能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

箙もう一日のつづきとおまけ

シテが「暫く心を静めて見れば」と謡い、地謡が「心を静めて見れば」と受けるとシテは立ち上がりシカケ開キ。「梅の花さかりなり 一枝手折りて箙に挿せば」と扇を返して目付から正中へと舞台を廻りつつ、闘いに向かう若武者の様を示します。

さらに景季は敵の強者八騎に囲まれ、兜もうち落とされて大童の姿になって奮戦します。太刀抜いて斬る様を見せます。郎等三騎に背中を合わせて闘い、拝み討ち、車斬りなどなど、技を尽くして敵の囲みを破ろうと戦う・・・と様々に太刀使う型を見せますが、そうと見るうちに夢が覚め、夜も明けてきます。下居したまま雲扇を開キ夜明けの風情。
跡弔うようにと合掌してワキ僧に頼み、姿を消したと留拍子を踏んで終曲となりました。
(72分:当日の上演時間を記しておきます)

さてシテが留拍子を踏んで終曲ですが、源太景季について少しばかり書いておこうかと思います。

梶原氏は、桓武平氏高望王流の祖である平高望の五男、良文を祖とする一族坂東八平氏の一つといわれます。高望の長男国香を祖とする清盛など伊勢平氏とは同じ平氏であっても距離感があります。
伊豆で挙兵した頼朝を助け、鎌倉幕府の樹立に後見して御家人となった者には、坂東八平氏の一族が数多く含まれていました。

梶原氏は源太景季の父、景時によって大きく勢力を伸ばします。景時は伊豆で挙兵した頼朝を、大庭景親とともに石橋山の戦いで迎え撃ちますが、頼朝の一行をあえて見逃し、これに恩義を感じた頼朝に重用されるようになったと言われています。
景時の讒言によって頼朝と義経が決定的に不和となったのは有名で、景時は大悪人と評せられることの多い人物です。

頼朝存命中は頼朝の信任厚く、権勢を振るいますが、それだけに他の御家人からの妬みも受けていたようで、頼朝の死後、御家人達の不満が噴出して一族は追放され、在地の武士達との戦闘で一族の主だった者たちは討ち死にしています。

景季は若くから父景時ともに参戦し、宇治川の戦いでは、佐々木高綱と先陣争いをしたことが有名です。この話は平家物語にも詳しいのですが、その後、一ノ谷の合戦で箙に梅を挿して戦った話は平家物語にはみえず、源平盛衰記によった逸話です。
一の谷の戦いでは大手から攻め寄せた範頼の軍に属していましたが、その後、景時ともども義経の軍勢に属し、屋島、壇ノ浦と軍功を上げました。

その後、頼朝と義経が不仲になると頼朝に従い、奥州藤原氏討伐にも従軍しています。御家人として様々に活躍していた様子ですが、景時の失脚に伴い所領の相模国一の宮に一度は引き籠もり、ここから上洛を企てて都に向かう途次、在地の武士との戦闘になって命を落としています。享年三十九歳。やはり修羅道の人でありました。

ところでシテの井上さん、初シテは平成8年の円満井会定例での箙。おそらくは思い出深い一曲だろうと想像したところです。声量のある美声が印象的でした。
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://zagzag.blog72.fc2.com/tb.php/2132-c9819525

 | HOME | 

カレンダー

« | 2017-06 | »
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。