FC2ブログ

能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

龍田 澤田宏司(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2020.10.17
 シテ 澤田宏司
  ワキ 則久英志
  ワキツレ 野口能弘 野口琢弘
  アイ 野村拳之介
   大鼓 大倉栄太郎、小鼓 曽和伊喜夫
   太鼓 林雄一郎、笛 小野寺竜一

平成18年に、当時波吉姓を名乗っておられた宝生流の藤井雅之さんの龍田を、平成20年には喜多流粟谷充雄さんの龍田を、このブログで取り上げていますが、それ以来ですから龍田を観たのは十数年ぶりになります。
以前取り上げた際に、竜田川と龍田神社についても触れていますが、その龍田神社について今回あらためて確認してみると、以前書いたのはちょっと違うかなと思うようになりました。そのあたりのことは後ほど書くとして、まずは舞台の様子を記しておこうと思います。

舞台には紫の引廻しを掛けた小宮が出されて大小前に据えられます。
ゆったりした次第でワキ、ワキツレ二人が登場。ワキは小格子厚板に白大口、茶絓の水衣に角帽子の僧侶姿。ワキツレは無地熨斗目に白大口、浅黄の褸水衣に角帽子で、三人、舞台中央に向き合って次第。
六十余州に経を納める聖とワキが名乗り、南都から河内に急ぐと言って道行になります。西大寺をよそに見、秋篠を通り、龍田の川に着いたと謡ってワキの着キ台詞。川を渡って龍田明神に参ろうというワキの詞にワキツレが「尤もにて候」と答え、一同はワキ座へ向かいますが、幕内からシテが呼びかけます。

シテの「川を渡るな」という呼びかけに、ワキはワキ座にて振り返り、幕方を見て立ったまま言葉を返します。ワキツレはその間に下居。
ワキの問いかけを聞いて、シテは答えつつ幕を出て幕前に立ちます。紅入唐織着流しの姿で、よくよく案じて渡るようにと言い、ワキは答える詞のうちに歩み出します。ワキが古歌「龍田川 紅葉乱れて流るめり 渡らば錦中や絶えなん」を言葉にするのを聞いて、シテはこの古歌の心を説きつつ橋掛りを歩み、後座から舞台に入ると、川面に紅葉が散り浮く様を絶やさぬように、紅葉は当社のご神体でもあり戒めたものという台詞いっぱいに、常座に立ちワキに向き合います。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです
スポンサーサイト



龍田のつづき

ワキは紅葉の頃を過ぎ、川の面も薄氷が見える様子に、渡ることを許してほしいと言いつつ三足ほどシテに向かって出、言い終えるとワキ座に戻ります。なおもシテ、ワキのやり取りから地謡に。この間にシテは、正面に直してから歩み出し、角に出るとワキを向き、二足ツメて正に向いて納めワキを向きます。
ワキはシテに如何なる人かと問いかけ、シテは巫であると答え、道案内をしようと言います。「こなたへ御入り候へ」と言って数足出て宮に向き直り、これこそ龍田の明神と示してワキを向き、よくよく拝むように言います。

ワキは宮を見て、頃は霜降月なのに盛んなる紅葉があるが御神木かと問います。
シテが当社は紅葉を神木と崇めると答え、ワキはありがたいことと言いつつ下居し宮に向いて合掌します。地謡の下歌で、シテも宮に寄り腰を下ろして合掌します。
地謡の上歌となり、途中「いざ宮めぐり始めんとて」でシテがワキを向いて促すような心で二人は立ち上ります。ワキは少し出て正面に向き直り佇みますが、シテは数足出てから下がり「運ぶ歩の数々に」と右から回って「度重なると見る程に」と宮の前に立ちます。
そこから角に向いて数足出て「我はまことはこの神の」でワキに向くと「龍田姫は我なり」とツメて、ワキに告げた形。一度正先まで出て「紅の袖を打ちかづき」で扇を広げて宮に向き「社壇の扉を押し開き」と、扇で扉を開く形を表してから、宮のシテ柱側に立って正面に向き直り「御殿に入らせ給ひけり」の謡に、後ろを向いて宮に中入りしました。

シテが中入りするとアイが立ち上がって常座に出て、龍田明神に日参しているので今日も参ろうと言って、角に進み型通りにワキに気付いた態で、何処からご参詣かと尋ねます。ワキが答えて、紅葉を賞観するについて知っていることを教えてほしいと頼み、アイは正中に座して当社の謂れなどを語ります。
この間語りが、なかなかに聞き取りにくく分かり難かったのですが、ともかくも豊年を祈念して龍田立野の地に明神が祀られた経緯が語られ、さらに龍田明神は女神なので美しいものを好まれることから紅葉をご神木とされた。さらに奥深い理由がいくつかあるのだが、そのあたりは我等のような者が知りうるところではない、といった話でした。
アイの話を聞いて、ワキは最前、龍田姫が現れたことを告げ、型通りのやり取りから、神前に通夜して重ねて奇特を見ようということになり、アイが下がってワキ、ワキツレの待謡となります。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

龍田さらにつづき

出端が奏されて宮のうちからシテの謡い出し。地謡の謡う中「あらたにご神体あらはれたり」で引廻しが下げられ、宮のうちに床几に腰を下ろしたシテが姿を現します。朱の大口に橙色の長絹、天冠を着けた姿です。
シテの謡から地謡のクリ。さらにシテのサシと謡って、シテ「梢の秋の四方の色」と謡いつつ、座したままワキに向き合います。
地謡でシテは正面に向き直り、続くクセで立ち上がると宮を出ます。

「港や秋の泊なる」で拍子を踏み「山も動せず」で四足ほど出て打込し、目付柱を向いて開キ。左右打込んで「静かなりけり」と拍子を二つ踏みます。六足ほどサシ込開キ「春は紅葉にあらたねど」と左へ回ると正中で角を向き、「たゞ好色にめで給へば」で角に出て角トリ。
左へ回り大小前へ回り込んでサシ込開キ、左右打込し扇広げ「神なびの御室の岸やくづるらん」と上扇開キ。大左右から打込んで正先で開キ、サシて出て「龍田川紅葉乱れし跡なれや」で開キ。左に回ってワキ正で打込んで開キ。「紅葉重ねの薄氷 渡らば紅葉も氷も」とサシて角に出て扇カザシて左に回り、大小前で「今は渡らん」と左右打込みします。
シテは「さる程に夜神楽の」と謡い、地謡で扇を閉じつつ常座に戻り、後見から幣を受け取ると正面に向き直り、二足出ると「白和幣 振り上げて声澄むや」の謡に幣持つ手を上げると「謹上」と謡いつつ幣を振り、地謡の「再拝」の謡に幣を両手で戴き開いて神楽の舞い出しです。

神楽を舞い上げると「ひさかたの月も落ち来る瀧祭」と謡って上扇。
開くと角に行き、サシて開キます。舞台を廻り、大小前から角に出て両手を合わせ、扇を左手に取ると左に回り、地謡の「神風松風吹き乱れ」に、常座から霞扇して正中で扇を逆手に取り、角に出ると角トリ。「翻へる小忌衣」と左の袖を返し、左に回って大小前でサシて角へ。扇カザシて常座に回り込み、開いて左の袖を返すと、留拍子を踏んで終曲となりました。
紅葉を愛でる龍田明神を思わせる舞台でした。
(90分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
その龍田明神と竜田川をめぐって、明日は少しばかり話を続けたいと思います。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

龍田さらにさらにつづき

さて龍田明神と竜田川の話ですが、奈良の竜田川あたりには龍田大社と龍田神社の二つの神社があります。龍田大社は大和川近くの生駒郡三郷町にあり崇神天皇の御代の創建と伝えられます。一方、龍田神社は竜田川近くの生駒郡斑鳩町にあり、こちらは聖徳太子が創建したと伝えられます。
龍田神社は龍田大社から天御柱命・国御柱命を勧請したという言い伝えもあるようで、龍田大社に対して龍田新宮と呼ばれたりもするようです。とはいえ、いずれも能楽の誕生よりは古くからある社と言えましょう。

前二回の鑑賞記では、このうち斑鳩にある龍田神社を本曲の舞台として話を進めました。竜田川の近くにあることから、当然にこちらが舞台と思ったのですが、実は、謡蹟めぐりの情報などを見ていると、この両社の混同が少なからず見受けられることに気付きました。
龍田大社を一行が訪れた明神としている方もいれば、龍田神社の方としている方もいます。龍田神社には金剛流発祥の地の碑があるのですが、この碑があるのを龍田大社としているものもありました。

竜田川からの近さからみれば、龍田神社の方を舞台とするのが順当と思われます。しかし実は上古では龍田川の名称は大和川本流の三郷町から下流のあたり、すなわち龍田大社のあるあたりを指し、現在の竜田川はもともと平群川という名だったという話があります。
業平が詠んだ龍田川は現在の大和川本流の方だという説が有力だそうですが、平群川の名前が変えられたのがいつ頃のことなのか明らかではないので、能が作られた頃に竜田川がどちらを指していたのかは分かりません。
しかし奈良の都を出て河内に向かおうと、道行の謡のように西大寺をよそに見、秋篠を通って奈良盆地を南下してくると、斑鳩にある龍田神社は竜田川よりも手前にあり、川を渡って龍田明神に至るという設定とも適合しません。
というわけで、おそらく龍田明神が現れるのは龍田大社であろうと、今回思い直した次第です。龍田神社の方には金剛流発祥の地の碑もあり、こちらが龍田明神とした方が面白いとも言えるのですが、聞き取りにくい間語りの中に「天武の御代に勅使を使わし」の一節があり、これは日本書紀に龍田大社のこととして記されているようですから、龍田大社とするのが妥当のようです。
この項おわり
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

半蔀 小倉健太郎(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2020.10.17
 シテ 小倉健太郎
  ワキ 安田登
  アイ 野村万之丞
   大鼓 柿原光博、小鼓 田邊恭資
   笛 栗林祐輔

前回、半蔀を観たのは平成21年の五雲会、高橋憲正さんの演能です。あれから十年以上経ちましたが、その間に東日本大震災があり、そして現在のコロナ禍と、あらためて激動の日々だったと感じます。
ともかくも、本曲はたいへんに趣き深い曲であり、観るたびに源氏物語の世界に迷い込むような気がしますが、今回もそうした思いを強くした一番でした。このところ、能を観に行くこと自体が少なくなってきていますし、観世の能を観に行くことが多くなったこともあって、小倉健太郎さんの演能を拝見するのも十数年ぶりなのですが、情趣の深い見応えのある上演だったと感じました。わけても序ノ舞が良かったと感じたのですが、ともかくも舞台の様子を記しておきます。

まずは名宣笛にてワキの出。
無地熨斗目着流しに柿色の絓水衣、角帽子の僧侶姿で、常座に出て名ノリ。紫野雲林院に住居する僧と名乗り、花の供養をなそうと言って正先に下居します。
「敬って白す立花供養のこと」と供養を執り行い「草木国土悉皆成仏道」と合掌します。合掌を解いたワキは立ち上がってワキ座に向かい腰を下ろします。

アシライでシテの出。無紅唐織着流しで橋掛りを進み、常座に出て謡い出し。
シテの謡にワキはシテを向き、如何なる花を立てたのかと尋ねます。シテは愚かの仰せと謡いますが、あらためてワキを向き「これは夕顔の花にて候」と言います。さらにシテ、ワキの問答がつづき、ワキは「亡き人の花の供養に逢はんためか」と言い、さらに名乗るようにと求めます。シテ、ワキの謡から地謡へと続き、五条あたりのなにがしの院にて亡き人となった夕顔のことが謡われます。
シテは地謡で四、五足ほど出てワキ正を向き、そのまま回って常座に向かいまう。常座で一度正面に向き直って二足下がり、あらためて歩み出して幕に向かい、短い前場を終えて中入となりました。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

半蔀のつづき

おもむろにアイが立ち上がり常座にて名ノリの後、僧を見舞おうと言って正中に進み、着座してワキに供養の礼を言います。そしてワキから、光源氏の古、夕顔の前という女性のことにつき、ご存知の話して欲しいと促されて語り始めます。

その間語り
夕顔は頭の君の思い人であったが、子細あって何方となく失せ給うた。
その頃、光源氏の御乳母が患っていたため、源氏が車で尋ねたが、その家に夕顔の花が咲き乱れていた。随身に花を折らようとしたところ、家の中から白い扇を持ちこれに花を載せて参らせるようにとあったので、随身が花を載せて源氏に奉ったところ、扇には歌が記されていた。
「心あてにそれかとぞ見る白露の 光そへたる夕顔の花」とあり、夕顔の前が御宿りされているのを源氏が知るところとなった。源氏はそれから通うようになり深い中になられたが、八月の十五日、夕顔の上を伴って何某の院に行かれたところ、程なく夕顔は亡くなってしまったと承っている。と概ねそのような話をします。

話を終えたアイはワキに向き合うと、さてお尋ねはどういう子細かと問います。
ここからのやり取りは型通りに、なおも奇特を見るようにとアイが勧め、ワキが答えてという形です。ですが、やり取りの最後で、御用の折は云々とアイが言いワキが「頼み候べし」という常の形を思い浮かべていたら、ちょっと違いました。
アイが五条あたりに出てなおも奇特をご覧になるように勧め、ワキも応じて五条あたりに立越え奇特を見ようと言います。するとアイが我等も後から行こうと言い、ワキも後から来るようにと勧めるやり取り。こういうやり取りは聞いた記憶がないので、気になってメモしてきました。
ついでながらアイの万之丞さん、曲趣に応じた趣きある間語りで、この方の非凡な実力を感じた次第です。隠狸のアドの楽しげな演技から一転しての一番でしたが、いずれ万蔵を継承される時が楽しみな舞台です。前にこの方の三番叟を観てすごいなと思ったのですが、将来が楽しみです。

さて舞台に戻って、アイが下がると後見が半蔀を持ち出して来て常座に据えます。
ワキが立ち上がって二、三足ほど出、半蔀に向かって「ありし教に従って 五条あたりに来てみれば げにも昔の座所 さながらやどりも夕顔の 瓢箪しばしば空し 草顔淵が巷に滋し」と謡います。
一声の囃子が奏され、囃子を少し聞いてワキはワキ座に下がります。
後シテの出となりますが、このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

半蔀さらにつづき

後シテの出。緋大口に浅黄の長絹の姿で、幕から出て作り物の半蔀に入り「藜藋深く鎖せり 残星の散蛍新たに 窓を穿って去る」と謡い出し、地謡が「しうたんの泉の声」と続け、さらにシテが「雨原憲が 枢を温す」と謡います。
なんだかえらく難しい言葉がならんでいますが、ワキの謡の最後の部分からは、和漢朗詠集に収められた橘直幹の文「瓢箪屢空、草滋願淵之巷、黎藋深鎖、雨湿原憲之枢」と、新撰朗詠集の嵯峨天皇御製「夕陽山影穿窓入 幽澗泉声向戸飛」を踏まえたものだそうで、橘直幹の文は、いずれも孔子の弟子であり賢才の誉れ高い顔淵と原憲について、顔淵は飲み物食べ物にも事欠き、原憲の家はあかざが生い茂り戸も雨に湿ったと、その生活が貧しかったことを述べているようです。

シテの謡のうち「残星の散蛍新たに 窓を穿って去る」の部分は宝生流だけの形で、他流では「夕陽の残照(ないし残晴)新たに窓を穿って去る」と謡い、元の朗詠に近い形です。いずれにしても本曲のこの辺りは朗詠を元にした詞章が多々見られます。

続く地の下歌で、シテは床几に腰を下ろし「しう上の秋の山 ものすごの夕や」の謡に床几のまま右に向きを変え、秋の山の景色を見るような態。もっとも「しう上」ってどういうことなのか、正直のところ意味が分かりませんが。
ロンギとなり、シテ、地謡が交互に謡いますが、地謡の「草の半蔀おしあけて 立ち出づる御姿見るに涙もとどまらず」で、シテは蔀戸の棒を持ち、立ち上がって戸を押し上げて作り物を出ます。正中、大小前と進んで正面に向き直りクセに。
地謡を聞き「この夕顔の草枕」で一つ拍子を踏むと、四足ほど出て目付柱を向き、正面に向き直って二足ツメます。
「南無当来導師 弥勒仏とぞ唱へける」と開イて合掌。ワキを向くと二足ツメ、二足下がって「そぞろに濡るる袂かな」で片シオリ。正先へ出ると「源氏のこの宿を」と作り物に向き直り、そこから大小前へと回って正面に向き直り、胸サシして「白き扇のつまいたう焦がしありしに」と扇広げて両手で持ち、「この花を折りて参らする」で蔀に向き花を折って扇に載せた形を見とします。
「源氏つくづくとご覧じて」と上げ端を謡いつつ、扇を両手で持って見込み、直して大左右。
正先へ打込み開イて左に回ると「折々尋ねよるならば」で大小前開キ、「定めぬ蜑のこの宿の」で六拍子を踏み、サシて角へ行くと扇カザシ、左へ回って大小前で左右、打込みして扇閉じつつ後ろを向き、作り物のの横に立つと正面に向き直り序ノ舞の舞い出しとなりました。

この序ノ舞はとても良い印象でした。夕顔の幽霊なのか、花の化身なのか、嫋やかで品格のある舞でした。
三段に舞って舞い上げるとワカ「折りてこそ それかとも見め たそがれに」と謡いつつ上扇。地謡「ほのぼの見えし 花の夕顔」で、源氏物語夕顔の巻で夕顔が源氏に初めて詠んだ歌が謡われます。この「花の夕顔」を三度繰り返すのが、また謡の面白いところです。
シテは「常にはつもらひ おはしませと」の謡にワキに向き直り、二足ほどツメて左に回り「鐘も頻りに」と角で回って正中へ。地謡の「告げわたる東雲」で目付柱に向いて雲扇。角に出つつ両手を合わせ、左へ回ると大小前に戻り、「明けぬ先にと夕顔の宿りの」と霞扇してサシ、「また半蔀の内に入りて」と作り物の中に入り、正面に直して「そのまま夢とぞなりにける」と蔀戸を閉め、終曲となりました。
(76分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

忠信 上野能寛(五雲会)

宝生流 宝生能楽堂 2020.10.17
 シテ 上野能寛
  義経 東川尚史
  トモ 藤井秋雅 木谷哲也
  法師 亀井雄二
  立衆 佐野弘宜 金森隆晋 辰巳和麿
     金井賢郎 朝倉大輔
  ワキ 高井松男
   大鼓 柿原孝則、小鼓 清水和音
   笛 熊本俊太郎

忠信(ただのぶ)を現行曲としているのは観世、宝生の二流のみ。かつ観世流での上演は稀で、例の観世流演能統計でみると平成21年までの60年間に10回しか上演がありません。もちろん私も初見です。
ですが、宝生流はこの忠信や夜討曽我など、あまり他流が上演しない曲を上演する例が少なからず見受けられます。流儀の曲に対する捉え方の違いかも知れません。

この忠信や曽我物などに共通する点でもあるのですが、物語の経緯などの説明がほとんどないままに、いきなり場面が展開していきます。
本曲では登場してきたワキが、判官に仕える伊勢の三郎義盛と名乗ります。ワキ義盛が、頼朝と義経が不仲となり我君が都から三吉野にお忍びになっているところに、吉野山の衆徒が心変わりし、今夜夜討に寄せて来ると聞いたので、この由を我君へ申し上げようと言って義経に奏上するところから、舞台は始まります。
本曲は、このワキの詞だけで説明を済ませてしまい、ツレ義経とワキ伊勢三郎は防ぎ矢に誰を残すかという相談をして、シテ佐藤忠信を呼び出すという展開です。

義経記の話など観客は百も承知という、暗黙の前提のうえで作られている感じがします。
もっとも古典に典拠をとった能は、おおかた物語の説明は簡単で、いきなり場面が展開しますが、それでも間語りでことの経緯などが相応に説明されるケースが多いと思います。しかし本曲や曽我物のいくつかなどは間語りもなく、ほとんど説明がされないままに斬組を見せて終曲になってしまいます。
そんなわけで、今回はその、見所なら当然知っているという前提の義経と佐藤忠信について、少々回りくどくはなりますが、解説を書いてから、舞台の様子に入って行こうと思います。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

忠信のつづき

本曲の主人公として取り上げられている佐藤忠信は、もともと奥州藤原氏に仕えていましたが、奥州に下り藤原氏の庇護を受けていた義経が、頼朝挙兵の報を聞いて頼朝の陣に参じる際に、藤原秀衡の命により兄の継信とともに義経に随行した武将です。継信は屋島の戦いの際に義経の身代わりとなって命を落としますが、忠信はその後も義経に仕えます。
壇ノ浦の戦いの後、頼朝と義経の不和が決定的になり、義経主従は京都を逃れて九州へ向かおうとしますが、船が難破して一行は離散してしまいます。吾妻鏡には、文治元年11月6日に、義経が大物浦から船出したものの暴風による逆波で船が転覆し同行者は分散してしまい、義経には源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・妾女(字静とあり、いわゆる静御前のこと)のわずか四人が従うのみとなった、とあり、忠信はここで義経と別れてしまったようです。
この後、義経は吉野に隠れたようですが、それについては文治元年11月17日の記載に、義経が吉野山に隠れているとの噂があり探索したが見つけられなかった。しかし夜遅くになって妾静が迷い出てきたので事情を聴いたところ、大物浜から義経と共に吉野に入り5日間隠れていたが、義経は衆徒が集まって捜索を始めたのを知り山伏の姿で逃げ去った。その際、雑色に多額の金品を渡し自分を京へ送るよう指示したが、雑色が金品を奪って逃げ、置き去りにされてしまった、と申し述べたとあります。
どうも佐藤忠信など多くの家人は船の難破で散り散りになり、義経は静をはじめ極々少数で吉野に隠れたものの、ここでも居場所を失い、静まで置き去りにして山伏に身をやつして逃げた様子です。

一方、佐藤忠信の消息ですが、忠信が次に吾妻鏡に登場するのは、翌文治二年の9月22日です。記載では忠信は以前から義経に従っていたものの宇治のあたりで別れて洛中に戻り、馴染みの女に書状を送ったところ、この女の夫が糟屋藤太有季に知らせ、討手が向かうこととなった。しかし忠信は強者のため簡単に討ち取ることが出来ず、大勢で寄せたところ郎党二人とともに自害したとあります。
糟屋有季は、鎌倉幕府初期の有力者であった比企能員の縁戚で、比企朝宗に従って義経探索のために京に上っていたもので、このときは堀景光を捕らえ、忠信を自死に追いやっています。

吾妻鏡は鎌倉時代に書かれた編年体の歴史書で、幕府成立前から六代将軍の頃までが、日毎の記録の形で綴られていて、資料としての価値も高いようです。とは言え、いわゆる正史ではなく、様々な筆録や日記、家伝をはじめ各種の書類をもとに、後日編纂されたものなので、必ずしも記載が史実の通りかどうか不明な部分があります。
しかし、義経の逃亡劇と佐藤忠信をめぐる記載は、おおよそこの様なことがあったのだろうと思わせるところです。
一方、源平盛衰記や義経記などに描かれる忠信は、大物浦の難破の後に吉野の隠れた義経に同行し、義経が落ちのびた後奮戦します。本曲もこちらの話をもとにしていますが、この忠信伝説は明日につづきます
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

忠信さらにつづき

平家物語の義経逃避行の記述は実にあっさりしていて、巻十二の判官都落では大物浦の船出以降について、大物浦から船に乗って下られたが、ちょうど西の風が激しく吹き、住吉の浦に打ち上げられて吉野の奥に籠もられた。吉野法師に攻められて奈良へ落ち、奈良法師に攻められてまた都へ帰り、北国にかかって終に奥へ下られたと、実に簡単に書かれています。忠信は名前さえ出てきません。

忠信が吉野で防ぎ矢を勤めたという話は、源平盛衰記や義経記に見られる話で、ほぼ同じような話になっています。源平盛衰記の記載をもとに義経記が書かれたのだろうと想像しますが、この源平盛衰記の記載をもとに、忠信の奮戦記を簡単に書いておきます。

吉野に籠もった義経一行でしたが、早鐘の音が聞こえてきて不穏な気配に、弁慶が麓に下って様子を見てくることにします。すると吉野の大衆が集まって攻めてくる様子。急ぎ戻った弁慶の報告を聞き、義経は逃げ落ちることにしますが、どちらに行くにも難所のうえ、人声の哄めきが聞こえ、はや追っ手が迫った様子。義経はもはやこれまでと覚悟を決めて郎党に最期の供をせよと言います。
しかし佐藤忠信が進み出て、大将が恥を忍んで命を惜しむのは臆病に似て臆病ではないと言い、自分が義経の名を騙って踏みとどまるので、皆は落ちのびて会稽の恥を雪いでほしいと言い募ります。義経は一度は断るものの、皆に説き伏せられて落ちのびることにします。
義経主従が落ちていくのを見送った忠信は、郎党二人とともに五重塔に隠れていますが、ほどなく三百余人の僧たちが押し寄せて来ます。忠信は塔の中から清和源氏の後胤伊予守源義経ここにありと大音声で呼ばわり、大衆は塔に迫って義経に出てくるようにと呼びかけます。
忠信が戸の隙間から外を見ると、僧たちは悉く具足に身を固めて向かってきています。忠信は、これと斬り合いになれば千に一つも助からないだろうと思い、塔の中から大衆に矢を射かけます。手練れの忠信に射られて、たちまち二、三十人が射伏せられて散々になってしまうと、大衆からも射返せと塔に向けて散々に矢を放ちます。しかし忠信が戸を閉めてしまったため、矢は忠信には当たりません。
その時、大斧を持ち鬼かと思われるような僧が仁王立ちに突っ立ちあがって、大音声に呼びかけました。もとは紀伊国鈴木党の七郎重友、幼少より悪者の名を取り親の勘気を受けて出家した横川の前司覚範だと名乗り、義経公の御首を賜りたいと言って、大斧で塔の扉を壊し忠信と向き合います。
忠信の郎党二人は大衆に討ち取られており、忠信は覚範と半時ばかり秘術を尽くして戦いますが、既に三日も食を絶っていた忠信は力尽き、もはやかなわぬと覚範の持った太刀を打ち落とし、塔の二階へと逃げます。覚範がこれを追いますが、忠信は塔の破風口を蹴破って屋根に出、叶い難しとの思いから手を合わせて飛び降りてしまいます。二丈ばかりを飛び降りて足を踏みなおすと、覚範も追いかけようと屋根から飛び降りてきます。ところが覚範の草摺が軒の角木に引っ掛かり、覚範は忠信の鼻先に落ちてしまいました。忠信すかさず斬り付けて覚範を胴切りにすると、清和天皇の後胤伊予守義経、横川の覚範を討ち取ったと大音声をあげ、ふもとを指して逃げ下ります。大衆もこれを追いますが、暗闇の中で見失い、忠信は山科法眼の坊に入り込みました。
長くなりましたので、明日につづけます。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

忠信さらにさらにつづき

坊にいた老法師と稚児を追い散らし、忠信は厨にあった酒飯を飲み食いし、温まっているうちに眠ってしまいます。そこへ大衆が押し寄せて坊を取り囲み、九郎義経公出でさせたまえと大声で呼ばわります。
忠信は驚いて目を覚ましますが、火を吹き消すと外に向かって九郎義経ここにあり、命二つあるものは来いと呼ばわります。大衆は横川随一の悪僧といわれた覚範を忽ちに討ち取ったほどの大将と恐れ、坊を囲んだまま進むものはありません。業を煮やした山科の法眼が四方より火を掛けよと命じますが、これを聞いた忠信はどうしたものかと坊の梯子を上がって四方を見渡します。するとこの坊は山を切り崩して崖作りにしたものなので、坊から一丈ばかりの間を隔てて山に連なっています。これを見た忠信は階下に戻ると、左の脇腹を貫くように見せかけて、屏風一双に火をかけ天井に投げ上げると、梯子を上り屋根から一跳ねして向かいの山へと飛び移ります。
宗徒は判官の焼首なり取って鎌倉殿に注進し恩賞に預かろうと探しますが、もとより忠信は逃げ延びており、首はどこを探しても見つかりません。大衆はあきらめて、義経公は死んでも恥辱を受けない名将だと言いつつ引き上げていき、この様子を確かめた忠信は、山を辿って都へと逃れたのでした。

簡単にと言った割には長くなってしまいましたが、源平盛衰記ではこのような話になっています。義経記も同じような展開ですが、こちらの方がより詳しく描かれていて、義経が自分の黄金造りの太刀を忠信に渡し、鎧兜を忠信と取り換えたことをはじめ、個々のエピソードそれぞれに話が膨らまされている印象です。

ともかくも、もともと吉野には行かなかったと思われる忠信について、よくぞこんな見てきたような話を作り上げたものと思います。ですが、歌舞伎はさらにここから話が飛躍していて、ご存じ義経千本桜になっていきます。義経千本桜では、都にとどまっていた静御前が吉野に逃れた義経のもとへ向かう道すがら、義経から預かった初音という鼓を打っていると、佐藤忠信が姿を現します。しかしこの忠信は本物ではありません。初音は桓武天皇の昔、旱魃を止めるために千年を経た雌狐と雄狐の生皮を剥いで作られた鼓で、これを打てば忽ちに雨が降り出したという一品。偽の忠信はこの狐の子で親を恋い慕って現れたという次第です。この先はとんでもなく長くなるので書きませんが、史実から物語へ、そして演劇へと、話がパロディでどんどん変化していくのはたいへん興味深いところです。
ところで、源平盛衰記などで忠信と戦ったとされる覚範ですが、覚範が名乗ったという鈴木七郎重友は、藤白鈴木氏の当主鈴木重倫の弟である鈴木重善の子です。重善は当主であった重倫が平治の乱で亡くなった際に、子の三郎重家らを託されていますが、後に鈴木氏の当主となった三郎重家は義経に奥州まで付き従い、衣川館で義経と最期を共にしています。この重家を主人公とする能「鈴木三郎重家」は長らく廃曲となっていましたが、先年、九皐会の鈴木啓吾さんが復曲上演しています。
七郎重友が出家して本当に覚範と名乗っていたのか、史実の確認はできませんでしたが、義経の忠臣であった重家の従兄弟にあたる重友を、忠信の敵役に登場させたのはどういう背景なのか、源平盛衰記の成立の経緯など考えてみるとこれまた面白いかもしれません。
というわけで、たいへん前置きが長くなってしまいましたが、明日から、ようやく舞台の様子に移ります。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

忠信またつづき

ようやく舞台の様子にたどり着きました。
まず舞台には出し置きのツレ義経とトモの二人が登場しワキ座に向かいます。義経は床几に腰を下ろし、太刀持ちのトモは太刀を後ろに置いて、義経に並ぶ形でトモ二人が座します。義経は厚板唐織に白大口、観世の装束付けでは長絹とありますが、たしか当日は法被だったように思います。トモ二人は無地熨斗目に素袍上下で、ワキの出を待ちます。

橋掛りを進んできたワキは一ノ松で止まり名ノリ。この鑑賞記の初日に書いたとおり、判官に仕える伊勢の三郎義盛と名乗ります。頼朝と義経が不仲となり我君が都から三吉野にお忍びになっているところに、吉野山の衆徒が心変わりし、今夜夜討に寄せて来ると聞いた。この由を我君へ申し上げようと言って正中へ出、双手突キ礼して「いかに申し上げ候」と義経に奏上する形になります。ワキは直垂上下を着け、梨子打烏帽子に白鉢巻きの姿です。
ワキの奏上を聞いて義経は、衆徒の心変わりを口惜しいと言い、夜に入ったらこの山を開くと言います。とは言え、防ぎ矢を射ずに落ちるのも後代の名折れなので、誰か一人留まって防ぎ矢を射、命を全うして追いかけてくる者はあるかと、ワキに問いかけます。
ワキは両手を直して下居の形になり、御諚は畏まって承ったが由々しき大事でもあり、義経が誰か一人を召し出して直に命じられるべきではと返答します。義経はこれを受けて、ワキに佐藤忠信を呼び出すように命じます。

ワキは畏まって候と双手突キ礼して立ち上がり、橋掛りへ進んで一ノ松から幕に向かって忠信を呼び出します。
シテ忠信は白大口に掛直垂、士烏帽子で幕前まで出て誰かと問い、ワキが君よりの使者と言うと腰を下ろし、双手突キ礼して畏まります。用事があるので急ぎ来るようにという伝言を聞くと、畏まって候と言って立ち上がり、先に立つワキに従って舞台へと進みます。
ワキが正中少し地謡寄り、シテは正中に進み双手突キ礼して義経の言葉を聞く形。義経が今夜夜討があるので自分は山を開くから、一人留まって防ぎ矢を射、その後命を全うして追いつくようにと命じると、シテは畏まって候と答えます。
さらにシテは体を起こして言葉を続け、防ぎ矢仕れとの御諚は弓矢取っての面目だが、我が君をはじめ人々に名残惜しいと言いつつワキからトモへと見廻します。これを地謡が受け「涙抑へて御前を立つ皆哀れにぞ覚ゆる」と謡う中、片シオリしたシテは立ち上がると常座から後見座へと向かいクツロギます。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

忠信またまたつづき

続く地謡「かくて時刻移るとて…」で義経以下が立ち上がり、順に橋掛りを進んで幕に入っていくと、この地謡の最後「密かに忍び出で給へば」でシテはあらためて立ち上がって常座に出、「忠信は唯一人」と謡うと、続く地謡の「御跡遥かに見送りて」で幕方を見やり、正面に直してサシ込開キ「敵をこそは待ちゐたれ」で笛座前で着座し物着となります。
物着で直垂を外して厚板の姿となり、烏帽子も外して白鉢巻。左手に弓、右手に矢を持って笛座前の床几に腰を下ろします。この間に一畳台が出され、ワキ座に据えられます。
一声の囃子で、あまり間を置かずに法師と立衆の出。
一ノ松の法師を先頭に橋掛りに並び一セイ。法師は「いかにこの坊中へ案内申し候」と声をかけます。シテは夜更けに不思議と訝り「案内とは如何なる者ぞ」と橋掛りを見込みます。立衆が頼朝の命により義経を迎えに来たので出てこられるようにと言い、シテは法師たちに向かい、生意気にも我が君を迎えに来るなどとは、と言い、戦の試しにこの矢を受けてみよと面を切り、地謡の「高櫓に走りあがり」の謡に床几から立ち上がって一畳台に上がり、後ろ向いて腰を下ろして矢をつがえると「よつぴいて放つ矢に」の謡に、矢を射る形。立衆の一人が舞台に入り「喚き叫んで乱れ入る」の謡からカケリ。立衆との斬組になります。斬組では仏倒れがあったり、様々に斬り合いの型が演じられます。
カケリが終わるとシテは常座で「今は忠信これまでなり」と謡い台上に上がります。地謡の「空腹切って遥かの谷に落ちければ」の謡に台から下りて谷に落ちた形。「敵の兵乱れ入るを」で立衆が台上に上がる一方で、「かねて用意の細道伝ひ」の謡に、シテは橋掛り一ノ松の先あたりまで逃れます。立衆が追いかけて橋掛りで斬り組になりますが、最後に「谷を飛び越え峯を分けて」でシテが逃げおおせた態となって一ノ松で飛び、幕前に進むと「都をさしてぞ急ぎける」と太刀を肩に直して留拍子を踏み終曲となりました。
前置きが大変長かったのに、舞台の様子はこれだけかと言われそうですが、そもそも30分ほどの短い曲です。しかも斬組が見せ場ともなっていますが、ここは書きようがないというのが正直なところで、ともかくも面白かったというのが素直な感想です。
当日のシテ、上野さんは本曲が初シテだそうですが、堂々とした立派な舞台でした。これから長い能楽師の道を歩んで行かれるのだろうなと、いささか感慨深いものがありました。
ところで宝生流の能楽師の紹介を見ていると、初シテが忠信という方が、渡邊旬之助さんや佐野登、澤田宏司さんなど何人かいらっしゃいます。また禅師曽我が初シテという方が何人もいらっしゃるのも宝生流の独特なところと思います。いずれも観世流では稀曲中の稀曲で、60年間に10回前後しか上演がありません。
両曲とも立衆が数名登場しての斬組があります。立衆はみな先輩方ということになるので、初シテを皆で祝おうということなのか、真意は分かりませんが、なんとなく宝生流の主張が感じられる選曲だなと思いました。
(33分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江口 中所宜夫(九皐会)

観世流 矢来能楽堂 2020.11.08
 シテ 中所宜夫
  ツレ 奥川恒成 石井寛人
  ワキ 宝生欣哉
  ワキツレ 大日方寛 御厨誠吾
  アイ 能村晶人
   大鼓 亀井広忠、小鼓 成田達志
   笛 八反田智子

中所さんのお知らせには、この曲についての思いが記されていました。
曰く、この曲は世阿弥が申楽一座の伝統を丸ごと掬い取ってその矜持を高らかに称えたものと考えていると。
遊女が実は普賢菩薩であったという話は、このあと鑑賞記の中で触れますが、古事談や十訓抄、撰集抄など多くの書物に書かれています。けっして世阿弥の創作というわけではありませんが、中所さんは遊楽遊舞を生業とした一座が血を繋いでいくうえで女たちも遊女ともなっていたことをふまえ、世阿弥が本曲を通して、それは卑しいものではなく仏の道に通じているのだと訴えている、と書いています。
この話を読んでいて、若い頃に熱中した隆慶一郎の多くの小説や、歴史学者網野善彦の著作、中でも「無縁・公界・楽」などを思い出しました。ここに詳しくは書きませんが、会社員として長年勤めている中でも、いわゆる「道々の輩」への興味・共感がいつもどこかにありました。
ともかくも、そうしたことが想起されて、これは観に行かなくてはなるまい、と出かけた九皐会です。コロナ禍のなかで再開された九皐会は、従来の能二番、狂言一番と仕舞で構成される番組を、一部と二部とに分けての上演となり、江口は一部、仕舞三番の後に上演されました。

その舞台の様子ですが、囃子方、地謡が座に着くと次第の囃子が奏されてワキ、ワキツレの出。ワキは小格子厚板に白大口、金茶の水衣に角帽子。ワキツレは無地熨斗目に白大口、緑の褸水衣に角帽子の姿です。囃子では、久しぶりにお見かけした八反田さんの凛とした立ち居振る舞いが印象的でした。
舞台中央で向き合って次第を謡ってからワキの名ノリ。天王寺に参るという言葉から、一同の道行。都を夜深き時刻に旅立ち、淀川を船で下り、鵜殿のあたりをぬけて江口の里に着いたと謡います。この間にアイが幕を出て狂言座に座しています。
道行を謡い終えるとワキの着き台詞。ワキツレは地謡前に着座し、ワキのみが常座に進んでアイの所の者を呼び出します。

ワキが常座、アイが狂言座に立ったままでやり取り。
江口の里の旧跡を教えてほしいというワキの問いに、アイが正先の方を向いて旧跡の場所を教え、ワキは型通りに心静かに一見申そうずるにて候と言い、常のやり取りのように御用の折は声をかけてほしい、頼み候べし、心得申して候とのやり取りがあってアイが下がります。
ワキはアシライで正中まで下がってサシ。江口の君の旧跡を見て古に思いをはせ、西行の歌「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」を謡い「あら面白や候」と言いながらワキ座に向かい歩み出します。観世の本では「あら傷はしや候」とあるのですが、どうやら上掛の本では「いたはしや」、下掛の本では「おもしろや」とあるようです。ちょっと気になりました。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江口のつづき

ワキがワキ座に向かって歩み出すと幕が上がりシテの呼びかけ。ワキが振り返ります。
今の歌を何と思うて詠じたのだとシテが問い、ワキは何故そのようなことを聞くのかと尋ね返します。この間にシテが幕を出て幕が下り、シテは幕前から橋掛りを歩みつつ語り出し、二ノ松あたりで正面を向くと、仮の宿を惜しむというがさほど惜しんでいたわけではないので、その理を言おうとやって来たのだと言います。
ワキはその言葉を繰り返し、そのようにことわる貴方は誰なのかと問いかけます。ワキが言葉を発するとシテは歩み出し、この言葉のうちに舞台に入り「いやだからこそ、惜しまないという意味の歌を返したので、それをも詠じて頂きたい」と常座に出つつ言ってワキに向き合います。

ワキがその返歌を思い出し、新古今にも採られている「世を厭う人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ」をワキ、シテで謡います。
西行の歌に対して、江口の君が歌った歌といわれる一首。その意味をシテ、ワキが言葉を継ぎつつ謡い、シテ「言の葉を」と謡いつつ二足ほどツメ地謡に。シテは正面に向き直り、ワキは腰を下ろします。シテは地謡を聞きつつ、「などや惜しむと夕波の」で一度やや右を向いてから、正面に戻して四足出、三足下がって「心な留め給ひそ」とワキを向きます。

ロンギの謡になり、シテは「江口の流の君とや見えん恥ずかしや」と謡ってワキを向き、地謡の「さては疑ひ荒磯の波と消えにし跡なれや」角へと向かいます。
さらに左に回って正先から向きを変えてワキ正辺りで正面に向き直り「一樹の蔭にや宿りけん」の謡に三足下がると、ワキに向いて正中まで進み、一度三足ほど下がってから「江口の君の幽霊ぞと声ばかりして」で左から舞台を廻り、常座で向き直って下がり「声ばかりして失せにけり」とあらためて、送り笛に送られて中入りとなりました。
シテが幕に入るとアイが常座に進み出て、最前は都の僧に江口の長の旧跡を教えたが、まだいらっしゃるのであれば物語をしたいと思う旨を述べ、角に出てワキを認め問答となります。ワキの招きでアイが正中に座すと、ワキは江口の君のことを教えて欲しいと求め、アイが語り出します。
この間語りについて少しばかり書いておきたいと思います。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江口さらにつづき

この間語り、江口という能を理解するうえで、たいへん重要なところと思うのです。が、正直のところ分かりにくい…
この間語りでは、播磨国書写山の性空上人が生身の普賢菩薩を拝みたいと願い、夢のお告げに従って遊女の君を見たところ、眼を開けていると遊女の姿であるのに、目を閉じると生身の普賢菩薩と現じたという話が語られます。
この性空上人にまつわる説話は広く知られていたようで、古事談や十訓抄、撰集抄など多くの書物に収められているようです。その話の何が分かりにくいのかというと、性空上人が遊女を見に行ったのがどこなのか、これが本によって様々で、必ずしも江口の里というのが定説ではなさそうだからなのです。

今回は和泉流能村晶人さんのアイで、語り自体は聞き取りやすかったのですが、まず江口の長について、生国は周防国室積と言い、衆生済度のため「ながれをたつる身」となって諸国を廻ったと言います。(当日はひらがなで書き取って性空上人をめぐる説話と摺り合わせて文字に起こしていますので聞き違いなどあるかと思いますがご容赦ください)
流れを立つる身は、遊女として暮らすほどの意味だと思いますが、その遊女になったのが衆生済度のためというのはどういうことなのか。これは中所さんの本曲に寄せる思いと大きく関わってくるところかも知れません。大藏流ではどうなのか観たことがないのでわかりませんが、ともかくこの江口の君の話をしたのち、直ぐに性空上人の話になります。
性空上人が霊夢を蒙り、周防国室積の遊女の君を見に行くことにしたというのですが、江口でもなく遥か周防までというのはどうにも解せないところ。

ちなみに性空上人が遊女を見に行った場所を、古事談と十訓抄では播磨の神崎とし、撰集抄は摂津の室としています。神崎も室津も江口も、いずれも交通の要衝で遊女の居た場所ですから、どこでも成り立つ話ですが、間語りの室積というのはいささか遠すぎるように思えます。もっとも古事談などの記事には、性空上人が遊女の長者の様子を見ていると、鼓を打ち「周防室積の中なる御手洗に 風は吹かねども ささら波立つ」と謡ったとあって、間語りの周防国室積はここから出てきたのではないかと思われます。
地名などを考え出すと本当に分かり難いのですが、ともかくも江口の長が衆生済度のために遊女になったということと、性空上人がその江口の長に生身の普賢菩薩を見たという点がこの間語りのポイントで、これが分からないと、どうして後場でシテが普賢菩薩として現れるのか理解が難しいだろうと思います。
ともかくも、このような話を語ってアイが下がりました。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

江口さらにさらにつづき

さてアイが下がるとワキ、ワキツレが立ち上がり、ワキの詞から待謡に。
「遊女の謡ふ舟遊 月に見えたる不思議さよ 月に見えたる不思議さよ」と謡って一同はワキ座に揃い着座します。大小アシライで後見が橋掛りに舟を出し、一声の囃子になると間もなく幕が上がってシテとツレ二人が登場してきます。

先頭に立ったツレが、まず舟の中央部に入りさらに前の部分に移ります。続いてシテが舟の中央部に立ち、最後にもう一人のツレが舟の後部に立ちます。
先のツレは紅入唐織着流し、シテは緋の大口に唐織打掛、後のツレは紅入唐織を肩脱ぎにし棹を持っています。
地謡の間、三人は立ち続けていますが、なんとなく舟が進んでいると思わせる微妙な動きを感じます。ワキは誰の舟かと謡いかけ、シテが「古の江口の君の川逍遙の月の夜舟をご覧ぜよ」と返します。
ワキとシテの問答からツレも加わっての謡になっていきますが、ワキが江口の遊女とは過ぎ去った古のことであろうと言うのに対し、シテ、ツレは月は昔に変わりないし、自分たちもこうして姿が見えているのだから、古も今もないだろうと謡います。なかなかに面白いやり取り。
シテ、ツレの一セイから地謡へと続いて行きますが、シテが向きを変えてツレの二人とそれぞれに向き合う形を見せ、ツレを促す風で「遊女の舟遊び」の謡あたりで舟を下りると、ツレを先頭に舞台に入り、ツレは切戸に向かい、シテは大小前で床几に腰を下ろします。
打掛で地謡のクリから、シテのサシ。さらにシテと地謡の謡が続き、輪廻の中で、得難き人身を受けているというのに、遊女の身となっているのは前世の報いかと思いやられるという趣旨が謡われます。

続くクセは舞グセで「紅花の春の朝」でシテは立ち上がり、謡に合わせて舞います。クセの終わりに大小前で左右、扇を閉じつつ常座に行き序ノ舞の舞出しとなります。
序ノ舞を舞上げるとワカ「実相無漏の大海に 五塵六欲の風は ふかねども」と謡って上扇、開いて舞い続けます。
この後は、ただただ舞台に見入ってしまいましてメモがありません。ともかくも普賢菩薩と現じたかのような舞姿に、詞章のとおり「ありがたくこそ覚ゆれ」
夢のような時間を過ごしました。
(107分:当日の上演時間をおおよそで記しておきます)
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです

 | HOME | 

カレンダー

« | 2021-01 | »
S M T W T F S
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。