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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

京都弾丸ツアー

今回はちょっと趣向を変えまして・・・

ことの起こりは1月の金剛定期能。
翁と内外詣の番組だったのですが、金剛流にしかない「内外詣」を生で見るには京都に行くしかないなあと、迷った末に京都行きを思い立ちました。というのも前日の午後は水戸でセミナーがあり、これまた外せないものだったからで、結局、土曜日の夜行バスで京都に向かい、日曜日の観能の後に水戸まで帰ってくるという弾丸ツアーに。以前、金剛能楽堂日帰りもしているので、それに比べれば…ではありますが。
さて水戸駅を21時10分に出るUSJ行きの高速バス「よかっぺ号」、またいかにも水戸らしいネーミングですが、三列独立シートで高速バスとしては居住性の高いものです。
夜行バス バス車内

エア枕、アイマスク、耳栓の3点セットフル装備で臨み、まあまあ眠れたのですが、6時過ぎに京都についてみると、なんと小雪。
小雪舞う京都タワー

とりあえず駅近くのサウナで休憩して地下街で朝食を済ませ、清水坂へと向かいました。
当初の予定ではサウナでゆっくりして、10時の美術館開館に合わせて清水に向かうつもりだったのですが、諸般の事情もあり9時前に清水着。そこで清水寺参詣と相成りました。門や塔も雪を被り、振り返って京都市街をみると雪の中。
それにつけても小雪の中、アジア系観光客の多いこと。
雪の清水寺 京都市街

現在、清水の舞台は改修工事中でネットが張られていますので今回はパス。その代りに三年坂、二年坂と歩き高台寺あたりまで足を延ばしてみました。
三年坂 二年坂

高台寺 高台寺方丈

10時のオープンとほぼ同時に清水三年坂美術館へ。ここは館長である元村田製作所専務の村田理如さんが海外などで収集した、幕末から明治にかけての工芸品などを集めた独特の美術館です。超絶技巧として昨今、テレビの「美の巨人たち」や、東京の三井記念美術館でも収蔵品の一部が紹介されています。
清水三年坂美術館
作品の写真を撮ってくることができないので、ホームページなどを参照いただければと思いますが、安藤禄山の牙彫のバナナや、海野勝珉の金工品など、見てみる価値のあるものばかり。下の写真はリーフレットをスキャンしたものです。
リーフレット表 リーフレット中

ところで金工の海野勝珉、海野美盛などは水戸の出身ということで、当時の水戸金工のレベルの高さも解説されていました。しかし恥ずかしながら私は水戸の金工についてほとんど知らず、周囲に聞いてみても知らないという人ばかり。茨城県民の多くが知らないのではないかと思います。そんなところも、魅力度最下位に繋がっているのかな…などと。
ちなみに海野氏は「うんの」と読み、静岡や長野などに多い名字だそうですが、茨城にも少なからずあって、私の父方の伯母の嫁ぎ先も海野です。

さて美術館を後にしてバスで烏丸丸太町へ。東京もバスがどのあたりを走っているかバス停に表示されますが、京都のバス停も便利。地方都市もこういうところが充実するといいのになあ、などと思いつつ。
京都のバス停

烏丸丸太町から金剛能楽堂へと歩いてみました。能楽堂の先に「とらや」の京都一条店があります。
とらや
店の前の通りを左に入ると虎屋菓寮という、とらやの甘味が楽しめる店があり、寄ってみようかなと思っていたのですが、能楽堂の前を通ると既に開場待ちの列ができています。まだ開場まで時間はあったのですが、列を見てしまうと落ち着いて甘味でもなくなってしまい、今回は断念。私も列に加わりました。
金剛能楽堂
お正月らしく、舞台にも飾り付け。鏡板にしめ飾りを飾るのは金剛流独特かもしれませんね。
能楽堂舞台

というわけで金剛流の翁、内外詣に、茂山家の佐渡狐を堪能してきました。
舞台の様子は、まだ昨年12月の九皐会、1月の九皐会の様子を書いていませんので、順に暇をみて書いていこうと思います。
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りんご病

いやあ我ながら驚いた・・・
この歳で、りんご病にかかってしまいました。

子供がよくほっぺを真っ赤にしてる、あの病気です。伝染性紅斑というらしく、その名の通り伝染病です。
子供がかかった場合、重症化することは少なく、両頬が赤く腫れて熱が出るものの、数日程度で自然に治ることが多いようです。
一方で、はしかと似たようなことなのかも知れませんが、大人の場合は重症化することもあって、関節炎を起こしたり、痛みや痒みが相当期間続いたりするようです。

というわけで、まずは膝の関節が痛み出して正座が出来なくなり、この影響でかねてからの腰痛が再発。さらに就寝中の手足の痒みで眠れない夜が都合10日近く続きました。
ようやく一昨日あたりから治まってきましたが、すっかり気力を失い、眠れない夜が続くとメンタルに参ってしまうということを改めて認識しました。

子供の頬が赤くなる時は、既に感染の心配はなく、それ以前にうつっているんだそうです。そういう意味では、防ぎようのない伝染病・・・ということになりそうですネ

何はともあれ、ようやく落ち着いてきたので、明日あたりから鑑賞記を再開しようと思っています。

七騎落 観世喜正(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2018.12.09
 シテ 観世喜正
  頼朝 観世喜之、田代 小島英明、新開 佐久間二郎
  土屋 奥川恒成、土佐坊 河井美紀、遠平 観世和歌
  岡崎 坂真太郎
  ワキ 宝生欣哉
  アイ 野村万蔵
   大鼓 亀井忠雄、小鼓 鵜澤洋太郎
   笛 竹市学

この七騎落(しちきおち)という曲、ご覧の通り登場する役者が多人数となるためか、上演は少なめです。度々引用させていただいている大角さんの観世流演能統計でみると、昭和25年から平成21年までの60年間通期では119位ですが、近年は上演が減っている様子で平成2年から11年では144位、12年から21年では153位となっています。
遠い近いで言うと、観世流では近い百番ほどを百番集に、遠い曲を続百番集に収録していますが、本曲は百番集にあります。武士好みの内容でもあり、かつては近い曲だったのでしょうが、徐々に上演が減っているというところかも知れません。そんなためか、以前に観たことはありますが、このブログを書き始めてからは初めてになります。

話は頼朝が挙兵した石橋山の合戦。源氏再興の旗揚げを図ったものの、手勢少なく大敗した頼朝一行は土肥の杉山に逃れます。源平盛衰記巻二十一によれば、この時、主従七騎は山に隠れ、さらに矢尽きて追いついた田代冠者を加えた八人で地蔵堂に隠れながら敵の手を逃れ、房州に落ち延びたとあります。
この山に隠れた主従七騎は「(頼朝に従う)土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也」とあり、この後追いついた田代冠者を加えて八騎となります。この八人のうち土肥遠平を除く七人を祀った七騎堂が、土肥氏の菩提寺であった湯河原の成願寺にあるそうです。

この名前と、当日の役名を比べてみると、安達盛長(藤九郎)の名がなく、代わりに土佐坊が入っています。源平盛衰記の記述では、主従七騎は大きな伏木に隠れますが、この時、藤九郎盛長が頼朝の先祖である伊予守の例を引き、貞任宗任を攻めた際にいったんは敗れて七騎で山中に籠もったが、終には逆賊を討ち四海を靡かせた吉例であると言い、頼朝も心強く思ったとあります。伊予守は源頼義、前九年の役で安倍貞任、宗任を攻めた際の逸話です。

この曲はこうした伝承などを題材として創作されたようで、土肥実平、遠平親子の情と鎌倉武士の忠節とをドラマに仕立てた一曲です。遠平を船から下ろす云々のやり取りは作者の創作のようですし、安達盛長を外して土佐坊を入れたあたりもどういう考えだったのか不明ですが、作者不詳のこの曲、なかなかに面白い一番です。舞台の様子は明日から書いていこうと思います。
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七騎落のつづき

一同着座すると次第が奏されて、ツレ頼朝を先頭に、シテ、ツレ、子方が登場してきます。先頭の頼朝は法被肩上げに半切、左手に弓を右手には矢を持っています。続くシテは袷法被に半切、以下は役名で田代、新開、土屋、土佐坊、子方遠平、岡崎と続きますが、田代以下の三人は白大口に側次、土佐坊と岡崎は半切に法被、子方は白大口に側次と装束付けにあります。観た感じは装束付けの通りだったように記憶しているのですが、多人数のためちょっと怪しい。
ともかくも、土佐坊は長範頭巾を被っていますが、他は皆梨子打烏帽子に白鉢巻の姿です。また岡崎は老齢の役なので若い役者が演じるときは白垂を用いると装束付けにありますが、この日は坂真太郎さんでしたので白垂を着けての登場です。

舞台中央まで進み出ると、頼朝とシテ実平を先頭に二列に並んで次第を謡います。出てきた順に並んでいくため、見所から見て右側、ワキ座寄りに頼朝、田代、土屋、遠平。左側ワキ正寄りにはシテ、新開、土佐坊、岡崎が並ぶ形になります。

次第を謡い終えると頼朝の名ノリ。一同は向き合って下居。石橋山の合戦に負けたので一先ず安房上総へ逃れようと思う旨を述べて、シテ実平に声をかけ、急いで船を用意するようにと言います。シテが船の手配をした態で「急いで召されうずるにて候」と言い、一同は立って、頼朝がワキ座に進んで床几に腰を下ろし、以下、田代、新開と並び、大小前の岡崎まで順に着座します。これで一同が船に乗った形で、舞台は船中になります。

頼朝があらめて実平を呼び、シテが正中に着座して問答になります。
頼朝は船中に何人かと問い、シテが七騎と答えると、主従八騎は祖父為義、父義朝がそれぞれ敗れて落ちた時と同じで不吉である。船より一人下ろすようにと命じます。
シテはこれを受けて立ち上がり「実平仰せ承り・・・」と謡いつつ角に出て一同を見、地謡と掛け合いで順に名を数え上げていきます。シテが六番目に並ぶ実平自身を上げ、続いて子方が「同じき遠平」岡崎が「義実あり」と謡います。地謡が続けますが、シテは一人を選ぶことが出来ず、一同を見廻しますが「赤面したるばかりなり」の地謡に、四、五足ほど下がって畏まります。

頼朝が声を上げ、「何とて遅きぞ急いで下ろし候へ」と重ねて命じます。
シテは下居して承り、岡崎を向くと「いかに岡崎殿に申し候」と声をかけます。
岡崎との緊迫したやり取りになりますが、このつづきはまた明日に
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七騎落さらにつづき

シテは岡崎に船から下りるようにと言います。しかし岡崎は自分が一番歳をとっているので役に立たないから下りろというのだろうが、そういうことでは下りないと言い募ります。
実平は、岡崎が艫板に座っているので陸に近いからと声をかけたのだと弁解しますが、岡崎はさらに自分の子、佐那田余一義忠が前日討たれたことから、子を乗せている実平に遠平を下ろすべきと主張します。実平はこれを受けて、遠平に船を下りるようにと言いますが、遠平は拒みます。下りろ、下りないの言い合いから、実平は遠平に立ち寄り、座して刀に手をかけます。
これを岡崎が止め、実平は自らが舟を下りると言い出します。

すると子方遠平が立ち上がり、常座まで進んだシテに声をかけ自分が船を下りると言い出します。シテ実平は遠平のもとに戻り「げにげに今こそ某が子にて候へ」と言いつつ、子方を伴い、橋掛り二ノ松まで行くと辺りを見廻し「尋常に討死せよ 名残こそ惜しけれ」と言い置いて、舞台に戻り、岡崎の隣、遠平が座していたところに着座します。

子方は二ノ松で謡い出し、地謡が続けて遠平と実平の別れに皆涙を流したと謡います。
ロンギで子方、地謡が掛け合い、地謡が「実平はひたすらに 弱気を見えじとて・・・」と謡い続けると子方が退場。「敵大勢見えたりすはや遠平は討たるるとて」の謡に、一同は幕方、遠平の去った方を見ますが、実平のみは正面を向いたままです。
シテは一同が遠平を眼で追うのを止めると、二度ほど目付柱の方に顔を向けては直し、遠平を思う態。「別れぞ哀れなりける」と地謡がおさめ、シテは正面に直してやや面を伏せて物思う形です。

ここでアシライが奏されて、アイが舟を持ち出して一ノ松に置きます。自らは舟の後部に乗って漕ぐ形。ワキが出て舟の中央部に乗り一セイを謡います。ワキの装束は白大口に法被、左手には弓、右手には矢を持ち、梨子打烏帽子に白鉢巻の姿です。
さてこのつづきはまた明日に
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七騎落さらにさらにつづき

ワキは舞台を見やり、あれに見えるのは御座船の様子、急いで船を漕ぐようにとアイに命じます。

シテは立ち上がって常座辺りに進み、ワキの乗った船に気付いた風で、戻って岡崎に向かい下居、兵船が一艘見えるので此方から声をかけてみようと思う旨を述べます。
岡崎が同意するとシテは立ち上がって、角で右手に扇を持って船を指し、誰が乗った船かと声をかけます。

シテ、ワキのやり取りになり、やって来たのは和田義盛の船と明らかになります。
和田は頼朝に内通しており、かねての約束通り頼朝の加勢にやって来たのですが、シテ実平は和田の本心を確かめるために、昨日の戦いで頼朝を見失ってしまい、この船には頼朝が乗っていないと騙ります。

ワキは、頼朝がいないと聞き、それではもはや命あっても仕方ないと「腰の刀に手を掛くる」と言いつつ、弓矢を捨て腰を下ろしつつ刀に手をかけます。
ここでシテが「ああ暫く」とワキを止め、頼朝はこの船に乗っていると明かします。陸に上がって御対面しようとシテが誘い、船が岸に着いた態でアイが声をかけ、シテは正中へ。アイはワキが背に負った矢を外し、ワキはワキ正に出て、陸上で頼朝に対面する形となります。
ワキは頼朝に会えて安心したと言い、シテに向かうと、なにゆえこの場に子息の遠平殿はいないのかと問いかけます。

シテは「さる謂れあって陸に残し置」いたと答えます。これに対してワキは、はやくに言いたいとも思いつつ、今まで言わずにいたが、土肥殿に引出物をお渡ししようと、船底から遠平を引き立たせて見せる…と言いつつ、後見座にクツロイでいた遠平を導き、目付柱近くに二人で立ちます。
地謡が「夢か現かこは如何にとて…」と謡い出し、シテは両手を広げて子方に寄り下居。「たとえば仙家に入りし身の」で立ち上がり、子方の背に回ると、もともと遠平が座っていた六番目の座に戻して座らせ、自らは正中で正面を向いて着座します
さてこのつづきはまた明日に
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七騎落もう一日のつづき

シテは、ワキ和田義盛に対しどうやってこの遠平を召し連れられたのかと問います。これに対してワキはその謂れを御前にて申し上げようと言い、シテが促すと頼朝を向いて語りだします。

ワキは、昨日の様子を語り、石橋山の合戦で頼朝方が敗けると、大庭の手勢が頼朝を討ち取ろうと渚に繰り出した。自分も一緒にうって出たが、渚を見ると退き損なった若者一騎がみえた。駒を駆け寄せてみると(土肥実平の)子息遠平だったので、急いで馬から飛び降り、生捕る態で船底に隠してこれまで伴ってきた、と話します。
「なんぼう土肥殿には義盛は忠の者にて候ぞ」とワキは自ら言い、シテ、ワキは向き合って語り合う形。

シテは、このようなありがたいことはないと言い、今の物語を聞いて落涙したのを不覚の涙と思われるかもしれない「さりながら」と謡って地謡に。
地謡「嬉し泣きの涙は…」でシオリますが、「日も夕暮になりぬれば」の謡に幕方を見、扇を広げると「月の盃とりどりに」で頼朝に寄って扇で酌の形。自ら「主従ともに喜びの」と謡いつつワキにも酌をし、地謡「心うれしき酒宴かな」で立ち上がって正中に戻り座します。

ワキが一さし舞うようにと勧め、シテは袖の露取って座したまま構えて男舞となります。この間にワキは立ち上がり岡崎の横に腰を下ろします。
男舞はスッキリと晴れやかな印象です。舞上げるとキリ。国々の兵が馳せ参じ程なく二十万騎になったとの謡を聞きつつ、その場で開キ、サシて角に出て開キ。「治め給へるこの君の御代の」の謡に、正中に座して頼朝に向かい、立ち上がると常座へ。足拍子を踏んで角へ出、回ってワキ正で留拍子を踏んで終曲となりました。

なかなかに面白い一曲と感じました。喜之さんの頼朝、喜正さんの実平、和歌さんの遠平と、先般の三代能を思わせる共演でしたが、和歌さんのしっかりした舞台に、さすがと思った次第です。
それにつけてもこの曲、もう少し見る機会が多いと良いのですが・・・
(57分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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十二月九皐会の狂言と仕舞

この日の狂言は「舟ふな」
和泉流 矢来能楽堂 2018.12.09
 シテ 野村拳之介
  アド 能村晶人

狂言自体の解説はしませんが、今回のシテは野村拳之介さん。九世野村万蔵さんの二男・・・虎之介、拳之介、眞之介三兄弟の真ん中ですね。虎之介さんは一昨年、六世万之丞を襲名されましたが、拳之介さん、眞之介さんも舞台に立ち、兄弟三人で萬狂言を盛り立てている様子です。
拳之介さんは現在、芸大に通っておられるようですが、幅広く能楽全般にわたる素養を学んでおられるとか。こうして伝統は引き継がれていくんだなあと、あらためて思うところです。

それにつけても、一生懸命勤めている感じの拳之介さんに対し、さすがに能村晶人さんの演技は余裕がありました。上手いなあ・・・というのが正直な感想です。が、野村扇丞さんから、本名に変えられたのはどういう子細だったのか。

このほか当日は仕舞が三番。
駒瀬直也さんの通盛、奥川恒治さんの松風、そして中所宜夫さんの殺生石の三番です。こういう仕舞の入る会は、なんだか少なくなっているような気がするのですが、仕舞は仕舞なりに能とはまた違った面白さがあるように思います。
短い舞の中に、どういう思いを込めるのか。シテの技量が問われる所と思います。

仕舞が入って附祝言もある、って、私としてはまさに「能の会らしい会」というイメージです。
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舎利 中森健之介(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2018.12.09
 シテ 中森健之介
  ツレ 桑田貴志
  ワキ 安田登
  アイ 河野佑紀
   大鼓 亀井洋佑、小鼓 住駒充彦
   太鼓 澤田晃良、笛 栗林祐輔

舎利は平成20年から22年にかけて三度ほど鑑賞記を書いています。本曲は流儀による違いもさほど大きくはない様子ですので、今回は舞台進行については簡略に、気付いたこと、気になったことなどに触れつつ、書いてみようと思います。

舞台に一畳台、舎利塔に見立てた小ぶりの台、火焔玉などが準備されるとワキの出。名宣笛でワキ安田登さんが登場します。
安田さんのワキを拝見するのは3年ぶりですが、その間に何冊か安田さんの書かれた本を読んだこともあり、なんだかそんなに間が開いた感じがしません。常座に出て名ノリ。安田さんらしい独特の声。安田さんの師匠になる鏑木岑男さんの謡を思い出させます。

名ノリ、道行、着きゼリフと謡い、一度正中辺りまで出てから狂言座のアイを呼び出します。十六羅漢、舎利を拝ませて欲しいとワキが申し出、やり取りの末にアイが舎利塔の戸を開けて、ワキが舎利を拝する形になります。

ワキは一畳台手前に下居、数珠を取りだして合掌しつつ謡います。この謡の最後「一心頂礼万徳円満釈迦如来」は「舎利礼(しゃりらい)」の冒頭の三句です。今まで何度もこの舎利の能を観たり、謡本を読んだりしていますが、ついぞ舎利礼が謡われていると意識しないでしまいました。
舎利礼ないし舎利礼文は大乗仏教の経典の一つですが、「如是我聞」で始まる多くの経典のように釈迦の教説(ないしその形をとったもの)ではありませんから、狭義のお経には含まれないのですが、わずかに七十二文字と短いこともあり、多くの宗派で葬儀などの際によく読まれます。特に曹洞宗では大切にされているようで、曹洞宗の檀家の方のお葬式に出席すると、まず必ずといっていいほど耳にします。
一心頂礼 万徳円満 釈迦如来
真身舎利 本地法身 法界塔婆
我等礼敬 為我現身 入我我入
仏加持故 我証菩提 以仏神力
利益衆生 発菩提心 修菩薩行
同入円寂 平等大智 今将頂礼
の七十二文字ですが、本来はその名の通り仏舎利を礼拝する時に読むものでしょうから、まさにこの場面に適した章句ということですね。

このワキの謡に続く地謡の上歌で、茶の無地熨斗目着流しに青の水衣、黒頭のシテが幕を出て舞台に進んできます。ワキはワキ座に着座し、シテは舞台に入って常座でサシ込み開キ、シテの謡い出しになりますが、このつづきはまた明日に
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利のつづき

シテの謡、これまでの鑑賞記でも書きましたが、「仏在世の御時は 法の御声を耳にふれ」たと謡いながら「後五の時代の今更に なほ執心の見仏の縁」とあり、怪しい詞章です。
後五は、釈迦入滅後の二千五百年を五個の五百年に区切った最後の五百年のことで、闘諍堅固の時代となり邪見がはびこり仏法が姿を隠してしまう、いわゆる末法の世のはじまりです。末法思想では、正法、像法をそれぞれ千年とする説もあり、またそれぞれを五百年、あるいは千年と五百年など諸説ありますが、正法、像法それぞれ千年とすると、後の五百年は末法の時代と重なります。

ともかくも、仏在世の時に御声にふれ、そして今ここに居るというのは生身の人ではありませんから、得体の知れないモノなのですが、ワキは如何なる人かと問い問答に。
続くクリ、サシ、クセで仏法東漸、仏舎利もこの地に伝わり、ここに拝することの有り難さが謡われます。

クセは居グセでシテは正中に座したまま。
クセが終わるとワキが正面を向いて、俄に空がかき曇り稲光が輝く様子を謡い、シテが足疾鬼の本性を現します。
地謡「栴檀沈瑞香 栴檀沈瑞香の」の謡い出しに、シテは拍子を踏み橋掛りへ。二ノ松で向きを変えて常座に出、サシ込み開キ。拍子踏んで「舎利殿に飛び上がり」の謡に一畳台上に上がると「くるくるくる」と三度回り、火焔玉を取り上げて小さな台を踏み潰し、幕に走り込みます。この走る勢いにアイが転がり、逆に転がって元に戻ると立ち上がって「くわばらくわばら、揺り直せ揺り直せ」と道成寺のアイと同じように驚いた様子を見せ、さて雷が落ちたか地震があったか、まずは舎利殿に参ろうと言って常座に出ます。

今回はアイのシャベリに気を付けて聞いてみましたが、一畳台に寄り舎利がないことに気付いたアイはワキに声をかけ、何事が起きたのか「有り様におしゃれ」と詰めよります。ワキが「まづ近う御入り候へ」と答え、アイが正中に座して問答になります。
ワキは最前、仏舎利を拝して心を澄ませていたところ、童子のような者が来たって仏舎利のことを委しく語ったが、俄に様子が変わり、仏舎利を持って姿を消してしまった言い、アイに仏舎利のことを委しく教えて欲しいと求めます。
これに答えてアイは正中で仏舎利のことを語りますが、このつづきはまた明日に
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舎利さらにつづき

間語りの大意。
昔、釈迦入滅の時、人間は言うに及ばず、生き物全てが嘆き悲しんだ。
その時、足疾鬼という外道が嘆く様子で近付いてきたので、仏弟子たちも親しげにしたが、足疾鬼は隙を見て仏舎利を奪い虚空に上ってしまった。
足疾鬼は足の速い鬼で、仏弟子たちはどうしたらよいかと相談した。阿難という仏弟子が韋駄天という足の速い仏に頼んで追ってもらおうと言い、韋駄天が足疾鬼を追いかけて舎利を取り返した。
韋駄天は取り戻した仏舎利を帝釈天に渡し、帝釈天は道宣律師に渡し、道宣律師から仏舎利は本朝に伝わったと語ります。(間語りでは道宣律師の名はよく聞き取れなかったのですが、牙舎利伝来の経緯などを調べてみると道宣律師の名が出てきますので、おそらくそう言っていたのだろうと推察しています)
さてその古の足疾鬼の執念が残って、この寺の仏舎利を奪って逃げたのだろうとアイが推測します。

ワキはこれを受け、古に習い、韋駄天に仏舎利を取り戻してもらうようにとアイに勧めます。アイは心得申して候と答え、立ち上がって大小前で後ろを向いて数珠を取り出します。さらに正中に出て正面を向き、韋駄天へ祈りを捧げ、一心頂礼万徳円満釈迦如来と舎利礼文を唱え、「南無韋駄天」と幕方向いて数珠を揉み狂言座へと下がります。

イロヱ出端で後シテの出。
前々からこの登場楽「イロヱ出端」と書いていますが、謡本での表記は「イロヱ」です。こうした性格設定の後シテの出であれば「出端」が奏されるのが本来の形でしょうけれども、わざわざ「イロヱ」と表記されています。しかも実際には、大小太鼓が出端を奏し、笛が「イロヱ」の譜を吹くという独特な形なので「イロヱ出端」とも呼ばれているようです。もっとも笛の扱いは流儀、家によっても異なるようではありますが…
どうしてこういう形なのか、この辺りは素人には分かりかねるところですが、珍しい形なので、本曲の作者に何がしか思うところがあったのでしょう。興味深いところです。

さてシテは顰の面と思いますが、赤頭で、朱地の半切、緑地に金文様の法被。左手に舎利珠を持って登場です。正中まで出て一畳台を見込み、さらに一畳台を超えてワキ座へと進み、袖を被き、姿を隠した態になります。囃子が早笛に変わりツレの出。
ツレ韋駄天は天神の面、黒垂をつけての登場です。装束附けには紅入厚板、白大口ないし半切、側次ないし法被折込とあるのですが、見た目では袷狩衣を衣文づけにしたような感じでした。
この続きはまた明日に
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舎利さらにさらにつづき

後から出たツレ韋駄天が常座で開キ、この寺を守護する韋駄天と名乗ります。足疾鬼に牙舎利を置いて行けと呼ばわります。
シテは立ち上がりツレを見て「いや叶ふまじとよ此仏舎利は 誰も望の あるものを」と謡って拒み、地謡が「欲界色界無色界」と受けて舞働になります。
舞働では舞台中央で打合う形から舞台を回り、シテは橋掛りへと逃げてこれをツレが追いかけます。三ノ松と一ノ松に分かれて向き合ったところから打合いになり、立ち位置を入れ替えてシテが先に舞台に戻り、ツレが追って、舞台上で二人がサシ込開キして地謡。
「欲界色界無色界 化天耶麻天他化自在天…」と謡います。
韋駄天に追われて足疾鬼が帝釈天まで逃げ上り、梵天が足疾鬼を下界に追つ下す様子を地謡が謡い、詞章に沿ってシテ、ツレが交互に一畳台に上って三十三天を攀じ上る様を示し、「梵王天より出で会ひ給ひて もとの下界に 追つ下す」の謡に、シテ足疾鬼は一畳台から後ろに飛び降りて下界に落ちた様。続いてイロヱ。

ここがまた本曲の珍しいところで、舞働の後に地謡が入り、さらにイロヱが入ります。舞働の後にイロヱが入る曲というのは他に記憶がないのですが、まあこれは私が知らないだけかも知れません。
ゆっくりとした調子になり、ツレはゆっくりと台を下りて、二人は地謡前と常座に分かれて見合う形になります。ごくごく短いものですが、このイロヱで単なる舎利の争奪戦にぐっと深みが出るように感じます。

シテが「左へ行くも」と謡い、地謡が続けるなか、シテは「虚空にくるくるくると」の謡に合わせて台上で回り、ツレが一畳台に上がると、シテが台に腰を下ろし、ツレがシテを抑えて打ち杖で打つ形。シテが舎利を差し上げてツレ韋駄天がこれを取り上げます。
シテは橋掛りへと逃げ、二ノ松あたりで袖被いて腰を落とし姿を隠した態。「心も茫々と起き上がりてこそ 失せにけれ」の謡に、再度立ち上がって留拍子を踏み終曲となりました。
附祝言は高砂。

「眠くならない能」、たしかに動きがあり退屈しないで見られる能ではありますが、今回、いろいろと気を付けながら観てみると、存外奥の深い曲であると思った次第です。
仏舎利の有難みも、現代と本曲が作られた時代では全然違うでしょうから、前場の仏教東漸の話や、牙舎利が本朝に伝えられ泉涌寺にまつられていることも、当時京都に住み本曲を見る人たちには深い思いを感じさせるものだったかと想像しています。
後場の登場楽や、舞働とイロヱなども興味をそそる謂れがありそうですが、今回の鑑賞記はまずはこれまで。
(61分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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