能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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能の改作のつづき

この国立能楽堂企画公演「能を再発見するシリーズ」では、上演に先立って天野さんと関係者の対談が恒例となっているようです。
今回は、天野さんと、当日ワキを勤めた福王茂十郎さん、そして歌人の馬場あき子さんによる鼎談がありました。

この中で、福王流伝来の資料の中にも、藤戸の前シテが中入りしなかったと見られる詞章が残されているものがある、という話が紹介されました。
十郎元雅が作者と比定される可能性など、なかなか興味深いお話でした。

しかし最も感じたところがあったのは馬場さんの発言で、能が大成された室町期は人々に勢いがある時代で、様々な試みがされた。その後、江戸時代へと時代が移る中で、能は様々なものを省略する方向に進んできた。現代は、そぎ落とす方向性から、付け加える方向性に向かっても良いのではないか、と、記録を取っていないので表現はだいぶん違うかも知れませんが、概ねそうした意味の発言でした。

例えば前シテと後シテとで人格が異なったとしても、一人の演者、上手の芸だけを観たい。登場人物も可能な限りそぎ落として、本当に観るべきものだけに集約してしまいたい。それが、江戸期以降の能の方向性だったという見方です。
しかし、現代はそういう方向性から、能の揺籃期にみられたような方向性に変化しても良いのではないかという発言は、納得するものがありました。

これまで鑑賞記を書いてきた中にも、詞章からみて登場人物が足りない・・・例えば葵上の青女房などの例や、中入しない形になっているが本来は中入りしたのではないか・・・例えば通小町のツレの例など、その都度に触れてきました。
こうしたものも、できる限りそぎ落とすという文脈でみれば、現在の演出も理解できるし、またこの演出を見直しても良いかも知れないと、あらためて考えた次第です。

本来の形を探り、さらに現代が求める方向性で再構成していくというのも、面白い試みと思います。先日は、現代能「始皇帝」を観に行った話を書きましたが、現代能という形で新たに作り出すか、古典の作品を時代の要請に沿って見直していくのか、それぞれに興味深いことと考えています。
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