能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

山姥のつづき

舞台上がシテの庵の中という設定になりますが、ここでシテは自ら真の山姥であると明かし、ツレ百萬山姥が自分を謡い舞いして有名になったのに、少しも心に掛けてもらえないと、怨みを述べにきたことを告げます。(「百萬山姥」は観世流大成版の表記によりましたが、読みは「ヒャクマヤマンバ」で、他流や観世の古い本などでは「ひゃくま山姥」や「百ま山姥」「百魔山姥」などの表記が見えます。)

シテ山姥は、自らが謡い込まれている山姥の曲舞をツレが謡ってくれれば、その力で自分の妄執が晴れ輪廻を逃れることができると語ります。このあたりも不思議な話ではあるのですが、けっしてとって喰おうといった恐ろしい話ではなく、その不思議さを中所さんが良い具合で演じられていました。

私、この部分で、つねづね民話の「大工と鬼六」を思い出します。何度架け直しても急流に流されてしまう橋を、鬼の力で架けてもらった大工。鬼に、その代わりに目玉を寄越せと言われてしまいます。しかし鬼は「オレの名前がわかったら勘弁してやろう」と謎のような話をします。大工は困り果てますが、たまたま鬼の娘が、親鬼の名「鬼六」を手鞠唄に歌っていたのを聞き、鬼の名を当てて難を逃れたと、そんな話です。
自分の本当の名は人に呼ばせるものではない、というのは中国伝来のものでしょうけれども、日本でも江戸時代までは、本当の名前を呼ぶとその人の霊的な人格を支配してしまう大変無礼なこと、といった考え方が普通だったようです。この民話もそうした「諱」の文脈で考えるのが普通なのだろうとは思うのですが、でも私としては「鬼が自分の名を知られたがっていたのではないか」という疑問をずうっと以前から持ち続けています。
とても人間には架けられないような橋を架けた力を持つ自分という存在が、鬼六という名を持つことを知らせたい、世に残したいという欲望を、鬼が持っていたのではないか。なんだかそんな気がして仕方ないのです。

そんな風に考えると、百萬山姥のもとに現れ、自分を歌った曲舞をと所望し、その望みを遂げることで妄執を晴らし輪廻から解脱できるという山姥の主張に、なんだか共通するものが感じられるのですね。

ともかくもそうしたやり取りの後、せっかく謡ってくれるならば夕暮れを待って・・・と言い立ち上がったシテは、地謡「移舞を舞うべしと」まで聞くと、謡にのって二ノ松まで走り、「かき消すように失せにけり」で一度回って立ち止まり、そのまま謡の繰り返しを聞きつつ中入となりました。
白頭の小書がついていますが、ここまでは小書無しと特に演出に変化はなかったように感じました。
このつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://zagzag.blog72.fc2.com/tb.php/1732-962816b8

 | HOME | 

カレンダー

« | 2017-08 | »
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

FC2Ad