能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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山姥もう一日のつづき

クセを舞上げ、シテ「足びきの」地「山廻り」の謡から立廻。扇を鹿背杖に持ち替えて山姥の舞です。

シテは「あら御名残惜しや」と正中で杖にすがり下居し暇乞い。立ち上がると、地謡の「春は梢に」で橋掛りに入り、二ノ松で正を向き「花を尋ねて山廻り」と一廻り。「月見る方にと山廻り」と白頭を左手に取って月見る型。
「雪を誘いて山廻り」と橋掛りから舞台に戻り常座から正中へ。正先から正中に下がって杖にすがる型から「峯に翔り谷に響きて」と橋掛りへ向かい、まるで山中の霧が流れるように、まさに「行方も知らずなりにけり」と留になりました。

中所さんの書かれた当日の解説を借りれば「天地開闢よりの自然界の霊気を集約した存在」そのままに、恨みもなく、ただ山姥の姿を取り大自然を廻り続ける姿が、目の前に現出し去って行く、その後ろ姿をしばし追い続けてしまいました。

一昨日は大工と鬼六の話にふれましたが、実は、この曲をめぐってはもう一つ。「色即是空その侭に 佛法あれば世法あり煩悩あれば菩提あり 佛あれば衆生あり衆生あれば山姥もあり」というクセの一節。これを聞く度に白隠禅師座禅和讃を思い出すのです。白隠は江戸時代の禅僧ですから全く関係ないのですが、「衆生本来佛なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に佛なし」と始まるこの和讃。拙宅は臨済宗の檀家のため子供の頃から聞き覚えていましたが、この曲のクセを聞く度に、和讃を思い出します。

山姥は霊気が集まり人の形になったもの、人とは別次元の存在であり、だからこそ行方も知らず失せてしまうとも言えるのですが、一方で、山姥も人間も所詮は同じものなのではないか、とも思えるのです。私自身も今現在たまさか人の形をとっているのであって、本来は形あるものではないのかも知れません。
そこに思いを馳せるとき、なにやら穏やかなものを感じられる気がします。

ここしばらく、人としての生き方の問題など、様々に思うところがあり、そんな中で観たこの一番。とりわけ終曲で、橋掛りを去るシテ中所さんの後ろ姿に、思いを重ねていました。そうした思いを受け止めてもらえる素敵な舞だったと思い返しています。
何やら装束も見事でした。
(93分:当日の上演時間を記しておきます)
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