目に見えぬ鬼・・・鉄輪の女つづき
般若も人間の心は残しているとされていて、本当に鬼になってしまうと面も真蛇を使うことになろうかと思います。
一方、般若よりもさらに人間の部分が多く残されているのが生成り。鉄輪でも生成りを用いることもありますが、鉄輪の標準的な面である橋姫は角もなく、生成りよりもさらに人間の心を多く残しているという象徴だろうと思います。
ノットで始まる陰陽師や高僧の祈りに引かれて登場してくる鬼女は、おおかたは「祈」や「舞働」によって怒りの風体を示し、最後は調伏されるか成仏するか決まりがつきます。
しかし鉄輪では、ワキ安倍晴明は三重棚に神を降ろした後は、下がってひたすら座ったままです。取り殺そうという恨みの果ても、清明の降ろした神々に阻まれて弱るところも、すべてシテの一人芝居。
それはむしろ鬼になりきれない恨む女の悲しさの象徴ではないのか、とも考えたりします。
「足弱車の廻り逢ふべき時節を待つべしや。まづこの度は帰るべしと、いふ声ばかりはさだかに聞えて、いふ声ばかり聞えて姿は目に見えぬ鬼とぞなりにける。目に見えぬ鬼となりにけり」と終わりますが、思いが果たせぬままに、とうとう本当の鬼になって姿も見えなくなってしまったという、なんとも壮絶な終わり方です。
逆を言えば、この最後の瞬間までは人としての悲しみを背負っているが故に、まだ人の世にとどまっていたということか、などと考えみたりしています。
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コメント
コメントありがとうございます
もっとも、別なブログから引っ越してきた関係で記事の数は多いものの、ブログ開設から20日弱。当然かも知れませんが・・・
どこまでタネが続か分かりませんが、少しずつ書いていこうと思っています。
どうぞご愛読のほど、お願いします。
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観世流を検索していて、こちらにだどり着きました。とても判り易く解説していただいているので、素敵なブログと出合ったことを
感謝して、早速、コメントを送らせていただきました。
これからも、ずっと拝読させていただきます。
どうかよろしくお願い致します。