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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

俊成忠度 金井賢郎(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2019.05.18
 シテ 金井賢郎
  ツレ 亀井雄二、トモ 上野能寛
  ワキ 梅村昌功
   大鼓 亀井洋佑、小鼓 田邊恭資
   笛 杉信太朗

この日は偶々大相撲に誘われまして、国技館の枡席に初見参と相成りました。
ところが、誘ってくれた方も初めてで勝手が分からない様子。狭いという噂の枡席に長時間座っていられるだろうかと心配になり、訳知りの人に聞いたら、土俵入りの少し前あたりから行くと良いと勧められたとのこと。
と言うわけで国技館前午後3時の待ち合わせとなったのですが、それまでどうしようかなということで、時間つぶしといっては失礼ですが、時間まで宝生能楽堂を覗いてみようかと思い立った次第です。

さてその宝生能楽堂、五雲会は一昨年の1月以来です。その時観たのが高橋憲正さんの高砂と、この日のシテ金井賢郎さんの花月の二番。なんだか因縁めいてきましたが、はからずも金井賢郎さんの能を再び観ることとなりました。

この俊成忠度という能、ブログでは二度ほど鑑賞記を書いています。一度目は12年前の5月の五雲会での澤田宏司さんの演能、もう一度は花祥會での関根祥丸さんの演能…こちらは祥丸さんの初面でしたが、この二番です。
俊成忠度は修羅物としてはやや上演の少ない方だと思いますが、五雲会では割と出る曲のようで、高橋憲正さんの演能も観ています。そして5月の会の締めくくりは石橋という年が多いのですが、今回は時間の都合で石橋を断念して国技館に向かいました。

ともかくもその俊成忠度ですが、話は「忠度」の後日談のような形になっています。
「忠度」では、一ノ谷の合戦でそれとは知らずに忠度を討った岡部六弥太忠澄が、忠度の箙に付けられた短冊に気付きます。短冊には旅宿の題で歌が一首、忠度と書き添えられており、六弥太は敵将が薩摩の守忠度であったと知ることになります。
本曲ではこの尻籠(しこ:箙の一種)に付けられた短冊を持ち、六弥太が忠度の歌道の師である藤原俊成を訪ねるところから舞台が始まります。
その様子は明日から書き記してみようと思います。
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俊成忠度のつづき

舞台にはまず出し置きで、ツレ俊成が白大口に茶系の水衣、掛絡をかけ沙門帽子の出家姿で、トモの従者を伴って登場してきます。
ツレはワキ座で床几に腰を下ろし、無地熨斗目に素袍上下のトモはツレの脇に控える形となります。

舞台が落ち着くとワキの出。
白大口に掛直垂、士烏帽子を着け、短冊を付けた矢を背に負っています。一ノ松まで出ると、武蔵の国の住人、岡部の六弥太忠澄と名乗り、この度の合戦で薩摩の守忠度を手にかけた際に、尻籠に短冊があったので俊成卿の御目にかけようと思う旨を述べ、舞台にと入ります。

ワキが常座から案内を乞うとトモが立ち上がって応対します。トモがツレに取り次ぎ、ワキは正中に座してツレに向き合い、トモは下がって控えます。
何の用事かとのツレ俊成の問いに、ワキは西海の合戦で忠度を手にかけた子細を語り、尻籠に短冊があったので御目にかけようと持ってきた旨を述べます。
ツレが「こなたへ賜り候へ」というと、ワキは立ち上がって背から外した矢をツレに渡し正中に戻ります。矢には短冊が付けられており、ツレは「行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし」と短冊の歌を詠みあげます。

地謡が謡い継いで「いたはしや忠度は」と続けると、ツレは矢を落とし、ワキは地謡座に向かい、トモの奥側に着座します。
この地謡のうちに幕が上がり、シテ忠度が登場してきますが、このつづきはまた明日に
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俊成忠度さらにつづき

登場したシテは、箔に白大口、長絹を肩脱ぎにし、右折の烏帽子に白鉢巻。地謡の謡いっぱいに常座に出てサシ謡です。

「前途程遠し 思を雁山の夕の雲に馳す」と謡いだします。
いささか気になって確認してみたのですが、この句は平家物語巻第七「忠度都落」に出てきます。「忠度都落」では、都落ちした忠度がわずかな手勢を連れて俊成のもとに立ち戻り、これまで詠んだ歌のうちから書き留め置いた巻物を差し出して、勅撰集に一首でも入れて欲しいとの望みを言い置いて立ち去ります。

俊成が見送っていると、忠度と思しき声で「前途程遠し 思を雁山の夕の雲に馳す」と高らかに口ずさむ声が聞こえてきたとあります。この一句、和漢朗詠集に大江朝綱が鴻臚館にて渤海の使節を送る宴で読んだとして収録されているようです。おそらくは別れの朗詠として平安末期には広く知られていたものを、忠度が口ずさんだと平家物語の作者が書いたものでしょう。
もっとも、平家物語の最も古い形ではないかと言われる延喜本には、この朗詠が書かれていないようですので、琵琶法師が平曲の形に整え流布するうちに書き加えられたものと思われます。

この「忠度都落」では、巻物を俊成に託した忠度が「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して」とて立ち去り、その後、見送る俊成に「前途程遠し」の声が聞こえてきたという場面になります。
サシ謡は「前途程遠し」の一句の後「八重の潮路に沈みし身なれども」と続いて、平家物語のこの段をもとに書かれたことがよくわかります。
平家物語では、後に俊成が勅撰集である千載集を編んだ際に、忠度の歌「さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな」を、読み人知らずとして入れたことが書かれますが、本曲はその歌を巡って忠度の霊が現れるという設定であり、作者はよくよく平家物語や和歌に通じた教養人であったことがうかがえます。
ともかくも作者の話は後ほどにして、舞台の様子は明日につづきます。
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俊成忠度さらにさらにつづき

さてi一日、間が空いてしまいましたが、舞台の様子に戻りまして、謡い終えたシテは「いかに俊成卿」と声をかけてツレに向き「忠度こそこれまで参りたり」と告げます。ツレは忠度の姿が現れたことに驚き、シテ、ツレの問答になります。

ここでシテは、千載集に一首の歌を入れていただいたのはありがたいが、読み人知らずとされたのは残念だと言います。しかしツレは朝敵となった方の名を勅撰集に記すことはできないとの道理を述べ、さりながらこの歌を入れたことであなたの名は隠れもないだろう、と忠度を諭します。
シテは地謡が「さざなみや 志賀の都は・・・」と謡うに合わせて、ツレに二足ほどツメてから開キ。拍子二つ踏んでシカケ開キ。左の袖を返してツレを向き、直して角に進むと左へと舞台を回り、「津ノ国の なにはの事も忠度なり」で常座へと行き、開いて立ちます。

ワキが「忠度にてましまさば 和歌の道 御物語候へ」と声をかけると、シテは正中に出て床几に腰を下ろし「凡そ歌には六義あり」と謡い出します。なぜか観世の本にはこのワキの詞はありませんで、次の「凡そ歌には」のところはツレ俊成が謡うことになっています。宝生、金剛、喜多各流は、詞章に多少の違いはあっても、基本的にこの形なので、観世流のみ直したということかと思います。

シテ、地謡が交互に謡ってクセに。クセは舞グセで、一句聞いて「出雲の国に居まして」でシテは立ち上がり、謡に合わせて舞う形です。
「和歌の道を語る」ということで、クセの詞章は素戔嗚尊が出雲で詠んだ「八雲立つ」の歌が和歌の始めであり、人麻呂が亡くなって和歌の道は廃れてしまったと紀貫之も凡河内躬恒も書き記しているが、和歌は今に伝わり神も納受され、男女の仲を取り持つのも、歌の力であると、和歌の道を謡います。
クセの終わりで、シテは扇閉じつつ常座で後ろを向き、後見が装束を直すと正面に向き直りカケリとなりますが、このつづきはまた明日に
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俊成忠度またつづき

カケリでは常座から角へ出て角トリ。左へ回って大小前で小廻りして開キ。足拍子二つ踏んで正先へ出、今度は右に回って角へ。地謡座へと向かい、大小前へと回って小廻りして開キ、カケリを終えます。

ツレが声を上げ、忠度の様子が変わったことを知らせます。シテの詞で修羅王が梵天に攻め上り、帝釈天が修羅王を追い下したと謡って、修羅道での戦いに忠度が巻き込まれて苦患を受ける様子となったことがうかがえます。
シテは太刀抜いて、修羅道の戦いを見せますが、常座にむかって小廻りし「こはいかにあさましや」の地謡に安座します。
シテは「ややあってさゝ波や」と謡い、地謡がこれをうけて「ややあってさゝ波や。志賀の都はあれにしを。昔ながらの。山桜かな」と千載集に取られた忠度の歌を謡い込み、この歌に梵天が感じて修羅道の戦いを免れたと謡います。シテは立ち上がって舞台を廻り、続く「灯火を背けては。共に憐れむ深夜の月。花を踏んでは同じく惜しむ。少年の春の夜も」の謡に常座から正中へと出て、角柱に向かって「はや白々と明けわたれば」と雲扇。角から常座に進んで小廻りし、袖を返して留拍子を踏み終曲となりました。

「灯火を背けては」白氏文集巻十三、春中盧四周諒と華陽観同居すの第三句と第四句ですが、和漢朗詠集におさめられていて多くの和歌にも影響あった様子。経正のキリや西行櫻など、謡曲でも多々引かれているところです。
本曲の作者は内藤河内守、左衛門ないし藤左衛門といわれる細川家の家臣だった人で、戦国時代に守護代であったと言われています。先日も書いたように、よく平家物語や和歌に通じた教養人と思われますが、当時の武士の教養はなかなかのものだった様子です。

金井賢郎さんは、以前にも書きましたが、宝生のシテ方としてはやや異質な謡・・・おそらくは声の質が太いので他のシテ方の皆さんと印象が違うのだと思います。しかしこれまた以前書いたように所作の美しさがあり、本曲でもカケリやキリの舞などに多々それを感じたところです。
またツレ俊成は亀井雄二さんでしたが、12年前に澤田宏司さんのシテで俊成忠度を観た時も俊成は亀井さんでした。さすがに12年の風格をまとって格調高い俊成であったと感じたところです。
(39分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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千鳥 大藏教義(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2019.05.18
 シテ 大藏教義
  アド 大藏吉次郎 宮本昇

千鳥はこれまで何度も観ている狂言で、うち三度はこのブログで鑑賞記も書いています。茂山逸平さん、野村萬斎さん、山本東次郎さんがシテを勤められた三回ですが、うち萬斎さんの上演は和泉流のため、逸平さん・東次郎さんの際とはいささか舞台の展開に違いがあります。
このあたりは過去の鑑賞記を参照いただければと思います。

ともかくも、今回は大蔵流ですので、逸平さんや東次郎さんの時と特段の違いはありません。そんなわけで、特に舞台の進行など記載しませんが、舞台を観ての印象としては、教義さんも随分と落ち着いた風格ある舞台になってこられたなあと感じたところです。
もちろん、本曲の太郎冠者は剽げた人物で、なんとか酒屋から酒を貰ってこようとあの手この手を繰り出す器用な男ですが、単なるばかばかしさだけでない、人物像の厚みのようなものを感じました。

また酒屋の主人の宮本さん、こちらもまた暫く舞台を拝見していないうちに風格ある演者になられたという印象です。たしかに五十歳を超えられたようですし、太郎冠者との掛け合いも風格が出た感じです。
(27分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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加茂物狂 佐野玄宜(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2019.05.18
 シテ 佐野玄宜
  ワキ 宝生欣哉
  ワキツレ 吉田祐一
   大鼓 高野彰、小鼓 森貴史
   笛 成田寛人

加茂物狂は十年以上前に東川光夫さんのシテで拝見した時の鑑賞記を書いて以来です(鑑賞記初日月リンク)。その際にも書きましたが、本曲は宝生、金剛、喜多の三流にしかありませんで、あまり見かけることの多くない曲です。とは言え宝生流では五雲会などでときどき上演される様子で、前回も五雲会での演能でした。

さて舞台は次第の囃子が奏されて、ワキ一行の登場です。ワキは段熨斗目に素袍上下、男笠を被っています。ワキツレはいわゆる素袍男。二人で登場し舞台中央で向き合って次第を謡います。地取りでワキは笠を外し、自分は都の者だが子細あって東国に出かけ早十年が経ってしまった。あまりに故郷も気がかりなので、思い立って都に上るところと述べて道行に。

以前の鑑賞記を書いた際に、宝生の本では東国に出かけ早三年とあり、下掛の本では十年とあるようだと書きましたが、その後、昭和初年の金剛右京訂正の本を見てみると、こちらは「早三年」と記載されています。
あらためて宝生、金剛、喜多各流の本と、実際の舞台を比べてみると、一番喜多の本に近い感じです。一方で名乗りの後の道行の謡は宝生の本とほぼ同じでしたが、金剛や喜多の本ではこの謡の前に「夕ざれば汐風越えて陸奥の 野田の玉川千鳥なく」で始まる、まさに道行らしい詞章があり、この部分が省略されています。それでいて道行の終わり「ながめ短きあたら夜の」の後「花の都に着きにけり」は金剛の本と同様に「月の都に着きにけり」と謡いました。「夜」でもあり「月の都」も良い感じですが、「月の」で「着き」はいささかくどい感じがしないでもありません・・・

さらに道行の謡の後、宝生の本にはありませんが、金剛や喜多の本にはワキとワキツレのやり取りがあり、舞台でもワキがかつて住んでいた家の辺りにやって来て、ワキツレに家の主を尋ねてくるようにと命じました。ワキツレが主は行方知れずになっていると答えると、ワキはちょうど今日が加茂の御神事の日なので、御参りして行方知れずとなった妻のことを祈り、あわせて御神事もみようと言ってワキ座に着きます。
両流の本では、このワキの台詞のなかに「無惨やな さしも契りし中なれども」で始まる女を思う詞章があり、金剛流ではここに節付けもありますが、舞台ではここの部分は省略されていまして、全体としてみると、下掛の本をもとにしつつ宝生流に寄せたような印象です。
ともかくもワキ、ワキツレがワキ座、地謡前に座してシテの出を待つ形になりましたが、さてこのつづきはまた明日に
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加茂物狂のつづき

昨日はブログの更新を飛ばしてしまいました。一日空きましたがつづきです。

一声の囃子でシテの出。箔を腰巻にし白の水衣肩上げ、右の肩に笹を担って狂女の態です。橋掛りを進んで一ノ松でサシの謡い出し。
今日は卯月の神事に参詣の人々が続くところに、自分も急ぎやって来たと謡い、舞台に入ると常座で一セイ。「今日かざす 葵や露の玉葛」と謡うと地謡が謡い継ぎ、シテは笹を下ろしてカケリに。

カケリでは、シテは角へ出ると左に回り、地謡前から大小前に進んで小廻り。拍子を踏んで正中に出、笹を再び肩へ。角に出ると正中、大小前と進んで小廻り、開いて「かざす袂の色までも」と謡いつつ正中に出ます。

地謡が「思いある身と 人やみん」と続ける中、右へ回って常座で開キ、シテサシ「面白や花の都の春過ぎて 又その時の折からも」と謡います。
地謡が続けて謡い、さらに下歌に。シテは笹を下ろして片シオリ。上歌となってワキ正あたりに進んで開キ「忘れめや葵を草に引き結び」と笹を見、角へ出て角トリ。舞台を廻って常座に戻り「身はかはるまじあじきなや」と地謡がおさめるのにあわせてシオリます。

ワキが立ち上がり問答に。
狂女物の前場では、こうした問答が挟み込まれていることが多いのですが、味わってみるとなかなかに面白いやり取りになっています。概ね、ワキは世間的常識の視点から至極当然の発言をしますが、一方のシテは神仏の教えなどをふまえつつ、常識を超えたところから反論をします。だからこそ「狂い」なのでしょうけれども、常識にとらわれすぎていないか、と日頃を振り返ってみるのも一興かと思います。

ともかくも、御神事の日だから心静かに参詣するようにと言うワキにシテが反論し、そこから当社が歌舞を納受されるという話になります。ワキが、かの実方が臨時の舞姿を水に映したその地であると教え、シテは「あら有り難やと夕波に」と謡い、「今立ち寄りて 影を見れば」の詞章に、正先へ出て水を覗き込む型。地謡で常座に進み、正面に向き直って五足ほど出、下がって「涙のおちぶるゝこそ悲しき」と片シオリ。さらにあらためて二足ほど出て「命ぞ恨めしき命ぞ恨みなりける」の地謡に、二足下がってシオリ、その形のままに常座で後見座の方を向いて佇みます。
ワキの独白となりますが、このつづきはまた明日に
なお「実方」については、梅若六郎、現梅若実さんが復曲能「実方」を演じられた時の鑑賞記で触れていますので、併せてご参照ください。(鑑賞記初日月リンク
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