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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

朝長 中所宜夫(九皐会若竹能)

観世流 矢来能楽堂 2019.07.28
 シテ 中所宜夫
  ツレ 鈴木啓吾、トモ 桑田貴志
  ワキ 宝生欣哉
  ワキツレ 御厨誠吾 梅村昌功
  アイ 善竹大二郎
   大鼓 佃良勝、小鼓 鵜澤洋太郎
   太鼓 大川典良、笛 栗林祐輔

九皐会の若竹能は、もともと矢来の若手稽古会としてスタートした会だそうですが、平成5年の開始から年月が流れ、先生方も年功を積まれて若手の稽古会というには、いささかそぐわなくなってきたように思います。ともあれ年2回の公演ですが、今年は「道」をテーマにして、3月は花筐と鞍馬天狗を、そして7月にはこの中所さんの朝長と、佐久間二郎さんの井筒が上演されました。
今回は諸般の都合で朝長のみ鑑賞記を書いておきます。

朝長はこれまで二度ほど、ブログで取り上げてきました。喜多流の出雲康雅さんと金春流の山井綱雄さんの演能です。
出雲康雅さんの演能鑑賞記初日月リンク
山井綱雄さんの演能鑑賞記初日月リンク
観音懺法などについて
出雲さんの鑑賞記では、舞台の様子に先立ってこの能の背景となった保元・平治の乱の話など、朝長を巡る歴史の話も少しばかり書いておきましたので、併せて参照いただければと思います。また鑑賞記とは別に、観音懺法の話や、本曲の中入りの形についてなども書いていますので、こちらもご参照いただけると幸いです。

「中入りの形」というのは、本曲のシテは前場では朝長が亡くなった青墓宿の長である女性として登場し、後場ではその亡くなった朝長の霊として現れるのですが、この辺りを巡っての異説があるからです。数ある能の中では、前後で人格が違うという曲も稀有ではありませんが、そうは言っても、本来朝長を弔うべき人であり、ワキ僧による法事の場に最も居るべき人物である青墓宿の長が、中入りで姿を消し、後場で朝長の霊として登場するのはどうもスッキリしない感じも残ります。これについて大阪大学名誉教授の天野文雄さんなどが中心となって研究を進め、いくつかの徴証を積み上げて、朝長は中入のない形が原形だったと結論づけています。この点についても記載しておきましたので、ご参照いただければと思います。
天野さんの説をめぐって
明日につづきます
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朝長のつづき

以前記載したことですが、本曲は下掛りでは前場にシテが一人で登場してきますが、上掛り二流はシテが侍女と太刀持ちを従えて登場します。
宝生はいずれもツレの扱いで、一方の観世では侍女がツレ、太刀持ちをトモとしますが、ともかくもこの二人が出てくる形になっています。今回は観世なので、ツレとトモが出てきますが、このトモがなかなか大変そうです。長い前場の間、太刀を捧げ持っていなければならないため厳しいと思うのですが、桑田さんがきちんと勤められていて印象的でした。

ともかくも、囃子方、地謡一同が着座すると名宣笛が吹かれてワキの出、無地熨斗目着流しに灰色の水衣、角帽子のワキが、同装で紺の水衣のワキツレ二人を従えて登場し常座で名ノリ。ワキツレは橋掛りに下居して控えます。
ワキが嵯峨清凉寺の僧と名乗り、美濃国青墓宿まで朝長を弔いにやってきた旨を述べると、ワキツレが立ち上がって歩み出て舞台中央でワキと向き合い道行。青墓宿への道を謡い着キ台詞。ワキツレが「尤もにて候」と答えて地謡座前に下がると、ワキは常座に行き「所の人」とアイを呼び出して問答になります。
朝長の墓所を教えてほしいというワキに答えて、アイは墓所を指し示し、ワキがワキ座に着座してシテの出を待つ形になります。

次第の囃子でシテ、ツレ、トモの出。シテは無紅唐織着流しで左の手に葉付の小枝を持っています。ツレは紅入唐織着流し、トモは素襖上下に太刀を捧げ持って登場し、シテが正中、ツレがワキ正、トモが常座に出て一同向き合っての次第。
続いてシテが「これは青墓の長者にて候」と謡うとツレ・トモが立ち上がってシテと向き合い三人で謡い継ぎます。下歌、上歌と謡って上歌の最後で立ち位置を入れ替え、シテが常座に、ツレとトモは地謡前に下がります。
シテはツレ、トモに向かい、朝長の墓所で旅人と見える僧が涙を流しているのを認めたことを告げます。
このつづきはまた明日に
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朝長さらにつづき

シテの詞を受けてワキ僧が、自分は朝長ゆかりの者だが忍んで下向してきたと述べて、シテとワキのやり取りになります。このやり取りの詞章は、上掛り、下掛りで大意は変わらないものの、言い回しなどは結構違っています。このやり取りの間に、シテは下居し小枝を置いて「かやうに弔い参らせ候」と合掌します。
ワキが続ける謡のうちにシテは立ち上がり、後見座の方に二足ほど進んで向き直り「げにこれとても二世の契りの」とワキを見込みます。さらなるやり取りから地謡の上歌に。「古葉のみの春草は」で五足ほど進み出て「さながら秋の浅茅原」と下がり、続く「荻の焼原の跡までも」で焼原を見渡すように面を使って二足ほど出、「げに北邙の夕煙」と遠くを見るように面を上げます。
「雲となり消えし空は色も形も亡き跡ぞ哀れなりける」の謡に下がりつつシオリ、おさめます。

ワキが朝長の最期の様子を語って欲しいと言い、シテは正中に下居、ツレ、トモも下居して、シテが語り出します。
語の中身は以前の鑑賞記と同様ですので記しませんが、朝長の最期の様子を、感情を抑えつつ語ります。「抑えつつ」というのは、シテの思いが抑制された表現の向こうに透けて見えるからで、この辺りが能らしい表現であり、シテの力量の現れるところと思います。

シテの語から地謡になり、下歌、上歌と続きますが、上歌は小謡でも謡われる部分。「悲しきかなや 形を求むれば 苔底が朽骨見ゆるもの今ハ更になし」で始まり、死して骨となってしまったことを憐れむ謡になっています。ですが、この謡、最後の部分で「三世十方の仏陀の衆生も憐れむ心あるならば」の後、下掛では「亡魂尊霊もさこそ哀れと覚すべき」と謡うのに対し、上掛は「さこそ嬉しと思ふべき」と謡います。ちょっとした言葉の違いですが、ずいぶんと印象が違います。

ともかくも時移り、地謡の下歌「かくて夕陽影うつる」でシテは目付柱の方に入り日を見る心で目をやり、シテ、ツレ、トモそしてワキも立ち上がります。シテは常座手前で「青野が原の露分けて」と角の方を向き、続く「青墓の宿に帰りけり」の謡に、大鼓の前辺りに進み、ワキもシテを向きます。
シテは向き直るとワキに向き合い、しばらくここに逗留して朝長の跡を弔って欲しいと言います。ワキが答えると、シテは常座からアイに声をかけ、御僧に宮仕え申し候へと言い置いて、ツレ、トモを伴って中入りします。
このつづきはまた明日に
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朝長さらにさらにつづき

トモまで幕に入るとアイが立って常座に進み、この家の長に召し使われる者と名乗ります。旅僧に宮仕えせよと言われたと言いつつ、ワキ正に進んでワキに向き合い、先ほど朝長の墓所を尋ねた僧だと気付きます。
正中に座して、宮仕えせよと命じられたと言い、ご用があればとワキに尋ねます。ワキは朝長の最期を語って欲しいと求め、常のやり取りがあって間語りとなります。
この内容は、以前に記したものと大意は変わりませんので省略しますが、語り終えたアイが下がるとワキの謡い出し。さらに「観音懺法読み奉り」とワキが謡って待謡。「感涙も浮かむばかりの気色かな」と謡い納めると出端の囃子が奏されて、後シテの出となります。

後シテは模様大口に長絹を肩脱ぎにし、黒垂に梨子打烏帽子の姿で登場してきます。常座に立って「あらありがたの懺法やな」と謡い出します。「昔在霊山名法華」と続けますが、昔、霊鷲山にあって説いた法を法華経と名づけ、今は西方にあって阿弥陀仏と名付く、娑婆世界には観世音と現じるが、三世は同一体云々という偈。この姿にワキは合掌します。
この偈は道明寺や高野物狂、さらには狂言の宗論にも出てきます。天台智顗の師である慧思禅師の偈で、智顗の著した書物にあるという説もあるのですが、出典の確認はできませんでした。
ともかくも有難い偈を唱え、地謡と掛け合いで弔いに感謝しつつ、シテは足拍子を踏んで開キ、角へ出て角トリ、舞台を廻って常座に向かい小廻りしてワキに向かい「あら尊の弔ひやな」とワキを向いて開キ合掌します。

ワキが朝長の姿を認め、シテと交互に謡って地謡に。シテは開いて足拍子二つ。袖を返して出、サシ込み開キ。「深夜の月も影添ひて」と左の袖を前に出して見つつ正先へ出、ワキを向いて話しかける風から常座へと進み、小廻りして「御法を説かせ給へや」と開キます。クリを謡って大小前に進み床几に腰を下ろしてサシからクセへと進んで行きます。
このつづきはまた明日に
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朝長またつづき

クセは居グセで、床几に腰を下ろしたまま謡が進みます。このクセの謡、しみじみ読んでみると深い詞章です。
朝長の亡きあと、義朝は信頼する乳兄弟の鎌田政清とともに、政清の舅でもある長田の館に辿り着きます。しかし長田のだまし討ちにあって命を落とてしまいます。
家人に裏切られた訳ですが、一方でこの青墓宿の長は女人の身でありながら、頼られたことから一夜の情けをかけたのみならず、こうして後々まで弔いしてくれるとは、いつの世の契だろうかと謡い、さらに「一切の男子をば生々の父と頼み 万の女人を生々の母と思へとは今身の上に知られたり」と続きます。
梵網経からの言葉のようですが、全ての男を父と思って敬い、全ての女を母と思って大切にせよという教え。先にもふれた天台智顗はこの梵網経の教えについて「菩薩戒義疏」を著しているそうですから、本曲の作者は一連の教えに通暁していたのでしょう。

こののちロンギからシテが立ち上がり、自ら腹一文字にかき切った様を仕方に舞うと「亡き跡弔いて賜び給へ」とワキに向かって合掌し、繰り返す「亡き跡を弔いて賜び給へ」の謡に、左の袖を返して留拍子を踏み、終曲となりました。
(109分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)

さて本曲については、シテの中所さんには思うところがあるようで、当日は『「朝長」を観る前に』として「掌編小説 鎮魂」という、中所さん作の小、小説が書かれたものを頂きました。
簡単に言ってしまうと、室町幕府第六代の将軍、足利義量の早すぎる死を悼み、世阿弥が鎮魂の思いで本曲「朝長」を書き上げたという話です。史実の詳しいことは分かりませんが、なにやら深い思いを感じたところです。いずれこの掌編小説を膨らませて「小説」を書かれるかも知れないので、詳しくは書きませんが、そうした背景に思いを寄せると、一番の能も、またさらに味わいが深くなるように感じます。
朝長はあまり上演の多い曲ではありませんが、不思議と魅力のある一曲で、そうした鎮魂の思いが感じられるからなのかも知れません。

ついでながら、ずっと以前に書いたように藤戸と朝長は、シテの中入に関して改作された様子がうかがえますが、観世流の百番集では藤戸、朝長と並んでいて、なにやら因縁めいたものも感じるところです。
この項終わり
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