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能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

今年の観能

2月初旬に昨年12月に観た夜討曽我十番斬の鑑賞記を書いて以来、一月半ほどブログ更新をお休みしました。
昨年来、ある実技の研修を受けていたのですが、その最終回の発表にむけ、いささか余裕がなくなりブログまで手が回らない状況だったというのが理由です。
とは言え、今年に入っても月一の割で観能には出かけており、1月は宝生会の月浪能、2月は昨年から延期されていた代々木果迢会別会、3月は三人の会を観ています。今年は、あまりメモを取らずに観ていますので、従前のように詳しく舞台の様子を書くことは難しいのですが、また少しずつ、鑑賞記を書いておこうと思っています。

しかしその前に、もう13年ほど前から引っかかっていた一件について、ようやく事情が明らかになったので、この話を書いておこうと思っています。
その一件というのは、夏目漱石と謡曲の話なのですが、平成20年に金春流本田光洋さんの熊野の鑑賞記を書いた際に、夏目漱石が「吾輩は猫である」中に「猫が厄介になっている苦沙弥先生は謡を習っていて、後架で謡をうなり後架先生と渾名されても一向平気で『これは平の宗盛にて候』を繰返していると書かれています。」と紹介し「実は夏目漱石は下掛り宝生の宝生新に謡を習っていたこともあって、このワキの謡の話が出てきたのだろうと思います。」と書いたのです。
これについて、当時よくコメントをつけていただいた「Li Zhitian」さんという方から
「吾輩は猫である」の後架先生の『熊野』は「これは平の宗盛なり」だったかもしれませんよ。小説の原文が手元にないですが、漱石はワキ宝生だった、つまり下掛宝生なので、大臣の名乗りで、「候」ではなくて「なり」の可能性が大。私が自分で調査せず、本来なら発言権が無いかもしれませんが、無責任人間の戯言でも、当っているかもしれませんから、御自分で、『吾輩は猫である』の原文と、ワキ宝生に割合近い喜多流の謡本でお調べになるとよいと思います。
というコメントが寄せられました。

私の記憶では「候」と書かれていたはずと思ったのですが、念のため文庫本の「吾輩は猫である」、さらに国立国会図書館のデジタルコレクションで明治40年初版本を調べ、これも「是は平の宗盛にて候」との表記であることを確認し、コメントの返事を書きました。
一応、この件はそれで終わったのですが、後々になって疑問が出てきまして、それが解決したのが十数年も経ったつい先日のことです。
その経緯を明日から書いてみようと思います。
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漱石と謡曲

「吾輩は猫である」の初版本まで遡り、やはり「候」と書かれていたことは確認できたのですが、その後、二つばかり気になることが出てきました。
一つは「吾輩は猫である」について。
たしかに明治38年大倉書店刊の「吾輩ハ猫デアル」上巻には「候」の記載がありますが、「猫」の初出である「ホトトギス」ではどうだったのだろうか、という点です。
もう一つは、当時の下掛宝生流の謡について。
下掛宝生流に一番近いと言われる喜多流の明治40年刊「喜多流謡曲大成」で確認したのですが、下掛宝生流の謡本ではどうだったのだろうということです。

さて数年の後、国立国会図書館のデジタルコレクションを見ていて、下掛宝生流の謡本が公開されているのを見つけました。
昭和8年刊の宝生新編、昭和改訂版「湯谷」です。これには間違いなく「なり」と記載されていました。さすがに明治末年頃に「候」と教え、昭和初年に「なり」と改訂したとは思えませんので、宝生新はやはり漱石に「なり」と教えたのだろうと思いました。
一方のホトトギスの方は、国立国会図書館のデジタルコレクションにあったのですが、デジタルコレクションの収蔵資料は一般人が直接インターネットで検索できるものと、特定の図書館で職員の手を介さないとアクセス出来ないものがあり、ホトトギスは後者なのです。
これに最近気付き、ようやく明治38年1月号を探し出し、吾輩は猫である第一回のコピーを手にしてきました。そしてここには「平の宗盛にて候」と確かに記載されています。

さてこうなると、どうして漱石は「候」と書いたのだろうという疑問がわいてきます。
私は「・・・候を繰り返している」の方が「・・・なりを繰り返している」よりも語呂がよいからではないかなどと想像したのですが、これには理由があったということに、ようやく先日になって気づきました。
このつづきはまた明日に
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漱石と謡曲のつづき

漱石と謡曲を廻って、最近、いろいろとネット検索をしていた際に、とある記事を見つけたのがきっかけです。漱石が謡曲を習い始めたのは熊本でのこととあり、その記事を手がかりに、昭和11年に刊行された漱石全集第18巻の「稽古の歴史」という一文にたどり着きました。
この文は明治44年11月に「能楽」という雑誌に掲載された漱石の談話で、この中で漱石は「私が習ひ初めたのは熊本の学校に居る時分の事でした」と語っています。半年ほど稽古したのだが、その後、間もなく外国へ行ってしまったので、それきりになっていたところ、今から5、6年ほど前に高浜虚子から勧められて宝生流の先生について謡を習おうとした。しかし、その先生が非常な酒好きでかつ忙しいらしいので迷っていたところ、虚子が下掛宝生流の宝生新に習うと良いと勧めるので、お願いすることにしたのだと話しています。

漱石は宝生新に謡を習っていたという話が有名なので、てっきり宝生新に謡の手ほどきを受けたのだと思っていたのですが、そうではなくて既に謡を習っていて、イギリスからの帰国後にあらためて師匠について習おうとしたということなのでした。
しかも当初は宝生流の先生について習おうとしたのだけれども、下掛宝生流の宝生新に決めたというわけです。

このあたりの事情は、やはり国立国会図書館デジタルコレクションで参照可能な、高浜虚子の大正7年刊「漱石氏と私」の158-159ページに、明治40年頃からのこととして「氏が謡の稽古を思ひ立ったのも其頃からの事である。氏は熊本に居る頃加賀寶生を謡ふ人に二三十番習った事があったので、誰か適當な寶生流の師匠はなからうかと言はれた時に、私は松本金太郎翁を推挙したのであったが、遂に其れは寶生新氏に落着いて私等と同流の下寶生を謡ふことになったのであった」と記されています。
さらに、この本には虚子への漱石の書簡が収録されていますが、明治40年9月14日の葉書に「寶生新君件委細難有候。早速始めたいが轉宅前はちと困ります」とあって、寶生新の稽古が始まったのは、少なくとも明治40年の転居後のことであるのが分かります。
ところが、先にも書いたように、「吾輩は猫である」の初出は明治38年1月のホトトギスですから、「猫」の記載は宝生新との出会いより前だったということが明らかになりました。
このつづき、もう一日明日に
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漱石と謡曲さらにつづき

ここにもう一つ資料があります。
あれこれとネットで検索しているうちに、漱石の五高教授時代の同僚に神谷豊太郎という人がいて、この人が漱石に謡を教えたと言っていたという話をみかけました。
原文は、昭和11年刊の漱石全集に添付されていた月報第11号に掲載されていたらしいのですが、これ自体は見つけられませんでした。しかし幸いなことに昭和50年に、昭和3年版と昭和10年版の漱石全集刊行に際して発行された月報をまとめて復刻しており、これが地元の図書館にあったので入手することが出来ました。
「宗盛の素読と獅子狗」という題ですが、神谷豊太郎が書いたものではなく、氏の談話を採録したようです。神谷豊太郎という人は、正岡子規の友人でもあり、また南方熊楠とも親交があったらしいのですが、理系の人で五高では化学などを教えていたようです。
その談話の中で氏は「夏目が或時私に『謡ひを教へろ』と云い出したのです」と語っています。
学生時代には大学予科と専門部で漱石と面識はあったらしいのですが、五高に赴任して再会したものの、ちょっとした事件もあってあまり親しくなかった様子です。その神谷に漱石が謡を教えてほしいと言ったという話です。

当時、五高の主事を務めていた櫻井錠二が加賀の出身で宝生の謡をたしなんでおり、さらに黒本植という、やはり加賀出身の国文の教師が優れて巧かったので、教師の間で謡が流行っていたらしいのです。神谷は前任地の仙台で謡を始めた後、当地では黒本に習っていたようです。
漱石の申し出に、自分は下手だからほかの人に習ったらどうかと勧めたのだが、家が近かったこともあるのか、どうでも教えろと押し切られたと神谷氏は語っています。そして最初に始めたのが「熊野」だったという話です。
そして「当人はなかなか熱心で、人が笑うからというので、よく便所の中で呻っていたことから『後架宗盛』という名が附いて、一時評判でしたよ」と語っています。
なんと「後架先生」の話は、漱石の創作ではなく、漱石自身の体験だったという話です。
ともかくも、この一文にたどり着いて、十数年来の引っ掛かりをようやく解くことができました。思えば長い時間だったなあと、しみじみ感じています。
この項おわり
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