能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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松山天狗さらにさらにつづき

間狂言は番の鳶ということで、鳶の面をかけて末社出立で出てきます。
常座に立ち相模坊に仕える鳶と名乗り、続いて崇徳院を廻る一連の出来事を立ちシャベリします。今回、これまでこの能の原典など触れずに書いてきましたが、間狂言をなぞる形で、新院こと崇徳上皇を廻る出来事を書き留めておきます。

人皇七十五代崇徳院と申し奉りますが、新院となられ第一皇子の重仁親王を位に就けようとされていたが、美福門院の願いから鳥羽上皇は第四皇子を位に就けた。これがもととなり、宇治の悪左府、六条判官為義父子が新院に付く一方、関白内大臣モトミチは源義朝、平家の清盛を大将として、保元二年七月十七日寅の刻に合戦が始まり辰の刻には新院方が敗れてしまった。

新院は八月十日直島という所に流された。四方に築地を作らせ、日に三度の供御を差し上げるほかは訪れる者もなかった。都では玉楼金殿に住み、百官卿相に傅かれて三十八年を暮らしていたのに、こうした暮らしに涙の乾く暇もなく、思いを込めて五部の大乗経を写し、平治元年の春の頃、仁和寺に上らせた。しかし主上がこれを許さず返したために、瞋恚の炎消し難く、新院は天狗の姿に身をやつされ、爪をも生やし恐ろしき姿となった。

大乗経の奥に血を持って恨みの言葉を書き記し、海に沈めた。その思いを見て白峰の相模坊が新院の玉体に近づいた。平治元年十二月、義朝の謀反もひとえに讃岐の院の恨みの力があったためであろう。
長寛二年四十六歳で志度にて崩御され白峰にて煙となし奉った。それより五十年が経ち御跡を慕う者もいなかったが、西行法師が遙々来たられたるのを新院の霊が老人の姿になって導き、西行は御陵に歌を捧げて詠じた。これを老人が嬉しく思いかき消すように姿を消した。
さらに新院の霊は夜になって西行に姿を現そうとしておられるが、それまで舞楽を奏して西行を慰めよと命じられたので、自分もこれまで罷り出た。皆々、その由心得るようにと番の鳶はシャベリ、退場します。

聞き書きなので私の聞き間違いが多々ありそうですが、ともかくこうした内容をシャベリ、アイ番の鳶は退場します。
この崇徳院の話の補足など、明日につづきます。
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