   太鼓 林雄一郎、笛 一噌幸弘

さて輪蔵です。
例の観世流演能統計では、江野島・飛雲・関寺小町・第六天などと同程度の上演ですから、まずは稀曲の類といってよかろうかと思います。上演の少ない最大の理由は、なんと言っても輪蔵の作り物でしょう。また併せて登場人物が多く、前場の尉と後場の傅大士、火天との関係にも一因がありそうに思えます。

現行の観世流では、謡の詞章に前場で登場する尉が自ら「火天」であると名乗っていることから、後場に姿を現すツレの火天と同一人として、前場の尉をツレが演じます。しかし宝生流や喜多流の明治期の本を見ると、前場の尉をシテとしており、前シテが後ツレに引き継がれる形になっています。両流とも現在は廃曲扱いなので、それ以上のことはわかりませんが、当然、後シテの出など演出も異なっていたものと思われます。
観世流がもともとどんな形だったのかも分かりませんが、手元で調べられるところでは、いわゆる織部本には前場登場する尉には役名として「火天」と書き記されており、後場に出現する傅大士にはシテの記載がありますので、少なくとも天保年間からは現在のような配役だったと思われます。

前場のシテを後場のツレが引き継ぐ形式は玉井などがそうですが、これはこれで一見不合理な形であるものの、前場のシテが重要なやり取りをするためやむを得ないところでしょう。本曲も前場の尉は通常であればシテとするのが相当の重さと思います。

ともかくも、舞台の方は、まず囃子方、地謡が着座すると輪蔵の作り物が出されます。四本の柱が立ち上には六角形の屋根がついています。さらに柱の中には六面の回転する経蔵が入っている形です。
寺社にある輪蔵は八角形と思いますが、舞台上の輪蔵は六角形の様子です。能の作り物は大きさの制約もありますし、写実的であることよりも雰囲気が大事ということかも知れません。
さてこのつづきはまた明日に
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輪蔵のつづき

輪蔵の作り物ですが、杉並区下高井戸の竹工芸の店「竹清堂」さんのサイトに「能楽の作り物」のページがあり、ここに舞台上の輪蔵と竹の骨組みの写真が掲載されています。グーグル等で検索されると簡単に見つかると思います。
ただし現在サイトの移行中ということで、新しいサイトの方には今のところ舞台写真だけで骨組みの写真は掲載されていませんので、現行のサイトの方を御覧になってください。サイトの舞台の写真は、写っている演者からみて今回のものではありませんが、骨組みを見ると六角形なのがよくわかります。

輪蔵の作り物は、古い演能の写真を見ると様々なバリエーションがあるようで、基本形は決まっているものの、上演する際にそれぞれの能楽師が工夫したのだろうと思われます。しかし国立能楽堂の輪蔵はどうやら「竹清堂」さんの作のようで、サイトの写真と今回の舞台の輪蔵はそっくりでした。

さて輪蔵の作り物が角のあたりに出されると、続いて一畳台が持ち出されて大小前に据えられ、さらに紫の引廻しをかけた朱屋根の大宮が載せられます。

準備が整うと次第が奏されてワキ、ワキツレの出。ワキは白大口に着付は小格子厚板、茶の水衣で金に輝く角帽子を着けています。ワキツレ二人は白大口に無地熨斗目、薄く小豆色がかった灰系の水衣に、こちらは紺系の角帽子です。

舞台中央に向き合っての次第。続いてワキの名ノリで、筑前大宰府の僧と言い、都に初めて上りただいま北野天満宮に参詣すると述べて合掌します。大宰府と北野天神は御一体であり殊更北野天神に参詣する意味があるということでしょう。

控えていたワキツレが立ち上がり、再び向き合っての道行。筑紫を船出して難波の浦に着き、日数も重なれば都にやってきたと謡っておさめ、ワキの着き台詞。北野に参ろうと思うと言うと、ワキツレが「尤もにて候」と声を上げてワキ座に着座し、ワキは常座から「門前の人」とアイを呼び出します。
さてこのつづきはまた明日に
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輪蔵さらにつづき

アイが立ち上がって応対し、ワキは輪蔵を拝ませてほしいと求めます。「輪蔵は我らの預かり」なので拝ませようとアイが答えて正中に進み、さらさらさらと戸を開ける所作から、よくよく拝むようにとワキに勧めます。
ワキが正中に出て正を向きサシ。大蔵経一切が唐土より来たり、末世の衆生済度の結縁となるありがたさを謡い、(輪蔵を考案したという)傳大士(ふだいし)、普建、普成をたたえます。

この謡の終わり近くで幕が上がり、謡い終えたワキがワキ座に向かうと、幕の内から前ツレ老人が呼掛で、いきなり「御身は筑前の宰府より来り給ひて候か」と問いかけます。都にやって来たばかりなのにどうして宰府の者とわかるのかと問うワキに、幕を出たツレは、そちらは知らなくてもこちらは知っていて当たり前と、人を食ったような返事をします。ツレは無地熨斗目着流しに水衣、小牛尉の面に尉髪という、普通の老人姿です。
ワキがさらに一体どういう人なのかと問いかけると、自分は五千余巻の経典を守護する十二天のうちの火天であると名乗って一ノ松あたりに佇みます。

ワキが天部を目の当たりに拝む有り難さに感激を示すうちに、ツレは歩み出し常座に出てワキに向き合います。
地謡となり、ツレは一度輪蔵の方を見、直して「悟りは一つぞ胸の月」と正へサシ込み開キ。正に出てから左に回り「天満つ星の廻るなる 輪蔵を開きて 静かに拝み給へや」の謡に常座からワキを向いてサシ込み開キ、ワキにつめて輪蔵を拝むよう促す形です。

ワキは「あらありがたの御事や・・・」と言い、ツレはこれに答えつつワキの方を向き、続く地謡で少し出てワキと向き合って座します。さらに正面に向き直り「然るにこの御経に於いて 大唐よりも渡されし」とサシを謡い出して地謡に。地謡が傳大士、普建、普成の三人は俗体なれども御経に知遇の縁があり、昼夜この経を守護するのだと謡ってクセに。
短いクセで、その御経が日本に伝わり北野におさめれたと謡われると、ツレはワキを向いて「衆生を済度し給へ」の謡に腰を浮かせてワキに勧める形。続く「我も姿を改めて」の謡で立ち上がると幕に向かいますが、常座辺りで振り向きワキに向いてサシ込み開キ。その後は来序で退場します。
さてこのつづきはまた明日に
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輪蔵さらにさらにつづき

ツレが幕に入ると囃子が狂言来序に代わり、括り袴に緑の水衣、末社頭巾を被り、おそらくは賢徳の面をかけたアイが登場してきます。常座にて北野の末社瓢の神と名乗ります。
当社の神は菅原道真公であるが、道真公は世に優れた方で帝の覚え並びなかったが、時平の大臣がこれを妬んで讒言したため、筑紫安楽寺に流されてしまった。しかし後々、王城の守護神となられ、霊験あらたに諸々の所願を叶えられた。
さて太宰府と当社とはご一体であるが、太宰府の御僧が当社にご参詣あり、輪蔵を拝まんとされている。この輪蔵は釈迦一代の御経を納め衆生を導こうとするもの。その御経は、月氏国から震旦へと渡来したが、傳大士、普建、普成は俗体ながらこれを本朝に渡した。はじめは九州に納めたが、妙なる御宝であり都に上らせこの地に納めた。
この輪蔵に知遇する人は仏法に到らぬと言うことはない。かの御僧は五戒を保って仏法の志浅からぬ。このため当社明神が現れて言葉を交わされ、さらに一切経を拝ませようと二童子に仰せ付けられた。
と語り、その分心得るようにと左右に触れて退場します。

アイが退場するとワキが謡い出し、地謡へと謡い継ぎます。地謡が「不思議や異香薫じつゝ 音楽聞え紫雲靉く絶間より 花降り下るぞあらたなる」まで謡うと太鼓が入り拍子が大ノリに変わります。
「言ひもあへねば妙経の」の謡に後見が進み出て「守護神の御厨子の扉は忽ち四方へ開けて」で引廻しを広げて下げ、シテ、子方が大宮の内に姿を現します。シテは中央で床几に腰を下ろし右手には杖。両脇には子方の童子二人が控え、経巻がその前に置かれています。
シテは皺尉の面をかけ白垂に、唐帽子なのか輪蔵帽子なのか、装束附には何れかと書いてあるのですが、ともかく頭巾のようなものを被っています。半切を穿き、白地に金の文様が入った袷狩衣。掛絡をかけています。

シテが「釈迦一代の 御法の御箱」と謡い、地謡が続けると、子方二人は経巻を持って立ち上がり、「上人の御前にさし置き給へば」の謡にワキの前に経巻を置くと、笛座に移って目付柱を向いて着座します。ワキはこの経巻から一巻を手に取ります。
シテが「傳大士座を立って」と謡って立ち上がり、台を降りると正先に出てワキを向き「膝を屈めて 上人を禮し」の地謡を聞き、正先に下居します。ワキが正向いて経巻を広げ読む形になると、シテは「善哉なれや 善哉なれと」で立ち上がり左右、右から廻って常座に進み杖を唐団扇と持ち替えて大小前に。答拝して楽を舞い出します。
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輪蔵またつづき

シテが楽を舞い始めると、ワキは経巻を巻直し捧げて経巻の山に戻します。
それにつけても楽が舞われる際は、舞台上に何がしか作り物が出されていることが多いように思います。天鼓などの太鼓もそうですし、唐船や邯鄲なども一畳台や船が出されたところで舞う形です。輪蔵では大宮の載った一畳台に加え、輪蔵の作り物も出されていますので、さらに舞台が狭くなります。考えてみると不思議な感じがします。

さてシテが楽を舞上げると大ノリの地謡となり、シテは左右、小へ打込んで開キ。さらにサシ込み開キからサシて回り「天部の姿は隠れもなく 天降るこそ ありがたけれ」の謡に常座で雲扇して火天を迎える形から笛座前、童子二人が座した前に着座します。

早笛が奏されて、後ツレ火天が天神の面に黒垂、輪冠に火焔戴、法被半切の姿で登場し、一ノ松で謡い出します。「火天の姿を 現すなり」と謡って開キ。地謡が大ノリの謡で続け、ツレはサシて舞台に入ると「上人に向ひ」で正中に下居、シテ・ワキが立ち上がります。

ワキ、シテ、童子の順に輪蔵に向かうと「上人を誘ひ 輪蔵に御手をかけまくも」の謡に、ツレが輪蔵を回し、その輪蔵の周りをワキ、シテ、童子がまわって元の座にと戻ります。
ツレは常座に立ち「曇らぬ御法の あらたさよ」と地謡が謡い収めると舞働。舞台を一回りし、さらに目付柱から常座へ小回リして開キ「これはこれ妙経の守護神なれば」と謡って地謡に。
常座で「上人悉く披見のその後各々御箱をとりどりに」の謡に、ツレは下居、童子二人が進み出てて経巻を手に取り一畳台に戻します。「天部は雲居に上らせ給へば」でツレはワキに別れを告げる形から退場。
シテは左の袖を巻き上げ「七宝荘厳の瑠璃の座の上に 傳大士二人の童子を伴ひ」の謡に、童子二人を前後にして橋掛りへと進み、二ノ松あたりでユウケン。袖を返して「帰り給ふぞ ありがたき」と留拍子を踏んで終曲となりました。
(76分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)

鑑賞記は以上のとおりですが、輪蔵自体をめぐって明日、少しばかり書いておこうと思います。
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輪蔵をめぐって

そもそも輪蔵というのは何でしょうか。
これはお寺などに設けられている経蔵の一種ですが、回転式になっていまして、八角形の各面に書架がありここに大蔵経を収納します。さらに、これが輪蔵のミソですが、回転式の経蔵を一回り回転させると経典全巻を読誦したのと同じご利益があるということになっています。

西暦五百年頃、中国南朝の梁に居た傅大士という仏教者が考案したと言われていますが、日本でも少なからぬ寺社に設けられていまして、長谷寺や日光東照宮などが有名です。偶々先日は成田山新勝寺にお参りしましたが、こちらにも一切経蔵…輪蔵があり、写真を撮ってきましたので掲載しておきます。輪蔵には併せて傅大士の像も置かれるようで、普成、普建の二子とともに三尊像の形で祀られています。
輪蔵 傅大士像
説明書き

本曲の舞台、北野天満宮境内にも足利義満により北野経王堂願成就寺が建てられ、一切経が収められていましたが、1671年に廃寺となって一切経は近くの大報恩寺に移されました。経王堂願成就寺は規模を縮小して再建され、輪蔵も置かれていたようですが、幕末に行方不明となり十数年前に愛媛県で発見されたとの報道があり、ご記憶の方もおいでかと思います。

当日の演能に先だって作家の林望さんのお話がありました。
この輪蔵という能は観世弥次郎長俊が16世紀初頭頃に作ったといわれています。林先生によると、それから遡ること数十年前に二度にわたって北野天満宮が火事に遭い、多くの堂宇が焼失した中で、輪蔵は焼けずに残ったそうです。このため納められた大蔵経の功徳かと多くの信仰を集めた様子で、その輪蔵を舞台上で見せようという趣旨もあり、この能が作られたのではないかと話されていました。
ツレは十二天のうち「火天」として現れますが、それもこの火事からの着想ではないか、とも言っておられました。

最近起こった大事件を舞台に載せるというのは、歌舞伎の忠臣蔵などにもみられることですが、能にも、世阿弥の求めた古典に題材を得た曲だけでなく、こうした曲も多々あったのだろうと想像します。なにぶん現行の二百数十曲以外にも、二千曲を超える能が作られたといわれていますし・・・
この項終わり

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