FC2ブログ

能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

老女の品格・・・姨捨さらにつづき

後シテは老女の姿となって、一声にて登場し、常座で謡いますが、これも姨捨山の月を賞で昔を思いやるものです。


それにつけても後シテのその品格の高さ。
歩みはまさに老女の姿で、やや足を広めにし、いささか覚束ない感じで歩みを進めます。しかしその一方で、すっと一本筋が通ったような立ち姿になんとも言えない気品があります。
頭からすっと伸ばした手先まで、毅然とした雰囲気が漂っているのですが、これが不思議なことに、覚束ない歩みと融和していて違和感がありません。
かくも能の老女というのは見事なものなのか・・・と、感慨ひとしお。


シテは自らが姨捨山に捨て置かれた老女の果てであると明かしますが、何事も夢の世「花にめで月に染みて遊ばん」と、月光の中に執心が昇華している風です。


この後のクリ、サシ、クセで月をめぐって、月は本来のところ大勢至菩薩が仮に姿を現したものであって、月の満ち欠けは、さながらこの世の有為転変の様を示していると謡います。
老女が、一人捨て置かれた姨捨山の月光の中で、いつしか人間を超える何ものかに昇華してしまったような感じを漂わせます。


序ノ舞も老女物としてはただ一曲だけ、太鼓入り序ノ舞が舞われる訳ですが、太鼓が入るのは人間を超えた存在を現すものと言われます。
たしか高桑いづみさんが何かの本で書いておられたのだと思うのですが、室町時代の人はリズミカルなものに非日常性を感じていたのではないか、ということです。
太鼓は大小に比べると、リズミカルな打ち方をされますから、太鼓が入ると人間を超えた存在を示すのだそうです。


しかも月の光の力なのか、姨捨の老女は執心、怨みといった世界から、輪廻を超えた異界に昇華してしまっている風です。
近藤乾之助さんの見事な世界に魅せられた一番でした。
(135分:当日の上演時間を5分単位程度で記しておきます)

関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://zagzag.blog72.fc2.com/tb.php/263-0015d9c2

 | HOME | 

カレンダー

« | 2020-09 | »
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

月ごとに

カテゴリー

カウンター


最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

プロフィールなど

ZAGZAG

頑張らない、をモットーに淡々と行こうと思っています。