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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

加茂物狂さらにつづき

シテが後ろを向くと、ワキは狂女が実は行方知れずとなった自分の妻であると気付いたことを独白します。とは言え、人目のある中ではいかがかと思うので、人がいなくなった時を見計らって名乗ろうと思う旨を述べます。

シテが正面に向き直り、ワキはシテを向いてこの社で舞を舞い祈りを捧げるように勧めます。シテ、ワキの謡から地次第「またぬぎかへて夏衣 またぬぎかへて夏衣 花の袖をやかへすらん」で、シテは左右と出てゆっくりと開キ、地取りで後を向いて後見座へ。
物着アシライが奏されて、シテは水衣を外し空蝉のような長絹に烏帽子を着けて常座に出ると「山藍に 摺れる衣の色添へて」と謡い、地謡が「神も御影や 移り舞」と謡ってイロヱになります。

シテは囃子で角へ進み、角トリして左へ。舞台を廻って大小前で小廻りし、左右打込んでサシ「実にや往昔に祈りし事は忘れじを」と謡い、地謡が続けます。シテはさらに「憐垂れて玉簾」地謡「かゝる気色を 守り給へ」で合掌。クセになります。

クセは二段グセの舞グセ。夫を捜し求めて東路に出、三河の八橋、遠江に入って掛川、小夜の中山の峠を越え駿河に入って藤枝へ。岡部の宿から宇津山と、地名が謡い込まれて東海道を下った様子がうかがえます。
しかし夫の姿はなく、傷心のまま春の都に戻り来て、季節は夏に移り北祭・・・葵祭のその日となり、貴賤群集の行き交う人々の袖の色々に袂を翻す、とクセを舞い納め、地謡の「月にめで」の謡で扇を閉じて大小前に進み、正に直して中ノ舞となります。

中ノ舞を舞上げると「月にめで 花を詠めし 古の」と謡って正中に出、角に進んで角トリ、舞台を廻りつつ、地謡と掛け合いで謡い、地謡の「もとの身なれど仮の世に出でて」で大小前小廻り、サシ込み開いて「月やあらぬ」と雲扇。舞台を廻り常座で開キ。「唯いつとなく」と六つ拍子踏んで角に出、ワキ正に下がって安座すると「我が身一つの憂き世の中ぞ悲しき」とシオリます。

ロンギとなり、ワキが一度立ってからシテを向いて腰を下ろし、名乗り合った態となります。二人連れだって元の住み家に帰ることになり、シテはワキを向いて「心あてに」と謡い、地謡の「それかあらぬかの 空目もあらじあらたなる」でワキが立ち上がり、続いてシテも立ち上がると「神の誓を仰ぎつつ」とワキが合掌。ワキが先に立って常座から橋掛りへ。シテはこれを追う形で常座まで行き、袖を返して「逢瀬の道になりにけり」と留拍子を踏んで終曲となりました。
(76分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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国栖(能を知る会東京公演)

観世流 国立能楽堂 2019.06.16
 シテ 中森貫太
  ツレ姥 佐久間二郎、天女 中森健之介、子方王 富坂唐
  ワキ 殿田謙吉
  ワキツレ 御厨誠吾 平木豊男
  アイ 竹山悠樹 月崎晴夫
   大鼓 柿原正和、小鼓 幸正昭
   太鼓 梶谷英樹、笛 松田弘之

国栖は七年ほど前に、観世銕之丞さんと友枝昭世さんの鑑賞記を書いて以来です。その際にも書いていますが、本曲について少しばかり。
銕之丞さんの鑑賞記月リンク
友枝さんの鑑賞記月リンク

本曲では、大友皇子に追われて天武天皇が吉野の山中に逃れ、国栖の地で老夫婦に出会い助けられるのが前場。後場では天女と蔵王権現が姿を現し、天武天皇の御代を寿ぐという展開になっています。
史上「壬申の乱」として知られる、大海人皇子、後の天武天皇と、大友皇子の争いをもとに作られた一曲で、子方が演じる浄見原天皇が吉野の山深くに落ち延び、国栖の里で漁翁と老嫗に助けられるところから始まります。子方に従って登場したワキ一行は、子方を浄見原天皇・・・流儀によって清見原天皇などと書かれますが・・・であると謡い、御伯父(オンハクブ)大友皇子ないし大伴皇子に襲われたと続けます。浄見原天皇は飛鳥浄御原宮に居した天武天皇の別名ですし、大友皇子に襲われたと明らかにしていますが、なぜかこの部分、観世流では「やごとなき御方」とし「御伯父何某の連に襲はれ給ひ」と書かれています。さらに続く詞章も他流では「落ち行く道の果てまでも」とあるところ「分け行く道の果てまでも」とあるなど、少なからず詞章に違いがあります。

七年ほど前の銕仙会では「戦時中に改変」云々と解説されていましたが、とりあえず遡れる一番古いところで明治十七年に檜常之介が出版した観世流稽古本、正徳六年観世太夫章句の真本をもとに観世清孝の校合を得て出版したとあるもの、これにもワキの謡には「やことなき御方にて」「御伯父なにかしの連におそはれ給ひ」とあります。どうも、これを見るとこの改編は少なくとも明治以前に遡るようです。とは言え私も研究者でもありませんし、これ以上どうこう書きませんが、どういう次第でこういう改編がされたのか、興味を禁じ得ないところです。

ともかくも、本曲が古の天皇にまつわるものであることを重くみたのか、観世流では江戸後期ないし明治に曲の見直しが行われたのでしょう。後段の天女ノ舞も観世流のみ楽とする場合があり、今回の公演はまさにその楽の形でした。
なかなかに面白い一曲ですが、舞台の様子は明日から書いていこうと思います
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国栖のつづき

一声の囃子で子方を先頭にワキの出。
鎌倉能舞台の公演では字幕e能ということで、演能の際に字幕表示を行っていますが、今回の東京公演では、このシカケを国立能楽堂に持ち込んでの演能でした。で、その字幕での「一声」の解説に「追っ手から逃げる足取りを表してる」とありまして、なるほどそういう気分なのかと納得したところです。もちろん一声は一声ですが、気分の問題ということでしょう。
子方は白大口に単衣狩衣、直纓の初冠で先頭に立ち、モギドウ姿の輿舁が輿を差し掛けます。白大口に袷法被のワキが続き、子方が正先、ワキが大鼓の前あたりに立って、ワキ、ワキツレの一セイ。さらにワキ、ワキツレの謡が続きます。
昨日書いた通り、観世流では「やごとなき御方」などとぼかした謡になっていますが、ワキが下掛宝生流のため、ここの謡では他流同様に浄見原天皇が御伯父大友皇子に襲われてと謡いました。

道行の形で春日野から吉野川を伝って歩みを進めたことを謡い、ワキの着きゼリフ。何處とも知れぬ山中にやって来たとして、子方はワキ座で床几に腰を下ろし、ワキは地謡座前に着座、輿舁二人は切戸口から退場します。
後見が紫の引廻しを掛けた舟を持ち出して一ノ松あたりに据えます。引廻しで本物の舟に近い形にみえますが、この舟は本曲でしか用いられない独特のものです。

アシライでツレ老嫗が先に出、シテが続きます。先に出たツレは無紅唐織着流しに水衣、釣り竿を肩に担い舟に乗ります。続くシテは無地熨斗目に水衣肩上げ、腰蓑を着けて舟に乗り、後見から棹を受け取ります。

シテが「姥や見給へ」と声をかけ、シテツレの問答。自分たちの住まいの上に紫雲が靉いているのは、貴人がお出でになるのではないかと話し、シテは構えた棹に右手を添え舟漕ぐ形になり、舟棹し寄せて家に戻ります。
地謡が謡うなか、シテは棹を後見に渡し、ツレ、シテと舟を下りて、シテは正中、ツレはワキ正に下居して子方の方を向き、「あらかたじけなの御事や」の謡に両手を合わせます。この間に後見は舟を裏返して橋掛り後の欄干に立てかけて下がります。

さてこのつづきはまた明日に
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国栖さらにつづき

シテはワキに向かい、どうしたことかと問いかけます。ワキはよしある御方だが、間近き人に襲われ給い、これまでお忍びで来られたと答えます。ここは下掛宝生流の本来の詞章では、浄見原天皇が大友皇子に襲われてと答えるところでしょうけれども、節のある謡ではなく言葉の部分なので、シテ方に合わせたということだろうと想像します。

さてシテ、ワキの問答で、この二三日供御を近づけていないので、何か供えて欲しいとワキが求め、ツレが摘んできた根芹と、漁翁が国栖川で釣ってきた鮎とを差し上げることとします。シテは言葉を発しつつ背より扇を取り出して広げ、ワキを向いて立ち上がると、続く地謡で、ワキに寄ってワキの広げた扇に魚を移す形。ワキはこれを子方に捧げ、シテはもとの座に戻って下居します。ワキも立って地謡前に座りシテを向きます。

ワキは、供御の残りを尉に賜れとのことだと言って立ち上がり、シテに寄ってシテの広げた扇に魚を戻す形です。
シテは、うち返して賜はらうずるにて候と答えますが、この「うち返して」にワキがどういうことかと問いかけます。シテがそれこそ国栖魚のしるしと言い、「いかに姥」とツレに声をかけると、両手で扇を持ち、この魚は未だに生きているようだと見せる形です。この間にワキは立ち上がって座に戻ります。

シテは腰を浮かせて正中あたりに川を見る心で、この吉野川に放してみようと言い、ツレは放しても生き返らないだろうと答えます。シテは神功皇后が新羅を攻めるにあたって鮎を釣らせて成否を占った故事をひき、この君が再び都に還幸できるのであれば、この魚も生き返るだろうと言うと立ち上がり、地謡が「岩切る水に放せば」と謡い出すに合わせて、正先で魚を水に放した形から、面を使って魚を追い、大小前に下がると、魚が生き返った吉瑞を頼もしく思われよとおさめます。
鮎ノ段と呼ばれる部分ですが、本曲の見せ場の一つで、なかなかに面白いところ。

ここでワキが、追手がかかったと声を上げます。
早鼓が奏されるなか、シテとツレは舟を取りに行き、シテが先に進んで地謡座前に舟を持って行くと立てて子方を中に隠し、舟を被せます。
さてこのつづきはまた明日に
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国栖さらにさらにつづき

鑑賞記、一日飛ばしました。
実は、昨日は出張のまま泊まりまして、本日は横浜能楽堂の特別企画公演「大典 奉祝の芸能」の第二日を観に行ってきました。
第一日に引き続いて、秋篠宮皇嗣妃殿下・・・紀子さまが来場されました、が、この話はいずれ触れるとして、国栖の鑑賞記のつづきです。

シテとツレが座すと、オモアイが槍、アドアイが弓矢を構えてワキ正と常座に立って声をかけます。浄見原天皇を探しているというアイに、シテは清み祓えなら川下へ行けと言います。清み祓えではなく浄見原だ、とアイが言い返したり、シテと二人のアイのやり取りが続きますが、アイはそのうちに伏せてある舟が怪しいので調べると言い出します。

「おのきゃれ」と声を荒げて、アイ二人はそれぞれ槍と弓矢をシテに向けますが、シテは漁師の身で舟を捜されるのは家を捜されるのと同じであると言い、自分には孫も曾孫もあり、と言いつつ立ち上がり、山々谷々の者ども出で合い狼藉人を打ち留よと声を上げ、両手を打ち合わせます。

このシテの勢いに、アイ二人は恐れをなして帰ってしまいます。
ツレが立ち上がって常座で退場するアイを見送り、シテに向かって追っ手は帰ったと声をかけます。

ツレの声をきっかけに、シテとツレは交互に謡いつつ二人して舟を起こし、姿を現した子方はワキ座で床几に腰を下ろします。続く地謡に、シテとツレは舟をワキ正に運んで置くと、シテが角、ツレが常座から子方の方を向く形になります。
クリとなり、シテとツレは立ち上がって、ツレが地謡前、シテは正中に下居して後見が肩上げを下ろします。

クリの謡は「君は舩臣は水 水よく舩を浮むとは この忠勤の喩へなり」これを聞いて、ワキと地謡が謡い合い、シテとツレは子方に向き合います。地謡の上歌、騒乱の世が治まったならこの恩を報ずるという浄見原天皇の言葉に、老夫婦が忝く泣き居たるという詞章に、シテ、ツレ二人はシオリます。
さてこのつづき、もう一日明日に

国栖またつづき

短いクセとなり、「この程の御心 慰め申すべき」で腰を浮かせたシテは、続く「しかも所は月雪の 三吉野なれや花鳥の」で正に直して立ち上がり、ゆっくりと歩み出して「呂律の調め琴の音に 嶺の松風通ひ来る」あたりで、常座で向き直って面を使い、後ろを向いて橋掛りへと進みます。ツレもこれに続き「天つ少女の返す袖 五節のはじめこれなれや」と地謡が謡い納めて下り端の囃子となり、二人は橋掛りを歩み中入となります。

二人が幕に入ると、下り端の囃子のうちに幕が上がり、後ツレの天女が登場してきます。薄紫の色大口に緋の長絹、天冠を着けて舞台に進み楽を舞出します。ここの基本は下り端の舞ですが、観世流では楽にも・・・とあり、楽を舞うこともあります。しかもこの日は、笛の調子が高くなり盤渉。舞も盤渉のため足拍子も多く、見どころの多い舞になります。健之介さんは、これまで舎利の韋駄天や放下僧のツレなど、動きのあるものを観る機会が多かったのですが、今回のような天女の舞もなかなかに優美です。大柄なご様子から受けていた印象が良い意味で裏切られたような感じです。

舞上げると地謡にのってサシ込み開キ、この間に衣を被いてシテが橋掛りを進み、一ノ松あたりに立ち止まります。ツレは正中で雲扇してシテを迎える形。
後シテは「王を蔵すや吉野山」と謡い、ツレは笛座前に下がります。後シテの装束は青みの入った袷狩衣に朱の半切。地謡の「天を指す手は」の謡に正中に出て「胎蔵」と謡い、地謡「地を又差すは」で扇で下を指して「金剛寶石の上に立って」と謡うと、地謡に合わせて舞い、最後は「国土を新め治むる御代の」で両袖を巻き上げて常座へ出、続く「天武の聖代畏き恵み」で巻き上げた袖を直し、あらためて左の袖を返すと「あらたなりける 例かな」の謡に、留拍子を踏んで終曲となりました。

帝の御代を言祝ぐ目出度い気分の一曲でした。
(72分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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奉祝の芸能

20日は横浜能楽堂まで出かけ「大典 奉祝の芸能」公演の第二日を観てきました。
当日も書いた通り、秋篠宮皇嗣妃殿下・・・紀子さまが来場されました。この公演は、令和改元の慶事にあたり横浜能楽堂が企画したもので、第一日が6月2日に開催され、この時は上皇、上皇后両陛下にゆかりある琉球舞踊が上演されています。
4月半ば過ぎに本公演を知り、とりあえず能が上演される第二日のチケットを取ったのですが、その時点で既に正面は満席で、今回は脇正面で拝見しました。

その後、6月になってテレビのニュースで、第一日の公演に紀子さま、佳子さまが来場されたと報道されたので、もしや今回もお出ましか・・・と思っていたのですが、当日能楽堂に着いてみると、報道関係者の姿。あ、やっぱりという次第でした。

第二日の公演は、尺八、地歌、箏曲の後、休憩を挟んで狂言、そして能という番組。狂言は復曲された「鷺」で、能は改元のとき以外はほぼ上演されない「大典」。なにはともあれ「大典」を観ておこうということで出かけましたが、前半の演目にもおおいに興味をそそられました。

箏曲や地歌は聞いたことがある程度で、詳しいことは分かりませんが、ともかく尺八、地歌、箏曲それぞれに素晴らしい演奏でした。皆さん演奏家としても著名な実力者の様子ですが、素人なりにも感じるところが大きい演奏でした。
尺八は尺八古典本曲「鶴之巣籠」。解説によれば「鶴之巣籠」という曲は各地にあるのだそうですが、本曲は東北の虚無僧寺「蓮芳軒・喜染軒」に伝えられた秘曲とのことです。一本の尺八からこんなに様々な音が出るのかと思うほどに、ビブラートがかかったような部分があったり、押さえた指がそのままに音程が変わったりなど、驚くような演奏でした。

地歌は難波獅子。継橋検校の作曲とありますが、君が代の歌で始まり、仁徳天皇御製と伝えられる「高き屋に登りてみれば煙立つ民の竈は賑はひにけり」などが詞章に用いられた目出度い曲とのこと。獅子の曲名ですが獅子とは特に関係ない様子です。今回は三弦の替手と本手お二人での演奏でした。

箏曲は五月晴。大正14年に作られた曲だそうで、大正天皇と貞明皇后の御大婚25周年を記念したものとか。聞いていても五月晴れの空が見えてきそうな、清々しい感じの曲です。箏、三絃に小鼓の構成でしたが、楽曲の面白さに加え、歌がなんとも良い心地を誘います。
いずれも、ああ上手の芸なんだなぁとしみじみ思いました。

先日、水戸で雅楽の公演がありまして、伶楽舎の演奏を聞き、舞を観ましたがが、これまたとても良い経験でした。
古典芸能全般に興味がない訳ではないのですが、これまでほとんど能狂言のみを観てきました。今さらながら、雅楽をはじめ三曲、歌舞伎などなど様々なものを見聞きしてみたいと思うところです。

鷺と大典については明日以降に

鷺 山本則秀(横浜能楽堂特別企画公演)

復曲狂言 横浜能楽堂 2019.07.20
 シテ 山本則秀
  アド 山本則重
  笛  杉市和

本曲は復曲で、配布された解説によれば、上演が途絶えていた時期があって、江戸中期に鷺保教により復興されたものの再び退転し、1987年に野村万之丞(現野村萬)と茂山千五郎(故四世茂山千作)の配役で復曲されたとあります。
しかし1987年の復曲に携わった田口和夫さんの文を読むと、鷺伝右衞門保教が復曲する以前の古い形はどうもだいぶん違ったものだったようで、本曲は古い伝承をもとにしつつも、保教がほぼ創作のような形で作ったのではないかと考えられるそうです。

今回の上演は、その田口さんと西野春雄さんによる復曲をもとにしたもので、保教本とはまた異なった点も多いようです。さらに田口さんの書かれたものを読むと、1987年のものからもさらに修正が加えられている様子でした。

さて舞台の進行ですが、なにぶん田口さんの文は後で読んだもので、当日は特段の資料もなくほとんどメモもせず舞台を観ておりましたので、あくまでも記憶の範囲です。記憶違いも相当にあるかと思いますが、ご容赦ください。

本曲は文蔵や二千石などと同様に、いわゆる抜参り物の形式を取っていまして、まずはアド主人が長上下で常座に立ち、一人召し遣う下人が暇乞いもせずにどこかへ出かけたので叱りに来たと言って、太郎冠者を呼び出します。

このやり取りは数曲ある抜参りものと同一と思います。他の曲では
太郎冠者の家に着いたという設定でワキ座に立った主人は、自分だと分かってしまうので作り声をして呼び出そうと言って、扇で顔を隠すようにして案内を乞います。太郎冠者は常座に出て、夕べ帰ってきたばかりなのに早くも誰かが尋ねてきたようだと返事をします。
ここからのやりとりは、アド「物もう」シテ「どなたでござる」と正中あたりまで出ます。アド「しさりをれ」と扇でシテ太郎冠者を指し、シテは驚いて「はあ」と常座まで下がって平伏します。
アド「俄の慇懃迷惑いたす、ちとお手をあげられい」シテ「これは何とも迷惑に存じまする」アド「おのれは此中、誰に暇を乞うて何方へいた」シテ「さればのことでござる、お暇の義を申上うと存じてはござれども、一人召し使わるる下人のことでござるによって、申上げたりともやはか下されまいと存じて、忍うで○○を致してござる(○○は曲によって竹生嶋詣や富士詣など)」
これにアドは気色ばんで「やら珍しや、一人召し使ふ下人が○○すれば、主に暇を乞はぬが法ですか」と、小刀の柄に手をかけ斬ろうとする形になります。

しかし太郎冠者の旅の話を聞きたい主人は「憎いやつの、きっと折檻を加へようと思うて、これまでは来たれども、○○したいとは××(曲によって)このたびはゆるす。そこを立て」と一転して許すことにします。これにシテは「夫れはジョウでござるか」アド「弓矢八幡助くるぞ」と確認すると
シテ「やら心易や」と両手で舞台を叩いて安心した様になります。
アドは「なんと今の間は窮屈にあったか」とシテに問い、シテは「いつものご気色とは違いまして、すはお手討ちにも合いましょうかと存じて、身の毛をつめて居りました」と返します。

抜参りものの通常のやり取りを、これまでの記録などから書いてみましたが、記憶では当日もほぼほぼこの形だったと思います。
さてこのつづきはまた明日に
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鷺のつづき

アド主人は、都に行って来たというシテ太郎冠者に、それならば都の伯父に言付けがしたかったと言います。これに対してシテは、伯父様のところには自分が良いように申し上げてきたと答えます。

このあたりまでは文蔵と同じ展開です。文蔵では、アドが「伯父じゃ人は珍しいものを振る舞う人だ」と言って、太郎冠者に食べたものを尋ねたものの、太郎冠者はこの名前、温糟粥(うんぞうがゆ)を思い出せず、主人が源平盛衰記の石橋山の合戦を語り、この中に出てくる文蔵を食べたと言い出します。

一方、本曲では伯父が珍しいところに連れて行ってくれる人なので、どこかに行ったろうとアドが尋ね、シテ太郎冠者は神泉苑に行ったと答えます。ここから神泉苑の話になりますが、田口さんの書かれたものを読むと、1987年の復曲では太郎冠者が神泉苑にまつわって、鷺が五位の位を授けられた故事を語ったように読めます。
しかし今回の上演では、太郎冠者が神泉苑の由来や様子を様々に語った後、アド主人が鷺の故事を語ってやろうと言い出し、アドが鷺の話を語りました。

話は、能の鷺でも語られる通り、延喜の帝が神泉苑に御幸された折に、帝の冠が風に飛ばされ池に落ちてしまった。ちょうど水際にいた鷺が冠を頸に掛けたので、一人の舎人が鷺に言い含め、鷺がその冠を帝に返したので、鷺と舎人に五位の位を賜ったという次第です。
書いてしまうと簡単ですが、ここまで、太郎冠者が神泉苑の由来を語り、主人が鷺の故事を語るということで、狂言としてはなかなかに大部の構成になっています。
さて主人が鷺の故事を語り、太郎冠者に都のみやげ話の先を促すと、太郎冠者は神泉苑で伯父様からご馳走になり、酒もいただいているうちに、自分は鷺の様子をよくよく見て、物まねで鷺の様子を舞ってみた。すると伯父様が大変その舞を気に入って、ぜひとも田舎に帰ったら甥の則重にも見せるようにとおっしゃったと言います。
さてこのつづきはまた明日に
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鷺さらにつづき

太郎冠者の言葉に、主人もぜひその舞が見たいと言い、太郎冠者は舞の支度をすることになります。
後見座で肩衣、半袴の出立から、白い装束に替えて頭に鷺の作り物を載せ、顔には望月の獅子のような覆面で、鷺に合わせて白い布を着け、巨大な鷺のような形になります。
能の鷺では、天冠に羽ばたく鷺が乗っている形ですが、こちらは鷺の首が付いている形で役者自身が鷺の着ぐるみになったような様子。

ここで笛方の杉市和さんが登場し、一管で太郎冠者が鷺の舞を舞います。
この鷺の笛は古くから伝承されていたようで、先に取り上げた田口和夫さんの論文では、元和三年・・・というと1600年代の始めですが、この日付のある藤田流初代下川丹波守の伝書に、鷺の笛の譜についての記載があるそうです。
1987年の復曲の際は、森田流の唱歌をもとに、一噌仙幸さんが作曲をされたとのことですが、今回、杉さんが吹かれたものがそれと同じかどうかは残念ながら分かりません。

ともかくも笛に乗って、太郎冠者が様々に鷺の様子を舞に見せますが、最後に後見座に寄ると、後見が鷺・・・太郎冠者の頸に藁苞に花を生けた形のものを掛けます。
太郎冠者はこれを掛けたまま、再び舞うとワキ座の主人のところに寄り、太郎冠者の土産と言って頸を下げ、主人に苞を外してもらいます。
アド主人は大変に喜び、いて休めと言って留となりました。

今回の上演に合わせて、おそらくは様々に工夫を重ねて形作った一曲と思います。1987年の上演では、太郎冠者は半袴の出立のまま舞を舞ったように見受けられます。録画等を見ているわけではないので、確証はありませんが、そうしたところも今回は大きく演出に凝ったところかと思います。

則重さん、則秀さんご兄弟も大変な熱演で、改元を祝う心を大いに感じる一番でした。
(45分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
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