FC2ブログ

能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

融 十三段之舞 浅見慈一(代々木果迢会)

観世流 代々木能舞台 2019.09.14
 シテ 浅見慈一
  ワキ 宝生欣哉
  アイ 山本則重
   大鼓 佃良勝、小鼓 大倉源次郎
   太鼓 梶谷英樹、笛 一噌幸弘

この会はメモを取っていませんし、ブログで何度も取り上げている「融」ですので、鑑賞記を省略しようかと思ったのですが、初めて足を踏み入れた代々木能舞台の不思議な空間の思い出を少しばかり書いてみようと思った次第です。

代々木果迢会という名を耳にしたのは、たぶん十五、六年前。銕仙会の青山能を観に行った時に、開場前で研修所の入口に並んでいると「私たちは、かちょうかいから来まして・・・」と高齢の女性たちから声をかけられた時が初めてだと思うのです。「かちょうかい? 何それ?」と思ったものの、そこは適当に流したように思います。その時は慈一さんの鵺を観ていたく感動し、ぜひまたこの方の能を観てみようと思った記憶があります。

さてその「かちょうかい」、慈一さんの父君である故浅見真高さんが名づけられたのだそうで、能には果てがないという世阿弥の言葉から「果ては迢(はる)か」の意味を持たせたとのこと。
代々木能舞台にて定期公演を年に四度ほど行っているのですが、平日の夕刻でもあり、これまでは拝見する機会がありませんでした。

今回、慈一さんの十三段という番組、仕事も都合がつきそうだったので、思い立って夕暮の代々木能舞台を訪れました。都会はまだまだ暑い時刻ですが、中庭には蝋燭がガラスの器に入れられて点々と置かれ、開演の頃にはそよ風も吹いてきて、なんとも典雅な雰囲気となりました。

以前、慈一さんの叔父さんにあたる浅見真州さんの融十三段を観ていますが、その時の印象があまりに素晴らしくて、その後、十三段之舞の小書を観る気になれないでいました。融の小書としては最高峰と思うのですが、それだけにがっかりしたくないというのがホンネです。今回は浅見慈一さんがなさるというので、それならばと思い立った訳で、さてどうなのだろうと思いつつ舞台を観ておりました。

前場「や、月こそ出でて候へ」の声に、月の出が感じられ期待が高まります。
そして後場の十三段之舞。ああ観に来て良かった。見所全体が舞に引き込まれているのが感じられます。「名残惜しの面影」と、立ち上がったワキとともに、見所も幕に入る融の大臣の姿を追いかけてしまった一番。帰り道でも興奮さめやらぬ方々の声を聞きながら、駅へと向かいました。

今年3月には、代々木能舞台の創建七十年を記念するとともに、故眞高さんの一周忌追善公演があります。慈一さんが安宅をされる様子。この日は都合あって観に行けませんが、盛会をお祈りしています。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです
スポンサーサイト



江野島 中森貫太(能を知る会横浜公演)

観世流 横浜能楽堂 2019.11.21
 シテ 中森貫太
  漁夫 桑田貴志、辯才天 永島充、十五童子 宮坂唐 宮坂耀
  ワキ 森常好
  ワキツレ 舘田善博 則久英志
  アイ 中村修一
   大鼓 安福光雄、小鼓 幸正昭
   太鼓 林雄一郎、笛 藤田貴覚

江野島もあまり出ない曲で、例の観世流演能統計では輪蔵や飛雲と並んで、平成21年までの60年間に20回の上演、188位となっています。飛雲は宝生や金剛、喜多の各流でも現行曲にしているので、観世以外でも観る機会はありますが、輪蔵や本曲は観世流のみの曲なので、いよいよ観る機会が少ない一番です。
実は、この江野島と12月に観た大社はいずれも初見なのですが、観世銕之丞さんの上演を見逃したという意味でも共通です。江野島は平成28年に銕仙会定期公演で導者の小書付で上演されました。大社は平成24年に国立能楽堂で上演されていますが、いずれも欠席できない会社のイベントと重なってしまい、やむなく断念したものです。昨年、奇しくもこの二番を観ることができたのは、会社を移ったおかげかなどと、なんだか不思議な感じがしています。

ともかくもこの江野島、脇能としては長大な曲で、しかも子方が二人必要だったり登場人物も多く、おそらくはそのあたりが遠い曲になっている理由かと思います。今回は詞章の一部が省略されたりなどで、100分を切る上演でしたが、国立能楽堂の記録では浅見真州さんがなさった時で117分。銕仙会公演での導者の小書付では2時間半近くかかった様子です。
それでは舞台の様子を順に書き記していこうと思います。

地謡、囃子方が着座すると、後見が一畳台を運び出してきて大小前に据えます。さらに紺地の引廻し、朱屋根の大宮が出されて一畳台の上に据えられました。
舞台が落ち着くと真ノ次第が奏されて、ワキ一行の登場です。
褐色に金で亀甲文様の袷狩衣、白大口に風折烏帽子の大臣ワキが先に進み、いわゆる赤大臣のワキツレ二人、朱地の狩衣に白大口、風折烏帽子で続き、舞台に入ると向き合っての次第。
三遍返しの次第を謡い終えると型通りにワキツレが下居、ワキが欽明天皇に仕える臣下と名乗ります。相模国、江野という浦に卯月十日、不思議の奇瑞様々あって島が湧出したので急ぎ見てこいとの勅を受けて、東海道を下向するところと述べます。
これを受けて道行。
東路を進み、鳰乃海を過ぎ、富士の高嶺に月影を見つつ相模国やって来たと謡い、ワキの着きゼリフ。人を待って事の由を聞こうと言い、ワキツレが然るべう候と受けて一同はワキ座に着座します。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江野島のつづき

真ノ一声が奏されて、シテ漁翁とツレの漁夫が登場してきます。
ツレの桑田さんが無地熨斗目に緑の褸の水衣、右肩に釣竿を担って先に立ち、後から出たシテ中森貫太さんは小格子厚板着流しに薄茶の絓の水衣肩上げ、茶の腰蓑を着け、こちらも右肩に竿を担っています。
先に出たツレが一ノ松で振り返り、幕前に出たシテと向き合って一声。ツレ二の句、二人の謡いと続き、アシライで竿を下ろすと舞台へ進みます。ツレは左手、シテは右手に竿を持ち、舞台に入るときツレは後見に竿を渡して角へ出ます。シテは竿を持ったまま大宮の前に立ち、これに合わせるようにワキが立ち上がって言葉をかけます。

謡本にはアシライの後に、シテのサシ、シテツレの謡、下歌、上歌と続きますが、ここは省略されてワキの詞。
この浦の者かと問うワキに、シテはワキを向き、自分はこの浦の者で、毎日この島に上り山上山下岩窟社々を清めていると答えます。そしてワキにどこから来た者かと問い、ワキが勅命により島が湧出した子細を尋ね来たので子細を語るようにと求めると、正面に向き直って島湧出の様子を語り出します。

欽明天皇十三年、卯月十二日戌の刻から二十三日辰の刻まで震動が続くと、天女が雲上に現れ童子が左右に侍った。諸天、龍神など様々に現れて、雲上よりは盤石が下り、海底より塊砂が吹き出した・・・と語り始め、ツレと交互に謡を進めて、やがて海上に一つの島が現れて江野島と名づけられた子細を語ります。

ワキはこれを聞いて、これは明君の御代の證しとし、さらにこの島の鎮守はいかなる御神かと問います。シテは、諸神まします中にも龍の口の明神は天部と夫婦の神であり、崇めてもなおあまりあると答え、シテ、ワキ掛け合いから地謡へと続きます。
地謡でワキはワキ座へ、ツレは地謡前に着座し、「善神は一切の福を授け」でシテは角に出て左へと廻り、「天部の誓ひなるとかや 頼めなほ隔てなき 真如の玉も曇らじ」と謡う地謡に、常座からワキを見てサシ込、開キます。
ワキが、なお江野島にはめでたき子細があろうから、残さず語って欲しいと言い、シテは宮の前に下居すると、地謡のクリで肩上げを下ろし、扇を出して構えます。

ここから龍の口の明神の由来が語られるのですが、先の江野島湧出の子細だけでも相応の長さがあるため、前場がかなり長くなっています。
地謡のクリからシテのサシ、そしてクセへと続くあたりはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江野島さらにつづき

クセは居グセ。
地のクリで江野島が周囲三十四町、高さ十余丈と謡われると、シテのサシから地謡とシテが謡い継ぎ、江野島の様子を謡いクセに続きます。
クセでは、龍口の明神の縁起が謡われます。武蔵と相模の境、鎌倉海月の間に深澤という湖があり、大蛇が棲んでいた。身一つに頭が五つ、神武天皇から垂仁天皇まで十一代の天皇の御代を経て七百余歳を重ね、国中に満ちて人を取っていた。景行天皇の御宇になっていよいよその悪行が盛んとなったため、天部が悪心を翻して殺生をやめこの国の守護神となるならば夫婦になろうと言った。龍王はこれを受けて善心を思い、龍口の明神となって国土を守護しているのだと謡われます。

ロンギとなり、時移って夕暮。シテは勅に応ずる證を現そうから、夜すがら此處で待つようにと謡います。
地謡「勅に応ぜん證とは そも老人は誰やらん」と問いかけ、シテは自ら五頭龍、今は天部と夫婦の神となった龍口の明神であるとあかし、立ち上がると「我が姿をも現すべしと」と左の手を上げて三足ほど出、左から廻りつつ「夕波に立ち紛れつつ失せ給ふこそあらたなれ」の謡に常座で開キ、繰り返す「失せたまふこそあらたなれ」で中入となります。
ツレも続いて立ち上がって従い、来序の囃子で幕に入ると囃子は狂言来序に。
アイの鵜の精が括り袴に水衣、黒い面をかけ、羽の付いた頭巾を被って登場してきます。
アイは常座にて立ちシャベリ。江野島湧出の子細を繰り返し、さらに「またここに奇特なることの候」として深澤の大蛇が龍となり、天部の諭しを受け入れて龍口の明神となったこと、江野島に参詣することの功徳などを語ると、勅使のご機嫌を伺おうと角に出てワキに向かいます。
日本一のご機嫌と喜び、囃子も入って謡い舞いした後退場。
この謡い舞の最中に、ツレ天女が切戸口から衣を被って出、大宮の後ろ側から宮の内に入りました。

アイが下がるとワキの謡い出しとなりますが、このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江野島さらにさらにつづき

ワキの待謡…これがどうにも分からない。
「岐伯が絶技を先に揚げ。張儀が英聲を後に馳す。これ聰明勇進辨財天の」と謡うのですが、岐伯と張儀が辯才天とどうかかわるのか、さっぱり分かりません。岐伯は黄帝と問答を交わした伝説の医師として黄帝内経に出てくるあの岐伯なのか、であれば絶技という表現は分からないでもありませんが、張儀は秦に仕えた政治家の張儀のことなのか、出典も分かりません。
本曲は観世長俊の作とされていますが、輪蔵や大社、正尊などの作者とされる長俊は、廃曲となっていますが、老子が登場する重耳という曲も作ったとされており、漢籍によほどに通じていたのかも知れません。

ともかくもこのワキの難解な謡を地謡が受け、ワキがワキ正に向き直ると出端の囃子が奏されます。
ツレ天女は引廻しの内から謡い出し、地謡、ツレ、地謡と謡い継ぎ「かの如意宝珠を君に捧げんと 光も輝く御殿の扉 左右に開けて十五童子 天部の御姿 現れたり」の謡に、引廻しが下ろされ、大宮の内には中央に天女が床几に腰を下ろし、左右に童子二人が控えています。天女は紫の色大口に朱の舞衣、天冠を着け、手に宝珠を捧げ持っています。

地謡の大ノリの謡でツレは立ち上がり、「曇らぬ宝珠を君に捧げんと」でワキに座に向かい「勅使にこれを授け給ひ」と下居して宝珠をワキに渡します。中啓を出して立ち上がり「羽袖を返して舞ひ給ふ」の謡から楽を舞います。
こういう展開だと、ツレは天女ノ舞を舞いそうですが、本曲は楽を舞うという形。ツレなので位はやや軽い感じで、三段で舞上げて大小前で左右し地謡。「天人聖衆菩薩の舞も かくやと思ひ白波の」と大左右、打込開キ、さらにサシ込み開いてサシて廻り「疾風吹き立て逆巻く汐は」の謡に正中からシテ柱に向かい「五頭龍王の出現かや」と雲扇してシテを呼ぶ形。
囃子は早笛となり、ツレ天女は笛座前で床几に腰を下ろします。

いよいよ後シテの登場ですが、このつづきもう一日明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江野島またつづき

早笛で登場した後シテ五頭龍王、今は龍口の明神は、紺地の袷狩衣に朱地の半切、赤頭に大龍戴をいただき、一ノ松に出て「我昔は深澤の池に住んで五頭龍王と現れ 今ハ国土の守護神となる龍口の明神なり」と謡い出します。

地謡が謡い継ぎ、シテは「苔むす松も延べ伏す巌の」で一廻りしてサシ、舞台へと進みます。「峨々たる上にぞ現れたる」と常座に出て開キ、舞働です。
力強い舞働から、シテは常座で開キつつ「神仏水波の隔てなり」と謡い地謡に。

地謡にのってシテは角へ進んで角トリ、左へ廻って大小前から常座へ進んで「辯才天部は威光を現し」の謡に天女に向き、サシて開キ、「共に百千劫の齢を守らんと約諾固き」の謡に腰を下ろして両手を突くと、正面へ向かってガッシして立ち上がり「磯打つ波も龍口の」と七つ拍子。さらに舞台を廻ります。その間に「その時天部は童子を伴い」の謡で天女と童子が立ち上がって舞台を進み、幕へと向かいます。
シテはサシて廻り「とりどり姿を雲中に現し」で両の袖を巻き上げ常座へと進み、繰り返す謡に袖を直しつつ小廻りし、あらためて左の袖を返すと「げにありがたき影向かな」の謡に留拍子を踏んで終曲となりました。

長いは長いのですが、なかなかに面白い一番ではあります。
この作者である観世長俊は、昨日も書いたとおり大社や輪蔵などの曲も書いています。船弁慶や紅葉狩などの作者とされる、観世小次郎信光の子ですから、音阿弥からみると孫にあたります。ものの本によると、音阿弥からさらに時代が下り、信光の時代になると応仁の乱が起こり、上流の武家や公家の後援が受けにくくなったため、地方の興行も多くなり、幽玄よりも華やかなショー的な要素を多くした作風になったとされています。長俊もその作風を受け継いだとされており、本曲もそうした一環と言われると、なるほどと思うところです。
私としては、はやり脇能は高砂のような曲が好きではあるのですが、本曲のような曲もまた能として楽しめると、あらためて感じたところです。
(96分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

 | HOME | 

カレンダー

« | 2020-01 | »
S M T W T F S
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。