能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

朝長さらにさらにつづき

シテの問いかけに、ワキは朝長ゆかりの僧であることを明かし、朝長が青墓にて亡くなったと聞いて直ぐにも駆けつけたかったのだが、敵の目もあり忍んで下向してきたところと答えます。

大島さんの解説にもあったのですが、およそ修羅物のほとんどは古戦場に僧侶が立ち寄り、仮に老人の姿となって現れた古の武将の霊と言葉を交わし、その場に留まって弔いをしていると、生前の姿で再度幽霊が現れるという展開です。しかしこの曲は、まだ縁者が身を憚らなければならないほど、武将の死から時間が経っていない時点での出来事です。
こうした展開は珍しく、後ほど触れますが、前シテと後シテが別人格であることも特徴的です。

ともかくも、朝長の所縁とはどういうことかとのシテの問いに、ワキは朝長の乳母子何某であると明かします。二人は朝長への思いを分かち合うように言葉を交わして地謡。
夕煙が一片の雲となって消えてしまい、空には色も形も留めていない様にたとえ、亡き人の哀れを謡います。シテは空を見るようにやや面を上げた後、面をやや伏せてシオリ。

ワキは朝長の最期の様子を聞かせて欲しいと求め、これに答えてシテの語となります。
シテは青墓の宿の長ですから、朝長を迎えた方からの視点です。

暮れし年の八日の夜になって・・・と始まるのですが、平治物語などによると義朝達が事を起こしたのが平治元年十二月の九日。その後、清盛が取って返し、上皇・天皇が脱出したのが二十五日で、六波羅合戦で義朝達が敗れたのが二十六日とされています。義朝が朝長の死を知った後、長田の館で殺された日は諸説あるようですが、二十九日とするのが有力で、となると青墓に到ったのが二十八日なら辻褄が合いそうです。「暮れし年の八日」は暮の二十八日という意味でもあるのか、各流とも同じ詞章でもあり気になるところです・・・門を激しく叩く音がし、誰かと問うと鎌田殿が名乗られたので門を開けた。すると義朝親子や鎌田、金王丸など四、五人が入ってきて一夜を明かさせて欲しいと仰せられたのでお泊めした。
朝長は都大崩で膝に矢を受け負傷していたが、夜更け皆が寝静まった頃に朝長の声で南無阿弥陀仏と二度ほど念仏が聞こえた。鎌田殿が見に行ってみると、既に朝長が腹を切って目も当てられぬ有様となっていた。
義朝がなにゆえ自害するのかと問うと、朝長は膝を射られて馬の鐙を踏むのも難儀となり、この先、路次で敵に遭って雑兵の手にかかるよりは、此処でお暇したいと思ったと答えたと語ります。
さてこのつづきはまた明日に
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
このブログの記載方法などについてまとめています(リンク) 初めてご来訪の方はお読みいただけると幸いです
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://zagzag.blog72.fc2.com/tb.php/2022-eb0eec3c

 | HOME | 

カレンダー

« | 2017-10 | »
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。