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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

令和の時代を迎えて

さて令和の時代となりました。
新しい時代の幕開け、よき時代となるよう期待をこめて本日を迎えました。

しかしながら元号の決め方については、正直のところ「国書」に拘って元号を定めたということにどれほど意味があるのか、なんだかよく分かりませんでした。万葉集を否定するつもりもありませんし、日本の文学はそれはそれで素晴らしいものと思いますが、漢字二文字で元号を定める以上、あまり拘っても仕方ない部分ではないか、とも思います。

原典となった万葉集の部分も「令月」という言葉自体は、より古い漢籍の中に見えるようですし、なぜ国書ということにそんなに拘るのか、不思議な気持です。そんなに日本に拘るのなら、いっそ漢字の元号など廃して大和言葉で「まほろば○年」などとでも、したら良いのではないか、と愚にも付かないことを考えてみました。

とは言え、新しい時代の始まりですし、この時代が「令和」込められた思いの通り、よき時代となることを願わずにはいられません。

ところで、平成の三十年ほどの間に能楽をめぐる環境も大きく変化してきたように思います。
能楽堂で見所を見廻すと、圧倒的に高齢の方…自分を含めてですが…が多いのですが、これは何も今に始まったことではありません。私が能楽堂に足を運ぶようになった頃でも、見所にはほとんど若い人はいませんでしたし、大学の能楽サークルもほんの数人の部員で細々とやっているところがほとんどでした。風前の灯…と思っていたのですが、そのサークルが今でも続いていることに、逆に感動を覚えたりしています。

また国立能楽堂の主催公演などは、毎回ほぼ満席ですし、大隆盛という訳ではありませんが、能楽自体はしぶとく生き続けている感じです。

ただし一般のお稽古をされる方が減っているのは、どうもいかんともし難い様子です。
いわゆる「奥様」の教養として、能楽師の元にお稽古にいらっしゃる方たちが高齢化し、先細っている感じがします。
なら、自分でも習いに行ったら…と思わないでもないのですが、地方にいるとこれまた難しい。そういう意味では能楽師の皆さんも大変だろうなあと思います。
歌舞伎などと違って、公演だけでは生活が成り立たないので、素人のお弟子さんは能楽の底支えとして必須と思うのですが、これまでの形態で維持していくのはより難しくなってしまうのかも知れません。

だからといって、お上の補助金のような支援は、芸能の活力を奪ってしまうようにも思います。
能楽が、活き活きと続いていくような、そういう仕組みを工夫していくことが、新しい時代を迎えて必要なのではないかなぁと、思うところです。
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松山鏡 中森貫太(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2019.02.10
 シテ 中森貫太
  ツレ 遠藤和久、子方 富坂唐
  ワキ 福王和幸
   大鼓 亀井広忠、小鼓 幸信吾
   太鼓 林雄一郎、笛 寺井宏明

まつやまかがみ・・・古くは「まつのやまかがみ」と読まれていたらしいのですが、観世流では少なくとも大正年間には、既に「まつやま」の読みになっています。ともかくも「まつのやま」は、四国松山ではなく、越後松之山のこと。松之山にまつわる伝説をもとにした一曲です。

これがまた極めて上演の少ない曲で、実は三月に観た藍染川とも並ぶ稀曲です。ちなみに大角さんの観世流演能統計では、平成21年までの60年間に、松山鏡、藍染川ともに7回しか上演がなく、204位と205位。現行曲でこれより少ないのは、代主と放生川のみで、いずれも上演は3回です。

しかし、松山鏡も藍染川もつまらない曲ではありません。予想外に面白いのですが、ただし、観てみれば上演が少ない理由が直ぐ分かります。どちらもシテがほとんど活躍しない。本曲では後場に登場するのみで、しかも早笛で登場し、舞働からキリを舞いあっという間に終曲になってしまいます。存在感はあるのですが、これではなかなか演じようというシテ方は出てこないでしょう。シテ方の能楽師自身が一曲のプロデュースもするという、能の仕組みの中では、シテ方がやろうと思わない曲は上演され難い。そういう意味で、両曲ともなかなか取り上げられないのだろうと思います。私も、両曲とも初見です。

さて松山鏡ですが、最初に書いた通り、物語の舞台は越後、松之山です。松之山は合併によって現在十日町市の一部となっていますが、中越地方の雪深い地区。松之山温泉の婿投げ行事でも有名ですが、国内でも有数の豪雪地帯です。
そんな地域なので、鏡を知らないという伝説の地になったのかも知れませんが、もともとの鏡を廻る説話はインド起源で、中国を経由して渡来した様子です。

狂言の鏡男・・・以前、鑑賞記を書いていますが・・・や、落語の松山鏡も、同様に松之山の地と鏡を知らない住民という素材をタネにしていますが、こちらはドタバタの喜劇に仕立てられているので、割合に上演も多いようです。

さて本曲の舞台ですが、明日からその様子を書いてみようと思います。
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松山鏡のつづき

一同着座すると、舞台には鏡台が運び出されてきて、正先、階の右に寄せて据えられます。鏡台は昭君でも用いられますが、今回は替エの鏡台であまり見かけない形です。昭君では、鞨鼓台のような形で、鞨鼓の代わりに鏡が取り付けられている形のものをよく見ますが、今回のものは台座が籠を伏せたような形に作られ、ここから槍のように立ち上がった支柱の先に鏡が取り付けられています。
同じ九皐会の桑田さんが昭君をされた時には、この形の鏡台を出されたようですので、九皐会ではこちらの鏡台をよく使われるのかも知れません。

続いて出し置きの形で子方が登場して地謡前に着座すると、名宣笛が吹かれてワキの出となります。
段熨斗目に素袍上下、掛絡をかけています。常座まで進んで名乗り。
松の山家に住む者と言い、妻に先立たれて早三年、忘れ形見の姫があまりに母を恋しがるので、対屋を造って傍らに置いているが、今日は母の命日でもあり、持仏堂で焼香しようと言って手を合わせます。
言い終えたワキは後ろを向いて後見座にクツロギ、代わって子方が立ち上がると、正中に出て鏡に向いて着座し、謡い出します。

子方が、母に離れて早三年と謡うとワキが立ち上がり声をかけます。
姫が何やら独り言を言っていると言い、地謡座に向かって「いかに姫があるか」と呼びかけ、持仏堂を開けるようにと言います。子方は立ち上がって角を向き、ワキは続けて姫が何か物を隠したようだと言って常座から子方を向き、様々に話しかけます。
何やら物を隠したようだが、人の言うには、新しい母を木像に作り、明け暮れ呪詛しているとも聞くが真か、と問い質します。

子方はこれに答えて謡い、実母が今際の時に鏡を自分に渡し、母の姿を残す形見なので恋しい時は見るようにと仰ったので、ある時この鏡を見れば母の姿が映った・・・と謡って鏡を向くと地謡に。
地謡が「母御の慈悲ぞありがたき」と謡うと、子方は鏡に両手を合わせ「不審に思し召されば 見せ参らせん鏡山」でワキに向き直ると地謡座に向かって歩み出し「立ち寄り給へ父御前」と地謡座からワキに向き、二人は着座します。
さてこのつづきはまた明日に
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松山鏡さらにつづき

ワキは、不思議な事を言うものだと驚きますが、座したまま正面に向き直ると、思い出したことがあると言って、漢の武帝の后、李夫人の絵姿の話と、聖武天皇の后、光明皇后が蘇生した話を語ります。

李夫人は前漢の武帝の夫人で、皇帝の寵愛厚く皇后を追贈された美人。武帝はその死を悲しんで絵姿を描かせ、甘泉殿にかけて偲んだものの所詮絵は絵。悲しみが癒やされないところに、斉の方士、少翁が死者の霊を招くことが出来るという話を聞きつけます。宮中に方士を呼び反魂香を焚かせると、夫人の魂が来たったという伝説です。
白楽天がこの李夫人の伝説を詩に書いていますが、愛する者との別れを廻って、穆王が盛姫の死を悲しんだこと、そして玄宗皇帝が楊貴妃を思ったことが書き添えられています。

余談ついでに、その白楽天が空海や橘逸勢とともに、玄宗皇帝や楊貴妃にまつわる謎を解いていく伝奇小説「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」。かの「陰陽師」を書いた夢枕獏さんの小説ですが、これは実に面白い。冗長という声もありますが、私の好きな本の一つです。

さてまた光明皇后の蘇生譚ですが、本曲では、聖武天皇が皇后との別れを嘆いて梵天に祈誓したので、閻王が憐れんで娑婆に送り返したと謡われます。もちろん、史実としては光明皇后の崩御は聖武上皇崩御の4年ほど後のことですから、蘇生の話などはあり得ないのですが、調べてみると、どうも中世には東大寺の大仏の縁起として、大仏は光明皇后追慕のために建立されたという話が流布していた様子です。謡曲「安宅」でも、弁慶が読み上げる勧進帳に「聖武皇帝と名づけ奉り最愛の夫人に別れ」とあります。

ともかくも、ワキはこうした蘇生譚を語ったうえで、そうした話もあるがそれは上代のこと。末世の今の世に、その様なことがあるとも思われない。しかし亡き母は姫に名残を深く惜しんでいたので、もしかしたらそうしたことがあるのかもしれない、立ち寄って鏡を見てみようと言い、立ち上がって鏡の前に立ちます。
しかし「や」と声を出し、常座に戻りつつ「条なき事を申し候」と言い、立ったまま子方に向かうと、この鏡に母が映ることはないと声をかけます。

さてこのつづきはまた明日に
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松山鏡さらにさらにつづき

子方は、(父には)鏡に母が映るのを見えないのかと「鏡の前に泣き居たり」と謡いつつ鏡に向いてシオリ。さらにワキを向いて、別れの涙も乾かぬうちに新しい妻を娶ったゆえに鏡に母の姿が映らないのだろう「よし父にこそ疎くとも」と謡ってシオリ、地謡が続けます。

地謡のうちにワキは腰を下ろし、子方は立ち上がると鏡の前に進み「底より曇り真澄鏡」と左の手を上げて鏡をさし「我が影に指をさす げに哀れなりさればこそ 稚き身の心なれ」の謡に、上げた手を下ろし、元の座に戻って腰を下ろします。

ワキは正面を向いて「言語道断の事」と独白の態。
この松の山家は女も歯鉄漿をつけず、色も飾らず、鏡なども知らない所。ある時、都に上った際に鏡を買って帰り、姫の母に渡したところ大変に悦んだが、今際の際に姫を近くに寄せ、恋しい時は鏡を見よと言ったのだろう。姫が自らの姿を見て母と思い嘆くのは不愍なことだが、ここは鏡の謂われを語って姫の歎きをとどめよう・・・と語ります。

ワキは立ち上がり子方を向くと「やあ いかに姫」と呼び掛け、鏡は何に限らず物の影を映すものと言って「これこれ見候へ」と子方に寄り、子方を立たせると二人で鏡に寄り、父が立ち寄れば父の影、扇を映せば扇の影・・・と諭します。
子方はワキを向き、「げにげに父の仰せの如く 今こそ斯くとも三吉野の」と謡い出します。ワキが「岸の山吹風吹けば」と続け、掛け合いのうちに、鏡に映った姿のはかなさを謡います。

地謡が続け「子ながらも これほど母に似けるよと」と謡うとワキは腰を下ろして合掌します。「父は涙にかきくれてや」とワキが謡い、地謡が「我こそは曇らすれ 面目なの鏡や」と謡い納めると、ワキが立って子方に寄り、子方を伴ってワキ座に向かい、二人着座します。
囃子のアシライでツレの出となりますが、このつづき、もう一日明日に
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松山鏡もう一日のつづき

ツレは摺箔に無紅縫箔腰巻、白練壺折で右手に杖。面は痩女でしょうか、常座に出て「子は親に 似るなるものと思われて 恋しき時は鏡をぞ見る」と謡います。
杖を後見が下げ、ツレは地謡で正中に進み床几に腰を下ろします。

ツレサシ「これを水と言はんとすれば」から地謡と掛け合いで、昔を語るから夢を覚まさないようにと謡い継ぎクセに。
クセでは唐土の破鏡の伝説が謡われます。陳氏という賢女があり、夫が遠く出かけるに際して鏡を二つに割り形見にしたものの、その後、文も絶え夫は帰ってこず、風の便りに夫は出先の国で国主となり妻も娶った様子。いかんともし難く泣き暮らしていたところに、鵲が飛び来たります。鵲は陳氏の肩に羽を休め、不思議なことに割れた鏡が元に戻ったという話。
実はこの部分については、幸田露伴が「金鵲鏡」という短編を書いています。破鏡については神異経と本事詩に記載があるが、いずれも松山鏡の話とは異なっており、どうやら松山鏡の作者が、この二つの伝説を一つにまとめて謡曲に記したのではないか、と推論しています。詳細は「金鵲鏡」をお読み頂ければと思いますが、興味深い話です。

さてクセが終わると早笛。ツレは立ち上がって地謡座前に着座、シテ倶生神が登場してきます。赤頭に面は小べし見でしょうか。唐冠をつけ、朱の半切に紺地の袷狩衣、二ノ松に立って「いかに罪人何とて遅きぞ」と謡います。
姫の母が片時の暇を欲しいと言って現世に戻ったものの、帰りが遅いので冥官が怒り、倶生神がやって来たのだと謡います。地謡で舞台に入るとツレに寄って立たせ、鏡の前に連れて行きます。そのままツレを鏡前に残し、自身は常座で足拍子を踏んで舞働。

舞上げると「こはいかに不思議やな」と謡い、地謡が、孝子の弔う功力によって母の霊は菩薩の座像かと疑う姿に変じたと謡うに合わせて鏡前に出てのぞき込み、扇持つ手を上げて頭扇、開イて七つ拍子踏み、常座から「すはや地獄に帰るぞとて」とツレに向いてサシ込み開キ、角で「大地をかっぱと踏み鳴らし」と足拍子踏んで常座へ。「奈落の底にぞ入りにける」と袖被いて姿を隠し、改めて立って留拍子を踏みました。

ツレの方がむしろシテらしい感じさえする展開で、なかなかこれを選んで演じるシテ方は出てこないかも知れませんが、倶生神もまた極めて重要な位置付けでもあり、もう少し上演されても良いのになあ、と思った次第です。
(55分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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九皐会のその他

二月の九皐会は法事と重なってしまい、初番の奥川さんの采女を観ることができませんでした。法事を済ませた後、矢来能楽堂に急ぎ、なんとか狂言の鞍馬参りには間に合いましたが、いささか残念な思いが残ります。

ともかくも、鞍馬参り(21分)は善竹十郎さん、富太郎さんの主人と太郎冠者。狂言は何度観ても面白いと、これまでも書いてきましたが、楽しい時間を過ごしました。富太郎さんは以前より少しだけ痩せられたかな。

続く仕舞三番、小玉三郎さんの忠度、観世喜之さんの雲林院クセ、長山耕三さんの葵上と、良く知っている三番でもあり、それぞれ楽しませて頂きました。

それにつけても、松山鏡の鑑賞記は余談で膨らんでしまいましたが、なかなかに面白い一番でした。こうした曲を積極的に取り上げておられる、中森貫太さんの姿勢には敬意を表します。
この先の、能を知る会の東京公演、横浜公演を予約させて頂きました。鎌倉能舞台も、演者と近く臨場感があって面白いのですが、正直のところ水戸からお邪魔するのはちょっとたいへん。また機会があればとは思っているのですが・・・
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知章 井上裕久(国立能楽堂特別公演)

観世流 国立能楽堂 2019.03.21
 シテ 井上裕久
  ワキ 安田登
  アイ 網谷正美
   大鼓 飯島六之佐、小鼓 鳥山直也
   笛 一噌隆之

今回の国立能楽堂特別公演は、上演の少ない難曲を取り上げた・・・という趣旨でしょうか。国立能楽堂は定例公演、普及公演、企画公演、そして特別公演と様々な種類の公演を主催しています。それぞれの公演が目指すものの違いはよく分かりませんが、特別公演はなかなか上演されない曲を取り上げている印象があります。

その一曲目「知章(ともあきら)」ですが、これまで二度鑑賞記を書いています。平成22年7月の梅若会定式能での角当直隆さんの演能と、平成25年4月の九皐会での中所宜夫さんの演能です。その角当さんの時の鑑賞記にも書きましたが、本曲は修羅物の中でも上演回数の少ない曲で、当日頂いた演能解説には、当時の梅若玄祥さん(現在は梅若実を襲名されましたが)が、演じ手にとって難儀な曲で、なかなか上演されないという趣旨の話を書いておられます。
本曲は、そもそも知章の曲名の通り、父知盛を助けようとして討たれた知章を主人公に、その死の顛末を描きながら、一方で知章の死を思う知盛の心中、知盛の乗馬との別れ、御座船の様子などなど、盛り沢山に描かれています。このため次々に場面が変わり、しかもそれぞれの心情を演じなければならないという、演じ手にとってはたいへんに難しい一番となっています。

そんなところが上演の少なさに繋がっているのでしょうけれども、たまたま機会あって三度目の鑑賞となったところです。ただし三度とも観世流、ワキは下掛宝生流の組み合わせですので、詞章や型などあまり大きな違いはありません。
そこで今回は、一応全曲の流れを記すものの、大まかな流れと、これまでの鑑賞記と異なっている部分などを書き記しておこうと思います。
舞台の様子は明日からに・・・
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知章のつづき

まずは次第でワキの登場。無地熨斗目に水衣、角帽子の着流し僧。角当さんの時はワキツレを伴っての出でしたが、今回は中所さんの時と同様にワキのみの演出です。
次第を謡い名乗り、さらに道行と謡って着きゼリフ。

知章とは誰だろうと謡いつつ向きを換えてワキ座に向き、謡い終えて歩み出します。するとシテの呼び掛け。シテは直面、段熨斗目に掛け素袍、ワキに何を言っているのかと問いかけます。シテワキの問答の形で進みますが、この部分の詞章のおさまりがしっくりしないのは以前書いた通り。上掛と下掛の詞章の違いなのでやむを得ないところです。

問答のうちにシテが舞台に入り、二人合掌して塔婆供養の偈文を読みます。この偈文、大日経・・・大毘盧遮那仏神変加持経にあるらしいのですが原典をあたっていません。曹洞宗などでは卒塔婆供養としてよく唱えられるようです。ひとたび卒塔婆を見れば、永く三悪道を離れ、それを造立する者は、必ず安楽国に生まれる、といったところでしょうか。
ともかくも祈りを捧げた二人は、知章の最期について言葉を交わします。

シテは知盛が名馬井上黒に乗って二十余丁の海面を泳がせ、御座船に辿り着いたことを語りますが。この井上黒、信州須坂は井上の産だそうで、後白河法皇に献上され、法皇が平家に与えたものとか。名馬の誉れ高く、戦場から生還し法皇のもとに戻されたそうです。
このシテの謡に続いて地謡となりますが「越鳥南枝に巣をかけ胡馬北風に嘶えしも」と続くところ、謡本には「越鳥」は「エツテウ」と謡うようにとわざわざ注記があり、実際にそう謡われます。「えっちょう」ではないのかと思うのですが、蟻通も同じく「エツテウ」と謡うことになっています。不思議ですが、何かしら謂われがあるのでしょう。他流はどうなのか疑問ですが、調べておりませんので・・・

続いてロンギとなり、シテは一門の者と明かして姿を消します。
前二回の鑑賞記では「後影も失せにけり」の謡の後、送り笛で中入となりましたが、今回は「芦邊をさして行く田鶴の」で常座に向かい「浮きぬ沈むと見えしままに」の謡を聞きつつそのまま橋掛りへと進み「後影も失せにけり」と幕に進んで中入となりました。
さてこのつづきはまた明日に
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知章のさらにつづき

中入ではアイが登場し、ワキとのやり取りから知章の最期を語ります。前回、中所さんの演能の際の鑑賞記に、善竹大二郎さんの間語りを略記しましたが、網谷さんは同じ大蔵流でもあり、ほぼ同様だったと思います。和泉流は少し違うように思いますが、角当さんの演能の鑑賞記では、和泉流竹山悠樹さんの間語りだったものの、ほとんど記録をとっていなかったため、残念ながら比較が出来ません。

アイが下がるとワキが謡い出し、待謡に。続く一声の囃子で後シテの出となります。
黒垂に梨子打烏帽子、朱の縫箔に浅黄の色大口、法被肩脱ぎの形で登場し常座にてサシ込み開キ、サシを謡い出します。
さらに一セイ、地謡の後「後の山風上野のあらし」と謡いつつ、三足ほど出て幕方を振り返り、正に直すと七つ拍子踏んで角へ。角トリして左に回り「浮み出でたるありがたさよ」と常座に戻り小廻りしてサシ込み開キ、合掌します。

シテ、ワキの謡から地謡となり、シテは開いて拍子を踏み「うつす絵島の島隠れ」とサシ込み開キ「行く船を 惜しとぞ思ふ我が父に」で七つ拍子踏んでヒラキ。正中に出て常座に回リ「西海の藻屑となりし浦の浪」とワキに向いてサシ込み開キ「重ねて弔いてたび給へ」と供養を求める形となります。

ワキがその時の有様を委しく語るようにと求め、地のクリでシテは大小前から正中に進んで床几に腰を下ろします。以前にも書いたとおり、シテサシ、続く地謡で知章と従者監物太郎の討死が謡われ、クセではその隙に御座船へと逃げ延びた知盛の様が謡われます。
上端までは床几に腰を下ろしたまま謡が進み、その後シテは立ち上がるとクセの後半を舞います。
さらにクセの後、ロンギの地謡「げに傷はしき物語 同じくは御最期を 懺悔に語り給へや」から、シテは知章の最期を仕方に舞う形になります。
この辺りが特に本曲の難しいところと思うのですが、さすがにベテランの井上さん、見事にそのあたりの気分をとらえ、観ている方はなんの違和感もなく知章の最期に、父知盛の思いに共感したところです。
(72分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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しびり 茂山千作(国立能楽堂特別公演)

大藏流 国立能楽堂 2019.03.21
 シテ 茂山千作
  アド 丸山やすし

痿痢や痿痺、あるいは痺とも書かれる本曲ですが、10分少々の短い曲でもあり、狂言方の初舞台としてもよく演じられます。
鑑賞記としては、もう12年ほど前に一度取り上げていますが、あのときシテ太郎冠者を演じた高澤龍之介さんは、子供ながら堂々たる舞台でしたが、その後は能楽界から離れてしまったのか、消息を見かけません。そう言えば観世紘顕、智顕、喜顕さんの三兄弟も素晴らしい子方でしたが、その後、みなさん能楽界を離れた様子です。

それはさておき、この小品を千作さんが演じるというのが、また面白いところ。
簡単に粗筋を書くと、今晩急に客が来ることになったため、主人は太郎冠者にそのもてなしのため和泉の堺で酒肴を整えてくるように、と命じます。
しかし来客の度に用事を申しつけられてはかなわないと思った太郎冠者は「いたしようがある」と、突然に痛がります。
主人が問うと、持病のしびりで歩けないと言う。主人は太郎冠者の額に塵をつけ、しびりの治るまじないだと言いますが、太郎冠者は自分のしびりは高じたしびりで、そんなことでは治らないと言います。太郎冠者は、親が子だくさんで兄弟たちには家や蔵を譲ったが、自分には持病のしびりを譲った、そういう謂われのあるしびりなのだと言い募ります。仮病と見破った主人は、使いが来た風で伯父御殿がご馳走するので太郎冠者を伴って来るようにと言うか、だが太郎冠者はしびりで行けないので次郎冠者を連れて行くと言え、と命じた風に声を出します。
太郎冠者は慌てて、しびりは言い聞かせれば治るのでお供に行くと言い出します。早速言い聞かせてみよと主人に言われ、太郎冠者はしびりに治るように言い聞かせます。
主人の言うままに立ち上がり、前に出たり下がったり、跳んでみたりしますが、治ったと言う太郎冠者に、主人は伯父御のことは偽り、歩けるならば和泉の堺に行ってこいと言います。
太郎冠者は和泉の堺へと言われると、またしびりが出てくると言って痛がりますが、最期は主人の叱り留。

ばかばかしいと言えばばかばかしいのですが、日頃面倒な事を言いつけられている使用人の精一杯の抵抗とみれば、案外奥深いものがありそうにも思います。
短時間ですが、茂山千五郎家らしい、はっきりした物言いで、かつまた千作さんの味のある舞台、楽しく拝見しました。
(12分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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藍染川 本田光洋(国立能楽堂特別公演)

金春流 国立能楽堂 2019.03.21
 シテ 本田光洋
  子方 中村帯雅
  ワキ 飯冨雅介
  ワキツレ 原大 岡充
  アイ 茂山千五郎
   大鼓 白坂保行、小鼓 幸正昭
   太鼓 中田弘美、笛 竹市学

松山鏡の鑑賞記の際に、松山鏡と本曲藍染川(あいそめがわ)は、シテが活躍しないので上演が少ないといった趣旨のことを書きました。しかし振り返ってみると、そう括ってしまうのもちょっと違うかなと思っています。
前場では、都から遙々筑紫太宰府まで子の父に会うため下ってきたものの、偽の手紙に絶望して身を投げてしまう、女の想いを演じる難しい役処です。後場は天神として顕れるものの、正に神の顕現を示し上がらせ給うたという態で、舞事、働事はないままに終曲となります。まずは短い出番といえば短いのですが、とは言え身を投げ空しくなった女を復活させたという終曲の形なので、これまた大事な役ではあります。

そういう意味では「活躍しない」という訳ではないのですが、しかし一曲全体を捉えてみると、後場に登場するワキの悔悟と祈りにより女が蘇生するという霊験が中心であることは明らかで、ワキの能と言えそうです。
国立能楽堂のプログラムに掲載された中司由起子さんの解説には、本曲は「恩愛霊験能」と位置付けられ、本曲同様に神仏が死者を蘇生する奇跡が起きる能には「谷行」や「竹雪」がある・・・との記載があります。谷行、竹雪、いずれもワキが重要な役回りとなっており、また上演が稀であることも同様です。また檀風も、蘇生譚ではありませんがワキ中心の曲であり、これまた上演の稀な一曲です。

やはりこういう類型の曲は、シテ方としては敢えて上演しようとする気になり難いということなのかも知れません。また谷行は喜多流では廃曲の扱いになっており、竹雪は宝生流と喜多流のみ、そしてこの藍染川は観世流と金春流のみ、さらに檀風は宝生流と金剛流のみが現行曲としているなど、そもそも五流幅広く演じられる形になっていない事情もあります。
ともかくも、舞台の様子は明日から書いていこうと思います。
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藍染川のつづき

舞台にはまず出し置きの形で、ワキツレの原さん扮する左近尉が登場し地謡前に腰を下ろします。段熨斗目に素袍上下で、宿の主人という設定です。左近尉が着座すると次第が奏されてシテ、子方の出となります。

縫箔に稚児袴姿の子方が先に立ち一ノ松辺りまで進みます。後から出たシテは箔を腰巻にして水衣の姿で三ノ松あたりに立ち子方と向き合い次第を謡います。地取りで正面を向いたシテは一条今出川に住む女と謡い出します。
筑紫の人と契ったものの男は国に帰ってしまった。子の為に父を尋ねて筑紫へと遠旅に出た様子を謡い、さらに道行の態となって、長門から香椎博多と過ぎて宰府にやって来たと謡い納め、シテが二ノ松辺りまで進んで笠を取り正面に向き直ります。

シテは宰府に着いたと言い、まず宿を借りようと子方に告げると、立ち位置を入れ替えてシテが先に立ち舞台に入ります。常座まで進むとシテは案内を乞います。
左近尉が立ち上がり返事をして、宿を借りたいというシテに、女性旅人なので奥の間に通そうと言って中へ招じ入れます。シテは地謡前、子方がワキ座に腰を下ろすと、左近尉はどこから来てどこへ行くのかと問いかけます。シテは都より人を尋ねてきたと言い宰府の神主殿という方はいらっしゃるだろうかと問います。これに対し左近尉は、その方は在所の主で自分もその身内の者だと返します。この言葉にシテは喜び、この手紙を神主殿に渡して欲しいと、文を出して左近尉に差し出します。
左近尉は文を受け取ると立ち上がり、橋掛りへ進んで一ノ松から幕に声をかけます。

これに答えてアイの神主の妻が登場してきます。この妻を間狂言が演じるところが特徴でもあります。左近尉はアイに、神主を尋ねて都から女の旅人がやって来たことを告げ、シテから預かった文を差し出します。
二ノ松あたりで左近尉から文を受け取ったアイは、その場で文を読みますが、言語道断と言って文を引き裂いてしまい、後ろを向いて何やら文をしたためます。
さてこのつづきはまた明日に
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藍染川さらにつづき

文をしたためた神主の妻は、左近尉に神主からの返事と偽って文を渡すとともに、都の女は子供を連れているかと尋ねます。左近尉が連れていると答えると、神主殿はもってのほかのご機嫌にて、二人ともこの在所から追い払うよう命じられたと、偽りを言います。
これに驚いた左近尉は、さっそく追い出すことにすると答えて舞台に戻り、シテに神主からの返事を渡して正中に座します。

シテは返事に喜んで早速に文を広げて読み上げます。しかし偽りの文には、対面は出来ないとあり、子の梅千代にあてては、親ありとも思うな、はやはや都に帰るようにと書かれています。シテは「これは夢かや浅ましや」と謡いつつ、文を下ろして扇持つ右の手でシオリます。

この様子に子方が声をかけ、シテ・子方が向き合います。子方は母に嘆かないようにと言います。しかしシテは、神主の自分への心変わりを嘆いているのではない、梅千代を父に見せれば家をも譲り一跡を継がせてくれただろう。それが叶わずみなし子となってしまうことを嘆いているのだ、と謡います。

中司さんの解説にもあるのですが、この神主は左近尉とシテのやり取りにあるように、本曲では在地領主として描かれており、この所領の一部を梅千代に継がせて欲しいという母の願が背景にあるようです。
後場のワキの謡に出てきますが、シテの女は一条今出川の留守もり梅壺の侍従、神主は都に出ていたときは中務菅原の頼澄と名乗っていたとあります。すれば神主は道真所縁の在地領主だったのかも知れません。
神主の妻の怒りも、単に契を結んだ女が尋ねてきたというだけではなく、その子に所領を分けて欲しいという願が文に書かれていたから、と考えると烈しい怒りも分かるような気がします。

子方は「よしなうそれも力無し、今さら何と嘆くべき」と達観した謡で返し地謡に。
向き合っていた二人ですが、シテはワキ正に向き直り子方も続いて向き直ります。地謡が「残し置くべき悲しさよ」と謡い納めるに合わせてシテは左手にてシオリ。左近尉がシテに向き直り、傷はしくは思うが神主殿よりここには置くなと言われているので、急ぎいづ方へも出て行って欲しいと言います。
さてこのつづきはまた明日に
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藍染川さらにさらにつづき

シテは今夜はここで明かさせてほしいと言います。しかし左近尉は、度々の使いがあって少しの間も置かぬようにと急かされているので、急いで出て行って欲しいと繰り返します。このやり取りはなぜか観世の本にはありません。

シテは、このまま都に戻るのも人目にどうかと思うので、様を変えよう・・・出家の姿になろう・・・と思うので、梅千代はここで待っているようにと言います。
梅千代は、母の様子が気に掛かり一緒に行くと言いますが、重ねてここで待つようにと言われ、待つことになります。
子方は「行きもやられぬ袖の別れ」と謡い、シテの「引き留められて親心の」の謡にシテに寄り引き留める形になります。地謡の「思ひ煩ふ母が身の」の一句を聞いて子方はワキ座に戻って着座します。シテは「別れ得ぬ 今の憂き身かな」の謡に一度子方を見込んで正に直し、左の手で片シオリ。「帰らん程は待ち給へと」と聞いて、懐中から文を取り出すと捨て去り「藍染川に身を投ぐる」と身を投げた態で片膝を突き、二度目の「藍染川に身を投ぐる」で再び立ち上がって中入となりました。
本曲は間狂言は出ませんが、ここで後見が白い小袖を持って出、正先に広げて下がります。これで都の女は亡くなり、その遺体がこの小袖によって示される次第です。

ワキツレ左近尉が腰を浮かせ「や、何と申すぞ、藍染川に人の身を投げたると申すか」と声を上げ「立ち越え見ばやと存じ候」と言って立ち上がり正先に出ます。
小袖を見た形で「言語道断、いかやうなる者ぞと存じて候へば 某が宿に泊まりたる女性にて候」と言い、「なう梅千代殿 母御の身を投げ給ひて候ふ急いで御覧候へ」と言って子方に寄り、子方を立たせます。

子方は正先に出、小袖を見込む形で「なう母上母上恨めしの御事や・・・」と謡い出します。左近尉は大鼓の前あたりに座して控える形です。
子方の歎きの謡から地の下歌。この終わり「母に追ひ付き申さんと、藍染川に歩み行く」で子方は川に身を投げようとする態で前に出ようとしますが、ワキツレが進み出てこれを止めます。
ワキツレが、御身が身を投げては母の跡を誰が弔うのかと諫めます。子方はワキ座に座し、左近尉は子方に寄って文を子方に渡し「母御の遊ばされたる文の候 筺に能く御持ち候へ」と言い「かかる傷はしき事こそ候はね」と言って笛座前に下がります。
さてこのつづきはまた明日に
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藍染川またつづき

左近尉が下がると、幕が上がってワキが太刀持を伴って登場してきます。白大口に褸狩衣、風折烏帽子のワキは一ノ松で「宰府の神主」と名乗ります。このところ余所に出かけていて今戻ってきたと言い、舞台の方を向くと、藍染川に人が集まっているのは何事か、推量するに自分が留守の間に網を引いているのかと言います。
そこでワキツレの太刀持を向いて声をかけ、人が多く集まって網を引いている様子だが、殺生禁断の所であり急いで川から上がるように言えと命じます。

ワキは二ノ松に下がって立ち位置を換え、太刀持が舞台に入って常座から、殺生禁断の所なので上がるようにと声をかけます。
これに左近尉が、網引きではなく人が身を投げたのだと答えると、太刀持ちは左近尉にその由を神主に申し上げるように促し、二人橋掛りに入って腰を下ろします。

どういう人が身を投げたのだというワキの問いに、左近尉は、都から女性が人を尋ねてやって来たが、会ってもらえぬを恨んで身を投げたのだと答えます。ワキは、言語道断、都から遙々下ってきたのに会わぬというのは不心得者だと言い、控えている子供を見てあれはどういう者かと左近尉に問います。左近尉がその身を投げた者の子だと答えると、ワキは子供が手に持っている文を見たいと所望し、見た後は確かに(子を)都に送り届けようと言います。

ワキツレは立って正中に進み、腰を下ろして子方に声をかけ、文を御覧になりたいと仰っている人がいるので、貸して欲しいと言います。子方は母の形見だからと断りますが、御覧になったら確かに都に送り届けようと仰っているので、少しの間だけ文を自分に預けてくれるように言います。

左近尉が文を持ち帰りワキに渡すと、ワキは文を読み上げます。
文には、梅千代への書き置きとして、自分は(捨てられても)恨みはないが、子を思わぬ親のあるべきかと書かれ、自分は大内にあった時は梅壺の侍従、一条今出川の留守もりで、(子の父は)当所での名前は存じないが、在京の時は中務菅原の頼澄宰府の神主・・・とあります。
これを読み上げ、ワキはなんと自分の事と驚きます。
さてこのつづきはまた明日に
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藍染川またまたつづき

閉じた文を左の手に持ち、ワキは左近尉に「幼き者をこなたへ連れて来たり候へ」と命じます。左近尉は正中に腰を下ろして子方に向かい、神主が仰りたいことがあるとのことと言って、子方に寄って立たせ「こなたへ御入り候へ」と子方を導き、自らは常座に控えます。

子方が一ノ松まで進むと、ワキは子方に真の父に逢いたくはないかと問います。子方は父に逢わせて欲しいと言いますが、ワキは「名乗らんとすれば涙にむせび」と謡い、子方「目もくれ心」ワキ「月影に」と謡って地謡に。梅千代の顔かたちが母の面影に違わないと謡い「取り付き髪かきなで よそ目思はぬ気色かな」の地謡に、ワキは子方に寄って座らせると、向き合って子方の髪を撫でる型。

ワキはシテ柱越しに常座の左近尉に声をかける形で、都の女の遺体をひと目見たいと言います。これに対して左近尉は、お気持ちはもっともだが「御姿にてはいかがかと存じ候」と言います。ワキはこれに「汝が申す如く あれ体の死人を目に見る事はなけれども、かの者の心中余りに不便にある間 苦しからぬ事・・・」と答えます。
おそらくは神職の身で、身投げの遺体を見るというのは穢れ、障りになるので、避けるべきとの理解が前提になってのやり取りと思われます。

ワキの重ねての求めに、左近尉は立ち上がって常座から触れの形で人払いをして鏡板にクツロギます。子方を前にしてワキが舞台に入って正先の小袖に向かって進み、ワキはワキ座側から、子方はワキ正側から小袖を見て下居します。

ワキは、遺体に語りかけるように、下向を夢にも知らなかったが、梅千代には自分の一跡を譲り身を立てさせる また御跡を懇ろに弔うと言います。
これを受けて地謡のクセ。顔色も草葉の色に異ならず、眼蓋を開くこともないと謡われるに合わせ、ワキは中腰となり、扇をもって小袖をワキ座側から右に指していき、扇を返してシオリ。上げ端「紅顔空に消えて」を謡うと、さらに地謡に合わせてワキ座方を見、「飛揚の魂いずくにか ひとり赴く有様」の詞章に、正から左へと飛ぶ魂を追う形。「累々たる古墳の辺り」と腰を下ろしてモロシオリ。「郊原に朽ち果てて 思ひや跡に残るらん」と直して小袖を見込みます。

ワキは向きを変え、常座に出た左近尉と向き合う形で「いかに左近の尉」と声をかけ、あまりにかの者が不便なので、天神に祝詞をあげ蘇生を祈誓しようと思う旨を述べ、急ぎ幣帛を捧げるように命じます。
さてこのつづきはまた明日に
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藍染川もう一日のつづき

命じられた左近尉は「畏まって候」と答えて退場し、ワキは笛座前に着座します。後見が小袖を下げ一畳台を出してきて大小前に据えます。さらに緑の引廻しを掛けた宮を出し一畳台に載せます。後見が宮に幣を立てかけて置きます。

ノットが奏されてワキが立ち上がり、宮によって幣を取ると、宮に向かって幣を振った後、右膝に弊を立てて「いでいで祝詞を申さんと 神主ご幣をおつ取って」と謡い出します。ここで謡われる祝詞は、中司さんの解説によれば「二十五三昧式」や「天神講式」を元にしているあります。「謹上再拝」に続いて「我此道場如帝珠。十方三宝景現中。我身影現三宝前。頭面接足帰命礼。南無天満天神」と唱え、続いて天神こと菅原道真が太宰府安楽寺に住まわれた来歴を唱えます。この章句、観世の本とは微妙に違いますが・・・

ところで「講式」というのは、世界大百科事典によれば「仏教法会の儀式次第のうち、とくに仏・菩薩、祖師などの徳を講讃する儀式をいう」もので「二十五三昧式」はその嚆矢とあります。
講式では声明が唱えられますが、浄土宗では総礼伽陀と呼ばれる法要の開始部分で唱えられる声明の一つに「我此道場」があり、「我此道場如帝珠。十方三宝影現中。我身影現如来前。頭面接足帰命礼(わがこの道場は帝珠の如し。十方の三宝影現する中に、我が身如来の前に影現せん。頭面に足を接して帰命し礼せん)」とあります。ほぼ謡の章句と同様ですので、この辺りが典拠になっているのでしょう。

この途中、南無天満天神と唱えてワキは幣を両手で捧げ、再び右膝に立てます。ワキの謡を受けて地謡が「や 本地覚王如来 寂光の都を出でて この太宰府に 住み給ふ」と謡い、ワキは腰を上げて幣を振った後、両手で幣を捧げます。

囃子が出端を奏し、ワキは笛座前に下がりのシテが宮の内から謡い出します。
地謡が「御殿頻りに鳴動して」と謡い継ぐと、引廻しが下ろされ後シテ天神が姿を現します。天神の面に、指貫、袷狩衣を着け、黒垂に直纓の冠です。
この後はシテは地謡で立ち上がって宮を出、六つ拍子を踏んで開クなど謡に合わせて舞いますが「悦びの祝詞を奉れば 神はあがらせ給ひけり」と常座で小廻りして開キ、留拍子を踏んで終曲となりました。
後ジテとして登場してからはほんの数分ですが、この天神の登場によって身を投げた都の女の蘇生は成し遂げられた証しということなのでしょう。
なお観世の本とは祝詞の他にも微妙な違いがありますが、梅千代を観世では梅千世と書いているのもその一つです。
(100分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)

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