能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

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道明寺さらにさらにつづき

まずこの曲の舞台となった道明寺という寺ですが、現在も大阪府藤井寺市道明寺一丁目に建っています。しかしもともとは道を挟んで隣にある道明寺天満宮と一体で、土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源だそうです。

道真を輩出した菅原氏は土師氏の後裔ですが、土師氏は埴輪を発明したとされる野見宿禰の子孫と言われ、技術に優れ古墳の造営などにも関わったとか。
道明寺の一帯は土師氏の本拠地であったらしく、古くは野見宿禰の遠祖とされる天穂日命をまつる土師神社があったようです。その後、仏教が伝来すると、同地に土師氏の氏寺として土師寺が建てられ、道真のおばにあたる覚寿尼もこの寺に住んでいたということです。

菅原道真は、ご存知の通り宇多天皇、醍醐天皇に重用されて右大臣までのぼりましたが、左大臣藤原時平の讒訴によって太宰府権帥に左遷され、二年の後に彼の地で没しています。(実は太宰府権帥に遷任されたのが昌泰4年の1月25日で、2月の初めには京を発ち太宰府に向かった様子。また亡くなったのが2年後の延喜3年2月25日で「如月下の五日にして 都を出でさせ給ひ」という詞章はいささか妙なのですが・・・)
そしてその死後、天変地異が多発し、わけても清涼殿に落雷するという事件から、道真の祟りとして恐れられ、朝廷は贈位を行い、さらに北野に北野天満宮を建立し神としてまつるなど、道真の祟りを鎮めようとしました。

こうして道真は大自在天満天神としてまつられ、さらに道真が学芸にすぐれていたことから、学問の神としても信仰を集めることになったわけです。北野天満宮と同様に、道明寺も道真所縁の寺として信仰を集めるようになったようですが、神仏習合の考え方を色濃く反映した形だったように窺えます。

したがってこの曲の詞章をみても、天神の本地が救世観音であると謡われたり、後五の時代となり神も濁世に応じて西都に移るといった言葉が出てきたりしています。
なお後五ですが、これは末法思想の一つの見方のようです。
学生時代に習った末法思想では、正法千年、像法千年、その後一万年を末法と三時に分けますが、大集経には釈迦の入滅後二千五百年を五百年毎に区切り、この最後の五百年、すなわち後五は闘諍堅固と呼ばれて、仏教徒の間に論争が激しくなり仏法が衰え邪見が蔓延るとあるそうで、これも末法思想のうちなのだそうです。

ともかくも、この道明寺という曲は、こうした末法思想や天神信仰に則った一曲で、このあたりを踏まえてみると、なるほどと思うところがあります。
また老人が自ら明かす「白太夫の神」ですが、道真が太宰府に下る際に伴をしたとされ、伊勢の神官渡会春彦のこととも言われます。道明寺天満宮の末社に白太夫社があります。
それよりも菅原伝授手習鑑に登場する松王丸、梅王丸、桜丸の父である白太夫の方が有名かも知れませんが・・・
明日につづきます
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