能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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時頼をめぐって

次の鑑賞記に移る前に、北条時頼についてほんの少しだけ書いておこうと思います。
鎌倉幕府は三代将軍実朝をもって源氏の家系が絶え、摂関家から将軍を迎え、さらに親王将軍が続きますが、実際の権力は早い時期から執権となった北条家が握っており、さらに執権という地位よりも北条宗家、得宗であることに実権が移っていきます。

時頼は五代目の執権ですが、病気のため執権を退いて義兄弟の長時に執権職を譲り、自らは最明寺で出家してしまいます。このため最明寺入道、最明寺殿などとも呼ばれますが、執権職は譲ったものの幕府の実権は引き続き時頼が握っており、後に八代目の執権となり元寇に立ち向かった子の時宗に権力を継承しようとしたようです。
これが得宗政治の先駆けになったというのが一般的な見方のようです。

さて時頼自身は、南宋の僧侶である蘭渓道隆を鎌倉に招いて建長寺を建立するなど、仏教わけても禅宗の庇護にあたったほか、様々に善政を行ったといわれていて、それが様々な「廻国伝説」を生む元になったと言えそうです。

いつぞや藤栄の鑑賞記にも触れましたが、江戸時代には時頼の廻国譚がたいへん人気を博したようです。水戸黄門漫遊記はどうなのだ、という声もありそうですが、水戸黄門光圀は江戸時代初期の人であるものの、漫遊記自体は幕末に講談が元になって広まったもので、江戸時代にはこうしたものが流布した様子が見えません。
水戸黄門漫遊記は、十五代将軍慶喜の父である水戸家八代藩主斉昭(烈公)を中心に、水戸家が世評を上げるために流布させたという話もあるくらいで、江戸時代中期の人たちには黄門様も有名ではなかった様子です。

何度かふれています通り、私も地元ですので光圀公の事績が顕彰されるのは嬉しいことではありますが、実際にはどうだったと捉えれば良いのか・・・大日本史の編纂や、大船の建造には大変な資金を要し、これを年貢でまかなったため藩内には様々な混乱もあったといった話もあります。
時頼の廻国譚も、さて時頼治世の実態がどうであったのかよく分かりませんが、そんなあたりを思い巡らせてみるのも、また面白いかも知れません。

今回、ふと調べてみて、時頼が37歳で亡くなっていることを知り、いささか驚きました。時宗が34歳で病没したのは意識にありましたが、鉢木の時頼は、なんとなく出家した・・・老年のイメージでした。
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